幽村芳春 さん プロフィール

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幽村芳春さん: 正法眼蔵=坐禅
ハンドル名幽村芳春 さん
ブログタイトル正法眼蔵=坐禅
ブログURLhttp://honjoutarou.blog107.fc2.com/
サイト紹介文愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を紹介しています。自宅で密やかに坐禅始めてみませんか。
自由文自分の家で毎日坐禅をしています。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供366回 / 365日(平均7.0回/週) - 参加 2009/12/23 23:52

幽村芳春 さんのブログ記事

  • 正法眼蔵 行持(上) 8
  • 慈悲深い我々の父親とも考える事のできる偉大な師匠である釈尊は、十九歳の時から深い山に入って仏道修行をし、三十歳になられた時に、我々の住んでいる大地も、そこに生きている一切の生き物も、同じ様に真実と一体であるという事を体験された。八十年の生涯の最後に至るまで、山林の中や寺院において行持(清い行い戒律の保持」を実践された。釈尊は一国の王子であったが、出家されてのち宮殿に帰ることをせず王子として得られる [続きを読む]
  • 正法眼蔵 行持(上) 7
  • 現在の瞬間において、花が咲いたり葉が落ちたりするという我々の周囲の出来事というものも、いずれも我々の行いと言うものがあればこその現実である。我々が持っている人間としての本質を磨くという事も、人間としての本質を破壊してしまうという事も我々がどういう行いをするかということによって一切が決まる。以上のような事情からすれば、ある人は行持(清い行い戒律の保持)は嫌だからやめておこうと考える。また別の人は行いを [続きを読む]
  • 正法眼蔵 行持(上) 6
  • 清い行い戒律の保持がどの様な形で実現するかということを考えてみると、我々が現在行っている清い行い戒律の保持というもの以外に、清い行い戒律の保持というものが別にあるわけではない。いま自分自身が清い行いをし戒律を保持しているという事は、自分自身に本来すでに具わっているものでもなければ、自分自身という主体があって、そこに清い行いや戒律の保持が出たり入ったりしていると言う事ではない。現在という時間「いま」 [続きを読む]
  • 正法眼蔵 行持(上) 5
  • しかしある場合には、その様な清い行い戒律の保持に関する内容と言うものは、何時でも我々の目の前に姿を現すと言う形のものではないから、そうした場合には、我々はそれを眼で見たり、耳で聞いたり、体全体で触ったりする事はできない。ただしこの場合にも、清い行い戒律の保持というものは存在しないという事ではなくて、明々白々としてこの現実の世界に存在するのであると学ぶべきである。なぜならば清い行い戒律の保持は、見え [続きを読む]
  • 正法眼蔵 行持(上) 4
  • 清い行い戒律の保持によって、真実を得た方々の相互の間で、ある場合には真実がこの世に存在し、ある場合には真実を超越し、ある場合には真実を心に帯し、ある場合には真実をしっかり掴むという様々な行いが中断されずに続いて今日に至っているのである。この様に清い行いをし戒律を保持する事によって、太陽も月も星も存在の意味を見出すのであり、我々の住んでいる大地も空間も存在するのであり、客観、主観、肉体、精神と言う二 [続きを読む]
  • 正法眼蔵 行持(上) 3
  • この宇宙というものは、われわれ人間が行動する時に初めて実在としての意味を持つ。この基本的な考え方とは、あらゆる方角に広がっている一切の大地、一切の空、一切の世界というものがすべて、自分自身の清い行いや戒律の保持によって大きな影響を受ける。※西嶋先生解説この事は、人間が一人で正しい行いをやるならば宇宙全体が正しくなり、人間が清い行いをするならば宇宙全体が清くなるということを言っておられるわけでありま [続きを読む]
  • 正法眼蔵 行持(上) 2
  • 行持の巻、本文に入ります。仏教界においては昔からたくさんの真実を得られた方々がおられ、真実を得られた方々が主張され実践された偉大な真理には、例外なしに最高の行持(清い行いと戒律の保持)というものがある。その様な真実と言うものが初めと終わりとが繋がって一つの輪になって、それが常に展開されて決してなくなるという事がない。真実を知りたいと言う気持ちを起こし実際に仏道修行をし、そして真実に到達し、非常に安ら [続きを読む]
  • 正法眼蔵 行持(上) 1
  • 行持(上)の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。「行持」の巻の表題でありますが、「行」というのは行い、「持」というのは長い時間継続するという意味にとれると同時に、我々の日常生活の行いの中で戒律を保持していくという意味にも取れるわけでありまして、戒律を維持するという意味にとった方がより言葉の内容が具体的になるというところから、ここでは「行持」という言葉を「梵行持戒」という言葉、「梵行」というのは清い行 [続きを読む]
  • 正法眼蔵 恁麼 25
  • ある時、曹谿山の大鑑慧能禅師が南嶽懐譲禅師に説示した。「この現実の世界というものは、言葉では表現できない何かが現にこの様に目の前に現れておる。それが現実の世界の実態だ」と。この大鑑慧能禅師の言葉の意味は、言葉では表現できない何かと言うものは、疑う事の出来ない現実であるけれども、理解しようとしても理解できるものではない。我々の住んでいる現実の世界は、言葉では表現できない何かと言われているのである。こ [続きを読む]
  • 正法眼蔵 恁麼 24
  • 石頭希遷禅師と薬山惟厳禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。この様なところから考えて来ると、我々が住んでいる世界のどこにでも行き渡っている真実の働きは、それが限りがあると言う捉え方もできるし、また無限だと言う捉え方もできるけれども、有限だとか無限だとかというどの様な捉え方をしても、それが現実に我々の生きている世界に行き渡っている真実の働きを説明するわけにはいかない。結論を言うならば、言葉で [続きを読む]
  • 正法眼蔵 恁麼 23
  • 石頭希遷禅師と薬山惟厳禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。薬山惟厳禅師の質問に石頭希遷禅師が答えて言う。言葉では表現できないというふうなことを言ってみても、それで南方の国々に行われていると言われている「直指人心見性成仏」と言う考え方を説明するという事にはならない。また言葉で表現できないと言う事だけではないと言うふうな説明をしてみても、それによって南方に行われている仏教の考え方を説明するわ [続きを読む]
  • 正法眼蔵 恁麼 22
  • あるとき薬山惟厳禅師が石頭希遷禅師に質問した。自分は三乗(声聞・縁覚・菩薩)や、十二分教(契経・応頌・記別・諷頌・自説・因縁・譬喩・本事・本生・方広・希法・論議)等の経典に代表される仏教の哲学的な理論というものは承知しております。しかしかつて南方の国には直指人心見性成仏と言う考え方があると言う事を聞きましたが、実際のところその意味がどう言う事なのかまだはっきりとはわかっておりません。そこで伏してお願い致 [続きを読む]
  • 正法眼蔵 恁麼 21
  • 我々は恁麼人(言葉では表現する事のできない人間としての存在)であるから、中国の六祖大鑑慧能禅師も突然真実を得たいと言う気持ちを起こされたという事に他ならない。その真実を得たいという気持ちを起こして、大鑑慧能禅師はとうとう黄梅山に登り、大満弘忍禅師に拝謁して弟子になったのであるが、大満弘忍禅師は大鑑慧能禅師をとりあえず行者の住む建物に入れた。そして大鑑慧能禅師は毎夜米を搗くという事を仕事にしていたので [続きを読む]
  • 正法眼蔵 恁麼 20
  • この様な意味の智慧と言うものがない場合には、正しい真実の一切が疑わしいものとなり、怪しまれるものとなるし、我々の住んでいる世界の一切が疑いの対象であり、怪しまれる対象となる。この様な状態においては、一切のものが永遠に失われた状態と言う事ができる。その点では、まさに聞かなければならない真実というものも、我々が常に体験していなければならないこの世の実在というものも、すべてが疑いの対象となり怪しみの対象 [続きを読む]
  • 正法眼蔵 恁麼 19
  • 人間は幸いにして、自分の中に極めて尊い智慧と言うものがある事を知る事が出来る。またその智慧を活用する事も出来る。この様に人間の場合、自分の中に包まれている智慧と言うものを知り、それを活用する事が出来ると言う事情は、石とその中の宝玉との関係を例に考えて見るならば、中に包まれた宝玉がいづれは自分が気づかれ取り出されるであろうと期待している訳ではないし、外側の石もいづれは中に含んでいる宝玉を取り出して活 [続きを読む]
  • 正法眼蔵 恁麼 18
  • 以上述べた様な事が何を意味しているかというと、大鑑慧能禅師の様に突然経典を聞いた事を契機として母親を離れ仏道の修行に入った事態というものは、以前から釈尊の教えは一体どういうものかとあらかじめ知っていたわけではない。以前から釈尊の教えを聞いていたという事ではないので、かねてから釈尊の教えを慕っていたとか、釈尊の教えの真実を得たいと願っていたわけでもないけれども、釈尊の教えを聞いた途端に、母親の恩とい [続きを読む]
  • 正法眼蔵 恁麼 17
  • 「西域記」に語られている五百の蝙蝠(こうもり)は、釈尊の教えを聞きたいために枯れ木が燃えているそばに群がって、ついに法を聞くことと引き換えに死に絶えてしまったと伝えられている。五百の蝙蝠は真実を得たいと言う智慧があったために、自然にその身を焼き尽くしたということがあったし、その事情というものは、我が身を可愛がり、我が心を可愛がるということではなかった。また「金光明教」の中には、沢山の魚が釈尊の教えを [続きを読む]
  • 正法眼蔵 恁麼 16
  • 六祖大鑑慧能禅師はかつては新州の木こりであった。山へ入って焚木を取って来て、それを燃料として売る仕事をしていたのであるから、山の様子、川の様子というものは十分に知っておられただろう。そういう木こりの生活をしていたのであるから、青々と茂った松の下で努力をして、あるいは様々の考え方をめぐらせて人生問題の根源を切断しておられたとしても、どうして書斎の中にじっと落ち着いて、自分の心を照らすことのできる古人 [続きを読む]
  • 正法眼蔵 恁麼 15
  • 二人の僧侶と大鑑慧能禅師との問答について道元禅師が注釈されます。その議論をしていた二人の僧侶はいずれもインドから来た僧侶であった。したがって、大鑑慧能禅師が言われた言葉は、風も、旗も、動くということも、いずれも心によって起きた事であると言う理解をしている。この様な理解の仕方であるならば、いままさに大鑑慧能禅師ご自身の言葉を聞いているのであるが、本当の意味において大鑑慧能禅師の言葉を理解したという事 [続きを読む]
  • 正法眼蔵 恁麼 14
  • 摩訶伽葉尊者から数えて第三十三番目の仏教教団の指導者である大鑑慧能禅師が、まだ出家をして頭を剃る以前の時代に広州の法性寺と言う寺に宿をとった時の話である。二人の僧侶がいてお互いに議論をしていた。その内容は旗が風に吹かれて動いているけれども、その動いているという事は「旗が動くのか」「風が動くのか」という事に関連して議論をしていた。一人の僧が言う:旗が動くのである。また一人の僧が言う:風が動くのである [続きを読む]
  • 正法眼蔵 恁麼 13
  • 僧伽難提尊者と伽耶舎多尊者の問答について道元禅師の注釈は続きます。伽耶舎多尊者が「心が鳴るのだ」と言う答えをされたけれども、その「心が鳴るのだ」という言葉の意味は、風が鳴っているという事でもないし、鈴鐸が鳴っていると言う事も事実にあたらないと言っているのである。心の中で何かが鳴っているという意味ではなくて、心というものが極めて静かな状態であり、何が鳴るのでもなく、ただ音があるという事を指しておられ [続きを読む]
  • 正法眼蔵 恁麼 12
  • 僧伽難提尊者と伽耶舎多尊者の問答について道元禅師の注釈は続きます。たとえば論議を主とした師匠が行う物事の中心となっている事柄に寄り掛かった解釈や、近似的なものに寄り掛かった解釈のようなものである。このような解釈というのは、釈尊が説かれた教えの奥深いものを学ぶという態度ではない。しかしながら釈尊の教えを正しく伝承して来た師匠に学んだ場合には、無上菩提正法眼蔵(釈尊の説かれた最高の真実、正しい教えの眼 [続きを読む]
  • 正法眼蔵 恁麼 11
  • 僧伽難提尊者と伽耶舎多尊者の問答について道元禅師が注釈されます。この僧伽難提尊者と伽耶舎多尊者との問答に関連しては、風が鳴るのではなくて、自分の心の中で音が聞こえているのだと説かれている。鈴鐸が鳴っているのではなくて、自分の心の中に音が聞こえているのだというふうに学び、その自分の心の中で音が聞こえているという状態は、現実の言葉では表現できない何かであるけれども、いずれにしてもそれは音のない静かな状 [続きを読む]
  • 正法眼蔵 恁麼 10
  • 僧伽難提尊者は摩訶迦葉尊者から数えて第十七代目の教団の指導者である。ちなみに伽耶舎多尊者はその僧伽難提尊者の後継者である。ある時、僧伽難提尊者は仏殿の軒にかけてある鈴鐸が風に吹かれて鳴っているのを聞いた。そこで弟子の伽耶舎多尊者に質問した。僧伽難提尊者問う。   いま音が聞こえるが、それは風が鳴っておるのか、それとも鈴が鳴っておるのか。伽耶舎多尊者答えて言う。  それは風が鳴るのでもありません。鈴 [続きを読む]
  • 正法眼蔵 恁麼 9
  • 雲居道膺禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。過去における仏道の諸先輩が日常生活において苦心惨憺して生きてこられた訳であるけれども、その苦心惨憺の日常生活とは、いづれも具体的なもので行き詰った場合には抽象的な論議で救われ、抽象的な論議で行き詰った場合には具体的な行動を通して救われたと言う事に他ならない。仮に人がいて「抽象的なものと具体的なものとそのお互いに隔たっている距離とは一体どの程度であ [続きを読む]