yichintang さん プロフィール

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yichintangさん: いーちんたん−−北京ときどき歴史随筆
ハンドル名yichintang さん
ブログタイトルいーちんたん−−北京ときどき歴史随筆
ブログURLhttp://blog.goo.ne.jp/yichintang
サイト紹介文胡同や清朝のマニアックな世界へ。北京をめぐる歴史や日常を綴る。
自由文カテゴリーごとにまとめて読んでください。
胡同物語、アパート内装の顛末、西安旅行などをアップしました。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供216回 / 365日(平均4.1回/週) - 参加 2011/05/27 12:48

yichintang さんのブログ記事

  • 楠(タブノキ)物語13、楠とマラリア
  • 木の伐採に行っただけで、そんなに大量の人が死ぬものなのか。その可能性を探っていくと、近代にもなぞらえることのできる例がある。 太平洋戦争中に日本軍がタイとビルマの国境の山岳地帯で建設した「泰緬鉄道」は、ジャングルを切り開き、険しい山岳地帯を這うように作られた。工事を担ったのは、連合軍捕虜三万人と現地住民十万人である。それ以前にもかつてイギリスが同じルートで鉄道建設を試みたことがあったが、強烈なマラ [続きを読む]
  • 楠(タブノキ)物語12、明代の楠木切り出しの惨状
  • 以上、少し横道に逸れたが、乾隆帝と楠木の浅からぬ因縁を見ている。 明初の紫禁城の建設には、ふんだんに楠木が使われた。その後、明代を通じて楠木への執着は衰えることがない。現在残る最も荘厳なる楠木建築は「明の十三陵」の長陵である。宣徳二年(一四二七)の創建、六十本の楠木の大木を柱に使う。 その調達がどれくらい困難であったかというと、これまた想像を絶する。万暦年間の工科給事中・王徳亮の奏文では、次のよう [続きを読む]
  • 楠(タブノキ)物語11、乾隆帝『神木謡碑』のその後
  • 二00三年、北京オリンピックを控え、都市再開発が進められる中、市内にある工場を徐々に郊外に移転させる過程で星海ピアノ工場も通州(東郊外)に移転することとなった。 創立からともに歩んできた石碑を移転とともに持って行きたい、というのが職員の願いであったが、文物は元あった場所で保護するという原則に従い、工場のみが移転し、石碑はそこに残された。星海の職員は石碑を懐かしみ、通州の移転先でも等身大の石碑のレプ [続きを読む]
  • 楠(タブノキ)物語10、乾隆帝『神木謡碑』の行方
  • ところで神木とセットになっていた乾隆帝の『神木謡碑』は、どうなったか。新中国成立時には、ほとんど地下に埋もれていたが、掘り出され、工場の敷地内に置かれていたことは、前述のとおりである。神木の本体が朽ち果てるのを見かねてテーブルに加工された後も、石碑はそのまま安置されていた。 そのうちに文革が始まる。文物への批判が日々高まるのを感じ、当時工場の党委員会書記だった宋治安氏は、工場の社員食堂の白菜倉庫の [続きを読む]
  • 楠(タブノキ)物語9、ご神木の末路
  • 乾隆五十三年(一七八八)の北京の歴史・地理をまとめた欽定『日下旧聞考』全百六十巻に『神木謡』の欄がある。この本は我らが英廉老人による編纂だ。 「 神木廠は、広渠門外二里余り、大木が地に横たわり、高きこと一人一騎を隠す可し。 明初、?殿の遺材也。その木には神ありと伝わる」と、馬に乗っても隠れる高さであるこという。さらに「歳久しく風雨淋漓、すでに徐々に朽ちる矣(なり)。 皮、腐爛するも、心(芯)は存ず [続きを読む]
  • 楠(タブノキ)物語8、乾隆帝の生地の謎
  • 一見、取りとめもない二つの説をどう受け止めるか。こういう「夢枕」だの、「奇跡」だの、「瑞兆」だのと言った話は、いくらかひねってその狙いを探る必要がある。話を作った当人は、そんなものは事実だと信じてもいないわけで、「目的」があり、「得する」人がいるはずである。 楠木の桶の話のポイントは、「雍和宮」ではないか、と作者は見る。乾隆帝は、父帝の雍正帝が皇子の頃、そのお屋敷である雍親王府で生まれたことになっ [続きを読む]
  • 楠(タブノキ)物語7、清代になり、神木は役目を終える
  • 「モンゴルへの恐怖心」克服が目的だったと考えると、清代になり、その役割が必要なくなったことも納得できる。何しろ首都の主である満州族は万里の長城の北から来たのだ。北京は最前線でも何でもない。「鎮城之宝」は、その歴史的役割を終えたことになる。 こうして「鎮城之宝」として、神木は明朝一代の間、官兵が置かれ、守られた。この御「神木」、どれくらいの巨木だったかというと、木をはさみ、二人の人間が両方騎乗のまま [続きを読む]
  • 楠(タブノキ)物語6、北京の「鎮城之宝」
  • 明代、北京に陰陽五行説に従った「鎮城之宝」をそれぞれ城の東西南北、中の五箇所に配し、城の守りとした。楠木の「神木」は、その東の守りとなる。 東は五行の水、金、木、火、土の中の「木」に対応、北京城の東郊外「皇木場」の神木が北京城の東のお守り。西は同じく「金」に対応、やはり城の西郊外の万寿寺に「華厳大鐘」を置いた。所謂、大鐘寺の「永楽大鐘」、重さ四十六トン、まさに城の「おもり」にふさわしい。「永楽大鐘 [続きを読む]
  • 楠(タブノキ)物語5、神木置き場「皇木場」
  • 大木が忽然と消えて、次の日に川に浮かんでいた――そんなアホな、と思うが、その当たりは政治である。 昔から統治者に阿(おもね)りたい人が「瑞兆」と称して、荒唐無稽な「奇跡」を報告するのは、よく行われてきたことで、要するに天下泰平だとほめそやすことが目的のおべっかである。永楽帝だって本気で信じちゃあいない。 本当かどうかなぞはどうでもよく、この時期の永楽帝はあまりにも「瑞兆」を必要としていた。それを察 [続きを読む]
  • 楠(タブノキ)物語4、永楽帝の神木群
  • 楠木はその後の時代になると、四川、雲南、貴州、湖南、湖北、広東、広西などの奥深い山奥に分け入らなければ得られなくなってくる。しかも時代を下るに従い、数はますます減っていき、伐採が難しくなるのである。 明代になった頃には、すでに「崖窮し、叡絶し、人跡罕(まれ)に至る地」(絶壁のかなた、山の奥のさらに奥、人間がほとんど踏み入ったことのない場所)にしか残らない。 それにも関わらず、否、だからこそか、皇室 [続きを読む]
  • 楠(タブノキ)物語3、「楠木」は、クスノキかタブノキか
  • さて。澹泊敬誠殿である。創建は康煕五十年(一七一一)だが、乾隆十九年(一七五四)に「総楠木造り」に改築された。紫禁城を始め、中原の宮殿建築は原色の派手な色彩で塗られるが、「楠木」はそれだけで富の象徴のため、一切の色彩を塗らず、木の素材をそのまま生かした造りとなっている。日本人の目には、その渋い色の暗さが重厚に映り、どことなく親近感を覚える。楠木造りは、今後我らが和珅青年にも深い因縁ができる要素とな [続きを読む]
  • 楠(タブノキ)物語1、始まりは承徳の澹泊敬誠
  • 半月も空いてしまいました(汗)。アップする記事もやや迷走気味です(汗汗)。和[王申]くんストーリーを少し中断し、ちょっと木の話をしたいと思います。和[王申]くんの運命にものちに絡んでくる楠(タブノキ)のお話です。まず始まりは、承徳の秘書山荘より。************************************承徳は遊牧帝国のハーンである清朝皇帝のもう一つの顔にとって「夏都」である。夏と冬で統治 [続きを読む]
  • 和[王申]少年物語65、公主らの短命
  • ――これはいっそ、月月の反応も見た方がいいのではないか。英廉は心を決めた。年端も行かぬうら若い娘に自分で判断させるなどはろくなことにならないというのが、この時代の多くの大人の見方であったろう。それでも本人に幸せになってもらうには、自分で気に入ってもらうしかないと英廉は考えるのだった。自らの決定の責任を取るという決心が本人になければ、二人の関係にも前向きに向き合えないだろう。他人から押し付けられた結 [続きを読む]
  • 和[王申]少年物語64、英廉の思案
  • 英廉は孫娘の顔を見ながら、考えあぐねていた。――はてさて。勝手に決めてしまっていいものか……。この時代、上流階級の結婚に自由恋愛による結婚などあるはずはなく、お見合いさえもない。結婚式当日に二人は初めて顔を合わせるのだ。結婚式には花嫁が赤い布を顔からすっぽり覆い、花婿はそれを持ち上げる細い棒を渡される。式が済んで新婚の部屋「洞房(トンファン)」に入って二人きりになった後、その棒で布を持ち上げ、花婿 [続きを読む]
  • 和[王申]少年物語63、英廉の書斎にて
  • 英廉のもとに、孫娘の月謡がご機嫌伺いにやってきた。「爺爺(イエイエ)」あどけなさの残る声に英廉は書き物の手をとめ、顔を上げた。Y頭(ヤートウ、女中)がお盆にお茶を運んでくる。お盆には湯のみ一つと宜興(イーシン)産のふっくらと丸みをおびた紫砂壷(ズーシャーフー、素焼きのきゅうす)一つとが載せられていた。湯飲みは下に受け皿がつき、本体は取っ手がなくふたがついている。白地に石榴(ざくろ)が枝にたわわになっている [続きを読む]
  • 和[王申]少年物語62、外祖父に金の無心
  • 嘉謨(ジヤーモー)は和珅の生母の父、外祖父に当たる。最初の頃はさまざまな人に無心した和珅だが、そのうち誰も貸してくれなくなり、最近は専らこの景気のいい外祖父におねだりしていた。河道道員といえば、景気がいいと相場が決まっている。当時、科挙に落第して意気消沈し路銀も使い果たした秀才や挙人らは、知り合いの官僚に紹介状を書いてもらい、道員を訪ねて行ったものである。すると、少なくとも数百両の「路銀」を包んでく [続きを読む]
  • 和[王申]少年物語61、外祖父は江南河道の河庫道員、嘉謨(ジヤーモー)
  • 和珅の家奴である劉全が、使いに出ていた。神妙な顔をして腰かけて待機している。 江南河道の河庫道員、嘉謨(ジヤーモー)の家では、使用人たちがひそひそと眉をひそめて、さざなみのようにささやきが広がっていた。そんな屋敷の雰囲気を敏感に感じつつ、劉全は余計に胸を反り返らせて座りなおした。「何? 善保(シャンバオ)の使いがまた来たのか?」「へえ。」と書状を盆に載せて執事が差し出した。嘉謨(ジヤーモー)がうめき声を [続きを読む]
  • 和[王申]少年物語60、清代版「農村下放運動」
  • 年季の入った北京っ子の――砍大山(カンターシャン、大風呂敷を広げる)を外地の人は軽蔑もすれば、崇拝もする。上海人などは「口ばっかりでいざ仕事させたら事務処理能力なし」と言って一刀両断、馬鹿にする。しかし首都として全国の物産、文化、情報が集まり、親戚一族にも官僚や軍人が多く、全土を駆け回っているので情報量はずば抜けている。さらに暇に任せて凝った芸術の知識を披露され「砍大山」(カンターシャン)されれば、 [続きを読む]
  • 和[王申]少年物語59、旗人の生計
  • ――支配階級といっても、不安定なものよ。少年の家庭の事情を聞くにつれ、英廉は一人ごちた。八旗の構成員というのは、特権階級のようでありながら、実は制約も多い。その点、江戸時代の武士階級にきわめてよく似ている。清代、満州族を含めた旗人には、軍人になるか官僚となるかという二つの職業しか許されていなかった。国を防衛するか、政治を動かす立場になるか、二つに一つである。農業、商業などを含めて、他の職業には一切 [続きを読む]
  • 和[王申]少年物語58、天山北路での屯田
  • 河西回廊は両方を山脈に挟まれているため、その雪解け水が谷に流れ込んで地下にたまり、ちょうどいい具合にオアシス都市が点在する。蘭州からこれを武威、張掖、酒泉、嘉峪関、安西、ハミ、トルファンと一つ一つ渡っていくと、大軍が比較的楽に天山山脈の雪解け水で潤うウルムチにたどり着ける。これがタリム盆地の入り口だ。ここを押さえれば、天山山脈を越えた北にあるジュンガリアも南のタリム盆地のウィグル族居住区も押さえる [続きを読む]
  • 和[王申]少年物語57、新たなる国土、新疆
  • 確かにこの時期、和珅の一家にとってウミタイは大事な親族であった。働き手を失った家庭では、その経済力に頼るところが大きかったであろう。しかしウミタイはこの時期、首都には数年も戻っていない。新しく清朝の領地になった新疆地区の経営に借り出されていたのである。乾隆二十四年(一七五七)、現在の新疆ウィグル自治区に当たる、いわゆるシルクロード地方がすっぽりと清朝の手に納まった。この地域は、元々モンゴルの一派、 [続きを読む]
  • 和[王申]少年物語56、ウミタイはウルムチ勤務
  • 「父親が死んでしまうと、後に残されたのが、なさぬ仲のこの伍弥泰(ウミタイ)大人のお嬢さんでございますよ」ねずみ男の解説は続く。「しかし大きな声ではいえませんが、嫡母としてこの方はどうも婦女道には反しまするな」珍しく公正な意見を口にすると、ネズミ男がため息をついた。――なるほど。そういうことか。三等軽車尉の家柄でありながら、周りの少年たちのいじめの理由になるような貧しい格好をさせているとは、確かに誉め [続きを読む]
  • 和[王申]少年物語55、嫡男でありながら和[王申]は
  • 「それが善保(シャンボー)は立派な嫡男、弟も同母弟で生母は正妻ですよ」ネズミ男がもったいぶっていう。英廉は意外そうに相槌を打った。「ほお。それなのになぜ」大方、どこの家にでもある愛憎図だろうと見当をつけつつ、また思いは自分の身の上に飛んだ。 中流以上の家庭では、どこでも見られる妻妾や異母兄弟同士のいがみ合い。英廉と母は少なくとも家庭の中では敗者の立場に置かれ、そのみじめさをいやというほど味わってき [続きを読む]
  • 和[王申]少年物語54、嫡庶のちがい
  • 雍正帝は皇位簒奪者ではないか、と言われているが、それを可能にしたのも、息子の弘暦(後の乾隆帝)との共同作業であった嫌いがある。祖父帝(康熙帝)の晩年、あまたいる皇子らの皇位継承争いは、熾烈だった。優秀な皇孫を持つことは大きな点数稼ぎになるため、雍正帝はこの息子の聡明さを全面的に押し出したのである。元来、弘暦(乾隆帝)は嫡男でも長男でもない。弘暦は雍正帝の五男、上三人の兄が相次いで夭折したので、実質 [続きを読む]