ヒロブー さん プロフィール

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ヒロブーさん: ビロビロブーのブログ
ハンドル名ヒロブー さん
ブログタイトルビロビロブーのブログ
ブログURLhttp://ameblo.jp/hirohirobbb2000
サイト紹介文子育てについて、成功法則について、潜在意識について書いています。海外情報もときどき
自由文ハワイでヒプノセラピストしています。2人娘を持つパパです。子育て中に気付いた事を書いています。また潜在意識の観点から自己啓発系の事も書いています。「子供が育つパパの言葉」エッセイ集をダウンロード可能です。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供113回 / 365日(平均2.2回/週) - 参加 2010/04/26 00:26

ヒロブー さんのブログ記事

  • 道徳教育(修身)をおろそかにする国は滅んでしまいます。
  •    1980年代の日本の経済は、米国を席巻していた時代。米国に大量の企業が進出し、不動産や企業を買いあさり、ジャパン アズ ナンバーワンという本が注目されました。その当時のレーガン政権が日本のパワーの根底にあるものは何かと、研究に研究を重ねた。その結果、若年層の教育に原因があると結論が出されます。当時の米国の中学高校は暴力と麻薬が蔓延していて、荒れ果てていました。 その理由として、 [続きを読む]
  • 八岐大蛇(やまたのおろち) 古事記 神代の巻
  • ”八俣の大蛇(やまたのおろち)〜古事記 神代の巻 須佐之男命(すさのおのみこと)は、いたずらが過ぎたので、高天原(たかあまはら)を追放されました。 しかし、もともと須佐之男命(すさのおのみこと)は地球の神ですので、地上の出雲の肥の河上(現在の斐伊川)に戻って来れました。 川上から箸が流れてきたので、人が住んでいるに違いないと思って、須佐之男命(すさのおのみこと)は、川に沿っ [続きを読む]
  • 教育に関する勅語
  • 「教育に関する勅語」 朕(ちん)思うに、我が皇祖皇宗、國を肇(はじ)むること、宏遠(こうえん)に徳を樹(た)つること、深厚(しんこう)なり、 我が臣民、克(よ)く忠に、克(よ)く孝に、億兆心(こころ)を一にして、世世(よよ)その美を濟(な)せるは、 此(こ)れ我が國體(こくたい)の精華(せいか)にして、教育の淵源亦実(えんげんまたじつ)に此(ここ)に存(そん)す。 爾( [続きを読む]
  • 教育勅語の成り立ち(続き)
  • 教育勅語の成り立ち(続き) 天照大神は、鏡(三種の神器の一つ)を見ることで我が心を見ることとしなさい、と言いました。 そこに一切の私心は無い。ただひたすら国民の平安を願っている。それが天皇である。 井上毅(こわし)は、天皇の徳によって、日本は始まったのであるという事を、国学を学んでいくうちに理解していきました。 井上毅(こわし)は、明治憲法の草案の中で、その第一条に次の [続きを読む]
  • 教育勅語の成り立ちについて(続き)
  • 教育勅語の成り立ちについて(続き)  第1次山縣内閣の下で文部大臣に就任した芳川は、女子高等師範学校学長の中村正直に、道徳教育に関する勅語の原案を起草させた。 この草案を閣議決定をするために、内閣法制局長官だった井上毅(こわし)に意見を求めました。 井上毅(こわし)は、「この勅語は、陛下のお言葉によるものでなければならない。このようなキリスト教色の強い、学者の書いたような文 [続きを読む]
  • 教育勅語はどのように作成されたのでしょうか?
  • 昭和20年8月の終戦を迎えたとき、北朝鮮に滞在していた日本人家族。ソ連兵が突然、蜂屋さんの家にきて、スパイの疑いで逮捕すると言われました。 妻には、「何かの間違えだから必ず帰ってくるから、心配しなくていい」と言い残して、そのまま連行されてしまいました。 生まれたばかりの赤ん坊を抱えて、その奥さんは日本に引き揚げましたが、夫から、必ず帰ってくるという言葉を信じて、再婚もせずに、子 [続きを読む]
  • 忠実は幸福の種子 〜 永田佐吉
  • 忠実は幸福の種子 〜 永田佐吉 美濃国竹の鼻に永田佐吉という人がいました。 9歳の時に紙屋何某の丁稚となるが、心がけのよい人でしたので、主人や番頭の言いつけを少しも背くことなく店の用やら勝手のことまで、まめまめしく立ち働きました。 夜は本を読み、字を習い少しの暇をも無駄にせず、首尾よく年期を勤め上げました。 家に帰ったあとは、老母を大事になし、小さな紙屋の店を開きました [続きを読む]
  • 謝恩 〜高台院(秀吉の夫人)
  • 謝恩 〜高台院(秀吉の夫人) 豊臣秀吉の夫人は高台院と言って、夫によくつかえて、内助の功の多かった人であります。 夫人は、元織田信長の足軽、杉原助左衛門という者の娘でした。 生まれた時から、同じ信長の家来の伊藤右近という人に世話になり、親切に養育されました。 大きくなると、良い家に奉公に出してもらい、行儀などを見習いました。 その頃、秀吉は、木下藤吉郎と言って、まだ [続きを読む]
  • 自分に厳しく 〜 渡辺崋山
  • 自分に厳しく 〜 渡辺崋山 崋山は、父がいなくなってから、ちちお後を継いで、だんだんと重要な仕事を任せられるようになりました。 崋山は、非常に規律正しく生活をする人でした。重要な仕事に任じられて、どれだけ忙しくなっても、家にいるときは、時間割を作って、朝・昼・晩、それぞれの時刻に割りあてた仕事を、その通りに行いました。 時間割は、以下のようなものでした。 1、午前4時か [続きを読む]
  • 艱難、汝を玉にする 渡辺崋山
  • 艱難(かんなん)、汝を玉にする 〜 渡辺崋山 渡辺崋山は人の勧めで、ある師匠について絵を習うことになりました。崋山は、母からわずかなお金をもらっては、紙を買い、昼夜を問わず熱心に稽古をしていましたが、師匠に十分なお礼をすることができなかったので、2年ばかりで波門にされてしまいました。 崋山は、1日も早く一人前の画家になって、父母を安心させようと思っていましたから、たいそう力を落 [続きを読む]
  • 親孝行は自分の身も助ける 〜 渡辺崋山
  • 親孝行は自分の身も助ける 〜 渡辺崋山 渡辺登は、田原藩(愛知県東部)の藩士で、号を崋山と言いました。小さい時から素直な人物で、よく父母の言いつけを守り、父母に心配をかけるようなことは少しもありませんでした。 14歳の頃、家が貧しい上に、父親が病気にかかってしまったので、暮らしは一層苦しくなりました。 崋山は、父の背中をさすったり、薬を飲ませたりして、懸命に父を看病しました [続きを読む]
  • なかよき兄弟 「修身唱歌」
  • なかよき兄弟 「修身唱歌」 (1)ぶんちゃん 大人よ これをみやためたる カネの そのうちでめいめい もとめて きましたよかよーに なか良い 兄弟を産みたる 父母 嬉しかろう (2)みなさん 一緒に おさらいな勉強すれば 兄さんがもらった お菓子を あげますよかよーに 正しい 子供らを育てる 親たち 嬉しかろう (3)ババさん お出かけ 手を引こう私が 雪駄を 揃えましょう私は  [続きを読む]
  • 親を敬う 〜 松平好房(まつだいら よしふさ)
  • 親を敬う 〜 松平好房(まつだいら よしふさ) 松平好房は、小さい時から行儀の良い人で、自分の居間にいる時でも、父母のおられる方へ足を伸ばしたことは、決してありませんでした。 よそへ行く時には、そのことを父母に告げ、帰ってきた時には、必ず父母の前へ出て、「ただいま帰りました」 と行って挨拶をし、それからその日にあったことを話しました。 好房は、父母から物をもらうときには、丁寧 [続きを読む]
  • 新天地に挑む 〜 山田長政
  • 新天地に挑む 〜 山田長政 今から320年ばかり前に、山田長政は、シャムの国へ行きました。シャムというのは今のタイ国のことです。 その頃、日本人は、船に乗って盛んに南方の島々国々に往来し、たくさんの日本人が移り住んで、いたるところに日本町というものができました。 シャムの日本町には5千人ぐらいが住んでいたということです。 20何歳かでシャムへ渡った長政は、やがて日本町の [続きを読む]
  • 米国で馬鈴薯王となった男 牛島 謹爾(ジョージ・シマ)
  • 進取の気性 〜 牛島 謹爾(うしじま きんじ)(ジョージ・シマ) 牛島 謹爾は久留米在住の古くからある農家に生まれ、明治21年(1888年)、25歳のとき、志をたてて米国に渡った。 その頃の渡米者は、大抵修学を目的とし、将来は日本に帰って官途にでもつこうという者が多かった。 その中で、謹爾は一人で田舎の農園に行き、馬鈴薯(ばれいしょ)(じゃがいも)作りの名人と言われる人に従っ [続きを読む]
  • 「友を信じる」〜杉浦重剛
  • 「友を信じる」〜杉浦重剛 杉浦重剛先生は、安政2年3月(1855年4月)近江の膳所に生まれ、大正13年(1924年)2月、満68歳で亡くなられた。 若い時から教育の事に携わり、終生後進を教え導いてうまなかった。 大正3年、東宮御学問所が設けられた時、召し出されてご用係を仰せつけられ、倫理科を担任して、至誠一貫、ご進講の大任を果たした。 杉浦先生は、高潔で重厚、また、友情に熱く [続きを読む]
  • 松坂の夜 本居宣長と賀茂真淵の対談
  • 教えを請う(松坂の一夜) 本居宣長は、伊勢の国、松坂の人である。若い頃から読書が好きで、将来学問を持って身を立てたいと一身に勉強していた。 ある夏の中ば、宣長が兼ねて買い付けの古本屋へ行くと主人は愛想よく迎えて、 「どうも残念なことでした。あなたが、よくお会いになりたいと言われていた江戸の賀茂真淵(かものまぶち)先生が、先ほどお見えになりました。」 という。思いがけない言葉に [続きを読む]
  • 満州からの引き揚げ体験記
  • 昭和20年8月9日まで、満州の新京で暮らしていた、ある日本人親子の引き揚げの物語です。 それまで平穏に暮らしていた日本人たちは、夜中の10時すぎに叩き起こされました。 そして、夜中の1時30分までに必要最小限の荷物だけを持って、新京駅に集合するように伝えられました。 ソ連軍が、中立条約を破り満州に侵略してきたので、急遽、避難することとなったのです。 まだ、生まれて数ヶ月の赤ん坊と、 [続きを読む]
  • 南朝鮮からの引揚者の体験記
  • 昭和20年8月朝鮮半島で終戦を迎えた日本人たち。南朝鮮に住んでいた、ある日本人家族の引き揚げの体験談です。 南朝鮮の全羅南道の羅州という町で、小学校の教員をしていた彼女は、学校で終戦の日を迎えました。 その日は、学校が放火されないように、職員が学校に宿泊することになりました。 8月17日、学校に警察署長が訪ねてきました。目的は”御真影”を回収することでした。 御真影とは、昭和天皇と [続きを読む]
  • 昭和20年8月、北朝鮮に住む日本人の引き揚げ物語
  • 昭和20年8月15日終戦を迎える前から、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して、満州や蒙古、北朝鮮、樺太、千島を侵略してきました。 そのような時期に、北朝鮮に住んでいた日本人居留民はどのようにして、日本に引き上げてきたのでしょうか? 以下は、北朝鮮の羅南(ラナン)に住んでいた、ある母娘3人と長男の体験談です。 このまま朝鮮にいたら命が危ないという情報を聞きました。 軍事工場に働きに言 [続きを読む]
  • ユダヤ人を救った男 樋口季一郎
  • 昭和12年12月26日、満州国のハルビンのモデルン・ホテルで極東ユダヤ人大会が開催されました。 モデルン・ホテルは、ユダヤ人大富豪のヨゼフ・カスペ所有のホテルでした。 この会議には、ハルビン、天津、奉天、大連、海拉爾(ハイラル)、さらには神戸からもユダヤ人グループの代表が集まりました。 また、陸軍中央部も陸軍におけるユダヤ問題専門家であった安江仙弘(のりひろ)大佐をオブザーバーと [続きを読む]
  • 終戦後の樺太、千島での戦い
  • 昭和20年8月、樺太駐留軍では、ソ連軍による侵略ではなく、米国からの侵略を想定していました。 なぜなら、ソ連とは中立条約を結んでいたためです。 日本の感覚からですと、中立条約を結んでいる国とは戦争しないという考えになりますが、ソ連にはその考えは通用しませんでした。 樺太を守備していた日本の第88師団(峰木十一郎中将)は約2万人の兵隊が配備されていました。 千島列島 [続きを読む]