徳薙 零己 さん プロフィール

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徳薙 零己さん: 次に来るもの(平安時代叢書第十三集) 月〜金18時
ハンドル名徳薙 零己 さん
ブログタイトル次に来るもの(平安時代叢書第十三集) 月〜金18時
ブログURLhttps://ameblo.jp/tokunagi-reiki/
サイト紹介文SE山城京一のドラッカー講座 日曜18時 / 京子先生の平安時代講座 土曜18時
自由文<フィクション>
・わかりあえるはず
・あおひとくさ
・ほしがき
・せむかた -restart-
・ほむらみさき
・苦悶の捕虜
・ほむらみさき、そして…

<ノンフィクション>
・獅子光臨〜三原修の足跡
・朴正煕の野望
・共喰 トモグイ〜連合赤軍事件の全貌。
・蟹工船の時代
・平安時代叢書
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供366回 / 365日(平均7.0回/週) - 参加 2008/01/03 23:29

徳薙 零己 さんのブログ記事

  • 次に来るもの 103/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  藤氏長者は長子相伝と決まっているわけでは無い。藤原冬嗣、藤原良房、藤原忠平、そして、藤原道長と、長子ではないが藤原氏のトップに立った者というのは珍しくも無い。その上、長子でないが藤原氏のトップに立った者が、長兄の息子、つまり甥に藤氏長者の地位を喜んで譲ったという前例は少ない。強いて挙げれば藤原良房の後継者である藤原基経ということになるが、藤原良房に実子がいなかったことに加え、藤原基経を早い段階 [続きを読む]
  • 次に来るもの 102/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  年が変わった延久六(一〇七四)年。やがていつかは起こるであろうと誰もが理解していた、それでいて現実に起こるとは考えてこなかったことが起こった。 藤原頼通倒れる。 宇治から届く藤原頼通の容態と連動するかのように、京都では不穏な動きが続いた。地震が相次いだのである。ただの偶然であるはずなのだが、京都の地では一つの時代の終わりを実感させるほどの大ニュースであった。末法の混迷はついこの間のことだったの [続きを読む]
  • 次に来るもの 101/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  白河天皇の即位も、左大臣藤原師実、右大臣源師房、そして関白藤原教通という構成に違いはなかった。後三条天皇の頃と違いがあるとすれば、その全員が白河天皇より歳上という点である。年齢の違いは単に世代の違いや生まれ育った文化の違いを意味するのではない。幼い頃から貴族入りさせ、二〇歳になる前にはもう議政官の一員であることが宿命づけられているのが藤原摂関家というものである。左大臣藤原師実はたしかに三二歳と [続きを読む]
  • 次に来るもの 100/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  宋に渡った僧侶の成尋(じょうじん)からの消息が届いたのは延久五(一〇七三)年一〇月のことである。およそ三〇〇巻の経典が日本に送られてきたのである。一方、日本からも、中国大陸の混迷の時代に日本で発展した仏教の経典を運んでいる。この時代の東アジアでは、漢文が共通語であり、話し言葉は通じなくても漢文で書かれていれば意思の疎通は充分に可能であった。 さらに学問を極めた僧侶となると、サンクスリットを自由 [続きを読む]
  • 次に来るもの 99/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  古今東西、女性の政治家は数多くいる。結果を出した女性の政治家も数多くいる。しかし、妻であること、母であること、祖母であること、すなわち、政治家としての能力ではなく、政治家として権力を持った者の肉親や近親者であることを理由に政治に口出しするようになった者が結果を出したという例は極めて少ない。いや、自らの努力と才能ではなく、婚姻関係や血縁関係だけを頼りとする者が絶大な影響力を持つとメチャクチャにな [続きを読む]
  • 次に来るもの 98/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  内裏からなぜ避難する必要があったのか? このとき、内裏には二人の強い影響力を持った女性がいた。一人は紫式部の仕えていたことでも名を残す上東門院こと藤原彰子、そしてもう一人が、後三条天皇の実母であり、白河天皇にとっては祖母にあたる陽明門院こと禎子内親王である。 もともと後三条天皇が反摂関政治の考えを持つに至ったのも、実母である禎子内親王の教育によるところが大きい。白河天皇の皇太子として、白河天皇 [続きを読む]
  • 次に来るもの 97/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  白河天皇は、自分が天皇になることを早い段階から意識していた。これまでの摂関政治について疑念を感じていたし、荘園の拡大による格差問題も考えていた。後三条天皇の皇太子となったときから父の推し進める荘園整理と摂関政治との決別についても賛成していた。 ただ、それが結果を生んでいるのかという疑念も持っていた。いや、結果を伴っていないと確信もしていた。さらに厄介であったのが、後三条天皇は自分の推し進めてい [続きを読む]
  • 次に来るもの 96/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  父の死後、白河天皇は奇妙な行動を見せる。 内裏に何の損壊も起こっていないのに、内裏を出て、藤原頼通の邸宅である高倉殿を里内裏としたのである。もっとも、高倉殿の所有者は藤原頼通であるが、藤原頼通は宇治の地にいてここにはいない。 名目は、大内裏の中で朝廷の饗宴などの儀式をするための施設である豊楽院(ぶらくいん)の再建工事のための一時的な里内裏であった。さすがに豊楽院の再建となると誰も文句が言えなく [続きを読む]
  • 次に来るもの 95/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  後三条法皇は神仏に祈りを捧げて病気平癒を願ったが、神仏はその願いを答えなかった。 延久五(一〇七三)年四月三〇日。後三条法皇が危篤状態に陥る。翌日、五〇〇名の僧侶が集められての読経が始まる。 一方、白河天皇は後三条法皇が危篤状態にならなければ絶対に許さなかったであろう行動に出る。五月六日、白河天皇の生母である亡き藤原茂子を皇后と、藤原茂子の父である亡き大納言藤原能信を正一位太政大臣とすると発表 [続きを読む]
  • 次に来るもの 94/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  後三条上皇重病の噂は、噂で無くなった。 延久五(一〇七三)年二月二〇日に出発した後三条上皇が京都に戻ってきたのは二月二七日のこと。それからしばらく後三条上皇についての動静が消え、その次に出た動静が三月一八日のことである。それも、後三条上皇の病状が悪化したので大規模な恩赦を実施するという知らせである。これにより後三条上皇が重病にあることは周知の事実になった。 四月七日、白河天皇が後三条上皇のもと [続きを読む]
  • 次に来るもの 93/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  後三条上皇の体調不安がはじめて公表されたのは延久五(一〇七三)年二月二〇日のこと。後三条上皇がこの日、石清水八幡宮、住吉大社、四天王寺への御幸に出発したのである。 京都の西を流れる桂川を下ると、山崎の地で宇治川、木津川との合流地点に出る。その合流地点の東にあるのが石清水八幡宮に出る。三つの川が山崎の地で合流して淀川となり、淀川を下って大阪湾(当時の呼び名は「茅渟(ちぬ)の海」)に出ると、この時 [続きを読む]
  • 次に来るもの 92/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  後三条上皇は自らが関白に比肩する存在になることを意図した。だが、白河天皇は、天皇の雑務を肩代わりできる存在としての関白は必要としたが、相談役としての関白は必要としなかったのだ。後三条上皇にとって自らの最大の協力者であり後継者である白河天皇のこの思いが読めなかったというのはかなりの誤算であった。 摂関政治を否定するために自らが摂政や関白を上回る権威を持った存在になることを後三条天皇は意図して退位 [続きを読む]
  • 次に来るもの 91/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  後三条上皇について、新たに帝位に就いた白河天皇がどのような思いでいたのかを示す面白い記録がある。後三条天皇は、摂関政治の否定、荘園の否定、内裏再建の三つに全身全霊をかけてきた。そのうち、内裏再建は既に完了し、摂関政治の否定は白河天皇の後継者が藤原氏を母としない実仁親王となったことで形になった。そして、後三条上皇が見えないところで君臨している。普通に考えれば全身全霊をかけてきた政策の残る一つであ [続きを読む]
  • 次に来るもの 90/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  この後三条天皇の考えを院政のスタートとするか否かについては議論が分かれる。厳密に言うと、大正時代までは後三条上皇を院政のスタートとする考えが当たり前だったのである。だが、昭和に入るとこの考え方に疑問が持たれるようになった。 ポイントは三点。後三条天皇の治世における災害の多さ、白河天皇の皇太子として実仁親王を指名したこと、そして、後三条上皇の健康問題である。災害を天が突きつけた統治者失格のサイン [続きを読む]
  • 次に来るもの 89/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  これを白河天皇はどのような思いでいたであろう? 父としても政治家としても父を尊敬していた。しかし、自分の母親が藤原氏であるというただ一点が足かせとなって、天皇となっても政務を遂行できないのである。 皇太子貞仁親王は後三条天皇の最大の協力者であると自他共に認めていたし、後三条天皇が退位した後で帝位に就くとしたら皇太子貞仁親王以外にあり得なかった。そして、実際に後三条天皇が退位して皇太子貞人親王が [続きを読む]
  • 次に来るもの 88/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  延久四(一〇七二)年一二月一日、後三条天皇の計画が始まった。 まずはこの日、女御源基子に准三后の地位が与えられると決まった。源基子はこれで、皇后や上皇と匹敵する地位と給与を手にしたこととなる。 さらにその翌日、藤原忠家と源顕房が権大納言に、藤原能季、藤原泰憲、藤原資仲の三人が権中納言に、藤原基長、藤原伊房、藤原実季の三人が参議に就任した。実に八人もの貴族が議政官で新しい地位を手にしたのである。 [続きを読む]
  • 次に来るもの 87/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  後三条天皇の周囲は、徐々に薄くなってきていた。後三条天皇の政権による新しい時代への熱心な期待は影を潜め、後三条天皇は暴走を強めていたのである。 とはいえ、後三条天皇の親政は盤石である。議政官の決議が上奏されて政策となるという仕組みは続いてはいるが、後三条天皇の独裁も続いているのだ。つまり、議政官で練られた政策が後三条天皇に上奏されて法案になるという従来の仕組みは存在していたが、議政官を無視して [続きを読む]
  • 次に来るもの 86/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  延久四(一〇七二)年八月一〇日、後三条天皇は最後の手段に打って出た。 沽価法の制定である。 估価法(こかほう)とは、物価を固定するという法律である。供給者が物価を決めるのではなく法律で決めてしまうというのだからムチャクチャである。 昭和末期の世界のニュースを覚えている人にとっては、商店の店頭に何も無く、手にできるかどうかわからない物を手に入れるために延々と続く行列に待ち続けるという、共産主義国 [続きを読む]