毎年、大船フラワーセンターで開催されている「日本の自生アジサイ展」は・・・5月21日(火)~5月26日(日)の予定。全国に自生するアジサイが展示されます。☆ …
毎年、大船フラワーセンターで開催されている「日本の自生アジサイ展」は・・・5月21日(火)~5月26日(日)の予定。全国に自生するアジサイが展示されます。☆ …
つらつらと うき世の中を思うにはまじらざるこそまさるなりけれ見聞かでも いわでもかなわざるものをうき世の中にまじるならいはつれもなく いとわざるこそうかりけれ…
鎌足桜「鎌倉」という地名の由来については、いつくかの説があるようですが、浄妙寺の鎌足稲荷社の伝説もその一つにあげられます。藤原鎌足は鹿島神宮に参詣する途中、鎌…
986年(寛和2年)の寛和の変で花山天皇が退位し、一条天皇が即位したことで藤原兼家は摂政となりました。関白太政大臣だった藤原頼忠は、関白の地位は失いますが、太…
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし在原業平は・・・「桜がなければ、咲いたか?散ったか?と思い煩うことも悩むこともないのに・・・」と詠みました。…
極楽寺の本堂前に植えられているのは、一重と八重の花が混生する「八重一重咲分け桜」。室町時代に京都御所の紫宸殿に植えられて「鎌倉桜」といわれた「桐ヶ谷」です。八…
「花は桜木、人は武士、柱は桧、魚は鯛、小袖はもみじ、花はみよしの」これは、室町時代の禅僧・一休宗純の名言。花は桜がすばらしい。そして、ぱっと咲いてぱっと散る桜…
桜は「サの神」が降臨すると咲くらしい。桜の「サ」は、サ神の「サ」。「クラ」は、神が座る所。という言い伝えも。サ神は田の神・稲の神。田植えが近くなると山から里へ…
2024極楽寺の仏生会~秘仏本尊開帳・忍性墓公開・花まつり~
仏生会では、本尊の清凉寺式釈迦如来立像が開扉されます。京都清凉寺の「三国伝来の釈迦如来」を模刻したもので、扇ヶ谷にあったいう新清凉寺釈迦堂の本尊であったともい…
建長寺は、五代執権北条時頼が宋の蘭渓道隆を招いて開いた日本で初めての「禅専門道場」。蘭渓道隆は、宋から持ってきたビャクシンの種を植えたのだといいます。現在、山…
「北條五代祭り」は、戦国大名・後北条氏五代を称え偲ぶ祭り。北条氏五代とは、初代早雲、二代氏綱、三代氏康、四代氏政、五代氏直。武者行列のパレードが市内を勇壮に練…
1182年(養和2年)、源頼朝は北条政子の安産祈願のため、鶴岡八幡宮の参道・若宮大路を築きます。若宮大路は、鶴岡八幡宮を内裏に見立て、平安京の朱雀大路を模して…
「陸奥は いづくはあれど 塩釜の 浦こぐ舟の 綱手かなしも」『古今和歌集』にあるよみ人しらずの歌。三代将軍源実朝は、この歌を本歌取りしてこう詠みました。「世の…
「桜花ちりかひかすむ春の夜のおぼろ月夜のかもの川風」1217年(建保5年)3月10日夕方、源実朝は牛車に坊門姫を乗せて永福寺の桜を見に出かけます。花見の後、二…
赤染衛門歌碑藤原道隆は、まだ少将だった頃、赤染衛門の姉妹のところに通っていたらしい。やすらはで寝なましものをさ夜更けてかたぶくまでの月を見しかなこの歌は、藤原…
1182年(寿永元年)、源頼朝は鶴岡八幡宮の弦巻田と呼ばれていた水田を池にします。その池が源平池(源氏池と平家池)。源平池の造営を担当したのは、伊豆山権現の専…
既自以心為形役(既に自ら心を以て形の役と爲す)奚惆悵而獨悲(奚ぞ惆悵して獨り悲しむ)「これまで自分の心を犠牲にしてきたのだから、もうくよくよ悲しんでいる場合で…
「光る君へ」第10話では、道長がまひろに『古今和歌集』の和歌を贈っていました。平安貴族にとって『古今和歌集』を暗記することは、教養の一つされていました。☆ ☆…
1186年(文治2年)4月8日、鶴岡八幡宮で見事な舞を披露した静御前。鎌倉で愛する源義経の子を出産しますが、男児だったため源頼朝の命により由比ヶ浜に捨てられま…
大倉幕府跡1184年(寿永3年)4月4日、源頼朝の御所の桜が満開となり、鮮やかな風情となりました。頼朝は、姉坊門姫の夫一条能保を誘って花見を楽しみます。平時家…
「花咲かば告げよと言ひし山守の来る音すなり馬に鞍おけ」桜の花が咲いたら知らせよと命じていた山守がやって来る音(蹄の音)がする。桜が咲いたらしい。鞍の用意をいた…
清少納言は『枕草子』に、 「五月ばかりなどに山里にありく、いとをかし」(五月頃に山里を歩き回るのは、とても趣があると記しています。旧暦の5月は新暦の5月下旬か…
おそらくですが、鎌倉で一番早くソメイヨシノが開花するのは、妙本寺なのかも。ここ数年は、東京や横浜と同じかやや早く開花しています。妙本寺がある比企ヶ谷は、源頼朝…
常徳寺常徳寺は、賀茂祭で斎王の還御の行列が通る道筋にあった知足院を始まりとする寺。知足院は、清少納言の『枕草子』にも登場。斎王の還御の行列では、知足院や雲林院…
清少納言は『枕草子』の「節は五月にしく月はなし」の段にこう書き記しています。「さて、春ごとに咲くとて、桜をよろしう思ふ人やはある」(毎年のことだからといって、…
994年(正暦5年)2月21日、藤原道隆は積善寺で、一条天皇の生母・藤原詮子や中宮・藤原定子の隣席のもとで一切経供養を行いました。この時、定子は参列のため内裏…
「光る君へ」第9話で道長が直秀を預けた検非違使は、平安京の治安を維持するために設置された検非違使庁の役人。監視・逮捕・裁判などを行い、別当(長官)・佐(次官)…
「光る君へ」第8話で、兼家が倒れて長く寝込んでいましたが、それは晴明と仕組んだことでした。忯子の怨霊が取りついたというのも二人の策略。それは花山天皇を退位させ…
海の見える遠い国~直秀が殺された鳥辺野:「光る君へ」第9話~
東三条殿に入った盗賊は、散楽一座の直秀らでした。道長は直秀らを検非違使に引き渡し、その後、流罪とするよう頼んでいました。しかし、直秀らは鳥辺野に連れて行かれ、…
源頼朝と雛まつりの起源となった上巳の節句~鶴岡八幡宮では舞楽や流鏑馬が~
『吾妻鏡』によると・・・鶴岡八幡宮で行われた上巳の節句の法要には、源頼朝も出席していました。1189年(文治5年)3月3日、頼朝参列。舞楽、流鏑馬、相撲などが…
昔、六道の辻に一件の飴屋があった。ある夜のこと、表の戸をたたく音がするので主人が外へ声をかけると、かすかな声で「飴をいただきにまいりました」という返事があった…
「風さわぐをちの外山に雲晴れて桜にくもる春の夜の月」(山に風が吹き、雲を晴らし、桜に曇って、月が浮かぶ)源実朝が詠んだ歌。実朝桜は、1219年(建保7年)、甥…
984年(永観2年)、花山天皇が即位。同年・・・藤原為光の娘・忯子は弘徽殿に、藤原朝光の娘・姚子は麗景殿に、藤原頼忠の娘・諟子は承香殿に入って女御となりました…
芥川龍之介の『羅生門』は、平安京の朱雀大路の南端にあった羅城門を舞台とした小説。ある男が、仕えていた家を解雇され、盗人にでもなろうとしたのだが、その勇気も出ず…
六波羅蜜寺一条天皇の皇后宮・藤原定子は、1000年(長保2年)12月15日、平惟仲の屋敷で媄子内親王を出産した後、翌16に崩御。藤原行成の『権記』によると・・…
上巳の節句と雛まつり~平安時代の流し雛+女子の雛遊び=雛人形~
3月3日は「雛まつり」。「雛まつり」は、3月上旬の巳の日に、「邪気祓い」のために行われていた「上巳の節句」がその起源だといいます。「上巳の節句」は、平安時代に…
六道の辻六道の辻は、平安京三大葬送地の一つ鳥辺野の入口。 西福寺六道の辻にある西福寺は、空海が鳥辺野の入口にあたる地に地蔵堂を建てたことに始まります。 幽…
清水の舞台平安時代、野ざらしにされる死体が多かったことから、化野(あだしの)・蓮台野(れんだいの)・鳥辺野(とりべの)・華頂(かちょう)・西院(さいいん)が葬…
藤原道隆の正妻・高階貴子の曾祖父・高階師尚は、伊勢斎宮の恬子内親王と在原業平の密通によって誕生したという噂があります。貴子の孫・敦康親王(藤原定子の子)は、そ…
「光る君へ」第8話では、藤原道兼がまひろの父藤原為時に近づき、藤原兼家からDVを受けていることを告白。それを為時が花山天皇に話すと・・・花山天皇は道兼に心を許…
『源氏物語』で琵琶の名手というと、明石の巻で光源氏を明石に連れて行った明石入道。光源氏が琴を弾いていると、明石入道も琵琶を持って参上しています。そして、明石入…
花山天皇に寵愛された藤原忯子は、藤原為光の次女。長女は、藤原義懐の正室。三女は、寝殿の上で藤原伊周の妾四女は、花山法皇が愛人とした藤原儼子。この三女と四女をめ…
口寄せ(くちよせ)は、霊を自分に乗り移らせて、霊の代わりにその思いなどを語る降霊術。「光る君へ」第8話では、安倍晴明が祈祷をしていると藤原忯子の霊が降りてきた…
安倍晴明:閻魔大王から授かった五芒星パワー~真如堂の不動明王伝説~
真如堂の本尊・阿弥陀如来の脇侍の不動明王は、平安時代に活躍した陰陽師・安倍晴明の念持仏。晴明が横死したときに閻魔大王に頼んで蘇生させたという伝説の像。 不慮…
藤原実資の最初の娘は、985年(寛和元年)4月28日の誕生。実資は、毎月18日に清水寺参詣を心がけ、娘にも清水寺に参詣・参籠させていたようです。清水寺ただ、娘…
浄楽寺浄楽寺は、源頼朝とともに鎌倉に武家政権を樹立させた和田義盛が建立した寺。「木造阿弥陀如来及両脇侍像」、「木造不動明王・毘沙門天立像」は、胎内の銘札から和…
紫式部歌碑(越前市 蔵の辻)「ふるさとに 帰る山路の それならば 心やゆくと ゆきも見てまし」父・藤原為時とともに越前武生で暮らした紫式部が「早く都へ戻りたい…
紫式部公園歌碑「ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩の松に けふやまがへる」父・藤原為時に同行して越前武生に下向した紫式部が初めて迎えた冬・・・初雪が降った…
小田原城址公園では、桜の開花時期に合わせて桜のライトアップも行われます。3月21日(火)~4月9日(日)の予定。※桜の開花状況により変更あり。小田原城址公園の…
埼玉県北本市は、謀反の罪で伊豆修禅寺に幽閉された源範頼が落ち延びた地といわれています。石戸蒲ザクラ東光寺にある石戸蒲ザクラは、範頼の杖が根付いたものといわれ、…
流鏑馬は3月9日(土)片瀬海岸東浜12:00~ 奉仕される武田流流鏑馬は、YORITOMO-JAPANの四天王・武田信光から伝わる弓馬術。☆ ☆ ☆ ☆ ☆
何年植向壇上早晩移栽到梵家雖在人間人不識与君名作紫陽花『白氏文集』白楽天(白居易)は、人が知らない花に「紫陽花」という名を付けました。この花を源順は日本のアジ…
平安時代には盗賊が横行。藤原保輔は『宇治拾遺物語』に「盗人の長にてぞありける」と書かれた盗賊。盗賊として名をはせた保輔は、988年(永延2年)、のちに悪霊左府…
多賀城碑多賀城碑は、陸奥国府が置かれていた多賀城に建てられた碑。平城京、蝦夷国、常陸国、下野国、靺鞨国から多賀城までの距離が記されています。靺鞨とは、度々日本…
「光る君へ 越前 大河ドラマ館」が2月23日(金・祝)にオープンします。場所は、武生中央公園にある屋内催事場「しきぶきぶんミュージアム」内。開催期間2024年…
「光る君へ」第7話のタイトルは「おかしきことこそ」。前回、直秀に「散楽はおかしきことこそめだたけれ」と言われていたまひろ(紫式部)ですが・・・右大臣家の権勢を…
口寄せ(くちよせ)は、霊を自分に乗り移らせて、霊の代わりにその思いなどを語る降霊術。「光る君へ」第8話では、安倍晴明が祈祷をしていると藤原忯子の霊が降りてきた…
「光る君へ」では、まひろ(紫式部)の父藤原為時は、藤原兼家の推薦で花山天皇の教育係をしながら、花山天皇の状況を兼家に報告していました・・・第7話では・・・愛す…
死穢(しえ)=死の穢れ。平安時代、死は恐怖の対象とされ、伝染すると信じられていたようです。「光る君へ」第7話では、弘徽殿女御(藤原忯子)が亡くなりますが、花山…
ある日、遍照寺の寛朝僧正のもとを訪れた安倍晴明は、若い僧に「蛙を殺してみてくれ」と言われ、広沢池の蛙に草の葉を投げて殺してみせたのだとか。遍照寺遍照寺は、98…
名古曽の滝跡名古曽の滝は、大覚寺の日本最古の人工の庭池・大沢池にあった滝。藤原公任は、枯れてしまった滝を見て「滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて…
国宝「白氏詩巻」(東京国立博物館)国宝「白氏詩巻」は、藤原行成が『白氏文集』巻第六五から八篇の詩を揮毫したもの。『白氏文集』は、平安時代の承和年間(834-8…
「空寒み花にまがへて散る雪にすこし春ある心地こそすれ」藤原公任と清少納言の連歌。風が吹き、空は黒く、少し雪が舞う2月末、清少納言のもとへ藤原公任から「すこし春…
雪がとても高く降り積もった日、中宮・藤原定子は清少納言に「香炉峰(こうろほう)の雪はどうでしょうか?」と尋ねます。清少納言は、女房に御格子をあげさせ、みずから…
「光る君へ」第7話では、藤原道長が打毬(だきゅう)で活躍するようですが、打毬は、平安時代に端午の節会の際に行われた馬術競技。その起源はヨーロッパに伝えられた馬…
藤原実資の『小右記』や赤染衛門の『栄花物語』によると・・・花山天皇に入内した藤原忯子は、懐妊しても里下がりを許されず、懐妊5か月にしてやっと里(実家)へ帰るこ…
「光る君へ」第6話の漢詩の会で藤原道長は白楽天(白居易)の詩を選びました。「歌詞の酒は十分あるが君をおいて誰と飲もうか宮中の菊花を手に満たして私は独り君を思う…
泉涌寺の大涅槃図特別公開と清少納言・源頼朝・北条政子・北条泰時・蘭渓道隆・願行…
「仏涅槃図」は、仏教の開祖・釈迦が沙羅双樹の下で、頭を北にして、西を向き、右脇を下にした姿と、十大弟子をはじめとするさまざまな生き物が嘆き悲しむ様が描かれた図…
『大鏡』によると・・・有明の月がまだ明るい時刻、藤原道兼に連れられて内裏を抜け出した花山天皇。花山寺(元慶寺)に到着すると剃髪しますが・・・一緒に出家して弟子…
寛和の変 花山天皇が出家!~『扶桑略記』と『愚管抄』が伝える政変~
986年( 寛和2年)6月23日、花山天皇が元慶寺で出家するという事件が発生(寛和の変)。事件の首謀者は右大臣・藤原兼家。長男の道隆・次男の道綱・三男の道兼、…
986年(寛和2年)6月18日、清少納言は、藤原済時の小白河殿で営まれた法華八講を聴聞します。『枕草子』には・・・のちに関白となる藤原道隆や藤原義懐が素晴らし…
「光る君へ」で「おかしきことこそめだけれ」と言われた紫式部の物語論
「光る君へ」第6話では、まひろ(紫式部)は、散楽の直秀らに笑いの種にするための物語を提案しますが・・・直秀に「その話のどこが面白い。散楽を観に来る者たちは笑い…
「光る君へ」第6話の漢詩の会で、ききょう(清少納言)は藤原斉信が選んだ漢詩がよかったと言っていましたが・・・『枕草子』によると、斉信は、中宮・藤原定子が亡き父…
「光る君へ」第6話では、若者が藤原義懐のもとへ流れていくのを心配した藤原道隆は、正妻の高階貴子の案で漢詩の会を開くこととします。講師は、まひろ(紫式部)の父…
「光る君へ」第6話で、藤原道長は、まひろ(紫式部)に恋の歌を贈ります。「ちはやぶる 神の斎垣も 越えぬべし 恋しき人の みまく欲しさに」『伊勢物語』第七十一段…
花山天皇に望まれて入内した藤原忯子(弘徽殿女御)。寵愛を受けて懐妊しますが、病に伏してしまいます。「光る君へ」第5話では、藤原兼家が安倍晴明に子を呪詛するよう…
嘆きつつ ひとり寝る夜の~蜻蛉日記:藤原道綱母の歌・光る君へ~
「嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る」(一人で嘆きながら夜が明けるまで寝ている時間がどれだけ長いか分るでしょうか?分からないで…
稲荷神は、五穀豊穣、商売繁昌、家内安全、諸願成就の神。伏見稲荷大社(京都)全国の稲荷社の総本宮伏見稲荷大社は、711年(和銅4年)2月7日の初午の日に、渡来系…
総社大神宮・国分寺・御霊神社は、紫式部が暮らした越前武生にある寺社。 総社大神宮総社大神宮は、着任した越前国司が参拝した社。紫式部の父藤原為時も参拝したはず…
長谷寺鐘楼長谷寺の鐘は午前6時と正午の二度撞かれ、正午には法螺貝も吹かれます。そして、夜8時の法螺貝で長谷寺の時報は終わり。清少納言は『枕草子』に「師の坊に、…
清少納言~庚申の夜の歌会 清原元輔の娘と言われなければ・・・~
5月の庚申の夜が更けた頃、藤原伊周が女房たちに歌を詠むよう命じます。しかし、清少納言は中宮・藤原定子の許可を得て歌を詠みませんでした。この歌会で定子は「元輔が…
『栄花物語』によると、藤原道長が源倫子と結婚したのは、987年(永延元年)12月16日。道長22歳、倫子24歳。道長は藤原兼家の五男。兼家の正室・時姫の生んだ…
花山法皇が隠棲した菩提寺の麓の地名は「尼寺」(にんじ)。法皇が菩提寺に隠棲すると・・・法皇付きの女官11名は、法皇が寵愛していた藤原忯子の位牌を持って訪ねてき…
「はらへどの 神のかざりの みてぐらに うたてもまがふ 耳はさみかな」(祓戸の神にお供えする御幣と見違えるほどの紙の冠を耳にはさんだりして・・・)3月1日、紫…
法住寺は、989年(永祚元年)に藤原為光が建てた寺。985年(寛和元年)に亡くなった妻と娘の忯子(花山天皇女御)の菩提を弔うために建立したのだと伝えられていま…
藤原兼家・道兼父子の謀略により元慶寺で出家した花山天皇は、播磨国の円教寺に入った後、比叡山に登り、戒壇院で受戒して法皇となります。花山法皇は、大和国長谷寺を開…
2月の初午の日、清少納言は朝早くから伏見稲荷に参拝。稲荷山に登り始めますが、中の御社のあたりで疲れてしまいます。それでも我慢して登っていると・・・後から登って…
平安時代は猫ブームだったらしい。清少納言の『枕草子』によると、一条天皇も猫を飼っていたようです。紫式部の『源氏物語』にも猫が登場します。「若菜上の巻」では、病…
「亡き人に かごとをかけて わづらふも おのが心の 鬼にやはあらぬ」(後妻に亡き先妻の物の怪がついて悩んでいるのは、自分の心の中に鬼がいるからなのでは?)この…
満月の夜、まひろと道長が逢っていたのは河原院?~光る君へ第5話~
満月の夜、まひろ(紫式部)と道長が逢った六条の寂れた屋敷は、『源氏物語』~夕顔の巻~で光源氏が夕顔を連れ出した某院をイメージしているのかも・・・某院は、光源氏…
平安時代、病気の原因は物の怪(怨霊)の仕わざと信じられていました。そのため、病人が出ると物の怪退散の加持祈祷(調伏)が行われたようです。「光る君へ」第5話では…
更雀寺は、清少納言と交際していたという藤原実方の供養塔がある寺。雀塚雀塚は、陸奥国に左遷となり、都に帰れぬまま没した藤原実方の供養塔。勧学院の観智上人の夢…
紫式部ゆかりの越前武生に「しきぶきぶんミュージアム」がオープンします。
紫式部が生涯で唯一、都を離れて暮らした越前武生。2月23日、武生中央公園内のまさかりどんの館内に「しきぶきぶんミュージアム」がオープンする予定。「光る君へ…
清少納言の恋人・藤原実方に罰を下した出雲路道祖神の娘~京都:幸神社~
清少納言と交際していたといわれる藤原実方は、995年(長徳元年)、陸奥守に左遷されます。そして、998年(長徳4年)12月13日、陸奥国の佐具叡神社の前を下馬…
塩竃神社は、新京極にある錦天満宮の境内社。紫式部の『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人とされる源融を祀ります。源融は、邸宅の河原院に陸奥国の塩竈の風景を…
『古事談』によると・・・花山天皇は頭痛に悩んでいたようです。特に雨の日はひどかったらしい・・・それを救ったのが陰陽師・安倍晴明。晴明は花山天皇にこう申し上げま…
まひろが使っている机と和歌~光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館~
1月29日から開催されている「光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館」には、まひろ(紫式部)が使っている机が展示されています。「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ…
大津市にある延暦寺慈眼堂は、天海(慈眼大師)の廟所。そこにあるのが平安時代の女流文学者・清少納言、紫式部、和泉式部の供養塔。大津市は三人ゆかりの地。特に石山寺…
「陸奥の いはで忍は えぞ知らぬ かき尽くしてよ 壷のいしぶみ」この歌は、源頼朝が慈円に贈った歌。後鳥羽上皇の命により編纂された『新古今和歌集』に載せられてい…
花山天皇が出家した元慶寺の隣接地には、藤原詮子が建立した慈徳寺があったといわれています。藤原実資の『小右記』によると、慈徳寺は999年(長保元年)に落慶供養が…
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毎年、大船フラワーセンターで開催されている「日本の自生アジサイ展」は・・・5月21日(火)~5月26日(日)の予定。全国に自生するアジサイが展示されます。☆ …
つらつらと うき世の中を思うにはまじらざるこそまさるなりけれ見聞かでも いわでもかなわざるものをうき世の中にまじるならいはつれもなく いとわざるこそうかりけれ…
鎌足桜「鎌倉」という地名の由来については、いつくかの説があるようですが、浄妙寺の鎌足稲荷社の伝説もその一つにあげられます。藤原鎌足は鹿島神宮に参詣する途中、鎌…
986年(寛和2年)の寛和の変で花山天皇が退位し、一条天皇が即位したことで藤原兼家は摂政となりました。関白太政大臣だった藤原頼忠は、関白の地位は失いますが、太…
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし在原業平は・・・「桜がなければ、咲いたか?散ったか?と思い煩うことも悩むこともないのに・・・」と詠みました。…
極楽寺の本堂前に植えられているのは、一重と八重の花が混生する「八重一重咲分け桜」。室町時代に京都御所の紫宸殿に植えられて「鎌倉桜」といわれた「桐ヶ谷」です。八…
「花は桜木、人は武士、柱は桧、魚は鯛、小袖はもみじ、花はみよしの」これは、室町時代の禅僧・一休宗純の名言。花は桜がすばらしい。そして、ぱっと咲いてぱっと散る桜…
桜は「サの神」が降臨すると咲くらしい。桜の「サ」は、サ神の「サ」。「クラ」は、神が座る所。という言い伝えも。サ神は田の神・稲の神。田植えが近くなると山から里へ…
仏生会では、本尊の清凉寺式釈迦如来立像が開扉されます。京都清凉寺の「三国伝来の釈迦如来」を模刻したもので、扇ヶ谷にあったいう新清凉寺釈迦堂の本尊であったともい…
建長寺は、五代執権北条時頼が宋の蘭渓道隆を招いて開いた日本で初めての「禅専門道場」。蘭渓道隆は、宋から持ってきたビャクシンの種を植えたのだといいます。現在、山…
「北條五代祭り」は、戦国大名・後北条氏五代を称え偲ぶ祭り。北条氏五代とは、初代早雲、二代氏綱、三代氏康、四代氏政、五代氏直。武者行列のパレードが市内を勇壮に練…
1182年(養和2年)、源頼朝は北条政子の安産祈願のため、鶴岡八幡宮の参道・若宮大路を築きます。若宮大路は、鶴岡八幡宮を内裏に見立て、平安京の朱雀大路を模して…
「陸奥は いづくはあれど 塩釜の 浦こぐ舟の 綱手かなしも」『古今和歌集』にあるよみ人しらずの歌。三代将軍源実朝は、この歌を本歌取りしてこう詠みました。「世の…
「桜花ちりかひかすむ春の夜のおぼろ月夜のかもの川風」1217年(建保5年)3月10日夕方、源実朝は牛車に坊門姫を乗せて永福寺の桜を見に出かけます。花見の後、二…
赤染衛門歌碑藤原道隆は、まだ少将だった頃、赤染衛門の姉妹のところに通っていたらしい。やすらはで寝なましものをさ夜更けてかたぶくまでの月を見しかなこの歌は、藤原…
1182年(寿永元年)、源頼朝は鶴岡八幡宮の弦巻田と呼ばれていた水田を池にします。その池が源平池(源氏池と平家池)。源平池の造営を担当したのは、伊豆山権現の専…
既自以心為形役(既に自ら心を以て形の役と爲す)奚惆悵而獨悲(奚ぞ惆悵して獨り悲しむ)「これまで自分の心を犠牲にしてきたのだから、もうくよくよ悲しんでいる場合で…
「光る君へ」第10話では、道長がまひろに『古今和歌集』の和歌を贈っていました。平安貴族にとって『古今和歌集』を暗記することは、教養の一つされていました。☆ ☆…
1186年(文治2年)4月8日、鶴岡八幡宮で見事な舞を披露した静御前。鎌倉で愛する源義経の子を出産しますが、男児だったため源頼朝の命により由比ヶ浜に捨てられま…
大倉幕府跡1184年(寿永3年)4月4日、源頼朝の御所の桜が満開となり、鮮やかな風情となりました。頼朝は、姉坊門姫の夫一条能保を誘って花見を楽しみます。平時家…
鶴岡八幡宮の源氏池は、1182年(養和2年)、源頼朝が若宮大路を造営した際に弦巻田と呼ばれていた水田を池にしたのだと伝えられ・・・伊豆山権現の専光房良暹や大庭…
浜松八幡宮は、徳川家康の浜松城の守護神。雲立の楠(くもたちのくす)は、三方ヶ原の戦いで武田信玄に敗れた家康が隠れたという伝説の木。浜松八幡宮
成就院は北条泰時が創建した寺。本堂前の文覚荒行像は、源頼朝の挙兵に関わったといわれる文覚が自ら彫ったという像の模造。材木座の補陀洛寺にも同じ像が伝えられていま…
東京渋谷にある金王八幡宮は、源義朝に仕えた金王丸の名がつけられた神社。金王丸は、源義経を襲撃した土佐坊昌俊と同一人物ともいわれます。そして、社殿前に植えられて…
埼玉県北本市は、謀反の罪で伊豆修禅寺に幽閉された源範頼が落ち延びた地といわれています。東光寺にある石戸蒲ザクラは、範頼の杖が根付いたものといわれ、国の天然記念…
極楽寺は、北条義時と姫の前の子北条重時が建てた念仏堂をはじまりとする寺。本堂前の八重一重咲分桜は、北条時宗のお手植えとされる鎌倉原産の桜。「桐ヶ谷」(きりがや…
宝戒寺は、北条執権館跡にある寺。鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇の勅命により足利尊氏が建立しました。北条義時の小町亭もこの辺りにあったのだといいます。宝戒寺入り口の…
長禅寺は武田信玄が定めた甲府五山の一つ。五山の順位は不明ですが、長禅寺は一位だったのだと伝えられています。大井夫人の墓大井夫人(大井の方)は、武田氏一門の大井…
1195年(建久6年)、東大寺の大仏殿の落慶供養に参列し、東大寺の大仏を見た源頼朝は、東国にも大仏を造りたいと願っていたのだといいます。しかし、それを果たすこ…
小田原城址公園二の丸広場で3年ぶりの「小田原かまぼこ桜まつり」が開催されます。小田原城址公園の桜長興山の枝垂れ桜news📎3月14日鎌倉のソメイヨシノ
段葛は、源頼朝が北条政子の安産祈願のために造営を始めたという若宮大路の中央に築かれた鶴岡八幡宮の参道。若宮大路は、鶴岡八幡宮を内裏に見立て、平安京の朱雀大路を…
悪事を「見ない、聞かない、話さない!」ということで知られる三猿。ただ、日光東照宮の神厩舎の三猿には、さらに深い意味が・・・神厩舎の猿の彫刻は、八枚あって人生を…
大倉幕府は、源頼朝の御所のこと。学者先生が付けた名称で、頼朝が幕府と呼んだことはないようですが・・・『吾妻鏡』によると・・・1184年(寿永3年)4月4日、頼…
1184年(寿永3年)4月4日、源頼朝の御所の桜が満開になりました。それはもう美しい風景です。頼朝は、一条能保を誘って一日中花見の宴会を催しました。一条能保は…
私の個人的データからで申し訳ございませんが、妙本寺のソメイヨシノは鎌倉で一番早く開花します。ここ数年は、東京や横浜と同じかやや早く開花しています。妙本寺がある…
本覚寺の夷神は、源頼朝が御所の鬼門の守護神として置いたのが始まり。日蓮の分骨堂前の枝垂れ桜は、ソメイヨシノが開花する頃に見ごろを迎えます。枝垂れ桜が終わるとソ…
武田流流鏑馬は、YORITOMO-JAPANの四天王・武田信光から伝わる弓馬術。天長地久「天長地久の儀」は、騎射に先立ち行われるもので、左に3回右に2回馬を乗…
「どうする家康」で、巫女的な感じで三河一向一揆の場面に登場していたミステリアスな女性。ドラマ中の武田信玄の言葉によると望月千代。おそらく、信濃国望月城主・望月…
源氏山は、源頼朝の先祖・源義家が源氏の白旗を掲げて後三年の役の勝利を祈願したという鎌倉の中心にある山。源氏山山頂や源頼朝像周辺では、鎌倉市の木に制定されている…
1616年(元和2年)4月17日、駿府城で死去した徳川家康。翌年、「東照大権現」の神号が授けられ、久能山や日光山に家康を祀る「東照社」が建立されましたが・・・…