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2009/09/29

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  • そして 組み立て式草庵茶室を誕生させた

    予期せぬお話から、私は「組み立て式草庵茶室」を創る機会に恵まれました。前回のお話で紹介した「建仁寺東陽坊」をお手本に、プロトタイプを完成させたのです。今まで興味から入り込んだ茶の湯の世界を建築の分野から見ておりましたが、今回のめぐり合いは大変な喜びであると共に、歴史に対して非常に重責だと感じております。この度の経験で設計から工場加工、搬出、現場搬入、組み建て、そして解体、搬出、移動、保管という一連の工程を試しました。日本中、いや世界中どこででも、「侘び」の世界を体験出来るようになったのです。そして、この「組み立て式草庵茶室」の普及・利用を通して純然たる日本文化とは「茶の湯」「侘び数奇」「数奇屋造り」であるということを認識・体感してもらえればと思います。世界でクールジャパン(かっこいい日本のもの)と表現されるもの...そして組み立て式草庵茶室を誕生させた

  • その14 絢爛豪華な世界と侘び数奇の対比

    金閣寺天正14年1月16日、秀吉は小御所において金の茶室を組み立て、正親町天皇に茶を献じました。この時代は、同時に千利休による静寂な草庵の侘び茶が完成しつつあった時であり、わが国茶道史上の画期的な時期であります。桃山時代という複雑で深い時代相の中にあって、天下人として時世を動かすとともに、自ら当代一流の茶の湯の数奇物であった豊臣秀吉は、絢爛豪華の極地と利休の侘び数奇の境地とを、先ほどの金閣寺と銀閣寺と同様に、等しく知ることが出来ると思います。建仁寺東陽坊東陽坊は京都の建仁寺本坊の中庭に現存します。安土桃山時代の茶室です。この茶室を好んだ東陽長盛は、千利休の高弟で真如堂東陽坊の僧で、特に侘び数奇に名があったとされています。また、この茶室は北野大茶会で、東陽坊が担当した副席という伝えがあるそうです。普通、炉の傍の畳...その14絢爛豪華な世界と侘び数奇の対比

  • その13 不審菴 のさらにつづき

    更新期間がだいぶ開きました。すいません。おひさしぶりです。↑次は南側の正面の写真ですが、にじり口、連子窓、下地窓が美しいバランスで構成されています。にじり口や、下地窓は、利休によって朝鮮半島の民家の様式が取り入れられたといわれております。↑次は、二畳敷きの待庵の内部です。にじり口の正面が室床と呼ばれる床の間で、二畳敷きの隅には炉が切られています。↑次はにじり口を内部から見たところです。↑次は、次に間から室床を見たところです。この床は隅が円く仕上げられています。その13不審菴のさらにつづき

  • その12 不審菴 つづき

    次は点前座から床の間(台目床)を見た写真です。床の間の火灯口は、菓子や懐石の給仕口です。↑次はにじり口から見たところです。天井の化粧屋根裏につくられた突き上げ窓は、屋根の戸の上げ下ろしと障子の扱いで気のこもるのを防ぎ、明るさの加減ができるようになっています。↑利休が46歳を過ぎ、秀吉の茶頭になるころから、にわかに利休好みの茶室に変化がおこります。京都山崎の妙喜庵にある待庵は、利休作とみられる茶室の唯一の遺稿です。これはその待庵南側の土間庇であり、その下は、にじり口へ連なる飛び石を配した土間のタタキです。その12不審菴つづき

  • その11 ようやく草庵茶室の画像による説明

    蹲(つくばい)で口を漱ぎ手を清め、小さなにじり口から身をかがめて茶室に入り、外界から閉ざされた世界に身を置いて、一期一会の茶事を行うのです。このようにして、日本の侘びの世界を集約した空間が草庵茶室であります。http://ja.wikipedia.org/wiki/蹲↑次は不審菴の内部の写真です。長三畳台目、中柱のある席で、茶道口が常と反対の位置にあり、床の間側が蒲天井、にじり口側と点前座が化粧屋根裏です。不審菴とは表千家を象徴する茶室のことです。http://ja.wikipedia.org/wiki/不審庵http://www.omotesenke.com/index.htmlその11ようやく草庵茶室の画像による説明

  • その10 表千家の不審庵

    村田珠光は草庵茶室について「藁屋ニ名馬ヲ繋ギタルガヨシ、然レバ即チ、粗相ナル座敷ニ名物置キタルガ好シ。風鉢ナホ以ッテ面白キ也」と書き残しています。侘び茶の精神は、それが行われる茶室及びその導入部分の露地が一番表しているのではないでしょうか。これは表千家の不審庵の露地の写真です。外露地から中くぐりをへて内露地に入る行程は、世間の喧騒を避け、侘びの世界に入って行くアプローチとして構成されています。利休は「樫の葉のもみじぬからに散りつもる奥山里の道のさみしさ」山家集の歌を理想として挙げています。その10表千家の不審庵

  • その9 茶道という精神文化

    茶道という精神文化は、その行われる茶室がハレの舞台であり、その茶室の変遷が、侘び茶の精神の変遷にもなるとすれば、その茶室に侘びの精神がすべて集約されていると考えることができると思います。そこで、次回は有名な現存する茶室を写真でご紹介いたします。その9茶道という精神文化

  • その8 ロシア人のコメント

    日本の文化、特に日本の美が世界で稀有な文化であると云っているのが、15年前に、源氏物語のロシア語完訳全5巻を著わしたロシア人のタチャーナ・リボブナ、デリューシナ(当時47歳)が、日本とロシア文学の差について、次のように語っています。「源氏物語」は世界の古典の中でも比類がない。とても11世紀の作品とは思わない。特に、「もののあわれ」という感覚は示唆に富む。ロシアは表面の美を見ますが、日本では、物の奥の美を見る。これはとても重要なことです。その8ロシア人のコメント

  • その7 茶の心の代表的な歌

    日本の茶の湯は、村田珠光や武野紹鴎そして千利休によって大成されたわけですが、この三人が三人とも、ある歌を茶の心の代表的なものだというようなことを言っております。その一首が新古今和歌集の中、藤原定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」という歌です。この意味はまず、見えている風景は、浦の苫屋の秋の夕暮れなわけですから、まったく何もない浜辺です。苫屋というのは網をなって、そこにちょっと干してあるような粗末な小屋です。だから定家が見たものは、そこに何もない浜辺です。なのに見渡せば花も紅葉もなかりけりと云ったわけです。何も咲いていない紅葉もない、まして春の花の桜と秋の紅葉が同時にある訳もないのに。しかし定家は何もない浜辺にあえて花と紅葉を創造さらせ、そこから引き算をさせたのです。読み手は残像として花と紅...その7茶の心の代表的な歌

  • その6 みやび をへて 侘び

    ↑金閣寺↑銀閣寺義政の生活は贅をつくした「みやび」の生活だったと考えられます。しかし、それは心までは満たしてくれません。その「みやび」にあきた義政は、その「みやび」の奥というか裏というか、それを乗り越えたところの「侘び」の世界へと誘われていったと思います。卑近な話ですが、毎日が宴会やパーティーで会席料理やフランス料理が続くと食傷気味になり、漬物に茶漬けか白いご飯を食べたいとつくづく思ってくるものです。そのとき初めて茶漬けや白いご飯がこんなにうまいものか改めてしらされますが、それに似たようなことだと思います。そして、義政は晩年、諸芸能に耽るなか、持仏をまつり、読書をする東求堂の四畳半の(同仁斎)に炉を切り、それが最初の四畳半茶室とも云われています。欧米人は金閣寺を絶賛いたしますが、銀閣寺はいまひとつのようです。世...その6みやびをへて侘び

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