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『新川悠々亭日乗』 https://komata55.blog.ss-blog.jp/

新潟市西区内野町を流れる新川の畔に住む物書きが綴る、決して悠々とはいえない日常。

東京の下町・墨東(隅田川東岸)に住んでいたことから、永井荷風の「墨東綺譚」と「断腸亭日乗」にヒントを得て2003年に「墨東悠々亭日乗」というブログをスタート。2012年2月、母親のサポートのため新潟市西区内野町の実家に拠点を移す。家の傍らを「新川」が流れていることから、前ブログ名「墨東悠々亭日乗」にあやかって、「新川悠々亭日乗」と命名。東京と新潟を拠点に活動するフリージャーナリストが綴る第一次情報。

こまたしんご
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2008/10/10

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  • 五郎左衛門の法要

    (2022年の法要) 今年も7月1日、蓮久寺(新潟市西区高山)で伊藤五郎左衛門の法要(新川開発創業者の法要)が行われる。 ぼくが住んでいる新潟市西区内野町は、約200年前、新川の開さくによって誕生したまちだ。 その昔、日本列島がユーラシア大陸からちぎれて誕生した頃、新潟平野は海だった。その後、信濃川と阿賀野川が土砂を運び、堆積して越後平野が形づくられた。 だから、ここらは海抜が低い。雨が降れば水がたまる。長い間、お百姓たちは「悪水」に悩まされた。 江戸末期、長岡藩や幕府に悪水を海に捨てるための川の開さくを陳情したが、聞き入れられなかった。新しい川が、まちを流れる西川(信濃川の支流。長岡藩と新潟湊を結ぶ水のルート)の水をも巻き込んで海に流れると新潟湊の機能が損なわれると危惧したからだ。 仕方がない、俺たちで川を掘ることにしよう。 村人たちや庄屋をま..

  • さあ、日本ダービー

    競馬を知らない人、馬券を買わない人でも、「今年はどの馬が勝つのか」と盛り上がるのが「日本ダービー」である。 今夜あたり、そこここの飲み屋で、競馬を知らない女の子なんかに、得意満面になって競馬を語る若者やおじさんの姿が見られたのではないか。かくいう、私だって、50年以上もず~とそんなことを続けてきたのだ。ダービー前日。一年中で、「競馬がいちばん楽しく感じられる日」だ。 思い出は遠い草原に なみだは馬のたてがみに(寺山修司) いまは、WIN5で何百万円とか何千万円とか、競馬が宝くじかカジノになったように騒々しいが、昭和40年代は実にのんびりしたものだった。寺山修司がスポーツ新聞のコラムに「スシ屋の政」や「トルコの桃ちゃん」を登場させて洒脱な競馬談義をくり広げていたのが懐かしい。 寺山が「忘れがたかった馬」として上げている馬に、ミオソチス、カブトシロー、モンタサン、ホワイトフォン..

  • 老梅倒る

    老梅倒る 「おーい、梅の木が倒れているよ」 2022年12月の早朝、隣家の山田さんから声がかかった。あわてて裏に回ってみると、新川端の道路をふさぐように、3メートルほどの梅の木がドシンと横たわっていた。どうやって片づけたらいいのか、一人でできるのか。考えているうちに、近所に住む従弟や隣家の人たちがノコギリ片手にかけつけてくれた。胴体を切り、枝を落とし、あっけなく整理は終わった。 家の周りには梅が3本あった。今回倒れたのはその中でももっとも大粒の実をつける親分肌の梅だった。私たち3兄弟が進学で家を離れた後に両親が植えたもので、樹齢は50年ほどだろうか。その間、ずっと新川の流れと道行く人々を眺め続けてきたことになる。 智恵子の梅酒には遠く及ばず 実家に戻った12年前の3月、おびただしい梅の花が咲くのを見たとき頭をよぎったのは「しめた、しこたま梅酒が作れる」という思いだった。..

  • 青梅が6個

    今年も、梅の収穫時期になった。 わがぼろ家の庭には、梅の老木(樹齢40年?)が3本ある。 この時期は収穫が大変で、5年ほど前には写真の通り梅干しが400個(1年分)、ほかに大きな容器で梅酒がどかんと作れた。 今年は、わずか青梅が6個。 昨年もほとんど実らなかった(梅干し200個ほど)。 なぜなのか。 枝下ろしをきちんとやるなど、もっとかまってやる必要があるか。

  • 60年ぶり ライギョの味

    家の裏を流れる新川には、昔は多彩な魚たちが生息していた。 メダカ、フナ、コイ、ニゴイ、ヤマベ、川エビ、川ガニ、ナマズ,ウナギ・・・・。 極めつきはライギョ(雷魚)だった。 ずんどうの胴体に蛇のような風貌。誰もが、好きになれないだろう。 ましてや、食べてみようとは・・・・。 小学3年の夏休みの絵日記に、一夏に22匹のライギョを釣り上げた、と書いた。 もちろん、食べるために。 ライギョは、大きいものは10キロくらいになるので、小学3年生の腕力では太刀打ちできない。 物干し竿のような竹竿に、2mほどの太いたこ糸を結び、大きなライギョ用のハリをつける。 えさは、越後平野に無数にいるカエルである。 尻から背中へ突き刺し、川藻やガツボの中でピチャピチャカエルが泳いでいるように擬態音をたてると、どう猛なライギョが「どばっ」と食いつくという仕組みだ。 そのままでは重くて持..

  • ふたたび 五郎左衛門ありがとう

    このブログ「新川悠々亭日乗」宛てに、見知らぬ人から突然メールが来たのは2015年6月のことだった。差出人は誰かとチェックしてみると、なんと、伊藤五郎左衛門の末裔・伊藤重行さんとあるではないか。 「comachinさんへ。新川のそばに住んでいるのですか。私は伊藤五郎左衛門を先祖とする片割れで、大正期に北海道に渡り、その後九州などで仕事をして、今横浜に住んでいます。(中略)もし東京などにお出での時にはお会いしたいと思います・・・・・」 たまげた。こんなことが起こりうるのだろうか。 ぼくは2012年に内野の実家に戻ってから、このブログに「内野はすばらしい」と新川のことや伊藤五郎左衛門のことを書き続けていた。伊藤さんは「伊藤五郎左衛門」というキーワードで定期的にネットを検索しているうち、ぼくのブログにヒットしたのではないか。どんな人なのだろう。 伊藤さんとは2年後の7月..

  • 三好徹さん 逝く

    三好徹さんが亡くなった。 三好さんの処女作「風塵地帯」(日本推理作家協会賞)を読んだのは大学3年(昭和41年)の時だった。「追い詰める」(直木賞)の生島治郎とともに「日本にハードボイルド作家登場か?」と囁かれ始めた頃で、注目して読み始めた(「風塵地帯」のほか、「風は故郷に向かう」などの「風」シリーズ)。 昭和43年、「聖少女」で直木賞を受賞したのだが、「風塵地帯」は長編の冒険小説だったのに対し、「聖少女」は130枚ほどの短編だった。三好徹はこれからどんな方向に進むのかと感じさせる作品だった。 憧れ?の三好さんに逢ったのは昭和48年頃のことで、ぼくは週刊現代のライターをしていた。 三好さんは週刊現代に「日本の赤い星」(日本共産党人物史)を連載中で、新宿の飲み屋で担当デスクと一緒に飲む機会があった。三好さんが直木賞受賞の頃の話をしてくれた。 三好さんは読売新聞の記者で、あ..

  • 清徳寺の梅

    梅、ほころぶ。 一進一退だが、今年もわがまちに春が訪れてきたようだ。 清徳寺の梅がほころび始めた。 70年ほど前、ここには「お寺の保育所」があって、小学校に上がる前、数年間をここで過ごした。 この年まで生き延びるとは、思わなかった。 2年ぶりの更新。 これから何回、更新できるだろうか。

  • 1年間更新なしか・・・・

    1年以上、更新ができなかった。 仕事が多忙だったわけではない。 なんとなく。 時々、のぞきに来て、何か書こうと思ったのだが・・・・・。 長期間、書き込みがないと、広告ページがすさまじい勢いで掲示されることがわかった。 広告をとめる意味でも、これからは、書き込みをしないとな・・・・・。

  • 新川ゴミ清掃/うちの新川音楽祭

    先日、「うちの新川音楽祭」について書いた時に、内野中学校の生徒が参加して行われた「新川清掃」の写真を紹介した。 その時の様子が本日の新潟日報朝刊に掲載された。計良さん(日報記者)ありがとう。 新川は、200年前に伊藤五郎左衛門という庄屋の割元が私財をなげうって開さくした川。 この200年間、開さくから補修のために、延べ200万人もがかかわり、人が集まることによって内野のまちも形成された。 内野は、いわば、新川開さくによってつくられたまち。 そのことを、内野や新川の歴史を知らない大人や、ここで生まれ育った子どもたちに伝えるために、さまざまな活動をしている。 伊藤五郎左衛門は、なぜ私財をなげうち、一家離散になるまでして新川を掘ったのか。 そんなことを、芝居にしたり、歌をつくったり、音楽祭を開催したりして、まちの人々に伝えている。 今週末に行われる「うちの新川..

  • 新川に鮭の帰還

    鮭は生まれた川に戻ってくるという。 戻ってくるのは卵を産むためだが、なぜ生まれた川を憶えているかはよくわかっていない。 生まれた川を正確に見つけることができるのは、その川のにおいを思えているからだそうだ。 写真の、新川の川面に浮かぶ球体のブイには、鮭を捕る網が仕掛けられている。 ここで孵化した鮭の稚魚は新川を下り、日本海に出て北上し、北の海を回遊して、4年後、新川のにおいをたどり、再び戻ってきて、産卵すると死ぬ。 そうした営みが200年も続いている。 えらい。 なんとけなげではないか。 ぼくは、中国で生まれ、新川のほとりで育ち、18で東京に出て50年近く暮らし、5年前に故郷のまちに戻った。 5日前に72になった(今年は年男)。 72かよ、ったく!

  • 「うちの新川音楽祭」

    わが西区内野のまちは、約200年前に新川の開さくとともに生まれ、育ってきたまちである。 たかだか200年の歴史しかもたないまちなのだが、昔ながらの小路が残っており、川の流れも、蒲原平野を吹く風の色も、新川漁港に打ち寄せる波も、昔と変わっていない。 昭和40年代半ばに新潟大学が移転してきて、それとともに、山の手の地域から西内野に至る一帯に住宅団地が形成された。 だから、まちの住人の半分以上は、うちののまちの成り立ち、歴史を知らない人ばかりだ。 新川は、伊藤五郎左衛門ら先人たちが、私財を投じて開さくした川。 内野は新川開さくとともに生まれたまち。 そういうことをまちの人たち、子どもたちに伝え、子どもたちがここで生まれ、育ったことに誇りを持って生きられるようにしたい・・・・・。 そんな思いで、新川野外音楽祭が静田神社で10年ほど前に始まった。 ただ、駐車場や仮設ト..

  • 冷蔵庫要らず!

    わがぼろ家から徒歩2分のところに、スーパーが建つことになった。 いよいよ看板がつけられた。 「ウオロク」 新潟エリアにネットワークを持つチェーン店だ。 ここは、新川と西川とが交差する、江戸時代末期に「底樋(そこひ)」があったところ。 大正初期に木製の底樋が「コンクリート+レンガ製の暗こう」に代わった頃に埋め立てられた。 わが家は、そこに建っている。 「暗こう」は、昭和30年に現在の水路橋になった。 新川と蒲原平野の水を管理するために、農林省の事務所が建てられ、今上天皇が皇太子の頃、水路橋 見学に訪れた。 記念碑が建てられ、まわりの広場でチャンバラごっこをして遊んだ。 その後、農林省が撤去し、福祉関係の専門学校が建てられた。 その建物も今年の春に取り壊され、スーパーが建つことになったのだ。 (この6月、駐車場をつくるために掘削していた..

  • メタセコイヤの枝下ろし2017

    昨年のいまごろ、同じように「メタセコイヤの枝下ろし」のタイトルで書いてから、この1年間にブログの更新はわずかに3回。 本職の原稿書きが忙しかったわけではない。なんとなく・・・・。 ブログを書き続ける意味はあるのだろうか? 今年もメタセコイヤの枝下ろしが始まった。新川端は冬支度に入ることになる。 25年前に死んだ父のアルバムなどを眺めていたら、昭和20年代後期の写真が出てきた。 わがボロ家の裏の新川堤は、いまメタセコイヤの並木道になっているが、昔はソメイヨシノのトンネルとなっていた。 新川の中に「よーもちごや」(魚待ち小屋=四つ手網漁をする小屋)が見える。 コンクリートで護岸をして、メタセコイヤを植えるまでは、うなぎ、コイ、ナマズ、川ガニ、川エビ、フナ、ライギョ、ハゼなど多様な魚が生息していた。 あれから60年。いまは、そのほとんどが姿..

  • 角田山麓。福井・・・・蛍の里

    歳をとったせいなのか、恐ろしい勢いで時間が流れていく。 このあいだ梅が咲いたと思ったら、もう収穫の時期を迎えている。 ただ、昨年は大豊作だったが、今年はほとんど実をつけてくれなかった。 梅酒が一瓶できるかどうか・・・・梅干しはきっとだめだろうな。 6月22日に、角田山麓・福井に残る旧庄屋「佐藤家」に斉藤文夫さん(83)を訪ねた。 斉藤さんは福井に生まれ育った写真家・郷土史研究家で、いまは「佐藤家」の囲炉裏番(管理人)をなさっている。 5月に写真集「昭和の記憶 新潟 海の村 山の村」を出されたばかりだ。 福井地区は、旧北国街道が通っていた集落で、いまもその面影が残っている。 斉藤さんには、昨年の11月に、新潟日報夕刊の「おとなプラス」で北国街道の原稿を書いたときにお世話になった。 今回は、同じく「おとプラ」の原稿を書くために斉藤さんにお世話になったライター仲間で..

  • 新潟日報夕刊「おとなプラス」

    昨年の11月に、新潟日報の夕刊がリニューアルして、読み物をトップから2、3面に展開するタブロイド判になった。夕刊配達のセット地域でなくても、翌日の朝刊に折り込んで配達してもらえるようになった。 4年前に、夕刊紙のコラム「晴雨計」に書かせてもらった縁もあり、社外執筆陣の一員として参加させてもらうことになった。 この年になって、新潟へ来て、昔のように、好きなテーマで、新潟県内を歩けるとは・・・・。 ありがたいことである。 とりあえずのテーマは、大きく二つ。「街道」と「新潟にゆかりのある歌の舞台」である。 11月2日掲載の第一弾では、北国街道の角田山麓を訪ねた。 ぼくが住む内野町は、新川の開削とともに生まれた、たかだか200年くらいの歴史しか持たない町だが、弥彦山や角田山の山裾にあって、街道の拠点として栄えた稲島~福井~岩室あたりの町は古墳時代からの歴史がある。 松尾芭..

  • 母の誕生日

    きょう12月8日は、日米開戦の日。 ジョン・レノンが暗殺された日。 そして、母の誕生日。 大正7年生まれで、戦前、戦後を生き、この6月1日、97歳で他界した。 ぼくがこの世にあるのは、母のおかげ。 母をしのんで、また、今夜も呑む。 大正11年頃? 母が4歳の頃。

  • メタセコイヤの枝下ろし

    いまは、もう秋 トワエ・モアの歌ではないが、いつのまにか「いまはもう秋」。 「梅 満開」と書いて以来だから、半年以上さぼったことになる。 春から夏、いったい何をしていたのか? そういえば(という書き方は変かもしれないが)、6月1日に母が死んだ。 最後まで頭も、目も、口も達者で、最後は苦しまず、ひっそりと死んだ、97歳だった。 父は戦争に行っているが、そのことをほとんどを語らなかった。 満州で除隊になり、軍属として仕事をしているときに、母も中国へ渡ったようだ。 ぼくは、昭和20年の11月に湖北省大治軍石灰省の日鉄の宿舎で生まれたことになっている。 満州から湖北省まで南下していなければ、残留孤児の憂き目に遭っていたかもしれない。 当時のことをたずねても、父も母も、最後まで口をつぐんだままだった。 あれから71年。 母も気強く生き延びたが、ぼくも、..

  • 梅 満開!

    昨日、ウグイスの初啼きを聴いた。 東京では待望の桜が開花したという。 東京にいた頃は、二分咲きの頃に一度、五分咲き~七分咲きの頃に一度、満開の時に一度、さらに散り初めの時に・・・・と、両国橋から隅田川テラスに降りて、ぶらぶらと隅田川をさかのぼって浅草まで桜を見に行ったものだった。 花を見るというより アサヒビールのビアホールへ行ったり、神谷バーをのぞいたりのいわゆる「花より団子」なのである。 昨年も、満開の時期に浅草へ行って、ホッピー通りの行きつけの店で呑んでいるときに、TV番組の突撃取材を受けて、全国に顔をさらしてしまった。 桜といえば、わが新川悠々亭の裏の新川沿いには、昔はかなりの数のソメイヨシノが植えられていて、桜のトンネルを形作っていた。 町の内外から見物客が押し寄せてきた。 わが家にも、父の兄弟(おじ)たちが花見に来て、川に向いた窓から、ぞろ..

  • 梅、ほころぶ・・・・

    築70年になるわが新川悠々亭のボロ屋は、中越地震かなんかの影響で多少傾いており、障子や襖がきちんと閉まらない。 冬の厳寒期は、仕事部屋の気温が冷凍庫状態になることもある。 どんなに寒い日が続いても、必ず梅のつぼみがほころぶ春がやってくる。 一雨ごとに、春が深まっていく。 今朝(3月12日)は、3月にしてはめずらしく、静田の杜がうっすらと雪化粧した。 新川と旧広通り江にはさまれた杜のようなところに静田神社があり、内野小学校の校歌(昭和の初期、母が小学生の頃に作曲されたとか)の2番に歌われている。 流れて越の野をひたし さくら花咲く新川や 静田の祠神さびて 星降る秋のお筆山 全国的に冷え込んだようで、しかし、桜がきちんと咲くためには、この時期の冷え込みも必要なのだ。 待ちかねたわが家の梅の木も、つぼみがほころんできた。 もう少した..

  • 梅、いまだかたくな・・・・

    おもて日本の方では、梅が満開だという。 うら日本の新潟の具合はどうかと、内野町2番町の清徳寺に様子を見に行った。 ピンクに色づいているものの、まだ、かたくなだった。 あと10日ほど・・・・といったところか。 昨年の8月1日には、炎天の下、ここの境内で近くの盆踊りチームを招いて「大盆踊り大会」(公民館では「盆踊りサミット)を開いたのだった。 耳をすましても、太鼓や笛の音は聞こえてこなかった。 清徳寺は浄土真宗東本願寺派の寺で、1600年頃には内野の北国街道に近いところ(五十嵐)に来ていたらしい。 <清徳寺> http://www5b.biglobe.ne.jp/~ecoline/giyuuhi.htm 戦後は、どこの町でも見られたように、わが町ではこの寺が幼稚園(託児所)になっていた。 私も、昭和24~25年頃、3年ほど通わされた。 と、書い..

  • 春よ来い!

    きょう、新川の風に吹かれていたら、しばらく思い出すこともなかった「春よ来い」のメロディが突然、浮かんできた。 松任谷由実のうたではなく、相馬御風作詞のあのうたである。 春よ来い 早く来い 歩き始めたみいちゃんが 赤い鼻緒のじょじょはいて おんもに出たいと待っている ずうっと昔にうたったおぼえがある。 二番はどうだったかと思って調べてみたら 春よ来い 早く来い おうちの前の桃の木の 蕾(つぼみ)もみんなふくらんで はよ咲きたいと待っている なるほど。 雪国(越後)出身の相馬御風ならではの風景である。 みいちゃんは、雪に閉じこめられているのだろう。 今年は、新潟(市)は雪が少なかった(雪かきは1回)ので、さほど難儀ではなかった。 (昔から、「雪かき」にいちばんぴったりのことばは「難儀」ではないかと思っている) 家の周りに3本ある..

  • 夏の日の恋

    夏が逝く。 こんな時期にしっくりくるのが、「夏の日の恋」(パーシー・フェイス楽団)だった。 <ここで聴けます> https://www.youtube.com/watch?v=D6zqtKS23WY はじめて聴いたのは、中学2年(1959年)のときだった。 ポピュラー音楽に興味を持ちだした頃で、少し大人に近づいたような気分だった。 当時は、ポップスの中でも映画音楽が大きな地位を占めていて、その頃聴いた曲では「鉄道員」や「太陽がいっぱい」などが心に残っている。 「夏の日の恋」は「避暑地の出来事」のサウンドトラックだったし、この曲も、「太陽がいっぱい」も、毎年、この時期になるとラジオや、喫茶店のBGMなどからよく流れていたものだったが、この20年ほどはほとんど耳にすることがなかったような気がする。 台風が近づいて、新潟にも強い秋風が吹いている。 前回、「夏..

  • 梅雨、明ける

    夏、到来! 「関東甲信」まで梅雨明けとなっていたが、やっと、きょう、「越」も梅雨が明けた。 もっとも、今年の新潟はほとんど空梅雨状態で、雨が降らなかったが・・・・。 春先からなんとなく気候が不順で、キュウリもかぼちゃも実をつけず、なんか変だ(別の理由で、失敗しているのかもしれない)。 夏の高校野球新潟県大会もベスト8が決まり、新潟高校も5年ぶりに残った。 3年前に新潟へ帰ってから、毎夏、母校の戦いぶりを見に行っているのだが、これからは毎年のようにベスト4に顔を連ねる競合揃いで、次戦はきびしいだろう。 ぼくたちの頃は、ブラスバンドがなくて、JAZZをやっていたぼくたちが応援にかり出された。 「セントルイスブルース」や「聖者の行進」を演奏していたのだから、敵も驚いただろう。 甲子園で校歌を演奏することが、それ以来の長~いユメになったのだが、これからどれだけ生きられる..

  • マイナンバーに何が起こっているのか?

    仕事を楽しむためのWebマガジン B-plusのコラム「旬事快説」に時々、執筆させていただいている。 7月号では、導入目前の「マイナンバー制度」について書こうと編集者と相談。 調べて執筆の準備をしている最中に、日本年金機構の個人情報漏洩事件が起きた。 マイナンバー関連法案が国会で成立する直前のタイミング。導入への不安が広がっている。 実は、国民の「総背番号管理制」は、55年前の佐藤栄作首相の時代からの政府の悲願だった。 しかし、いまでいうIT環境やネットワークシステム、セキュリティなど、国民背番号制を進めるための環境が整っておらず、国民や野党の反対もあって実現しなかった。 2000年には、森首相の「IT革命(イットと発音してひんしゅくをかった)」を主軸とした「e-japan戦略」がスタート。ぼくが執筆しているもう一つのコラム「Pc-webzine」誌の「「地方自治体IT..

  • 梅・・・・たった1キロ

    今年は、何か変だ。 キュウリ、なす、トマト、ピーマン、シシトウ、つるむらさき、ゴーヤ、かぼちゃなども植えたのだが、実のつきが悪い。 昨年は、梅干しや梅酒を作っても仕込み切れないほどの収穫があった梅が、今年は1キロしか獲れなかった。 3本の梅の木のうち、2本にはほとんど実がつかなかった。 「年によって違うんだよ。当たり年というのがあって、今年は、うちもだめらしい」 ウォーキングで家の裏を通る顔見知りが言った。 昨年は、梅干し5キロ、梅酒10リットルを仕込んだが、今年は、梅酒1.8リットルだけ。 貴重な梅酒になりそうだ。 わが家の裏の道は、新川をめぐるウォーキングコースになっている。 メタセコイヤの枝も伸びてきた。夏が来る!

  • 内野はすばらしい!

    <いやはや、ほぼ半年ぶりの更新。季節は夏になっている> 新潟市西区内野へ戻って3年が過ぎた。 ほぼ50年ぶりに故郷で暮らしてみて、内野はつくづくいいところだと思う。 西に角田山と弥彦山があり、蒲原平野を風が吹き渡ってくる。 新川、西川、広通り川の3本の川が流れ、新川河口には漁港があり、海原の向こうには佐渡が横たわっている。新川元橋から眺める、佐渡に沈む夕日は日本一だ。 新川は、約200年前の江戸末期に、6万両と延べ200万人の作業員によって開削された人工の川である。 蒲原平野は潟や低湿地が多く、洪水防止や治水のために掘られたのだ。しかも、西川の下を掘って海に流す「底樋」という大プロジェクト。 その後も補助工事が続いたので多くの人が入り込み、料亭や酒蔵、漁師のまちとして大いににぎわった。 こんな小さなまちに料亭が7軒もあり、造り酒屋が4軒あったというのも新川のたまもの..

  • 柿食えば・・・・

    今年は柿の豊作のようで、あちこちから柿をいただく。 さわしたものもあれば、もぎたての渋いものも・・・・。 となりの石田さんちから、もぎたての柿を30個ほどいただいたので、10個ほどを干し柿に、残りをさわすことにした。 昔は、うちの庭にも大きな柿の木があって、東京に出て、学生~社会人~世帯をもってからも、この時期になると、母が、さわした柿を段ボールで送ってくれたものだった。 こんどさわした柿は、その頃の味と変わっていないように思える。 干し柿にしたものは、軒先で角田山からの風に吹かれて揺れているうちに、干した当初の3分の1以下に縮んでしまった。 母は、来月の12月8日に97歳になる。 昔の人にしたら、かなり体格がよかったと思うのだが、干し柿と同じように3分の1ほどに縮んでしまっている。 柿食えば・・・・はて、何と言えばいいのだろうか・・・・。 ..

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