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まほらにふく風に乗って http://mahoranokaze.com/

団塊世代のおやじが、歴史の里と呼ばれる常陸の都-石岡-に住んで感じたことなどを徒然に紹介します。

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住所
茨城県
出身
小千谷市
ブログ村参加

2011/04/26

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  • 芭蕉の「鹿島紀行」を巡って (6) 最終回

    松尾芭蕉が深川から舟で千住へ出て、そこから奥の細道に出立したのは元禄2年(1689年)3月27日(旧暦)です。この2年前の貞享四年(1687)八月の中秋の名月の前日に鹿島に月見に出掛けたことになります。芭蕉は伊賀上野に生まれ、29歳の寛文12年(1672)年に江戸日本橋小田原町に移り住みました。場所は、現在の中央区日本橋室町1丁目から本町1丁目にかけた地域です。芭蕉(桃青)の家の正確な位置は不明ですが、ここに延宝八年...

  • 芭蕉の「鹿島紀行」を巡って (5)

    「鹿島紀行」を巡って」も前回記事から大分日にちが経ってしまいました。今回は鹿島紀行の最後に書かれている 帰路自準の家に宿ス (自準亭:潮来の本間道悦亭) 塒(ねぐら)せよわらほす宿の友すヾめ 主人(自準:道悦) あきをこめたるくねの指杉(さしすぎ) 客(芭蕉) 月見んと汐引のぼる船とめて 曾良 (貞享四年(1687)八月二十五日)という部分の検証です。芭蕉たち3人(芭蕉、宗波、曾良)は、仏頂和尚...

  • 潮来の古刹・長勝寺へ

    潮来で、桜を見るのに毎年のように立ち寄っている源頼朝由来の古刹長勝寺さんに立ち寄りました。桜に丁度良いかと思ったのですが、既に散り初め、少し遅かったようです。ただ、今回ここに来たのは芭蕉の句碑を確認するためですので、桜は二の次です。鹿島紀行(鹿島詣)の時に、潮来の自準亭(本間道悦宅)で詠んだという句の句碑です。前にも何度も見ていたのですが、説明看板が泣く、石碑もよく読めずにあまりよく調べてもいな...

  • やっとこの里にも春が来た。

    昨日は「ふるさと風の会」会報の印刷日 会報205号を今日各所に配りに行きました。あっという間に桜が咲き、もう満開の所があちこちに・・・・・季節が戸惑い、春の来たのを忘れてしまったのかと思っていたが、どっこい忘れなかったようです。今年も春がやってきました。下青柳から奥へ。のどかですね。山は本当に笑っていました。つくばの採石場隣の「金嶽神社」へ飴玉幽霊伝説のある「頭白上人」の建立したと伝えられる立派な...

  • 春が来た。

    桜もだいぶ咲き始めました。今朝、市内の国府公園にいってみました。桜ももうだいぶ咲いています。桜と考える人?彫刻またスズランもきれいです。オオアラセイトウ(紫ハナナ、紫金草、花ダイコン)...

  • 芭蕉の「鹿島紀行」を巡って (4)

    芭蕉たちが鹿島に来て何か所かで句を詠んでいますが、私が訪れたことがある句碑が置かれている場所を書いておきたいと思います。書かれている句は次の5か所に分類されています。1)仏頂和尚の庵にてをり/\にかはらぬ空の月かげも ちヾのながめは雲のまに/\ 和尚月はやし梢は雨を持ながら 桃青 (根本寺)寺に寝てまこと顔なる月見哉 同 (大儀寺)雨に寝て竹起かへるつきみかな 曾...

  • 芭蕉の「鹿島紀行」を巡って (3)

    仏頂和尚について今回は芭蕉が禅の師と仰ぐ、鹿島の仏頂和尚(禅師)について、あまり知られていませんので紹介しておきたいと思います。仏頂和尚(仏頂河南)は寛永19年(1642)2月18日鹿島郡白鳥村字札(現鉾田市札)の農家(平山家)に生まれました。芭蕉より2歳年上です。 (仏頂和尚像:根本寺蔵) (大儀寺の仏頂和尚石像)白鳥村の名前は常陸国風土記の香島郡に登場する「白鳥(しらとり...

  • 芭蕉の「鹿島紀行」を巡って (2)

    (解説) 松尾芭蕉は伊賀上野の生まれですが、29歳の寛文12年(1672)年に江戸日本橋小田原町に移り住みました。小田原町は慶長年間の僅かな期間存在した地名ですが、その後本小田原町となり、現在の中央区日本橋室町1丁目から本町1丁目にかけた地域です。芭蕉(桃青)の家の正確な位置は不明ですが、ここに延宝八年(1680年)まで8年間を過ごしています。しかし日本橋の芭蕉宅には寿貞という身の回りを世話してくれる妾と、伊賀...

  • 芭蕉の「鹿島紀行」を巡って (1)

    芭蕉の鹿島紀行を巡る(はじめに) 松尾芭蕉は貞享四年(1687)八月の中秋の名月の日に、二人の門人と共に鹿島地方を月見に訪れました。これは江戸深川の芭蕉庵にいた時に知り合った仏頂和尚からの誘いを受けたものでした。仏頂和尚は当時鹿島の根本寺(こんぽんじ)の住職をしており、鹿島神宮との間で寺領争いがあり寺社奉行に訴えるために、江戸深川の臨川院という草庵にいました。仏頂和尚は、根本寺の寺領訴訟に天和2年(168...

  • 昨日は寒くて今日は暖か

    桜の開花は進まないけど、日が照って暖かくなると気持ちも豊かに・・・・ かすみがうら市に用事があり朝早く行ってきました。四万騎農園の栗の木の幼木畑には一面の菜の花がきれいに咲いていました。毎年のことだけどやはり春を感じますね。部屋に鉢植えシクラメンもほったらかしでも毎年遅咲きでも花を咲かせてくれます。やっと満開になりました。事務所入り口の花も、取り除かずにおいたらどんどん出しゃばり・・・・・でも可愛...

  • 明法房(弁円)の寺と墓(3)

    常陸大宮市東野(とうの)にある真宗大谷派の法専寺で教えて頂いた元山伏弁円こ「明法房」が葬られたとされる墓所へ。頂いた地図で、元の通り側に戻って法専寺の裏山の向こう側に車で向かいました。地図もあるし大丈夫と思っていたのですが、入口の曲道を通り越して、大回りしてまたもとへ帰って来て見つかりました。通りからの曲がり道に何か案内でもあればいいのですが、何もなかったので見過ごしてしまいました。分って見れば...

  • 明法房(弁円)の寺と墓(2)

    昨日の続きです。親鸞の弟子二十四輩の第十九番目が 山伏弁円こと「明法房」です。昨日は真宗本願寺派の「上宮寺(じょうぐうじ)」を紹介しましたが、今日は真宗大谷派の「法専寺(ほうせんじ)」を紹介します。このお寺は常陸大宮市東野(とうの)地区にある寺で、山伏弁円が最初にこの地で修験場を開いた場所です。弁円の素性ははっきりしないとされていますが、ここでは平清盛の孫と云われています。正確には清盛と時子の長...

  • 明法房(弁円)の寺と墓(1)

    本ブログも数年前に常陸国と親鸞聖人の足跡などを辿って、記事にもし、また本にもまとめました。しかし、24輩の弟子の残した寺などは特に辿っているわけではありませんでした。ただ、最近見落としている寺などが気になり、特に石岡に暮らしていると大覚寺に伝わる山伏弁円などをもう少し詳しく調べて見たくなりました。思い立つとその残された寺や墓などと云うところに行ってみなければならないという気持に襲われ、昨日3月16日...

  • 「浄国寺(銚子)」と梅

    3日ほど前だが、案風の強かった日に銚子へ出かけていたのだが、ランチ後に少しの時間で何処か梅見によいところは?と調べて見たが、銚子市内ではあまりヒットしない。それでも「梅と浄国寺」の写真が出て来た。このお寺は確か「芭蕉と一茶の句碑」があったはずで、昔訪れたことがあった。街中から近いし、小雨でもあるので立ち寄ってみることにした。浄土宗の寺院だが、なかなか趣のあるお寺である。境内のお堂と梅のコラボレー...

  • 常陸国風土記「鹿島地方を巡って」(計画)

    ふるさと風の会では昨年に常陸国風土記を読み、行方地方を中心に2回に分けてまわりました。今年春に、鹿島地方を巡って見ようと計画しています。行先の候補として1)芭蕉の月見の寺(仏頂禅師)大儀寺2)白鳥の里 白鳥山大光寺 照明院3)沼尾神社4)坂戸神社5)鹿島神宮6)郡衙跡(神野向遺跡)7)跡宮8)一の鳥居(西)大船津9)息栖神社などを考えて居ます。上記には風土記と関係のない場所もありますが、折角行くのでしたらな...

  • 正岡子規の「水戸紀行」を巡る(10)

    この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。数回に分けてブログにUPしようと思います。 1回目から読むには ⇒ こちらから今回は10回目です。最終回です。<10> 4月6日大洗 ~ 4月7日 帰京(現代語訳)(四月)六日 曇り、多駄八と共に宿屋を出て今日は大洗に行こ...

  • 正岡子規の「水戸紀行」を巡る(9)

    この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。数回に分けてブログにUPしようと思います。 1回目から読むには ⇒ こちらから今回は9回目です。<9> 水戸散策(2)偕楽園周辺(現代語訳)ふりかへり見ながら通り過ぎて行くと、一株の枝垂桜(しだれざくら)があった。や...

  • 正岡子規の「水戸紀行」を巡る(8)

    この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。数回に分けてブログにUPしようと思います。 1回目から読むには ⇒ こちらから今回は8回目です。<8> 水戸散策(1)弘道館・水戸城跡まわり(現代語訳)多駄八と共にくたびれ足をひきずりながら城の方へと向ったこのほとり...

  • 正岡子規の「水戸紀行」を巡る(7)

    この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。数回に分けてブログにUPしようと思います。 1回目から読むには ⇒ こちらから今回は7回目です。<7> 小幡~長岡~水戸(現代語訳)この辺の街道は松繩手(松並木)にあらずして路の両側に桜の木が植えられている。木の様は...

  • 驚きの小幡城跡(茨城町)

    正岡子規の「水戸紀行」を読み進めていて、気になった場所を探しながら旧水戸街道の「小幡宿」にやってきました。ここは水戸から「長岡」のつぎにあたる2番目の宿場町でした。その旧宿場の通りの中ほどの大きな木の根元に石像や「聖徳太子」などと書かれた石碑が集められている場所があり、そこに「小幡城跡」の矢印看板が置かれていました。どの程度の城跡なのかはよく知りませんので、先ずは行って見ないことには・・・車で畑...

  • 豊玉姫神社

    阿玉台貝塚の梅見の後、近くの「豊玉姫神社」へ。豊玉姫は竜宮城の御姫様。でも「大和邇」(ワニ)であるようなので、何故このような話が神話に出て来るのか、その話の起源はどこにあるのか。いつも不思議に感じています。また「海神(ワダツミ)」など九州を中心とした海洋信仰が、ヤマトタケル伝説と一緒になってこの銚子の内陸部に根をおろしている。何か不思議な気がしています。この豊玉姫神社は、東庄町の「東大社」と旭市...

  • 息栖神社に立ち寄り

    今回銚子に行く途中で立ち寄ったのだが、一寸行かないうちにだいぶ神社の周りが明るくなった。駐車場を整備したり、遊歩道を作ったり、喫茶店なども出来て、今までのイメージとはだいぶ変わってきた。鳥居の前にあった石の看板などは拝殿近くに移されていたようだ。この鳥居の前を左に行くと次の角にあらたな喫茶店が出来ました。大きな駐車場もその先を曲がった先にできています。この境内案内板も新しくできたようだ。境内も少し...

  • 阿玉台貝塚梅林へ

    先週の2月最後の日に千葉県香取市(小見川)の国指定史跡「阿玉台貝塚」にある梅林に立ち寄りました。ただまだ少し早かったのか?梅はもう少しと云った感じでした。また以前より梅の木も少し少ないように感じましたが・・・・これらの維持管理も大変だと思います。小見川から樹林寺を通って、阿玉台貝塚へ。何度か通り馴れた道です。道路は少し狭くなって坂を上って少し高台に行きます。貝塚がどうしてこんなに高台になどと昔は...

  • 正岡子規の「水戸紀行」を巡る(6)

    この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。数回に分けてブログにUPしようと思います。 1回目から読むには ⇒ こちらから今回は6回目です。<6> 石岡(府中)~竹原~片倉~小幡(現代語訳) 石岡は醤油の名所なり 萬屋は石岡中の第一等の旅店なり さまて美しくは...

  • 正岡子規の「水戸紀行」を巡る(5)

    この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。数回に分けてブログにUPしようと思います。 1回目から読むには ⇒ こちらから今回は5回目です。<5> 土浦~中貫~稲吉~石岡(約15km) (現代語訳)土浦の町は街道の一筋道ではなく、あっちへ曲がり、こっちへ曲がりなど...

  • 正岡子規の「水戸紀行」を巡る(4)

    この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。数回に分けてブログにUPしようと思います。 1回目から読むには ⇒ こちらから今回は4回目です。<4> 藤代~牛久~荒川沖~中村~土浦 約23km(現代語訳)四日(4月4日)朝起き出でゝ見れば小雨がしよぼしよぼと振ってい...

  • 正岡子規の「水戸紀行」を巡る(3)

    この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。数回に分けてブログにUPしようと思います。 1回目から読むには ⇒ こちらから今回は3回目です。 <3> 我孫子~取手~藤代(約14km) (現代語訳)(我孫子宿では)両側の宿屋の下女が人を呼ぶとめ、騒々しく嚙みつきそ...

  • 正岡子規の「水戸紀行」を巡る(2)

    この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。数回に分けてブログにUPしようと思います。 1回目から読むには ⇒ こちらから今回は2回目です。 <2> 千住~松戸~小金~我孫子(約40km)(現代語訳)千住の中頃より右に曲るとは聞いていたが分かれ道がどこやら分らず、...

  • 正岡子規の「水戸紀行」を巡る(1)

    俳人正岡子規は学生であった明治22年4月3日から7日にかけて、第一高等中学校(現東大)の友人と2人で同学年の親友であった水戸の菊池謙二郎氏を訪ねて旅行をしています。当時水戸までは小山経由で鉄道は開通していましたが、本郷の常盤會寄宿舎から水戸まで3日間かけて水戸街道を歩いて旅行しました。本人たちは2人でしたので弥次喜多道中を意識しての徒歩道中の気分だったようですが、子規は体は丈夫な方ではなかったようですが...

  • 石岡ひな巡り2024

    石岡では「石岡ひな巡り」が開催されています。市内のお店や神社などにひな人形が飾られています。今回は「まちかど情報センター」さんの展示を2日前に見てきました。(今日木曜日は休みです)「雛巡り 歴史絵巻情景飾り ~空蝉 久遠のいのち~」時は春今日木曜日は街中はお休みのお店が多いです。ここ情報センターや丁子屋さんも休みです。是非石岡にお越しください。...

  • たかぎ書店さん

    昨日地元石岡市内の「たかぎ書店」さんに立ち寄りました。老舗の本屋さんですが、頑張っておられます。なかなか店売りはこの書店業界も苦労されているようです。私の新潟(長岡)の親戚も大きく手を広げて書店をしておりましたが10年以上前に閉店となりました。このお店に私の作った本も以前から置かせていただいています。置かれている場所が少し前から変更され、地元関連の本がある一角に集めて展示されるようになりました。き...

  • 銚子と大根

    今の時期に銚子を訪れると、重そうな野菜の箱をたくさん積んだトラックが、ゆっくりと前を走っていることがよくあります。荷が重いためか、スピードも上がらず、後ろの車を先に追い越させようと道端へ寄ってゆっくりと走っていたりします。銚子は「春キャベツ」が有名なのですが、このキャベツは今は峠を過ぎて、この時期は大根を運んでいるようです。集荷された箱には「さわやか大根」と書かれた文字が見えます。銚子附近の高原...

  • 梅も大分咲いてきました。潮来市上戸の観音寺

    昨日は朝からまた千葉県銚子市に仕事で出掛けてきました。EXCELによる業務改善のプログラムで少しエラーがあり、検証に2~3日前から時間を使ってきました。このブログではあまり仕事のことは書きませんが、昔作成したプログラムもいくつかを統合したりして複雑になると、EXCELのバージョン改定で不具合が生じることが多々出てきます。大分これも慣れてはきたのですが、意外な落とし穴に気が付かず、見落としがあり苦労することがあ...

  • 「うずも」と「砂丘」

    石岡から銚子に行くときに、神栖市を通って銚子大橋を渡り、銚子の町に入ることが最近は多くなりました。霞ヶ浦の北岸を通っていくこの道は、比較的交通量も多くなく、神栖などは拡張された広いまっすぐな道路が続きますので、時間短縮、燃費向上などになります。最近乗っている軽自動車はガソリン1リットル当たり、20~25km走ります。銚子まで片道80km強ですから 片道で4リットルくらいで済みます。ガソリン代も高くなっ...

  • 水郷北斎公園(牛堀)

    霞ヶ浦の茨城側(北東側)の国道355号線は潮来市手前で水戸・鹿島-香取成田千葉間をつなぐ国道51号線一緒になり、香取(旧佐原)まで国道51号線と一緒になります。しかし、潮来市街にはこのまままっすぐに進むと、そこは「牛堀」となります。この牛堀も今は潮来市の一部となって居ますが、江戸時代から明治時代頃には「常州牛堀」と呼ばれた水郷地区の一部で、葛飾北斎も富岳三十六景の19番にてここからの富士山を描いてい...

  • 神之池と鹿島コンビナート

    銚子へ行く途中、神栖で鹿島コンビナートの高い塔から白い煙が目に入り、市内の神之池(ごうのいけ)に立ち寄ることにしました。立ち寄ると云っても街道沿いにあるので、通りからすぐに車を駐車場に停められます。この神之池は現在池の周りは緑地ベルトがめぐらされ、緑地公園となり、静かで朝からジョギングする人などが沢山います。また、市役所などの行政機関も並んでいます。神之池(ごうのいけ)の現在の面積は44万平方メー...

  • 智恵子抄と銚子ぎょうけい館

    昨日銚子の老舗ホテルのぎょうけい館が閉鎖されていたことを書いた。(こちら)この宿には皇族、政治家や文豪など数多くの有名人が宿泊したと書かれている。特に高村光太郎が智恵子と最初に親しくなった場所というので、青空文庫で「智恵子抄」に書かれている内容を探した。一部ではあるが、見つかったので参考のため紹介しておきます。<抜粋>追憶の中の彼女をここに簡単に書きとめて置かう。 前述の通り長沼智恵子を私に紹介し...

  • さようならホテル「ぎょうけい館」

    昨日、1月半ばであったが、今年正月過ぎて初めての銚子へ出かけた。正月に前に銚子で老舗のホテル「ぎょうけい館(暁鶏館)」で前にランチを食べたことを思い出した。今もランチはやっているかな? と検索してみたら、何と昨年1月(1年前)に営業停止していた。様々な文豪たちも宿泊したという明治初めにできた老舗ホテルだが、とうとうコロナ禍最後に閉店してしまったという。たしかに建物も老朽化し、周りにいくつもホテルは...

  • ふるさと風の会、今年最初の会報発行

    このブログも2010年8月から8年5か月、これは今所属している「ふるさと風の会」での活動とほぼ同じです。この風の会のスタートは2006年の6月であるが、私がこの会に入会し、最初にここ会の会報に記事を書いたのは2012年11月号からです。ただ、ブログを始めた頃にはすでに、この「ふるさと風の会」は存じており、非会員として白井先生などの会員の勉強会?などに時々顔を出しておりました。会報に毎月記事を投稿する...

  • 新年おめでとうございます。

    明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。今朝の日の出。 石岡市高浜地区 恋瀬川下流 「平和橋」にて今朝の筑波山...

  • ふるさと風の会もまた来年。

    先週喉王日に、年末最後の「ふるさと風の会」忘年会と称して、去年と同じカフェレストラン「オリーブ」さんでランチ会での忘年会をしました。勿論酒類は一切なく、レストラン特製のランチと美味しいパンケーキにコーヒーを頂き、おしゃべり会でお開きとしました。この会も十七年半ほど続いています。毎月発行していた機関誌は今年から年四回の季刊となりましたが、会員皆さん頑張って原稿を書いていただいています。それをまとめて...

  • 常陸原舎利浜

    先週末に銚子に行くときに神栖市波崎の鹿島灘に面した「舎利浜」を見てきました。以前にこの地も訪れていますが、この浜辺は見ていなかったので確認に行ったのです。江戸時代の滝沢(曲亭)馬琴などが調べて書き残している「うつろ舟」が漂着したと伝えられる浜辺です。この「うつろ舟」はUFOのような円盤状の形をしており、中には異国の美女が乗っていたと伝えられています。興味のある方は「うつろ舟」で検索してみてください...

  • 山寺跡は秋の暮れ

    八郷十三塚へ今年も遅れてやってきました。雨の後で、時間も夕方になり、日暮れ前に何とか行ってきました。12月半ばに何回か訪れていますが、今年の紅葉はもう終わりですね。また来年もこの静かな里は守られていますように!...

  • 西蓮寺の黄葉その二

    先日(12月7日)行方市の古刹西蓮寺の銀杏の黄葉を紹介しましたが、昨日(12/15)にまた立ち寄って写真を撮ってきました。時間は前回と同じ、午前9時頃です。前回はこの時間にも結構写真を撮られる方が4~5人ほどおられましたが、今回は誰もおりませんでした。確かに、朝方は雨が降り、どんよりとした冬の朝は写真には向きませんね。でもこの見事な銀杏の黄葉もおそらくもう今年は見納めですので、銚子への仕事で近くを通るので...

  • 西蓮寺の黄葉

    今年の紅葉も遅いとは思っていても、やはり見ておきたいので今年も出かけてきました。行方市の西連寺さんの古木「銀杏」の黄葉。毎年、少し散って、下に黄色い絨毯が出来た頃・・・・・・確か12月の7~10日頃。いつもだと、銚子に行くときに立ち寄るのだけれど、今回は行くのが少し遅くなって、散り終えてしまうかもと気になって。今朝出かけてきました。まあ、丁度いい頃合いのようです。まだ数日、今週末から来週初め頃までは...

  • 「常陸国風土記を巡る」本の制作完成

    1年で1冊の本を作ろうとして、どうにか形になりました。年内に何とか間に合いましたね。年1冊と言っても結構大変ですね。まずは風の会のネット店に出してみました。「常陸国風土記を巡る」 - 遺称地を訪ねて -A5判 292ページ+詳細地図折込14枚本体価格1200円+税ネットでは税込みで1200円送料無料販売ページ(ふるさと風販売Shop) ⇒ こちら 当アイテムの販売ページ ⇒ こちら...

  • 久しぶりに銀座へ

    最近電車に乗ることもあまりなくなった。先々週の土曜日には東京の実家(武蔵小金井)へ法事で出かけた時も車で行った。まあ平日では無ければ都会も運転は楽だ。月に数回程度出かけている銚子などは車でなければ不便でしょうがない。あと何年乗れるかわからないが・・・・・・。先週土曜日は大学時代の友人との昼飲みに東京銀座へ。前回は7月に暑気払いと称してコロナ後初会合。今回は少し早いが忘年会。東京までは高速バスを利...

  • 公民館講座最終回

    全4回の公民館講座が本日終了しました。初めての講師は結構疲れました。タイトルは「常陸国の源平合戦」です。本日は、私のライフワークともなっている現地調査結果の説明でした。佐竹氏の南方三十三館仕置で実際何があったのか。残されていた物証を見ていくと何が見えてくるか・・・こんな内容です。始めて講師をさせていただきましたが、教えたり説明をするという事はかなり難しいということを痛感しました。きっと慣れてくれ...

  • 公民館での3回目の講座を行いました。

    昨日11月16日(木曜日)は、先週に続き3回目の歴史講座を行いました。1週間前に2回目を行っており、その間の3日間はまちかど情報センターで風の会の文庫展もあり、少し疲れました。昨日は天気も良く、暑いくらいで、今日は逆に雨で1日中寒い。気温の変化もありますね。だんだん体力も衰えてきます。公民館での講座内容は今回「常陸の源氏=佐竹氏」の歴史を振り返ったのですが、水戸以南の大掾氏を中心とした平氏たちと違って、...

  • 公民館での2回目の講座開催

    「常陸国における源平合戦」と題して4回連続での講習会をしていますが、今週木曜日に2回目の講座を城南地区公民館で行いました。1回目に比べると少し落ち着いて周りを見ることもできたかと思いますが、まだまだですね。大変多くの方(約30名)が熱心に聞いていただきありがとうございました。平日の昼間ですので、やはり年配の方が中心ですね。男女比率は半々くらいでしょうか?しかし、八郷地区や石岡市内からの方もおり、この...

  • 権現山古墳(東海村)

    日立市をさらに南へ戻って、東海村へやってきました。ここには十三参りで有名な村松虚空蔵があります。しかし、風土記が書かれたころはまだこの虚空蔵尊はなく、後に筑波山から見て鬼門(北東=丑虎)方向に建てられたものだと理解していますので、今回は風土記の頃を考えて、風土記の遺称地として名前が挙がっている「権現山古墳」を探していってきました。このあたりにはほかにも古墳が残されていますが、これらは「那賀国造一...

  • 密筑の里と泉が森(久慈郡)

    多珂郡から日立市南部は「久慈郡」となる。現在、日立市の泉神社と呼ばれる比較的有名なパワースポットがある。ここが常陸国風土記の久慈郡に書かれている「密筑(みつき)の里」と呼ばれる場所だとされている。風土記には「称ふ所の高市、此より東北二里(約1km)に密筑(みつき)の里あり。村の中に浄き泉あり、俗(くにひと)、大井(おほゐ)と謂ふ。夏は冷にして、冬は温し。湧き流れて川と成る。・・・・・・・」と書か...

  • 仏の浜(2)

    昨日書いた「仏の浜」については、現在どうも風土記の遺称地とは違うのではないかという意見が多くなっているようです。理由としては、① 常陸国風土記に書かれている流れからすると、「藻島の駅家」と「飽田の村」との間にあると読めそうで、これらの遺称地がそれぞれ、日立市十王町伊師北部と、日立市相田町と考えられており、この度志観音のある日立市田尻町は相田町より少しばかり南であり、位置が違っている。② この度志観...

  • 仏の浜(1)-度志観音跡

    常陸国風土記の多珂郡の記述はそれほど多くはない。多珂郡が大化の改新以降に律令制制度での国や郡を明確に区分するようになる前は、まだ多珂国とよばれており、国造(くにのみやつこ)が派遣されていた。都から4世紀中頃に、ここの国造に派遣されたのは建御狭日命(たけみさひのみこと)で出雲臣と同族の人であったという。また、この頃の多珂国は今の日立市助河の北から福島県の大熊町あたりまでと記載されている。この多珂国...

  • 碁石の浜

    常陸国風土記には「藻島(めしま)の駅家(うまや)の東南の浜に碁石あり。色は珠玉(たま)の如し。所謂常陸の国に有る麗しき碁石は、唯、是の浜のみなり。」と書かれている。このきれいな碁石がとれる場所が現在国民宿舎として有名な「鵜の岬」の北側の海岸と考えられれている。ここ「伊師浜海岸」は江戸時代初期頃から使われている名前で、その前は「石浜」と呼ばれていたらしい。この海岸入り口には「伊師浜海水浴場」と鵜の鳥...

  • 藻島の駅家(長者山官衙遺跡)

    高萩の多珂郡衙跡である大高台遺跡より南下して(戻って)、日立市十王町伊師にある長者山官衙遺跡の場所を目指しました。ここは鵜の岬でおなじみの伊師浜の少し北側の内陸側にあります。ただ常磐線よりは浜辺(東側)です。まず、日立市十王町伊師3586の伊師町田園都市センターへ行ってみましょう。駐車できる場所としてはちょうどよいのですが、「無断駐車禁止」の大きな立て看板が置かれていました。ここに国指定史跡「長者山...

  • 多珂郡衙跡(大高台遺跡)

    年内に常陸国風土記の本をまとめをしたいため、茨城県の東北部にあたる「多珂郡」の遺称地を訪ねて行ってきました。この辺りはあまり散策したことがないため、ナビの助けを借りて車で下道を走り、高萩までいきました。ここに多珂郡の郡衙が置かれていたようです。石岡から約80kmほどを2時間半くらいで到着。高速を使わなかったので少し時間はかかりました。常陸国風土記には、「成務天皇(景行天皇の後代で4世紀中頃?)の時...

  • 丘前の宮と相鹿の里

    ふるさと風の会で、常陸国風土記に書かれている遺称地巡りの2回目として10月12日に行方地域の東南部を回った。生形地域も結構広く、多くの遺称地巡りもネットに公開されているものも多いが、ほとんどが玉造から小高地方くらいまでで、この東南側の北浦方面が抜け落ちている。前回大生神社などを紹介しているが、今回紹介するのは、相鹿の里と丘前の宮である。相鹿は後の10世紀前半の辞書「和名類聚抄」に「逢鹿郷(あふか...

  • 宮本茶村の墓と浄国寺

    潮来市内の辻地区に、江戸時代の国学者「宮本茶村」の墓がある。いつも潮来に来てもあまりこちら方面までは足を延ばさないが、久しぶりに行ってみたいと思い訪ねた。 この辻地区はいろいろ探索してみたい地区で、結構古くから歴史がありそうな地区である。頼朝が鹿島神宮に祈願文を書いたときに使った硯を奉納した「硯宮神社」や二十三夜尊堂、愛友酒造などがあり、古墳も残されている。この宮本茶村は江戸時代の学者で、延方郷...

  • 大生(おおう)神社

    潮来の熱田神社の次はそのまま北上して大生神社へ。ここは鹿島神宮の元社などともよばれるが、鹿島神宮より古いという訳でもない。鹿島神宮に祀られているのは「武甕槌(たけみかづち)大神」だが、常陸国風土記に出てくる「建借間命(たけかしまのみこと)」がこの地を制したことから、一族がこの大生地方に住み着き、ここに「建借間命(たけかしまのみこと)」を最初に祀った。そして、後に、鹿島神宮に「武甕槌(たけみかづち...

  • (潮来)熱田神社の狛犬

    常陸国風土記の遺称地巡り第2回目として、先日あまり訪れない場所を巡ったが、その中に潮来市の郊外にある「熱田神社」を訪れた。この神社は、常陸国風土記には書かれた記述はないが、ヤマトタケル伝説が残る神社だ。県道50号線と潮来市辻あたりから大生神社をつなぐ街道との交差点付近にある。この交差点は立体交差で、県道50号がこの神社の下を通る。神社の詳細はむかしこのブログにも書いたので今回は省略する。(前回記事:...

  • 勢力富五郎自刀の地

    千葉県東庄町では、今も天保水滸伝を看板に掲げた施設なども多くみられます。今ではこの講談・浪曲や歌謡曲などを知る方もめっぴり減ったように思います。私も最初に訪れた時には、江戸時代のヤクザ同士の争いなどとあまり興味もなかったのですが、次第に興味を覚えるようになりました。歌謡曲でも田畑義男の「大利根月夜」や三波春夫の「大利根無情」などで歌われた大利根河原の決闘場所もこの東庄町です。もちろんこれらの歌も...

  • 椿の海と鉄牛禅師

    昔、千葉県の九十九里浜の内陸側に「椿の海(太田ノ胡水とも呼ばれた)」大きな内海がありました。江戸時代になり、この内海を埋め立てて、広大な農地を作り、「干潟八万石」とまで言われるほどの農地が出現したのです。私が千葉県側をよく散策するようになり、それまで茨城県側からのみ古代、中世の歴史などを見てきたのですが、こちらの千葉県九十九里浜方面からの人の流れが見えるようになると、それまでの歴史観も変わってき...

  • らぽっぽ なめがたファーマーズヴィレッジ

    昨日は「ふるさと風の会」のメンバーで第2回常陸国風土記の遺称地を巡るとして、行方地方の2回目を行いました。前回7月に行ったのですが、予定の40%くらいが回り切れず、今回その残りの場所訪問でした。メンバーは6人。2台の車に分乗して朝9時に石岡を出発しました。途中昼食に選んだのは、「らぽっぽ なめがたファーマーズヴィレッジ」という行方市宇崎にある施設です。白浜少年自然の家に近い場所で、廃校になった小学校を利...

  • 真壁「うり坊」(旧桜井館)

    先月の末頃に、石岡から上曽峠を越えて、(桜川市)真壁町に行ってきました。もうだいぶたってしまったのですが、FBでご連絡をいただき、急遽ご招待を受けて人に会いに出かけたのです。伝正寺前の旧旅館「桜井館」を改装しリニューアルの「見晴らしの丘 真壁 うり坊」という施設でした。私が丁度10年前にこのブログに書いた下記の記事を読んでご連絡いただいたものです。 真壁散歩(6)伝正寺 ⇒ こちらこの時に寺も、こちら...

  • 小高の神宮寺

    茨城県行方市の行方・小高地区あたりはどうも周りの行政区のはざまにあって今の行政組織ではどうも忘れ去られている感が強いと感じる。佐竹氏の南方三十三館の皆殺し(仕置き)で、この地に居を構えていた行方四頭の長男「小高氏」は消滅してしまった。その後ここに佐竹派の重鎮「大山氏」が移り住み、常陸太田から佐竹氏が建てた寺「常光院」を移し、歴代の佐竹氏の墓も移した。しかし、佐竹氏はすぐに出羽(秋田)へ配置替えと...

  • 風土記遺称地めぐり-行方地方(第2弾)

    常陸国風土記の遺称地を巡ってみようと、ふるさと風の会で7月半ばに行方地方を巡りました。しかし、予定していたところの60%くらいしか回れませんでした。そのため残された地区を第2回目として10月に回る計画を立てました。道が不安な箇所もあり、昨日、確認のため、一度一回りしてみました。1,国神神社(行方市行方)行方郵便局の信号の少し先の道を斜めに戻るように曲がった方が広くて間違わない。また国神神社から畑の...

  • 真壁城跡

    今週初めに真壁に行った。人に会うためであったが、時間的に少し早かったので、久しぶりに国指定史跡である「真壁城跡」に立ち寄った。石岡からは上曽峠を越えて中世の真壁氏の氏寺である五所駒瀧神社側に下り、真壁の町に入った。現在この上曽峠はトンネルの工事中で、先日石岡側と真壁側がつながり開通式が行われた。まだ道路の整備や、トンネル内の整備などに時間はかかるため道路の開通はまだ先で2025年度になるという。...

  • 側鷹神社(行方市)

    7月初旬に「ふるさと風の会」で、勉強中の「常陸国風土記」の現地見学の第1回目を実施した。風土記に書かれた内容が最も多く残されている「行方郡」の遺称地を全部回ろうと考えたが、朝9時から夕方の5時頃までにまわれた範囲は予定の半分くらいしか回れなかった。そこで、回ることが出来なかった小高、麻生、大生、相賀、古高、藝都の里などを来月にまた回ろうと考えています。実際に食事の時間や、往復の移動時間を考えると...

  • 小高城跡(行方市)

    常陸国風土記を読んでいると、この行方(なめかた)地方に興味が行く。何故ならこの昔には茨城の中心はこの行方あたりにあったのではないかとさえ思えるからだ。現在残されている常陸国風土記はすべて写本であり、記述も「総記」部分以外は「行方郡」だけが省略なしで、他の郡はすべてが残されていない。また一切記述が残されていない郡もある。また、この行方郡という郡名「なめかた」は、読み方についても変わっていて、意味合...

  • 獅子頭・・・大きいものはいいことだ・・・・?

    「石岡のおまつり」が無事終了し、やっと静かになった。今年は年番町になり、動くに動けず、千葉にいる息子夫婦と孫娘が中日にやってきたが、車で家にたどり着くのに狭い道に苦労したようだ。祭りは3日間とも正式には午後からなので、着いた日(2日目)は町中の祭りを見学して、夜に八郷温泉「ゆりの郷」へ行った。祭り見物も時間が遅くなり、ゆりの郷に着いたのは夜の7時20分頃。7時から少し料金が安くなるが、この日はた...

  • 棒ささら

    今年の「石岡のおまつり」が昨日までの3日間(9/16~9/18)行われた。ここ数年はコロナにより自粛されたり、雨天に悩まされたりしてきたが、今年は久しぶりに雨も降らず、晴天に恵まれ祭りはにぎわった。また年番が「若松町」で、私の住む地区であり、連日多くの人出が出ていた。しかも、町の主な道路は午後1時から夜9時まで交通止めとなり、我が家から出ようにも車だと細い道を迂回しながら回っていくしかない。まあそれでも盛...

  • 小高観音

    行方市の小高地方を少し散策しています。まあ、今日(午後)から地元石岡ではお祭りが3日間はじまります。今年は私がいる若松町が年番で、近所は賑わいを見せております。でも祭りネタは別な方に任せて、私は誰も訪れないようなところをひたすら探しながら記事を書いていきましょう。小高小学校も2012年に廃校となり、麻生小学校へ吸収合併となりました。その跡地を昨日眺めてきました。側鷹神社のすぐ隣にまだ、昔の姿で残って...

  • 朝焼け・夕焼けもそろそろ終わりか。

    今年は暑かったですね。でもこれもあと1週間くらいの辛抱でしょうか?夏の暑さに閉口してブログも更新が思うように進みません。今朝は少し起きるのが遅かったせいかもしれませんが、朝焼けは見られませんでした。こちらは9月11日(月)朝5時半頃に、我が家から見た朝焼けです。また、今年も夕方に空一面が茜色に染まった日が何日かありました。うまく写真を撮れる場所にいなかったので、今日も茜色に染まったと頭上の空を眺めて...

  • 小高のカヤ

    行方市旧麻生町)小高に「小高のカヤ」と呼ばれる大きなカヤの木が残されています。県の天然記念物に指定されており、樹齢は650年ほどだとされています。この台地には昔小高小学校があったそうです。この小高小学校は少し霞ケ浦寄りの側鷹神社に隣接する場所に移転し、2012年に麻生小学校に統合されて今はありません。調べると、小高小学校の新校舎完成が昭和33年4月となっていましたので、この時にこのカヤの木がある場所から移...

  • 小高山不動院

    もうだいぶ前に小高地方を歩いて記事を書いたが、その時に訪れていなかった(小高山)不動院に行ってみた。すぐ近くだが少し奥まった感じの通りの曲がり角にあった。少し高台に鳥居のある神社と並んで、不動院があり、入り口に説明板が置かれていた。しかし、字が薄れてしまってあまりよく読むことが出来ないが、ここに安置されている2体の小さな仏像(市指定文化財)の説明であった。こちらは市のHPより転載させていただこう。1...

  • (小高)福岡観音とそのいわれ

    国道355号線を、昨日紹介した「橋門の八坂神社」から左に曲がって、常光院の方に少し進んだ左側に小さな社が置かれています。あまり、ここを通る人は地元の方でないと、気にもせずに前を素通りしていくと思います。今から十数年前にこの社を見つけた時はそれほど感じることもなかったと思いますが、その後常陸大掾氏や佐竹氏の南方三十三館仕置き事件をいろいろ知る中で、忘れられない記憶としてこの観音様が残っているのです。1...

  • 橋門の八坂神社

    今から10年近く前に、行方市の小高地区を「小高散歩」として6か所ほど紹介しています。今年になって、常陸国風土記の遺称地などを巡る機会も増え、7月に行方地方も一度訪れましたが、時間の関係で予定の半分くらいしか訪れることが出来ませんでした。これを、また少し涼しくなってから再訪問したいと考えていますが、気になる場所を少しずつ調べなおしたりしています。この行方市の「小高地区」はそれほど広いわけでもなく、今は...

  • 公民館講座

    今年の春にある依頼がありました。地域に眠る歴史の掘り起こしなどで、今までに小冊子を35,6冊作成したりしてきました。また「ふるさと風」会報への記事も継続して書いており、知らぬ間に「郷土史家」などと言われることもあり、少し面食らっています。歴史などの文系科目は苦手でそんなに好きではないのに・・・・・今まで仕事にしてきた内容とは全く縁のないぶんやなのです。ただ、何かを残すということに少なからぬ魅力を見出...

  • カツラの葉

    公園の大きな木の下にテーブルと長椅子があり、夏の暑い日差しを避けて、弁当をひろげた。孫たちと食べたおにぎりはやはりおいしい。この長椅子に寝転んで、見上げたカツラの葉の形はハート形できれいだ。急にどこか遠い日のなつかしさが蘇ってきた。でも、それもどこだかよく思い出せない・・・・・もしかしたら記憶違いかもしれないな~。そしてそっと目を閉じる。優しい風が汗ばんだ頬をそっとなでる。目をそっと開けると、こ...

  • 懐かしさも中くらいなり我がふるさと

    私は、団塊の世代真っただ中に生まれた。生まれは新潟県だがすぐに横浜に越して、小学校に入った。そして2年生からは東京郊外の都営住宅に大学初めまでいた。その頃は皆同じような暮らしをしている人も多く、そこから努力もみな同じ。私の周りは似たような家族に囲まれていたように思う。家を持つことはまた夢のようであったのだろう。両親の苦労もまた計り知れない。お盆で両親の墓のある東京郊外の多摩湖に近い墓に、私の子供...

  • つくばエキスポセンターへ

    17日の坂東市の県立自然博物館に続いて、翌18日は孫たちを連れてつくばのエキスポセンターへプラネタリウムを見に行ってきました。つくば万博の時に施設を一部残してこのエキスポセンターが出来ましたが、最初の頃に数回行ったきりで最近は行っていなかったのです。でも昔とあまり変わらない感じでした。メインはやはりプラネタリウムで、その他は科学技術の展示というよりは、子供たちに科学に興味を持ってもらいたいという...

  • ミュージアムパーク茨城県自然博物館へ

    お盆休みを少し延長して娘と孫たちがわが家に来ていました。何処へ行こうと相談して、坂東市の「ミュージアムパーク茨城県自然博物館」に行くことにしました。上の孫は前に一度行っているようでしたが、少し大きくなればまた見るところも変わってくるでしょう。でもこの期間は事前予約が必要なようで、前の日にネットで予約して出かけました。石岡からは同じ茨城県なのですが少し遠く感じました。また、最近調べていた平将門ゆか...

  • 和田山不動尊(瀧不動)

    前回銚子に少し予定より早く着いてしまい、30分程度ですが、少し散策することにしました。訪れたのは天狗湯探しで訪れたことのある「和田山不動尊」少し通りから入って場所にあり、一般にはあまり知られていないようです。この不動尊の入り口には滝があり、前に来たときはちょろちょり水が流れていたはずですが、今はあまり流れはなく、しかし下には池のように水が溜まっています。確かこの近くに昔銭湯があり、確か「滝の湯」さ...

  • 暑さの中も元気に花咲く

    毎日暑いとか、台風で心配だとか、雷が鳴ってきたなどと気にしながらも平凡に過ごしています。今はこの秋に行う地区公民館の講座講師の資料造りなどをしています。内容はまた正式になったら報告しますが、市内の或る公民館から市民講座の依頼がありました。初めてのことなので少し戸惑っていますが、講師をするにはまだ少し知識不足だと思っています。ただ、これも勉強になりますね。毎日、昔だったら信じられないほど高さの気温...

  • 銀ブラももうすっかり忘れて。

    コロナ禍もようやく動けるようになり、数年ぶりに大学の同期の仲間と会うことに。もう3年以上間隔があいたかな。昼間から集まれそうな連中で、何処がいい? 一人から銀座のライオンに行こうよ。となって、広間からビヤホールに。もう電車やバスで東京へ出ることもほとんどなくなり、午前中に東京駅に着く高速バスに乗り込んだ。ツインチケットも社内では売っていないということで、石岡の高速バス乗り場の近くのミニストップで...

  • (井上)山ゆりの里

    13日の木曜日に「ふるさと風の会」で常陸風土記の遺称地巡りに出かけた。前日まで結構暑くて、どうなるかと思ったが、当日は意外に涼しくラッキーだった。車2台に8人が乗り、朝9時に出発。前もって予定を作成していたが、やはりどうしても時間はオーバーでどんどん時間は予定からずれる。まあ、これも計算のうちで、次にどこへ行くかは時間を見ながらかなりの個所を省くこととなった。特にその前の日に突風被害が出た小高地域は...

  • 常陸国風土記の世界<行方郡> 付録(4)

    現原の丘、玉清の井、井上神社から見える風景 1,風土記の頃ここはどんな景色が広がっていたのか?今はゴルフ場で霞ケ浦まで見渡せないが・・・・倭武(ヤマトタケル)の天皇はこの丘に登って御膳を供し、四方を眺めて、山々のひだや海辺のひだが重なって連なり「行細(なめくわし)の国」と呼ぶべきだといわれた。これが行方となった。と書かれてはいるが・・・。2, 風土記では、ヤマトタケルはこの前に「槻野の清水」(玉清井...

  • 暑さも一息だが、これからが本番か?

    7月に入り猛暑が続いてばて気味に・・・そして13日には常陸国風土記の勉強会を兼ねて行方に現地見学会に行ってきました。ただ、前日の夕方に突風が行方市を襲い、工場屋根が吹き飛び電柱3本が折れて、数百件が停電という事故が発生。場所は行方市小高地区の国道355線。ちょうどその翌日に小高地区も見学対象に入れていましたので、とりあえずそこは外すことに。ただ、この国道も通行止めでしたがその日は通れると・・・・で...

  • 常陸国風土記の世界<行方郡> 付録(3)

    <2> 手奪橋とカッパ伝説の地から見える風景 1, 芹沢家に伝わるカッパ伝説(江戸時代の水府文書にある)から何が見える?2, 風土記ではこの川が茨城郡と行方郡の堺であるという3, 大益(おおや)川 ⇒ 無梶河(風土記) ⇒ 梶無川4, この近くに「テバイ」という小字名がある。テバイ川⇒手奪川になったか?5, 新選組の芹沢鴨とは何者か?本名は下村嗣次で、生まれは北茨城市中郷町(多賀郡)松井の神官の子という説が強...

  • 常陸国風土記の世界<行方郡> 付録(2)

    <1> 三昧塚古墳から見える風景 1、 全国的に注目されている三昧塚古墳は「古代常陸の雄」ともいわれている。ここから見つかった「馬の飾りのついた金製王冠(金銅馬形飾付透彫冠)」は何を教えてくれるのか?昨年、明治大学博物館にて特別企画展とオリジナルグッズ販売が行われた。2、 茨城最古の古墳(4世紀後半)ともいわれる勅使塚古墳などの沖洲古墳群は?(古代に勅使がこの地で倒れて埋葬されたと伝わる。どんなルートを...

  • 常陸国風土記の世界<行方郡> 付録(1)

    風土記記載の遺称地巡り記事はいったん終了し、少し追加の記事を何点か載せます。まず最初は「行方郡」が成立したころからの地域の呼び名についてです。風土記には孝徳天皇の白雉四年(653年)に、茨城郡から八里と那珂郡から七里を分けて、十五里(合計七百余戸)を行方郡とした。とされています。これは大化の改新645年当時にはまだ行方郡はなく、その後に成立したということになりますが、もう少し理解が進むように調べて...

  • 常陸国風土記の世界<行方郡>(13)

    (7)鉾田(当麻)地区(当麻郷) 常陸国風土記の行方郡の後半の記述に現鉾田市あたりの事が書かれている。「都より東北十五里に当麻(たぎま)の郷(さと)あり。古老の曰へらく、倭武の天皇(ヤマトタケル)、巡り行でまして、此の郷を過ぎたまふに、佐伯、名は鳥日子(とりひこ)と曰ふもの有り。其の命に逆ひしに縁りて、随便ち(すなはち)略殺したまひき。即(すなは)ち、屋形野の帳の宮に幸(いでま)ししに、車駕の経る...

  • 常陸国風土記の世界<行方郡>(12)

    (5)潮来地区(板来郷) ●<板来の駅家(うまや)>板来(潮来)の駅家(うまや)は府中(石岡)から鹿島への官道の途中に設置された陸路の駅だが、陸路は810年前後に廃止されたらしい。荷物を運ぶのも馬より船に変っていったのだろう。この板来の駅家がどこにあったかははっきりしていない。現在潮来市街地にある「長勝寺」の境内にこの駅家(うま)跡の標識板が置かれている。ただ、廃止されたのも早く、実際の駅家のあった場所...

  • 常陸国風土記の世界<行方郡>(11)

    4)大生の里「田の里より南に相鹿(あふか)、大生(おおう)の里がある。昔、倭武の天皇が、相鹿の丘前(おかざき)の宮に留まられたときに、膳炊屋舎(おほひどの)を浦辺に建てて、小舟を繋いで橋として御在所に通はれた。大炊(おほひ)から大生(おほふ)と名付けた。」とある。この大生の里は現在の地名では行方市ではなく潮来市になります。風土記では現在の潮来市も行方郡に属していました。● 大生(おおう)神社大生神社...

  • 常陸国風土記の世界<行方郡>(10)

    3)相鹿の里(丘前の宮)常陸国風土記の行方郡の最後に、「此(田の里)より以南に、相鹿(あふか)・大生(おほふ)の里あり。古老の曰へらく、倭武の天皇、相鹿の丘前(おかざき)の宮に坐(いま)しき。此の時、膳(かしはで)の炊屋舎(かしぎや)を浦浜(うらべ)に構へ立て、小舟を編みて橋と作(な)し、御在所(みましどころ)に通ひき。大炊(おおひ)の義(こころ)を取りて、大生(おほふ)の村と名づく。又、倭武の天...

  • 常陸国風土記の世界<行方郡>(9)

    (4)北浦・大生地区(大生郷・道田郷・藝都郷・逢鹿郷)まずこの地域については、風土記には「藝都の里」「田の里」「相鹿の里」「大生の里」と順番に北から並んでいるように書かれています。そして、この地名についてもそのいわれが書かれており、ヤマトタケルの伝承話しとして書かれているか個所が多くあります。伝承話ではありますが、この遺称地を訪ねてみるといろいろなことが見えてきます。では、書物に書かれた順番に現地...

  • 常陸国風土記の世界<行方郡>(8)

    ⑭ 大麻神社(麻生)「麻生(あさふ)の里には昔、沢の水際に麻が生へていた。その麻は、竹のように太く、長さ一丈に余りあるほどだった。椎、栗、槻、檪が繁り、猪や猿が住んでいる。野に住む馬は乗馬用になる。 飛鳥の浄御原きよみ はらの大宮に天の下知ろし食しし天皇(天武天皇)の御世に、郡の大生(おほふ)の里の建部(たけるべ)のをころの命が、この野の馬を朝廷に献上した。以来、「行方の馬」と呼ばれた。「茨城の里の...

  • 常陸国風土記の世界<行方郡>(7)

    (3)小高・麻生地区(小高郷・麻生郷・香澄郷)<常陸国風土記>1)郡の南七里に男高の里あり。古、佐伯、小高といふもの有りき。其の居める処為れば、因りて名づく。2)南に鯨岡有り。上古之時、海鯨、はらばひて来り臥せりき。・・・・「橋門阿弥陀堂」3)北に香取の神子の社有り。・・・・「側鷹神社」<行方四頭>・小高城は水戸の吉田清幹の次男平忠幹が平安時代末期に行方に入り行方氏(行方二郎)を名乗った。・1184年、忠幹...

  • 常陸国風土記の世界<行方郡>(6)

    ⑨ 玉清の井 「常陸風土記」で玉造の街の名の由来ともなったとも言われる湧水「玉清井(たまきよい)」に行ってみました。「常陸風土記」の解釈に2通りがあり、日本武尊(ヤマトタケル)が東征して常陸の国にやってき来た時、「ここの清くわく泉で手を洗い、玉で井を清めた」という解釈と「水をすくおうとして、水中に曲玉(まがたま)を落としてしまった」という解釈があるといいます。 ヤマトタケルが本当にいた人物かどうか...

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