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  • 吾唯足知

    11月の終わり、龍安寺を訪ねた。時は紅葉のピークである。人出は多いが、未だ尾を引くコロナ禍の影響で外国人の姿はあまり見ない。海外からの旅行客で溢れかえっていた時に比べれば、今年は静かな京都紅葉劇場である。 方丈庭園(石庭 … "吾唯足知" の続きを読む

  • 女優と彼岸花

    季節の変わり目である。朝晩は冷え込むようになってきた。暑かったり、寒かったり。寝る時に何を被ればいいのか。やっと最近、寝間着を短パンから長いスウェットに変えた。 西山の麓、大原野の田園では、稲穂が実りの頭を垂れている。それを乾いた風がユサユサと揺らす。空を見上げれば、並んだイワシ雲が秋の到来を告げていた。

  • ギラギラの太陽と75年の節目の夏

    ギラギラの太陽に焼かれる日々である。凶暴に発達した太平洋高気圧に包囲された日本列島は茹で蛸のように赤い。暖められた空気が上昇気流を造り、絵に描いた様な積乱雲が出現する8月の空である。コロナ禍に加えて連日の酷暑で朦朧とするオヤジだが、川の水で頭を冷やして雑感を記す。

  • 天橋立とノスタルジーの海

    海と陸が創る景色というのは、洋の東西を問わず人を引きつける。日本三景の一つに数えられる天橋立はまさにそうだ。宮津湾の海流が砂を運び、それが堆積して砂嘴(さし)を創り、対岸まで延びて砂洲を形成した。途方もない年月を掛けて出来上がったのは、海を渡る道である。砂洲によってセパレートされた西側が阿蘇海、東側が宮津湾である。

  • ステイホームと#検察庁法改正法案に抗議します

    ステイホーム週間となったゴールデンウィークは、比較的いい天気だった。近所を散歩したり、自転車漕いだり、料理をしたり、家飲みしたり、そんな具合の休日だった。そして明けるハズだった"緊急事態期間"は延長となった。アジア諸国の大方は、危機を脱したようだが、この国は未だコロナウイルスの歯牙に捕まったままである。今回も無責任は承知で、湧き起る雑感をしたためる。

  • 十輪寺のなりひら桜とコロナウイルス

    コロナウィルスの影がひたひたと忍び寄る3月最後の土曜日のこと。地元の桜を観ようと、家人を連れて散歩した。訪れたのは十輪寺(別名 なりひら寺)。大原野の峻峰、小塩山の麓にある十輪寺は、平安時代の粋なオヤジ在原業平の別邸だった場所である。夏の初めには紫陽花が咲く参道の先にそう広くない境内が現れる。本殿と回廊に囲まれて枝垂桜の古木が立っている。樹齢約200年の"なりひら桜"である。母

  • 12月の決戦

    決戦である。立命館パンサーズvs関西学院ファイターズ。大学アメフト日本一を決める甲子園ボウルの出場権を掛けた大一番である。 師走の青空が広がった万博記念競技場は、ほぼ満席の盛況ぶりだ。青春時代を衣笠で過ごした盟友のMと一緒にスタンドの上段を陣取ったのは、キックオフの5分前だった。立命館側スタンドはえんじ色に染まる。対する関西学院は青色である。 先月の事。宿敵

  • 善峯寺の紅葉と柴犬

    寒くなった。二十四節気によればもう"立冬"である。近頃私はクシャミばかりしている。オヤジのソレは一度出ると連発するから始末に悪い。家でも会社でも、鼻をかんで丸めたティシュペーパーがゴミ箱に積もる晩秋である。 週末の朝、善峯寺を訪ねた。同伴者はインチキ風水師の家人である。春となく秋となく、我々は事あるごとに善峯寺を訪ねている。善峯寺の山号は「西山」その名の通り西山の中心にある寺で

  • 夏の花

    連日の猛暑である。日本列島に熱風を吹き込む台風が屯するここ数日は、もう不快極まりない。京都盆地は文字通り蒸し風呂である。そんな中でも、ウロウロ出かけて撮った夏の花の写真を少々。暑苦しいので、オヤジの能書きは短めに。 宇治橋から北東へ2キロほど、明星山の麓に建つ三室戸寺。紫陽花で有名な同寺だが、8月には蓮の花が見ごろとなる。仏教文化を代表する極楽浄土の花である。

  • 山本太郎の話

    山本太郎は自分の議席と引き換えに、2人の重度障害者を国会に送り込んだ。これまでの常識からすればあり得ない事である。そして、4月に立ち上がったばかりの"れいわ新選組"は政党に昇格した。あいも変わらず、自民・公明の組織票で固められた結果にはウンザリするが、山本太郎率いるれいわ新選組の躍進は希望の光だ。またまた大風呂敷は承知の上で、先の選挙と政局について雑感を述べる。 お笑い帝国

  • 紫陽花2019

    今年の梅雨前線は働き者だ。京都も連日雨が降っている。たっぷりと水を蓄えた西山連峰は紫陽花が盛期である。写真と短文を少し。 楊谷寺の花手水。紫陽花は手水が似合う。涼しげだ。 善峯寺の紫陽花庭園。7月上旬、見ごろを迎えている。 標高400mの額紫陽花。天空に咲く水の器。京都市街地を俯瞰する。 西山に分け入る善峰街道。太陽は舞台袖。雨上がりの曇天なら自転車日和だ。

  • ジェンダー論とドラマ『きのう何食べた?』

    ジェンダーという言葉を聞くようになった。セックス(sex)が生物学的な意味での性別、雌雄をさすのに対して、ジェンダーとは、「社会的・文化的に形成された性別」と解釈される。もうちょっと砕いて言えば、「男は男らしく、女は女らしく」という意味合いである。

  • ニッチな季節とハートの窓

    地球の公転に合わせて、季節の歯車はギリギリと動いている。お前は見たのかと言われそうだが、たぶんそうだ。本当の夏が来る前のニッチな時期、気まぐれな梅雨前線が差配する天候は、なんでもありだ。奇術師の手業よろしく、雨雲、降水、太陽、寒暖、虹、落雷と変幻自在である。曖昧で難解な節気に、四季の深淵を見るようだ。

  • 尾道ラーメンと備中国分寺と横溝映画 -瀬戸内しまなみ海道の旅その4-

    自転車を室内に置きたいと言うと、フロント係は、快く応じてくれた。そして、ベッドの足下にビニールシートを敷いてくれた。ベッドの足下は、自転車を置くには、ちょうど良いニッチなスペースだった。 福山駅前の繁華街に出た。駅前の路地を歩いて、少し迷って、お目当ての店を見つけた。『尾道ラーメン 一丁』である。ネット評によると、地元では知らない者はないぐらいの超の付く人気店という事だ。カウンターだけの店は、すでに満席だった。待ち客までいる。ハッキリ言って店は狭い。しばらくすると席が空いた。 入口付近にある発券機で食券を買う方式である。注文は、ラーメンとチャーハンのセット。 背油が浮いた深い色の醤油ラーメンが出てきた。チャーシューと刻みネギが乗っている。麺はストレート。入口に製麺所と書いてあったので、自家製麺だろう。たちまち平らげた。おいしゅうございました。 ホテルに戻って、もう一度風呂に入った。今日の走行距離は、ここしばらくなかった運動量である。オヤジはハリキリ過ぎである。どうやら代謝が追い付いて無いようだ。身体は疲れていたが、老廃物を出すためか、どんどん発汗していた。 ビールを飲んで、ベッドに横たわった。スマホで、別に心配していないだろうが、家人に無事を報告したり、明日の天気を見たりした。それも束の間。睡魔の懐に呼ばれるのに時間は掛からなかった。 朝起きると、汗を掻いて寝たせいか、身体は軽かった。ホテルを出て、関西で言うマクドで朝食を食った。備蓄はたくさんあるのに、朝から腹は減っていた。 県道と国道を走って、広島県から岡山県に入った。川沿いを走り、橋を渡り、宿場町で補給した。 草原と花畑と五重塔。ネットの記事で何度か見ていた風景だ。岡山県総社市にある備中国分寺は、いつか訪れたいと思っていた寺である。花畑ではちょうどレンゲが咲いて、翌日から「レンゲ祭り」が開催されるようだった。しかし、残念ながら青空はない。見事な曇天である。

  • 多々羅の龍と尾道と渡船フェリー -瀬戸内しまなみ海道の旅その3-

    多々羅大橋には龍が棲んでる。橋の中ほどの愛媛と広島の県境を過ぎて、しばらく進むと、多々羅鳴き龍というスポットがある。そこは、橋のワイヤーを束ねる主塔の根本にあたる。そこでパンと両手を叩いた。すると、ヴァン、ヴァン、ヴァン・・・と音が響鳴して空へ昇っていった。これが鳴き龍である。 伯方島の塩、生口島の檸檬、因島の除虫菊、その他諸々、しまなみには名産やグルメが多くある。しまなみ海道の見どころは、多くのメディアで紹介され、しまなみ海道を特集した雑誌は数知れない。今や、サイクリスト達から、最も注目される観光地となっている。注目は国内だけとは限らない。行く先々で相当数の外国人サイクリストを見かけた。 瀬戸内海はその名の通り、日本列島の内海である。穏やかで温暖な気候。すべては海と太陽の恩恵の上にある。自転車で走れば、かいま見える島の生活や文化が示唆的である。どうしようもない都会の価値観に毒された頭には良薬だ。島と島を繋いだ道は、海と空を貫いて延びる。時速20キロで見る景色が命を洗濯してくれる。 向島。最後の島である。向島と本土を隔てているのが、尾道水道である。向島から尾道へ架かる橋もあるが、これは渡らない。どうするのか。観光案内などで、自転車乗りに勧められているのは、渡船フェリーである。船代は1人100円、自転車乗りは110円だ。これがなかなかご機嫌だった。渡れば、石段の都町、尾道である。 映画『転校生』(大林宣彦 監督)は、神社の石段を転げ落ちた中学生の男女の身体が入れ替るというストーリーで、その舞台が尾道だった。だいたい尾道という地名を知ったのは、この映画があったからである。一昨年頃、大ヒットした映画『君の名は。』息子たちと観たのだが、これも少年と少女が入れ替るというストーリーだった。 夕暮れ時、宿を取っていた福山駅前にたどり着いた。ビジネスホテルである。なんだかんだと、愛媛の東予港から130キロ弱を走った。クタクタだった。ハッキリいって頑張り過ぎである。風呂に入って、半ば朦朧としながらも考えるのは、今夜何を食おうかという事だった。 おそらく続く。

  • しまなみ海道とお遍路文化

    オレンジフェリーは定刻通り、朝6時に東予港に到着した。たまに響く船のスクリュー音を聞きながらの一夜だった。浅い眠りから目覚めた私は、身支度をして、組み立てたロードバイクを引いて船を降りた。 生まれて初めて四国に足を踏み入れた。輪行して四国に入るという、ここ数年の希望が叶った朝だった。曇り空で気温は相当低い。ショートのレーパンではちょっと寒い。予報によれば晴れになるハズである。 瀬戸内沿岸をトレースする予讃線を横目に国道を漕ぎ進んだ。目指すは、しまなみ海道の起点、今治市である。 四国には「お接待」という文化が根付いている。お接待とは無償でお遍路さんにお菓子や飲み物などを施すことを言う。四国の人々が、旅人を助ける文化は、お遍路に限った事ではないようだ。それは、四国の地に降り立って早々、ヘルメットにサングラス、半レーパン姿という私にも向けられた。四国の人の心に触れる出来事だった。 道の駅の今治湯ノ浦温泉に寄った時のこと。暖かい珈琲でも買おうと、自動販売機に向かってトボトボ歩く私の背中を誰かが呼び止めた。振り返ると野菜や食べ物を売る露店の店主だった。私よりだいぶん年輩者である。 「それじゃ寒いじゃろうが。どこから来た」 「京都から来ました。今朝のフェーリーで着きました」 「船でか。寒いからこっち来て、これ食え」 呼ばれるままに、露店に行くと、中で奥さんらしき人が、ストーブで餅を焼いていた。焼きたての餅を一つもらった。有難いことである。私はサングラスを取って、ご夫婦にお礼を言った。 今治の市街地に着いた頃には、天気予報の通り晴れていた。なにより晴天の下、しまなみ海道を渡れる事に安堵である。 今治城は瀬戸内海を臨む港の一角に建つ。堀には海水が引かれている。海に浮かぶ美しい城砦である。 今治のどこかで、うどんを食べようと思っていた。しかし、まだ早くてどこも開いていない。大方の店が開くのはお昼前のようだ。開店を待つという手もあったが、諦めた。夕方までにしまなみ海道を渡り切るのが先決だ。後ろ髪を引かれながら、先に進んだ。 そこそこの勾配がある坂道を上ると来島海峡大橋と瀬戸内海が現れた。同大橋は、総延長4.1kmの3つの吊橋からなる。世界初の三連吊橋として有名で、しまなみ海道の目玉となる橋だ。今治市側からは、馬島とを結ぶ第三大橋を始まりに、第二大橋、第一大橋と渡ることになる。

  • 旅の支度とオレンジフェリー -瀬戸内しまなみ海道の旅その1-

    旅は準備している時間が楽しい。まだ見ぬ風景や食べ物に思いを馳せてゴソゴソやるのが至福の時である。知らない町を走ってみたい。遠くへ行きたい。そんな飽くなき放浪欲求が、懲りない自転車オヤジの原動力である。しかしながら、妄想の中では、なかなかのアスリートだがら、しばしば調子に乗って、大風呂敷な計画を立ててしまう。でもそれは禁物だ。若い頃とは違うのだ。自分の体力と鈍脚を思えば、距離は程々にして、安全第一を肝に命じなければならない。ひとり旅はなお更だ。 ロードバイクを逆さに置いて、2本のホイールを外す。外れた2本のホールでフレームを挟んで固定する。このとき私は、マジックテープ付きのゴムバンドを使う。これを輪行袋に収めれば、大方は完了である。輪行バッグにはボトルとサイクルシューズも収納した。 長旅だし、身体は重いし、荷物はできるだけ軽くしたい。バックパックの中身は、チューブ2本、ボンベ、小型ポンプ、ミラーレス一眼、タオル、最低限の衣類、携帯の充電コードなどである。それから財布には健康保険証のコピーを入れた。備えあれば・・である。 平成最後の金曜日の夕刻。輪行バッグを肩から下げて、バックパックを背負って、阪急電車に乗った。大きな輪行バッグを抱えて、帰宅ラッシュ時の電車に乗り込むのは、気を使うし、何かと大変だった。乗り換えた御堂筋線なんぞは、まさに"鮨詰め"である。車両の端っこで、輪行バッグを両手で抱えて、何とか居場所を確保した。 悪戦苦闘、4度の乗り換えを経て、たどり着いたのは、大阪南港のフェリーターミナル駅である。駅前のコンビニで、ビールと水とツマミを少々買ってから、船に乗り込んだ。オレンジフェリー、22時発の愛媛県東予港行きである。 オレンジフェリーの船内は、ネットの評判通り奇麗だった。入船口から一歩入ると、ロビーでクルー達が出迎えてくれる。吹き抜けと螺旋階段があって、なかなか豪華だ。レスランや大浴場もある。公衆wifiもあるようだ。予約したシングル船室は、ベッド、ドレッサー、コンセントがある。旅の一泊目はこの船室である。ベッド脇のスペースでロードバイクを組み立てる事ができた。必要十分な広さである。

  • 中書島の灯りと昭和の雀

    中学のバスケット部のキャプテンだったMとは、浅からぬ縁がある。小学校らか大学まで同じ学校に通った。大学は学部まで一緒。バイトも一緒にした。同じ空気を吸って大人になった。そんな間柄の我々は、音信が途絶えた時期もあったが、よわい50代半ばに達した今も、着かず離れずの関係でいる。 その友と待ち合わせたのは、京都伏見の中書島である。なんだか得体の知れない『令和』という時代が迫る今にあって、昭和の匂いがする町である。我々は、数年に一度、中書島で飲むのが恒例のようになっている。 中書島は町と川が融合した場所である。戦国時代の末期、伏見の城下に、宇治川の流れを引き込み、水路を築いたのは、豊臣秀吉である。天下人が、治水こそが国家運営とばかり、伏見の地に創ったのは、人や物資が行き交う内陸の港湾都市だった。そこには当然のように遊女たちも集まった。それから400年、中世、近代、戦後の売春防止法まで、中書島の色町としての歴史は長い。一時期は、吉原、島原を凌ぐ歓楽街だったという。いろいろな意味で、魅力的で由緒正しい土地である。 腹ごしらえに商店街の居酒屋で少し食べて飲んだ。例によって、Mと私のオヤジ二人かと思いきや、その夜は違った。嬉しい事に仲間が来てくれた。みんな旧友たちである。ポツリ、ポツリと人が増えて、スナックになだれ込んだ時には、紳士淑女6人になっていた。 中書島駅前通り。酒場の灯りは、なんとも叙情的だ。他に焼肉店や中華料理店もある。ただ、いい意味でどの店もくたびれている。駅へと続く目抜き通りは、昭和が薫るノスタルジックな通りだ。小さなスナックの止り木に昭和の雀6羽が止まった。それにしても、スダレ禿の言う『令和』とは何の事だ。いったい何を言っているのか。今も我々の胸中にあるのは昭和の郷愁である。 「街の灯りちらちら霧が降る泣き出してしまいそうな長いマツゲで見覚えのあるレインコートの恋人が街角で濡れてあなたを殺していいですか♪」 大変である。楽しすぎて酸欠になりそうだった。文字通り、飲んで歌って夜は更けた。焼酎を2本空にした。言っておくが、みんな健全なる既婚者である。酒蔵の脇を流れる疎水では、平成最後のソメイヨシノが満開を迎える夜だった。

  • 令和と花の寺

    スダレ頭のいけ好かないオヤジが『令和』と書いた額を掲げたその週末、京都市内の桜が咲き揃った。節目を迎えるという意味では、桜の開花は、我々に特別な感情を抱かせる。とりわけ今年の場合は、新元号による新時代の到来というオマケ付きだ。平成最後の桜の開花である。 大原野の峻峰、小塩山の中腹に『花の寺』と呼ばれる山寺がある。正式な名称は勝持寺(小塩山大原院勝持寺)という。創建は白鳳8年(西暦679年)というから、とんでもない古刹である。パンフレットの能書きを読んでも、もう神話のような話ではないか。最近は有名になってしまって、桜が咲くと、ドッと人がやって来る。私はひとり自転車に乗って、春となく、秋となく、上って来るのだが、この日は、自動車を運転して、インチキ風水こと家人を連れて二人で来た。桜が彩る山門と青空があった。 境内には幾本ものソメイヨシノが咲いていた。まだ午前中だが、既に多くの見物客がいた。咲いたばかり、山寺の桜は美しい。書院では抹茶席が催されていた。寺は急峻な渓筋に建っているが、敷地は歩きやすく整備されている。何よりひっそりとした古刹の良さがある。拝観料は400円也。 勝持寺の山門を出てすぐに石段がある。下りで急勾配の石段だ。それを下ると大原野神社に出る。つまりが勝持寺の下階部分に大原野神社がある。両者はそんな位置関係にある。もちろん大原野神社でも桜は満開である。満開騒ぎに乗じてか、烏もカーカーと鳴いている。大原野も今しばらくは賑やかである。

  • ボヘミアン・ラプソディ

    映画「ボヘミアン・ラプソディ」を観終わった時、私は泣いていた。悲しいからではなく、ラストのライブシーンを観て、気持ちが高揚して涙腺が崩壊したのだ。歳のせいで涙腺が弱っているにしても、ポロポロ止まらない。昭和オヤジの心を揺さぶった映画「ボヘミアン・ラプソディ」について少し雑感を述べたい。 在日コリアンにとって祖国とは微妙なものである。韓国では半分日本人のように見られ、差別的な扱いを受ける。というのは、よく聞かれる話だ。とどのつまり、日本人でもない、韓国人でもない、中途半端な存在なのだ。「ボヘミアン」という言葉には、ボヘミア地方(チェコの西部)の人いう意味もあるが、祖国の無い人、放浪する人、という意味があって、後者の意味で使われるのが大方である。行き場のない無国籍人。そういった意味では、在日コリアンとボヘミアンは符合する。 ロンドンの空港で荷物係として働くインド系移民の若者、それがフレディである。職場の人々はフレディを「パキ(移民への蔑称)」と呼ぶ。彼は音楽が好きで、夜な夜なライブハウスに出入りする。ボーカルが抜けたバンドに自分を売り込み、ステージに立つ。これが後の伝説のロックバンドQUEENとなる。フレディは、そのたぐい稀な歌唱力でどんどん人気者になって行く。純然たる階級社会の英国にあって、そこに生きる下層階級の若者フレディが、ロックスターとして成功していく様は痛快である。 映画の題名になっている「ボヘミアン・ラプソディ」を初めて聴いたのは、中学生の時だ。多分FMラジオだと思う。その後、同曲が収録されたアルバム「オペラ座の夜」も聴いた。当時はフレディの歌声も良かったが、曲の間奏でのブライアン・メイのギターがカッコ良くて好きだった。 QUEENは、70~80年代にかけて、最も成功したロックバンドの一つだ。映画は、QUEENの誕生とサクセスストリーを描いている。しかし、それは一部だ。この映画の主題はフレディ・マーキュリーその人である。レオタードを着た4オクターブの怪物。歌声、風貌、衣装、生き様、私からすれば、すべてが怪物である。

  • 遠ざかる昭和と55歳の話

    平成最後の年末である。比較的穏やかな歳の瀬だなと油断していたら、今年もあと数日となった週末、寒波がやって来た。夕暮れ時、灰色の空からは、白いモノがパラパラと舞い落ちて、あたりは冷蔵庫のように冷えている。この一年、いったい何があって何をしたのか、いまいち記憶も怪しいが、思いのままに、つれづれに、適当でいい加減な雑感を述べたい。 半世紀をとっくに生きてしまったオヤジである。55歳である。スマホの文字は霞むし、腰に爆弾も抱えている。秋の健康診断では、血中コレステロールが多いから、何とかしなさいと、有難い忠告を頂いた。頑張って身体に良い事に励むとしよう。昭和、平成、まだ見ぬ新年号と、どうやら三つの時代を生きる事になりそうだ。 先月の事。55歳たちが、京都駅前のホテルに集まった。5年ぶりの同窓会である。その数、ざっと60人。みんな1979年に市立洛南中学校を卒業した同窓生たちだ。ほとんどは小学校からの繋がりである。準備した側の私が言うのもなんだが、同窓会なんてのは、行きたくない人にとっては鬱陶しいだけだろう。仕事とか、家族とか、健康とか、まだまだ何かを背負っている世代である。にも関わらず、またまた大勢の同窓生たちが集まってくれた。実に明るく楽しい会合だった。残りの時間を数える年代になった我々の命題は一つ、健康である事。あとにも先にもソレにつきる。 京都東山、清水寺で発表された今年の漢字は『災』だった。夏場に西日本を襲った豪雨で多数の死者が出た事を考えての事だろうか。地震、台風、大雨、猛暑、確かに自然災害が多かったが、毎年の事である。もちょっとマシな漢字は宛てられなかったのか。つまるところ『災』を打ち消すだけの明るい話題が無かったという事か。ウソやデタラメがまかり通る政治と相まって、社会に蔓延するのは閉塞感だろう。メディアや政治家は、オリンピックだ何だと騒いでいるが、実のところ世相は暗いと感じる。 韓国海軍による海上自衛隊のP-1哨戒機へのレーダー照射が大きな問題になっている。タダでさえ、従軍慰安婦や徴用工の問題でギクシャクしているところへもって来て、この事件である。今回の件、韓国海軍の行為はだいぶん分が悪い。でもなかなか謝罪はしないだろう。意地の張り合いだ。もう平成の間ずっとだが、日韓関係は大変だ。

  • 天ヶ瀬ダムと石山寺と南禅寺の青瓶珈琲

    アーチ型のダムサイト越しに紅葉が燃えていた。晩秋の弱い太陽が照らすのは金糸銀糸の広葉樹たちだ。桜も紅葉も散りぎわが美しいというが、さもありなん。人造物であるコンクリート壁と自然とが作る風景は見事である。 師走になったばかりの平日、車の助手席に家人を乗せて家を出た。今時は、北の方から寒気団が下りて来ない限り、穏やかな天候が多い。朝の空気は乾いて凛としている。京都の紅葉劇場も千秋楽が近いが、紅葉を観ようとやって来たのは、宇治川の上流、天ヶ瀬ダムである。ベタでささやかではあるが、夫婦紅葉散策は恒例の行事である。 小学校の遠足だったり、釣りだったり、若い頃、赤いクーペに乗って夜な夜な攻めた宇治川ラインだったり、誰かの車がオシャカになったり、思い出はいろいろある。そんな天ヶ瀬ダムだが、オヤジになった今、年に数回は、ロードバイクでやって来る。時速20キロで観る景色はどうにも魅力的だ。 宇治川の上流を堰き止めたのが天ケ瀬ダムである。宇治川とは瀬田川の事で、瀬田川とは琵琶湖のシッポである。そしてそれは、琵琶湖の唯一の出口となっている。東から西から、500以上もの河川が流れ込む琵琶湖はまさに"近畿の水瓶"と呼ぶにふさわしい。その下流にある天ヶ瀬ダムとは、言うなれば、"琵琶湖の蛇口"である。 石山寺。瀬田川の畔に建つ山門からは、赤い紅葉(もみじ)が覗いている。山門をくぐって、石畳の参道を歩いた。ここまで拝観料は取られない。山門、参道とタダである。これは上手いやり方かも知れない。程なくして関所が現れた。入山料は一人600円也。 本堂を経て、さらに上ったところに銅像があった。紫式部である。式部は「源氏物語」の着想と執筆を石山寺でしたとの事。そして紫式部と言えば、出てくる男がいる。藤原道長である。二人の関係については、ネット上にいろいろ書き込みがある。どうやら時の権力者藤原道長は紫式部にご執心だったようだ。1000年以上前の話である。 南禅寺。小雨が降り出した中、石川五右衛門の「絶景かな」で有名な山門を通ってしばらく行くと、右手に赤煉瓦の建造物が現れる。水路閣である。明治中期に創られた水道橋で、むろん橋の上は水路である。主な目的は、琵琶湖から京都大阪への通船、紡績業に使う水車動力の確保だった。中世、近代と、安定した物流のためには、水運が如何に重要だったかがうかがえる。

  • 秋桜と花ざかり

    雲ひとつ無い青空が現れた。大陸性の高気圧が乾いた風を吹かせて、太陽は柔らかい陽射しを注いでいる。実りの頭を垂れていた稲は刈り取られ、柿畑のソレは順調に色を変えつつある。大原野は秋本番である。朝夕の冷え込みが心地良い今時が、自転車放浪が命綱のオヤジにとっての絶好期である。 西山連峰の麓。高速道路を見渡す丘陵地。農道の脇に秋桜が群生していた。毎年咲く場所だ。青空に薄いピンクが映えている。 およそパソコンで、「こすもす」と入力しても「秋桜」とは変換してくれない。秋桜は本来、"あきざくら"と読む。秋桜(コスモス)を定着させたのは、山口百恵が歌ったあの歌である。 「秋桜」を収録したアルバム「花ざかり」がリリースされたのは、1977年のこと。私が14歳の時である。山口百恵18歳。レコードのジャケットは白いタートルネックを着た百恵が微笑んでいた。すでに中坊にして"百恵狂い"だった私は、少ない小遣いを叩いてレコードを買った。たぶん2,500円だったと思う。収録されている楽曲は、さだまさしの「秋桜」を始め、宇崎竜童、阿木耀子、岸田智史、松本隆などが提供している。大人へ変貌しようとする女性の心情を歌ったものが多いが、毎晩それこそ擦り切れるほど聴いたんだと思う。 熱心な百恵estだった中坊は55歳になった。家には18歳の娘が居るが、ちゃんと会話をするのが難しい。花ざかりは大変だ。オヤジざかりの身体は、腰が痛かったり、老眼だったり、いろいろ大変だが、まあ何とか生きている。とりあえずペダルを漕いで、何を食べようかと考えている時は幸せだ。秋刀魚が食べたい。。

  • 夏の終わり頃

    8月下旬の事。若狭の海を訪ねた。今は、京都縦貫自動車道と舞鶴若狭自動車道の開通でもって、アクセスが楽になった。ひと昔前は、夏の行楽シーズンに京都市内から日本海方面に行くとなると、道は悪いし渋滞するしで、苦労したものである。それが今は、高速道路で日本海の傍まで行ける。渋滞が無く時間が短縮されるというのは、精神衛生上良い事だ。 高浜町にたどり着いた。子供が小さかった頃、家族で民宿に泊まった場所だ。もう子供たちは着いて来ないから、家人と二人である。民宿が軒を連ねる路地を抜けて、白浜海水浴場で車を停めた。 駐車場のオヤジが「海は荒れていて、遊泳禁止だよ。」と教えてくれた。どうしようかと迷ったが、少し海に触れようと浜に出た。駐車料金は1000円也。 海に入ると高い波が襲って来た。まあプールの人工波とは訳が違う。波の力は強い。ボヤボヤしていると浚われそうだった。なるほど遊泳禁止である。それを狙って、押し掛けて来ていたのが、サーファーたちだ。大きな波に立ち向かう若者が少し羨ましく思えた。しばらく浜辺に座って、潮風にあたった。 WakasaBay クワガタの大顎の様な二つの半島で囲まれた小浜湾は、比較的波が静かである。その小浜湾の東側の半島から延びるドライブウェイ、エンゼルライン(9.7km)を上った。上り切るとそこが、久須夜ケ岳(619m)の山頂である。展望台から観えるのは、若狭湾の大パノラマ。少し不安定な気候が夏の終わりを告げていた。

  • 原爆投下と8月の雑感

    茹だる夏である。毎年そんな事を言っているが、今年の夏はホントに大変だ。早めに梅雨が明けてからというもの、もの凄い暑さに晒されている。真昼の陽射しは殺人的で、京都の最高気温は連日40度近い。呼吸するのも躊躇われる空気である。食事と睡眠に気をつけて、あと一月ぐらいをなんとか凌ぐべし。 8月。今年もまた終戦の日を迎える。無謀な戦争で多くの犠牲者を出したこの国は、先祖や戦没者の霊を迎えて供養する時期である。新聞もテレビもその他のメディアも、戦争や平和、それらしい事柄を扱う。昭和の時代から、日本の8月は、国を挙げての平和と慰霊の月間である。 この記事を書いている8月6日は、広島に原爆が投下された日である。広島の平和記念式典に安倍首相が参列して何か述べたようだが、およそ平和とは逆行するような事ばかりやっているから、メディアからは不人気ぶりが伝わる。3日後の8月9日には、長崎にも原爆が投下された。悪魔のようなキノコ雲は夏空も人の命も吹き飛ばした。昭和20年8月、日本は最悪の終戦を迎えた。 広島、長崎と2発の原子爆弾が投下されたのは、日本の敗戦は決定的だった状況下である。原子爆弾を使う必要があったのか。原爆投下を正当化したい米国の歴史認識では、「米国は原爆によって終戦へ導いた」「結果的に米国人と日本人の命を救った」などという論説があるが、詭弁である。昭和20年夏、すでに沖縄は占領されており、日本の海も空も米国の手の内にあった。米国の映画監督オリバーストーン氏は「戦争の終結に原爆投下は必要なかった」「原爆投下は実験でもあった」と語る。 ひとつの論点がある。『どうしてドイツには原爆が投下されなかったのか』 この論点を掘り下げると、人種差別、レイシズム、戦争の本質というような問題をあぶりだす。同じ対戦国でも欧州のドイツでは使われず、アジアの島国日本で使われた。米国は大量殺戮を可能にする核兵器の使用にあたり、有色人種に対しては、ためらう事はなかった。しかも2発。米国が言うように、核兵器の威力を見せつける事で終戦を早めた、と言うなら、2発目は必要ない。日本人を虫ケラ同然に殺戮した原爆投下の背景には、醜い人種差別が見えてくる。あまりに酷い。

  • 七変化の花と東アジア

    雨の土曜日、空は灰色である。日本列島に貼りつく梅雨前線は、堅実な仕事ぶりで、京都西山連峰にも、ちゃんと雨を降らせている。灼熱の太陽が現れる前に、夏本番が来る前に、膨大な降水をもたらす。梅雨がくれる分け前は、あらゆる生命にとって、命の水である。それは、四季を操るモンスーン気候の壮大な仕掛けだ。 善峯寺を訪ねた。同伴者は、ウソかホントか、李王朝ゆかりの風水師だという家人である。二人で山門をくぐるのは3年ぶり。前回と違うのは、互いの年齢と、今年は傘が必要なことだ。急峻な小塩山の中腹に建つ古刹は、霧雨に濡れそぼる。入山料は1人500円也。 濡れた石段を踏みしめて境内へと至る。本当なら天空の境内からは、京都南部の街並みが見渡せるのだが、あいにく霧に煙って視界は悪い。しかし、順調な降水もあって、紫陽花庭園の一万株は、9割がた咲きそろっていた。空はモノクロだが、紫陽花は瑞々しく鮮やかである。 地中の環境によって、色を変える紫陽花はまさに「七変化の花」と呼ばれる。花言葉は「うつり気」である。変わる事は悪い事ではない。 南北首脳会談、米朝首脳会談を経て、東アジアの情勢はダイナミックに変わろうとしている。しかし残念ながら、日本の政権は、幼稚で矮小な思考に捕らわれて身動きが取れないでいる。国内の政治を嘘とデタラメで塗り固めた政権は、国際社会でも取り残されるばかりである。腐った株からは、ロクな花は咲かない。一日も早く根っこごと取り除くべきである。

  • 「いつまでモリカケやっている」という愚問

    在日コリアンの女性に対し、差別を煽るヘイトスピーチや危害を加えるとする投稿を繰り返した男が書類送検された。差別発言や脅しの数は数百件に上るという。自らをレイシスト(人種差別主義者)と名乗っていたらしいが、あられもない差別発言と脅し文句を発していたようだ。卑劣極まりない。息を吐くように嘘をつく政権が「美しい国」だと能書くこの国は、在日コリアンやマイノリティからすれば窒息寸前だ。少し雑感を述べる。 弱いモノが標的にするのは必ず弱いモノである。反撃できない相手に向かって安全な場所から一方的に攻撃する。誰かの炎上が大好きで、わざわざソコへ行ってリンチに参加する。ネットあちこちで、おつむのイカれたレイシストたちは、幼稚で理不尽な憎悪を在日コリアン達に向けている。あまりに酷い本件は立件されたわけだが、水面下の予備軍はどれほどあるか。ヘイトスピーチ対策法や条例により、街頭でのソレには網が掛けられたが、ネットやSNSでは事実上野放し状態である。 人の顔が見えないネット上では、しばしば、他人ををヤリ込めたいという意地悪な感情が見え隠れする。鬱積した感情を開放するのは気持ちがいい。ふだん控えめなモノほど、そう感じるものだ。ネトウヨ化まで道のりは簡単である。救い難いのは、恥ずべき行為を「正義」だと思い込んでいることだ。それはそれでまた大きな問題である。差別をしたがる下劣な感情が蔓延るのは、今の政治状況と無縁ではない。国会議員の中でも政権に媚を売る事しか脳がないモノは、ネトウヨ同然の発言をする。ネットの荒野では、弱者叩きや嫌韓中を煽る発言は、毎日止む事がない。 先日のこと。立憲民主党の枝野代表のツイートを中傷していた人物と、少しばかり発言のやり取りをした。相手はネトウヨ安倍応援団である。ヤボったいので、内容までは書かないが、数回の発言のあと、最後はこちらの問い掛けに答える事なく途切れた。どうやらブログやSNSを利用して、政権に有利なるように扇動するというアルバイトがあるようで、その辺の事情はネットでも紹介されている。

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