幽村芳春 さん プロフィール

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幽村芳春さん: 正法眼蔵=坐禅
ハンドル名幽村芳春 さん
ブログタイトル正法眼蔵=坐禅
ブログURLhttp://honjoutarou.blog107.fc2.com/
サイト紹介文愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を紹介しています。自宅で密やかに坐禅始めてみませんか。
自由文自分の家で毎日坐禅をしています。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供366回 / 365日(平均7.0回/週) - 参加 2009/12/23 23:52

幽村芳春 さんのブログ記事

  • 正法眼蔵 行持(下) 15
  • 「石門林間録」に出て来る達磨大師の話に関連して、さらに道元禅師の注釈は続きます。達磨大師がインドから坐禅を中心とした仏道を中国に持って来たにも関わらず、それ以降においても、経典や論議に頼って仏道を理解するという事だけをして、正しい釈尊の教えを勉強しない僧侶が多い。これらの僧侶は経典や論議の本を開いて読んではいるが、元来経典とか論議は仏道における坐禅の説明に他ならないのであるから、実際に坐禅を実行し [続きを読む]
  • 正法眼蔵 行持(下) 14
  • 「石門林間録」に出て来る達磨大師の話に関連して、さらに道元禅師の注釈は続きます。彼らはインドに行って何の得るところがあろうか。ただ山や河を旅する事によって様々な苦労をするだけである。そして達磨大師が中国に来られた事の基本的な意味を学ばず、達磨大師によって釈尊の教えが中国に到来したという事を十分に理解しないために、無駄にインドに行って道に迷っているという事を繰り返したに他ならない。この様に達磨大師が [続きを読む]
  • 正法眼蔵 行持(下) 13
  • 「石門林間録」に出て来る達磨大師の話に関連して、さらに道元禅師の注釈は続きます。インドの伝説において、3000年に一度しか咲かないと言われている優曇華の花にしても、それが一度咲くのを待つ事はそう難しい事ではない。なぜならばそれは、年月を数える事によって容易に推察できる。しかし達磨大師がインドからはるばる中国に来られたと言う歴史的な事実は、もう一度起こり得るという事は絶対にあり得ない。ところが達磨大師の [続きを読む]
  • 正法眼蔵 行持(下) 12
  • 「石門林間録」に出て来る達磨大師の話に関連して、さらに道元禅師の注釈は続きます。中国における最初の仏教教団の指導者である達磨大師は、釈尊から数えて第28代目の法(釈尊の説かれた宇宙秩序)を継いだ方である。釈尊の教えというものを知り、それを修行して法を継がれて以降、ますますその重要さというものは加わって来た。この様に優れた尊い方である達磨大師がさらに師匠の命令に従って、体や命を惜しむ事なく万里の波濤を [続きを読む]
  • 正法眼蔵 行持(下) 11
  • 「石門林間録」の中に出て来る達磨大師の話に関連して道元禅師の注釈は続きます。仮に我々が卑しい境遇の者であったとしても、仏道―つまり真実のため、釈尊の教えのために体を惜しまず命を惜しまないならば尊い存在という事ができるであろう。また古代インドにおいて全世界を支配すると伝えられていたところの転輪聖王よりも、さらに仏道のために命を惜しまないない我々の方が尊いであろう。そして、天の神や地の神や三界の世界に [続きを読む]
  • 正法眼蔵 行持(下) 10
  • 「石門林間録」の中に出て来る達磨大師の話に関連して道元禅師の注釈は続きます。中国においては天体の様子や自然の地形の様子を勉強する事によって、天・地・人というものの理解がついてきた帝王もいたわけであるけれども、まだこの様な優れた君主の教化に出会っていないわが国(日本)の人々は、帝王に仕えるとはどの様な事か、親に仕えるとはどの様な事か、それらの事をどう学んだらよいのかがわかっていない。その点では、この国 [続きを読む]
  • 正法眼蔵 行持(下) 9
  • 「石門林間録」の中に出て来る達磨大師の話に関連して道元禅師の注釈は続きます。まして木・火・土・金・水といったようなこの我々の住む宇宙を組成している本源的な事実に関する隆盛や衰減についての実情がどうしてわかっておろうか。なぜこのような愚かな状態が生まれるかというと、理論がわかっているとかいないとかという事ではなしに、目の前にあるものをしっかり見ない事がこの様な事情が出てくる原因である。この様な事がな [続きを読む]
  • 正法眼蔵 行持(下) 8
  • 「石門林間録」の中に出て来る達磨大師の話に関連して道元禅師の注釈は続きます。俗世間において受けた恩でさえ、人々はそれを忘れる事なく大切にする人は多い。そしてその様な人を人間と呼ぶのである。達磨大師がインドから中国に坐禅をもたらされた大きな恩と言うものは、父や母の恩よりも優れている。また達磨大師の慈愛というものは、親子の間の情愛と比較にならない程の深さを持っているであろう。我々は非常に卑しい分際であ [続きを読む]
  • 正法眼蔵 行持(下) 7
  • 「石門林間録」の中に出て来る達磨大師の話に関連して道元禅師が注釈されます。この様な記述から見るならば、達磨大師が梁の国から魏の国に行ったという事実は疑いようがない。そして嵩山の麓を通過して少林寺に滞在された。そして達磨大師は少林寺で壁に向かって坐禅をしていたけれども、それは悟りを開くために坐っていたのではなくて、坐禅している事そのものが悟りだと言う境地で坐っていたのである。達磨大師はインドからたっ [続きを読む]
  • 正法眼蔵 行持(下) 6
  • 覚範慧洪禅師が作られた「石門林間録」には、中国の仏教僧についての様々な伝記や逸話が記されている。「石門林間録」の達磨大師についての記述によれば、達磨大師は最初に行ったのが梁の国で、それから魏の国に行って、嵩山の麓を通過し少林寺に逗留した。少林寺では壁に向かい坐禅を一心にしているだけであった。達磨大師は坐禅をやる事によって、坐禅をやる事以外の目的(悟り)を追求していたわけではない。しかし長い期間にわた [続きを読む]
  • 正法眼蔵 行持(下) 5
  • 達磨大師は釈尊から数えて第28代目の正統な後継者である。しかも父の国王が領有していた大きな国を離れて、中国の人々を救済しようとされたのであるから、誰が肩を並べる事ができよう。もし達磨大師がインドからはるばると中国に渡来することがなかったならば、中国の人々はどうして釈尊の説かれた正しい教えを見たり聞いたりする事ができたであろう。達磨大師が中国に仏道(坐禅)を伝えなかったならば、中国の人々は単に仏教を学問 [続きを読む]
  • 正法眼蔵 行持(下) 4
  • 達磨大師は527年旧暦10月19日に、こっそりと揚子江の北側の地に行った。そしてその年の11月23日に洛陽の都に着き、嵩山いう山の麓の少林寺という寺に泊まって壁に向かって坐禅を始め、一日中ものを言わない生活をしていた。しかしながら当時の魏の国王は素質が十分でなかったために達磨大師の存在を知らなかった。そしてその事が恥ずかしい事だと言う道理さえわきまえてはいなかった。達磨大師は南インドの国王の息子である。大き [続きを読む]
  • 正法眼蔵 行持(下) 3
  • 達磨大師は梁の都の金陵に到着して、梁の皇帝である武帝とお会いになった。達磨大師に梁の武帝が問う。自分は皇帝の位についてから、寺院を造ったり、経典を写したり、僧侶や尼僧を救済したりという事業を数多くやった。それによってどの様な功徳(効果)が得られるのであろうか。達磨大師言う。そういうことはすべて何の功徳(効果)もない。そこでさらに武帝問う。どういう理由から何の功徳(効果)もないと言われるのか。    達磨 [続きを読む]
  • 正法眼蔵 行持(下) 2
  • 達磨大師が中国に来られた時の説話は続きます。我々の生きている環境の全てが国王の宮殿の様に素晴らしい世界だと言う事実から考えるならば、達磨大師が3年の歳月を費やして中国に行かれた事も決して不思議ではない。そしてまたこの世界には様々な国があるけれども、様々な国のどこの宮殿が仏道の道場になり得ないと言う事があろうか。この様な事情から達磨大師はインドから中国に渡られた。そしてただただまだ真実を知らない人々 [続きを読む]
  • 正法眼蔵 行持(下) 1
  • 中国における第1代目の仏教教団の指導者である達磨大師がインドから中国に渡られたことは、師匠である般若多羅尊者のご指示によるものである。達磨大師は東南アジアの海を経て三年を要し中国に渡られた。その航海における年月は自然の脅威が耐え難いばかりでなく、まだ航海の方法も発展しておらずいつ船が沈むかもしれないと言う不安定な状態であるから、その長い行程における危険というものは大変なものであったであろう。まして [続きを読む]
  • 正法眼蔵 行持(上) 59
  • 雪峰義存禅師の説話について道元禅師の注釈は続きます。仏道を学びたいと心がけても、よい師匠を得られないと言う悲しみを味わう場合もある。この様な事情と言うものは、自分(道元)が宋の国にあった時にも、この眼で見、耳で聞いたところである。非常に優れた徳の高い僧侶は例外なしに、弟子がどの様な人柄であるかを見抜くだけの力量を持っているけれども、現実の仏道修行の場面に立ってみると、どの様な時にもその師匠に付き従っ [続きを読む]
  • 正法眼蔵 行持(上) 58
  • 雪峰義存禅師の説話について道元禅師が注釈されます。雪峰義存禅師が様々な地方に行って仏道修行をした様子を静かに考えてみるに、雪峰禅師は長期間にわたって鍛錬されたところの優れた骨格や体力を持っていたと考えることができる。今日、仏道修行をする場合の事を考えて見るに、釈尊の説かれた教えをしっかりと把握しておられる師匠の教団に行き、真実が何かという事を教えていただきたいという事で師匠に問う場合に、その機会を [続きを読む]
  • 正法眼蔵 行持(上) 57
  • 雪峰山の義存禅師は真実を知りたいと言う気持ちを起こしてから修行の旅に出て、寺院や旅の途中において様々の布施を受け食事を頂いた過程というものは、極めて長い距離であり長い時間を費やしたところであるけれども、その間、場所を選ばずに昼となく夜となく坐禅をして決して怠る事がなかった。雪峰義存禅師は「この我々の住んでいる宇宙は一切の事物を露呈して何ものも隠すところがない、そっくりそのまま宇宙が我々の目の前に現 [続きを読む]
  • 正法眼蔵 行持(上) 56
  • 唐の宣宗皇帝についての説話は続きます。ある時、黄檗禅師が仏殿で仏像に向かって礼拝をしていた時に、後の宣宗皇帝がその場で質問して言う。仏道の教えでは、釈尊(仏)に執着して何か求めるという事はない、釈尊の教え(法)に執着して何かを求めるという事もない、仏教教団(僧)に執着して何かを求めるという事もない。三つの宝はいずれも尊いものではあるけれども、それに執着して何かを求めてはならないと言う教えが伝えられていま [続きを読む]
  • 正法眼蔵 行持(上) 55
  • 唐の宣宗皇帝は、位についた甥の武宗皇帝に「頭の悪い叔父さん」と呼ばれ馬鹿にされていた。武宗皇帝がある時、後の宣宗皇帝を呼び寄せて、お前はかつて13歳の時に皇帝の座席に上がって群臣に挨拶する真似をした。その事は甚だけしからんと言って、一打ちに打ち殺して宮殿の後方にある庭園の中に捨てておいた。ところが後の宣宗皇帝に汚物をかけたところ息を吹き返した。後の宣宗皇帝は、この様な迫害を受けたので父親の国を離れて [続きを読む]
  • 正法眼蔵 行持(上) 54
  • 唐の宣宗皇帝は憲宗皇帝の第二子であった。若い時から極めて頭がよくすばしこかった。普段から坐禅(結趺跏坐)をする事を好み宮殿においても常に坐禅をしていた。穆宗皇帝は宣宗皇帝の兄であった。兄の穆宗が皇帝の位についていた時、朝の政が終わった直後、宣宗皇帝がふざけて天子の席に着き多くの臣下に挨拶する真似をした。これを見ていた大臣は頭がおかしくなったと思い直ちに穆宗皇帝に報告した。穆宗皇帝は宣宗皇帝が高弟の席 [続きを読む]
  • 正法眼蔵 行持(上) 53
  • 臨済禅師が黄檗禅師の教団にいた頃、黄檗禅師と一緒に杉や松の苗木を植えていた時に黄檗禅師が臨済禅師に質問した。黄檗禅師問う。この深い山の中でたくさんの木を植えているけれども、いったいそれが何の役にたつのか。臨済禅師言う。一つには、寺院の景色を良くするために植えるんです。二つには後世の人のための目印になると思う。――臨済禅師はこの二つの事が、杉、松を植える目的だという事と同時に「わかりましたか」という [続きを読む]
  • 正法眼蔵 行持(上) 52
  • 臨済義玄禅師は黄檗希運禅師の正統な後継者である。臨済禅師は黄檗禅師の教団にいて三年を経過したけれども、黄檗禅師に質問をした事がなかった。それを傍で見ていた睦州禅師が「お前は師匠に質問したらどうか」と臨済禅師に勧めた。そこで臨済禅師は黄檗禅師のところへ行って、仏法の大意を質問する事三回に及んだ。ところが黄檗禅師から三回が三回とも棒で六十回たたかれた。臨済禅師は何の事かよく意味がわからなったが、さらに [続きを読む]
  • 正法眼蔵 行持(上) 51
  • 香厳智閑禅師は潙山霊祐禅師のもとで仏道修行をしていた。ある時、潙山霊祐禅師が香厳智閑禅師に質問した。「本から引いてきた借り物の言葉でなくて、お前自身の言葉で仏道とは何かを言ってみよ」と。香厳智閑禅師はたった一つの言葉を言おうとしたが、何回となく試みたにも関わらずとうとう何も言う事が出来なかった。そこで師匠の質問に答えられなかった事を非常に残念に思って、長年大切にしていた書物を全部火の中に入れて焼い [続きを読む]
  • 正法眼蔵 行持(上) 50
  • 南嶽懐譲禅師は大鑑慧能禅師の弟子となって侍者としての生活が15年に及んだ。大鑑慧能禅師の持っておられた真実を受け継ぎ日常生活の生き方を受け継いだ様子は、ちょうど一つの器の水を別の器に移し変える様に、大鑑慧能禅師の持っておられたものはすべて南嶽懐譲禅師の体に入り、心に入ると言う状態で真実の伝承というものが行われた。この様な過去の先輩方が実際に行われていた様子と言うものは、極めて慕わしいところである。簡 [続きを読む]