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首里城の起源を探る http://syurijyou-kigen.seesaa.net/

首里城の起源について、いくつかの説に分かれている。その起源を探り埋もれた歴史の真相を明らかにしたい。

miyaken
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那覇市
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那覇市
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2008/08/05

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  • 首里城全焼の経緯

    首里城の全焼は今回で史上5度目と云われている。 首里城は、1429年から1879年までの約450年間にわたって統治が続いた琉球王国のシンボルだった。 1429年から1879年までの450年間というのは、尚巴志が南山を攻略し、三山を統一による琉球国王となったと きからで、王権は第一尚氏から第二尚氏に移行し、その後、明治政府が誕生すると、廃藩置県を経て沖縄県へ 移行したときまでの間のことである。 全焼は史上5度目

  • 世界遺産 首里城全焼

    2019年10月31日、午前2時40分頃、世界遺産の首里城の正殿、南殿、北殿等、 沖縄の誇る文化遺産が全焼したことが、ネットやテレビで報道されていた。 詳細は未だ伝えられていないが、状況が判明次第、今後、お伝えしていきたいと思います。

  • 電子書籍の目次内容紹介

    首里城の起源を探る(改訂版)電子書籍の目次内容は下記の通りです。 目 次 一 はじめに 二 琉球史との関わり 三 遣唐使と南島 開元通宝伝来の謎 四 琉球と沖縄 隋書の琉球伝 陳侃の報告書 大琉球は(沖縄)と小琉球(台湾) …

  • 電子書籍出版

    電子書籍出版について 「首里城の起源を探る」(改訂版)の電子書籍 「エッセイで楽しむ沖縄の歴史再発見」 前回、電子書籍の出版内容について、近いうちに紹介したいと、お知らせしましたが、やっと内容がわかりましたので、紹介致します。 まず電子書籍は「二二世紀アート」Kindle版で出版されました。アマゾンで販売されています。 内容は

  • 電子書籍出版

    電子書籍出版について 首里城の起源を探る(改訂版)の電子書籍 「エッセイで楽しむ沖縄の歴史再発見」 内容はブログでも紹介している 「首里城はいつ頃から、琉球国の王城だったのか、いくつかの説に分かれている。琉球史における未解決の問題である。その起源を探り、埋もれた歴史の真相を明らかにしたい」 というテーマで自分なりに検証してきた論考や、考察などを新聞で投稿してきたもの…

  • 源為朝 琉球出立の様子

    源為朝 琉球出立の様子 源為朝は尊敦誕生の数年後、帰国への思いが勃々(ぼつぼつ)としてくるのを抑えがたくなっていた。日本で武士として主君につくしてきたことを思えば、その恩を忘れれば、臣たるの道に非ずとの思いが強まり、帰郷の決心を固めていた。そのことを知った妻の真鍋樽金は大いに驚き、「何のためにこの妻子を残して帰り給うや」と云った。 為朝答えて曰く「汝が国は鉄少…

  • 琉球と沖縄 (その2)

    沖縄が 流虬(りゆうきゆう)と云われるようになったのは、天孫氏二十五世代の時、隋の煬帝(ようだい)の隋使、羽騎尉朱寛(うきいしゆかん)が初めて此の国に来た時、沖合から、この地を見ると虬龍(きゆうりゆう)(想像上の動物)が水中に浮かぶように見えたので隋人が流虬と名付けたという。 隋使の朱寛は言葉が通じなかったので、男子一人を擒(とりこ)にして帰った。 その後、数年が経過し擒にした一人の男子、…

  • 源為朝と舜天

    源為朝は保元の乱(1156年)の頃から戦国乱世の時代に大暴れした武将として、また弓の達人としても有名な大男であったと伝えられている。 身長は七尺の大男。現在のメートにすると二メートル十センチ程あったといわれている。腕は左腕の方が右腕よりも四寸程長かったというから左腕は十二〜三センチ程長かった分けである。弓は五人張りの弓(五人がかりで引く弓)、長さ七尺五寸の弓を得意に使用していたという。怪…

  • 尊敦 中山王に推戴され舜天王と称す

    尊敦 中山王に推戴され舜天王と称す 利勇は長年仕えてきた恩金松兼王を毒殺し、自らを国王と称し君臨しようとしたが、各地の按司達の動揺は広がってきた。 そのような時、浦添按司尊敦(そんとん)は二十二歳の青年であったが、逆臣利勇を誅(ちゆう)すべく兵を集めたところ、各地から応じた兵五十余騎を引き連れて、利勇の居城、首里城に向かった。 首里城では利勇の配下の者二十四人が慌…

  • 天孫氏二十五紀の系図

    天孫氏二十五紀の系図 天孫氏二十五世最後の国王は、恩金松兼王であった。当時、国王の側近として務めていた利勇の謀反によって恩金松兼王は殺害され、その王統は終わった。その時、王子として各地に配置されていた王子達の動静について、『古琉球三山由来記集』は次の通り伝えている。 恩金松兼王には十男二女がいたが、父王が逆臣利勇に滅ぼされた時、 太子の浦添王子は、豊見城間切瀬長島に逃げ…

  • カテゴリについて

    先日、カテゴリの事でご迷惑を掛けましたが、 調べた結果問題ありませんでした。 修復の必要はありませんしたので、お知らせ致します。 カテゴリの項目の記事内容は、 下記の通りですので、参考のため掲載して起きます。 首里城の起源を探る(改訂版) カテゴリーの項目をクリックしたとき、表示される項目は次の通りです。 カテゴリー 1番目 首里城…

  • 琉球史における「首里遷都説の問題点」

    首里遷都説は、尚巴志が浦添から首里に遷都したという説と察度が浦添から首里に遷都したという説等がある。 しかし、私は尚巴志や察度が浦添から首里に遷都したのではなく、首里城はもともと浦添「うらおそい」の拠点であり、百浦添として歴代王統の王城であったと解釈している。 その根拠は「球陽」、「中山世鑑」、「中山世譜」等の正史、「オモロ」、それらを裏付ける三山に関する系図等である。内容はこれまでにも「…

  • 琉球と沖縄

    隋書の琉求伝 琉球の名前が、むかしの史書に見える場合、ときには台湾であったり、または、琉球なのか、台湾なのか、意見が分かれている場合があり、必ずしも沖縄とは限らない。それらの背景には、台湾も琉球と称していた事実があったことが要因のように思われる。 まず、琉球の名が歴史に最初に見えるのは、隋書の流求伝であるが、その流求について、沖縄説、台湾説、または、沖縄…

  • 遣唐使と南島

    開元通宝伝来の謎 沖縄本島をはじめ、久米島や石垣島の貝塚から中国の唐時代(七〜十世紀)の開元通宝が出土し、その伝来のいきさつが注目されている。これらの貝塚は、グスク時代以前の遺跡といわれているが、一体なぜ、七世紀から十世紀ころの唐の開眼通宝が出土したのだろうか。 開元通宝は遣唐使との関係が推測されながらも、いつごろ、…

  • エッセイ 八重山の哀歌

    島人たちの心情 唄の島、踊りの島と云われる八重山には、名曲といわれる民謡がいくらでもある。これらの民謡は、琉球王国の時代から歌い継がれてきたもので、当時の島人たちの悩みや、苦しみ、喜びなどの心境が伝えられている。なかでも「とばらーま」や、「安里屋ユンタ」、「つぃんだら節」などには、人々の悩みや、せつなさが込めらている。 …

  • 動画 首里城祭

    冊封儀式の模様 首里城祭 冊封儀式 ←ここをクリック 2016年10月29日 YouTube より転載 しました。

  • 高麗瓦を眼前にして

    ある日、我が家の小さな倉庫を片付けていたら、ビニール袋に入っている数個の小さな古瓦片を見つけた。 この古瓦片は30年位前に浦添城跡で散策していたとき、瓦に羽状の線が見えたので、もしかしたら高麗系瓦かも知れないと思って拾ってきたものである。 羽状の模様の古瓦なら、当時、同所でいくらでも転がっていたのでそれほど珍しくなかった。多分その瓦片もその一部だろうと思っていた。 ところが、倉庫…

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