Wonder Graphics さん プロフィール

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Wonder Graphicsさん:
ハンドル名Wonder Graphics さん
ブログタイトル"Monochromeの北海道 1966-1996"そしてEktachromeの頃
ブログURLhttp://northernrailways.blog.fc2.com/
サイト紹介文モノクロームフイルムで、そしてエクタクロームで撮った北の鉄道。 1966年から40年、北海道風景の記録。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供32回 / 365日(平均0.6回/週) - 参加 2011/12/20 15:52

Wonder Graphics さんのブログ記事

  • 稀府 (室蘭本線) 1996
  • 現在の伊達市域、かつての有珠郡を構成した有珠・長流・東紋鼈・西紋鼈・稀府・黄金蘂の各村は、道内でも有数の藍の産地であった。勿論にタデ科イヌタデ属に分類される植物であり、藍染に用いられた「藍」である。道内への殖民は自給作物ばかりでなく、同時に開墾地の経済的自立に商品作物の生産を要して、それの内地からの移植も推奨され、そのひとつが当時に全国的需要も大きかった藍だったのである。1870年に始まる奥州伊達藩の [続きを読む]
  • 礼文 (室蘭本線) 1994
  • 2011年3月11日に発生した「平成23年東北地方太平洋沖地震」では、茨城県水戸市も震度6弱にて揺さぶられ、千波湖南方の丘陵地に所在する実家でも、その長く大きな揺れに在宅していた老親は「庭に這い出るのが精一杯」の有様だったらしい。石燈籠の上部が滑り落ち、石積みの門柱も崩れるなどし、建物室内では壁面の装飾が落下したのだが、不思議なことに家具の倒壊は起こらず、隣戸で生じた造成地盤のひび割れや崩壊も見られなかった [続きを読む]
  • 恵比島 (留萠本線) 1972
  • 留萠本線が雨竜山地を越えるサミットは、恵比寿トンネル入口やや手前の深川起点22K413Mにあって、その施工基面高は89M00である。峠下の34M30からなら比高55メートルを登坂するところとなって、運炭鉄道の使命からの10パーミルを最急勾配とする縦断面設計には延長6キロ弱を要し、R=260で180度を反転する2箇所の馬蹄形曲線が挿入された。後補機運転もあった深川-留萠間の撮影地点としては、これ以外には考えられない線形に違いなく、 [続きを読む]
  • 苗穂 (函館本線/千歳線) 1999
  • もう3年ほど前になるが、札幌 (函館本線) 1970 から数回に分けて苗穂駅史擬きの駄文を連ねたことがある。そこでは、1965年9月25日の札幌-苗穂間3線運転化に際して苗穂に増設されたのが現5・6番ホームであり、(1994年の留置線設置にて失われた)旧3・4番線ホームが1910年の開設時からの乗降場位置であるとした。閲覧した資料や工事盛んな当時に幾度か苗穂を通過した際の記憶を辿っての記述だったけれど、その後に新たに閲覧した資料 [続きを読む]
  • 細岡 (釧網本線) 1985
  • 北海道鉄道網の骨格路線を定めた『北海道鉄道敷設法』(1896年5月13日法律第93号)の第2条には、「石狩國旭川ヨリ十勝國十勝太及釧路國厚岸ヲ經テ北見國網走ニ至ル鐵道」が規定されていた。これは同法の制定意図から将来に幹線と位置付けられた路線と見て良い。公布後、直ちに道庁に置かれた臨時北海道鉄道敷設部による調査が行われ、この鉄道は第1期線に位置付けられたのだった。経路中の厚岸は当時まで道東の拠点であった故だが、 [続きを読む]
  • 鬼鹿 (羽幌線) 1977
  • ニシンの生態に関する学術研究が本格化するのは1900年代以降であった。勿論、それが資源と認識されてのことであり、かつては新潟でも大量に漁獲された北海道樺太系群のニシンが奥羽地域北部からも去り、この頃には未だ大漁の続いていた北海道西海岸での資源確保が喫緊の課題されたゆえであろう。漁業者に伝承は残されていたと思われるが、古文書の解析からその資源量の長期的な周期変動が裏付けられ、西欧での研究を取り入れた調査 [続きを読む]
  • 新狩勝信号場-広内信号場 (根室本線) 1980
  • 1958年6月19日に国鉄総裁あて提出された「動力近代化委員会」(1958年2月17日付総裁達第64号を以て国鉄本社に設置)の報告書には、ディーゼル機関車の将来の運転分野として、非電化線区・区間での貨物列車、電化区間より直通する客車列車、および入換用途と記されていた。そして、これを受けた工作局部内での検討により、動輪周出力1200PS程度の大型機、同800PSの中型機、同じく550PS程の小型機を開発し、動力伝達方式は液体式とする [続きを読む]
  • 北舟岡 (室蘭本線) 1988
  • 1870年4月を端緒とした旧亘理伊達藩による噴火湾北岸、胆振国有珠郡紋鼈地域への数次に渡る集団入植と開墾事業は、それの成功事例とされている。紋鼈に戸長役場が開かれた1879年の末までに、人口は2504人を数えるまでとなり、その農業生産には農機具や食品加工の工場が立地し、その従事者は勿論のこと、住民経済の充実に商業者や物流業者なども呼び寄せるところとなって、1880年代の紋鼈には当時の室蘭を凌ぐ市街地が形成されてい [続きを読む]
  • 中丿沢 (函館本線) 1999
  • 中丿沢停車場は、そこに北海道鉄道(初代)線の開通した翌年に「紋別」の停車場名にて開設されている。その1904年10月15日には熱郛から小沢までの開通により函館-小樽中央(現小樽)間が全通し、さらに翌年には小樽(現南小樽)への延伸にて北海道炭礦鉄道との接続が予定されていたから、将来の列車本数増には長い駅間に交換設備を要して国縫-長万部間9.5キロのほぼ中間が選ばれたものであろう。おそらくは計画当初より既定だったと思わ [続きを読む]
  • 大岸 (室蘭本線) 1992
  • 礼文-大岸 (室蘭本線) 1990 の記事で、道道608号線の廃道部に残存する岩見隧道と達古武隧道の供用を1944年と書いた。以下は同記事の補遺である。切っ掛けは、ようやくに「北海道道路史」(1990年 北海道道路史調査会編)を通読したことによる。全3巻からなる、それの第2巻技術編に上記隧道が1870年の竣工との記述を見つけてしまったのである。そこへの鉄道トンネル掘削に先駆けること60年には少しばかり驚かされる。先の記事では、ア [続きを読む]
  • 八雲 (函館本線) 1972
  • 鉄道と道路との立体交差、ここでは跨線橋のことなのだが、今昔に撮影の立ち位置である。特に目ぼしい俯瞰画角の見いだせない区間に在っては貴重に違い無い。けれど、都市部以外にこれが出現したのは、経済成長に道路交通が飛躍的に増加した1960年代以降のことになる。全国的に主要国道とは名ばかりの土道だった地方幹線道路の改良が進められ、これには鉄道との平面交差の解消は命題とされていたのである。山越郡八雲町域(当時)を縦 [続きを読む]
  • 厚岸 (根室本線) 1971
  • 根室線の釧路以東区間を久しく訪れていない。記録を遡ってみれば1986年の夏前が最後だから、もう30年を経過する。厚岸湾岸、辺寒辺牛湿原にせよ、落石千里浜にせよ、その景観は変わらぬだろうが、鉄道屋なので、やって来る列車に魅力が乏しければ、どうしても足は向かぬのである。この間、札幌所の寝台車で組成された臨時運用が幾度か施行されたけれど、沿線の騒ぎを思えば遠慮申し上げるしかなかった。周遊券・周遊きっぷや自由乗 [続きを読む]
  • 島松 (千歳線) 2004
  • その昔、親父との大衆車パブリカでの日曜ドライヴで、広島街道を厚別丘陵を越えて長沼方面へと走ると、まっすぐな道路の行く手を遮るような黒々とした樹林帯を幾度も眼にしていた。これを横切る途中で自動車を降りてみれば林中の如くであったし、並行する道を行けばどこまでも尽きぬ延長にも感嘆したものだった。石狩平野に広く分布する国有の防風保安林である。札幌に暮らした分には身近な風景だったけれど、内地にその規模をみる [続きを読む]
  • 箸別仮乗降場 (留萠本線) 1979
  • 国有財産を無償で承継した民営鉄道会社とは、随分と勝手なことをするものだ。留萠本線の末端区間の話である。降雪やら風雪の気候が大幅に変動したでなく、沿線の地形が大改変されたでも無い。増毛港を内陸へと連絡するこの区間は、1世紀に及ばんとする歳月を開業以来の位置に線形を維持して休むことなく客貨を輸送し続けてきた。春先の融雪期に雪崩の危険箇所が存在すると云うならば、それはその間に継続的に潜在したに違い無い。 [続きを読む]
  • 苗穂 (函館本線/千歳線) 1993
  • かつてのサトポロ(sat-poro)だったフシコサトポロ(husko-sat-poro)が流れ、メム(mem=湧水)の地でもあったそこの水資源に着目し、大友堀(創成川)と豊平川に区切られた一帯に事業所(工場)施設群を配置すべきと論じたのは、開拓使御雇教師頭取兼開拓顧問として来日した合衆国農務局長ホルレス=キャプロン(Horace Capron)だった。開拓使はこの提言を受け入れ、サトポロと切り離されたフシコサトポロの新たな水源、ナイポ(nay-po=小川 [続きを読む]
  • 蘭島 (函館本線) 1986
  • 手稲の新興住宅地に暮らした頃、家族での海水浴と云えば祖父祖母の元へ帰省した折のことばかりで、至近だった日本海岸、石狩湾岸での記憶は無い。当時の家族アルバムを手繰ってみても、大洗や磯浜、鮎川のキャプションが付された写真は収められるが、道内のものは見当たらない。内地生まれの両親には、当地での海水浴など考えられもしなかったのだろう。唯一の記憶は家族のそれでは無い子供会の海水浴で、行先は蘭島海岸だった。古 [続きを読む]
  • 函館 (函館本線) 1983
  • 戦前期までの函館港と云えば、国鉄函館桟橋から弁天町の函館船渠(現函館どつく)に至る一帯、現在に西部地区とかウォーターフロントと呼ばれている地域を指していた。幕末の「開港」時点で函館山の山麓が箱館であり、その前浜を埋め立てるなどして用地を得、やがて港湾が形成されて行ったゆえある。1932年に函館市の手により竣工した現在の西埠頭もその延長にあり、北洋漁業の大型母船なども接岸出来たそれは函館港の中心的存在であ [続きを読む]
  • 興部 (名寄本線) 1983
  • 1980年代半ばまでなら、ルーラル線区にも弁当の販売駅がまだまだ生き残っていた。日高本線の鵡川や静内に様似、留萌本線の留萌、根室本線末端区間の厚岸に厚床、釧網本線の弟子屈などである。そして、名寄本線の興部もそのひとつであった。そこでの駅弁販売開始は1961年11月と歴史は浅く、それは米田弁当店の上興部からの移転によるものと記録される。上興部へのほぼ最初の定住者だった米田久三郎が、アカダモが生い茂るばかりの原 [続きを読む]
  • 川湯 (釧網本線) 1977
  • 御料地とは皇室の所領を指しての言葉と云う。そして、皇室を存立足らしめる天皇制は、徳川幕府より政権委譲(断じて「維新」などでは無い)を得た薩長政権が唐突に持ち出し、民衆の支配に利用した根拠の曖昧な装置である。そればかりでは無い。これは土地の収奪と隔離にも用いられた。勿論に為政者の利権確保のためである。薩長政権は、先住民が全く預かり知らぬ間にアイヌモシリ全土の領有を宣言し、すべての土地を官有地とした。そ [続きを読む]
  • 尺別 (根室本線) 2008
  • 道内におけるDD51型内燃機関車の運転が「ようやくに」終了した。それは1966年度末の旭川機関区への配置による石北トンネル越え、塩狩越えの補機運用を嚆矢としていたから、爾来半世紀に迫らんとする歳月は、確かに「ようやく」としても良いだろう。もちろん、この際の投入車が生き残ったではないけれど、それでも函館運輸所の最後の5両は全て1975年の新製車両につき、車齢は41年に達する。現在苗穂工場に保管されるC623でも1973年1 [続きを読む]
  • 張碓-銭函 (函館本線) 1980
  • 国有鉄道当局が、函館札幌間列車の東室蘭・苫小牧経由運転の可能性を認識したのは、戦後の駐留軍専用列車が契機と言われている。1946年11月5日からその経路を辿った横浜-札幌間のYankee Limitedである。戦前の鉄道省にすれば、室蘭本線とは長輪線計画時から岩見沢以北と青函航路との連絡を目的としており、沼ノ端で接続の札幌方面線が線路規格の貧弱な私設鉄道だったことからも、これを札幌連絡に用いるなど考えもしなかったのであ [続きを読む]
  • 落部 (函館本線) 1989
  • それなりの規模の集落を駅勢圏とする落部だけれど、その駅周囲は「駅前」の体を為していない。それはこの駅の来歴ゆえのことである。アジア太平洋戦争末期に開通し上り線として用いられた別線新線、通称の海岸線上の停車場として開かれ、それは駅前後区間では既設線、通称山廻り線のさらに山側であったから、本来「駅前」となるべき位置は線路が通過する構内であった。1958年12月11日にその既設線が廃止されても、自動車通行を主体 [続きを読む]
  • 釧路 (根室本線) 1978
  • 釧路駅前を左手へ線路沿いの道路を進めば、程なく旧釧路川に架橋の旭橋に達し、そこから川上方に根室本線の釧路川橋梁を眺められた。駅至近のお手軽な位置でもあり、幾度も立っているのだけれど、その分だけ雨傘(釧路なら霧傘と云うべきか)だったり、時間的に動きのとれない場合の代替地だったりで、あまりまともな写真は残っていない。1917年12月1日の釧路本線の厚岸までの延長に際して架橋の鉄道橋に対して、旭橋はずっと時代を [続きを読む]
  • 銀山 (函館本線) 1981
  • 1980年代には『日本国有鉄道経営再建促進特別措置法』(1980年12月27日法律第111号)に準拠して選定された地方交通線の事業形態の転換が続いた。ご承知のとおり、経営体を替えて鉄道営業の存続した線区も存在したが、多くはバス交通を代替として廃止の途が選ばれた。必然的に人口過疎地域を経過地とする線区が大半を占めた北海道においては22線区が選定され、1990年までに地北線の140.0キロを除いた、実に1316.4キロもの線路が失われ [続きを読む]
  • 札幌 (函館本線) 1984
  • 学生当時は勿論、その後も職業のフリーランスを良いことに道内へは、それこそ足繁く通った。夏の長い休みを周遊券の有効期間一杯に放浪するなどは出来なくなった替わりに、一度旅に出れば1週間から10日、短くても3・4日の行程を年間に幾度と無く繰り返していたのだから、右のprofileに書いた年間の延べ1ヶ月の道内生活とは決して誇張でなく、年によっては2ヶ月近くまで彷徨いていたはずである。その間の主たる宿泊先とは、ここに何 [続きを読む]