純野一益(戦国) さん プロフィール

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純野一益(戦国)さん: いいかよく聞け五郎左よ!−もうひとつの信長公記−
ハンドル名純野一益(戦国) さん
ブログタイトルいいかよく聞け五郎左よ!−もうひとつの信長公記−
ブログURLhttp://blog.goo.ne.jp/masunojun1
サイト紹介文「信長公記」と「源平盛衰記」の関連は?信長の忠臣『丹羽五郎左衛門長秀』の活躍は?細川藤孝の動きは?
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供367回 / 365日(平均7.0回/週) - 参加 2008/08/23 17:03

純野一益(戦国) さんのブログ記事

  • 佐久間弥太郎(さくまやたらう)
  • 佐久間弥太郎(さくまやたらう)〔現代仮名遣い〕さくまやたろう名は不明。1560年5月おけはざまで信長方として活躍。1569年8〜10月の伊勢攻略戦に参戦。↓ランキングに参加中。 応援よろしくお願いします!にほんブログ村 [続きを読む]
  • 佐久間盛政(さくまもりまさ)
  • 佐久間盛政(さくまもりまさ)〔現代仮名遣い〕さくまもりまさ※下線部は信長公記以外の記事によります。玄蕃允。柴田勝家の甥で佐久間盛次の子。1577年10月柴田軍が加賀攻めから撤退する時、    御幸塚の取手に入る。1581年3月上杉景勝は河田長親の調略に呼応し、    加賀へ進攻。小井出の城を攻囲後、    ふとうげの取手を攻め倒すも佐久間盛政    の反撃に合う。1582年本能寺の変後石動山衆徒の叛乱を鎮圧した [続きを読む]
  • 佐久間盛重(さくまもりしげ)
  • 佐久間盛重(さくまもりしげ)〔現代仮名遣い〕さくまもりしげ大学。1552年3月信秀葬儀の時は、勘十郎信行の    家臣。1556年8月の名塚の戦いでは、信長側の将と    して名塚の取手に入る。1560年初春義元の東尾張進出に対抗して、    丸根山の取手に入る。その後信長公記に出てこないところを見るとこの戦いで討ち死にしたものか?↓ランキングに参加中。 応援よろしくお願いします!にほんブログ村 [続きを読む]
  • 佐久間盛明(さくまもりあき)
  • 佐久間盛明(さくまもりあき)〔現代仮名遣い〕さくまもりあき与六郎。尾張五器所城主。近江安土の城番をつとめる。1577年8月松永久秀・久通父子が叛心し信貴山    城に篭もった時、佐久間盛明のところ    に預けられていた人質の男子二名を矢部    家定・福富秀勝が京へ連行した。二人は    「内裏に逃げ込み命を助けよ」との村井    貞勝の進言を断り盛明だけに遺言を書き    潔く殺害された。1582年5月 [続きを読む]
  • 佐久間信盛(さくまのぶもり)[6/6]
  • 佐久間信盛(さくまのぶもり)[6/6]〔現代仮名遣い〕さくまのぶもり※下線部は信長公記以外の記事によります。1580年7月本門跡顕如光佐は、藤井藤左衛門・    矢木駿河守・平井越後を使いとして、    勅使近衛前久・勧修寺晴豊・庭田重保    を同行させ、安土の信長にお礼を進上    に参上する。信長方は、宮内卿法印・    佐久間信盛が取り次ぎをつとめる。    一行は織田信忠にお礼を述べたが、     [続きを読む]
  • 佐久間信盛(さくまのぶもり)[5/6]
  • 佐久間信盛(さくまのぶもり)[4/6]〔現代仮名遣い〕さくまのぶもり1580年3月北条氏政が本能寺の信長へ、    鷹13足・馬5疋進上。取次ぎは滝川    一益。お礼の品々を氏政の使い笠原    康明、氏照の使い間宮綱信・原和泉守    が進上。取次ぎは佐久間信盛。1580年3月北条氏政の使いが上洛し本能寺で    土産を進上したとき、使いは二位法印・    滝川左近・佐久間信盛がつとめ、関東    衆は「関東八 [続きを読む]
  • 佐久間信盛(さくまのぶもり)[4/6]
  • 佐久間信盛(さくまのぶもり)[4/6]〔現代仮名遣い〕さくまのぶもり1578年5月信忠の播州出馬に参戦。1578年6月神吉城攻撃の為東の山に布陣。1578年7月荒木村重が西丸を攻めると神吉    藤大夫は降参。荒木・佐久間は侘び    事を信忠に取次ぎ神吉を志方に追い    出す。1578年9月信長は九鬼の大船を見に行く途中    で、天王寺の佐久間の所で休憩。1578年11月信長の荒木成敗に出陣したとき、    高槻の高山重 [続きを読む]
  • 佐久間信盛(さくまのぶもり)[3/6]
  • 佐久間信盛(さくまのぶもり)[3/6]〔現代仮名遣い〕さくまのぶもり1574年4月雨夜にまぎれ佐々木六角義賢が    石部城から退散すると、石部城に    佐久間とその軍勢が入る。1574年7月信長父子の河内長嶋成敗に参戦し、    西の香取口を攻撃。坂手に防御線を    はる。1575年4月信長父子の南方攻略戦に参戦。    三好康長の籠る高屋城周辺に放火、    麦苗薙ぎ。1575年8月信長越前攻撃の先陣をつとめる。1 [続きを読む]
  • 佐久間信盛(さくまのぶもり)[2/6]
  • 佐久間信盛(さくまのぶもり)[2/6]〔現代仮名遣い〕さくまのぶもり1572年12月武田信玄が駿河に侵入すると、    佐久間信盛・平手汎秀・水野信元    は家康の援軍として駿河へ向かう。1573年4月信長・義昭の和議の後、鯰江の    佐々木六角義治攻撃の為付城を造営    し百済寺を焼く。1573年7月義昭真木嶋攻めに参戦。1573年8月信長江北攻めで、退却する朝倉を    攻める先手を命じられたのに、信長    に [続きを読む]
  • 佐久間信盛(さくまのぶもり)[1/6]
  • 佐久間信盛(さくまのぶもり)[1/6]〔現代仮名遣い〕さくまのぶもり※信長公の重臣で記事量多いので 6回に分けて投稿します。右衛門尉。1552年3月信秀葬儀の時は、勘十郎信行の家臣。    のち信長の重臣。1560年初春義元の東尾張進出に対抗して、    善照寺の要害に入る。1568年9〜10月義昭入洛の為の戦いの時箕作山    攻略。1569年8〜10月の伊勢攻略戦に参加。1570年4月信長北陸朝倉攻めの後、永原城を守備。1570年 [続きを読む]
  • 佐久間信栄(さくまのぶひで)
  • 佐久間信栄(さくまのぶひで)〔現代仮名遣い〕さくまのぶひで※下線部は信長公記以外の記事によります。甚九郎・正勝。1556年生れ。信盛の子。1574年7月信長父子の河内長島成敗に参戦し、    父信盛と共に坂手で防御線をはる。1576年4月大坂攻めに参戦し、天王寺の取手    に入る。戦後天王寺の城番をつとめる。1580年8月信長は佐久間信盛・信栄父子に対し、    大坂で十九条にわたる折檻状を書き    上げ、楠木 [続きを読む]
  • 信長から細川藤孝への手紙:05 織田信長朱印状 元亀四年七月十日
  • 【注意事項】1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書細川家文書中世編」を参照しています。2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳し間違いがあるかもしれません。3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が通じない可能性のある部分に純野が追記した文言です。4)現代の歴史書物と異なる表記兵部大輔→兵部太輔などはなるべく原文のままとしました。05織田信長朱印状 元亀四年七月十日<本文>この度信長に対して(貴殿が [続きを読む]
  • 策彦周良(さくげんしゅうりょう)
  • 策彦周良(さくげんしゅうりょう)〔現代仮名遣い〕さくげんしゅうりょう※下線部は信長公記以外の記事によります。嵯峨の策彦。臨済宗の僧。細川家の臣井上宗信の三男。九歳で鹿苑寺の心翁等安に参学し、のちその法を継ぐ。1537年大内義隆は博多の新篁寺の湖心硯鼎の副使として明に遣わす。また、1547年遣明正使として渡明し日明間の外交に努力する。1555年には再度入明し世宗に優遇される。帰朝すると、武田信玄は甲斐恵林寺に招 [続きを読む]
  • 坂井越中守(さかゐゑっちゅうのかみ)
  • 坂井越中守(さかゐゑっちゅうのかみ)〔現代仮名遣い〕さかいえっちゅうのかみ不詳。あとで「明智城で謀反を起こした飯羽間右衛門に親族を殺されていた」とあるので、明智の住人か?1574年7月信長父子の河内長嶋成敗に参戦し、    信忠の軍勢として市江口を攻撃。1582年4月飯羽間右衛門の身柄が拘束され、    信長の元へ進上されると、以前坂井    越中の親類を数多く殺害していたため    坂井に成敗を命ずる。15 [続きを読む]
  • 坂井政尚(さかゐまさひさ)
  • 坂井政尚(さかゐまさひさ)〔現代仮名遣い〕さかいまさひさ右近。1568年義昭入洛戦の時、岩成主税助攻撃の    先陣を切る。1569年の伊勢攻略戦に参加。1570年の浅井攻めに参戦。同年信長の叡山攻めの時、堅田の猪飼野甚介・    馬場孫次郎・居初又次郎が忠節を尽く    す旨伝えてきて、それを信長にとりつぐ。『信長公記』の角川版・戦国人名事典共に「坂井政尚はこの堅田の戦いで戦死」としている。その通りならば、 [続きを読む]
  • 坂井彦左衛門(さかゐひこざゑもん)
  • 坂井彦左衛門(さかゐひこざゑもん)〔現代仮名遣い〕さかいひこざえもん名は不明。おそらく清洲衆。1553年8月松葉・深田の戦いで討ち死に。↓ランキングに参加中。 応援よろしくお願いします!にほんブログ村 [続きを読む]
  • 坂井直政(さかゐなほまさ)
  • 坂井直政(さかゐなほまさ)〔現代仮名遣い〕さかいなおまさ与右衛門。織田信長の臣。1569年1月六条合戦では、城内に篭もり防戦。実は摂津高槻から急ぎ赴き敢闘。のち丹羽長秀・長重につかえ、1598年豊臣秀吉から長重領内に一万石を与えられた。↓ランキングに参加中。 応援よろしくお願いします!にほんブログ村 [続きを読む]
  • 信長から細川藤孝への手紙:04 織田信長黒印状 元亀四年三月七日
  • 【注意事項】1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書細川家文書中世編」を参照しています。2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳し間違いがあるかもしれません。3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が通じない可能性のある部分に純野が追記した文言です。4)現代の歴史書物と異なる表記・岩成友道→石成友道などはなるべく原文のままとしました。04織田信長黒印状(元亀四年三月七日)<端裏切封墨引>「細兵殿 弾」 [続きを読む]
  • 坂井利貞(さかゐとしさだ)
  • 坂井利貞(さかゐとしさだ)〔現代仮名遣い〕さかいとしさだ※下線部は信長公記以外の記事によります。文介。坂井氏はもと愛知県中嶋郡祖父江町に住していた。1574年年末〜1575年2月諸国の道路整備の奉行。のち豊臣秀吉の馬廻りとなり、さらに尾張国に仕え「酒井」と改姓した。↓ランキングに参加中。 応援よろしくお願いします!にほんブログ村 [続きを読む]
  • 酒井忠次(さかゐただつぐ)[2/2]
  • 酒井忠次(さかゐただつぐ)[2/2][現代仮名遣い]さかいただつぐ※下線部は信長公記以外の記事によります。1575年5月長篠の合戦で、信長の指示により    忠次の兵二千・信長馬廻りに鉄炮五百・    検使として金森長近・佐藤正秋・青山    新七郎・賀藤市左衛門を添え総勢4000名    の軍勢を作る。これらの勢で南の山中を    廻り鳶の巣山取手を襲撃。長篠城救援に    成功。1579年7月徳川家康の命により酒 [続きを読む]
  • 酒井忠次(さかゐただつぐ)[1/2]
  • 酒井忠次(さかゐただつぐ)[1/2]〔現代仮名遣い〕さかいただつぐ※戦国時代の主要人物ですので2回に 分けての投稿です。※下線部は信長公記以外の記事によります。左衛門尉。父は酒井氏左衛門尉系の初代忠親。家康の父広忠につかえその妹碓井姫を娶る。広忠の死後、今川義元の人質として駿府にあった竹千代−のちの家康−に近侍する。1560年桶狭間の戦いの後、元信が岡崎で自立した後は家老となる。1563年三河一向一揆に参戦。15 [続きを読む]