札幌ナザレン さん プロフィール

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札幌ナザレンさん: 希望のことばー札幌ナザレン教会講壇からー
ハンドル名札幌ナザレン さん
ブログタイトル希望のことばー札幌ナザレン教会講壇からー
ブログURLhttp://nazach.exblog.jp
サイト紹介文札幌ナザレン教会の牧師、古川修二の礼拝メッセージをブログで配信中
自由文札幌ナザレン教会牧師、古川修二の礼拝メッセージ。毎週日曜の礼拝にて、分かりやすい聖書からのメッセージをブログで配信しています。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供50回 / 365日(平均1.0回/週) - 参加 2010/06/11 19:40

札幌ナザレン さんのブログ記事

  • 主は生きておられる─エリヤの神―
  • ■聖書の箇所 列王記上18章15〜24節 エリヤは旧約を代表する預言者で、人々を神に立ち返らせるために立てられた神の器です。彼がアハブ王の前で、干ばつを預言してから3年が経過していました。ここで、エリヤは、雨が降らないのは、エリヤのせいであるとして彼を捜しだし、殺そうとしていたアハブ王に仕えるオバデヤという高官に、「わたしの仕える万軍の主は生きておられる」と、告げます。「主は生き... [続きを読む]
  • 神の知恵を求める
  • ■聖書の箇所 列王紀上3章3〜14節 就任当初のソロモンは、主なる神を第一として純粋に礼拝をささげ、主を喜ぶ心を持っていました。聖書はそのような彼を、3節で「ソロモンは主を愛し、父ダビデの定めに歩んだ」と評価しています。主なる神は、そのことを喜び、ソロモンの捧げものを受けて、その夜、夢の中で彼に語りかけられるのでした。「あなたに何を与えようか、求めなさい」と。ソロモンの答えは賢明... [続きを読む]
  • あなたのその力で
  • ■聖書の箇所 士師記6章11〜18節 ギデオンは、ミデアン人の来襲のときに、彼らの目を避けるために酒ぶねの中で麦を打っていた、と記されています。その姿は、臆病にも、卑怯にも見えます。そんなギデオンの前に御使いが現れ、声をかけます。12節「大勇士よ、主はあなたと共におられます。」このときのギデオンにとって、その言葉は大げさな言葉にしか聞こえなかったと思います。しかし、私たちが忘れてはな... [続きを読む]
  • 弱い時にこそ、強い
  • ■聖書の箇所 第二コリント12章1〜10節 使徒パウロは、当時の社会にあって、非常に恵まれた環境で育った人の一人でした。ローマの市民権を持ち、当時の最高の学問ばかりではなく、宗教的にも最高の学びと訓練とを受けていました。そのような人がキリストを世界に人々に宣べ伝える伝道者になったのです。しかし、そのパウロの肉体に、一つのとげのようなものが与えられていたのです。彼はそれが、取り除か... [続きを読む]
  • へりくだって祈る
  • ■聖書の箇所 ルカ18章9〜14節 主イエスは、自分こそ義人、正しいと誇り、他の人々を見下げている人たちに対して、パリサイ人と取税人という二人のたとえ話をして、神さまの前に立つべき信仰者の姿を描きました。主イエスがこのお話をされたのは、自分こそ正しいと思っていた人たちであったということです。それは誰のことでしょうか。他でもない、私たちのことです。パリサイ人が取税人と比較して、自分... [続きを読む]
  • 真夜中に戸をたたく
  • ■聖書の箇所 ルカ11章5〜13節 私たちに与えられている聖書の箇所は、ルカによる福音書11章5節から13節ですが、1節に「また、イエスはある所で祈っておられたが」と記されています。主イエスは、絶えず祈っておられます。そして、「イエスは祈り給う」とは、何と心励まされる御言葉でしょうか。 私たちの心の中には、「何を祈ったらよいか分からない」、「祈れない」、「祈りたくない」という正直... [続きを読む]
  • 主の祈り
  • ■聖書の箇所 マタイ6章5〜15節 2017年の札幌教会の御言葉を祈り求める中で示された御言葉は、ガラテヤ書6章の15節の御言葉でした。そこに「ただ、新しく造られることこそ、重要なのである」とあります。新共同訳聖書は、「大切なのは新しく創造されることです」と訳しています。 2017年は、宗教改革者ルターが、カトリック教会の扉に、教会を改革するための95ヶ条の提題を張りつけた1... [続きを読む]
  • 闇に輝く光
  • ■聖書の箇所 ヨハネ1章5節、ルカ8章8〜20節「きょうダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主なるキリストである。」ここで、「救い主」と訳されている言葉が持つ元々の意味は、私たちがもはや自分を助けることができなくなっているところで、助けをもたらしてくださる救い手、救済者のことです。この世には、私たちがどんなに頑張っても、どうすることもできないような... [続きを読む]
  • 救い主を迎える
  • ■聖書の箇所 ヨハネ1章10〜13節 ルカ2章1〜7節 イエス様は生まれた時、布に包まれ、飼い葉おけの中に寝かされました。宿屋には彼らの場所はなく、家畜のいる場所しか、いる所がなかったからです。ベツレヘムの人々は、クリスマスに対する私たちの態度をよく現していると思います。客間には、主イエスを入れる場所がなかったと言うのですけれども、客間どころか、私たちの心のどこの隅にも主イエスを迎え... [続きを読む]
  • 人となられた神
  • ■聖書の箇所 ヨハネ1章14節、マタイ1章18〜23節 「すべての人を照らすまことの光があって、世に来た。」 私たちの救い主イエス・キリストは、明確な目的をもってこの世に来られたお方です。その目的は、神のみ心を行うこと、すなわち、すべての人たちの救い主となる、私たちの救い主となるということでした。この点を見落としたなら、私たちはクリスマスの最も大切な恵みと真理とを見失ってしまいま... [続きを読む]
  • 救い主を喜ぶ
  • ■聖書の箇所 ヨハネ1章9節 ルカ1章26〜38節 福音書が私たちに伝えることは、神ご自身が、私たちを救うために、マリヤという女性を通して、この世に来てくださった。その厳かな真実を、マリヤとヨセフという若い二人の夫婦が静かに、従順に受け止めたということです。 しかし、この二人の決心、決断がなかったならば、救い主がこの世に誕生することはなく、その大きな祝福は人類に与えられなかっ... [続きを読む]
  • いのちを与えるキリスト
  • ■聖書の箇所 ヨハネ6章32〜40節   メッセージ 吉田 麻希子師  イエス様の「わたしがいのちのパンです」(35節)との宣言は、6章の前半の五千人の給食の奇跡を背景としています。ヨハネの福音書における5,000人の給食の記事の特徴は、イエス様ご自身が主体的に、率先して人々に与えられることに強調点を置いていることです。  この奇跡を経験した人々は、熱狂し、パンを与えるイ... [続きを読む]
  • 人を顧みる神
  • ■聖書の箇所 詩篇第8篇 ダビデは、神の知恵と力が大空の月や星に現されているだけではなく、地上の弱い人々によっても現されていることに注目します。「みどりごと、乳飲み子」とは、人間の中の最も弱く、頼りない者のことですが、神様はそのような者を通してご自分の栄光をあらわされます。 同じように、幼子のような素直な信仰を持つ者を神様は喜び、用いてくださるのです。大宇宙に思いを巡らし、大自然... [続きを読む]
  • 平和をつくる人
  • ■聖書の箇所 サムエル記上26章 ルターは、私たちの人格を築き上げるものが、三つあると語りました。「神の言葉と祈りと試練」の三つですが、人は試練を通して、悪魔に誘惑され、悪魔に捕えられる危険もあるのです。サウルとダビデの人生から私たちはそのことを教えられます。両者の生き方から、私たちは試練を通して成長していく人と試練を通して誘惑に陥り、人を滅ぼし、自らも滅んでいく人を見ることができま... [続きを読む]
  • 人の思いを超えて
  • ■聖書の箇所  サムエル記上18章1〜16節 妬み、敵意は人の心を闇にし、自分の愚かさを見えなくさせます。それは、キリスト者も教会も抱えやすい闇です。この闇に覆われてしまうと、個人の益や、自分の教会や教団の繁栄だけを中心に考えて、神の国全体の益、成長、収穫、繁栄という視点で見ることができなくなります。 サウル王は、自分と自分の家族のことだけしか考えない心の狭い人でしたが、彼の... [続きを読む]
  • 「我、ここに立つ
  • ■聖書の箇所 マタイ7章24〜27節   久保木 勁師 によるメッセージ ルターの『95個条の提題』はローマ法王の怒りに触れ、破門状をつきつけられる結果となりました。その破門状を公衆の面前で焼き捨てたため、ルターは、ドイツ皇帝からウォルムスの国会に喚び出されて、訊問される羽目に陥りました。 ウォルムスの国会では、机の上にうず高く積み上げられたルターの著書を前にして、三... [続きを読む]
  • 神の選び
  • ■聖書の箇所 サムエル上16章1〜13節 「人はうわべを、外見を見るが、主は心を見る」とは、どういうことでしょうか。ある説教者は、次のように語っています。「心を見る、というのは、神との関係を見ることであります。それは、その人が、神に対して従順になることができるか、神に対して謙ったものになれるか、その心を見るということです。」と。 ダビデもまた、血色がよく、目のきれいな、姿の美... [続きを読む]
  • 主のことばを守る
  • ■聖書の箇所 サムエル記上13章1〜15節 イスラエル最初の王サウル王の問題点は以下の三つでした。第一に、彼は「待ちきれなかった」ということです。信仰者は、本来待つ者であるということを私たちは聖書から、教えていただけなければなりません。主の時に先んじて、人間の浅知恵で働いたり、恐れや不安に駆られて行動するときに、主の御計画を損なうことがあるということです。 10月31日は、宗教改... [続きを読む]
  • 人を見上げる神
  • ■聖書の箇所 ルカ19章 1〜10節  北海道KGK主事 杉本潤 師 によるメッセージ この短い箇所には、神である主イエス様がこの地上に来られた理由、神様とはどのような方であるかが記されています。私たちは日々、神様をどのような方として信じ歩んでいるでしょうか? 私たちが信じる神様は、失われた人を尋ねだして、その人のもとに私のもとに来てくださるお方です。取税人のかし... [続きを読む]
  • 主よ、お話しください
  • ■聖書の箇所 サムエル記上3章  少年サムエルは、主の呼びかけに応えて、「しもべは聞きます。主よ、お話しください」と答えました。この「主よ、お話しください」という一言こそが、士師記から続いていた不信仰な時代の人々の内から失われていた、信仰の告白でした。 私たちは、先週、弟子のトマスから生まれた、素晴らしい信仰の告白「わが主よ、わが神よ」を学び、味わったのですが、主の名を呼びながら... [続きを読む]
  • わが主よ、わが神よ
  • ■聖書の箇所 ヨハネ20章19〜29節  キリストを信じる私たちにも、その群れである教会にも、様々な欠陥がある。不安や恐れをもつこともある。しかし、そうした弱さをもった者たちが、共に集まっているということの中に深い意味があります。そうした集まりに、その真ん中に復活の主が現れてくださるからです。 トマスは、このとき、人を信仰に導く、主イエスの深い愛に触れたのでした。そして、その愛を... [続きを読む]
  • 仕える人になる
  • ■聖書の箇所 マルコ10章35〜45節  ゼベダイの子のヤコブとヨハネは主から深く愛され、信頼されていた弟子たちでした。しかし、彼らは、すぐに激しやすい性格で、「雷の子」という意味のあだ名をつけられていました。しかし、その一人ヨハネが、愛の手紙であるヨハネの第一の手紙を記した人であるということは驚くべきことですし、私たちは、そのことの中に、どんな人でも、主イエスとその愛の中にとどまり... [続きを読む]
  • わたしに従ってきなさい
  • ■聖書の箇所 ヨハネ21章1〜19節  ヨハネによる福音書は、実質的に20章で終わっており、21章の記事は、後に書き加えられたものであると言われています。しかし、それは単なる追加の記事ではなく、福音書全体を完成する誠に大切な章です。もし、21章が書かれていなかったとしたら、私たちは一体、どこでペテロの立ち直りを知ることができるのでしょうか。主イエスが弟子たちに残りなく、最後まで示され... [続きを読む]
  • 立ち直って生きる
  • ■聖書の箇所 ルカ22章31〜34節  ペテロは、主の言葉どおりに、三度も主イエスを否定しました。「わたしはあの人を知りません」と。その弱く惨めな姿こそ、私たちのありのままの姿です。  しかし、そうしたペテロが、なぜ、罪赦されたばかりか、立ち直り、やがて教会の土台となり、柱となっていくことができたのでしょうか。その謎を解く、手がかりは、32節の主イエスの御言葉です。「しかし、... [続きを読む]
  • 弱さに寄り添う神
  • ■聖書の箇所 ヘブル4章14〜16節    メッセージ  大山裕昭牧師【序】 世に生きている限り、様々な試練や問題が襲ってきます。信仰を持つと、人や事柄に真剣に向き合おうとする分、問題は多くなるように感じます。目の前で起きてくる問題は、背後で起きている霊的な戦いでもあります(エペソ6章)。私たちを、神から引き離そうとする力が働いてきます。人は、弱い存在です。け... [続きを読む]