徳薙 零己 さん プロフィール

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徳薙 零己さん: 末法之世(平安時代叢書第十二集) 月〜金18時
ハンドル名徳薙 零己 さん
ブログタイトル末法之世(平安時代叢書第十二集) 月〜金18時
ブログURLhttp://ameblo.jp/tokunagi-reiki/
サイト紹介文SE山城京一のドラッカー講座 日曜18時 / 京子先生の平安時代講座 土曜18時
自由文<フィクション>
・わかりあえるはず
・あおひとくさ
・ほしがき
・せむかた -restart-
・ほむらみさき
・苦悶の捕虜
・ほむらみさき、そして…

<ノンフィクション>
・獅子光臨〜三原修の足跡
・朴正煕の野望
・共喰 トモグイ〜連合赤軍事件の全貌。
・蟹工船の時代
・平安時代叢書
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供366回 / 365日(平均7.0回/週) - 参加 2008/01/03 23:29

徳薙 零己 さんのブログ記事

  • 末法之世 257/260 (平安時代叢書 第十二集)
  •  清原武則は鎮守府将軍に任命されたことを全面的に活かすようになった。 奥六郡全体が清原氏の支配下に組み込まれることとなったが、これに対する声は不満ではなく歓迎であった。何と言っても戦争が終わったのである。これを歓迎しない者などいない。 それだけでなく、民政という点でも文句なしであった。 戦場となってしまったため荒れ果ててしまった土地に対し、土地の復旧と、年貢減免を指示したのである。さらに、陸奥国 [続きを読む]
  • 末法之世 256/260 (平安時代叢書 第十二集)
  •  康平五(一〇六二)年一〇月、東北地方から戦勝の知らせが届いた。 足かけ一二年に渡った戦いで勝ったのだから朝廷では大喜びになるはずであったのに、そのような反応は見られなかった。 朝廷からの返答がないのを危惧した源頼義は藤原季俊に対して、安倍貞任ら三人の首とともに京都に戻るよう命じた。 一二月一七日、源頼義から藤原季俊を首級献上使とする使節を上洛させるとの連絡が届く。 年が明けた康平六(一〇六三) [続きを読む]
  • 末法之世 255/260 (平安時代叢書 第十二集)
  •  安倍貞任は剣を抜いて朝廷軍に対して抵抗したが、朝廷軍は鉾で応戦。いかに安倍貞任の武勇が優れていようと一対多の戦いでは勝敗も目に見えている。 混乱の末に朝廷軍の兵士たちが目にしたのは、瀕死の状態となった安倍貞任であった。 巨漢の安倍貞任を源頼義のもとに連れてくるのに、巨大な盾に乗せて六人の兵士で担ぎ上げる必要があった。その間、安倍貞任は身動き一つ見せなかった。 源頼義のもとに連れてこられた直後、 [続きを読む]
  • 末法之世 254/260 (平安時代叢書 第十二集)
  •  康平五(一〇六二)年九月一七日は早朝から着火準備が始まっていた。 厨川柵の内側でもこれから何がされるのかわかったし、弓矢や弩で応戦もしたが、朝廷軍が火を放つのを食い止めることはできなかった。 準備を終えたと同時に放たれた火は、風に乗って厨川柵に襲いかかり、厨川柵内の建物という建物の全てを炎に包みこんだ。 厨川柵内の反乱軍の兵士たちは消火しようとしたが、炎の勢いの強さの前には無駄な努力であった。 [続きを読む]
  • 末法之世 253/260 (平安時代叢書 第十二集)
  •  康平五(一〇六二)年九月六日早朝、無人となった衣川柵は朝廷軍の支配下に置かれることとなった。既に小松柵を攻め落とした後の朝廷軍が周囲の集落にどのように対したのかの情報は伝わっており、衣川柵の周囲の集落は朝廷軍に帰順。奥州安倍氏の期待していたゲリラの抵抗は全く見られなかった。 九月七日、朝廷軍は胆沢郡の白鳥に到着。大麻生野と瀬原の二つの柵が朝廷軍の手に落ちた。また、この三日間で奥州安倍氏の重要な [続きを読む]
  • 末法之世 252/260 (平安時代叢書 第十二集)
  •  康平五(一〇六二)年九月五日、朝廷軍の侵略を聞きつけた安倍貞任は、朝廷軍に攻め落とされた小松柵を取り戻そうと八〇〇〇名の軍勢を率いて一気に南下して小松柵の奪還を目指したが、その動きはかなり前に読まれていた。弟と違って真っ当すぎる武人である安倍貞任は、守る側にとって守りやすい存在であったのである。 襲撃の知らせを聞きつけて小松柵を出た朝廷軍は北へと進路を進め、安倍貞任率いる軍勢と激突し、戦いは朝 [続きを読む]
  • 末法之世 251/260 (平安時代叢書 第十二集)
  •  東北地方で戦闘が繰り広げられていた頃、京都では一つの出来事が起こっていた。 康平五(一〇六二)年八月二九日、関白太政大臣藤原頼通が、父の墓所に参詣した。 そして、九月二日、関白太政大臣藤原頼通が太政大臣を辞任。再び関白専任となった。 藤原道長の決定を自らの政治の基盤としていた藤原頼通にとって、父が三ヶ月で辞した太政大臣にしがみつくことは許されなかった。また、七一歳という年齢を考えても、引退して [続きを読む]
  • 末法之世 250/260 (平安時代叢書 第十二集)
  •  康平五(一〇六二)年八月一七日、朝廷軍第五陣が小松柵(現在の一関市にあった奥州安倍氏の最前線基地)を襲撃。ここに戦いの最終章が始まった。 小松柵を守っていたのは安倍宗任と叔父の安倍則任の二人の率いる軍勢である。反乱軍側は激しい抵抗を見せたが、攻めかかる朝廷軍第五陣の前にはなすすべなく、反乱軍は抵抗を主張する安倍則任と撤退を主張する安倍宗任との論戦の末、撤退が決まった。 小松柵を攻め落とした朝廷 [続きを読む]
  • 末法之世 249/260 (平安時代叢書 第十二集)
  •  出羽の清原氏が朝廷軍の一員として参戦すると宣言しただけでなく、軍勢が出羽から陸奥へと移動しているという知らせは奥州安倍氏のもとにも届いていた。 康平五(一〇六二)年閏七月、清原武則の率いる一万人以上の軍勢が出羽国と陸奥国との国境に到着。これより先に軍勢を進めるためには陸奥国司の許可が必要となるため、いったんは国境付近に留まる。 閏七月二六日、清原氏の軍勢到着の知らせを聞きつけた源頼義は、三〇〇 [続きを読む]
  • 末法之世 248/260 (平安時代叢書 第十二集)
  •  京都にその知らせが届いたのはいつのことかわからない。 わかっているのは、一気に戦闘に打って出て反乱軍を蹴散らすと息巻いて東北地方に向かったはずの高階経重が、愕然とした様子で京都へと戻ってきたことである。 朝廷は異例に異例を重ね、源頼義を再度陸奥国司に任命した。正確に言うと、陸奥国司を源頼義から高階経重に交替させた後、高階経重を召還して源頼義を陸奥国司に任命したという手続きをとった。 一方、陸奥 [続きを読む]
  • 末法之世 247/260 (平安時代叢書 第十二集)
  •  ウリ・ニーズィー、ジョン・A・リスト共著「その問題、経済学で解決できます」(東洋経済新報社)にもあるように、インセンティヴというのは、人を動かす重要な要素であるが、インセンティヴは自分のやりたいこと、あるいは、やらなければならないことをへと動かす要素であって、インセンティヴだけで動くわけではない。 経論すれば、やりたいと考えているならば、自分のやることが正しいことだと考えているならば、インセン [続きを読む]
  • 末法之世 246/260 (平安時代叢書 第十二集)
  •  源頼義の陸奥国司の任期は康平四(一〇六一)年で終わる。 源頼義の任期途中で国司から罷免して京都に呼び戻すと主張したら、源頼義が戦いをなかなか始めないことに苛立ちを隠せないという本音が見透かされてしまう。だが、国司交代任期満了に伴う国司交代という主張であれば何らおかしなことはなくなる。ましてや、特例で国司の任期延長をしているのである。再延長は困難だと考えるのは、源頼義に対する疑念を抱いていない人 [続きを読む]
  • 末法之世 245/260 (平安時代叢書 第十二集)
  •  康平四(一〇六一)年一一月二三日、関白藤原頼通の七〇歳の祝典が開催された。場所は京都東山にある法性寺、主催者は太政官というから、理論上は一庶民でしかない人間の七〇歳の祝典としては異例中の異例の出来事である。 この異例にさらに輪を掛けたのが、一二月八日に後冷泉天皇がいきなり宣言した関白藤原頼通の太政大臣就任である。 息子を内大臣にさせようかというとき、藤原頼通は関白太政大臣になることを考えていた [続きを読む]
  • 末法之世 244/260 (平安時代叢書 第十二集)
  •  康平四(一〇六一)年。陸奥国司源頼義の任期の最終年。 予定では、新しい国司が京都から派遣され、陸奥国司としての源頼義と交替する。武人として優れている源頼義であろうと、インセンティヴに紐付いている武士たちである。新しい国司と、元国司であるというだけの役職無しの身となる源頼義とで、源頼義を選ぶ者はどれだけいるであろうか? 武士たちが揃い、兵糧が集まってきていたとしても、率いるリーダーがいなくなれば [続きを読む]
  • 末法之世 243/260 (平安時代叢書 第十二集)
  •  平安時代を代表すると言っても良い女流文学が衰退した中にあって、ただ一つ、文学史に名を残してきた散文作品となると、更級日記しか無い。 一応は日記なのだから同時代資料としてはこれ以上に優れた存在はないはずなのだが、平忠常の乱の同時代資料になっていないのと同様に、末法思想の同時代資料にも、前九年の乱の同時代資料にも、なっていない。強いて挙げれば、天喜三(一〇五五)年、末法思想がある程度収束し、平等院 [続きを読む]
  • 末法之世 242/260 (平安時代叢書 第十二集)
  •  京都の人事異動の話は東北地方にも届いている。 ただし、これで何かしらの変更があったわけではない。 奥州安倍氏は、人事異動を受けて東北地方に姿を見せている武士たちの間に何かしらの変化が起こるのではないか、たとえば、武官拝命で東北地方から他の場所へ任地変更となる武士が出るのではないかと考えたようであるが、何もなかった。 藤原頼通の左大臣辞任で人事の玉突きがあったにはあったが、末端の貴族に届くほどの [続きを読む]
  • 末法之世 241/260 (平安時代叢書 第十二集)
  •  康平三(一〇六〇)年七月五日、藤原頼通、左大臣を辞任。後冷泉天皇は合わせて関白の辞任も求めていたが、関白については続投すると決まった。ただし、藤原頼通の求めていた太政大臣就任については却下した。 それから一二日間の左大臣空席を経た、康平三(一〇六〇)年七月一七日、右大臣藤原教通が左大臣に昇格。内大臣藤原頼宗が右大臣に昇格。六五歳の左大臣と六八歳の右大臣であるだけでなく、これまで長期に渡って大臣 [続きを読む]