純野一益(戦国) さん プロフィール

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純野一益(戦国)さん: いいかよく聞け五郎左よ!−もうひとつの信長公記−
ハンドル名純野一益(戦国) さん
ブログタイトルいいかよく聞け五郎左よ!−もうひとつの信長公記−
ブログURLhttp://blog.goo.ne.jp/masunojun1
サイト紹介文「信長公記」と「源平盛衰記」の関連は?信長の忠臣『丹羽五郎左衛門長秀』の活躍は?細川藤孝の動きは?
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供416回 / 365日(平均8.0回/週) - 参加 2008/08/23 17:03

純野一益(戦国) さんのブログ記事

  • 小森与三左衛門(こもりよさうざゑもん)
  • 小森与三左衛門(こもりよさうざゑもん)〔現代仮名遣い〕こもりよそうざえもん不詳。別所重宗の家臣。1580年1月秀吉の与力別所重宗が小森与三    左衛門を使いとして「三人腹を切り    諸卒の命を助けるべし」と伝えると、    そのとおりの返答を書状(浅野長吉・    別所重宗あて)で秀吉に送る。↓ランキングに参加中。 応援よろしくお願いします!にほんブログ村 [続きを読む]
  • 小真木源太(こまきげんた)
  • 小真木源太(こまきげんた)〔現代仮名遣い〕こまきげんた名は不明。1556年4月の斎藤道三対新九郎義竜の戦い    の時義竜方として戦い、道三を生け    捕りにしようとした長井忠左衛門の    横から、道三の脛を切り討ち取った。↓ランキングに参加中。 応援よろしくお願いします!にほんブログ村 [続きを読む]
  • 小林(こばやし)
  • 小林(こばやし)〔現代仮名遣い〕こばやし不詳。1573年8月大づく山に篭もっていたが、    信長方の進軍を見て降参退城。↓ランキングに参加中。 応援よろしくお願いします!にほんブログ村 [続きを読む]
  • 小早川隆景(こばやかはたかかげ)[2/2]
  • 小早川隆景(こばやかはたかかげ)[2/2]〔現代仮名遣い〕こばやかわたかかげ※下線部は信長公記以外の記事によります。1582年5月羽柴秀吉が宿面塚城を攻略し、    並びのゑつたの城を攻めると、    敵は降参退城し高松城に立てこもる。    秀吉が高松城に詰め寄り水攻めに    すると、毛利輝元・吉川元春・小早川    隆景が出陣してきて、高松で退陣する。1582年6月本能寺の変のとき、清水宗治自刃を条件に秀 [続きを読む]
  • 小早川隆景(こばやかはたかかげ)[1/2]
  • 小早川隆景(こばやかはたかかげ)[1/2]〔現代仮名遣い〕こばやかわたかかげ※下線部は信長公記以外の記事によります。毛利元就の三男。1544年安芸の豪族竹原小早川氏の養子となる。1550年に小早川氏の総領家である沼田小早川家を相続し、ここに小早川氏は統一された。隆景は兄の吉川元春とともに「毛利両川」と称され、父の元就、兄の隆元、甥の輝元を助けて中国及び四国・九州の一部を平定した。1555年の厳島の戦いで毛利元就は [続きを読む]
  • 近衛信尹(このゑのぶただ)
  • 近衛信尹(このゑのぶただ)〔現代仮名遣い〕このえのぶただ※下線部は信長公記以外の記事によります。信基とも。前久の子。1577年7月信長の手配で元服式を行なう。    正五位下に叙せられる。1578年従三位。1579年11月誠仁親王の二条御新造への    移徙(わたまし)で近衛前久の    次に輿で参る。1580年従二位内大臣。1585年従一位・左大臣。1592年辞職。朝鮮の役が起きると豊臣秀吉に渡海を強いて希望したため後陽 [続きを読む]
  • 近衛前久(このゑさきひさ)[3/3]
  • 近衛前久(このゑさきひさ)[3/3]〔現代仮名遣い〕このえさきひさ※下線部は信長公記以外の記事によります。1581年1月安土での馬場入りに馬に乗り参加。1581年2月京都での馬揃えに、公家衆として    参加。1582年2月太政大臣となる。1582年5月信長は上国した徳川家康一行の    苦労をねぎらうため、安土城惣見寺    で舞と能を興行する。近衛前久・    信長・徳川家康・穴山信君・楠正虎・    長雲・宮内卿 [続きを読む]
  • 近衛前久(このゑさきひさ)[2/3]
  • 近衛前久(このゑさきひさ)[2/3]〔現代仮名遣い〕このえさきひさ1580年3月頃正親町天皇は近衛前久・勧修寺    晴豊・庭田重保を勅使として石山本願寺    へ送り、信長方との講和を命ずる。    信長方からは宮内卿法印・佐久間信盛    が目付けとして添えられた。本願寺顕如    光佐・北の方・家老衆が下問した所、    下間頼総・平井越後・矢木駿河・井上・    藤井藤左衛門らが評定を行い、勅定を [続きを読む]
  • 近衛前久(このゑさきひさ)[1/3]
  • 近衛前久(このゑさきひさ)[1/3]〔現代仮名遣い〕このえさきひさ※戦国期の主要人物で記事量多いので 三回に分けての投稿です。※下線部は信長公記以外の記事によります。稙家の子。1541年6歳で従三位。1542年正三位・権中納言。1545年従二位・権大納言。1547年正二位・内大臣。1553年右大臣。1554年関白・左大臣。1560年越後に下向し上杉謙信とともに関東へ進攻した事もある。1562年都へ戻り、1569年関白職を停止される。その後 [続きを読む]
  • 五の宮(ごのみや)
  • 五の宮(ごのみや)〔現代仮名遣い〕ごのみや※下線部は信長公記以外の記事によります。正親町天皇の子が誠仁親王で、誠仁親王の第五子が五の宮。後の興意法親王(聖護院門跡)。1576年10月誕生。1579年11月誠仁親王の二条ご新造への移徙に同行。移徙の直前に信長の猶子となることが認められている。 ※皇族を自分の猶子にするというのは  信長公ちょっとやりすぎですかね・・↓ランキングに参加中。 応援よろしくお願い [続きを読む]
  • 小虎若(ことらわか)
  • 小虎若(ことらわか)〔現代仮名遣い〕ことらわか不詳。信長の中間衆。1582年6月明智光秀が本能寺の信長を襲撃    すると、中間衆として厩で討ち死に。↓ランキングに参加中。 応援よろしくお願いします!にほんブログ村 [続きを読む]
  • 後藤光乗(ごとうみつのり)
  • 後藤光乗(ごとうみつのり)〔現代仮名遣い〕ごとうみつのり平四郎。装剣金工の家柄。足利将軍家・織田信長・豊臣秀吉に仕えた。初代祐乗→宗乗→乗真→光乗→徳乗と続く。1576年1月から始まった安土城建築で、    最上階七重目の金具製作を受け持つ。1581年9月信長は安土城造営にかかわった    諸職人頭(狩野永徳・息右京助、木村    次郎左衛門、木村源五、岡部又右衛門・    同息、遊左衛門・子息、竹尾源七、 [続きを読む]
  • 後藤高治(ごとうたかはる)
  • 後藤高治(ごとうたかはる)〔現代仮名遣い〕ごとうたかはる喜三郎。近江佐々木六角氏の将。のち信長の臣。1569年8〜10月の伊勢攻略戦に参戦。1570年9〜12月の叡山の浅井・朝倉攻めの    時、穴太の在所を守備。1573年7月義昭真木嶋攻めに参戦。1578年8月信長主催の安土の相撲に奉行と    して参加。1581年1月の馬場入りで、爆竹(さぎちゃう)    の準備をつとめる。1582年1月爆竹北方東一番を、土佐定久・多賀    [続きを読む]
  • 後藤源四郎(ごとうげんしらう)
  • 後藤源四郎(ごとうげんしらう)〔現代仮名遣い〕ごとうげんしろう徳乗か?徳乗ならば光乗の子息。1582年3月木曾義昌は信長の元へ出仕。申し    次ぎは菅屋長頼、奏上は滝川一益が    つとめる。木曾が馬二匹を進上すると、    信長から後藤源四郎の細工の入った    腰物と黄金二百枚及び信州の中の    二郡を下される。↓ランキングに参加中。 応援よろしくお願いします!にほんブログ村 [続きを読む]
  • 小寺孝高(こでらよしたか)
  • 小寺孝高(こでらよしたか)〔現代仮名遣い〕こでらよしたか※下線部は信長公記以外の記事によります。官兵衛・黒田官兵衛・黒田如水。小寺識隆(のりたか)の長嗣子。母は小寺政職の養女。利高と実の兄弟。利則・直之は異母兄弟。姫路生まれ。祖父重隆は播磨の守護赤松氏の一族小寺氏の養子となったため、はじめ小寺氏を称した。父識隆の代から織田信長の傘下に属して中国征伐の羽柴秀吉に協力。1577年11月羽柴秀吉の上月城攻めに [続きを読む]
  • 五条為名(ごでうためな)
  • 五条為名(ごでうためな)〔現代仮名遣い〕ごじょうためな五条大内記殿。菅原氏。1575年8月大内記。1579年11月誠仁親王の二条御新造への移徙    (わたまし)に同行。↓ランキングに参加中。 応援よろしくお願いします!にほんブログ村 [続きを読む]
  • 小作(こづくり)
  • 小作(こづくり)〔現代仮名遣い〕こづくり木造氏。伊勢国壱志郡木造荘出身。1574年7月信長父子の河内長嶋成敗の時、    織田信勝の武者大将として大船に    乗り参戦。↓ランキングに参加中。 応援よろしくお願いします!にほんブログ村 [続きを読む]
  • JR岐阜駅前の「黄金の信長公」の像は夕日を浴びて神々しく輝いていた!
  • 高速美濃方面の出張のためJR岐阜駅前までやってまいりました。(2月26日(日))駅前広場で夕日に神々しく輝く信長公の像を見上げると、力が漲って来る気がします!台座の家紋はもちろん五瓜木瓜(ごかもっこう)です。垂れ幕ポスターによれば2017年は“織田信長公岐阜入城・岐阜命名450年!”にあたるそうで、1年間に渡る「450(ヨンゴーマル)運動」の最中でした。一度プライベートで来てみたいな〜・・写真の“ちびのぶ”君もか [続きを読む]
  • 児玉就英(こだまなりひで)
  • 児玉就英(こだまなりひで)〔現代仮名遣い〕こだまなりひで ※下線部は信長公記以外の記事によります。大夫。毛利氏水軍の頭領。1570年10月尼子氏の水軍を出雲に破る。1576年7月大坂方へ兵粮を入れるため、    八百艘の連合水軍で進出。信長方を    破り兵粮を入れ、本国へ戻る。1577年3月雑賀党の救援に赴く。1578年2月淡路島岩屋城に入って守備に当たる。↓ランキングに参加中。 応援よろしくお願いします!に [続きを読む]