issey さん プロフィール

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isseyさん: イッセーのエッセー
ハンドル名issey さん
ブログタイトルイッセーのエッセー
ブログURLhttp://ameblo.jp/kanmonya/
サイト紹介文『歴史的なこと』『旅や環境など』そして、『教育・人・食物』など、紹介したいと思います。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供45回 / 365日(平均0.9回/週) - 参加 2008/02/19 10:42

issey さんのブログ記事

  • 吉井町の水(2)-2
  •  「吉井」とは「綺麗な水の湧き出るところ」を意味するという。 「うきは市」のパンフレットには清流の町とある。聞くところ、今でもほとんどの家が井戸水を使用、上水は市営か県営住宅、あるいは特定地域の簡易水道で、これも井戸水をくみ上げて使用しているという。 ところがこの地域は、鷹取山からの谷水が流れる巨瀬川はあっても水量は乏しく、筑後川沿いにありながら高地のために、350年くらい前までは水田もままならず穀 [続きを読む]
  • 吉井町の水(2)-1
  •  「お雛さまめぐりに行かないか」と誘われ、久しぶりに耳納連山の北麓に広がる筑後平野の東、筑後川がゆったりと流れ、以前は吉井町と浮羽町と呼ばれていた2つの町が平成17年(2005)に合併して誕生した「うきは市」を訪ね、柄でもなく『吉井のお雛さまめぐり』を楽しんだ。 山間には、美しく広がる棚田があり水源の森がある。山の麓ではイチゴ、桃、ブルーベリー、ブドウ、柿、キウイ・・など四季折々フルーツの収穫があり大地 [続きを読む]
  • 聞いてガッテン
  •  3月の日曜日、下関で「聞いてガッテン動物のひみつ!」という、元旭山動物園飼育員の絵本作家・あべ弘士さんとNHKアナウンサー・小野文恵さんの対談が行なわれた。 主催は山口県子ども文庫連絡会。後援は下関市とか下関教育委員会など連ねているが主には「子どもと本ジョイントネット21・山口」と「児童書専門店・こどもの広場」。 会場を暗くして、あべ弘士さんの幾つもの受賞代表作品『あらしのよるに』を、こどもの広場の [続きを読む]
  • 萩のシロウオ
  •  久しぶりに萩のシロウオ漁撮影に出かけた。すでに恒例の「しろ魚まつり」の日取りは萩市観光協会の公式サイトで3月5日と発表されていたので当日の漁はない。 祭りには「シロウオのおどり食い」や即売も予定され、この準備に漁は始まっているに違いないと思って、観光協会に電話してみると「2月20日頃から始まっていて祭りが終わってからが本番。詳しくはシロウオ組合に」と言われる。こうして気象庁の天気予報と潮位表を見比べ [続きを読む]
  • 北前船おちこち(49) −深浦港と資料館−
  •  不老ふ死温泉から約8km北東に深浦の港がある。 町に入る前の高台から一望すると、岩礁の多い海岸線の中ほどに、新しい堤防に囲まれた丸っこい入り江のある町が深浦町で、町の旧道路は岩礁をくり抜いた素彫りのトンネルが見られるので、現在の港町は、当時の海岸線をはるかに埋め立てた土地に役場などが建てられている。 その高台からは、港の中に石の杭が一本立っているのが見られたが、北前船は1番杭で帆を降ろし、2番杭、3 [続きを読む]
  • 北前船おちこち(48) −深浦の温泉−
  •  秋田県・東能代駅から青森県・川部駅を結ぶ五能線は全長約147km。この間、秋田県北部の白神山地西方から青森県の西津軽郡に入り北前船寄港地の深浦・鰺ヶ沢など、海岸線に沿って走り、岩木山を回りこむように津軽平野を通って弘前市に着く。 その青森県西南部の深浦町は、現在では世帯数3700戸人口1万人余りという過疎化の進んだ町だが、寛永4年(1627)の深浦港は千石船が25〜6隻繋留できる広さがあって、津軽第一の港として [続きを読む]
  • 阿弥陀寺町でフクのフルコース
  •  昨年の暮れに同期の友人から電話があって「来春の懇親会はフクの会食はどうだろう?」と打診があり「結構なことだねぇ」と賛同しておいた。すでに傘寿を過ぎた連中で、この集いも何時まで続けられるか?あたかも季節的には最高、時には「倹約会」変じてフクフルコース「贅沢会」も良いではないかと思った。 たまたま一昨年、阿弥陀寺町の老舗、割烹「お富」の経営がシーモールに変わったので、そこを会場に交渉が進められたよ [続きを読む]
  • 茨城県出身の横綱稀勢の里
  •  酉年、先ず世界の注目の中で誕生したのがトランプ米第45代大統領の就任である。 昨年来、過激な公約を掲げ、問題発言で批判の集中攻撃を浴びせられながらも、有権者に熱狂的な支持で米大統領選を制した共和党のドナルド・トランプ氏(70)は、1月20日(日本時間21日未明)首都ワシントンの連邦議会議事堂で宣誓した。しかし移民や女性、人種など差別的だとして各所で大規模なデモがあり、入国禁止問題も物議をかもしている。  [続きを読む]
  • 3月12日までの「動き出す絵画」展
  •  1月28日、下関市立美術館でオープニングとなる展覧会「動き出す!絵画−ペール北山の夢」の開会式に出席。展覧会は3月12日まであることは分っていても、初日は主催者から展示品の説明が丁寧にされるので、ほとんど出向くようにしている。 今回はタイトルを見ただけでは”何のことやら”まったく見たいという気になれず、初日を逃したら恐らく会期中に足が向かなかったかもしれない。この日、内容を見て、下関としては久しぶり [続きを読む]
  • 高杉晋作150年『一枝梅花』
  •  下関では、この數年何かにつけて150年という行事が繰り返されている。平成25年には、文久3年に高杉晋作奇兵隊創設150年。その翌年は四国連合艦隊襲来で高杉晋作の和平交渉、藩論統一への功山寺決起回天150年、次の年は四境戦争、櫻山神社創建150年祭、そして昨28年は晋作150回忌。そのつど様々なイベントや記念事業があって盛り上がった。 政府は、昨・平成28年10月にようやく明治維新150年関連施策の検討を始めたことから、山 [続きを読む]
  • 奇兵隊陣屋跡?−2
  •  小倉戦の終結後、再び奇兵隊が吉田に戻ってからは諏訪の地に壮大な陣屋を築くのだが、奇兵隊日記には「4月4日、昨日より郷侠組陣屋開立之場処へ出ス」などと記載があり、その完成は慶応3年(1867)8月8日「午後長官相会、此度新陣屋移転ニ付諸事改革儀決議ス」(同)とある。 その間、下関新地の林算九郎宅に離れで慶応3年4月14日、病状の悪化した高杉晋作は亡くなり、遺体は吉田に届けられて白石正一郎が神式で葬儀を催行。ま [続きを読む]
  • 奇兵隊陣屋跡②−1
  •  文久3年(1863)6月8日、下関竹崎の白石正一郎宅で結成された奇兵隊は、志があるものは武士以外でも入隊を認めた藩の正規軍に対しての奇兵であり、いわゆるゲリラ部隊の編成だった。 結成当時は、60名ばかりで下関の防備として寺院(現在の赤間神宮など)に分宿していたが、結成後まもなく教法寺事件によって総督の晋作は解任、奇兵隊は三田尻に移されて七卿の護衛となった。 その後、元治元年(禁門の変・四国連合艦隊馬関襲 [続きを読む]
  • 本の中に忌宮鶏登場
  •  かれこれ10年ばかり前に1冊の文庫本を買った。 それは、当時私が夢中になっていた西行法師の有名な歌の一節『花の下にて春死なむ』という表題だったからで、別に中を確認するわけでもなく帰って読んでみると、特別に私が求めていた西行とはまったく関わりのない筋書きの短編推理小説だった。 ただ、登場人物のイメージが重なった歌がこぼれたと『願はくば花の下にて・・・西行』を、小編の最後に書き置かれたものだった。 こ [続きを読む]
  • 鶏たち、羽ばたけ!
  •  豊田町浮石の高台に、主祭神が仲哀天皇・神功皇后・応神天皇・市杵島姫命・玉依姫命・天水分命・猿田姫命の亀尾山神社がある。 古くは、浮石八幡宮とも呼ばれ神原に祀られていたお社が亀尾山に移されたという。文明8年(1476)の棟札には、地頭高山照将監平朝臣盛重ほかの名前が見え、正安4年(1371)の造立とあるので創建は古い。それ以後の再建歴があり、明治41年(1908)に岩滑、河内神社を合併し亀尾山神社と改称した。例 [続きを読む]
  • 木鶏たりえず
  •  大分県宇佐市下庄に「双葉の里」がある。明治45年(1912)この地で生まれ昭和2年に角界入りした穐吉定次は、しこ名を双葉山として昭和12年(1937=25歳)35代の横綱になり昭和11年から14年にかけて達成した69連勝の記録はいまだに破られていない。昭和21年(1946=34歳)の引退までに優勝12回(内全勝8回)、以後理事、理事長を務め昭和43年(1968)に56歳で亡くなった。 双葉山は、私の少年時代の英雄でもあり。国東往来のた [続きを読む]
  • カタログギフトに悩まされて
  •  時折、何かのお返しなどで頂くカタログギフトに、どれもこれも欲しくなったり、別段どうでもいいや!こんな物まである、と、何度も何度もページをめくっては、結局これにしようと決断が付かないまま、また閉じてしまう。 贈る方としてもあの人にはこれがいいだろうか、いやこんなのはどうだろうかと、それが大人数になれば考えるだけでも大変な時間を費やしてしまう。贈る方も頂く方も、これは「思い出になる一品」であると決 [続きを読む]
  • 「時代(とき)を拓(ひら)く」群像④-4 −三吉慎蔵−
  •  三吉慎蔵(みよししんぞう・1831〜1901)は、時代を拓く群像の、向かって右側、一番後ろにいる。 天保2年(1831)10月11日、長府藩士小坂土佐九郎の次男として出生。幼名は友三郎。実父・土佐九郎は今枝流剣術師範であり、慎蔵は天保8年(1837)からその門下に加わり剣術の稽古に励んでいたが、三吉家の養子にむかえられた。 三吉家に入ってからも慎蔵は文武に励み、嘉永2年(1849)には萩の明倫館に留学し、儒学、宝蔵院流槍 [続きを読む]
  • 「時代(とき)を拓(ひら)く」群像④-3 −印藤聿・熊野直介−
  •  印藤 聿=豊永長吉(いんどうのぶる=とよながちょうきち・1831〜1911)「時代を拓く」群像では、向かって左一番後ろにいる。 天保2年(1831)2月、長府藩士・下村又三郎の三男として生まれ、後に長府藩士・豊永吉郎左衛門の養子に迎えられた。明治時代の下関実業界では重要な人として貴重な存在である。 安政6年(1859)28歳のとき、長府藩の砲兵司令として外国船防禦の役につき、慶応元年(1865)の報国隊結成ではその軍監 [続きを読む]
  • 「時代(とき)を拓(ひら)く」群像④-2 −梶山鼎介・伊藤九三−
  •  下関歴史博物館光庭に設置された「時代を拓く」群像は、坂本龍馬夫妻に繋がる長府藩士たちである。幕末維新の中で華々しく名声を挙げた志士たちではなく、むしろその底辺で、たしかに時代の荒波の渦中を蠢き、新時代を切り開こうとした志士たちである。 「時代を拓く」群像に登場する志士たち5名を紹介しておこう。 像に向かって正面がこのメンバーでは一番若い梶山鼎介(かじやまていすけ・1848〜1933)で、慶応元年(1864) [続きを読む]
  • 時代(とき)を拓(ひら)く」群像④-1 −光庭の彫刻−
  •  長府に、下関市立歴史博物館が平成28年11月18日に開館した。その難行苦行の経緯、展示などについては、またの機会にして、先ずは玄関正面の光庭に設置された「時代を拓く」と名付けた群像について書いておきたい。 これは、志士の杜推進実行委員会(会長・山本徹氏)が広く浄財募金を呼びかけて製作設置し11月16日に除幕後、下関市に寄贈したもので、志士の杜のモニュメントとしては、既に「青春交響の塔」「風の予言者」に次 [続きを読む]
  • 吉見龍王神社御神幸祭
  •  今年(2016)の龍王神社の御神幸祭は、前夜半までの雨にもかかわらず、当日は朝から好天に恵まれ、10年に一度の大イベント・伝統行事が無事盛大に行われたことを嬉しく思った。 地元の方に話のきっかけとして「10年に一度ですからね」といったら「今回は100年に一度」といわれてビックリ。資料を頂いたり、自宅に帰ってから改めて「よしみ史誌」を見て、大正6年に合祠された龍王神社としては100年目だったことに納得した。 私 [続きを読む]
  • 朝鮮通信使⑤-5 下関の場合
  •  下関市立考古博物館の回廊は、現代から古代にいたる下関の歴史的事象を象徴的に誘導し、土笛の音色が聞こえてくるとそこは弥生の世界、タイムスリップのアプロ−チとなっている。その中間域に、朝鮮通信使・上々官第三船図の鮮やかな川御座船の絵がある。 この絵は、朝鮮通信使の淀川上りのために長府藩が仕立てた川御座船を描いたもので、?大阪市文化財協会から大阪歴史博物館に寄託されたもので貴重な資料である。平成20年 [続きを読む]
  • 朝鮮通信使⑤-4 蒲刈島
  •  呉市の下蒲刈町下島には、蒲刈島御番所(復元)、あかりの館(旧邸移設復元)、御馳走一番館(旧邸移設復元)、陶磁器館(旧木上邸復元)の4棟が、上蒲刈島を挟む瀬戸に面したところに配置され「松濤園」と呼ぶ施設がある。 この島には三之瀬御本陣跡、朝鮮通信使宿館跡(いずれも県史跡)や福島長雁木(当時のもの11段に、昭和になって3段が付け足され14段となり、長さは約55mある)など、朝鮮通信使を偲ぶ場所が存在する。 [続きを読む]
  • 朝鮮通信使⑤-3 瀬戸内市牛窓と福山市鞆の浦
  •  下関の港は、朝鮮通信使の日本国本土最初の上陸地点だったことから、私自身も旅をしながら、北前船とともに朝鮮通信使の寄港地は興味があり意識していた。 港とは言っても、瀬戸内海を辿る下関・上関・蒲刈・鞆・牛窓・室津・神戸津となれば、北前船や維新激動の志士たちの関わった道でもある。 陸路の各所では、たまたま静岡市の浅間神社境内にある市立文化財資料館で「東海道図屏風」に江戸市中に差し掛かったころの朝鮮通 [続きを読む]
  • 朝鮮通信使⑤-2 雨森芳洲
  •  今年、平成28年(2016)の馬関まつりで、朝鮮通信使行列再現には西中国信用金庫会長の山本透さんが雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)役を引き受けられたことで、その出発式あたりの記念写真を撮ってほしいと依頼され、老いの身に少々負担を感じながらお手伝い出来たような気がする。 ここでは、雨森芳洲とはどんな方だったかをまとめておきたい。 近江の国、現在の滋賀県長浜市高月町雨森の町医者の子として、寛文8年(1688.6 [続きを読む]