第三章 生成という幻想 1. 生の形式的定義と、一なるものとしての経験
経験が有限個な実在からなる複雑性だとすれば(なぜなら、無限個の実在、ということが既に経験を超えているからである、従って)、生とは無限個数の実在から構成される複雑性である。無限個数とは、文字通りの意味で取られるべきであって、数的な多である。ドゥルーズの潜在的な2つのタイプの多様体の区別、あるいはバディウの実体的多様体と非実体的多様体の区別とは異なる。生をこう定義することで、まず生命の無限の複雑性と神...
第三章 生成という幻想 序 「規約主義的かつ構成主義的という立場。」
何か月もほったらかしにしてしまいました。しかしもちろんその間何も考えていあんかったわけではありません。とりあえずブラシエの「解き放たれた虚無(Nihil Unbound)」については読み終わりました。ラリュエル論とドゥルーズ論に特に惹かれました。白眉は最終章のニーチェ論でしょう。詳しい評論については別に書きます。ところで、世界ということに触れる前に、第三章とし哲学的概念としての生成なるものに向けた批判を書いて...
今回は、補遺として作用としての超越について語ります。なぜなら、超越作用は純粋同一性に深く関わってくるからです。超越についての知。超越とは、対象的なものでない限りで、無であろうか、それも作用的であろうか。もし後者ならば、存在に作用して、それを反復させることで、二つの存在の間、つまり存在者についての超越を生じさせるようなものであるだろう。神ですら、超越作用によって反復されるし、それが神自身についての超...
フランソワ・ラリュエルの「非哲学」によれば、超越論は超越的カテゴリーの統一であり、一なるものであるが、超越は多様なカテゴリーです。今ここで、リゾームをいったん、ドゥルーズ的な発生的ポテンシャル(つまり超越論的で生成的な要素)から引き離してみましょう。つまりそれを、形而上学的・超越的な平面に置き直して、アプリオリな諸形式の交差である、としてみましょう。するとここで、リゾームとは前経験的・抽象的パラメ...
ここまで、純粋同一性なる存在者のの離散している、経験から超越した領域について論じました。そこでは、創造の神秘性を、外部主義的に剥ぎ取ったつもりでした。新しいものがもたらされる、とは、かくも静的な営みであり、ドゥルーズの時間の第三総合に代表される、それ自身で生成しており、いわば経験的な生成の根拠となっているような、永遠生成の領域というものはない、と今は考えています。(前に、純粋生成の閉域と純粋同一性...
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