エノカマ さん プロフィール

  •  
エノカマさん: エノカマの旅の途中
ハンドル名エノカマ さん
ブログタイトルエノカマの旅の途中
ブログURLhttp://enokama.exblog.jp
サイト紹介文旅と歴史と競馬についてお話します
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供55回 / 365日(平均1.1回/週) - 参加 2009/04/21 00:33

エノカマ さんのブログ記事

  • 宇和島候・伊達宗城の番組
  • Eテレの「知恵泉」と言う番組で宇和島の伊達宗城のことをやっていた。知ってそうで実は知らなかったことも多かったのでまとめてみます。この方も旗本の出で幕末の賢候に多い養子なんですね。高野長英や渡辺崋山の影響もこのころからで、海外情勢や科学技術への関心も元来からあったようです。宇和島にはロシアやイタリア史、化学技術、航海術軍事と言った専門書が多数残されています。 [続きを読む]
  • 筑前赤間宿と五卿の滞在
  • 小倉・常盤橋を起点とする長崎街道は直線的なルートで内陸の筑豊を経由して鳥栖から佐賀へと至る。現在の鹿児島本線沿いから博多を経て、唐津まで海側を通るのが唐津街道である。黒崎宿に三泊した五卿は一月十八日に長崎街道を木屋瀬宿まで進み、ここから渡し船で遠賀川を越えて赤間宿に入った。ここでは赤間宿本陣(御茶屋)に入ることとなる。赤間宿は木屋瀬宿への分岐点であり、バックに筑豊の産炭地や玄界灘に... [続きを読む]
  • 五卿ゆかりの筑前黒崎宿と曲里の並木
  • 小倉から八幡西区の宿場町だった黒崎に移動します。実は最近まで知らなかったことだけど、イメージ的に遠賀川だったり北九州市で分かれてそうな「豊前」と「筑前」の境界ってのは、今の小倉と戸畑の間であり、同じ北九州市でもカテゴリ(福岡藩へ)変更いたします。福岡藩の上方への玄関口としての湊町でもありました。元治元年の長州征伐での「征長軍解兵」条件の一つは、いわゆる「五卿」の第三国への動座であ... [続きを読む]
  • 広寿山福聚寺〜小倉藩・小笠原家の菩提寺
  • 少し前ですが小倉に行った時のレポを書きたいと思います。まずは小笠原家の菩提寺である福聚寺(ふくじゅじ)へ、交通は小倉駅から西鉄バスに乗った郊外となります。慶応二年(1866)の長州藩との戦い(小倉戦争)で諸堂の大半を焼失するが、中央に見える一番大きな仏殿(本堂・1822年再建)・不二門・鐘楼等が残されている。仏殿の右背後にある祠堂(歴代藩主らの位牌を安置)の裏を流れる小川の周辺には歴代藩主... [続きを読む]
  • 小倉山二尊院
  • 少し前の画像ですが嵐山の二尊院に行ってきました。近くにある土佐四天王像二尊院二尊院は元来から御所の仏事を司っていたこともあって、公家との交流が盛んで、今でも二条家、鷹司家、三条家、三条西家、四条家と言った菩提寺になっておりパンフレットにも紹介されております(案内図の精度はちょっと低いですが)。以下はお墓(幕末の公家が多い)の写真になりますので隠します。。。 [続きを読む]
  • 小枝橋〜鳥羽伏見の戦い開戦地
  • 羅城門バス停から18系統のバスに乗ると旧鳥羽街道の昔ながらの狭い道を行きます。所々狭い場所は一方通行になっていて旧家も多いところであります。バス停は名神高速の下をくぐる手前で、小枝橋自体はだいぶ先になります。西詰からだいぶ京都の西側のイメージですが実は鴨川を渡る橋。九条のあたりから大きく方向を変えて、この先で桂川と合流します。 [続きを読む]
  • 四ッ塚関門と都城六勇士碑
  • 千本九条のあたりは「四ッ塚」と呼ばれ、今も地名が残っている。その昔、狐塚・杉塚・経田塚・琵琶塚の四つの塚があったことから由来する。この古来から羅城門の位置したように「洛中への入口」となっていた要衝に「王政復古政変」後に徳川慶喜ら旧幕府側陣営が大坂へと移り、京都は薩長土芸と言った諸藩が警衛していた中で薩摩軍は東寺に伊地知正治を隊長とする陣営を置き、この四ッ塚に関門を置いていた。千... [続きを読む]
  • 六孫王神社と西寺址
  • 東寺の西側を少し回ってきました。JR京都駅から徒歩20分ほどで、バスなら京都駅八条口から16番もしくは環状系統202・208です。地図を見ていたらJRに西大路駅から歩くのもいいかもしれません。六孫王神社前で降りました。いい感じの神社です [続きを読む]
  • 関西から庄内への夜行バスができた
  • 関西から庄内への交通は特急「日本海」(→こちら)・急行「きたぐに」(→こちらとこちら)と相次いで廃止となって、大阪からの航空便も昼発・昼着のみで久しく直行便の設定もなく(羽田乗換)滞在時間の効率も悪く、しかも競合機関がないので料金も馬鹿高で「簡単に行けない」と言う事態となっていました。反面で持て囃される新幹線もね、まだまだ人口が増える時代ならともかく、それも見込めない中で開業当初は「開業... [続きを読む]
  • 小伝馬町から円通寺
  • 2014年に南千住付近を巡ったのですが、まだ記事にしておりませんでした。橋本左内も吉田松陰も刑死した後に小塚原回向院に葬られて、井伊直弼横死後にそれぞれ改葬されております。この時は小伝馬町で合流して案内をしていただきました。以前訪れた時はなかったんですが、発掘調査が行われて牢屋敷の遺構が見られるようになっていました。水道管や井戸、牢屋敷の石垣等が発掘された [続きを読む]
  • 福井訪問2017〜足羽山周辺の史跡
  • 今回の霊山歴史館のツアーでは福井郷土歴史博物館と養浩館庭園を角鹿館長と学芸員さんに案内していただけました。何度も行っている場所ですが、やっぱり説明していただけると違うものです。続いて、前乗りで散策した以前行ったことのない場所を紹介します。幕末の福井藩に橋本左内や村田氏寿より、少し前の世代の人物に鈴木主税(ちから・1814〜1856 安政三年・43歳没)と言う偉人がいる。寺社奉行から藩... [続きを読む]
  • 福井訪問2017〜移された銅像と石碑
  • 霊山歴史館の春の恒例のツアーが今年は福井だったので行ってきました。例のごとく、先乗りの現地合流で個人的に鯖江にも足を運びました。何回かに分けて書いていきます!(一番の目的だった丹厳洞と瑞源寺はこちらに追記してます)少し福井に行くのも久しぶりなので前回とまた違ったところもありました。ここでも書いた由利公正関連ですが、幸橋南詰西側の生家跡の道路を挟んだ反対東側がちょっとした広場にな... [続きを読む]
  • 戸田で建造された洋式帆船ヘダ号
  • 造船の場所は牛ヶ洞(地図・紫印)となった。廻船業で栄えていた戸田には多くの船大工がいたことも、この地が選ばれた理由であった。もちろん洋式の船は初めてで戸惑う面も多かったそうだが、ロシア人もその仕事ぶりを高く評価し異例とも思えるスピードの二か月半ほどで全長24.6m、100トン弱の洋式帆船が完成し、安政二年(1855)三月に進水式が行われた。プチャーチンは建造に携わった人々に感謝して... [続きを読む]
  • 戸田村へ向かう峠から港へ
  • 少し資料を読み込んでいたので更新が開きましたが、伊豆のレポを続けます。韮山(地図の青印)から戸田(へだ・赤印)へは一旦、修善寺に出てから行くもんだ(路線バスなら修善寺経由)と思ってましたがナビだと江間と言ういちご狩りの盛んな地域から、狩野川放水路沿いに西に出て海岸を通るルートが示されます。しばらく海岸線を通って、内陸に入り真城峠(さなぎとうげ)と言う峠を越えます(オレンジ印)この... [続きを読む]
  • 韮山反射炉と世界遺産(明治日本の産業革命遺産)
  • 欧州での産業革命は高炉が発達し、鉄の大量生産が始まったことも大きい。技術の進歩で製造コストが安く、従来の青銅製の大砲と比べて強度も遜色がなくなり、大型化も可能な鉄製の大砲が広まっていった。その鉄製大砲を鋳造し、生産する目的で日本でも製鉄の近代化を図って高炉が各地に建設され、炉内で発生させた熱をその天井で反射させ高温を実現し、鉄の熔解を可能とするその方式から「反射炉」と呼ばれた。嘉永三... [続きを読む]
  • 韮山〜江川家菩提寺・本立寺
  • 江川家住宅の東に1506年、江川家によって建立された日蓮宗・本立寺(ほんりゅうじ)がある。この現在では金谷と呼ばれる集落には、清和源氏の流れを汲む江川家(当時は宇野氏と称す)六代親治が京都での戦乱を避けて、孫の親信が十三人の従者とともにこの地に移り住んだのが韮山における江川家の始まりで(のちに狩野川の支流である江川から姓を改めた)その十三人の子孫が今もお住まいだそうである。 [続きを読む]
  • 韮山〜江川家住宅
  • 伊豆地域の実力者であった江川家は戦国武将・北条早雲の伊豆進出の際に二十三代英住が臣下となって、屋敷の背後にある平山を提供し(韮山城築城)領地を安堵され以後、五代にわたって北条氏の家臣となった。豊臣秀吉の小田原征伐の際には韮山に籠城する二十七代英吉と徳川家康に仕えた二十八代英長が対立する形となったが、英長がうまく和議を進めて父子ともに徳川家に仕えることとなり、徳川幕府の成立に伴い伊豆が幕府の天... [続きを読む]