yichintang さん プロフィール

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yichintangさん: いーちんたん−−北京ときどき歴史随筆
ハンドル名yichintang さん
ブログタイトルいーちんたん−−北京ときどき歴史随筆
ブログURLhttp://blog.goo.ne.jp/yichintang
サイト紹介文胡同や清朝のマニアックな世界へ。北京をめぐる歴史や日常を綴る。
自由文カテゴリーごとにまとめて読んでください。
胡同物語、アパート内装の顛末、西安旅行などをアップしました。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供171回 / 365日(平均3.3回/週) - 参加 2011/05/27 12:48

yichintang さんのブログ記事

  • 清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで9、「ハーン」の「皇帝」化
  • 一方、中原の大帝国を維持するためには、騎馬民族の欠点である後継者争いによる政治機能麻痺は避けねばならない。儒教思想に凝り固まった科挙上がりの士大夫らが、野蛮だ野蛮だとこれまたうるさく罵るのも、うっとうしい話だ。そのすべての要素を丸く収めた案が、「太子密建」だった。中原王朝のように早々と太子を立てて失敗した経験を生かし、今上皇帝の生前に後継者を公開することはやめたのである。さりとて、兄弟が血みどろの [続きを読む]
  • 清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで8、雍正帝の「太子密建の法」
  • 元々康熙帝の後宮には、親族関係を結びたい有力者の娘を入内させている。その結果、皇子らの母方の実家はそれぞれ満州族の有力な勢力の利益を代表していた。例えば、太子・胤礽の生母の実家は、建国初期の功臣・索尼(ソニン)、赫舍里(シェヘリ)氏、長子・胤褆の生母の兄・明珠(ミンジュ)も飛ぶ鳥を落とす勢いの有力者である。満州全体が、それぞれの皇子を応援し、当の康熙帝も浮き上がらんばかりの熾烈な謀略合戦を繰り広げ [続きを読む]
  • 清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで7、康熙帝の太子廃嫡
  • イスラム世界の権力交替を見てもわかるように、騎馬民族社会では、人生最高の頭脳の働きを結集した凝縮度・集中度の高い数年しか、リーダーでいることが難しい。カリスマ性・判断力が衰えてくると、途端に下から見放されて取り替えられてしまうのである。そんな騎馬民族の体質を先天的に抱えたまま、康熙帝の在位は60年を超えることになる。中原王朝であれば、皇帝がいくら長生きしようが、息子である太子は父親が死ぬまで、特にあ [続きを読む]
  • 清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで6、遊牧政権と内紛
  • 万暦帝の大臣たちは、「太子を一日も早く決めないことは国家動乱の元、そんな国に生まれたわが王朝の民は不幸でございます」とでも言っただろう。誰だって人の上に立てば、下の者から慕われたいという名誉欲が湧くものである。まずはそこのツボで脅しをかける。……と一事が万事このような具合なので、明代の皇帝などは、おいそれと自分の思い通りに政治を進めることができなかったのである。「とにかく存在しているだけでいい。  [続きを読む]
  • 清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで5、長子相続と「皇帝」というシステム
  • 例えば、明代末期の皇帝・万暦帝は、一番の寵姫である鄭妃の生んだ皇子・朱常洵(のちの福王)を太子にしようとして、大臣や官僚らのすさまじい反対を喰らっている。長子・朱常洛は身分の低い宮女・王氏が産んだが、まったく愛していない女性の子に愛着が湧かぬ。愛する女性の産んだ息子をどうしても太子に立てたいがために、いつまでたってもぐずぐずと太子を立てなかった。絶対権力を持つ皇帝なのだから、好きなようにすればいい [続きを読む]
  • 清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで4、二つの身分を同時に
  • 順治帝が20代前半であっけなく亡くなると、残された数人の皇子の中から選ばれて即位したのが、康熙帝である。即位の年は父親と同じ八歳、両親共に亡い孤児だ。中原に入り、紫禁城の主となった満州族はこの頃から漢人を意識した意思決定を行うが、康熙帝が後継者に選ばれたのは、まさにその生母が漢人だったからである。元来、漢民族の伝統である長子相続や嫡子相続には、体制安定の目的があることは前述のとおりである。皇帝は特別 [続きを読む]
  • 清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで1、農耕民と騎馬民族の後継者選び
  • 楠木のお話は、一応前回までで終わります。今日からは新しいシリーズ。遊牧民族の満州族が統治した清朝の佇まいに思いを馳せた雑文です。おつきあいくださいー。**************************************************遊牧民に長男相続の伝統はない。優秀でない長男がリーダーになったがために、他部族に襲われ征服されてしまえば、女は全員犯されて妾にされ、男は皆殺しにされる [続きを読む]
  • 楠(タブノキ)物語14、康熙帝、楠をあきらめる
  • 太平洋戦争の時期におけるマラリア死亡率の壮絶さを見ると、明代の四川の原生林に分け入った人夫たちが十万人も犠牲になったという数字もあながち荒唐無稽だとはいえないのである。楠木の伐採に徴用された成人男子を見送る家族が「子婦啼哭(女子供が泣いてすがった)」のも、生きて返ってくる確率があまりにも低いことを土地の人々がよく知っていたためだ。現地の民謡に「入山一千、出山五百」と謡ったという。まさに人間の欲望の [続きを読む]
  • 楠(タブノキ)物語13、楠とマラリア
  • 木の伐採に行っただけで、そんなに大量の人が死ぬものなのか。その可能性を探っていくと、近代にもなぞらえることのできる例がある。 太平洋戦争中に日本軍がタイとビルマの国境の山岳地帯で建設した「泰緬鉄道」は、ジャングルを切り開き、険しい山岳地帯を這うように作られた。工事を担ったのは、連合軍捕虜三万人と現地住民十万人である。それ以前にもかつてイギリスが同じルートで鉄道建設を試みたことがあったが、強烈なマラ [続きを読む]
  • 楠(タブノキ)物語12、明代の楠木切り出しの惨状
  • 以上、少し横道に逸れたが、乾隆帝と楠木の浅からぬ因縁を見ている。 明初の紫禁城の建設には、ふんだんに楠木が使われた。その後、明代を通じて楠木への執着は衰えることがない。現在残る最も荘厳なる楠木建築は「明の十三陵」の長陵である。宣徳二年(一四二七)の創建、六十本の楠木の大木を柱に使う。 その調達がどれくらい困難であったかというと、これまた想像を絶する。万暦年間の工科給事中・王徳亮の奏文では、次のよう [続きを読む]
  • 楠(タブノキ)物語11、乾隆帝『神木謡碑』のその後
  • 二00三年、北京オリンピックを控え、都市再開発が進められる中、市内にある工場を徐々に郊外に移転させる過程で星海ピアノ工場も通州(東郊外)に移転することとなった。 創立からともに歩んできた石碑を移転とともに持って行きたい、というのが職員の願いであったが、文物は元あった場所で保護するという原則に従い、工場のみが移転し、石碑はそこに残された。星海の職員は石碑を懐かしみ、通州の移転先でも等身大の石碑のレプ [続きを読む]
  • 楠(タブノキ)物語10、乾隆帝『神木謡碑』の行方
  • ところで神木とセットになっていた乾隆帝の『神木謡碑』は、どうなったか。新中国成立時には、ほとんど地下に埋もれていたが、掘り出され、工場の敷地内に置かれていたことは、前述のとおりである。神木の本体が朽ち果てるのを見かねてテーブルに加工された後も、石碑はそのまま安置されていた。 そのうちに文革が始まる。文物への批判が日々高まるのを感じ、当時工場の党委員会書記だった宋治安氏は、工場の社員食堂の白菜倉庫の [続きを読む]
  • 楠(タブノキ)物語9、ご神木の末路
  • 乾隆五十三年(一七八八)の北京の歴史・地理をまとめた欽定『日下旧聞考』全百六十巻に『神木謡』の欄がある。この本は我らが英廉老人による編纂だ。 「 神木廠は、広渠門外二里余り、大木が地に横たわり、高きこと一人一騎を隠す可し。 明初、?殿の遺材也。その木には神ありと伝わる」と、馬に乗っても隠れる高さであるこという。さらに「歳久しく風雨淋漓、すでに徐々に朽ちる矣(なり)。 皮、腐爛するも、心(芯)は存ず [続きを読む]
  • 楠(タブノキ)物語8、乾隆帝の生地の謎
  • 一見、取りとめもない二つの説をどう受け止めるか。こういう「夢枕」だの、「奇跡」だの、「瑞兆」だのと言った話は、いくらかひねってその狙いを探る必要がある。話を作った当人は、そんなものは事実だと信じてもいないわけで、「目的」があり、「得する」人がいるはずである。 楠木の桶の話のポイントは、「雍和宮」ではないか、と作者は見る。乾隆帝は、父帝の雍正帝が皇子の頃、そのお屋敷である雍親王府で生まれたことになっ [続きを読む]
  • 楠(タブノキ)物語7、清代になり、神木は役目を終える
  • 「モンゴルへの恐怖心」克服が目的だったと考えると、清代になり、その役割が必要なくなったことも納得できる。何しろ首都の主である満州族は万里の長城の北から来たのだ。北京は最前線でも何でもない。「鎮城之宝」は、その歴史的役割を終えたことになる。 こうして「鎮城之宝」として、神木は明朝一代の間、官兵が置かれ、守られた。この御「神木」、どれくらいの巨木だったかというと、木をはさみ、二人の人間が両方騎乗のまま [続きを読む]
  • 楠(タブノキ)物語6、北京の「鎮城之宝」
  • 明代、北京に陰陽五行説に従った「鎮城之宝」をそれぞれ城の東西南北、中の五箇所に配し、城の守りとした。楠木の「神木」は、その東の守りとなる。 東は五行の水、金、木、火、土の中の「木」に対応、北京城の東郊外「皇木場」の神木が北京城の東のお守り。西は同じく「金」に対応、やはり城の西郊外の万寿寺に「華厳大鐘」を置いた。所謂、大鐘寺の「永楽大鐘」、重さ四十六トン、まさに城の「おもり」にふさわしい。「永楽大鐘 [続きを読む]
  • 楠(タブノキ)物語5、神木置き場「皇木場」
  • 大木が忽然と消えて、次の日に川に浮かんでいた――そんなアホな、と思うが、その当たりは政治である。 昔から統治者に阿(おもね)りたい人が「瑞兆」と称して、荒唐無稽な「奇跡」を報告するのは、よく行われてきたことで、要するに天下泰平だとほめそやすことが目的のおべっかである。永楽帝だって本気で信じちゃあいない。 本当かどうかなぞはどうでもよく、この時期の永楽帝はあまりにも「瑞兆」を必要としていた。それを察 [続きを読む]
  • 楠(タブノキ)物語4、永楽帝の神木群
  • 楠木はその後の時代になると、四川、雲南、貴州、湖南、湖北、広東、広西などの奥深い山奥に分け入らなければ得られなくなってくる。しかも時代を下るに従い、数はますます減っていき、伐採が難しくなるのである。 明代になった頃には、すでに「崖窮し、叡絶し、人跡罕(まれ)に至る地」(絶壁のかなた、山の奥のさらに奥、人間がほとんど踏み入ったことのない場所)にしか残らない。 それにも関わらず、否、だからこそか、皇室 [続きを読む]
  • 楠(タブノキ)物語3、「楠木」は、クスノキかタブノキか
  • さて。澹泊敬誠殿である。創建は康煕五十年(一七一一)だが、乾隆十九年(一七五四)に「総楠木造り」に改築された。紫禁城を始め、中原の宮殿建築は原色の派手な色彩で塗られるが、「楠木」はそれだけで富の象徴のため、一切の色彩を塗らず、木の素材をそのまま生かした造りとなっている。日本人の目には、その渋い色の暗さが重厚に映り、どことなく親近感を覚える。楠木造りは、今後我らが和珅青年にも深い因縁ができる要素とな [続きを読む]
  • 楠(タブノキ)物語1、始まりは承徳の澹泊敬誠
  • 半月も空いてしまいました(汗)。アップする記事もやや迷走気味です(汗汗)。和[王申]くんストーリーを少し中断し、ちょっと木の話をしたいと思います。和[王申]くんの運命にものちに絡んでくる楠(タブノキ)のお話です。まず始まりは、承徳の秘書山荘より。************************************承徳は遊牧帝国のハーンである清朝皇帝のもう一つの顔にとって「夏都」である。夏と冬で統治 [続きを読む]
  • 和[王申]少年物語65、公主らの短命
  • ――これはいっそ、月月の反応も見た方がいいのではないか。英廉は心を決めた。年端も行かぬうら若い娘に自分で判断させるなどはろくなことにならないというのが、この時代の多くの大人の見方であったろう。それでも本人に幸せになってもらうには、自分で気に入ってもらうしかないと英廉は考えるのだった。自らの決定の責任を取るという決心が本人になければ、二人の関係にも前向きに向き合えないだろう。他人から押し付けられた結 [続きを読む]