札幌ナザレン さん プロフィール

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札幌ナザレンさん: 希望のことばー札幌ナザレン教会講壇からー
ハンドル名札幌ナザレン さん
ブログタイトル希望のことばー札幌ナザレン教会講壇からー
ブログURLhttp://nazach.exblog.jp
サイト紹介文札幌ナザレン教会の牧師、古川修二の礼拝メッセージをブログで配信中
自由文札幌ナザレン教会牧師、古川修二の礼拝メッセージ。毎週日曜の礼拝にて、分かりやすい聖書からのメッセージをブログで配信しています。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供60回 / 365日(平均1.2回/週) - 参加 2010/06/11 19:40

札幌ナザレン さんのブログ記事

  • あなたは、どこにいるのか
  • ■聖書の箇所 創世記3章 創世記3章は、聖書全体を凝縮した箇所であると言われています。神によって造られ、「はなはだ良かった」と記された人間がどのようにして神に対して罪を犯し、堕落していったのかということが、誰にでも分かる印象的な表現で描かれている箇所です。6節に「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共に... [続きを読む]
  • 神に造られた人
  • ■聖書の箇所 創世記1章27節、2章4〜7節 神様は、「わたしに似ているように、人を造ろう」と言われました。まず、土で人の形を造ってからその鼻にいのちの息を吹き込みました。すると、土でできた人の形に命が入り、人は本当の意味で生きた者となりました。他の生き物との違いは何でしょうか。人は、神を信じ、礼拝することができます。神様に祈り、お話しをすることができます。動物は、礼拝や祈りをしませ... [続きを読む]
  • 天地創造
  • ■聖書の箇所 創世記1章 「はじめに神は」聖書冒頭のこの言葉は、聖書全体にとって欠かすことのできない導入であり、すべての物事は神が主導権をとっておられるということを宣言する言葉です。初代教会の指導者の一人であるアウグスティヌスは、次のように言っています。「神様は無から有を創造されました。何もないところから神様がお持ちの力によって一切のものが造られた。しかも、神様は、何か機械を作るとい... [続きを読む]
  • 共に歩むイエス
  • ■聖書の箇所 ルカ24:13〜43 エマオ途上の弟子たちは、彼らに聖書を説き明かしてくださったお方との交わりの中で心開かれ、主イエスのことを深く知ることができました。主の姿が見えなくなったときに、彼らは語り合います。 「道々お話になったとき、また聖書を説き明かしてくださったとき、お互いの心が内に燃えたではないか。」そのときにはまだ分からなかった。後で分かった。すぐにわからなくても... [続きを読む]
  • 開かれた心、開かれた手
  • ■聖書の箇所 申命記15章7節〜11節 日本国際飢餓対策機構啓発総主事 田村 治郎師 この世界には、わたし達と同じ地球、同じ時代を生きていながら貧困や飢えによって失われる命が4秒に1人あります。その命は生まれた場所に関係なく、創造主なる神のかたちに似せて作られた、イエスキリストの贖いにふさわしい価値を持っています。一人として、不当な扱いを受けることに「ふさわしい」命はありませ... [続きを読む]
  • 主イエスの復活
  • ■聖書の箇所 ヨハネ20章1〜18節 主イエスの復活は、現代の私たちだけではなく、昔の人々にも、理解することのできない出来事でした。それは、十字架よりも、はるかに受け入れることのできないこと、信じることのできないことでした。しかし、主イエスの復活の事実が人を変え、教会を生み出し、世界を変え、支えてきたのです。 そして、その信じ受け入れることの困難な出来事を、どのようにして、最... [続きを読む]
  • 主イエスの十字架
  • ■聖書の箇所 ヨハネ19章17〜30節 十字架に向われ、十字架につかれた主イエスをどのように見るかということは、キリスト信仰にとって、最も重要なことです。ある人々にとって十字架は飾りです。またある人にとって十字架は、恥そのものです。また、ある人々にとって十字架は復活と栄光に至るまでの通過点にしかすぎません。しかし、ヨハネはそのように主イエスの十字架を描くことをしませんでした。十字架の... [続きを読む]
  • 真理とは何か
  • ■聖書の箇所 ヨハネ18章28〜40節 ローマ総督ピラトは、主イエスに何の罪も見出すことができませんでした。しかしこの後、人々は、彼の提案である「恩赦によって、強盗のバラバを釈放するか、それとも主イエスを釈放するか」という二者選択に対して、強盗のバラバを釈放するようにと、叫び出すのでした。40節「すると彼らは、また叫んで、『その人ではなく、バラバを』と言った。このバラバは強盗であ... [続きを読む]
  • 父と子が一つであるように、キリスト者も一つになる
  • ■聖書の箇所 ヨハネ17章20〜26節  メッセージ  中出 幸子姉 (信徒・教会役員)  教会が「一つにまとまる」ということは難しいことであるが、それを可能にするのは何か。 第一の鍵が、22節である。神とイエスが「一つ」であるように、教会も「一つ」になるためである。教会が「社会における集団と唯一区別」するのは、キリストを信じる信仰(キリストの生涯・行為・御言葉・力あ... [続きを読む]
  • 常に主を前に置いて
  • ■聖書の箇所 詩篇16篇8〜9節 メッセージ 久保木 勁師 「常に」が、新改訳では「いつも」となっています。「時々」ではなくて、「いつも」と言うのです。原典を直訳すれば「来る日も来る日も」であって、「毎日」ということに他なりません。「日曜日に、教会で、礼拝で」ではなくて、「日常生活の中で、毎日」なのです。 「主を前に置く」とは、第一に、「主の臨在(=今、ここにおられる... [続きを読む]
  • ろばの子に乗るイエス
  • ■聖書の箇所 ヨハネ12章9〜19節 世界に平和をもたらす手段は、軍事的力によるのではなく、平和的な手段でなければなりません。「剣をとる者はみな、剣で滅びる」という主イエスの言葉に耳を傾けるべきです。そして、私たちは、平和の象徴であるろばの子に乗って、すべての人々の救いのために十字架につくため、エルサレムに入城された主イエスを絶えず、思い起こし、祈りつつ、平和をつくり出す者とされ... [続きを読む]
  • ナルドの香油
  • ■聖書の箇所 ヨハネ12章1〜11節 本日、注目させていただくのは、マリアの行動です。ここで、マリアが思い切ってとった主イエスへの感謝の行動は、独特のものでした。このときに使われた香油は300デナリ、つまり300日間の一家の生活費に相当する金額のものでした。それほどに高価な香油がこの時、主イエスの足に注がれたのです。理性的に考えれば、香油を注ぐというようなことは明らかに無駄使いです。... [続きを読む]
  • 私は正しい人?罪人?
  • ■聖書の箇所 ルカ5章27〜32節  メッセージ 津村 誠神学生 レビは、どのような思いで座っていたのでしょうか。お金持ちになれてうれしい反面、罪悪感もあったかもしれません。しかし、イエス様の話しをおそらく聞いていたことでしょう。イエス様に「わたしに従ってきなさい。」と言われただけで、彼は「いっさいを捨てて」従いました。彼は、自分がそれまで頼みとしていたお金をギブアップし、イ... [続きを読む]
  • 謙遜な信仰
  • ■聖書の箇所 列王記下5章1〜19 生まれつきの盲人が、主イエスからつばで作った泥を塗ってもらい、シロアムの池で洗えと命じられたときに、その勧めに素直に聞き従い、見えるようになったという記事がヨハネの福音書9章に記されています。生まれつきの盲人が泥を目に塗り、池に行ってあらうだけでその目が開かれるということは信じがたいほどに単純なことでした。しかし、彼は主と主の言葉に聴き従って癒... [続きを読む]
  • 主は生きておられる─エリヤの神―
  • ■聖書の箇所 列王記上18章15〜24節 エリヤは旧約を代表する預言者で、人々を神に立ち返らせるために立てられた神の器です。彼がアハブ王の前で、干ばつを預言してから3年が経過していました。ここで、エリヤは、雨が降らないのは、エリヤのせいであるとして彼を捜しだし、殺そうとしていたアハブ王に仕えるオバデヤという高官に、「わたしの仕える万軍の主は生きておられる」と、告げます。「主は生き... [続きを読む]
  • 神の知恵を求める
  • ■聖書の箇所 列王紀上3章3〜14節 就任当初のソロモンは、主なる神を第一として純粋に礼拝をささげ、主を喜ぶ心を持っていました。聖書はそのような彼を、3節で「ソロモンは主を愛し、父ダビデの定めに歩んだ」と評価しています。主なる神は、そのことを喜び、ソロモンの捧げものを受けて、その夜、夢の中で彼に語りかけられるのでした。「あなたに何を与えようか、求めなさい」と。ソロモンの答えは賢明... [続きを読む]
  • あなたのその力で
  • ■聖書の箇所 士師記6章11〜18節 ギデオンは、ミデアン人の来襲のときに、彼らの目を避けるために酒ぶねの中で麦を打っていた、と記されています。その姿は、臆病にも、卑怯にも見えます。そんなギデオンの前に御使いが現れ、声をかけます。12節「大勇士よ、主はあなたと共におられます。」このときのギデオンにとって、その言葉は大げさな言葉にしか聞こえなかったと思います。しかし、私たちが忘れてはな... [続きを読む]
  • 弱い時にこそ、強い
  • ■聖書の箇所 第二コリント12章1〜10節 使徒パウロは、当時の社会にあって、非常に恵まれた環境で育った人の一人でした。ローマの市民権を持ち、当時の最高の学問ばかりではなく、宗教的にも最高の学びと訓練とを受けていました。そのような人がキリストを世界に人々に宣べ伝える伝道者になったのです。しかし、そのパウロの肉体に、一つのとげのようなものが与えられていたのです。彼はそれが、取り除か... [続きを読む]
  • へりくだって祈る
  • ■聖書の箇所 ルカ18章9〜14節 主イエスは、自分こそ義人、正しいと誇り、他の人々を見下げている人たちに対して、パリサイ人と取税人という二人のたとえ話をして、神さまの前に立つべき信仰者の姿を描きました。主イエスがこのお話をされたのは、自分こそ正しいと思っていた人たちであったということです。それは誰のことでしょうか。他でもない、私たちのことです。パリサイ人が取税人と比較して、自分... [続きを読む]
  • 真夜中に戸をたたく
  • ■聖書の箇所 ルカ11章5〜13節 私たちに与えられている聖書の箇所は、ルカによる福音書11章5節から13節ですが、1節に「また、イエスはある所で祈っておられたが」と記されています。主イエスは、絶えず祈っておられます。そして、「イエスは祈り給う」とは、何と心励まされる御言葉でしょうか。 私たちの心の中には、「何を祈ったらよいか分からない」、「祈れない」、「祈りたくない」という正直... [続きを読む]
  • 主の祈り
  • ■聖書の箇所 マタイ6章5〜15節 2017年の札幌教会の御言葉を祈り求める中で示された御言葉は、ガラテヤ書6章の15節の御言葉でした。そこに「ただ、新しく造られることこそ、重要なのである」とあります。新共同訳聖書は、「大切なのは新しく創造されることです」と訳しています。 2017年は、宗教改革者ルターが、カトリック教会の扉に、教会を改革するための95ヶ条の提題を張りつけた1... [続きを読む]
  • 闇に輝く光
  • ■聖書の箇所 ヨハネ1章5節、ルカ8章8〜20節「きょうダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主なるキリストである。」ここで、「救い主」と訳されている言葉が持つ元々の意味は、私たちがもはや自分を助けることができなくなっているところで、助けをもたらしてくださる救い手、救済者のことです。この世には、私たちがどんなに頑張っても、どうすることもできないような... [続きを読む]
  • 救い主を迎える
  • ■聖書の箇所 ヨハネ1章10〜13節 ルカ2章1〜7節 イエス様は生まれた時、布に包まれ、飼い葉おけの中に寝かされました。宿屋には彼らの場所はなく、家畜のいる場所しか、いる所がなかったからです。ベツレヘムの人々は、クリスマスに対する私たちの態度をよく現していると思います。客間には、主イエスを入れる場所がなかったと言うのですけれども、客間どころか、私たちの心のどこの隅にも主イエスを迎え... [続きを読む]
  • 人となられた神
  • ■聖書の箇所 ヨハネ1章14節、マタイ1章18〜23節 「すべての人を照らすまことの光があって、世に来た。」 私たちの救い主イエス・キリストは、明確な目的をもってこの世に来られたお方です。その目的は、神のみ心を行うこと、すなわち、すべての人たちの救い主となる、私たちの救い主となるということでした。この点を見落としたなら、私たちはクリスマスの最も大切な恵みと真理とを見失ってしまいま... [続きを読む]
  • 救い主を喜ぶ
  • ■聖書の箇所 ヨハネ1章9節 ルカ1章26〜38節 福音書が私たちに伝えることは、神ご自身が、私たちを救うために、マリヤという女性を通して、この世に来てくださった。その厳かな真実を、マリヤとヨセフという若い二人の夫婦が静かに、従順に受け止めたということです。 しかし、この二人の決心、決断がなかったならば、救い主がこの世に誕生することはなく、その大きな祝福は人類に与えられなかっ... [続きを読む]