chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
ぶらり歴史旅一期一会 http://poreporetraveler.blog96.fc2.com/

戦国武将にまつわる史跡と近代建築をテーマに全国各地色々巡っているブログです。

旅行ブログ / 国内一人旅

歴史ブログ / 戦国時代

※ランキングに参加していません

けん
フォロー
住所
兵庫県
出身
明石市
ブログ村参加

2010/08/22

arrow_drop_down
  • 佐々友房の墓(熊本市中央区)

    佐々友房は熊本藩士の家に生まれ肥後勤王党に属した叔父佐々淳次郎に強く影響を受け水戸学に傾倒、また池辺吉十郎の門下となっています。西南戦争時は以前より西郷隆盛と気脈通じていた師匠の池辺が熊本隊を結成し武装蜂起すると友房も各地を転戦し最終的に中隊長となりますが、大口の戦いで重傷を負い官軍病院に担ぎ込まれます。その後、池辺たちが隊長ではなく一兵卒に過ぎないと庇ってくれたことで死罪を免れ投獄に留まります。...

  • 早川倉庫(熊本市中央区)

    明治10年に熊本商工会議所初代会頭や熊本商業高校のルーツである私塾素心吟社を創設した岡崎唯雄氏が営む岡崎酒類醸造場の酒蔵として建てられました。その後履物問屋を経て昭和29年に貸倉庫業の早川倉庫の所有となりトランクルームなどとして活用されてきましたが、熊本地震での被災を機にクラウドファンディングで母屋の一部がリノベーションされ文化発信の場としても活用されており、熊本市が新たな制定した熊本市歴史的風致形成...

  • 旧大石蕎麦(熊本市中央区)

    肥後蕎麦の元祖と言われ藩主細川家の御用も務めていたという大石本店。営業していた頃に一度記事にしていますが、9代目だったご主人が体調を崩され2010年にお亡くなりになられたため廃業されましたが、昭和初期に建てられ空襲の被害も免れた京町家風の建物は熊本史歴史的風致形成建造物に指定されプレートも設置されていました。 隣が駐車場となったことで奥行きのある鰻の寝床のようになっていたことがよく分か...

  • 西福寺 井上大九郎正忠の墓(熊本市中央区)

    慶長年間に加藤忠広正室崇法院(蒲生秀行の娘、家康の外孫)が江戸より釈誉上人を招き創建した浄土宗のお寺で、加藤家の後熊本に入った細川家の菩提寺のひとつになっています。井上大九郎正忠の墓加藤家二十将の一人にも数えられ、清正最古参の家臣のひとりと伝わります。元々は三木城主別所長治の家臣でしたが三木城落城後浪人となり各地を放浪中その秀吉の居城長浜城下の河原で寝そべっていたところ後に同じく共に清正に仕え角力で...

  • 玄慶の池(兵庫県明石市)

    南北朝の時代に元より玄慶という楽人が来日しましたが時は南北朝の動乱の最中で音楽どころではない状況。玄慶を雇う者などなく失意の玄慶は帰国することを決めるも帰る途中、疲労からここ明石の八木の地にて持ってきていた楽器を埋め弁財天を祀り、またこの地に池を掘ったと言われます。池は玄慶の池と呼ばれ古くは玄慶という地名にもなっていたそうですが、現在周囲には次々住宅が建っている中、確かにこの場所だけは手が付けられ...

  • アンの井戸・コエの井戸(兵庫県明石市)

    来迎寺の西側にはアン(庵)の井戸と呼ばれる弘法太子が掘ったという伝承を持ち干魃の時も水は枯れることなくこんこんと湧き続けた井戸があり、昔は酒造りにもこの井戸の水が使われたそうです。この辺りは水位が高く水が溢れるので囲いには穴が開いていて水を排出できるようにしているのだそう。 また来迎寺の東側にもコエの井戸と呼ばれる掘り当てたのは弘法太子とも来迎寺を開いた行基和尚とも言われる生活用の井戸も残っ...

  • 来迎寺(兵庫県明石市)

    養老元(717)年行基により創建されたという明石市内でもかなり歴史のある天台宗のお寺で、明石三十三ケ所第六番札所にもなっています。勅願寺時代は塔頭を複数抱えた大きな寺だったそうですが次第に衰退、南北朝時代に再興され信長の命による羽柴秀吉の別所(三木城)攻めでも秀吉方に放火されるなどしています。 御朱印は書き置きのみ常時4種類ぐらいを授与されています。以前は季節ごとに限定御朱印も枚数限定で出し...

  • 口北野遺跡(兵庫県明石市)

    国道250号線(明姫幹線)沿い、谷八木川の西側中位段丘の先端に位置した古墳時代及び中世の粘土採掘跡が見つかった遺跡で土器などを作る窯が恐らくあったと考えられています。この場所から南側は平成初期までたくさんの瓦工場の煙突が立ち並んでいた屏風浦海岸で、かなり古くから良質の粘土が採掘される土地だと人々は知っていたのだと思われます。また、この地から明石では初めて隠岐島で採掘された黒曜石を用いた縄文時代の石鏃も...

  • 伏見屋商店(兵庫県たつの市)

    江戸時代創業の老舗で現在は書店ですが古くは油や紙、日常用品から楽器までと何でも扱うデパートみたいなお店だったそうで現在の建物は築120年を越える ここ龍野出身の作詞家三木露風も学生時代に利用していたという店内はかつては2階の回廊にも本棚がびっしり並んでいたとか。床も板張りと歴史を感じます。 明かり取り窓からの日差しがいい感じ。龍野重伝建地区内にあり...

  • 初井家住宅(兵庫県姫路市)

    姫路城の西側城西エリアの旧西国は街道沿いに建つ旧家で、北原白秋に師事した姫路出身の歌人初井しず枝の嫁ぎ先でこの家に住んでいました。しず枝は実家が薬種商ということもあって姫路高等女学校(県立姫路東高校)から大阪道修薬学校(大阪医薬大の前身)に進学し薬剤師資格を取得するなど先進的な女性で、アララギの会員であった夫の勧めで歌を作り始め、戦後の農地改革で初井家が没落し一転生活が困窮するもそれ...

  • 旧第三十四銀行姫路支店(兵庫県姫路市)

    姫路旧城下は空襲や再開発もあり古い建物があまり残っていないのですが、旧第三十四銀行姫路支店だったという大正6年築の建物は今も健在です。以前は病院として活用されていましたが現在は見る感じ使われていないのでは。正面はモルタル造りですが側面・背面は赤煉瓦造となっています。 ★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用は一切固く禁止しております。にほんブログ村 ...

  • 見星寺(兵庫県姫路市)

    姫路藩主本多政朝が祖母見星院(信長の娘で松平信康の正室五徳)の菩提を弔うために創建した臨済宗妙心寺派のお寺です。 本堂 寛延2年洪水犠牲者供養碑寛延2(1749)年に姫路城下を襲った水害で船場川が決壊し402名の犠牲者が出ました。その23回忌法要が安永2(1773)年にここ見星寺で執り行われた際に建立されています。 本多忠政・忠刻の供養塔忠政(左側)は本多平八郎忠勝の嫡男で池田家が備前に転封した後姫路藩...

  • あれから29年

    5時46分、あの忌まわしい揺れから29年となりました。今年は元日早々に関西でもはっきりと揺れを感じる能登を震源とした大きな地震が発生し、多くの方々が被害に遭われ今なお捜索活動が行われています。日本列島が揺れ始めたその29年前、当時大学生だった私も50になったのだから当然ですが、私の周囲にも阪神・淡路大震災を経験していない人が増えてきました。そのためこのブログでは可能な限り1月17日は少し触れようと思っています...

  • 福圓寺(兵庫県姫路市)

    奈良時代に行基が創建したという伝承があるようですが、現在は臨済宗相国寺派のお寺です。 このお寺には古墳に埋葬されていた石棺を用いた石棺仏があります。石棺仏は奈良県でも存在が確認されていますが全国的に見てもほぼ播磨地方、それも加古川流域と姫路市周辺に集中しているかなり珍しい仏像で播磨地方でも明石などには一例もありません。その珍しい石棺仏の中でもこちらにあるのは不動...

  • 的形城(兵庫県姫路市)

    的形城(構居)は全体像がはっきりしない山城で、城主は長尾(三木)重朝だと伝わる山城ではありますが築城年なども全く分かっていません。...

  • きよめ餅総本家

    熱田神宮前に店を構える昭和10(1935)年創業の和菓子屋で、店名は天明年間頃に熱田神宮内にあったきよめ茶屋と茶店が由来だそう。建物は昭和30年に建てられたもので名古屋市登録地域建造物資産になっています。 屋号の一部にもなっているきよめ餅は熱田神宮の門前に名物の餅菓子がなかったため初代が作り出したというもの。今では季節限定本店限定などもあります。 ★当ブログのまとめサイト...

  • 成福寺 船頭重吉の碑(名古屋市熱田区)

    熱田神宮に隣接する民家や小学校などが建ち並ぶ一画にある曹洞宗のお寺です。 船頭重吉の碑江戸から尾張へ戻る途中乗船していた督乗丸が遠州灘で遭難し17ヶ月間漂流の末カリフォルニア州沖で英国船に救出されシベリアに渡った小栗重吉が、同乗し漂流中に亡くなった仲間追悼のため建立した供養碑です。重吉は3年後にロシア船で択捉・国後・根室を経て松前に到着し江戸...

  • 大矢蒲鉾商店(名古屋市熱田区)

    熱田神宮近くにある安政7(1860)年創業の老舗蒲鉾店で昭和34年に建てられた店舗・工場は名古屋市登録地域建造物資産になっていますが、外観だけパッと見た限りではそれほど古さを感じない建物でした。 ★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用は一切固く禁止しております。にほんブログ村 当ブログを補完するFacebookページを始めました。よろしければご覧ください!→ぶらり歴史旅一期...

  • 永弘院 (名古屋市千種区)

    天文7(1538)年尾張上野城主下方貞清開基、義雲祖嚴開山の臨済宗妙心寺派の寺院。元は下方氏の居城上野城の北東にあった薬師如来を小豆坂七本槍としても知られる下方貞清が本尊として創建しました。ただ開基で大檀家であった下方氏は本能寺の変で貞清の息子たちが織田信忠に殉じ討死、それに失望した貞清も隠遁生活を送り寺も衰退しますが上野村の人々に支えられそれを乗り越え今日へと至ります。 ...

  • 不朽園(名古屋市中川区)

    不老園より暖簾分けを受け昭和2(1927年)尾頭橋にて創業、当時この地には八幡園遊郭があり土産を買い求める客で賑わったそうです。現在の建物は戦禍で焼失した後、昭和30年に再建されたもので名古屋市登録地域建造物資産を経て現在は名古屋市認定地域建造物資産となっています。昭和2年に佐屋街道沿いの当地にて門前町大須不老園別家として最中などを販売する和菓子屋を創業。昭和30年戦火で失った店舗を新築し、当時の店構えで現在...

  • マコロン製菓(名古屋市西区)

    マコロン製菓は名古屋など中部圏で生まれ育った人には馴染みがある人多いであろうマコロンの製造元で、事務所棟と木造バラス構造の工場からなっています。名古屋市登録地域建造物資産となっているこちらの建物で特筆すべきは屋根神様が掲げられていること。建物は昭和8年頃に建てられたそうですか立派な屋根神様も当初から設置されていたそうです。 名古屋を中心に岐阜などにも見られる屋根神様ですが近年は守ってこれれた...

  • 手焼きおかきや(名古屋市西区)

    美濃街道に面した場所に建つ3代続く手焼き煎餅のお店で、成り行き登録地域建造物資産となっている建物は明治15年に建てられたものを昭和30年頃に現当主の祖父が購入したのだそう。こちらは一見すると長屋のように見えますがよく見ると建物の間には僅かな隙間があり、写真中央の建物がおかきやの建物になります。 撮影しに行ったのが暑さを避けた早い時間帯で、まだ営業時間前だったのが残念です。 ...

  • そば処桔梗はなれ(名古屋市中区)

    ブラジル領事館などがあるビジネス街の一画にある古民家で大正時代以前に建てられたとされますが詳細は不明。現在は近くで営む蕎麦処の離れとして夜営業されています。 隣が駐車場になったため建物の全体像がよく分かりますが、京都の鰻の寝床のように奥行きがかなりあります。名古屋市登録地域建造物資産 ★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用は一切固く禁止しております。にほんブログ村 当...

  • 平惣染色(名古屋市中区)

    周辺にはマンションやオフィスビルなどが立ち並ぶ名古屋中心部の一角にある100年余りの歴史がある染物屋さんで、建物は戦後すぐの昭和21年に建てられたものだそうで名古屋市登録地域建造物資産に登録されています。 ★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用は一切固く禁止しております。にほんブログ村 当ブログを補完するFacebookページを始めました。よろしければ...

  • 誓願寺 井原西鶴の墓(大阪市中央区)

    天正8(1580)年無宅天牛上人が創建した浄土宗の寺院で大坂の陣の戦火により堂宇全て失われますが元禄6(1693)年に再興しています。 現在の本堂は大阪大空襲で失われ昭和39年に再建されたもの。 井原西鶴の墓(大阪市指定史跡)近松門左衛門・松尾芭蕉と共に元禄文化に多大な影響を与え、『好色一代男』などで知られる浮世草子の作者であり西山宗因に師事した俳諧師でもありました。西鶴は元禄6(1693)年に亡くなり...

  • 糸屋製菓(埼玉県深谷市)

    旧中山道沿いに店を構える明治41(1908)年創業の老舗で初代伊八が能を好んだことから羊羮と最中はそれぞれ翁羊羮と翁最中という商品名で売られています。あと近年はあんドーナツが有名なんですが昼過ぎに伺ったのですがすでに売り切れ。本当に人気があるようです。 今回は翁羊羮を購入。翁最中は本当に能の翁面を象っていますがさすがに羊羮に能の要素はありません。ただ一枚流しという昔な...

  • 源勝院 岡部藩主安部家墓所(埼玉県深谷市)

    小田原の陣後関東に入府した徳川家康により岡部など5250石を与えられた安倍(あんべ)信勝が父元真の菩提を弔うため賢達和尚を招き開いた曹洞宗の寺院で、息子信盛の代に加増を受け1万石を超え大名となった安部家の菩提寺となります。 本堂 安部元真顕彰碑安部家の祖である安部大蔵元真を顕彰した碑。元真は今川家の家臣で今川義元が桶狭間の戦いで亡くなった後も今川家を最後まで見限ることなく支え...

  • 岡部六弥太忠澄の墓(埼玉県深谷市)

    前回紹介した平忠度の供養塔を建てた岡部六弥太とその妻(畠山重能の娘)や父行忠らの墓は現在埼玉県指定文化財となっており、墓石には覆屋が設けられ一帯は史跡公園となっています。 岡部六弥太忠澄の墓六弥太は元々熊谷直実らと共に源義朝に仕えていましたが義朝が殺害され武蔵の所領へ戻っていました。そこへ義朝の遺児頼朝挙兵の知らせを受け馳せ参じ転戦し、一ノ谷の戦いで前回の記事...

  • 清心寺 平忠度供養塔(埼玉県深谷市)

    清心寺は天文18(1549)年に深谷上杉家の家臣であった岡谷清英が萬誉玄仙を招き創建した浄土宗のお寺です。 本堂 平薩摩守忠度の供養塔忠度は平清盛の異母弟で一ノ谷の戦いで敗走するも岡部六弥太忠澄主従に追いつかれ交戦の末討ち死にします。戦後六弥太は忠度の遺髪をもらい受け所領へ戻ると居館近くのこの地に桜の木を植え供養塔を建立しました。 元々この場所に先に忠度塚があり、後...

  • 三高院 松平康直の墓(埼玉県深谷市)

    詳細な創建年次は不明ですが小田原陣後から開基である深谷城主松平忠直が亡くなる文禄2(1593)年までの間と考えられます。本尊の阿弥陀如来は家康の養女となり有馬豊氏に嫁いだ忠直の娘連姫の寄進によるものです。 松平康直の墓徳川十六将のひとりに数えられる父松平康忠(長沢松平家8代)と家康の異母妹矢田姫との間に生まれ、小田原の陣では岩槻城を攻め戦後深谷城が与えられますが25歳の若さ...

  • 深谷城(埼玉県深谷市)

    現在は一帯が城址公園になっている深谷城は康正2(1456)年に深谷上杉家上杉房顕によって築城された平城で、小田原の陣後に家康の異母妹の息子である長沢松平家9代康直が城主となり後継の家康6男忠輝、桜井松平家松平忠重を経て酒井忠勝の代に川越に移封を機に深谷藩は廃藩、深谷城も廃城となっています。 城跡は埼玉県指定史跡、隣接している富士浅間神社の周囲に残る外堀遺...

  • 東漸寺 城和泉守昌茂の墓(埼玉県熊谷市)

    この地の領主であった6千石の大身旗本城和泉守昌茂開基 同じく城氏出身と伝わる和尚が開山した臨済宗のお寺です。 城和泉守昌茂の墓城氏は元々越後の名門で上杉家に仕えていましたが昌茂の父景茂が上杉謙信と折り合いが悪く出奔、親子で会津で浪人していたところ武田信玄に迎えられ家臣となったとされます。 武田家滅亡後は他の多くの武田家遺臣と同じく家康に召し抱えられ昌茂は...

  • 聖パウロ熊谷教会(埼玉県熊谷市)

    熊谷に宿泊したのでここは見ておきたいと思っていた聖パウロ熊谷教会。煉瓦造りの建物は国の登録有形文化財となっています。 焼過煉瓦を効果的に用いた煉瓦造教会。桁行約16m,梁行約7m規模の単廊式会堂で,東面北端に鐘塔を建ち上げ下部を玄関ポーチとし,外壁要所に尖頭アーチ窓とバットレスを配す。内部は煉瓦壁を顕わにし,木造シザーストラスを架ける。...

  • 三輪医院(埼玉県熊谷市)

    こちらも熊谷市の近代建築を調べると必ず出てくる建物。現在を道を挟んだ反対側に新しい病院が建てられ診察はそちらでやられているようですがこの建物も電気など点いていたので活用されているようです。 ★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用は一切固く禁止しております。にほんブログ村 当ブログを補完するFacebookページを始めました。よろしければご覧ください!→ぶらり...

  • 瀧澤綿店(埼玉県熊谷市)

    八木橋百貨店の西側、旧中山道沿いにある中々渋い看板建築?の建物。近代建築のサイトなどで必ずアップされているこの建物、いつなくなっても不思議じゃない感じだったので現地へ行って一安心。ただ昨年訪れたのですが、はす向かいにあった朝日湯の建物は残念ながら取り壊されて更地になっていました。★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用は一切固く禁止しております。にほんブログ村 当ブロ...

  • 幣塚(兵庫県明石市)

    明石市の西部に位置する幣塚古墳は4世紀後半から5世紀初頭ごろに築かれたと考えられる直径34m、高さ4mと明石市内にある円墳としては最大規模の古墳になり、板石によって築かれた竪穴式石室が確認されています。この古墳には金の鶏が埋められている金鶏伝説(全国各地の古墳に伝わる)があり、明治時代3年間続いた水害や風害からの干魃に困窮した地元民たちが金鶏伝説に賭けて明治19年無計画に乱堀、もちろ...

  • どろま地蔵(兵庫県高砂市)

    大福寺からさらに東へ歩くとどろま地蔵に行き着きます。その地蔵堂ですが固寧倉という姫路藩が飢饉等の際に備え領内各所に設置した備蓄倉庫に併設する形になっていました。 お堂を覗いてみると赤いおベベを着たお地蔵さまたちに見えますが、よく見ると全て五輪塔。小松原城主小松原氏一族の墓だと伝わり小松原氏が記録から姿を消して以降江戸時代の形式の墓石もあるよう...

  • 大福寺 小松原盛忠の墓(兵庫県高砂市)

    大福寺は三社大神社の東隣にある浄土宗西山禅林寺派のお寺で天正年間に松空西空上人により創建されていますが、元々この場所には大蔵寺という別の寺があり小松原城主小松原氏の菩提寺だったと考えられています。小松原城と小松原氏は天正年間より数十年前に記録から消えますので大蔵寺も戦禍に巻き込まれ衰退していったのでしょうか。 小松原盛忠の墓山門潜るとすぐ左手にある十三層塔は小松原氏初代盛忠の墓(供養...

  • 小松原城(兵庫県高砂市)

    小松原城の詳細な築城年次は不明ですが、鎌倉幕府連署北条重時に従い三浦義村の子良賢の謀叛鎮圧に功を挙げた赤松盛忠が弘長元年6月にこの地を与えられ下向しており、この頃から居館が築かれたと思われます。小松原は加古川三角州の頂点に位置する天然の要害と言える場所で、赤松より小松原に姓を改めた盛忠より城主小松原氏は6代続いた記録がありますがその後記録からは姿を消すことになります。 現在は三社大神社が鎮座...

  • 善立寺 天竺徳兵衛の墓(兵庫県高砂市)

    永正8(1511)年に蓮如上人の弟子正西が創建した浄土真宗本願寺派のお寺です。 天竺徳兵衛の墓歌舞伎や浄瑠璃に登場するガマの妖術使い天竺徳兵衛のモデルとされ、父親は赤穂出身の塩問屋で後に高砂に移ってきたと伝わります。彼は鎖国前に朱印船(角倉家が派遣した角倉船)に乗り2度当時日本で天竺とされていたシャムへ渡り、寺には徳兵衛がシャムより持ち帰ったとされる貝多羅葉という経文が伝わっており市の文化財指定を受け...

  • 三連蔵(兵庫県高砂市)

    工楽家旧宅のすぐ北側にあるお宅にある三連の蔵。明治時代初期に食器などを保管するために建てられたという建物の厚みは30cmほどある堅固な造りとなっており兵庫県都市景観形成重要建造物となっています。★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用は一切固く禁止しております。にほんブログ村当ブログを補完するFacebookページを始めました。よろしければご覧ください!→ぶらり歴史旅一期一会(fb版) ...

  • 高砂堀川湊及び工楽松右衛門旧宅(兵庫県高砂市)

    工楽松右衛門旧宅は高砂出身で兵庫津で廻船問屋御影屋を営み択捉島など蝦夷地開発の功績から工楽の姓を幕府より賜り、また丈夫な松右衛門帆を開発し海運業の更なる発展に大きく寄与した工楽松右衛門の旧宅として兵庫県指定文化財及び日本遺産(荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間-北前船寄港地・船主集落)構成物の指定を受けており一般にも公開されています。...

  • 鶴林寺(兵庫県加古川市)

    西の法隆寺とも称される鶴林寺は所在する加古川はもちろん明石など近隣市町で育ったなら小学校の行事などで一度は訪れたことのある人は多いのではないかと思う聖徳太子ゆかりのお寺ですが、創建年など詳細はよく分かっていません。寺の縁起によれば蘇我氏と物部氏の争いを避け、播磨の地に身を隠していた高麗僧恵弁の教えを受けるため播磨を訪れた聖徳太子が、後に3間4面の精舎を建立させ刀田山四天王聖霊院と...

  • 法雲寺 根来盛重の墓(大阪市中央区)

    上本町の寺町界隈にある臨済宗妙心寺派のお寺です。寺は会館を併設しており土塀など風情ある趣ですが創建年次などは分からず。ただ後述しますが墓所には戦国時代の武将の墓などもあるため江戸初期までには開山しているのではと思います。 本堂 根来盛重の墓苗字の通り根来衆で小牧・長久手の戦いでは織田信雄・徳川家康と手を組み背後から雑賀衆らと秀吉を脅かし岸和田城攻めでは主導的役割を果たします...

  • 謹賀新年

    明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。まだ過去2年ぐらい訪れた先々の記事があるのですが、ここ1~2年ほど自分の気力の問題で一向に日の目を見ないままになっています。悲しいことに日が経つと現地を訪れたかった所ばかりなのにその感動は薄れ筆、いや指が全く進まない。鉄は熱いうちに打てではないですが、ほんと旅や散策から帰宅し一気に書かないとダメですね…。今年も更新頻度は月3~4本ぐら...

  • 近松門左衛門の墓(大阪市中央区)

    寺町として現在も多くの寺が残る谷町筋界隈の一画に近松門左衛門の墓が残されています。 元々はこの地にあった法妙寺に近松の墓はありましたが地下鉄工事などに伴い昭和42(1967)年に寺は大東市へ移ることになります。が、すでに墓は国の史跡指定を受けており遠く引っ越すことで史跡指定取り消しの可能性が出たため市や保存会など各所が動いた結果、現在ある場所に墓を移し大東市に移る法妙寺には複製墓を...

  • 成正寺 大塩平八郎の墓(大阪市北区)

    慶長9(1604)年日秀上人が創建した日蓮宗のお寺です。寺を開いた日秀上人は歌道を通して秀吉と親交があり、また秀吉の実姉瑞龍尼が深く帰依していたことでも知られています。 本堂本堂は大阪大空襲で焼失し戦後再建されたもの。本堂前にはこちらを菩提寺としていた大塩平八郎と養子格之助の墓、大塩平八郎の乱で亡くなった人々の慰霊碑が建立されています。 大塩平八郎...

  • 木曽川資料館(愛知県一宮市)

    市町村合併で一宮市になった旧木曽川町の町議会議事堂として大正13(1924)年に建てられ、その後町の資料館として山内一豊・浅野長政・兼松正吉らゆかりのある戦国武将を始め郷土に関する資料を展示しています。 南北に細長い寄棟造、桟瓦葺、2階建で、正面の南に円柱を立てた玄関ポーチを構え、内部はホール、議場、控室等で構成され、ホール側上部に傍聴席を設ける。議場は吹き抜けで格天井とし、壁面は折上部...

  • 法蓮寺 山内豊盛・十郎の墓(愛知県一宮市)

    明応2(1493)年創建の日蓮宗のお寺で、黒田城代だった山内但馬守豊盛の庇護を受けました。 本堂 山内豊盛(右側)・十郎の墓山内但馬守豊盛は岩倉織田家家老で黒田城代、十郎はその嫡男で山内一豊の実父・実兄となります。岩倉織田家と敵対していた織田信長によって画策されたという説もありますが野盗に夜襲を掛けられ十郎はこの戦いで戦死。豊盛も討死したと言われてきましたがこの時は岩倉城へ逃れ、この2年...

  • 黒田城(愛知県一宮市)

    尾張織田家嫡流である織田伊勢守家(岩倉織田家)の家老だった山内家が城代を務めた城で、後に土佐の国持大名にまでなる山内一豊はこの城で生まれたとされます。その後織田弾正家である信長によって落城させられ、以後弾正家(信長)の持ち城となり本能寺の変後も織田信雄の重臣沢井雄重が小牧・長久手の戦いでは秀吉の諜略にも応じることなく城を守り抜きましたが、秀吉の機嫌を損ねた信雄が改易されると一柳監物直盛が城主と...

  • 常念寺 関成政の墓(愛知県一宮市)

    明徳元(1390)年に空遄召運上人(足利尊氏の甥)によって創建された西山浄土宗のお寺で市の文化財指定を受けている観音堂の如意輪観世音菩薩像は尊氏の守り本尊と伝わります。 関成政の墓尾張一宮城主 織田家家臣として数多くの合戦に参加し信長の嫡男信忠の近侍を務めます。本能寺の変後も引き続き信長の次男信雄に仕えますが秀吉と信雄が対立したことから勃発した小牧・長久手の戦...

  • 一宮城(愛知県一宮市)

    JR尾張一宮駅のすぐ北側、現在は某大手銀行の支店のある辺りに尾張一宮城があったとされます。築城年はよく分かっていませんが近くにある真澄田神社の神職でもあった関成重によって築城されたとされ、その後信長の次男織田信雄の家臣不破広綱が城主となりますが信雄が秀吉の怒りを買い改易された天正18(1590)年以降に廃城になったようです。 遺構などはもちろんなく、銀行に立つ小さな石碑が辛...

  • 岩脇蒸気機関車避難壕(滋賀県米原市)

    総寧寺から戻る途中、スマホで地図を確認しているとルートから少し外れる場所に史跡マークに岩脇蒸気機関車避難壕という文字をたまたま発見。少し寄ってみることにしましたが、いざ場所に行くとびっくりするぐらいしっかりとした形で残っていました。 米原は東海道本線と北陸本線とが交わる一大ジャンクション駅。大戦後半になると本土への空襲が激化したため慌てて機関車を守るため線路沿いにあるここ岩...

  • 総寧寺 旗本新庄家墓所(滋賀県米原市)

    永徳年間(1381~1384)に近江守護佐々木六角氏によって創建された曹洞宗の寺院で享禄3(1530)年に戦火に遭い衰退しますが後に新庄城主新庄直忠によって再興され今日へと至ります。...

  • 大谷吉継の首塚(滋賀県米原市)

    家康に勝てないと分かっていながら石田三成との友宜を重んじ関ヶ原の戦い本戦で奮戦の末自刃した大谷吉継。家臣湯浅五助に介錯させ関ヶ原に首を埋めさせたと伝わりますが、異説として従軍していた甥の僧侶祐玄が首を関ヶ原から居城敦賀に持ち帰ろうとするも叶わず途中の米原で埋めたと伝わります。 新幹線米原駅からも徒歩圏内。畑の中にポツンとあります。 ★当ブログのまとめサイト...

  • 下坂氏館跡(滋賀県長浜市)

    室町初頭より坂田郡下坂庄四カ村の地頭だった下坂氏の居館跡で、敷地内には土塁や堀を築き有事の際の備えとした城の機能を有し、また菩提寺も敷地内に置くなど当時の国人領主層の居館遺構がしっかり残っている全国的にも珍しい事例ということで同じ長浜市にある三田村氏館と共に北近江城館跡群という名称で国の指定史跡となっています。近年まで末裔の方が管理していましたが数年前に市に建物含め寄贈され現在...

  • 浄光寺 池大雅の墓(京都市上京区)

    文禄から慶長へと元号が変わる1596年に創建されたと伝わる浄土宗の寺院で通称“大雅寺”と呼ばれるように絵師池大雅のお墓がこちらにあります。 本堂 池大雅の墓文人画(南画)の大成者として知られる絵師。川端康成が購入したことで知られる与謝蕪村との共作である『十便十宜図』(国宝)では十便図を担当。釣りをしている人々を描いた釣便は教科書に掲載され古くは切手にもなってもいるので一度は見たこ...

  • 回向院 長沢芦雪の墓(京都市上京区)

    創建年次は不明ですが寺伝によれば黒谷にて浄土宗開祖である法然上人の説法道場として創建されたのが始まりとされ、江戸時代初期の慶長8(1612)年に現在地へ移ってきています。 本堂 長沢芦雪の墓丸山応挙の弟子ですが応挙の作風とは事なり独創的で近年では伊藤若冲らと共に“奇想の絵師”のひとりに数えられています。狗の彼が描いた可愛らしい絵を観たことある人は多いのではな...

  • 静香(京都市上京区)

    昭和12年創業の老舗喫茶店。京都本に紹介されることが多かった名物ママがいることで有名でしたが、現在は代わりしメニューも増え外観も赤を取り入れ雰囲気が変わりました。2016年に訪れた時はちょうど店内改装中で臨時休業中でしたので、そのタイミングで代代わりしたようです。 確かここは昔はたばこ販売コーナーだったんじゃないかなぁ。 ...

  • 金臺寺(京都市北区)

    訪れてから年を越えたどころかもう半年以上経ってしまいましたが(汗)、昨年11月1~7日まで金臺寺で年一度の特別公開をしていたので行ってきました。お寺は妙心寺の塔頭ですが境外塔頭ということで妙心寺の敷地内ではなく立命館大学のすぐ近くにあり、嵐電等持院駅から北に5分ほどの場所になります。...

  • 衣笠会館(京都市北区)

    嵐電の終着駅北野白梅町駅近くにある煉瓦造りの洋館で明治38年に京都綿ネルの創業者藤村岩次郎氏の住居として和風建築の本館や洋館の別館と共に建てられ、戦後は京都工芸繊維大学の所有となり外国人教員の宿舎などに活用されましたが平成に入ってこの建物を除いて取り壊されています。現在は衣笠繊維研究所となっておおり曜日限定で内部公開も行われています。北区南部,西大路通から西側に...

  • 聖ヨゼフ修道院門の家(京都市北区)

    元々は住友家別邸の門衛所なので小ぶりな建物ですが素晴らしいです。住友家京都衣笠別邸の跡地に建つ。煉瓦の腰壁とハツリ目をつけた木部が典型的なハーフティンバーの様式をつくりあげている。もと門衛所であるが,小住宅としての価値を充分有している。住友営繕の多久仁輔(工手学校出身)が担当したとされる ★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用は一...

  • 小林家住宅(岐阜県垂井町)

    中山道垂井宿に北面して建つ町家で、木造平屋一部二階建、切妻造桟瓦葺とし、正面に下屋を設ける。正面東側を戸口として土間を通し、西側に格子をたてる。二階正面は黒漆喰塗で虫籠窓を二所穿ち、袖うだつをあげる。中山道の宿場の面影を伝える近世の町家(文化庁文化遺産オンラインより)★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用は一切固く禁止しております。にほんブログ村 ...

  • 中山道垂井宿(岐阜県垂井町)

    現在はJR東海道線沿いにある垂井町ですが街道は中山道が通っていました。この地には南宮大社があり自ずと門前町として発展し、また東海道の宿場宮宿へとつながる脇往還美濃路の追分と人の往来も多く宿場としての整備も行われていったのでしょう。 垂井宿本陣跡垂井宿の本陣は酒造業を営んでいた栗田家が務めていました。垂井宿は東・中・西町と3つの地区から形成されましたが本陣は中町に位置していました。 ...

  • 垂井城(岐阜県垂井町)

    現在は専精寺の建っている場所にかつて垂井城があったとされます。長屋氏によって築かれますが斎藤道三との戦いで長屋景興が天文16(1547)年に討ち死にし長屋氏は没落、関ヶ原の戦いが行われた慶長5(1600)年と戦いの直前に平塚因幡守為広が垂井1万2千石の領主として入城しますがその間のことはよく分かっていません。 専精寺本堂 その為広も関ヶ原の戦いでは西軍に属し小早...

  • 不破矢足の墓(岐阜県垂井町)

    前回の記事の続きになります。竹中半兵衛の重臣であった不破矢足は当初母方の姓喜多村十助直吉を名乗っていましたが、姉川の戦いで半兵衛の弟久作の後見役として参戦し味方に扮し信長の首を狙った浅井家重臣遠藤直経の正体を見抜き首を搔き切ったとされます。その際に矢を足に受け突き刺さったまま奮戦したことで半兵衛より矢足の名前を賜りそれを以後通り名としたそうです。 黒田官兵衛...

  • 五明稲荷神社(岐阜県垂井町)

    荒木村重を説得に有岡城へ向かうも捕らわれた黒田官兵衛の寝返りを疑った織田信長は官兵衛の嫡男で人質に出されていた嫡男松寿丸(後の黒田長政)の処刑を命じるも、官兵衛を信じる竹中半兵衛は最も信頼する重臣不破矢足に松寿丸の身柄を託し矢足の屋敷にて匿われます。その屋敷のあった場所が五明稲荷神社一帯だそうです。 匿われていた松寿丸がお手植えした銀杏の木...

  • 禅幢寺 竹中半兵衛の墓(岐阜県垂井町)

    明応3(1494)年にこの地の領主であった岩手典長により開基の曹洞宗の寺院で、竹中半兵衛の父重元が岩手氏を滅ぼし新たにこの地の領主となっても引き続き庇護を受け江戸時代に入っても旗本交代寄合竹中家の菩提寺として続きます。...

  • 竹中氏陣屋(岐阜県垂井町)

    旗本交代寄合竹中氏の政庁。竹中半兵衛の時代までは菩提山城を居城としていましたが大規模な山城で平時不自由ということもあり半兵衛の息子重門の時代に麓に新たに築いた城で、江戸時代は竹中氏が旗本のため城は持てず表向き陣屋を称していますが築城時は岩手城と呼ばれていた紛れもない城であり周囲を堀で囲まれ石垣で防御を高めるなどしています。 現在敷地内は岩手小学校など...

  • 旧名鉄八神駅跡(岐阜県羽島市)

    名鉄竹鼻線は笠松駅から分岐し大須駅まで走っていた路線ですが江吉良駅から先大須駅までの区間が平成13(2001)年に廃線となりました。新幹線岐阜羽島駅に近接しており現在竹鼻線の終着駅状態となっている新羽島駅は実は江吉良駅から分岐する羽島線という別路線だそうで、この記事を書くにあたりひとつ勉強になりました。 不法投棄されたゴミ?が目につきましたが廃線となったのが2000年に入...

  • 金宝寺 八神毛利家墓所(岐阜県羽島市)

    慶長元(1596)年にこの地の領主毛利広次開基、松堂大和尚開山の臨済宗妙心寺派の寺院で八神毛利氏の菩提寺です。 本堂明治24年に発生した濃尾地震で全壊し後に建て替えられたものだそうです。 八神毛利家墓所八神毛利氏は河内源氏の流れを汲み鎌倉時代から八神村や石田村などこの付近一帯の地頭など務めていた国人領主です。関ケ原の戦いでは当初毛利広盛が竹ケ鼻城に...

  • 八神城(岐阜県羽島市)

    八神村などを治めた尾張藩重臣八神毛利家の居城で、築城年次は鎌倉時代から江戸時代初期までの諸説ありますが鎌倉時代からこの地一帯の領主だった毛利氏により築城されました。江戸時代に入り一国一城令により表向き廃城となりましたが江戸時代を通して毛利氏がこの地に屋敷を構え城としての最低限の機能は備えていたとされます。 現在も敷地内の一画には毛利家御当主の御宅があり、毛利氏が...

  • 本覚寺(岐阜県羽島市)

    創建当時は天台宗の寺院でしたが永禄年間に曹洞宗に改宗。戦国時代の戦乱の中衰微の時代が続きましたが天正8(1580)年に信長の家臣不破源六広綱が竹鼻城主となると父綱村のために寺を再興し、以後杉浦重勝ら歴代竹鼻城主の菩提寺となります。 本堂天井の雲龍画は江戸後期の絵師浮田一蕙によるもので岐阜県の文化財指定を受けています。 ★当ブロ...

  • 竹ケ鼻城(岐阜県羽島市)

    応仁年間(1467~1469)に竹腰尚隆により築城されたとされ、以後国主の変遷とともに城主も何度か変わり関ケ原の戦いの時点では岐阜城主織田秀信の重臣杉浦重勝が城主を務めていました。 その関ケ原の戦いでは前哨戦のひとつとして激しい戦いが繰り広げられます。福島正則など家康に付いた武将たちの大軍を前に二の丸・三の丸に籠っていた援将の毛利広盛らは降伏するも本丸に籠る重勝は降伏...

  • 永勝寺跡 旗本藤掛家墓所(京都府綾部市)

    永勝寺は上林領主の旗本藤懸(藤掛)永重が父永勝の菩提を弔うため寛永5(1628)年に創建した臨済宗の寺院で藤懸氏の菩提寺でしたが過疎化により檀家が減少し寺の維持が厳しくなったため、昭和42年に同じ臨済宗妙心寺派の大龍寺と合併し現在は上林禅寺となっており(大龍寺に永勝寺本堂を移築)、藤懸氏の菩提も引き継がれていますが藤懸氏や家臣団の墓はそのまま永勝寺跡に残されています。...

  • 藤懸陣屋(京都府綾部市)

    上林城の麓に関ヶ原の戦いの後に領主となった旗本藤掛氏が新たに築いた陣屋ですが、遺構はおろか駒札など案内板も見る限りありません。藤掛(正式には藤懸)氏は織田家一族で藤懸永勝はお市の方付きとして小谷城落城の際にはお市の方と三姉妹を救出したとされます。秀吉の時代には1万5千石と大名の地位でしたが関ヶ原の戦いで西軍に属したため6千石と半分以下に減らされここ上林の領主となります。藤懸氏は大身...

  • 上林城(京都府綾部市)

    地名の通りお茶で有名な上林氏の居城。丹波と若狭との国境に近い上林谷の単独丘陵を利用した城で上林川を利用しつつ周辺の山々には複数の城跡も確認できます。 訪れるとよく分かりますが土豪クラスの城にしてはかなりの規模を誇ります。 公園というか広場となっている本丸跡南側が一段高くなっていますがこの高台が...

  • 旧長寿會細菌研究所(奈良県奈良市)

    東大寺の北側にあるヨーグルトなど発酵食品を製造していた工場施設・倉庫及び創業者喜多芳治郎氏が大正時代に建てた和洋折衷建築の住居でそれぞれ国の登録有形文化財となっており、現在そのうちの工場跡事務室は週末にカフェとして営業しているので機を見て行ったのですがまさかの臨時休業の貼り紙が…、残念。東大寺旧境内西部にある元乳酸菌製品の研究及び製造所。工場は切妻造の4棟をコの字形に連ね、外壁...

  • 小川又兵衛商店(奈良県奈良市)

    こちらは現役バリバリの酒屋さんなんですがまだ営業時間前のためシャッターは下りたまま。こちらも外観こそ手が加えられていますが明治時代に建てられたもので国の登録有形文化財なんですが、以前も触れましたが現役のお店は営業時間帯でなければやっぱり建物の光景はいまいち絵になりませんねぇ。荷物運搬用のトロッコもあるそうです。元興寺の東向かいの細長い敷地に建つ。間口8.8mの木造2階建、切妻造...

  • 正木家住宅(奈良県奈良市)

    こちらは現在は奈良女子大学のセミナーハウスとして活用されています。奈良町の一角に西面して建つ切妻造桟瓦葺平入で、南端に土間を通し、床上部は二列七室で、南列に四室、北列は落棟とし、三室を並べる。北西側には坪庭を設ける。土間は吹き抜けとして架構を見せ、竈も残るなど、往時の町家の姿を良く残す(文化庁文化遺産オンラインより)★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用は...

  • 岡田家住宅(奈良県奈良市)

    元興寺東側の街路に西面して建ち、切妻造桟瓦葺で、正面の下屋に格子を設ける。右土間で、上手に表からミセノマ、ブツマ、ザシキの三室を並べ、ザシキに置ドコと平書院を備える。ミセノマ北半は昭和前期に洋間とした。建ちが低く古式をとどめる奈良町の町家(文化庁文化遺産オンラインより)★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用は一切固く禁止しております。にほんブログ村 当ブログを補完する...

  • 元興寺塔跡(奈良県奈良市)

    元興寺は南都七大寺のひとつに数えられ元は蘇我馬子によって飛鳥の地で創建され日本初の本格寺院とされる法興寺をルーツに持つ寺院ですが、中世以降衰退し広大な敷地内にあった3つの塔頭などが分裂しそれぞれ元興寺として現在へと至っています。現在一般的に元興寺と言われる極楽坊と小塔院は真言律宗のお寺ですが、五重塔・観音堂があったここ元興寺塔跡は東大寺を本寺とする華厳宗のお寺になります。 ...

  • 木奥家住宅(奈良県奈良市)

    街路に東面し、当初部である古座敷に、中央のつし二階建の表屋、表屋北突出部、北西の二階建座敷を順次増築したため複雑な屋根を呈するが、正面下屋を通して一体感のある表構えとする。正面に出格子四所を設け、壁は黒漆喰塗で虫籠窓を穿つ。風格ある大型町家(文化庁文化遺産オンラインより)★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用は一切固く禁止しております。にほんブログ村 当ブログを補完...

  • 吉田蚊帳店(奈良県奈良市)

    大正10年創業の奈良蚊帳を製造販売するお店ですが、現在は蚊帳生地を使って様々な商品も展開しています。建物も国の登録有形文化財になっています。主屋の北に並び、切妻造桟瓦葺とする。漆喰大壁造の土蔵風外観で、正面一階は洗出し、北側面は竪板張とする。一階北半は床と間仕切を撤去し、南半はもと土間で、東寄りに床を張る。二階北東の六畳は裏庭側に縁を設ける。奈良町の歴史的景観に...

  • 奈良町にぎわいの家(奈良県奈良市)

    大正6(1917)年に美術商により建てられた表屋造りの町家で、現在は奈良町にぎわいの家として一般にも公開されています。奈良旧市街の中心部、中新屋町の街路南端に東面して建つ。表屋造の二階建、切妻造瓦葺で表屋の北側面を入母屋とする。背面に入母屋造の別棟を突出し、各階に座敷を構えて北面に眺望を取る独特の構成をもち、近代における表屋造の展開をよく示す(文化庁文化遺産オンライ...

  • 田村青芳園(奈良県奈良市)

    まだ開店前の時間で閉まっていますが、こちらはお茶屋さん。登録有形文化財のプレートが控えめながら輝いています。奈良町の通りに東面して建つ平入町家。木造二階建、切妻造桟瓦葺、間口八メートル奥行一四・一メートルで、背面に下屋を付ける。正面は軒を出桁とし、両側に卯建を設け、二階に大きな虫籠窓を設けるなど特徴あるつくりとする。奈良の伝統的町家の一例を示す(文化庁文化...

  • 坂本家住宅(奈良県奈良市)

    昨年夏に奈良国立博物館で開催されていた特別展を観に行ってきたついでに奈良町界隈をうろうろして国の登録有形文化財となっている建物を中心に撮影してきました。民家が中心のため文化庁の文化遺産オンラインの説明引用となりますがご紹介していきます。東西敷地の西端で通りに面して建つ平入町家。桁行7.4m梁間9.9m、木造つし2階建、切妻造桟瓦葺である。正面北側に出格子をたて、入口は格子戸引違い、南端に出格子窓を...

  • 甘春堂東店(京都市東山区)

    甘春堂と言えば茶壽器などで知られる京都では有名な和菓子屋ですが、徳川家が豊臣家に難癖を付けた鐘銘のある方広寺や豊国神社の門前にある東店はきれいにされ一見そこまでの古さを感じないもよく見れば虫籠窓や煙り出しなど歴史がありそうな建物。こちらも“京都を彩る建物や庭園”に選定されています。 豊国神社の近くにある慶応元年創業の和菓子店。当建物はその東店で、出格子、虫籠窓、軒...

  • 阪本商店(京都市東山区)

    前回のオダ薬局と同じ古川町商店街内にある店舗でこちらも京都を彩る建物や庭園に選定されていますが、見過ごさないようグーグルマイマップに登録して行ったのですがシャッターが閉まっていたこともあって京都市のサイトで見た建物の写真とは合致せず、最初気付かず通りすぎやっぱりあれかと再び戻る始末。シャッターが開いていると雰囲気あるだけに残念な写真となってしまいました。古川...

  • オダ薬局(京都市東山区)

    商店街のアーケード内にあるため建物の全景が掴めずパッと見た限りそこまで古いようには見えませんが京都市が選定する“京都を彩る建物や庭園”に認定されています。昭和の雰囲気漂うアーケード街にさりげなくある薬局の創業が寛政8年というのは古都京都らしいです。寛政8年(1796)開業の薬局。建物は典型的な町家形式を残し、奥の光天井がある吹き抜けは光と影がつくりだす幻想的な空間を作っている。 ...

  • 明智光秀の首塚(京都市東山区)

    山崎の戦いで秀吉に敗れ居城である坂本城へ戻る途中落武者狩りに遭い命を落とした明智光秀の首塚と伝わるところは畿内に数ヶ所ありますが位置的にこちらが一番可能性があるのかなと思います。当初秀吉により晒された光秀の首を埋めた塚は蹴上にあり祟りを恐れていた住民たちは一切手を触れず荒廃していたそうです。それを江戸時代中期の明和8(1771)年に光秀の末裔を称する能楽師明田利右衛門が塚の石塔を自宅に移し、明治維新後に...

  • あれから27年

    今日で阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)から27年となります。さすがに四半世紀も過ぎるとあの揺れを経験した世代は減少し今や震災後に生まれた世代が学校を卒業し社会人としても経験を積む時代となっています。風化は残念ながらある意味致し方ないのかもしれません。戦争体験にも当てはまりますが記憶にない世代との決定的違いは五感で体感したかだと思います。紙資料や写真・映像を記憶にない世代に見せたとして、果たしてどこま...

  • 西光寺(兵庫県明石市)

    創建は奈良時代と伝わり報恩寺というお寺の塔頭のひとつだったそうですが三木合戦の際に羽柴軍の焼き討ちに遭い焼失、文禄元年に大久保の光触寺にいた了法上人によって再興されます。了法上人については興味深い話があります。というのも上人は武田家の軍師として名高い山本勘助の実弟彦太夫経清と伝わっているのです。経清は武田家が滅亡後流浪の末大久保の地に流れ着き光触寺にて出家したのだそうです。 ...

  • 西林寺(兵庫県明石市)

    寺伝によれば二階堂出羽守三代の孫の空円上人により康安2(1361)年に天台宗の寺院として創建し、江戸時代に入り真宗東本願寺派に改宗し現在に至ります。...

  • 高丘古窯跡群(兵庫県明石市)

    高丘古窯跡群は須恵器とともに瓦が焼かれていた奈良時代の登り窯跡で現在は写真の3基と高丘東小学校横の公園内の2基が保存され兵庫県の文化財に指定されています。明石は以前にも触れましたが粘土質の焼き物に適した土が採掘される土地であることと、高丘のある大久保から魚住にかけては山林資源が豊富であることから丘陵地帯である高丘の地形を利...

  • 安達家住宅(兵庫県明石市)

    市内隅々まで隈無く歩いたわけではないので断定はできませんが明石市内で生まれて初めて茅葺き屋根のある御宅を見ました。明石市都市景観形成重要建造物に指定されていますが、建てられたのは寛政だと伝わっているそうで日本史の教科書で言うと老中松平定信が寛政の改革を行っていた時代になります。周辺の景観形成にも寄与している存在感は明石...

  • 林崎三本松瓦窯跡遺跡(兵庫県明石市)

    貴崎神社とは道を挟んだ北側にある特養ホーム脇にひっそりと文化財を示す案内板、それも市指定文化財とあります。自分は知らなかったのですが、昭和に入ってからこの地一帯から複数の形の瓦が出土しており平成の時代に入りこの場所に特養ホームなどが建つ前に大規模な発掘調査が行われ全体像が見えてきたそうです。12世紀から13世紀にかけて印南野台地の端にあたるこの地の海に向かう斜面...

  • 貴崎神社(兵庫県明石市)

    3回前に紹介した林神社の御旅社で播磨灘や淡路島が眼前に広がる海沿いの場所にあります。祭神は男狭磯というあまり聞いたこともない人物ですが日本書紀に記述の見える阿波の海人だそうです。允恭天皇14年9月12日、天皇は淡路島で狩猟をするも一匹も獲物を捕らえることが出来なかったので占ってもらうと赤石の海底に真珠があるのでそれを取って島の神に祀ると獣が捕れるというご神託が出た。そのため天皇は各地...

  • 山伏塚(兵庫県明石市)

    立石の井の岩となった大タコが海岸から逃れ山伏に化けたのがこの松江付近だといわれ、その場所には今も山伏塚という大タコの霊を静めるため小さなお社が建てられています。ただこの山伏塚にはもうひとつ全く違う話が伝わっており教覚さんというこの土地に居着いた山伏の墓だという話もあります。教覚さんはたいそうな子供好きで自身が流行り病に罹り亡くなる際にこの土地に埋葬してくれれ...

  • 立石の井(兵庫県明石市)

    林神社の東側にある住宅街の行き当たり藪に文化財の案内板が唐突に建っています。これが立石の井と呼ばれる湧き水が湧いていた場所でこの地区の地名立石の由来となっています。昔明石の海に足の長さが8~12mもある巨大なタコが住んでおり岸崎(現在の貴崎 山陽電車林崎松江海岸駅の北西地区)に住む二人のお后を狙っていることを知った武士が蛸壺を仕掛けそのタコを退治することにしました...

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、けんさんをフォローしませんか?

ハンドル名
けんさん
ブログタイトル
ぶらり歴史旅一期一会
フォロー
ぶらり歴史旅一期一会

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用