万軍の主ヤハウェ さん プロフィール

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万軍の主ヤハウェさん: 聖書の神、万軍の主ヤハウェ
ハンドル名万軍の主ヤハウェ さん
ブログタイトル聖書の神、万軍の主ヤハウェ
ブログURLhttps://blogs.yahoo.co.jp/petero_rom
サイト紹介文わたしは、イエス・キリストの父ヤハウェである。
自由文私は、汝らの上に、ヨハネの黙示録に記されている、火と硫黄の燃える地獄を降らせよう。
この火は、真に正しい者には何の禍ともならない。
しかし、偽る者には、永遠の裁きの地獄となる。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供343回 / 365日(平均6.6回/週) - 参加 2010/04/14 03:43

万軍の主ヤハウェ さんのブログ記事

  • 大般涅槃経 光明遍照高貴徳王菩薩品 第十-45
  • 善男子よ、たとえば、すべての水が集まるところを大海と呼びます。声聞でも縁覚でも菩薩でも、諸仏如来でも同じとなるのが大涅槃なのです。四禅と言う河の水も、三三昧と言う河の水も、八背捨という河の水も、八聖道という河の水も、十界と言う河の水も、その他すべての無量善法と言う河の水も、すべてが集まるのが、大涅槃と言う大海なのです。善男子よ、煩悩と言う大河は世界一の香象であっても底が極められないほど深いのです。 [続きを読む]
  • 法華経と涅槃経の違いについて
  • 法華経と涅槃経の違いについて わたしの言葉で説明いたしましょう。 一切を創造している創造主としての自我が大我であり、その大我の分身としてあるのが小我なのです。では、経典の最終段階として存在するものは、 【1】大我から見えるものをそのまま記したもの。 【2】大我に意識を移す道理を記したもの。 この二種類が考えられます。これらの内、【1】の大我に意識を置いて見えるそのままを記したのが法華経本門であり、【2】の [続きを読む]
  • 大般涅槃経 光明遍照高貴徳王菩薩品 第十-45
  • お釈迦さまは、光明遍照高貴徳王菩薩をお褒めになられました。「善いですね、善いですね、善男子よ、すべてを受持する菩薩だけが、あなたが問うたようなことを諮問することができるのです。善男子よ、世の人も海と大海、河と大河、山と大山、地と大地、城と大城、衆生と大衆、王と大王、人と大人、天と天中の天、道と大道と使い分けていますよね。これと同じで、涅槃と大涅槃にも差があるのです。涅槃とは何かと言えば、善男子よ、 [続きを読む]
  • 大般涅槃経 光明遍照高貴徳王菩薩品 第十-44
  • 彼の人が四毒蛇、五人の奴隷、親しく言い寄る者、六大賊を畏れ、空虚な部落を離れ、河に至り草の筏を組むとはどういうことなのでしょうか。菩薩も環境と言う四大蛇、五陰(自己の欲望)と言う奴隷、愛と言う親しく言い寄る者を畏れ、空とする境地に至り、そこを襲う六塵悪賊(色・声・香・味・触・法)から逃れようと煩悩と言う大河に至るのです。では、この草で造った筏とは何かと言えば、戒定慧を修めて解脱に至ろうとすることなので [続きを読む]
  • 大般涅槃経 光明遍照高貴徳王菩薩品 第十-43
  • 次に、彼の人が四毒蛇、五人の奴隷、一人の親しく語りかける騙し人、六大賊を怖れ、その空の集落を捨て去って後に至る河とは煩悩を示します。煩悩とは大河の如きもの、この流れの速い河は象をも漂わせます。煩悩と言う流れの速い河も同じで、縁覚さえも漂わせるのです。ですから、菩薩は煩悩とは流れの速い大河の如きものと観るのです。その底はどこにあるのか分からないほど深く、河幅は対岸が見えないほど広いのです。そればかり [続きを読む]
  • 大般涅槃経 光明遍照高貴徳王菩薩品 第十-42
  • この話は正しくは、四毒蛇、五人の奴隷、一人の親しくする詐欺師、そして、六大賊を怖れるとなります。そして、この六大賊こそが六塵(色・声・香・味・触・法)であり、外部が人に及ぼす影響なのです。菩薩は、この六塵(色・声・香・味・触・法)を六大賊のように観るのです。なぜならば、この六塵(色・声・香・味・触・法)が一切諸々の善法を奪い取るからです。六大賊(地震、火事、水害・暴風・内戦・外戦)は一切人民の財宝を全て奪 [続きを読む]
  • 大般涅槃経 光明遍照高貴徳王菩薩品 第十-41
  • それらから逃げ出し、何もない集落に入るとは、空を意識すると言う意味です。すべてが空であると意識することが、空と言う集落に入ると言うことなのですが、ここに至った人はその空を怖れるのです。誰もいない、何もないからです。菩薩も同じで、六入が空となれば、真実と言うものはどこにもないとなり、自分自身の存在すらもなくなるのです。善男子よ、彼の空の集落を襲う盗賊の群れとは、虚空の想を示します。凡夫は空と聞きます [続きを読む]
  • 大般涅槃経 光明遍照高貴徳王菩薩品 第十-40
  • また、彼の四毒蛇を怖れる人を追う五人の奴隷が途中で逃げてしまうのは、彼らの忠誠が偽りだからであり、彼らの愛情が貪欲に過ぎないからです。ひとりの親しく言い寄り騙す者とは何なのでしょうか。これは実は愛なのです。愛情の結果は怨みや裏切りとなるのです。この真実を知らないと必ず傷ついたり傷つけたりすることになります。貪欲と愛とは同じ性質のもので、それに囚われている限り、人は生死の苦しみの循環から抜け出す事は [続きを読む]
  • 大般涅槃経 光明遍照高貴徳王菩薩品 第十-39
  • 菩薩は、このような奴隷たちに囲まれたとしても、自己の欲望のままに生きようとは思わないのです。また、善男子よ、この奴隷たちは他人を害するのみで自分自身を害することはありません。しかし、五陰(自己の欲望)は自分自身のみならず他の人々をも害するのです。また、この奴隷たちはお金や財宝により追うことを止めさせることが出来ます。しかし、五陰(自己の欲望)はそうなりません。お金や財宝を見せるとますます盛んになるので [続きを読む]
  • 大般涅槃経 光明遍照高貴徳王菩薩品 第十-38
  • 五人の奴隷とは、五陰(自己)を意味します。なぜ、菩薩が五陰(自己)を奴隷の如く観るのかと言えば、奴隷は、常に人々の恩愛、別離、怨憎の対象とされるからです。五陰(自己)も同じで、人が不善の法を貪ると、五陰がすべての純善の法から人を離すからです。また、金品などにより自身を荘厳するのも奴隷です。なぜならば、そのようなものは刀や盾や弓矢等により奪い取られてしまいますから、必死になって護らなくてはならないから人は [続きを読む]
  • 大般涅槃経 光明遍照高貴徳王菩薩品 第十-37
  • 人が生きるとは、人間社会という四毒蛇の箱に閉じ込めるようなもの。菩薩は人間社会という、毒を見、毒に触れ、毒気に当てられ、毒をかじるのです。これは菩薩ばかりではありません。一切衆生は人間社会と言う四大毒に遇うゆえにその命を喪失するのです。すべての人にとって人間社会とはこのようなものなのです。あるいは悪を見、あるいは悪に触れ、あるいは悪に感化され、そして、あるいは悪を行う。これが、人々が善から離れ去る [続きを読む]
  • 大般涅槃経 光明遍照高貴徳王菩薩品 第十-36
  • また、人々は『如来にも煩悩があるではないか』と言いますが、この義ゆえに、如来世尊の煩悩と見えるものも煩悩とはならないのです。また、善男子よ、凡夫は心身の苦悩により諸々の悪を起こします。身が病んでも、心が病んでも、身口意による数々の悪を犯すのです。このように悪を犯すゆえに、地獄、餓鬼、畜生界に陥り、それによって諸々の苦を受けると言う循環に陥るのです。凡夫は知恵がないゆえに、このような循環に陥っている [続きを読む]
  • 大般涅槃経 光明遍照高貴徳王菩薩品 第十-35
  • 人の命は山を流れる水のようでとどまるところを知らなりません。今日、生きているからと言って明日も生きると言う保障はどこにもないのです。心を悪法にとどめても、時節はすぐに流れ、壮年もすぐに老人となってしまいます。如何に栄華を誇っていても、悪鬼は過ぎ去ってはくれません。四大悪鬼は、常に人々の過ちを伺い求めているのです。少しでも悪心があるならば、そこは朽ちてすぐにでも崩れ落ちそうな家のようなものとなるので [続きを読む]
  • 大般涅槃経 光明遍照高貴徳王菩薩品 第十-34
  • わたしは何が良福田であるかとは語りません。ですから、衆生も福田とは何かは分からないのです。しかし、もし、わたし自身が【善心が負け、知恵が薄くなり、煩悩に支配される】と言う循環に陥り、そこから何かを語ったとすれば、これは一切衆生を騙し欺くこととなるのです。そして、わたし自身、昔、人々をこのように騙し欺いた故に、長い間三悪道に堕ち生死を流転したのです。わたしにもし悪心があって、人々の信仰や布施を受けた [続きを読む]
  • 大般涅槃経 光明遍照高貴徳王菩薩品 第十-33
  • 大般涅槃經卷第二十三 北涼天竺三藏曇無讖譯 光明遍照高貴徳王菩薩品第十之三また、善男子よ、一切凡夫も自分の身を護るのですが、その心は生に執着する故であり、その為に貪欲となり、怒り、他の者を害すこともいとわなくなるのです。生に執着するゆえに、煩悩を断つことも空も覚ることも出来ず、三悪道に堕ちていってしまうのです。善男子よ、これは人が大海を渡ろうとして漕ぎ出しても、渡りきる前に水死してしまうよ [続きを読む]
  • 大般涅槃経 光明遍照高貴徳王菩薩品 第十-32
  • 菩薩にとって、悪象も悪知識も、両方とも身を壊すと言う意味においては同じなのです。しかし、菩薩は、悪象などについては畏怖しませんが、悪知識については畏怖するのです。なぜならば、悪象は身を壊しますが心を壊す事はできません。しかし、悪知識は身も心も両方とも壊すからです。悪象などが壊すのは不浄で臭い身体だけなのですが、悪知識は浄身も浄心もすべて壊してしまうからです。悪象などが壊すのは肉身であり、悪知識が壊 [続きを読む]
  • 大般涅槃経 光明遍照高貴徳王菩薩品 第十-31
  • 善男子よ、この因縁こそが大涅槃の不可思議であり、無量無辺の功徳を成就できるのです。そして、これが諸仏如来の甚深秘密の蔵であり、この義ゆえに、この経を受持するものは悪漏(煩悩)から離れ、悪漏(煩悩)を断つことができるのです。悪とは、悪象、悪馬、悪牛、悪犬、毒蛇の住む場所、いばらの生い茂る場所、断崖絶壁、洪水などの災害、悪人、悪国、悪い家、悪知識などを指し、このようなものが悪漏(煩悩)の原因となるのです。こ [続きを読む]
  • 大般涅槃経 光明遍照高貴徳王菩薩品 第十-30
  • もし、何もないのならば、自分自身を売って奉納し献上しなさい。なぜならば、この経は優曇華の花のように遇い難いものだからです。善男子よ、永遠の過去からこの娑婆と言う世界をみますと、娑婆には釈迦牟尼仏という仏さまが居られたのです。その仏さまが、諸々の大衆にこの大涅槃経を説かれていたのです。わたしは彼の許に赴き、彼の仏さまに仕え、彼の仏さまが人々に説かれている大涅槃を伝え聞いたのです。わたしは、その教えを [続きを読む]
  • 大般涅槃経 光明遍照高貴徳王菩薩品 第十-29
  • 心に悪を造らないとはどういうことか。善男子よ、世間にはその呪術を受ければ七年間はすべての毒を受けなくなると言う呪術があると聞きます。ヘビの毒もサソリの毒もその間は効かないのです。この術を知る者は、命が尽きるまでどのような毒もうけなくなります。善男子よ、この大涅槃経も同じで、人がこの経を一回聞けば、それを忘れ去ったとしても、七劫の間、悪道に堕ちなくなるのです。では、これを書き写し、読誦し、その義を解 [続きを読む]
  • 大般涅槃経 光明遍照高貴徳王菩薩品 第十-28
  • 善男子よ、菩薩は【五欲は瞬間の歓喜しかもたらさない】ことを知っているのです。たとえば、犬が枯れた骨を噛むようなもの、灯火を持って大風の中を逆行するようなもの。たとえば、木になる多くの果物に気を取られ、毒蛇に気付かないようなもの。たとえば、鳥たちが肉を奪い合った後の水上の泡の跡のようなもの。たとえば、たて糸がなくなった織物のようなもの。市場に行くことばかりに気を取られて何を求めていたのか忘れるような [続きを読む]
  • 大般涅槃経 光明遍照高貴徳王菩薩品 第十-27
  • 菩薩の知恵とは、その人が誰なのか、どのような人相をしているのか、人が何を欲するのかは見ないのです。ただ、その人の考え方が一切法のどこに相当するのかを見るのです。多くの人は土石やガレキのような考え方しかしていないのです。たとえば、家屋のような考え方とは、【人には本質的な性質はなく、すべては縁に因る】と言う考え方です。すべての人は環境と五根により様々に変化するのですが、本質的な定まったものはどこにもな [続きを読む]
  • 大般涅槃経 光明遍照高貴徳王菩薩品 第十-26
  • 善男子よ、菩薩が大涅槃の聖行を修めれば、このような諸々の漏(煩悩)を永遠に断つことができるのです。諸仏如来は聖行を修める事を常としているゆえに無漏なのです。善男子よ、凡夫は五根をうまくコントロールできないゆえに、自らの欲望や他者の誘いや元本の無明に引きずられ、悪に陥り不善となるのです。善男子よ、気の荒い馬をコントロールできなければ、その馬に乗る者も危険な場所に連れて行かれてしまいます。これと同じで、 [続きを読む]
  • 大般涅槃経 光明遍照高貴徳王菩薩品 第十-25
  • 如来とは定まったものとは言えません。なぜならば、このクシナガラ城の菩提樹の樹間に於いて、現に涅槃する姿を見せているではありませんか。でも、定まったものではないとも言えません。常楽我浄という定まった姿を持つからです。如来は有漏ではありません。なぜならば、三漏を断ったのが如来だからです。三漏とは、元本の無明以外の欲界の一切の煩悩、つまり自らの欲望である欲漏、元本の無明以外の現実社会や精神社会の一切の煩 [続きを読む]
  • 大般涅槃経 光明遍照高貴徳王菩薩品 第十-24
  • 如来は有為ではありません。なぜならば、常楽我浄は常住だからです。しかし、如来は無為でもありません。実際に座ったり立ったりする姿を見せ、涅槃という姿も示現しているのです。如来は常ではありません。なぜならば、身体と言う姿も持つからです。非常とは人の知を示し、人は空と言う常法を知らないからなのです。ですから、これを知る如来は非常となるのです。これゆえ、如来を無常ともいうのです。人の考える範囲では無常とし [続きを読む]
  • 大般涅槃経 光明遍照高貴徳王菩薩品 第十-23
  • 善男子よ、なぜ如来を世天と名付けないのかと言えば、世天とは諸王を示し、如来は無量劫の昔に王位を捨てたからです。これゆえ、王ではないのです。王でないものでもないというのは、わたしはカビラエ城の浄飯王の家に生まれています。ですから、王族でないものでもないのです。如来は天に生きる者ではないと言うのは、如来は自己の望みを叶えようと言う考え方から離れているからであり、如来は天に生きる者ではないとは言えないと [続きを読む]