列伝 さん プロフィール

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列伝さん: きょうのもののふフォト列伝
ハンドル名列伝 さん
ブログタイトルきょうのもののふフォト列伝
ブログURLhttp://ameblo.jp/yamazakibakufu
サイト紹介文熱く散って逝った源平・南北朝・戦国・幕末のもののふ達の、フォト・レクイエム列伝です。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供108回 / 365日(平均2.1回/週) - 参加 2010/09/28 22:44

列伝 さんのブログ記事

  • ●早春の北関東を往く5 宇都宮城…数々の歴史の舞台なれど
  • ろくもんさんの米子城、みどりの木さんの今治城、などの詳細な城郭探訪記を読むと感銘感心、すぐ行きたくなるのだが。 さて、宇都宮城へ。 いや、もう夏なのにこんな写真ですみません。 街中にあるとはいえ、もう少し何か期待したのだが。 秀吉の宇都宮仕置の舞台であり。本多正純の釣り天井事件でも有名。そしてあの土方歳三が活躍した幕末の宇都宮戦争では、市街がほとんど焼失したという大事件が。&n [続きを読む]
  • ●新田義貞の哀しい最期の地
  • 福井県坂井市称念寺。新田義貞が静かに眠る寺。墓参はもう15年前か…。 義貞の稲村ヶ崎からの大勝利は胸躍る。 しかしその後の義貞は、負けたり勝ったりとはいえ、苦渋苦難の連続というべきか。 だが、愛妾・勾当内侍との別れを惜しみ、尊氏追討の機会を逃し、楠木正成を死に追いやったとする「太平記」あたりの義貞の評価はきびしい。 湊川の戦いで敗れた後北陸へ。官軍とはいえ京から追い払われたも同 [続きを読む]
  • ●新田義貞、負けて負けて、勝って勝って、まだ続く
  • さればでござる、箱根竹の下の戦いで敗れた新田義貞。西へ、都へ逃げる、逃げる。それを追いかけて、追いかける足利尊氏。 その尊氏の背後を猛追&猛追の北畠顕家が。1335年末、ほうほうの体で義貞、京に戻る。 翌新年、追いかけてきた尊氏は石清水八幡宮に陣構え、入京を窺う。 ▼八幡宮から京方面を望む。左の山が山崎天王山。 ………ああ、この人達に「明けましておめでとう」はない(ウウウウ) そこ [続きを読む]
  • ●何事にも意欲溢れる殿様だった小笠原忠真の栄光
  • ………母が出陣を涙を流して引きとめるのもきかず、大坂に出陣した若き忠真。茶道も、料理もこなしたという忠真。なかなか面白い殿様だったよう。故郷の松本平ではなし得なかった小笠原一族の栄光を、忠真の代から九州の地で果たすのである。 ◆小笠原忠真(おがさわらただざね 1596〜1667) 安土桃山〜江戸前期の武将・大名。小笠原家第2代松本藩主。小笠原宗家21代当主。初名は忠政。父は初代秀政。慶長20(1615)年父・兄と [続きを読む]
  • ●新田義貞のその後 とまどい、苦悩、栄光、挫折、敗北そして…
  • 鎌倉攻略の大功者として上洛した新田義貞。同じ武士の立場にある足利尊氏と、後醍醐天皇・護良親王との対立に「遭遇」する。 義貞にとって、これは判断は難しい。尊氏は同郷の武家の仲間であり、ライバルであり……とはいえ源氏としての格は一枚上。 かたや天皇と皇子。ここで義貞が北条を倒した後の時代をどう考えていたが問われたのではなかろうか。 上洛した翌年、護良親王と尊氏の対立が表面化した。武家中心の [続きを読む]
  • ●早春の北関東を往く4 新田義貞鎌倉攻略、しかしその後は
  • 分倍河原で鎌倉勢を撃破して、鎌倉の街に迫った新田義貞勢、その数60万とか(笑)。鎌倉の切り通しに手こずったが、ご存じ稲村ヶ崎で剣を投じて潮をひかせ、鎌倉へ乱入。ついに鎌倉幕府を滅ぼす! 生品神社(太田市)で挙兵して14日ほど、驚き入る。1333年、5月のこと。一番信じられなかったのは義貞自身か。 稲村ヶ崎近くに、激しい攻防を物語る史跡が残る。「十一人塚」。義貞家臣・大館宗氏は、極楽坂から鎌 [続きを読む]
  • ●早春の北関東を往く3 新田義貞とは、そのイメージはいかに
  • いよいよ安曇野も春五月。我が家の猫額田、すなわち猫の額のような狭い小さい田んぼ。まず肥料をまき、水を入れ、畦の草刈りを。もうすぐ北アルプスを映す鏡田となる。親友のYクンに、今年もまた、強力な助っ人として草刈りをやってもらいました。正面が常念岳。右手に信濃富士と呼ばれる有明山。 さて、北関東早春。「ひたすら鎌倉幕府打倒!」で、鎌倉をめざし、ついに滅ぼした時が、新田義貞のイメージが一番印象深 [続きを読む]
  • ●早春の北関東を往く2 城内に巨大なふしぎな丸い池 金山城
  • 栃木県太田市の金山城へ。日本100名城の1つというが、知らなかった。 すぐ近くの唐沢山城は、あの謙信剛勇伝説の城。かつてわざわざ行ったのだが、そのときなんぞは金山城は無視パスしてた(カナヤマサンスミマセン)。 金山城の城郭は広くかなりの山城。標高240?、赤松におおわれている。石垣も随所に堅固。 関東平野の眺望もいい。これならば100名城に数えられるのは当然か。 城内で、特に目をひくのは「月の池」と「日 [続きを読む]
  • ●大河・直虎の余波で信州・堀直虎(須坂藩主・若年寄)も急浮上
  • おどろいたことに、4月20日は1日でなんと44アクセス。4月に入って267、3月は193だったのに。 拙ブログの我が信州・「堀直虎」伝へのアクセスが急増中、善戦中。大河ドラマの嬉しい余波?いや、無名なれど、堀直虎はなかなか気骨ある幕末の若年寄だった。もちろん、拙著「信州往来もののふ列伝」にも登場しますのでぜひ! 直虎は東征軍が江戸に進軍中と聞き、将軍・慶喜に強く何事か進言した。しかし受け入れられず、江 [続きを読む]
  • ●東山道上野〜下野国沿いに木曽義高の墓が
  • 群馬県前橋市から北関東高速道路で、栃木県佐野市山形町へ。ここに、あの悲劇の若武者・木曽義高の墓所があるというではないか。これは行かねばならぬ。 木曽義高(清水義高)は、拙著「信州往来もののふ列伝」にも登場。頼朝・政子夫妻を憎く、恨みたくなる物語が展開する。そして義高と大姫の悲恋が涙を誘う。ぜひご一読願いたいのです。 ◆木曽義高(きそよしたか 1173?〜1184) 源平時代の武将・木曽義仲の嫡子。清水( [続きを読む]
  • ●あぁ、ついにとうとうやっとなんとか完成しました!
  • 集中力がどんどんなくなっていく中、とうとうできました! 「信州往来もののふ列伝」! 全275ページ、A6版、1200円(税別)です。口絵カラー写真17枚は嬉しかった。 もののふ五十人とは、信州ゆかりの次の面々です。 今までこのブログで全て取り上げてきた人物伝に、加筆してまとめました。 あらためて読むと、自分の稚拙な表現と文章に呆れるばかりですが…まぁ、もうこの際はグチは無しで。  [続きを読む]
  • ●無二の友・佐久間象山母病気の見舞いに常山は…
  • 信州往来もののふ列伝 巻97 山寺常山」をまとめました。ぜひ、またご一読のほどを。                        ◆山寺常山(やまでらじょうざん1808−1878) 江戸後期〜明治時代の学者。松代藩士。幼い頃から勉学に勤しみ、8代藩主真田幸貫に登用され、江戸にて兵学・儒学を学ぶ。後に藩の郡奉行・寺社奉行などを務め、藩政に寄与する。明治維新後は政府の招きを断り、明治4(1871)年 [続きを読む]
  • ●佐久間象山のみならず、この秀才たちもぜひお忘れなく
  • 「信州は教育県! 信州人はアタマがいい、理屈屋が多い」なんて言葉は、もはや完全に死語なれど、私が上京したン十年前はまだ残っていた。ヘンにトクしたことあり、ずいぶんアタマにきたことも。 今や、死語のこの言葉の背景には、松代藩の佐久間象山、山寺常山、上田藩の赤松小三郎、高遠藩の坂本天山ら、飯田藩の太宰春台らの学者を輩出したことが基といえようか。 また江戸時代、信州の寺子屋数は全国一だったとか。 [続きを読む]
  • ●新田義貞、足利尊氏の尊王は…
  • 「信州往来もののふ列伝」では、南北朝時代の人物を今まで3人取り上げた。 北条国時→執権北条の一門として信州・塩田平から鎌倉にはせ参じて、高時らとともに一門東勝寺にて全滅、鎌倉幕府は滅びた。東勝寺跡の「腹切りやぐら」。 北条時行→高時遺児として、信州。諏訪にて挙兵、一時は鎌倉奪還するも敗退。以後徹頭徹尾「反足利尊氏・直義」をつらぬき、そのためには後醍醐天皇とも、鎌倉を滅ぼした仇敵・新田一族と [続きを読む]
  • ●楠木正成の尊王とは 桜井の地から湊川神社へ
  • 「楠木正成は、後醍醐天皇の使いが勅使だと知ると、いったん部屋を退き、礼服に着替え、口をゆすぎ、手を洗い、改めて使いの者の前に平伏しました」という物語を幼いころに読んだ記憶はいまも鮮明。 正成はなぜ、これほどまでに天皇を畏敬し忠節を尽くすのか、よくわからなかった。これは幕末の尊王論も同じ、なぜみな、かくも天皇を崇拝するのか。 正成は新田義貞や、足利尊氏のような名門ではない下級武士だった。吉田 [続きを読む]
  • ●古都古寺逍遥Ⅴ 水無瀬神宮近くにあの名将父子が
  • 「水無瀬」といえば、「水瀬瀬三吟百韻」という言葉を思い出すのだが。そうか、飯尾宗祇らが詠んだ連歌の歌集で、この神宮に奉納したというのか。 そんなことを思いながら、山崎の天王山・宝積寺から水無瀬神宮へ。建物は重文、森に囲まれた静かな境内。雨しきり。ここはもう大阪府、古都ではないが。 水無瀬神宮が承久の乱で、隠岐へ流された後鳥羽上皇、阿波へ流された土御門天皇、そして佐渡への順徳天皇を祀っていた [続きを読む]
  • ●清州会議以後の滝川一益を思うと…
  • 清州会議に出席できなかったのは、一益にとって痛手だった。情勢を見きわめれば、秀吉に着いたろうか、柴田勝家方だろうか。 ▼鬼柴田の誕生地・名古屋市・明徳寺むずかしい〜、自分ならばどうしたろうか、などと考えてしまう。やはり私ならば、意地を張って、勝家方について滅びそうな気がする(笑)。 さて、猿VS鬼の賤ヶ岳の合戦!一益は、居城の伊勢長島城にこもって奮戦した。 ▼伊勢長島城大手門秀吉勢七万が押 [続きを読む]
  • ●負け知らずだった一益、五万の大軍と戦うも
  • 信長横死の悲報が一益に届いて七日後、はやくも小田原北条勢は5万の大軍で上野へ攻め入ってきた。当主・氏政自ら出馬。「上野国衆がとまどううちに、一益が動揺しているうちに」北条のさすがの動き。 それでも初戦のぶつかり合いは一益方が優勢、しかし北条方は大軍が次々と到来、1万3千の一益勢をじわじわと取り囲んだ。 大軍なれど、「わざと負けて一旦敗走する」という作戦をたくみに組み入れて、追ってきた一益勢を [続きを読む]
  • ●滝川一益が一城のあるじとなった伊勢長島城跡へ
  • さればでござる、あさって3/4付「信州往来もののふ列伝 巻96」は、あの滝川一益の登場でござる。 一介の浪人から、トントン拍子の出世、ついには上野国・信濃2郡の太守へ。信長四天王の一翼を担ったもののふ。柴田権六、丹羽五郎左、明智十兵衞、そして滝川一益。これが四天王。まだ佐々成政も、池田恒興も、前田犬千代も、そして羽柴秀吉…。桶狭間以降の信長家臣にはまさに戦国時代という浪人あがりが右往左往していた感あ [続きを読む]