イプシロン さん プロフィール

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イプシロンさん: 生かされるまま生きる
ハンドル名イプシロン さん
ブログタイトル生かされるまま生きる
ブログURLhttp://blog.livedoor.jp/ipsilon/
サイト紹介文ひきもり生活の改善と社会復帰を目指して、自分探しをしています。
自由文かつて鬱病で引き篭もっていたオヤジの独白ノートです。時系列にそった自分史を書きあげ。今は適当に日々を生きている、オヤジの心の日記です。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供267回 / 365日(平均5.1回/週) - 参加 2010/05/19 19:56

イプシロン さんのブログ記事

  • 『スッタニパータ 大いなる章(4) スンダリカ・バーラドヴァージャ 』
  • 本節は仏教本来の供養の意味について説かれたものだろう。近現代に成立した宗教的行為における供養式化――仏前や神前に供物を備え、先祖や神仏からの守護を望んだり、功徳を得ようと願うこと――は、本来の仏教からすれば、誤った供養の精神である、と。そうした供養は所詮は「欲望という執着」でしかないからだ。よって仏教は、欲望にもとづく儀式や生贄といったものの一切を否定しているということになる。では、一体なににどの [続きを読む]
  • 『スッタニパータ 大いなる章(3) みごとに説かれた言葉』
  • 「みごとに説かれた言葉」は四つの特徴を持つという。1)法句ズバリいえば実智のことであろう。個人が内面で己が心を直観したときにみる言語化できない句とでも言えばいいだろうか。具体的にいえば、みたものをありのままに表現した句ともいえよう。であるからして、句はすなわち「名前」といっていいだろう。なぜそうなるのかがまったく理解できないかたは、カント哲学、実存主義、ハイデガーやヴィトゲンシュタインの言語論を学 [続きを読む]
  • 民衆が権力におもねった結果が――
  • ――これだ。まあ、そうなりますよね。ここ数日、わたしだって記事を更新したくなくなりましたからね。いや、今ここで言うことをやめてしまったら、権力の思う壺じゃないかとも言えるが、では権力やそれにおもねる勢力を批判をしていればいいかといえば、それもまた無意味であることを知っているからだ。批判は批判でしかないからだ。批判は批判をよび、また悪感情を呼び、悪と憎悪の連鎖を強めるだけだからだ。起こったことを見聞 [続きを読む]
  • 『スッタニパータ 大いなる章(2) つとめはげむこと』
  • 瞑想する覚者の内心に訪れたナムチ(悪魔)の囁きは「生きていて何の意味があるんだ?」という死魔というものだった。あらゆる魔性のなかで、これほど強大な魔はないだろう。かくいうわたしも死魔に唆されて、自殺未遂したような者なので、死魔というものがいかなるものかの一端くらいは知っている。だから、仏教の教えの根底には「何が起ころうとも、まず生きる」というものがあると思う。日蓮の『立正安国論』の奥底にもそういう [続きを読む]
  • 『法華義疏』安楽行品第十三を読んだ(4)
  • 安楽行本もいよいよ佳境です。ということで、今日は最後に説かれており、なおかつ最も重要な「慈悲行」とはいかなるものかを思索していきます。とはいえ、経典にはこれが「慈悲行」です! とはっきり書いてあるので、別に悩むこともない。在家や出家の人の中に於ては、大慈悲の心を生じ、菩薩に非ざる人の中に於ては大慈悲を生じて、応に是の念を作すべし。是の如きの人は、則ち大いなる失を為せり。如来が方便して、宜しきに随い [続きを読む]
  • 『スッタニパータ 大いなる章(1) 出家』
  • 勘の鋭い人なら、この前章「小なる章」が個人の信仰においてあるべき修行法を説いた教えであることに気づいていただろう。つまり、用語で言うところの自行、「小乗」の教えが前章だったと見ていいだろう。そして、出家という節からはじまるこの「大いなる章」は恐らく、自他の関係性にあってあるべき修行者の姿を説いているのだろう。だからこの章は化他「大乗」の教えと見ていいだろう。そういう観点で「出家」という節を聞けば、 [続きを読む]
  • マイケル・ムアコック『ルーンの杖秘録1、2』を読んだ
  • あのブルガール人は個人でした。同様に、ペシュト候、ロールダール・ニコライエフといった(権力者)連中も、です。彼らは例外的存在であって、ほとんどすべての場合、いずれは領民が反乱を起こして、彼らを殺してしまいます。ところがかの暗黒帝国はそうじゃない。そういう個人が集まった国家(、、)であって、そこでは、彼らのやっているよな行為は、当然と受けとられているのです。国家悪、組織悪――。結局のところ、組織に依 [続きを読む]
  • 『法華義疏』安楽行品第十三を読みはじめた(3)
  • 今日は「口善行」の部分を簡素にまとめておきます。1)自ら読誦し、あるいは人に経典を語るとき、「法」および「人」の過(とが)を説かざれ。また、諸の法を虚論して爭い競うことなかれ。2)諸々の世の法師を軽んじ慢(あなど)らざれ。(いかなる人であろうと、自分の知らないことを一つでも知っているのが事実であるから)3)他人を好き嫌いで判断したり、他人の長所・短所を口にしない。(信仰者といっても、多くの人はこの好 [続きを読む]
  • HIROSHIMA
  • 日本も731部隊で、中国人を「マルタ」と呼んで、人体実験をした。ドイツも、ユダヤ人強制収容所で、人体実験をした。そしてアメリカも同じだ。こうして被爆者を標本にした。そのアメリカは、731部隊の実験データ引き渡しと条件に、関係者の訴追を見送ったとも言われている。ソ連だってカチンの森で虐殺した。どもれ、人間のやるようなことじゃない。どこの国がどうのとかという問題ではない。人間を人間として見れない思想が憎い。 [続きを読む]
  • 『スッタニパータ 小なる章(3) 恥』
  • 近づいてはならない友人を説いた、この節のポイントは2つでしょう。1)できることがあるのに、しないでいて、「わたしはあなたの友である」という人。2)言っていることと、やっていることが違う友。生きとしいきるものが幸せでありますように。感謝・合掌。 [続きを読む]
  • 『法華義疏』安楽行品第十三を読みはじめた(2)
  • 安楽行品は、それまでの教説の流れから、文殊師利菩薩が如来滅後に法華経を受持し、流通していく重要性を理解したあと、釈尊がその実践法を説きたいのであろうことを察し、質問する場面からはじまる。「打てば響く」という言葉があるが、法華経は序品からずっとそういった関係性が重要であると、暗示していることが、ここでもわかる。そうして説かれていく安楽行が、大きく分けると四つであることは既に(1)で述べてきた通りだ。 [続きを読む]
  • 『スッタニパータ 小なる章(2) なまぐさ』
  • 先の節で説かれた「宝」と対になっているのがこの「なまぐさ」であろう。仏教史観でみると、この節は六師外道のカッサパに法を説いた場面である。カッサパはこの世には善も悪もない。やりたいようにやりたいことをすればいい、という無道徳論を立てた人師だそうだ。いいや、違うだろう。確かにこの世界は「空」であるし、簡素にこの世界を説明しようとするなら、ウパニシャット哲学にあるように、善悪一如であるとはいえるだろう。 [続きを読む]
  • 『法華義疏』安楽行品第十三を読みはじめた(1)
  • 『法華義疏』安楽行品にある、大意を読み、現代語訳をさっと流して読んでみたところ、この品は少々時間がかかっても、しっかりとした忘備録とすべきだと感じた。なぜかなら、これまでわたしが習い、教わってきた仏教と正反対のことが説かれていると思ったからだ。もちろん、数年前から、これまで学んできたものは間違っていたかもしれない――仏典の教えどおりではない――と気づいてきたので、それほど衝撃を受けたわけではないの [続きを読む]
  • 『スッタニパータ 小なる章(1) 宝』
  • 難しい仏教用語をしめす言葉がいくつかあるが、それを説明したりしないほうがいい節だろう。ただ朗読の声に耳を預ければいいと思う。『法華義疏』の見宝塔品の記事を読まれた方なら、はじめの「歓喜せよ」で、感動が湧きおこるのではないだろうか。「集い」とは、おそらく仏と仏の関係性(対象があること)によって、自身の内面に湧きあがる大歓喜のことだろう。シラー曰く――。そういう友を生涯に見つけられなかった者は、この集 [続きを読む]
  • 『法華義疏』持品第十二を読んだ
  • 昨今一般に知られている法華経では、見宝塔品のあとは提婆達多品になっているが、『法華義疏』ではこの持品になっている。最近の仏教研究などを調べてみると、提婆達多品は法華経成立後に書かれたものであり、法華経を編集しなおすときに加えられたという説が濃厚であるようだ。ともあれ、『法華義疏』は日本最古の墨書きによる書物であり、書かれたのは、西暦615年だそうだ。ということから、少なくとも、7世紀に仏教が日本に伝来 [続きを読む]
  • 『法華義疏』見宝塔品第十一を読んだ
  • 爾の時、仏の前に、七宝の塔有り。高さ五百由旬(ゆじゅん)にして、縦広(たてよこ)二百五十由旬なり。地より湧き出して、空中に住在(そびえ)てり。(中略)七宝を以て合成(かざ)られ、高く四天王の宮に至る。三十三天は。天の曼陀羅華(まんだらげ)を雨(ふら)して、宝塔を供養し、余の諸の天と、竜と、夜叉と、乾闥婆(けんだっぱ)と、阿修羅と、迦楼羅(かるら)と、緊那羅(きんなら)と、摩睺羅伽(まごらが)と、人 [続きを読む]
  • 『スッタニパータ 蛇の章(12) 聖者』
  • 実に素晴らしい理想の人間象である。しかし、語句の意味を一般世間のもので読みとってしまうと、経典が伝えようとするものとは違ったように解釈することになるだろう。例えば冒頭に出てくる「家の生活」というのは、風雨を避けるために家に住むという意味とは少し違う。「家の生活」とは世間一般で使われている「偏ったものの見方」のことであり、「真理に則ったものの見方(空観)」とは違うものの見方で事象を見ていることを指す [続きを読む]
  • 『スッタニパータ 勝利』
  • 慧眼で見れば、生と死に境はないというのが仏教の思想だ。同様に、肉体と環境にも境はないと見る。それはそうだろう。肺にはいっている空気と肺、どこからが己のもので、どもまでが己のものでないと言えるのか?何かを食べれば、それが血管の中を流れる。腸の中には細菌という己以外の生き物を飼っている。口や喉にある間は、唾液を汚いものとは思わない。しかし外に吐き出されると、それを汚いと思う。同じ唾なのに。糞尿もまたそ [続きを読む]
  • 『法華義疏』法師品第十を読んだ(2)
  • では経典がどうなっているのかを見ていこう。詳しい釈はなるべく避け、煩瑣になることを避けようと思う。釈尊が薬王菩薩に告げる。ここに集う諸々の衆生(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩たち)を見ましたか?薬王答えて曰く。はい、見ました、と。さらに釈尊は告げる。是の如き等の類が、咸く仏の前に於て、『妙法蓮華経』をの一偈、一句を聞いて、乃至、一念も随喜せん者には、我は皆記を与え授く。当に阿耨多 [続きを読む]
  • 『法華義疏』法師品第十を読んだ(1)
  • いよいよ、法華経で最も重要な個所へ品が進んできた。これまでの序品から授学無学人記品までは、未来世の授記はあったものの、畢竟すれば過去と現在について説かれたものであり、この法師品からは、時間というベクトルが現在から未来へと向くことになるからだ。なぜ現在と未来に目を向ける必要があるのか? 簡単である。仏教ではあらゆる事象は「諸行無常」と説いているからだ。いくら過去を讃嘆しようと、また今その過去から学ぼ [続きを読む]
  • 『法華義疏』授学無学人記品第九を読んだ
  • いよいよ、授記も終盤である。よってこの品では、まだ授記をうけていない十大弟子の二人、阿難(あなん)と羅護羅(らごら)への授記がはじまる。またその後、学無学(学ぶことが残っている者と学ぶことが既にないほど学んだ者)の二千人の弟子たちにも授記が与えられる。多聞第一の阿難に与えられる名号は、山海慧自在通王(さんかいえじざいつうおう)如来。密行第一の羅護羅に与えられる名号は、蹈七宝華(とうしちほうけ)如来 [続きを読む]
  • 読書メーターまとめ――2017年7月
  • 7月の読書メーター読んだ本の数:9読んだページ数:2887ナイス数:398法華義疏 上 (岩波文庫 青 315-1)の感想上巻は序品第一から信解品第四まで。序品・方便品は法華経の説法が行われていくのを、観客席から見ていくように記述。譬喩品に至って仏の立場から、信解品では翻って弟子の立場からの記述となる。これだけでも相当に客観的であり、カント哲学でいう悟性によって見た世界観といえるだろう。また本書を釈した聖徳太子は、先 [続きを読む]
  • 『スッタニパータ アーラヴァカ夜叉』
  • この節にもまた夜叉が登場する。夜叉=鬼神の総称であり、アーラヴァカはその一体である。冒頭は様々な意味に解せるだろう。「入れ、出ていけ」というやり取りは、生滅に悩むアーラヴァカが、その生滅から起こる苦から脱する方法を模索しており、釈尊にそれが出来るかを試したといえよう。自分がそうなりたいのに、自分ではそれを為さず、人にそれをやって見せろと言う。そこには他人を思いどおりにしたいというアーラヴァカの心― [続きを読む]
  • 『スッタニパータ 雪山に住む者』
  • この節は少し長いが、仏教の根本的思想をほぼ余さず説いている経典といっていいだろう。経典自体は、十五夜(満月)の法会に集おうとする、山岳夜叉が問い、雪山夜叉が答えるという問答形式になっている。はじめの問答は、釈尊という師は、身口意の三業から離れている人なのかという問答からはじまる。つぎは、生滅についての問答、つぎは、とつづいていく。では特に意の三業である、欲望についてはどうだろうか? と。なぜなら夜 [続きを読む]