徳薙 零己 さん プロフィール

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徳薙 零己さん: 平安時代叢書第五集「摂政基経」
ハンドル名徳薙 零己 さん
ブログタイトル平安時代叢書第五集「摂政基経」
サイト紹介文応天門炎上事件により生まれた政治の空白。そんな中、太政大臣藤原良房の後継者基経が権勢を掴む。
自由文<フィクション>
・わかりあえるはず
・あおひとくさ
・ほしがき
・せむかた -restart-
・ほむらみさき
・苦悶の捕虜
・ほむらみさき、そして…

<ノンフィクション>
・獅子光臨〜三原修の足跡
・朴正煕の野望
・共喰 トモグイ〜連合赤軍事件の全貌。
・蟹工船の時代
・平安時代叢書
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供371回 / 367日(平均7.1回/週) - 参加 2008/01/03 23:29

徳薙 零己 さんのブログ記事

  • 摂政基経 165/209
  •  大極殿の火災の与えた影響は応天門の火災の比ではない。 応天門の火災は政治的にも歴史的にも大きな分岐点であったと当時の人は考えたし、現在から見ても摂関制の基礎を作る大きな事件でもあったが、表向きは門が一つ燃えただけというだけである。応天門は庶民が入ることの許されるボーダーラインとして重要であったし、庶民にとっては自分たちのシンボル的建物として特別視されていたが、数多くの貴族にとっては出退勤のとき [続きを読む]
  • 摂政基経 164/209
  •  一方、戦争が終わったことに対する日本の視線は冷めていた。新羅からの賠償金はそのまま防御を固めるための軍事費に充てられ、肥前国松浦郡の庇羅・値嘉両郡を二郡と肥前国から切り離し、値嘉国として独立させて太宰府直轄の防衛体制を作り上げたのである。 戦争終結に対する特別な感情を抱く者は少なかった。新羅の降伏は受け入れたが、それが永遠に続くとは誰一人考えていなかったのである。 侵略されたが徹底的に抵抗し、 [続きを読む]
  • 摂政基経 163/209
  •  貞観一一(八六九)年六月に新羅が日本に侵略してきて戦争となったが、これまでは戦火が鎮まっただけで戦争が終わったわけではなかった。 前線となっていた対馬や壱岐、そして、肥前国の値嘉島では新羅の侵略を食い止める日々が続いており、太宰府も対新羅戦に総力を挙げて対応していた。この前線の奮闘があったからこそ、前線を離れた京都では比較的平穏な日常が展開できていたといえる。 しかし、攻め込んでいる側からする [続きを読む]
  • 摂政基経 162/209
  •  そもそも、貴族が財を貯めて何をするのか? 贅沢三昧な暮らしだけがその答えではない。 一番の目的はさらなるステップアップにある。 一度国司を勤めても、任期が終わって京都に戻ったら次の仕事があるとは限らず、かなりの可能性で無職となる。そのため、あの手この手を使っての求職活動となるのだが、その手の一つが賄賂だった。人事に口出しできるだけの有力者に賄賂を渡し、次の役職を獲得するのである。 役職を獲得し [続きを読む]
  • 摂政基経 161/209
  •  そのため実施されたのが、任期の短縮。とはいえ、国司の任期は六年前の貞観一二(八七〇)年に六年間から四年間へと短縮されたばかりである。ここに来てさらにまた短縮するのは、地方官のポストを増やすというメリットよりも、頻繁な権力交代による地方政治の混乱を招くばかりである。そこで用意されたのが、国司の罷免。国司を任期満了の前に罷免し、ポストレスの貴族をあとに就けるのである。実際、貞観一八(八七六)年二月 [続きを読む]
  • 摂政基経 160/209
  •  その上、政情が安定した。 承和の変、応天門の変と、藤原良房の絡んだ大事件が二つ続いたが、その中に死刑となった者は一人としていない。 死刑が事実上廃止されて追放刑が最高刑になったため、どんな極悪な犯罪者でも追放にとどまる。しかも、実状がいかに追放による左遷であっても、名目上は官位を持ったままの地方赴任とすることが多かった。 となると、五位以上であれば蔭位の制によって子弟を役人にできるから、追放さ [続きを読む]
  • 摂政基経 159/209
  •  これに加え、蔭位の制がかなり強力に働いてしまった。 五位以上になると、自分の子を高い地位の役人に就けることができる。これを「蔭位の制」という。ただし、この頃までは、いきなり貴族というケースは皇族から臣籍降下した源氏だけに限られており、高い地位の役人と言っても、全員が全員貴族になれるとは限らない。理論上は。 大学は定員が決まっており、その競争率は激化していた。良房の手によって、無位無冠の者であっ [続きを読む]
  • 摂政基経 158/209
  •  人事の安定は政局の安定を生む。 ただし、ポストレスの貴族にとっては政局の安定だと悠長に構えていられるわけがなかった。ポストは限られているが、貴族の数は毎年増えている。こうなると、地位だけあって職のない貴族が増えてしまうこととなってしまうのだ。 貴族の給与は位階による給与と役職による給与の二本立てであるから、位だけあって役職がない貴族であっても全くの無給というわけではない。しかし、地位だけあって [続きを読む]
  • 摂政基経 157/209
  •  貞観一七(八七五)年一一月一六日、出羽国から緊急連絡が飛び込んできた。 北海道から「狄」が押し寄せてきたのである。この「狄」という語であるが、漢字一文字で「えびす」と読み、この時代のアイヌ人たちを指す差別用語であった。現在では差別用語扱いされている「蝦夷」もこの時代は差別用語であるという意識がないばかりか、当の本人たちも自分たちのことを「蝦夷」と呼んでいたから何の問題もない。しかし、「狄」とい [続きを読む]
  • 摂政基経 156/209
  •  この黄巣の台頭という連絡を受けた日本では、唐との折衝をいかにすべきかという問題に直面した。 いかに黄巣の軍勢の勢いが強くても、中国全土を制圧しているわけではない以上、正式な国家として承認するのは難しいとする意見があった。 一方、黄巣の勢力を認めただけでなく、黄巣はいずれ唐にとって変わった王権を築くと見なし、公式な国家として承認することを主張する一派もあった。 だが、もっとも多かったのは、そのど [続きを読む]
  • 摂政基経 155/209
  •  この頃、前年の洪水が嘘であるかのような毎日となっていた。梅雨だというのに全く雨が降らないのである。 去年は雨が止むように祈っていたのに、貞観一七(八七五)年は逆に雨乞いであった。 巨大なダムなどないこの時代、空から降る雨以外に水を求めることはできない。ただし、山林が天然のダムを果たしているという感覚だけはわかっていて、山林の中というのは落ち葉などが地面を覆っており、山林の地面というのは湿ってい [続きを読む]
  • 摂政基経 154/209
  •  貞観一七(八七五)年五月一〇日、下総国から緊急連絡が飛び込んできた。 俘囚が反乱を起こしたというのである。 基経は恐れていた事態がついに起こってしまったと直感し、ただちに反乱を鎮圧するよう命じた。唐における王仙芝のような事態になることだけは絶対に避けなければならない。 基経はまず、下総国に近い武蔵・上総・常陸・下野の四カ国に対して兵を送るよう命じた。ただし、その総数はわずかに三〇〇名。これでは [続きを読む]
  • 摂政基経 153/209
  •  常行の死は一人の大納言の死であると同時に、右近衛大将の死でもある。これは、朝廷の武力システムに影響を与えるということでもあった。 朝廷の武力のトップは基経だが、それは右大臣だからではない。左近衛大将だからである。常行も文人としては大納言というナンバー3の地位だが、武人としてはナンバー2になる。 もっとも、基経は武人としての訓練を積んでいないし、それは常行も同じこと。言うなれば自衛官経験のない者 [続きを読む]
  • 摂政基経 152/209
  •  意図して好景気を演出して始まった貞観一七(八七五)年。しかし、この雰囲気を台無しにする大事態が一月二八日に発生した。 この日の夜、冷然院で火災発生。 炎は実に五四の建物を焼き尽くし、この時代随一とされた冷然院の図書はことごとく灰燼に帰した。現在では書名だけしか残っていない、あるいは中の文章が引用でしか残されていない貴重な図書がこのとき失われてしまった。もし、この火災が起こっていなかったら、日本 [続きを読む]
  • 摂政基経 151/209
  •  まったく、荘園もまた、制度というものの例外ではないということだ。 マイナスを意図して作られた制度などはない。全ての制度はプラスであることを意図して作られたものだが、マイナス要素を持たない制度などないし、プラス要素とマイナス要素を比較して、永遠にプラスが優勢であることなどもあり得ない。制度というものは何であれプラスもあればマイナスもあるし、それは時代の移り変わりによってプラスが大きくなったりマイ [続きを読む]
  • 摂政基経 150/209
  •  自然災害そのものを一時災害とすれば、心ない行動は二次災害である。 災害に対し何もできず被害者をみすみす増やしてしまう無能な政権とか、良かれと思って贈ったのにかえって被災地をゴミ捨て場にさせてしまうという支援物資とか、人災と呼ぶべき二次災害は自然災害のたびに発生する。 自粛も二次災害の一種で、本来行われるべき経済活動を「被災者ことを考えて」「良かれと思って」中止することで、経済が悪化し、被災者の [続きを読む]
  • 摂政基経 149/209
  •  いつもの能有ならば、源融らが基経を批判しているとき、基経に代わって批判に向かい合っていたところであるが、このときの能有はその批判に対峙してはいない。 能有に批判に対峙できる余裕などなかったからである。 基経は被災者の救援と生活の再建を命じたが、大学頭時代の良房が行なったように自ら陣頭指揮に立って対策にあたったわけではない。基経は司令本部に身を置いて各地から上がってくる被害情報をまとめ、その都度 [続きを読む]
  • 摂政基経 148/209
  •  前年は杞憂に終わった水害であるが、貞観一六(八七四)年は悲しいことに杞憂ではなくなってしまった。 八月二四日、雨がやむどころか台風が京都を覆ってしまい、平安京に大打撃を与えたのである。 通常、平安京での水害は西半分の右京で起こるものと相場が決まっている。右京は左京と比べて海抜が低く、桂川の水害にたびたび悩まされ続けた結果、右京が都市として完成することのないゴーストタウンと化してしまったほどであ [続きを読む]
  • 摂政基経 147/209
  •  唐の情勢の第二報は新羅からもたらされた。 貞観一六(八七四)年八月八日、新羅人一二名が対馬に漂着した。海賊であった可能性は否定できなかったと見え、一二名は直ちに放還されている。 ただし、唐の情勢は聞いており、唐で大規模な反乱が起こっていると再確認できた。 唐で反乱が起こったのを、対岸の火事として眺めていられる余裕はなかった。 国内で反乱が起こる最大の要因は、政治の腐敗でも、自由獲得でも、また正 [続きを読む]
  • 摂政基経 146/209
  •  貞観一六(八七四)年六月四日、国外から二つのニュースが届いた。 この日、石見国に渤海人五六人が漂着。 同日、肥前国に唐人の商人が漂着。 この全く異なる場所に着いた二つのグループは同じことを伝えたのである。 それは、山東の塩密売商人であった王仙芝が数千人の集団を率いて反乱を起こしたという情報であった。 単に反乱を起こしたというだけなら唐から伝えられるいつものニュースであったが、このときばかりはい [続きを読む]
  • 摂政基経 145/209
  •  清和天皇の兄の源能有の存在価値は日に日に向上していた。 反律令の現実主義の政策を進めるとき、壁となって立ちふさがる集団が二つある。一つは源融のように反律令ではあるものの基経には味方しない者、もう一つは律令を墨守する学者派である。 こうした反対派に真っ向から向かい合っていたのが能有であった。基経が反対派に向かい合うといっさいの政務が停滞するというのはすでに判明しているので、基経が反基経に向かい合 [続きを読む]
  • 摂政基経 144/209
  •  年の明けた貞観一六(八七四)年一月一日、大雨による朝賀の中止。 少なくとも昭和末期まで、平安時代の平均気温は日本の歴史の中でもっとも高い時代とされていた。平成になっての異常気象で平安時代が最高気温であるとは言い切れなくなったが、その前後の時代と比べて平均気温が高いことは間違いない。 その結果なのか、雪の記録が少なくなる。無論、雪国に雪がたくさん降った記録はあるし、京都に雪が降らなかったというわ [続きを読む]
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