列伝 さん プロフィール

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列伝さん: きょうのもののふフォト列伝
ハンドル名列伝 さん
ブログタイトルきょうのもののふフォト列伝
ブログURLhttp://ameblo.jp/yamazakibakufu
サイト紹介文熱く散って逝った源平・南北朝・戦国・幕末のもののふ達の、フォト・レクイエム列伝です。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供110回 / 365日(平均2.1回/週) - 参加 2010/09/28 22:44

列伝 さんのブログ記事

  • ●佐久間象山のみならず、この秀才たちもぜひお忘れなく
  • 「信州は教育県! 信州人はアタマがいい、理屈屋が多い」なんて言葉は、もはや完全に死語なれど、私が上京したン十年前はまだ残っていた。ヘンにトクしたことあり、ずいぶんアタマにきたことも。 今や、死語のこの言葉の背景には、松代藩の佐久間象山、山寺常山、上田藩の赤松小三郎、高遠藩の坂本天山ら、飯田藩の太宰春台らの学者を輩出したことが基といえようか。 また江戸時代、信州の寺子屋数は全国一だったとか。 [続きを読む]
  • ●新田義貞、足利尊氏の尊王は…
  • 「信州往来もののふ列伝」では、南北朝時代の人物を今まで3人取り上げた。 北条国時→執権北条の一門として信州・塩田平から鎌倉にはせ参じて、高時らとともに一門東勝寺にて全滅、鎌倉幕府は滅びた。東勝寺跡の「腹切りやぐら」。 北条時行→高時遺児として、信州。諏訪にて挙兵、一時は鎌倉奪還するも敗退。以後徹頭徹尾「反足利尊氏・直義」をつらぬき、そのためには後醍醐天皇とも、鎌倉を滅ぼした仇敵・新田一族と [続きを読む]
  • ●楠木正成の尊王とは 桜井の地から湊川神社へ
  • 「楠木正成は、後醍醐天皇の使いが勅使だと知ると、いったん部屋を退き、礼服に着替え、口をゆすぎ、手を洗い、改めて使いの者の前に平伏しました」という物語を幼いころに読んだ記憶はいまも鮮明。 正成はなぜ、これほどまでに天皇を畏敬し忠節を尽くすのか、よくわからなかった。これは幕末の尊王論も同じ、なぜみな、かくも天皇を崇拝するのか。 正成は新田義貞や、足利尊氏のような名門ではない下級武士だった。吉田 [続きを読む]
  • ●古都古寺逍遥Ⅴ 水無瀬神宮近くにあの名将父子が
  • 「水無瀬」といえば、「水瀬瀬三吟百韻」という言葉を思い出すのだが。そうか、飯尾宗祇らが詠んだ連歌の歌集で、この神宮に奉納したというのか。 そんなことを思いながら、山崎の天王山・宝積寺から水無瀬神宮へ。建物は重文、森に囲まれた静かな境内。雨しきり。ここはもう大阪府、古都ではないが。 水無瀬神宮が承久の乱で、隠岐へ流された後鳥羽上皇、阿波へ流された土御門天皇、そして佐渡への順徳天皇を祀っていた [続きを読む]
  • ●清州会議以後の滝川一益を思うと…
  • 清州会議に出席できなかったのは、一益にとって痛手だった。情勢を見きわめれば、秀吉に着いたろうか、柴田勝家方だろうか。 ▼鬼柴田の誕生地・名古屋市・明徳寺むずかしい〜、自分ならばどうしたろうか、などと考えてしまう。やはり私ならば、意地を張って、勝家方について滅びそうな気がする(笑)。 さて、猿VS鬼の賤ヶ岳の合戦!一益は、居城の伊勢長島城にこもって奮戦した。 ▼伊勢長島城大手門秀吉勢七万が押 [続きを読む]
  • ●負け知らずだった一益、五万の大軍と戦うも
  • 信長横死の悲報が一益に届いて七日後、はやくも小田原北条勢は5万の大軍で上野へ攻め入ってきた。当主・氏政自ら出馬。「上野国衆がとまどううちに、一益が動揺しているうちに」北条のさすがの動き。 それでも初戦のぶつかり合いは一益方が優勢、しかし北条方は大軍が次々と到来、1万3千の一益勢をじわじわと取り囲んだ。 大軍なれど、「わざと負けて一旦敗走する」という作戦をたくみに組み入れて、追ってきた一益勢を [続きを読む]
  • ●滝川一益が一城のあるじとなった伊勢長島城跡へ
  • さればでござる、あさって3/4付「信州往来もののふ列伝 巻96」は、あの滝川一益の登場でござる。 一介の浪人から、トントン拍子の出世、ついには上野国・信濃2郡の太守へ。信長四天王の一翼を担ったもののふ。柴田権六、丹羽五郎左、明智十兵衞、そして滝川一益。これが四天王。まだ佐々成政も、池田恒興も、前田犬千代も、そして羽柴秀吉…。桶狭間以降の信長家臣にはまさに戦国時代という浪人あがりが右往左往していた感あ [続きを読む]
  • ●古都古寺逍遙Ⅳ 光秀の涙雨が天王山に降る…か
  • 山崎の合戦で、秀吉が本陣を置いた宝積寺(京都府大山崎町)へ。数百?西はもう大阪府。大山崎の市街地から、急坂をぐぐっとクルマでのぼると、秀麗な三重塔が迎えてくれる。しかし雨だす。秀吉が一夜で築いたとか。秀吉はなんでも一夜じゃわ。ずっと、雨がやまずに降る。参拝どころではない。本堂前に、秀吉が座ったとかいう「出世石」が。 確かン十年前に来た時は、ここから秀吉の旗立ての松まではそう遠くなかったはず [続きを読む]
  • ●古都古寺逍遙Ⅲ  おぉ、決して逆臣でないあの人の供養塔が
  • 日野法界寺から北へおよそ1キロほど行った高台。かつての伏見宿の街並みが望める。ここは本経寺(伏見区小栗栖小阪町)。周囲には瀟洒なたたずまいの家が並ぶ。 おぉ、本堂の脇に、あの明智光秀の供養塔が!以前来たときはなかっただけにうれしかった。この寺のすぐ下に、明智藪の碑、すなわち光秀が竹槍で刺され深傷を負ったとされる地が。馬は竹藪を走り抜けたが、光秀の傷は致命的だった。 以前来たときは、竹藪が判然 [続きを読む]
  • ●西南戦争の夥しい戦傷者を見た乗謨(大給恒)は…
  • 今月のもののふ列伝95は、松平乗謨(のりかた)。松平郷・奥殿藩の「老舗」の譜代大名出身。石高は少なかったが異例の老中抜擢だったのだが。しかし時はすでに遅かった。将軍に軍制の改革を提言したというのだが…。 佐久に五稜郭・龍岡城を残したが、それよりも何よりも日本赤十字社の前身、博愛社を創設したことが、乗謨(大給恒)の大きな遺産だった。 ▼龍岡城大手門脇に立てられた乗謨(大給恒)の胸像は、日本赤十字社 [続きを読む]
  • ●佐久に五稜郭? 函館だろに? 松平乗謨が造った? 誰それ?
  • 五稜郭といえば函館・五稜郭に決まっている。が、しばしお待ちあれい、しばし。我が信州にも佐久市に、知る人ぞ知る龍岡城・五稜郭がござるのじゃ。空撮写真がこれ。石垣・土塁・水堀がよく保存され、城郭内は、田口小学校となっている。西洋通だったという大給(おぎゅう)松平家藩主・松平乗謨(のりかた)が築造。 何のために、山深い信州にこのような西洋式の城砦を造ったのか。規模は、函館五稜郭の三分の [続きを読む]
  • ●ついに横綱稀勢の里! 富岡八幡宮へまた行かねば あな嬉し
  • やった稀勢の里! でも「優勝」と「横綱」という目標があったからこそ、悔しさと悲しみでテレビを消した。その願いがあったからこそ、一人であっても万歳したり、拍手したりした。 がしかし、春場所からはどうなんだろうか…。応援に力が入るのかなぁ。 幸いというか、信州出身の新鋭・御嶽海がかなり強い。木曽義仲のふるさと、木曽の出身だ。横綱日馬富士を破った金星相撲なんかすごかった。 数年前東京・江東区 [続きを読む]
  • ●泣けた!まだ泣ける!涙が落ちる 稀勢の里ぉ〜
  • 思えば、白鵬の64連勝を稀勢の里がはばんだとき以来。2010年の九州場所だったか。もう6年も前。要は、強すぎる白鵬への妬みなのである。 白鵬をいつか粉砕できるのはこの人だ、以来力が入っていた。 何度稀勢の里が負けてテレビを消したことか!しかし、なんど稀勢の里が勝って手を叩き、万歳したことか。 ……内掛けの琴ケ浜が好きだった。その内掛けで自身の左腕を骨折したほど。琴ケ浜は大関で引退した。小 [続きを読む]
  • ●本当に嬉しいことなのだが…素直に喜びたいのだが…
  • ほんとにうれしいことなので、単純に喜んでいればいいのかもしれないが。下記の堀直虎伝、4年前の、2012.11.21.「信州往来もののふ列伝」としてブログに載せたもの。ところが今年1月になってアクセスが急上昇、1月今日現在まで433! 1/9は一日で94も! 12月は62、11月は60だったのに。 ところがこの間、コメはまったくなし、いいねもなし。なんか…?? なんかわけがわからない。どなたかアク [続きを読む]
  • ●富士山南麓紀行13 な、なぬ? あの信長の首塚が? そんな!
  • いやはや、初めて知った! びっくりした。信長の首塚が富士のふもとにあるとは。 信長の首級は本能寺の変後、結局見つからず、不明。阿弥陀寺(京都・上京区)の清玉上人が本能寺へ事件後すぐに駆けつけ、遺灰を同寺に持ち帰って、墓所としたという話が一番もっともらしいのだが。 ▼阿弥陀寺なんと信長公の首を、囲碁の名人・本因坊日海が信長家臣の原宗安に指示して、炎上する本能寺より持ち出し、山河を越えて遠いこの [続きを読む]
  • ●富士山麓紀行12 征夷大将軍の富士の裾野の大巻狩
  • 富士山麓を南から西へ。この日はいい富士が顔を見せてくれた。「富士の巻狩り史跡」の石碑が。 ここからは、あの「大沢崩れ」がよく見えた。建久4(1193)年、頼朝が征夷大将軍の座についた翌年、富士の裾野で大巻狩りが行なわれた。供奉・参集した御家人は60余人。天下制覇を成し遂げた、その威勢を示す一大行事だった。 巻狩りは、現在の御殿場あたりから朝霧高原あたりまでの範囲だったというから、富士山を半周、実に [続きを読む]
  • ●富士山麓紀行11 箱根竹の下の戦い以後、南北朝時代に
  • 富士山の南麓といえず、東のふもとの御殿場市のとなりの小山町。ここにかつては教科書にも載っていた「箱根竹の下の戦い」の古戦場が。「知らんなぁ…」と言われそう。 合戦図も兵の動きもよくわからないような地味な、ドラマでもほとんど出てこない合戦。かつての大河ドラマ「新太平記」でどうやったかどうか。だが合戦の内容はかなりドラマチック。 足利尊氏VS新田義貞弟の脇屋義助は、箱根竹の下、足柄峠付近で激突! [続きを読む]