列伝 さん プロフィール

  •  
列伝さん: きょうのもののふフォト列伝
ハンドル名列伝 さん
ブログタイトルきょうのもののふフォト列伝
ブログURLhttp://ameblo.jp/yamazakibakufu
サイト紹介文熱く散って逝った源平・南北朝・戦国・幕末のもののふ達の、フォト・レクイエム列伝です。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供109回 / 365日(平均2.1回/週) - 参加 2010/09/28 22:44

列伝 さんのブログ記事

  • ●鎮西城郭紀行Ⅲ 酒井田柿右衛門、赤絵発想のヒントは?
  • 名護屋城を後にして、有田焼の里、さらに佐賀城へ。おっと、その前に、「おい、あれ、食ってかんきゃいかんぞな〜」「そうだな!」 呼子の港(唐津市)の「烏賊の躍り食い」へ。港の景色を見ながら舌鼓。 そして有田の里へ。 「酒井田柿右衛門は、艱難辛苦の末、ついに陶器に赤の色、あの柿の色を出すことに成功した。その着想は実に ある偶然がヒントだった……」な〜んて、かつてペラペラとしゃべってきたのだが…。 有田の街並み [続きを読む]
  • ●鎮西城郭紀行Ⅱ 名護屋城にて「列伝が 目細めし 海の彼方哉」
  • ここだ、ここ、名護屋城だ!よく整備されている。小学校の遠足なんかには最高、きつい石段もない。 400年前に廃城された後の崩れた石垣がそのまんまという自然の姿がまたいい。 それにしても城郭が広い! 名護屋城がかくも巨大な備えの城とは知らなかった。本丸・二の丸はじめ随所に堅固な石垣が。 朝鮮・明を攻めるだけでなく、攻撃されることも想定して築城したということか。 秀吉は朝鮮に攻め入って、唐へ、さらに天竺をも [続きを読む]
  • ●嘆いて落ち込んでいては「もののふ・列伝」の名がすたる!
  • 我が著「信州往来もののふ列伝」が、「売れない、売れない」などと嘆き落ち込んでいては、「もののふ」たる列伝の名がすたる!  今に、きっと売れる! それより実は、何を隠そう、着々と次回作・続編を準備中。ご期待あれ。 タイトル案は、ジャーン!「続 信州往来もののふ列伝           中南信の巻 三十将星見参!」 ぐぐぐーんと、小説ぽく、史跡紹介多く、写真大きめ…などと思案中。中南信とは、中信濃・南信濃 [続きを読む]
  • ●売れない、売れた! 売れない… の日々
  • 4月に出版した拙著「信州往来もののふ列伝」は、このブログ読んでいただいている方にも何冊か買って頂いて、ありがとうございました。それにしても、なかなか売れないものです。 これが、今日7月12日20時の、拙著のアマゾンランキング情報。 Amazon 売れ筋ランキング: 本 - 376,368位.zg_hrsr { margin: 0; padding: 0; list-style-type: none; }.zg_hrsr_item { margin: 0 0 0 10px; }.zg_hrsr_rank { display: inline-block; wi [続きを読む]
  • ●鎮西城郭紀行1 元寇で台風は吹いたのか、吹かなかったのか
  • さていざ、鎮西・北九州城郭の旅へ、出立じゃぁ!友人Y(高校時代テニスダブルス県優勝コンビ。なれどシングルは列伝が決勝で押さえ込み勝!ムハハハ)とともに、いざゆかん。 「来た、来た、来たぞ! ついに鎮西九州・福岡じゃ!」まずは、蒙古襲来に備えて築いた元寇防塁跡へ。 砂浜の中から発掘、補修したとか。 よく復元されていた。「蒙古襲来絵詞」にも防塁は描かれていた。 まだ埋もれているものもあるらしい。……「ところで [続きを読む]
  • ●「忠敬も 芭蕉も愛でた 長楽寺」
  • 伊能忠敬は旅先で昼は測量、夜はその記録と天体観測とほとんど余裕なく過ごした日々だったという。 そんな忠敬が心を和らげ、その景色を愛でたという地、その一つに信州・長楽寺がある(千曲市)。 忠敬は、第8次測量で飛?から信州へ入った。中山道の奈川・薮原・洗馬を経て松本・会田と、善光寺街道を北へと向かった。 その後善光寺から須坂、松代を経て北国街道を江戸への道すがら、忠敬は名高い月の名所で絶景といわれる長楽寺へ [続きを読む]
  • ●3度も信濃路を測量した伊能忠敬
  • さまざまな逸話に包まれている伊能忠敬。書きたいことが多く、まとめるのに四苦八苦。ともあれ、まとめました。またぜひご一読のほどを。          ◆伊能忠敬(いのうただたか1745−1818) 江戸時代後期の測量家。「大日本沿海輿地(よち)全図」(伊能図)の作成者。上総の生まれ。19歳で下総・佐原の酒造家の養子に入り家業を発展させ名主となる。51歳で隠居、江戸へ出て天文学・暦学を学ぶ。寛政12(1800)年の奥州・蝦 [続きを読む]
  • ●年を越えての師弟の信頼感 伊能忠敬と高橋至時
  • 「宜しく高橋至時先生の墓側に葬り、以て謝恩の意を表すべし」伊能忠敬の遺言。 二人は源空寺(東京・江東区)で、仲良く並んで眠っている。 手前「東岡高橋君墓」とある墓塔の向こうに、「東河伊能先生之墓」と記されたのが忠敬の墓塔。逆から見ると。 19歳年下の至時に懸命に学んだ忠敬。そのひたむきさもすごい。研究&観察&記録……。 「ただの学問好きの年寄りではない」と、その熱意を敬仰して、熱誠こめて教えた至時。 忠敬 [続きを読む]
  • ●節目の「巻100」、あの伊能忠敬さんに登場願いました
  • さればござる皆の衆。 次回7月1日付「松本平タウン情報」連載の「信州往来もののふ列伝」は、節目の「巻100」にて候。 よって日本史上知らぬ人はいないあの超偉人、伊能忠敬殿に登場を願いましてござる。 「忠敬さんはもののふ?」「内陸の信州に来たの? 海岸線をずっと歩いたんじゃないのか?」なんて言わない、言わない! 忠敬さんは測量家となる以前は、酒造業者として名を成し、名主としての功績などで名字帯刀を拝領して [続きを読む]
  • ●早春の北関東を往く10 水戸烈士の墓参
  • されば、北関東の旅もそろそろ最後。となれば、やはり水戸、水戸へ寄って行こう。 拙ブログ「水戸浪士の墓、松本藩士の墓」の記事へのアクセスがあいかわらず多い。もう5年前(2012/12/31)の記事なのに。 今月は今日まで131、5月は289、4月は157。しかし「いいね!」「コメント」はあいかわらずまったくない。 そのほかにも水戸烈士関係の記事はかなりあるのだが。 それだけ水戸天狗党への関心が高いということなのだろう。私もそう [続きを読む]
  • ●嬉しいな、我が著の書評が信濃毎日新聞に!
  • 今朝(6/4)、信濃毎日新聞(地元では信毎という)開いたら、書評欄に我が著「信州往来もののふ列伝」が紹介されているではないか! やったぁ! これですこしは地元で売れるといいな。これが書評記事、けっこう良く書かれていて嬉しい。 拙ブログを見ていただいている方からも、何冊か買っていただいているようで、ほんとうに感謝です、ありがとうございます。 また地元で「松本平タウン情報」の連載を読んでいただいている方から、 [続きを読む]
  • ●早春の北関東を往く6 あぁ、勿来の関よ、八幡太郎義家よ
  • 「吹く風を 勿来(なこそ)の関と 思えども 道もせに散る 山桜かな」 八幡太郎義家好きでしたね! この和歌。意味は分からなかったけど、思い浮かぶ情景にあこがれた。かつて、軽をとばして、一路勿来の関へ。 そして義家さんの歌碑がこれ。 以来ン十年ぶりの勿来の関へ。 一帯の様相はまったく変わって、すばらしい史跡・公園になっていた。 JR勿来駅前に、八幡太郎義家公が騎馬像にてお出迎えしてくれた。 関所址に文学 [続きを読む]
  • ●さればでござる、次回「信州往来もののふ列伝 巻99」は若き熱血の武将…
  • されば、6/3付「信州往来もののふ列伝 巻99」は、松平康国伝でござる。「なぬ? 松平?」…となれば徳川関係?としてもまったくもって無名、マイナー。小諸城主だったといってもなぁ、知らない。 父は依田信蕃、といってもこれまたあまり………。まま、そういわずに、波瀾万丈だった父と子の物語、ぜひまたご一読のほどを。 まず、父・依田信蕃は、かつて「巻59」で登場したこんな武将。 ◆依田信蕃(よだのぶしげ 1548-1583) 戦 [続きを読む]
  • ●早春の北関東を往く5 宇都宮城…数々の歴史の舞台なれど
  • ろくもんさんの米子城、みどりの木さんの今治城、などの詳細な城郭探訪記を読むと感銘感心、すぐ行きたくなるのだが。 さて、宇都宮城へ。 いや、もう夏なのにこんな写真ですみません。 街中にあるとはいえ、もう少し何か期待したのだが。 秀吉の宇都宮仕置の舞台であり。本多正純の釣り天井事件でも有名。そしてあの土方歳三が活躍した幕末の宇都宮戦争では、市街がほとんど焼失したという大事件が。 石垣でない土塁がなにか新鮮 [続きを読む]
  • ●新田義貞の哀しい最期の地
  • 福井県坂井市称念寺。新田義貞が静かに眠る寺。墓参はもう15年前か…。 義貞の稲村ヶ崎からの大勝利は胸躍る。 しかしその後の義貞は、負けたり勝ったりとはいえ、苦渋苦難の連続というべきか。 だが、愛妾・勾当内侍との別れを惜しみ、尊氏追討の機会を逃し、楠木正成を死に追いやったとする「太平記」あたりの義貞の評価はきびしい。 湊川の戦いで敗れた後北陸へ。官軍とはいえ京から追い払われたも同然だった。        [続きを読む]
  • ●新田義貞、負けて負けて、勝って勝って、まだ続く
  • さればでござる、箱根竹の下の戦いで敗れた新田義貞。西へ、都へ逃げる、逃げる。それを追いかけて、追いかける足利尊氏。 その尊氏の背後を猛追&猛追の北畠顕家が。1335年末、ほうほうの体で義貞、京に戻る。 翌新年、追いかけてきた尊氏は石清水八幡宮に陣構え、入京を窺う。 ▼八幡宮から京方面を望む。左の山が山崎天王山。 ………ああ、この人達に「明けましておめでとう」はない(ウウウウ) そこを義貞、宇治から攻める! ああ [続きを読む]
  • ●何事にも意欲溢れる殿様だった小笠原忠真の栄光
  • ………母が出陣を涙を流して引きとめるのもきかず、大坂に出陣した若き忠真。茶道も、料理もこなしたという忠真。なかなか面白い殿様だったよう。故郷の松本平ではなし得なかった小笠原一族の栄光を、忠真の代から九州の地で果たすのである。 ◆小笠原忠真(おがさわらただざね 1596〜1667) 安土桃山〜江戸前期の武将・大名。小笠原家第2代松本藩主。小笠原宗家21代当主。初名は忠政。父は初代秀政。慶長20(1615)年父・兄と大坂 [続きを読む]
  • ●新田義貞のその後 とまどい、苦悩、栄光、挫折、敗北そして…
  • 鎌倉攻略の大功者として上洛した新田義貞。同じ武士の立場にある足利尊氏と、後醍醐天皇・護良親王との対立に「遭遇」する。 義貞にとって、これは判断は難しい。尊氏は同郷の武家の仲間であり、ライバルであり……とはいえ源氏としての格は一枚上。 かたや天皇と皇子。ここで義貞が北条を倒した後の時代をどう考えていたが問われたのではなかろうか。 上洛した翌年、護良親王と尊氏の対立が表面化した。武家中心の [続きを読む]
  • ●早春の北関東を往く4 新田義貞鎌倉攻略、しかしその後は
  • 分倍河原で鎌倉勢を撃破して、鎌倉の街に迫った新田義貞勢、その数60万とか(笑)。鎌倉の切り通しに手こずったが、ご存じ稲村ヶ崎で剣を投じて潮をひかせ、鎌倉へ乱入。ついに鎌倉幕府を滅ぼす! 生品神社(太田市)で挙兵して14日ほど、驚き入る。1333年、5月のこと。一番信じられなかったのは義貞自身か。 稲村ヶ崎近くに、激しい攻防を物語る史跡が残る。「十一人塚」。義貞家臣・大館宗氏は、極楽坂から鎌 [続きを読む]
  • ●早春の北関東を往く3 新田義貞とは、そのイメージはいかに
  • いよいよ安曇野も春五月。我が家の猫額田、すなわち猫の額のような狭い小さい田んぼ。まず肥料をまき、水を入れ、畦の草刈りを。もうすぐ北アルプスを映す鏡田となる。親友のYクンに、今年もまた、強力な助っ人として草刈りをやってもらいました。正面が常念岳。右手に信濃富士と呼ばれる有明山。 さて、北関東早春。「ひたすら鎌倉幕府打倒!」で、鎌倉をめざし、ついに滅ぼした時が、新田義貞のイメージが一番印象深 [続きを読む]