倖成卓志 さん プロフィール

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倖成卓志さん: 風の伝えるままに
ハンドル名倖成卓志 さん
ブログタイトル風の伝えるままに
ブログURLhttp://ameblo.jp/ktka1972/
サイト紹介文読んだ本、見たニュースなどを、いろんなものにたとえながら。あるいは雑学ネタなど想うがままに。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供23回 / 328日(平均0.5回/週) - 参加 2009/02/08 08:47

倖成卓志 さんのブログ記事

  • 過去の記事 …
  • 『史記』の世界 − 夏王朝
  •  中原のことを中夏、中国のことを華夏あるいは諸夏と表現することがありますが、これは夏王朝を意識したものです。 夏といえば季節のひとつである夏季(陰暦では四月から六月、陽暦では六月から八月)を指す言葉ですが、徐中舒の『漢語大字典』では第一義に「大」、第二義に「大屋」とし、別字音・異義の第一義を夏季を意味する「なつ」としています。日本の国語辞典や漢和辞典でも、夏季の「なつ」を第一義としながらも、別字 [続きを読む]
  • 『史記』の世界 − 禹
  •  夏王朝は、中国初の世襲王朝とされています。 開祖は禹(う)。姓は姒(じ)で、名は文命。禹は死語に贈られた諡号です。 禹の父は鯀(こん)。『史記』では、鯀は顓頊の子となっています。 しかし、『漢書』「律暦志」では、鯀を顓頊の五世の子孫としています。司馬貞の『史記索隠』では、鯀は堯に仕えており、舜が顓頊の六世の子孫であることから、鯀は顓頊の子とは言えないとしています。それらに従えば、禹は顓頊の六 [続きを読む]
  • 堯舜の実在性
  •  堯や舜は本当に聖天子だったのか。 そのように異議を唱える偽古派の意見は多く残されています。  唐代の劉知幾(りゅう・ちき。あざなは子玄)は『史通』でそれまでの歴史書を徹底研究し、批評を加えていった人物です。 彼は「擬古篇」において、『汲冢瑣語』を引くとして「昔、堯の徳が衰え、そのために舜に囚われれることとなった、とある」とし、『汲冢書』の中に「舜は堯を平陽に放逐した、とある」とも書いていま [続きを読む]
  • 『史記』の世界 − 舜
  •  虞舜は名を重華という。父は瞽叟(こそう)といい、瞽叟の父は橋牛(きょうぎゅう)といい、橋牛の父は句望(こうぼう)といい、句望の父は敬康(けいこう)といい、敬康の父は窮蝉(きゅうせん)といい、窮蝉の父は帝顓頊(せんぎょく)といい、顓頊の父は昌意(しょうい)という。 舜に至るまで七世、窮蝉から舜までの威讎は、みな庶民であった。 舜の父は瞽叟で、目が見えず、舜の母が死んでから後妻を迎えて象(しょう) [続きを読む]
  • 『史記』の世界 − 堯
  •  五帝の三人目は帝堯(ぎょう)です。名は放勲(ほうくん)。帝嚳の子で、嚳が崩じた後に摯が帝となるも不善であったとし、摯が報じた後に放勲が帝となります。 「その仁は天の如く、その知は神の如く、これに就くこと日の如く、これを望むこと雲の如し」とあります。また、「富裕でも驕らず、高貴でも舒(あなど)らず。黄色の被り物に純衣、彤車と白馬に乗る」というのは、謙虚で質素であることを意味しています。純衣という [続きを読む]
  • 鸞鳳の道標
  •  遥か遠く、長い距離を現わす言葉のひとつに、「萬里」があります。 日本では萬里長城(万里の長城)が有名ですが、詩にも時折用いられています。 唐の白居易(はく・きょい。あざなは楽天)が、元稹(げん・しん。あざなは微之)を想って詠んだ詩はたくさん残されています。元稹は白居易が試判抜萃科に主席合格したときに、第五席で合格した人物で、ともに秘書省の校書郎に就き、一生の親友となった人物です。七言律詩の『八 [続きを読む]
  • 加上
  •  日本の江戸時代中期、大阪に懐徳堂と呼ばれる施設がありました。 これは大阪の商人たちによって建てられた学問所で、徳川第八代将軍・徳川吉宗から官許を得たものの、実際の運営はすべて町人の出資によるものであったため、「町人の学校」と称されることとなります。 明治二年に閉校となるも、大正五年に重建懐徳堂として復活。空襲やその後の混乱などによって再び閉校となるも、大阪大学が新設されることになると大学との間 [続きを読む]
  • 『史記』の世界 − 帝顓頊、帝嚳
  •  帝顓頊(せんぎょく)、高陽は、黄帝の孫で昌意の子である。 物静かであるが深淵で深謀もあり、物事に疎通していて、あらゆる事柄を知っている。人材を養って各地に派遣し、時節にはすべきことを行い、天を象り、鬼神を敬って義を制御し、気を治めて教化を行い、廉潔で誠実な心で祭祀を行う。 北は幽陵、南は交阯、西は流沙、東は蟠木にまで(その徳は)至る。 動静の物、大小の神、日月の照らす所で、所属しないものはない [続きを読む]
  • 『史記』の世界 − 黄帝
  •  『史記』で描かれている黄帝の像を、ざっくり紹介しましょう。  黄帝は少典の子で、姓は公孫、名は軒轅。 生まれついて神霊(から授かった優れた才能や徳などがあり)、赤子の頃から言葉をよくし、幼いうちから徇齊(才能が整っており)、長じて敦敏(情に厚くて鋭敏)、成人して聡明になった。 炎帝(神農)の世が乱れてきたので諸侯が争うようになった。 軒轅も武器を取って服従しない諸侯を征伐したところ、諸侯は [続きを読む]
  • 『史記』の世界 − 文明の始まりと、三皇
  •  中国の文明は黄河から始まったとされています。いわゆる黄河文明です。 人が生きていくためには、水と食料と空気とが必要です。世界四大文明がいずれも大きな川の周辺、平野部で起こったのは当然のことです。川の氾濫によってかえって土壌の栄養分が豊富になり、食物がより多く育つ環境を形成していくような場所に人が多く集まり、やがて発展を遂げ、文明を築き上げていくという流れはどこでもほぼ同じです。 中国では黄河流 [続きを読む]
  • 紀伝体の形態と周の封建制
  •  『史記』全百三十篇は、十二本紀、十表、八書、三十世家、七十列伝から成り立っています。 「本紀」とは帝王の事績について著したものです。 「表」は年表のこと。 「書」は各分野の歴史書。 「世家(せいか)」は諸侯の事績について著したもの。 「列伝」は帝王でも諸侯でもない、家臣や一般人の事績について著したものです。  歴史書の書式は主にふたつに分かれます。 時系列順に書かれたものは、「編年体」と呼 [続きを読む]
  • 史記の未来像
  •  『史記』は司馬遷が著してから約二千年、まったく変化がないかといえば、そうではありません。 内容そのものは変わらないのですが、内容についての注釈が行われています。 当然の話ですが、漢の時代からは唐の時代でも七百年、清の時代には千七百年以上も経っています。現在では二千年を超えています。すでに死語となった言葉や表現もあれば、すでに失われた風習もあり、理解できない部分が当然出てくるので、その解説が必要 [続きを読む]
  • 『史記』の前夜:司馬遷の声
  •  『史記』の読み方は人それぞれです。世に出てから二千年以上もの年月が経ち、人それぞれに解釈されていきました。 歴史書として不十分であるという意見もあれば、歴史の始点から描き始めた初の歴史書であるという快挙を称える声もあり、小説のような脚色があるという批判もあれば、信憑性の不確かな情報が多いという批難もあります。司馬遷の選り好みもあり、丁寧に美しく書かれた巻もあれば、情報に乏しく読み応えの感じられ [続きを読む]
  • 『史記』の前夜:司馬遷の目
  •  『史記』「斉太公世家」では、太公望とその後継者たちを紹介した後、「泰山から瑯邪へ行った」とし「民衆は闊達で、知恵を多いに秘めている。これは天性であろう」と。そして、「洋々として、大国の気風がある」などと述べています。 また、張良について書かれた「留侯世家」において、「私はその人はきっといかつい大男であろうと思っていたのだが、人物画を見たところ、まるで婦女のような容貌であった」と述べています。あ [続きを読む]
  • 『史記』の前夜:司馬遷
  •  司馬遷(しば・せん)はあざなを子長といい、左馮翊夏陽県龍門の人です。 生年は二つの説があります。 漢の景帝の治世、紀元前一四五年。あるいは武帝の治世、建元六(紀元前一三五)年とされています。 十歳の時には古文を諳んじることが出来たといい、二十歳の頃には長安に移り住んでいるようです。この頃の履歴はあまりはっきりとはしておらず、自伝である『太史令自序』を元に多くの学者が詳細を模索していますが、生年 [続きを読む]
  • 『史記』の前夜:漢の武帝 〜衰退篇
  •  元封元(紀元前一一〇)年、漢の武帝は封禅の儀を行うことで、天下の支配者であることが明確となりました。 しかし、彼の衰運はまさにここから始まるのです。 封禅の前年には南越へ、翌々年には朝鮮へ出兵し、ともに成功を収めています。 南越は秦の末期に趙佗(ちょう・た)が自立し、漢帝国創建以来、臣従しながらも一度も入朝しないという、半独立国でした。衛氏朝鮮は紀元前二世紀初頭に中国人からの亡命者と地元民との [続きを読む]
  • 『史記』の前夜:漢の武帝 〜興隆篇
  •  『史記』の成立において、漢の武帝は避けて通ることのできない存在です。 著者の司馬遷(しば・せん。字は子長)が『史記』に込めた思いの中に、武帝への憤りがひしひしと感じられるのは私だけではありません。多くの先人たちが指摘しています。 さて、漢(西漢・前漢)の武帝は第七代皇帝で、名は徹。 景帝の十番目の男子で、本来なら皇帝継承権こそあれど、皇帝に就任するなどほぼ不可能な位置にいました。 景帝には当初 [続きを読む]
  • 愛情は理性を超えて
  •  かつては、猫が嫌いでした。 鋭い目つき。他者を拒絶するかのような唸り声に、ヒステリックにすら聞こえる鳴き声。爪を立てて研ぐ仕草。近づこうとすると却って身を翻す警戒心の高さと、それとは裏腹に興味ありげにこちらを伺う視線。走るのは怖気。 それに比べて、犬のなんと賢いこと。 敵対する者には吠え掛かるが、それは主人への忠誠心によるもの。顔見知りになれば、むしろ尻尾を振って近づいてくる愛嬌の良さ。番犬と [続きを読む]
  • いろはにほへと
  •  いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑひもせす 色はにほへど 散りぬるを 我が世たれぞ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず いろは四十七文字をすべて一度ずつ使い、重複させることなく、七五調の歌に仕上げたものです。 四十七文字を書き、覚えるうえで役立つため、初等教育での手本としても使われています。 成立については [続きを読む]
  • 武帝と武帝の心意気
  • ≪本文≫秋風起兮白雲飛草木黄落兮雁南歸蘭有秀兮菊有芳懷佳人兮不能忘泛樓船兮濟汾河?中流兮揚素波簫鼓鳴兮發棹歌歡樂極兮哀情多少壯幾時兮奈老何≪読み下し文≫秋風起りて 白雲飛び草木黄落して 雁南に帰る蘭に秀有り 菊に芳有り佳人を懐うて 忘るる能はず楼船を浮べて 汾河を濟り中流に横たはりて 素波を揚ぐ簫鼓鳴りて 棹歌を発す歓楽極りて 哀情多し少壮幾時ぞ 老いを奈何せん≪大意≫秋風が起こって、白雲は飛び [続きを読む]
  • 鹿を追う者は山を見ず
  •  仕事や学業などをしていて、その成果が現れないというのはよくあることです。 それが単に努力が足りないというのであれば、より切磋琢磨するか、あるいは手順などのやり方を模索するのも一策ですが、そもそも、成果に繋がらない無駄な行動を繰り返している可能性もあるわけです。 『韓非子』「外儲説左」にこんな話があります。  韓宣子は言った。「私の馬は餌をたくさんあげているはずなのに、どうしてこんなに痩せて [続きを読む]
  • 陽の地、陰の地、すべての地
  •  日本の中国地方は、山陽地方と山陰地方に分かれています。 昨今、山陰地方の「陰」という文字が暗い印象を抱かせるということで、一部では改称を要請する運動も起きているようです。 瀬戸内海側を山陽と呼び、日本海側を山陰と呼ぶ理由は中国での呼び方に由来しています。 たとえば、中国の王朝でも多く首都となった「洛陽」は、洛水という川の北に位置します。 前漢を起こしたのは劉邦ですが、それを軍事面で支えた韓信( [続きを読む]
  • 未来を照らす光輝
  •   日産コンツェルンを創り上げた鮎川義介(あゆかわ・よしすけ)の元へ、評論家の伊藤肇(いとう・はじめ)は何度も訪れたらしい。伊藤は後に中国古典に心酔し、陽明学者の安岡正篤(やすおか・まさひろ)に師事し、政財界の人物と中国古典とに関わる人物学の著書を表すことになるのですが、そのきっかけとなったと思われる話が『十八史略の人物学』(PHP文庫)にあります。 「君は人間学だの人物論だのとやかまし [続きを読む]
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