牟礼鯨 さん プロフィール

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牟礼鯨さん: 夕立鯨油
ハンドル名牟礼鯨 さん
ブログタイトル夕立鯨油
ブログURLhttp://judachigeiju.tumblr.com/
サイト紹介文場末の俳句
自由文俳句・俳文・連句・句評
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供533回 / 365日(平均10.2回/週) - 参加 2011/04/09 17:30

牟礼鯨 さんのブログ記事

  • 冬耕の人帰るべき一戸見ゆ/能村登四郎
  • 『枯野の沖』邑書林1996褐色の西洋絵画のように情景が広がりを以て立ち現れる句。手前に畠が広がり、奥手には丘が為す地平線に一戸としか言いようのない小屋が建つ。その小屋が冬耕の人の帰るべき家。痩せぎすの妻が待っているきりなのかもしれない。〈くちびるに撥ね上げて甘き冬耕土/能村登四郎〉の続章として。 [続きを読む]
  • 此ごろは雨と思はず五月雨/雨亭
  • 加藤郁乎編『近世滑稽俳句大全』読売新聞社1993五月雨は梅雨のこと。あまりにも長く雨が降り続くので「もうこの頃は五月雨も雨とも思わなくなりました」の意だ。俳号とともに見ると味わい深い。〈降出した日はわすれけり五月雨/雪架〉とともに時間としての雨の捉え方として通じるか。認知がおかしくなるほどの長雨。他には空間的な捉え方として「雨」「東西」の句が目立つ。東から西までずっと雨が降っているという広がりが見える [続きを読む]
  • 風船のいくつかアトリエの天井/木田智美
  • 週刊俳句第518号より連作「ウォーターゲーム」より。天井に風船がある句は園子温監督作品「気球クラブ、その後」という青春の残りカス映画の追想として破調でも採ってしまう。新聞紙俳句・部首俳句などと同じ条件反射。〈天井に風船あるを知りて眠る/依光陽子〉は子供の景品としての風船だが、掲句は子供の心を忘れない(忘れられない)芸術家の風船だろう。「いくつか」と数をぼかしているのは風船が大小色とりどりで定かにでき [続きを読む]
  • 靖国神社で句会
  • 三月二十六日は花の雨。武道館では明治大学の卒業式が開かれ袴姿が多く、靖国神社の神池では桜が八分まで咲いていた。標本木や他の桜の木はまだ十数輪ほど。神門で待合場所の認識違いについて口喧嘩している袴姿の女子学生と母親がいた。母親は傘の石突きを何度も敷石に当てて怒鳴っていた。かつて私の頃は、大学の卒業式なんて親は花見のついでのような心持ちだった。花冷の街は卒業生と関係者でごった返していた。チマチョゴリは [続きを読む]
  • 音楽の三筋の滝や雲の峰/山井
  • 加藤郁乎編『近世滑稽俳句大全』読売新聞社「三筋の滝」は甲賀市信楽町に実在する。なぜ「音楽の三筋」なのかについては地歌などの三曲、すなわち三味線・箏・胡弓(あるいは尺八)の合奏をイメージして、数を合わせたのだろう。三種の楽器の音がそれぞれ天に昇る上下移動を、雲の峰という山に見立てた雲を落ちる三筋の滝に見立てた。上下移動の向きが逆だが発想を優先させたのだろう。雲の峰の句では〈岑の雲や空にかへりて雲の岑 [続きを読む]
  • 瑠璃蝶や階の無き塔がある/安井浩司
  • 『安井浩司選句集』邑書林2008階に「かざはし」とルビ、「階の無き塔」は五重塔など霊的な役割を持っている塔かもしれない。塔の霊性は「瑠璃蝶」という言葉に担保されている。どんな塔を建てたにせよ人間は空へ到達不可能だと諭すかのように。その不可能さの対極としての瑠璃蝶。黒揚羽湧くや姉歯の松にして 安井浩司?型の楽器を抱きたき晩夏 安井浩司つわぶきに照らさる馬上性交や 安井浩司眉のあたりまで父母沈み秋の河 安 [続きを読む]
  • カフェ・セジュールで読書会
  • 三月二十五日は春寒。毎月のジョン・アーリ『モビリティーズ』読書会は気流舎がイベント準備のため下北沢駅北口のカフェ・セジュールにて開催された。第十章「ネットワーク」は東京の文化産業界隈について考える上でも参照できる用語が「ハブ型ネットワーク」「分散型ネットワーク」「共在」「接続された現前」など多くあった印象。会後タイ料理屋で占い師と合流し揚げバナナまで会食したあと眼鏡屋などでぐだぐだ過ごし帰宅した。 [続きを読む]
  • 断片22
  • 幼児「工事中の人は眠らない」火事、焼死者が最期に見た景色とは。歌人評に比べて俳人評にはあまり意味はない。ただ俳句も著作権表示の必要はある。乃木坂写真集ブームに松村沙友理の名前がないのが悔しい。「病」は呉音のビョウの他に漢音のヘイがある。漢音ヘイは三大疾病のほか詩八病や歌病など文学用語に使われる。俳病ハイヘイと俳病ハイビョウ〈俳病の夢みるならんほととぎす拷問などに誰がかけたか/正岡子規〉(『病牀六尺 [続きを読む]
  • 夕焼のほかは背負はず猿田彦/恩田侑布子
  • 『夢洗ひ』角川書店2017今は猿田彦珈琲が有名だが、猿田彦は天孫降臨で天照大神から派遣された天孫・瓊瓊杵尊を高天原から葦原中国へ導いた国津神。私の推測だが猿田彦は南伊勢の豪族で異人の王(天孫・天津神)に自らの国を明け渡し、異人王に客将として仕え畿内進出を手助けしたのではないかと思う。自らの国を明け渡し地位を捨ててまで誰かの為に尽くす神話的な男の背は「夕焼のほかは背負はず」としか言いようがない大きさがあ [続きを読む]
  • 性器より湯島神社へ碧揚羽/攝津幸彦
  • 『攝津幸彦選集』邑書林2006湯島天満宮の建つ東京都文京区湯島は日本武尊と縁深い妻恋坂もあり、俳枕となっている。同時に湯島はラブホテル街であり、これは掲句にある「湯島神社」こと湯島天神周辺の花街を源流としている。だから「性器」「湯島神社」「碧揚羽」は一見すると何も繋がらないようであるがその地底に潜む花街というキーワードですべて繋がっている。それは或いは天神坂の上に聳える湯島神社の有り様のようでもある。 [続きを読む]
  • 童話書きたし送電塔に雪降る日/飯島晴子
  • 『飯島晴子全句集』富士見書房2002送電塔は街と丘と山を結ぶように電線を結ぶ鉄塔である。送電塔を見るとき、人は必ず遠くを見る。空、山、木々、そういった遠景を見ている。遠景に雪が降っている。送電塔がなくても雪だけで一篇の物語が書けそうだ。送電塔は人類が自然と戦い、或いは共存してきた痕跡なのかもしれない。もし送電塔の物語をそのまま小説にしようとしてもしっくりこない。電力会社が主役の創業譚に落ち着くだろう。 [続きを読む]
  • 肉と蝶
  • 肉うすき我が肩に来て秋の蝶/?柳克弘さまざまの谷の蝶くる顔の肉/飯島晴子顔も肩も他の部分に比べて肉がつきにくい。蝶は人の肉薄き部分を好んで飛び来るのだろうか。なんとなく蝶に肉を咬まれそうな気がするけれど、蝶に歯はきっとない。蝶を介すると人体は地形の提喩でしかないのか。 [続きを読む]
  • きんたまの置所なき暑さ哉/盾山
  • 加藤郁乎編『近世滑稽俳句大全』読売新聞社夏の暑さを表現するために睾丸の位置が定まらないと言った。睾丸を包む陰嚢はなかを睾丸に最適な温度である摂氏三十四度から三十五度に保ちやすいよう、熱を放出しやすいラジエーター型の構造をしている。そのため冬は熱を放出する必要がないので小さく縮まり、逆に夏は機能を発揮するため大きく膨らむ。暑い時に陰嚢が大きくふくらんでしまうからこそ「きんたま」の置き所に困るのは確か [続きを読む]
  • 男来て出口を訊けり大枯野/恩田侑布子
  • 『夢洗ひ』角川書店2017大枯野で会った男が、大枯野の出口はどこかと訊く。枯野に迷い込んだ男はいったいどのくらい出口を探して彷徨っているのだろうか。「大枯野」から大きさは想像できるが、「出口を訊けり」のとぼけ具合から無辺に広がる途方もない大枯野が拡張される。〈蛇行せる川余したり大枯野/恩田侑布子〉は大枯野なのに川と少しずれていて川の膨らんだ蛇行部を取り込めずにいる。掲句の途方のなさはないけれど川の蛇行 [続きを読む]
  • 氵と木偏うららか筆談す/恩田侑布子
  • 『夢洗ひ』角川書店2017氵には「さんずい」とルビがふってある。春の日、筆談の人がいて、書く文字の氵と木偏が特にうららかであったのだろう。筆談で会話する人にとって字形がそのままその人の人となりになる。どうやら、その人はうららかな文字の人であったようだ。そういえば昔、筆談ホステスという人がいた。私はスマートフォンでこの文字を打っている。「さんずい」は氵と表示されるが「きへん」は木であり木と変わらない。「 [続きを読む]
  • 夕立避く舞台の袖に待つごとく/鈴木栄子
  • 『鳥獣戯画』牧羊社1978掲句との出会いは朝日新聞の天声人語だったと記憶している。急な夕立、道脇に建つ店舗の軒を借り、雨が止むのを待つ人々の様子は確かに舞台の袖で出番を待つ役者のようだ。というのは恋人に会う人や仕事に戻る人がみな同じ軒の下にいるのは、いろいろな役がいる舞台の袖のごったがえしに似ているから。「夕立」の素っ気ない字形とこの言葉が持つ若やぐ熱っぽさに「舞台」がよく合っている。春著きて通勤定期 [続きを読む]
  • 断片21
  • 言葉が現実を把握するための手段なら、詩の言葉は現実を拡張するための手段。詩は常識を壊し法律を無効化する。文学は詩とほぼ同義で使われる。喜べばいい。添句屋はじめました。あなたの画像に一句千円で添えます。季語以外が抜きんでていて、季語がそれを損なわない俳句。俳文とは客観的かつ実用的で整合性と着地点のない散文である。碧梧桐の文字が良い。赤い茸→赤い菌→夕立鯨油。たぶんこれで固定。吟行地へ行き俳句を作って [続きを読む]
  • 三月の割り印を押し捨て印も/伴場とく子
  • 週刊俳句第516号連作「束ね髪」より。三月は引っ越しが多く書類に捺印する機会が多いので押印場面には確かに仲春の季感がある。割り印に捨て印、という事務的な作業も「イン」「イン」と韻を踏むように言われると風雅にも思える。もちろん流れ作業的にリズムをつけて押すのではなく今までの生活を振り返りながらひとつひとつ噛みしめるように押印するのだろう。このように押印が単なる契約行為ではなく回想だと捉えると前近代的な [続きを読む]