短大卒業後、何度か転職したが私は幸運にも転職先ごとに必ず1人は仲良くなる人がいた。そして、その人から職場の人間関係や、仕事の全体の状況などの情報を流してもらっていた。これがあるのと、ないのとでは大違いだ。毎日の過ごしやすさに差が出る。健常者
それは暗黒の短大時代まっただ中のことだった。短大2回生の初め頃、高校時代の友人にコンパに誘われた。基本コンパは不参加な私。だって話がわからないんだもん。集団のノリとかもあるし、高校時代に何度か誘いにのって参加してみたものの毎回変に気持ちが落
短大を卒業後プー太郎になった私。仕方がないので、自力で電話をかけてバイトを探した。右耳はゆっくり、大きな声で話してもらえれば予測した範囲内であれば話はなんとなくわかったので頑張ってかけた。いちかばちかで電話をかけて、相手の言っていることが理
私はコーダでもあった。難聴だけど、デフファミリーの中で唯一ちょっと聴こえる人だった。ゆえに、電話を頼まれたり、ちょっとした通訳を頼まれたり、両親のFAXの文章を添削したりした。小学生の頃からそれは始まったように思う。父親の職場に電話をかけて
基本、私は過去を後悔することがない。だが、たった1つ。後悔したことがある。私にとっては1番苦しかった短大時代のことだ。情報保障についてなんにも知らなかった。ノートテイクがあることを知らなかった。自分が聴覚障害者であることを思い知らされた時期
中学から腐れ縁になったNちゃん。私の発音指導のみならず、自ら指文字を覚える、と言い出し実際覚えてくれた。覚える理由がまた彼女らしい。彼女は神経質で、本を借りた時にその神経質の度合いがわかって驚愕した記憶がある。例えば漫画を借りたときのこと。
私が受験して入った中学は、大学まであるエスカレーター式の学校だった。よっぽど成績が悪くない限りはそのまま上へ上がれた。そして高校に無事進学。高校になって1つの出会いがあった。1学年上だったか2学年上だったか忘れてしまったが、先輩に難聴の人が
中学時代。Nちゃんに言われたもう1つの衝撃的な一言の話。Nちゃんと同じクラスになったある日の音楽の時間。歌を1人ずつみんなの前で歌う小テスト的なものがあった。私は歌が好きな方で、なぜか歌がうまいと妄信していた。小テストを終え、席に戻るとNち
そうそう。小学校時代、笑われたことで印象的だったことが。私の母親、一応喋れるのですが発音が不明瞭。わかってもらえる人にはわかってもらえるが、わからない人からしたら多分何度喋り直してもわからない。母親が健常者相手に喋った時の今までの相手の反応
中学受験を経て、私立中学へ入学。小学校時代、難聴を隠して周りに合わせてへらへら笑っているのがしんどかったので中学入学と同時に難聴であることをクラスに公表。これにより、幾分か気持ちが楽になった。わからない時はわかったフリをしてうなずいたり、笑
小学校時代は難聴であることを隠していた隠していた、というか公表はせず知っている人だけは知っている、という感じだった。小学校1•2年生の頃はあまり記憶にない。授業中のことは記憶にないが、休み時間はなぜか男の子と遊んでいた記憶がある。
ろう者(Deaf)、とは生き方そのものを言う。聴力障害の程度が軽くても重くても、生き方の問題で自分のことをろう者(Deaf)という。聾者、とは身体的な問題で本当に耳が聞こえないひとのことを聾者(deaf)という。私自身は、デフファミリー(家
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