徳薙 零己 さん プロフィール

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徳薙 零己さん: 次に来るもの(平安時代叢書第十三集) 月〜金18時
ハンドル名徳薙 零己 さん
ブログタイトル次に来るもの(平安時代叢書第十三集) 月〜金18時
ブログURLhttp://ameblo.jp/tokunagi-reiki/
サイト紹介文SE山城京一のドラッカー講座 日曜18時 / 京子先生の平安時代講座 土曜18時
自由文<フィクション>
・わかりあえるはず
・あおひとくさ
・ほしがき
・せむかた -restart-
・ほむらみさき
・苦悶の捕虜
・ほむらみさき、そして…

<ノンフィクション>
・獅子光臨〜三原修の足跡
・朴正煕の野望
・共喰 トモグイ〜連合赤軍事件の全貌。
・蟹工船の時代
・平安時代叢書
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供366回 / 365日(平均7.0回/週) - 参加 2008/01/03 23:29

徳薙 零己 さんのブログ記事

  • 次に来るもの 60/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  経済のインフレについて記す前に、前提として記さなければならないことがある。 それは、通貨とは何かと言うこと。 貨幣と通貨とは混同されることが多いが、厳密に言うと違う。貨幣は硬貨や紙幣といったお金そのもののことであり、通貨とはその国で通用する経済基準のことである。日本国の通貨は日本円であるというのは法律でそのように定めているからで、日本円以外の貨幣が日本国内に存在しないわけではない。ドルを持って [続きを読む]
  • 次に来るもの 59/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  わずか一年半である。 たった一年半で、それまで一七〇年に渡って維持されてきた摂関政治は沈黙したのだ。議政官の面々を見ればたしかに藤原氏と源氏ばかりであり、藤原氏である関白もいる。その関白は、他ならぬ藤原道長の子で、藤原頼通の弟という、それまでの摂関政治であれば盤石な権力を伴う存在として君臨していたはずなのである。 ところが、この一年半で、藤原摂関政治が形骸化してしまった。権力は後三条天皇に集中 [続きを読む]
  • 次に来るもの 58/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  さらに、延久元(一〇六九)年一二月二六日には、後三条天皇が自ら円宗寺へ行幸したと同時に、皇太子貞仁親王を白河へ派遣した。目的は同じ。寺院に祈祷させるという名目での荘園の確定のためである。 円宗寺という寺院は、二一世紀の現在は存在しない。ただし、現在の仁和寺の近くにあったことは証明されている。皇太子貞仁親王が派遣された白河の地は現在の平安神宮の周辺である。円宗寺は平安京の北西の入り口であり、白河 [続きを読む]
  • 次に来るもの 57/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  この不安と絶望をさらに増幅させることとなったのが、上東門院藤原彰子の体調悪化である。延久元(一〇六九)年一一月七日、上東門院藤原彰子が病気に倒れたことを理由に、大規模な恩赦が実施された。 ただし、この恩赦にはもう一点の側面がある。 平安時代には死刑が無かった。最高刑を死刑とする刑法が存在しなかったのではない。最高刑としての死刑は存在していたが実施されないままでいたのである。そのため、犯罪者が逮 [続きを読む]
  • 次に来るもの 56/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  後三条天皇の急進的な改革は日本中に混乱を巻き起こしていた。 もともと時代の衰退を実感し、末法の騒動に狂乱していた時代である。それまでの藤原摂関政治を破壊して新たに政治体制を構築しようというのは熱狂的な支持者を生み出してもいたが、多くの日本人にとっては後三条天皇の手による急進的な改革がむしろ恐ろしい出来事ですらあったのである。 恐ろしさの最たるポイントは、目に見えて貧しくなっているという現実があ [続きを読む]
  • 次に来るもの 55/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  経済問題としてのインフレは日本でも宋でも見られた現象である。もっとも、日本の場合は荘園を整理した事による生産性の悪化であるが、宋の場合は生産の絶対量の少なさという違いがある。ただし、需要と供給のバランスが崩れた結果のインフレという点で違いは無い。 二一世紀の日本国はインフレ目標二パーセントを掲げるほどのインフレの起こらない国になってしまったが、それでも物価高騰は時折散見される。中でも顕著なのが [続きを読む]
  • 次に来るもの 54/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  これを日本に置き換えるとどうなるか? 後三条天皇はそもそも金融について何も手を加えていない。金融工学に対する無知とも言えるが、この時点で一八パーセントでも高率とされる金融が成立しているタイミングで何かしらの金融政策を打ち出しても意味は無い。マイナス金利(ネガティブレイト)はさすがに異常だが、国内の金利の低さは通常であれば国内経済の安定を意味する。他国が一〇パーセントの金利でありながら自国は金利 [続きを読む]
  • 次に来るもの 53/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  それにしても、後三条天皇と王安石とが同時代人で、日本と宋とが同じ社会問題を抱えていたことは注目に値するが、それに対する対策の差異について比較してみるのも面白いものがある。 まず、宋の王安石の展開した改革案は以下のものである。 青苗法。これは元々存在していた貧しい人の救済措置の手直しである。救済用の食糧貯蔵の見直しをし、種籾を必要とする者は貯蔵した食糧から借りることができる。利率は三〇パーセント [続きを読む]
  • 次に来るもの 52/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  この国家財政の危機に、宋の国民生活の悪化が加わる。 日本の国民生活における格差の拡大も問題になっていたが、宋における格差の拡大は日本の比では無かった。 日本は貨幣経済が破綻していたが、宋では貨幣経済が存続し発展していたことが問題であった。平安時代の日本では、税にしろ、年貢にしろ、コメで納めていたが、宋では現金で納めていたのである。と言っても、農業生産がそのまま現金に結びつくわけでは無い。田畑か [続きを読む]
  • 次に来るもの 51/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  ここで視点を東アジア全体に拡大すると、一人の人物に焦点が当たることとなる。 その人物の名は、王安石。この年、宋の副宰相に就任した王安石はこのとき四八歳。二二歳で科挙に合格したのち、多くの科挙合格者が中央での役職を求めるのに対して王安石は地方官を歴任していた。 王安石の目に飛び込んできたのは、宋の財政赤字であった。一〇六五年時点の宋の歳入は歳出の八八パーセントにとどまる、すなわち、マイナス一二パ [続きを読む]
  • 次に来るもの 50/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  のちに「延久蝦夷合戦」と呼ばれることとなるこの軍事行動であるが、記録は乏しい。人類の歴史を戦争の歴史と短絡的に考える人が多いのは、単に戦争というものがニュースとして後世に残りやすいからにすぎないからであるが、戦争でありながらニュースとしてまともに残っていないということは、それだけでこの戦争がどのような程度のものであったか容易に推定できるということでもある。 この戦争に関わる記録として残っている [続きを読む]
  • 次に来るもの 49/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  何月何日に指令が出たのかはわからない。わかっているのは、陸奥国司源頼俊(みなもとのよりとし)に北海道遠征を命じたことである。そして、この遠征に清原貞衡(きよはらのさだひら)が従軍したことは記録に残っている。 ただ、この遠征の詳細はよくわからない。 そもそも清原貞衡が誰なのかがわかっていない。清原貞衡ではなく、後の奥州藤原氏の初代当主となる藤原清衡の義兄である清原真衡のことではないかとする説があ [続きを読む]
  • 次に来るもの 48/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  ここでの共通の敵というのは二つの条件のどちらかに該当するのが望ましい。 一つは、自分たちの生活と直接のつながりを持たないこと。国境のはるか外の集団に対する敵愾心であれば、共通の敵として執政者にとってかなり都合の良い存在である。敵愾心の爆発は戦争を招くが、国境のはるか遠くであれば戦争になる可能性が少ない。 もう一つは、自分たちが勝者になれること間違いない少数派。敵愾心が爆発して戦争となったとして [続きを読む]
  • 次に来るもの 47/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  後三条天皇の推し進めた荘園整理がどのような結果をもたらしたか? 正義を最優先に考える人にとっては、悪である荘園領主が退治される痛快事であり、鎌倉時代の源顕兼はその著書「古事談」で後三条天皇の治世を「延久の善政」として絶賛したが、現実は甘い物ではなかった。善か悪かで言えば善と言えなくもないが、結果に目を向ければ貧困を生み出していたのである。 この国の農業生産性の推移を追った論文によると、奈良時代 [続きを読む]
  • 次に来るもの 46/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  関白は理論上天皇の相談役であり何ら決定権を持った職務ではないが、権威ならば、関白ともなれるとかなりのものを持つこととなる。それこそ、たかが家の中のトップ争いでしかない藤氏長者の後継者を誰とするかを指名することも不可能では無い。しかし、たかが家の中のトップ争いであるがゆえに、関白藤原教通よりも、宇治に隠遁した藤原頼通よりも強力な存在がこの時点でも健在であるという点が身動きさせられずにいた。 上東 [続きを読む]
  • 次に来るもの 45/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  記録によると記録荘園券契所設置の後、記録荘園券契所設置が閏一〇月だとすると設置の少し前、後三条天皇が人事変更を実施した。 まずは延久元(一〇六九)年八月一三日。この日、関白左大臣藤原教通が左大臣を辞職することとなり関白専任となったのである。 そして、延久元(一〇六九)年八月二二日には、右大臣藤原師実が左大臣に昇格、源師房が右大臣に昇格、大納言藤原信長が内大臣に昇格した。 藤原摂関政治に対する対 [続きを読む]
  • 次に来るもの 44/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  記録荘園券契所では、提出された荘園に関する文書を精査し、荘園整理令に基づく荘園であると認可されれば、通常ならば弁官局を経てからでないと議政官に奏上されないところを、弁官局を減ることなく議政官に奏上される。理論上、議政官での審議を経ないと後三条天皇に奏上されないが、荘園整理令には後三条天皇の強い後押しが存在するだけでなく、記録荘園券契所からの奏上の内容は一般に公表される。その上、奏上されるのは荘 [続きを読む]
  • 次に来るもの 43/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  さて、延久の荘園整理令では、荘園の所在地、所有者、総面積を太政官に提出するとある。 文書を提出し、太政官での審査が通ると、荘園として国から認められ、これまでの免税の特権が続くこととなる。一方、文書を提出しなかった場合は荘園として認められることが無くなり、免税の特権が失われる。武力に頼って強引に免税を続けるという手もあるが、文書の提出と、武力による納税拒否とを天秤に乗せたなら、後者のほうがはるか [続きを読む]
  • 次に来るもの 42/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  延久元(一〇六九)年四月二八日、貞仁親王が正式に皇太子に就任した。貞仁親王、このとき一七歳。いつかは自分のもとに帝位が来ると予期していた貞仁親王にとって、目の前に帝位が見えた瞬間であった。 後三条天皇は即位するまで、兄の後冷泉天皇のもとに皇子が生まれたら、皇位継承権筆頭の地位を失うことを運命付けられていた。藤原摂関家が権力を独占しており、後に後三条天皇となる尊仁親王のもとに集った者は、藤原摂関 [続きを読む]