純野一益(戦国) さん プロフィール

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純野一益(戦国)さん: いいかよく聞け五郎左よ!−もうひとつの信長公記−
ハンドル名純野一益(戦国) さん
ブログタイトルいいかよく聞け五郎左よ!−もうひとつの信長公記−
ブログURLhttp://blog.goo.ne.jp/masunojun1
サイト紹介文「信長公記」と「源平盛衰記」の関連は?信長の忠臣『丹羽五郎左衛門長秀』の活躍は?細川藤孝の動きは?
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供369回 / 365日(平均7.1回/週) - 参加 2008/08/23 17:03

純野一益(戦国) さんのブログ記事

  • 助五郎(すけごらう)
  • 助五郎(すけごらう)〔現代仮名遣い〕すけごろう相撲取り。1578年2月安土信長の御前での相撲で、優れ    た相撲を取った23人のうちの一人。    信長から扇を下される。1578年8月信長主催の安土の相撲に参加。優    れた相撲をとったものに選ばれ、のし    付きの太刀・脇差・服かみしも・知行    百石・私宅まで下される。※源平盛衰記までさかのぼると、相撲取り 同志の戦いで“死者多数”などと出てき ま [続きを読む]
  • 杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅばう)
  • 杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅばう)〔現代仮名遣い〕すぎたにぜんじゅぼう不詳。1570年5月北陸攻めから京へ戻った信長は千草    越えで岐阜へ戻ろうとしたが、山中で    佐々木六角義賢の命を受けた杉谷善住    坊が二つだまの鉄炮で狙い撃ち。体に    かすったが命は助かる。1573年高嶋の鯰江香竹を頼り隠れていたところ    を磯野員昌にみつかり、岐阜まで連行。    9月土にうづめられ鋸引の刑に処せら [続きを読む]
  • 菅屋長頼(すがやながより)[4/4]
  • 菅屋長頼(すがやながより)[4/4]〔現代仮名遣い〕すがやながより1582年5月安土惣見寺で舞と能を興行したとき、    舞の幸若義重は出来が良かったが、能    の梅若家久の出来が悪かったため、菅屋    長頼・長谷川秀一を使いとして「能の後    に舞を舞うのは正式ではないがもう一度    舞を見たい」という信長の要望を伝える。1582年5月信長は惟住長秀・堀秀政・長谷川秀一・    菅屋長頼に徳川家康一行 [続きを読む]
  • 菅屋長頼(すがやながより)[3/4]
  • 菅屋長頼(すがやながより)[3/4]〔現代仮名遣い〕すがやながより1582年3月木曾義昌は信長の元へ出仕。申し    次ぎは菅屋長頼、奏上は滝川一益が    つとめる。木曾が馬二匹を進上する    と、信長から後藤源四郎の細工の入    った腰物と黄金二百枚及び信州の中    の二郡を下される。1582年3月信長は菅屋長頼を奉行として、軍    勢の着到を付け、深志で人数に応じ    扶持米を下す。1582年4月北条 [続きを読む]
  • 菅屋長頼(すがやながより)[2/4]
  • 菅屋長頼(すがやながより)[2/4]〔現代仮名遣い〕すがやながより1580年3月菅屋長頼・堀秀政・長谷川秀一の    三人が奉行となり、安土の南の地を    造成し伴天連に屋敷として与える。1581年1月菅屋長頼・堀秀政・長谷川秀一の    三人が奉行となり、安土の北松原町    の西に馬場を築く為に普請を始める。1581年3月能登国七尾城代として遣わされる。1581年6月能登七尾城の家老遊佐続光・同弟・    伊丹孫三 [続きを読む]
  • 菅屋長頼(すがやながより)[1/4]
  • 菅屋長頼(すがやながより)[1/4]〔現代仮名遣い〕すがやながより※記事量多いので、4回に分けての 投稿です。九右衛門。織田造酒正信房の子。菅屋氏は尾張の豪族。信長の臣。1569年8〜10月の伊勢攻略戦に参加。1570年9〜12月叡山の浅井・朝倉攻めの時、    「一戦をまじえたい」旨伝えに送ら    れる。1573年9月捕えられた杉谷善住坊を査問する    奉行をつとめる。1574年3月多聞城での蘭麝待切り取りの儀式     [続きを読む]
  • 純野、熊本城『復興城主』の申込書を取り寄せるの巻
  • 熊本城の『復興城主』制度の申込書を専用サイトからお願いしたところ手元に到着しました。本日(9月10日(日))中身を取り出すと在りし日の熊本城の威容が写真で残っておりまして、「この状態に戻すまで支援をしよう!」ということでございます。サービス精神旺盛な熊本県らしく、・城主証・城主手形そのほか“城彩苑の劇場でデジタル芳名板に登録”などが準備されているようです。出張から戻ってきたら、今週中に振込する予定で [続きを読む]
  • 吹田(すいた)
  • 吹田(すいた)〔現代仮名遣い〕すいた不詳。荒木村重の弟とある。吹田氏は摂津国吹田出身。1579年9月荒木村重が突然5・6人を連れて    伊丹城を抜け出し、尼崎城へと移っ    たが、その後吹田・泊々部・池田    和泉の三人が伊丹城の警固を行なう。1579年12月信長の命により伊丹城の荒木一    類は京都で成敗ということになり    上洛させられ、村井貞勝の所の籠に    入れられる。↓ランキングに参加中 [続きを読む]
  • 新六(しんろく)
  • 新六(しんろく)〔現代仮名遣い〕しんろく不詳。信長の中間衆。1582年6月明智光秀が本能寺の信長を襲撃    すると、中間衆として厩で討ち死に。↓ランキングに参加中。 応援よろしくお願いします!にほんブログ村 [続きを読む]
  • 神保長住(じんぼながすみ)
  • 神保長住(じんぼながすみ)〔現代仮名遣い〕じんぼながすみ※角川版信長公記のふりがなは「じんぼ」 Wikiなどでは「じんぼう」神保殿。神保氏は越中の豪族。守護畠山氏の部下として活躍し、上杉謙信に対しては越中への侵入を防御。富山城を居城とする。1578年4月信長に招かれ「ご無沙汰して申    し訳ない」旨と黄金百枚・しじら    百端を送られる。のち信長の指示で、    飛騨国司三木自綱・佐々成秋を越中    [続きを読む]
  • 進藤賢盛(しんどうかたもり)
  • 進藤賢盛(しんどうかたもり)〔現代仮名遣い〕しんどうかたもり山城守。近江佐々木六角氏の将。のち信長の臣。1569年8〜10月の伊勢攻略戦に参戦。1570年9〜12月の叡山の浅井・朝倉攻めの時、    穴太の在所を守備。1573年7月義昭真木嶋攻めに参戦。1573年8月信長江北攻めで、退却する朝倉を    攻める先手を命じられたのに、信長に    遅れをとってしまい、厳しく叱責される。1576年5月大坂攻めの戦後天王寺の城番を [続きを読む]
  • 新七(しんしち)
  • 新七(しんしち)〔現代仮名遣い〕しんしち不詳。1581年9月信長は安土城造営にかかわった諸    職人頭(狩野永徳・息右京助、木村    次郎左衛門、木村源五、岡部又右衛    門・同息、遊左衛門・子息、竹尾源    七、松村、後藤平四郎、刑部、新七、    奈良大工)に小袖を下した。↓ランキングに参加中。 応援よろしくお願いします!にほんブログ村 [続きを読む]
  • 信玄京上臈の女(しんげんきょうじゃうらふのむすめ)
  • 信玄京上臈の女(しんげんきょうじゃうらふのむすめ)〔現代仮名遣い〕しんげんきょうじょうろうのむすめ1582年3月武田勝頼は新府の館に火をかけ    人質を焼き殺した後、正室・高畠の    おあひ・伯母大方・お松・信玄京上    臈の女らを連れて勝沼から駒飼の山    家に逃れる。がしかし、頼りにして    いた小山田信茂から受け入れを拒否    され、田子の平屋敷に入る。↓ランキングに参加中。 [続きを読む]
  • 針阿弥(しんあみ)
  • 針阿弥(しんあみ)〔現代仮名遣い〕しんあみ信長の同朋衆。1578年1月禁中と近衛前久の所へ御鷹野で    捕えた鶴を献上するときのお使いを    つとめる。1582年6月本能寺の御殿で小姓衆として防戦    の上討ち死に。↓ランキングに参加中。 応援よろしくお願いします!にほんブログ村 [続きを読む]
  • 白井光胤(しらゐみつたね)
  • 白井光胤(しらゐみつたね)〔現代仮名遣い〕しらいみつたね民部少輔。若狭武田氏の将。1575年7月入洛してきた信長のもとへ出仕。1575年8月信長越前攻撃の時、海上から攻め込む。↓ランキングに参加中。 応援よろしくお願いします!にほんブログ村 [続きを読む]