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幕末気象台 https://blog.goo.ne.jp/11111fumitomo

おりにふれて、幕末の日々の天気やエピソードを紹介します。

日本史好きの気象予報士です、天気予報の技術革新について行けず、各種の日記から幕末の天気を調べています。よろしく

いろは丸
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住所
栗原市
出身
宮城県
ブログ村参加

2009/07/13

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  • 戊辰戦争の難民

    戦争は常に弱い人々にとって酷い事ばかりです。戊辰戦争でも、やはり、巻き添えになり難民化した村上藩の婦女子がおりました。山形境から会津に転戦したしました官軍側の日記「軍事日記」に、このような記事がありました。曰く解読しますと、以下のようでしょうか。一、昼少前方、村上之婦女子老若三四拾人つれニ而、山野ニ打伏、昨十五日夜取〆所え来リ、夕飯をもらひ度段頼入、右ニ付無拠一宿を施、夕朝飯振舞、朝出立ニ而舟渡駅え来りつるか、雨ニ濡みの笠もなく俵のはしはぢをもちひ頭にかむり物、あわれなる有様也、右之躰を見て舟渡屋久右衛門、女子共ニ笠三拾かい餘施し、其外銘々ニ栗ゆて汁迄遣候。誠ニ稀也もの也。何程火急ニ逃出候也、衣類も差当の侭ニてたくわひも無之様子也とあります。要約しますと、慶応四年八月十五日の夜、山野に隠れていた村上藩の婦...戊辰戦争の難民

  • 佐賀藩羽州遠征隊の着帆地点 姉川伊貞陣中日誌

    佐賀藩士姉川伊貞の戊辰戦争従軍日記を読んで、こんなものなのでしょうかと思ったことがありましたので、紹介致します。姉川伊貞と鍋島藩兵は、慶応四年八月十一日、鍋島藩船甲子丸とイギリス船に乗り込み、羽州を目指して久原村から出発しました。八月二十一日新潟県北部の島に粟島に到着しました。着帆ニ而、水少々相談相成候得共、昨今之戦争ニ而其儀難叶とありまして、粟嶋で水を貰うため交渉したところ、戦争中なので断られたとあります。また、夕方七時頃、山形県飛島に着船水を貰おうとしたところ、紋付之籏差上、大鉋打掛る様子ニ御座候得ハ、早速出帆紋付之籏を上げ、大砲を打ちかける様子でしたので、すぐさま出帆したとあります。この後、秋田領分の男鹿嶋に着帆して上陸しますが、右トは違、大悦ニ而秋田より役人罷出とあります、官軍に属する秋田藩の行為...佐賀藩羽州遠征隊の着帆地点姉川伊貞陣中日誌

  • 岩倉具視の和歌 夏獣

    この頃、日記を書いた人の和歌を楽しんでいます。和歌にはそれぞれの人柄が出ているような気がします。先ずは、嵯峨実愛卿の短冊です。船中雪と題しまして拂うさえかえす袂と見ゆるかなあさ妻ふねの雪のゆうぐれ続きまして東久世通禧卿の和歌です。七種はのこりすくなになりにけり心してふけ野辺の秋風秋の七草の歌でもございましょうか、二首ともにみやびておりますなあ。続きまして、岩倉具視卿の和歌ですが夏獣と題しましててる月に母きてうとやひくらむをなおむらあけて蓑きる子勝と、社会性の強い根性ものになっております。母を幕府軍、子を薩長軍、蓑を錦旗と読むのは穿ちすぎでしょうか。いずれ、前の二卿の和歌とは全く異なっているようです。ところで、その短冊本物かい?。と言われますと、そのようなものと思ってお楽しみください。としか言えないところが...岩倉具視の和歌夏獣

  • 弘化三年六月十七日(西暦1846年8月7日) 大阪、嶋の赤とんぼう群集して北へ

    この度は、大坂の八軒家絵巻様より頂きました、お題「弘化三年六月十七日(西暦1846年8月7日)大阪、嶋の赤とんぼう群集して北へ」の時の天気について考えたいと思います。八軒家絵巻様によりますと、「弘化三年(1846)に大坂中之島の上空を赤とんぼうの大群が北の山をめざして飛んで行ったとゆう怪異現象を調べて」いるとのことですが、以前、御教示いただきました、竹垣直道の日記に「半晴小雨今朝立秋」とあります。半晴と言うのが曲者で、全く定義がありません。竹垣日記と大阪とその周辺の天気を突き合わせてみますと、おそらく、晴れたり曇ったりなのではないかと思われます。全国的な天気概況を申し上げますと、六月十五日は、関東を除き晴で、翌十六日は全国的に不安定な天気となり雷や夕立があったところが多かったようです。(本来ですと、天気図...弘化三年六月十七日(西暦1846年8月7日)大阪、嶋の赤とんぼう群集して北へ

  • 強盗団【頭突(ずずき)連中

    強盗団【頭突(ずずき)連中】近頃、恐ろしい強盗が流行っています。文字通り無法で、暴力で目的を達成しようとする輩です。幕末にも多くの犯罪がありますが、かなり悪質な集団もあり、【浮世の有様】【大坂】の天保九年二月三十日の記事に、近来盗賊、巾着切の類大に勢ひ振るひ、住吉街道、天王寺辺は申に及ばず、市中にても往来の者共白昼にはぎ取りぬる事、傍に人なきが如く甚しき事也と云、北野、曽根崎の辺には頭突連中と唱へ、大勢の党を結び、頭を以て人に突掛り喧嘩なして、大に人をゆすり打擲せし上金銀を奪取、此連中には角力取なと打交り、甚しかりしかとも、追々に此悪徒共は召捕へられしと云【浮世の有様】【大坂】とあります。天保九年はまだ天保大飢饉の影響がさめやらぬことであり、公権力のゆるみもあったのでしょうか、白昼の追剥も多く出現したこと...強盗団【頭突(ずずき)連中

  • 週休二日 下総国貝塚村 與治右衛門の休日

    先日、下総国貝塚村與治右衛門の年中日記帳を読みました。この日記は、貝塚村(千葉県匝瑳市)に住む御百姓、與治右衛門の日々の生活と世状が記されています。この日記は安政五年の一年分の日記ですが、珍しいことに月毎の労働日と休日が書かれています。以下紹介しますと、一月〆十二日休十七日働二月〆十日休二十日働キ三月〆九日半不働休十九日半働申候四月〆十日休十九日働キ五月〆六日半休二十三日半働六月〆二十日働キ九日休ス七月〆二十日半働八日半休八月〆五日風待二十五日働九月〆十日不働二十日働十月〆四日休二十五日働十一月〆八日休二十二日働十二月〆七日休二十三日働凡三百五拾四日之内年中〆九十九日休弐百五十五日働とありまして、農繁期の休みは少ないことが分かりますが、年間で354日のうち255日働き99日休みと書かれています。割合にしま...週休二日下総国貝塚村與治右衛門の休日

  • 唐丸のこと

    ご無沙汰しております。ようやく涼しくなってまいりました。相変わらず、夜な夜な夜な各地の日記を解読して楽しんでおります。先日、仙台藩重臣の茂庭周防の家来の日記「日穆清掌中録」を読んでいまして、元治二年三月二十三日(西暦1865年4月18日)の記事の中に「峯松手かへ之唐丸、猫ニ被取、半死半生ニナル」とありました。さて、手飼の唐丸とは、何かペットのようなものだと思いましたが、気になりました。翌々日の三月二十五日の記事には、次のようにありました。「峯松手飼之唐丸養生不叶暮ニ隕ル」猫に襲われた唐丸は養生の甲斐もなく暮に死んでしまいました。唐丸とは一体何なのでしょうか。次の日の二十六日「峯松手飼之鶏、山ノ中段へ寅治両人ニ而埋」とありまして、唐丸は鶏だと分かりました。そうとう大事にされていたようです。唐丸とは鶏の個別の...唐丸のこと

  • 石楠花

    この頃、またお天気史料が集まり、データベースに入力しており、さっぱり、記事を投稿していません。庭の石楠花がとても美しく咲いています。花の写真をアップします。「天のみやげに何もたそう、奥州仙台石楠花の花」と言う民謡があったような。石楠花

  • 吉原放火 遊女の意図 嘉永二年八月五日(西暦1849年9月21日)

    先日、晩酌をしながらテレビをみていますと、「歴史探偵」と言う番組で、遊女による吉原の放火事件を放送していました。放火には、必ず意図があり、その意図により放火日の天候を選ぶのが通常です。「吉原遊郭」は大変興味深く拝見しましたが、天気好きの私には、もう少し放火当日の天気を掘り下げて頂きたいところです。そこで、吉原の梅本屋、豊平他遊女16人放火の日江戸の天気を見ますと、雨、8つ後より晴【鎌田日記】【江戸】朝雨午後晴【林日記】【江戸】小雨巳の刻過止曇【江戸日記】【江戸】雨降昼後晴暮時より又雨【月岑日記】【江戸】雨天【梅若実日記】【江戸】朝より四ツ時迄降夫より天気、夜に入又雨多分【二宮尊徳日記】【江戸】朝雨西北風、74度、29寸4分3厘【霊憲候簿】23.3午正雨西南風、75度、29寸4分6厘【霊憲候簿】23.9昏曇南風、...吉原放火遊女の意図嘉永二年八月五日(西暦1849年9月21日)

  • 権威より金 弘化三年山之内豊熈大井川越え

    手元に弘化三年の、土佐藩主山之内豊熈の参勤に随行した{小原與一郎(武市半平太らと他藩応接役、維新後は倉敷県知事となった人のようです)の記録がある、参勤御供の通達から、江戸到着までの子細が書かれています。なかでも、大井川越えの部分の記述が面白いので紹介してみたいと思います。弘化三年三月九日、高知を出発した山之内容堂の行列は江戸を目指し四月三日増水して濁っている天竜川を渡り日坂の宿に入った。折しも大井川も増水しており、島田本陣の新右衛門によると、大井川は、三月十七日から四月三日までで川明の日は、三月二十二日と二十九日のたった二日だけであった。足止めを喰った旅行者で日坂はごった返しで、「下宿、ウドン屋平吉二階座鋪也、旅籠ニ非ス」とあり、與一郎は、旅籠屋にも泊まれずウドン屋の二階で泊まったようです。翌日の四日も川留めで...権威より金弘化三年山之内豊熈大井川越え

  • 文久三年七月九日、十日の大風雨

    文久年間の台風と思われる風雨をみてまいりました。やってみて、レ-ダ-や衛星雲画像のない時代の、台風予報の難しさを痛感いたしました。台風予報で、富士山頂のレーダ-設置は画期的なものだったのだと改めて分かった次第です。今回は、文久最後の台風と思われる、文久三年七月九日、十日の大風雨について調べて見ました。先ず、七月九日の天気を見てみますと、文久三年7月9日新暦8月22日英艦横浜に帰着晴天夕少々雨気也【奄美大島】晴天北風【鹿児島】晴天【豊前】晴天【高山】晴【小倉】晴【下関】晴天【田之浦】晴、時々曇【山口】照、風高し、夕そはへ【広島】陰小雨風後甚雨【京都】雨下【若山要助日記】【京都】昨夕より大風雨【木津】雨降風荒吹夜同断【京都】昨夜より烈風,今日風雨【大坂】辰刻より大雨【池田】雨、、晩方雨やむ、夜月明也【土佐市】昨夜よ...文久三年七月九日、十日の大風雨

  • 文久三年六月二、三日大風

    この度は、文久三年六月二、三日大風について調べて見ます。文久三年6月1日7月16日米艦下関を砲撃する。庚申丸沈没壬戌丸被打、、【広沢真臣日記】晴天【厚岸】朝より晴暑気強し【相馬】皆晴、87度ニ上る【山形】天気南風【銚子】四ツ時雨直止、九ツ時雨直やむ、九ツ半時より快晴暑気つよし【水戸】明前雨、朝より晴る、、夕方少々雨直ニ止む【江戸】晴天82度【江戸】南気ニ而少々時雨、後ニは晴、又々陰【横須賀】辰巳風天気時雨【新島】晴天極暑【巻町】曇【鯖江】半天【鳥取】雨天強雨風荒吹、夜前より川越不出来【熊野】夜晴、、雨ふり、、巽より雲登るざんざふり【豊田】天気風雨時化初更ノ頃ヨリ強雨屡来【赤間関】辰刻より折々小雨【池田】曇或雨未刻過より雨【京都】照【広島】晴暑89度、晩間疎雨一霎【丸亀】半晴、九ツ頃より小雨、、夜ニ入雨大ニ降る、...文久三年六月二、三日大風

  • 文久二年 閏八月十三日の大風

    文久二年閏8月10日10月3日鯵ヶ沢八幡宮ニて疫神祭十日より七ケ日の間執行町中家別御獅子通行致候【永宝日記】【鯵ヶ沢】晴天【日鑑記】【厚岸】曇【津軽100年天候記録】晴天少し風【蝦夷地秋味日記】【函館】朝より曇り折々小雨【吉田屋源兵江覚日記】【相馬】雨【指田日記】【武蔵村山】雨降【景作日記】【中之条】半晴【渡邉氏日記)【山形】晴【源右衛門日記】【川西】天気よし【門屋養安】【羽黒山】曇日和【願正寺年中故事】【巻町】晴【東久世日記】【京都】フル【三右衛門日記】【玉村】雨冷67度【鳥居日録】【丸亀】天気【宗いん日記】【尾花沢】雨ふる【齋藤月岑日記】【江戸】曇、少シ小雨、63度【梅若実日記】【江戸】雨【西村日記】【豊橋】北風雨天【新島島役所日記】北気ニ而雨降【浜浅葉日記】【横須賀】曇、四ツ時頃より雨降【吉野家日記】【流...文久二年閏八月十三日の大風

  • 文久二年七月二十四、二十五日の大風

    続きまして、文久二年七月二十四日、二十五日の大風について見てみます。文久二年7月23日西暦8月18日暁、嶋田左兵衛の首四条河原にさらさる【京都】陰天,四ツ頃より晴ル、九ツ頃急雨、、夜中陰る【土佐市】晴天東風吹【伊予松山】風雨まじり【京都】晴天風強【池田】霽、、未牌天忽陰、、風挟雨到、、須臾天光如拭、、夜陰【海南市】雨天、時々大雨、風立川越大造也、、夜大雨、川水いよいよ大水、風立しける【熊野】東風天気時々雨【新島島役所日記】辰巳風あら吹、昼後南風ニ替る【八丈島】天気よし、、夜中雨【齋藤月岑日記】【江戸】晴天82度【梅若実日記】【江戸】75度、84度、朝より快晴暑気、終日夜中迄つよし、八ツ過より折々雨南辰巳風【水戸】朝より晴【相馬】となりまして、九州地方には悪天候はなく、近畿地方で「風雨まじり【京都】」など台風の前...文久二年七月二十四、二十五日の大風

  • 文久二年七月十四、十五日の大風

    前回に続きまして文久二年七月十四、十五日の大風について考えてみます。まず、前回同様に各地の悪天の記事を抜き出したいと思います。文久二年7月13日新暦8月8日雲夕雨少々【奄美大島】?天、大風洪水【鹿児島県高山】雨天、、今日風天、同夜九ツ時分より風雨烈敷相成【豊前】雨四ツ頃大雨戸を敲ク、雲頻りニ乾の方へ走る、晩方少しやむ、夜ニ入又風雨【土佐市】大雨降四時末?時分晴又東風吹事はけしく又曇??時より小雨降出夜晴半夜より又雨【伊予松山】曇天、昨夜来の風止まず、、巳の刻強い東風【神島付近】雨天、時々ざふり、大雨出水、川越不出来【熊野】曇天、、大雷二三声、、大雨、忽小降に成、、雷は次第に止候得共雨は不止、、終夜大雨暁天に止【薮原】東風時々雨【新島】北気ニ而大時雨、雷鳴あり、夜ニ入ても大時雨、尤、時々息、又は晴【横須賀】天気東...文久二年七月十四、十五日の大風

  • 文久二年六月四日の風雨

    今回は、文久二年六月四日の風雨に関係ありそうな、悪天の史料を抜き出しますと、下記史料の通りです。文久二年6月2日雨強、洪水【小倉】大雨大水【小倉】昨夜中終夜大雨、小川ハ少々出水之躰ニ候、今日も昼迄大ニ降続き、昼已後少々小降ニ相成候【美祢】小雨降六ツ半時より曇夜大雨降【京都】大雨ふり【小諸】この日は、小倉、山口県美祢、京都、小諸で六月二日夜に大雨が記録されています。強い風の記録はありませんでした。台風に伴う前哨戦的な雨だったかも知れません。文久二年6月3日筑前国風雨【日本の気象史料】昨日より大雨、、川支【豊前】夜中大風雨【土佐市】雨強【小倉】曇り、八ツ時一トしきり頻り大雨、夜雨強く風荒吹しける【熊野】雨天、、夜大風雨ニ成る【枚方】雨降四ツ過より双天夜大雨降【京都】雨甚終日不止【草津】雨、夜半ヨリ大雨【御番所日記】...文久二年六月四日の風雨

  • 文久元年十月五日(新暦11月7日)の大風

    前回に続きまして、文久元年十月五日を調べてまいりたいと存じます。【日本の気象史料】に江戸大風雨とありますので、台風のはっきりした経路が辿れればいいのですがともあれ、十月四日より荒天の記録を見て参りましょう。文久元年十月四日晴、曇、雨天【鹿児島県高山】曇、時雨【小倉】午後陰雨【蓮池】晴日出頃ゆる小、晩方陰る、日暮て後又雨ふり出ス、夜九ツ頃ゆる小ノ中、七ツ頃又ゆる小、夜中大風雨【土佐市】曇天夜雨降【伊予松山】曇、夕雨、、少々雨、、夜雨【萩】曇、池に浪立て【広島】天気雨気有之、夕方雨降り【大坂】曇申刻より雨【池田】朝之内晴、昼前より少々雨【京都】文久元年十月五日雨、晴天【高山】雨、虹西上【蓮池】微雨【小倉】風雨烈し、家根を取るる藁葺多し、七ツ頃漸く雨やミ虹東北ニ見ゆる、夜月見へかぬる【土佐市】風雨【福島濱】雨降五時雷...文久元年十月五日(新暦11月7日)の大風

  • 文久元年九月三日(新暦10月4日)の大風

    悠長ではございますが、今回は文久元年九月三日の大風について考えてみたいと思います。早速、九月一日以降の荒天の記録を辿りますと文久元年9月1日曇天北東風昨夜中降雨【銚子】暁雨朝止忽晴大風【郡山】68度、朝小雨ふる、五ツ時より止、四ツ時よりてり立、夕七ツ少し過より雷雨つよし、暮六ツ半時止、四ツ時快晴星出る【水戸】文久元年9月2日朝より晴冷気【相馬】曇、冷気也、、夕少地しん、、夜中雨ふる【江戸】北風曇天【新島島役所日記】半晴夜雨降【流山】天気西風【銚子】【武蔵村山】58度、、朝より快晴さむし、終日天気よし、夜ニ入くもる、八ツ過より大雨降【水戸】文久元年9月3日夜より風吹段々強ク成、当年無覚大風ニて、、舟三艘痛、、【鯵ヶ沢】】飯過より大雨也【花巻市矢沢地区】朝雨今暁六ツ時少々前大雷三落程大雨雨終日【相馬】陰晴不定雨なし...文久元年九月三日(新暦10月4日)の大風

  • 文久元年八月四日の台風

    まず、文久元年八月四日の台風、または台風と思しきものを調べたいと思います。まず文久元年八月四日(西暦1861年9月8日)あたりの気象状況を見ますと、八月二日には、風雨天、洪水【肝付高山】雨波ますます高くして、、五ツ時頃より八ツ迄之間大ニ暑し,七ツ頃又雨、夜ニ入大風雨、夜半頃より暁まて風雨戸を撲【土佐市】坤風天気【新島】とありまして、日本列島南海上の浪高しと言ったところでしょうか。翌、三日の強風域は、雨天、今晩風戻強【肝付高山】朝雨夕雨過、、夜二更南方沖鳴、西方雲起、、四更頃より大風、雨ハ不甚【蓮池】陰天、小雨細々ふる、晩方日輪顕れ、高かかりし波も次第ニ和く、夜ニ入大風雨【土佐市】曇、夜風尤甚し雨添【萩】坤風天気【新島】天気よし、、朝少々冷気なり、風ふく、残暑甚し【江戸】でありまして、晩方に鹿児島県南部、夜には四...文久元年八月四日の台風

  • 台風のなか、ペリカンが飛ぶ

    ペリカンは日本には生息しないそうですが、稀にあらわれる時があるそうです。迷鳥と言い、台風などに紛れて日本に来るようです。この度は八軒家絵巻様より、ペリカンが「浪花百景」の中の「江口の君堂」と題する作品に描かれており、文久年間に、南方の鳥が流されてくるような大型の台風で、大阪付近を通過した記録はありましたでしょうか。とご依頼をいただきました。早速、史料に当たってみました。文久年間の六月から十一月の間で、大風の記録や強風、大雨の記録が複数ある日を抽出いたしました。文久元年8月3,4日9月3日10月5、6日文久二年6月3日7月14,15日7月24,25日閏8月11日文久三年6月3日7月2日(薩英戦争中)7月96、10日が該当しましたが、果たして台風であるかどうかわかりません。史料も日本国内分しかありませんので、海洋で...台風のなか、ペリカンが飛ぶ

  • 献春

    あけましておめでとうございます。と言いましても、今日は新暦では1月16日で、旧歴では12月4日と師走も始まったばかりです。今年は、地元の画家東東洋描くところの三幅対を飾ってみました。最初は中幅は寿老人かと思ったのですが、左が冬景色で静寂、右が早春で躍動を感じさせる画でしたので、真ん中は大年神様と考えたほうが良いようです。今年の、旧暦1月1日は新暦の2月12日です。画は旧暦1月1日にぴったりです。ところで、正月明けの寒さは格別でした。庭の松に霜のようなものが付いていました。樹氷でしょうか霧氷でしょうかわかる方はご教示ください。どうも今年はコロナでぱっとしませんから、七福神もお出ましになられました。一人ひとりなどとケチなことは申しません、イッキにお出ましです。ひとたび、祈るときんば、金はわさわさ、良縁続々、不老長寿...献春

  • 難物 天保八年の「晴雨日記」の続き

    前回の、晴雨日記の書かれた場所について、考察してみます。まず、日記の地震の記載についてしらべましたが、この日記には、地震の記載がありません。現代でこそ地震と気象の因果関係は小さいと考えられていますが、江戸時代は地震と天気は連動するものと捉えられていたように思われます。従いまして、天気が詳しく記載されている日記には、必ずと言って良いほど地震の発生時間や強度が書かれています。としますと、この晴雨日記の書かれた場所は地震の空白域だった可能性が強いと思われます。そこで、日記の書かれた期間の地震発生を、他の日記で調べてみました。天保八年一月十九日仙台二月十三日宮城県涌谷町二月十四日神奈川県生麦二月二十二日江戸、銚子、流山三月二十七日江戸三月二十九日金沢三月三十日金沢五月六日江戸、銚子、流山、大間々町五月十八日八戸市五月二...難物天保八年の「晴雨日記」の続き

  • 難物 天保八年の「晴雨日記」

    手元に快生堂の「晴雨日記」があります。記事はのとうり、天保八年一月十五日から九月末までの天候記録です。筆者は「快生堂」「宅山園定之」となるのですが、ここで、大きな問題がありました。書かれた場所がわからないのです。書かれた月日と書かれた場所がわかりませんと、気象デ-タの価値がなくなってしまいます。最初に「晴雨日記」を見たときは、てんきで-タのみ書かれた良い史料だなあ、と思ったのですが書かれた場所が分かりません。通常の日記ですと、地名や神社仏閣から、作られた場所が凡そでも想定されるのですが、天気記事だけでまったく手掛かりがありません。地震の記事も探してみましたが書き込みがありません。ざっと見にはお手上げです。仕方がないので、他のキショウデ-タと見比べながら場所を割り出してみたいと思っています。イエスアイキャン、イエ...難物天保八年の「晴雨日記」

  • アマビエさまの御真言

    昨今、コロナの流行で、アマビエ様が大流行だぞとよ阿弥陀如来さまには「南無阿弥陀仏」キリストさまには「ア-メン」不動明王さまには「のおまくさんまんたら、さらだせんだま-かろしゃだ-や、そわたらや、うんたらた、かんまん」と神様、仏様には、それぞれお唱えする真言があります。それでは、アマビエ様はいかがでしょうか。多分なかったように思います。そこで、幕末に疫病が流行した時の、まじないの言葉をしらべてみました。安政五年のコレラの節の、まじないのうた梅か香は其木ばかりに香りして余の木のえだにうつるかもなし天がした神のみすゑの国なれば光れるふしのさわりもあらまじ【塩屋記録】【伊予市】がありました。また、文久二年のはしか流行の節のまじないとしてはしか除(多羅葉に書く)麦殿ハ生まれぬ先にはしかしてかせての後ハ我身なりけり○何才誰...アマビエさまの御真言

  • 盆だな

    気象デ-タの入力や古文書の整理で忙しく。記事がおろそかになっております。さらに、お盆は盆だな飾りやお墓掃除です。今年も盆だな飾りました。盆だなは地方と言うより、家々によって違うようです。ブログに残すと、ずっと消えないと言う話を聞いたことがありますので、私の備忘のため、アップさせて頂きます。盆だな

  • 安政五年 コレラ流行の期間

    大変な世の中になってしまいました。コロナの収拾は何時になるのでしょうか。飲み屋も閉まってしまいました。そこで、安政五年に流行したコレラの流行期間を調べてみました。何の御役にも立たないでしょうが、書き溜めていた安政五年のコレラ年表を出してみました。旧暦月日新暦月日安政五年7月16日8月24日コレラ病段々致流行、於御国元も川副辺、三四百人、市中二百五拾人余、御家中ニも、、数十人死人有之候事、、右之通流行頻ニ有之候付、予防之薬カミルレ三拾三匁、其後十匁両度代品方ヨリ買取相用候事【伊東次兵衛出張日記】【佐賀】安政五年7月22日8月30日近在急病多く、村々葬式たへず、一時殺シ冒暑と云病とも申、又ハコロリと申、廿日吉原ニて畑ニて鍬を取ながら倒死ス、廿一日富士川船頭、梶を取ながら倒死ス【袖日記】【富士宮】安政五年7月29日9...安政五年コレラ流行の期間

  • 大山鳴動してマスク2枚

    一人10万円づつ貰えるかと思いましたが、マスク2枚とは、恐れ入りました。ヘヘ~っ大山鳴動してマスク2枚

  • コロナコロナ とばかりに 商人首くくり

    安政のコレラ流行の時の句「コレラコレラとばかりに死人焼き場まち」の焼き直しです。もちろん、本歌は安原貞室の「これはこれはとばかり花の吉野山」です。不謹慎な句のようにも見えますが、句の作者もいつコレラにかかるか不安な一人だったのだと思います。土佐の真覚寺日記の作者は、コレラの恐怖を「病か世界を廻りて人を殺して通る様に思ひ」と書いています。しかし、つらい現実を笑い飛ばして図太く生きようとする、したたかさが感じられます。いざ、当事者になった時には、蜀山人の句があります。「今までは人のことだと思ふたに俺が死ぬとはこいつはたまらん」江戸の文化人は中々骨太の方が多いですね。さて、マスクと手洗いを忘れずに。コロナコロナとばかりに商人首くくり

  • 松前みやげ 松前の栄華 その1 (津軽海峡渡海、異国船通過、松前藩門閥と藩風)

    (津軽海峡渡海、松前着)爰ニテ東風ヲ長待唄コモナクテ徒然なサ四月三日ハ順風テ御紋ノ御籏ノ船ニ乗リ海上凡十ト二里此間ニハ三汐アリテ先ツ立鼻ヘハ三里也中ノ汐ヘハ七里ニテ汐差浪ハ山ヲナシ白神迄ハ二里ニシテ爰迄難渋ト申也白神通レハ浪モ左程ニ高カラス塩越間ニソ着シケル松前の栄華その1(福山城と松前藩門閥、異国船到来と藩風)船ノ中ニテ福山ノ城ヲ詠メシ其気色隅々櫓三階四階石垣高クタタミ上ケ煉塀鯱銅瓦西方浄土カ竜宮カ城内廣シト見ヘナヱトモ栄耀極メシ御構流石ノ松前福山城續テ町家ノ家庫造飾リ盡セシ奇麗サニ目ヲ驚シテ上陸シ勢ハ増慶ノ御堅メ我コソ秋田ノ何某ト名乗ラヌ斗ノ勢ヒニ今コソ上陸在ト恐レテ町家老若男女郡集ヲナシテ□伏ス見物有シ其中ヲ行道狭シト歩ミ行名々得送見供立迄次第順席行烈正シ威儀堂々ト通リケル宿ハ青龍山専念寺一向寺日々佛参郡...松前みやげ松前の栄華その1(津軽海峡渡海、異国船通過、松前藩門閥と藩風)

  • 松前みやげ 津軽藩領縦断編(碇ヶ関~三厩)

    松前みやげ碇ヶ関~三厩湯沢を出立した、松高梅治ほか35名は、秋田領から津軽領に入ります。登リハ一リト半ニシテ下リハ津軽領地ニテ爰モ同一リ半ン碇ヶ関番所ニテ秋田ノ藩中何ノ某在用テ通ルト断テ行道狭シト打通リ爰ニテ一夜ノ泊リ也此村浦ニ出湯アリ爰より城下え六里余其日ハ野辺テ昼ツカエ行ケハ桐ナク倉館村テ爰ノ村ニモ出湯アリ入湯人モ数見得ル詠テ城下え着シケル宿ノ亭主ハ土屋清助弘前公ハ越中守様四位従侍テ十万石城下ノ家数一万軒四方ノ山ハ遠クシテ岩城山ヘハ三里ナリ奥州富士ト唱リ也翌日爰ハ五ツ立詠々テ歩ミ行浪岡村ニテ昼ニシテ油川町ニテ一宿致シ亭主ハ内村三太郎此町屋モ不足ナシ城下よりノ道法ハ爰町迄七里余此日夜ノ四ツ頃ニ大地震ハ寄リ来リ既ニ外面へ走リラント思門ニソ鎮リケル此町浦大海ニテ漁船多ク往来シ翌日爰ハ五ツノ立テ爰より三厩湊マテ道法...松前みやげ津軽藩領縦断編(碇ヶ関~三厩)

  • 松前美屋景 秋田出立編

    手元に、秋田から松前経由で増毛陣屋に行き、異国警備についた秋田藩の松高梅治と言う人が書いた小冊子があります。中身は七五調を基本とした整った道中記です。表紙には安政丙辰とし松前□□□松高氏とあります。松前□□□が分からなかつたのですが、素直に松前美屋景で「松前みやげ」と読むのではないかと思います。内容が良く纏っていますので、この際全文を御紹介しようと思います。長文ですので、今回は出立の部分を紹介いたします。安政三ノ丙辰如月廿四日ヨル五ツ時蝦夷地出発三十五人命セラレ翌月十四日在所出足横手着ク宿ハ翌日未明ノ出足テ大曲村ニテ昼ニシテ刈和野村ニテ一宿致シ爰ノ宿屋ハ与右エ門テ翌日未明の出立テ和田村ニテハ昼ニシテ久保田ニコソハ着シケル宿ハ扇ノ町ノ幸野や治右エ門デ爰ニテ二日逗留イダシ十九日ハ久府出足湊町ニテ昼致シ宿ハ三浦や甚太...松前美屋景秋田出立編

  • 仙台カラスに 棚倉ササハ ナケリャ官軍 ネテクラス

    怠惰にしていましたところ、また広告が出てしまいました。今は、東大資料編纂所で公開しています「石母田頼至日記」からデ-タを取っております。慶応四年の仙台藩重臣も日記ですので、色々面白いことが書いてあります。その一つに、題の俗謡が書かれていました。通常には「細谷からすと十六ささげなけりゃ官軍高枕」と流布しています。細谷からすとは、言うまでもなく細谷十太夫の「からす組」で、ならず者の集団でゲリラを行い官軍を苦しめたとされています。十六ささげは、棚倉藩の十六人の勇士だとか、遊女が袖につけた鳴り物だとか言うのを聞いたことがあります。この俗謡で「十六ささげ」の意味ははっきり分かっていないようです。では「石母田頼至日記」のなかの「棚倉ササハ」とは何でしょうか。おそらく同じものを意味するのかも知れません。棚倉藩の笹葉隊や笹の旗...仙台カラスに棚倉ササハナケリャ官軍ネテクラス

  • 今日の台風15号安政三年八月二十五日の台風の進路と似ています。 江戸では高潮がありました。

    今日の台風15号の進路は、安政三年8月25~26日(西暦9月23~24日)に江戸付近を直撃した台風に進路が酷似しています。安政三年の台風の江戸での被害記録を見ますと、以下のようになります。朝より少々雨、、夜ニ入いよいよ雨強き処、戌刻過ヨリ大嵐と相成、地震後、、薄き土蔵建屋潰レ、築地御堂つふれあり処ともしれず、誠ニ高汐凡九尺余、、近在之奉、前代相起り不申、、【高木藤右衛門日記)【江戸】雨、、暮束風、雲早シ夜四ツ時前より東南風甚敷、雨も添候て四ツ時過ニは固屋震候て居難き様ニ有之、下之曽木屋根不残吹、へき瓦も吹散、前之雪隠大抵滅れ、其外御住居長屋通用門より不残濡れ、御式台大破シ大ニかたふき、其外少々之痛処不知数、世上殊之外甚しく海辺ハ津波打候て葛飾御屋敷不残白浜と成、鶴歩も御蔵米二俵三俵位湿候由、麻布は都合御上屋敷同...今日の台風15号安政三年八月二十五日の台風の進路と似ています。江戸では高潮がありました。

  • 昔の救急車は馬

    暑さも一服しましたので、ここ二三日、新潟県胎内市地本の医師井上薫廸の安政三年の日記を読んでいます。井上ドクタ-もそうですが、江戸時代の医師はほとんど訪問医療です。いつから今のように、患者さんが病院に行くようなったのでしょうか。医療機械の発達とも関係がありそうです。調べれば面白そうな課題ですが、今はわかりません。近頃は近所にも訪問医療の病院(事務所?)が出来ました。患者さんに負担がからないので、江戸時代方式も良いところあり見直されて来たのでしょうか。ところで、幕末ころは馬子なしで、馬に乗って往来を歩く人は少なかったと思われますが、救急患者に呼ばれたときは、医師は馬で駆け付けたようです。この「井上医師日記」にも、名割様から呼ばれて馬で往診したことが書いてあります。また、私の町内に若見先生と言う名医がいました。大正の...昔の救急車は馬

  • 古文書ライブラリ―への道具

    先日、隣村のパソコン相談所の後藤氏と飲みました。酒も魚も結構でしたが、話の中でスキャン機械と言うものを教えていただきました。二日酔いの翌日、機械と画像情報を整理するソフトを買ってやってみました。まず、スキャン機械で古文書を撮影してみました。一枚三秒というスピ-ドです。整理するソフトでフアイルを作成して、画像を入れてゆきます。小さい日記を撮影しても、解像度が抜群によいので、拡大してもぼやけません。老眼の私には、原文書より格段に読みやすくなりました。紙数にして30枚程の小さな日記でしたが、10分かからず、パソコンに収納できました。ずいぶんと、日記がありますので、夢だった「古文書ライブラリ-」が出来そうなきがしてきました。整理ソフトも使いやすく、場所分けや年代分けも簡単にできそうです。この頃は朝飯前に2冊くらいづつ撮...古文書ライブラリ―への道具

  • ようやく 「角田桜岳日記」 入力が終わりましたが、、

    先日、与左衛門様から、御教え頂きました「角田桜岳日記」の天気情報量が多くデ-タ入力がようやく終わりましたが、そのうちに集めている未入力日記も増えて、只今、入力中です。商工会や色々と総会も多く、いつもですと5月中に終るのですが、10連休の影響で、今もって総会が続いています。ブログ書き込みが出来ません。青い空を見ながら「あ~あ~、暇だ」と、ぼそっと呟きたい此の頃です。ようやく「角田桜岳日記」入力が終わりましたが、、

  • 長谷川貞信「浪花百景之内 松が鼻」の雪景が描かれた日

    八軒家絵巻様よりリクエスト頂きました。ご依頼内容は、「長谷川貞信が描いた「浪花百景之内松が鼻」の雪渓をとりあげております。作画時期は明治2年または3年(前後1年ぐらいの誤差はあるかも)とされておりますが、大阪管区気象台には明治15年以後の記録しか残っておらず、日付を特定しかねております。」とありました。大坂で降った雪を調べてみました。残念ながら私のデ-タベ-スに大坂の記録が少なく、天候記録もすくないため、京都の雪も含めて探しました。明治元年9月1日から明治4年12月30日までで、京大坂で雪の記録があったのは、67日でした。けっこう雪の回数は多いのですが、大坂での積雪は少ないようです。例えば明治元年12月16日の京都の日記では積雪三寸との記事もありますが、池田では曇晴、大坂では晴で、雪すらも降っていないようです。...長谷川貞信「浪花百景之内松が鼻」の雪景が描かれた日

  • 富士宮市の袖日記

    富士宮市に「袖日記」と言う日記があります。面白い記事が沢山載っています。少しご紹介します。皆さんも読んで見てください。蒸気船の海城王、下に申付、しきりに日本のコメを借りたき由を申付る時ニ、水主壱人帆柱の上ニあがり、遠目鏡を以て遥ニ安房、相模、上総の方を見渡し、王の前ニ出て申けるハ、日本ニハ米ハ御座りませぬと申。王申ニ米が有か無か、遠目鏡くらひで見究らるべきや、何故ニ左様申スと咎めける時、水主の申ニハどうあっても日本ニ米ハ無ニ違なく候、其訳ハ総房之台場其外諸大名の陣中も残らずみなアワを喰ふておりまする異船より書翰候処、其内ニ不二山と鷹と茄子と書てあり、江戸中ニ評定届ず京都へ向ひ伺ひ候処、是ハ倹約と唱へて民を苦しむる事を異国よりさみしたるなりと禁庭仰候て御歌被下それニ鷹あまり倹約茄子故ニ三国一のふじのさいなんおあと...富士宮市の袖日記

  • オ-ルコック 老中公式訪問日の江戸の天気 安政六年六月七日(1859年7月6日)

    オ-ルコック老中公式訪問日は、安政六年六月七日(西暦1859年7月6日)とのことで、天気は如何だったのでしょう。現在の平年値では、東京の梅雨入りは6月8日ごろで、梅雨明けは7月21日ごろです。おそらく、安政六年六月七日の江戸の天気は梅雨前線が関与していたと考えられます。天気分布図がうまく行かず、申し訳ありませんが、安政六年六月五日には九州四国近畿北陸を中心に雨域が分布していて、翌六月六日には、東海、関東、東北、北海道に雨域が広がり、九州、四国、近畿は晴又は曇りとなっております。雨域は低気圧と連動していると思われますので、五日から六日にかけて(梅雨前線上を)低気圧が東進したと考えられます。通常の季節ですと、低気圧一過の後は晴れ上がりそうなものですが、居座った梅雨前線の影響で全国的に天気は不安定だった模様です。梅雨...オ-ルコック老中公式訪問日の江戸の天気安政六年六月七日(1859年7月6日)

  • 牛久駅の宿屋の番頭と高杉晋作

    高杉晋作の日記「試撃行」によりますと、晋作が修行の旅で、茨木県の牛久駅の宿に泊ったのは、万延元年八月二十九日、西暦では1860年10月13日のことであります。試撃行にその夜の事が書かれています。此夜雨頻降、同宿旅人皆狼狽認雨具家奴云秋時雨至夜必催明朝放晴九月朔日、果如家奴言天晴日出同宿旅人驚訴喜予亦応其喜訳してみますと、二十九日の夜、雨が頻りに降ったので、同宿の旅人たちは、あわてて雨具を用意した、その時宿屋の番頭が、秋の夜に時雨が降れば、明日の朝は必ず晴れ渡ると言った。果たして翌九月一日の朝は番頭の言うように空は晴れ日が出た。同宿の旅人は番頭さんの言った通りになったので、驚いて言った。番頭さんの言う通りに晴れた、良かった、良かった私もまた、良かった良かったと言いました。と言う感じでしょうか。さて、家奴の秋時雨至...牛久駅の宿屋の番頭と高杉晋作

  • 月窓庵海松の【俳諧日記】

    ご無沙汰しております。古文書からの気象情報の収集が一息つきました。今回はとくに、写真の月窓庵海松の【俳諧日記】に時間がかかりました。少し紹介いたしましょう。日記の作者海松は本名佐々木龍海と言い、三重県川越町豊田の長息坊から80歳近くになって京都元誓寺通りの興徳寺の住職になった僧侶です。日記には、簡単な自分の履歴が書かれています。于時文政□年發月十五日勢州朝明郡豊田村長息坊道場也、住居是ハ同国三重郡山之一色村道場住、安藤茂規仲人ニ而此地ニ住居、五拾二歳之朋也、尓ル所明治九年子八月御法主殿より西京元誓寺通り寺今町興徳寺無住ニ付轉住被仰付、御受申上候、九月八日豊田邑長息坊退寺、、十三日午後二時興徳寺え着とあります。一冊めは、嘉永六年、安政元年、二年、二冊めは安政三年、四年三冊は安政五年、六年四冊欠五冊は文久二年、六冊...月窓庵海松の【俳諧日記】

  • ご無沙汰しております

    ご無沙汰しております。手元に、未読文書が多数集まり、気象情報を入力中です。どの文書も気象情報満載でこんな感じです。古文書たちが「もたもたするな!」と言っておりますが、入力には大分時間がかかりそうです。当分古文書と楽しみますので、ブログの書き込みは少しサボらせて頂きます。2ケ月書き込まないので、広告が出てしまいましたので、書き足して出ないようにしました。お盆ちかくになり、ようやく六割ぐらいおわりました。ご無沙汰しております

  • 天保十一年の雪(続三方領地替え)

    三方領地替が言い渡された庄内藩は豪雪地帯であります。次第に、庄内藩御百姓による三方領地替えへの反対闘争は、庄内藩農民幕府の様相を呈してきます。幕府のある江戸に行くには、船を利用しなければ、山越えは必須です。実際、幕府への越訴や有力諸藩の嘆願には、山越えの路を利用しています。奥羽山脈や鳥海山、月山、吾妻山の積雪が気になるところです。そこで、今回は天保十一年の積雪を調べてみたいと思います。手元の史料で、天保十一年の雪の記事があるのは、天保十一年六月十九日(1840年7月17日)の南アルプス市の日記です。「上天気、八ツ時より夕立、始メ此辺ハ雨少しふり、川東甲府在ハひうかふり、鏡中条辺ハ大夕立有之候、富士山ハ候(降?)雪か八合目頃迄雪ふり」とありまして、富士山には新暦の7月17日八合目まで冠雪があったようです。初冠雪か...天保十一年の雪(続三方領地替え)

  • 天保十一年十一月一日(西暦1840年11月24日)、江戸城黒書院の天気

    天保十一年十一月一日、酒井忠発が、江戸城黒書院で、三方領地替を言い渡されました。忠発と庄内藩にとりましては、まさに「青天の霹靂」でありました。ところで、当日の江戸の天気はどうだったでしょうか。江戸九段下の【井関隆子日記】によりますと、「時雨の雲も昨日に尽ぬるにか、日影花やかに晴わたりぬ」となりまして、前日までのぐずついた天気がようやく晴渡ったようです。全国の天気分布図を見ますと、となっており、日本海側の一部を除き日本列島は概ね晴になっております。忠発の言い渡された時間は正午前後と考えられますので、午正晴、55度、29寸7分【霊憲候簿】言い渡された時の江戸城黒書院での天気は晴、気温は摂氏12,8度前後で、暮れも程近い、新暦11月24日としては穏やかな天気でしたが、天気とは裏腹に「神田大黒」の庄内藩江戸屋敷は暗雲の...天保十一年十一月一日(西暦1840年11月24日)、江戸城黒書院の天気

  • 三方領地替

    天保十一年の三方領地替の時の天気状況を、リクエスト頂きました。早速、藤沢周平のドキュメンタリ-ぽい小説「義民が駆ける」を読んでみました。三方領地替えとは、三か所の大名が領地を替えることで、この時は、川越の松平大和守→庄内の酒井左衛門尉→長岡の牧野備前守→川越の松平大和守と国替えを行うと言う幕府の命令でした。当然、損得があり、この領地替えでは、庄内の酒井左衛門尉が損をします。そこで、移封反対運動をしたり、添地を願い出たり手を尽くしました。結局、幕府は三方領地替を撤回しますが、決め手となったのは、百姓による移封反対運動でした。民衆が台命を撤回させる事は驚くべきことであり、封建制度の終末を示唆する事件であったと思われます。日付と事件を列記しますと、天保十一年十一月一日、酒井忠発、江戸城黒書院で三方、三方領地替を言い渡...三方領地替

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