fujiken さん プロフィール

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fujikenさん: 長州より発信
ハンドル名fujiken さん
ブログタイトル長州より発信
ブログURLhttp://kfujiken2.exblog.jp/
サイト紹介文山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします
自由文三方を海に囲まれた本州最西端の地・山口県の在住です。
一期一会の出会いを大切にし、お付き合いを願っております。
歴史が好きで、美術館・城下町等を歩き回っています。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供71回 / 365日(平均1.4回/週) - 参加 2012/02/19 09:51

fujiken さんのブログ記事

  • 虹ケ浜海岸にそびえる流木ゴジラ
  • 今朝  YAHOO!ニュースの “さよなら「流木ゴジラ」自主撤去へ” の記事を読み、早速行って来ました。海岸近くの社会福祉法人に勤める重山さんが1カ月ほどかけて漂着した流木を拾い集め、組み立てた。現在は未完成で、全身に木ぎれをはり付け、夏までに完成させる予定だった。漂着ゴミや流木が押し寄せる海岸で、「若い人たちに海岸美化に関心を持ってもらおう」と制作を続けたそうです。だが、5メートルもの高さがあるゴジラ [続きを読む]
  • 意外と知られていないであろう小烏神社(こからすじんじゃ)
  • 防府市を車で散策していると、聞き慣れない神社の小さな看板が目に留まりました。車を止め読んでみると興味をそそられる内容ではないですか?車道から神社は見えるのだが、入口が分からない!!!暫く周囲をうろうろしていたら、住宅地の狭い路地道を見つけました。そこを入っていくと参道がありました。土地の人でないと知らない道ですね〜江戸時代の三田尻(防府)は、長州藩の要衝として重視されたことがうかがわれます。当時の [続きを読む]
  • 河野養哲と越氏塾
  • 文教の地・三田尻(現 防府)に、貞享3年(1686年)萩の明倫館ができる約30年前に河野養哲が三田尻に越氏塾(えっしじゅく)を創設した。己の名利を捨て、人材教育にその生涯をかけた、まさに山口県教育の原点とでも言うべきものである。養哲の死後、越氏塾は三田尻宰判の公費でまかなわれる学校となり、その後数度の統廃合ののち、元治元年(1864年)には三田尻講習堂という塾名となった。明治5年(1872年)建物はそ [続きを読む]
  • 藤の大木・一貫野の藤
  • 一昨日山口市仁保の「一貫野の藤」に行きました。シーズン中は県内からだけでなく、県外からも多くの人が訪れ、特にカメラマンの方にとっては絶好の撮影スポット。おそらく人気の秘密は、藤の下を流れる水の流れを一緒に見れるからでしょう。滝とまでは言えませんが渓流と藤・・・このコラボは他に例えようのない美しさがあります。苦言を一言言わせて頂きますと・・・藤は花後に実ができます。実を付けたままにしておくと栄養がそ [続きを読む]
  • 華浦病院・医学校跡
  • 現在、趣味の地方史研究の一環で、「防長二州における医学教育」というテーマで色々調査・撮影・ 編集を進めている最中なんですが、山口県の医学教育の中核的存在であった華浦病院・医学校跡を見つけ撮影して来ました。山口県立華浦病院・医学校跡(松原児童公園)説明碑 の拡大です。華浦医学校の様子山口大学医学部の防長医学史からお借りして来ました「華浦医学校校舎・生徒写真」です。1874年(明治7年)、現在の防府市松 [続きを読む]
  • 虹の鯉のぼりプロジェクト
  • 光市の山口県スポーツ交流村・スポーツジムで運動の帰りに、虹ヶ浜が大変賑やかそうなので寄ってみました。GWということで人も多いが、なんと!鯉のぼりの団体さんです。 「虹の鯉のぼりプロジェクト」が開催されていたんです。東日本大震災を忘れない為、そして津波の犠牲となった子どもたちへの鎮魂の思いを込めたプロジェクト。2013年、地元の浅江中学校の生徒が「シンサイミライ交流会」に参加したことのご縁で賛同した「青 [続きを読む]
  • “ ぶらり! 花めぐり” 
  • 一昨日好天に誘われて、光市・浅江神社のシャクナゲ苑と冠山総合公園のぼたん園を 花めぐりして来ました。浅江神社の北側に駐車場があるため、丘の斜面に広がるシャクナゲ苑から登りました。約45種、850本余りのシャクナゲがあると言われていますが、そんなに数があるかなぁ〜満開の時期は終わってしまったらしく大輪の美しい花は、残念ながら落下しています。冠山総合公園は梅園で有名ですが、他にも薔薇、牡丹、菖蒲と四季 [続きを読む]
  • 蘭学を梅田幽斎に学んだ大村益次郎
  • 三田尻は江戸、京都、大阪、長崎に並ぶ西洋医学の先進地と言われている。三田尻には能美洞庵、佐伯玄厚、南部伯民、 荒瀬桑陽など多くの蘭学の大家がいました。梅田幽斎は文化六年(1809)江戸で生まれ、坪井信道のもとで蘭方医学を学び、宍戸丹後の臣下の医家として、三十四歳の時に三田尻新道に開業、同時に塾を開きました。塾の名前は盥流亭(かんりゅうてい)、沈流亭と称していました。梅田幽斎は学識も相当あり、又、才 [続きを読む]
  • 珍しい写真が手に入りました。
  • 薩摩藩のそうそうたる顔ぶれの藩士が写っています。佐世保の鎮守府に勤めていた人が持っていたそうですが、人を介してお借りしました。この写真が本物なのか、偽装されたものなのかは分かりません!!!著作・発行者は名越佳次郎と記名があり、シールも貼ってあります。下記でご紹介致します「フルベッキ群像写真」と撮影した人は別ですが、幕末の志士で著名人を一堂に会して、撮影している点がよく類似しています。「十六先生之肖 [続きを読む]
  • 錦帯橋散策
  • 4月8日の早朝から霧雨が降る中を、昼近くになったら晴れることを期待して、車で国道2号線を東に向かって走り、高森を過ぎ岩国に入ると前方に春霞(はるがすみ)がかかり、山あいは見えにくい状態でした。桜見物が目的だが、見物客が多く駐車場の確保に苦労することを覚悟し、毎年見ている花見より視点を変え、錦帯橋の展望に重点を置き歩きました。画像を すると大きな画像になります。吉香公園の堀に面して立つ錦雲閣は [続きを読む]
  • 幕末 下松に天才の医者がいた !
  • 大阪・適塾の5代目塾頭になった男飯 田 柔 平 (いいだ じゅうへい)◆ 飯田柔平の横顔 飯田家は、下松市元町山口銀行前のおおたや衣料店の所に家があり、代々医者であった。天保末に西豊井の蘭医・飯田元敬の長男として生まれた。17歳のころ。弟秀輔と当時蘭学・医学で一世を風靡した、大阪の緒方洪庵が創設した適塾に入門し、若くして塾頭(5代目)に抜擢され、全塾生を統括すると共に教授にも当っていた。 その後更に、 [続きを読む]
  • 四熊家住宅主屋&診療棟
  • 四熊家は、徳山藩領周防富田(現在 周南市土井)に16世紀から続く旧家で、宝暦の頃から「見学堂」という私塾を開設し、広く医学生を集め、嘉永の頃まで続きました。主屋は、江戸時代初期から医業を受け継いだ旧家の主屋で、桁行8間半、梁間5間半、2階建てで、屋根は寄棟造、茅葺で、周囲に桟瓦葺の庇を巡らせています。県下でも数少ない大規模な茅葺屋根を残す民家で、裏山を背負って建つ姿は、地域を代表する歴史的景観を形成 [続きを読む]
  • 「鮎川義介〜日本産業の近代化に尽力した山口ゆかりの偉人」
  • 山口市大内出身で日産コンツェルン創始者・鮎川義介(1880〜1967年)を紹介する企画展が、没後50年の節目を記念し、菜香亭で開催されています。鮎川義介を簡単に紹介すると、1928年久原鉱業(久原房之助創立)を譲り受け日本産業と改称し、これを持株会社として形成した最大の新興コンェルンの創始者で、1937年には傘下に日本鉱業・日立製作所・日産自動車など有力重工業企業以下直系・傍系150社を擁した企業を創った人です。「重 [続きを読む]
  • 道路を走る高速鉄道車両見学イベント
  • 昨日英国向け高速鉄道車両の昼間陸送イベントが開催された。(株)日立製作所笠戸事業所が製造している英国向け高速鉄道車両は、下松第2埠頭から船で英国に出荷されており、同社から埠頭までは車道を使って陸上輸送(陸送)されています。通常交通量の少ない夜間に行われている「陸送」を日中に行うのが今回のイベントでした。どの位の観客が居たのだろう??? 1万人は居たのかなぁ〜と思っていましたが、今朝のテレビニュースを [続きを読む]
  • 何年振りかなぁ〜 冠梅園と冠天満宮散策
  • 場所や樹により開花の差がありますが、見頃ではないですかね〜梅の里(冠梅園)には100種、約2000本の梅の木があります。丘陵を上りきると、冠山総合公園内が見渡せ、光市街地、瀬戸内海も展望できる。 眺めはとても良い場所なんだけど、高い場所なだけに日が陰るとかなりの寒い!!冠梅園と冠天満宮は赤い橋で繋がっています冠天満宮は旧国道188号に面して大きな鳥居・広場があり、そこから石段を登っていきます。元々は、光井の [続きを読む]
  • 「満州の政商」とよばれた男 鮎川義介 
  • 鮎川義介(あゆかわ よしすけ)の日立製作所笠戸工場と東洋鋼鈑への関与先ず、日立製作所笠戸工場の創立に関与した鮎川義介について説明しましょう。久原房之助が都濃郡下松町と太華村(現在の周南市櫛浜)の両町村にわたる沿岸を買収して世界的大工業都市の建設「下松計画」を立て、造船業と製鉄業に乗り出し、とりあえず造船業の日本汽船株式会社を立ち上げる。創業当初は好調を極めていたものの、第一次世界大戦の終結をきっか [続きを読む]
  • 謎の宮原古墳
  • 宮原古墳の概要末武川右岸の和田丘陵台地にある円形墳で、昭和四十七年に調査された宮原遺跡の南にある。巨石で築造された羨道(せんどう)、玄室(げんしつ)などをもつ古墳時代後期の片袖(かたそで)横穴式石室墳で、大正年間調査され石棺、馬具類、須恵器(すえき)が出しました。◆ 羨道(せんどう)・・・古墳の横穴式石室(墳丘側面から出入りする構造の石室)や横穴墓など横穴系埋葬施設において、棺を納めて遺体を安置する主室とも [続きを読む]
  • カタカナ小池百合子語録
  • 小池都知事に注文 よく分からないカタカナ語はやめて!!!都民ファーストならば分かりやすい日本語を使ってもらいたい。「いつやるか? 今でしょ!」で有名な林 修さんが、テレビ番組「ネプリーグSP」で20人の女子アナ相手に【ニュースでよく聞くカタカナ現代用語】について、発言の文脈に適した意味を解答というのをやっていましたが、女子アナといえば名門大学卒業で殆どの女子アナが英会話できる。そんな彼女達が良く知らない [続きを読む]
  • 「世界遺産 ポンペイの壁画展」
  • 日伊国交樹立150周年の展覧会です。ポンペイはイタリア・ナポリ近郊にあった古代都市で、ローマ人の余暇地として繁栄し最盛期の人口は約2万人といわれる。文化水準は非常に高く、上水道完備の大邸宅、公共浴場、劇場、円形の闘技場、運動場、宗教施設(集会所)など、社会インフラはヨーロッパの産業革命前とほぼ同レベルの高い水準を誇っていたそうです。当時の壁画は、公共系の建築物だけでなく、少し裕福な一般家庭の住宅内も、 [続きを読む]
  • 「初公開!周布政之助資料」と「長州藩幕末維新関係資料」
  • 「初公開!周布政之助資料」周布政之助(すふまさのすけ 1823−64)は長州藩大組士。名は兼翼(かねすけ)、字は公輔、号は観山、のちに麻田公輔と改名。村田清風の薫陶を受けて藩政改革に取り組み、保守派と政争を繰り広げたのちに実権を握りました。松陰や高杉ほか門下生のよき理解者で、伊藤博文らの密航留学(長州ファイブ)にも尽力しました。激動の時局に対応する中、文久3年(1863)8月18日の政変、元治元年(1864)禁門の変 [続きを読む]
  • 長州・明治維新 夜明けの轍(わだち) Part2
  • ③ 大田・絵堂の戦い長州藩は公武合体から尊王攘夷・尊王開国へと変わり、更に武備恭順となり倒幕の道を歩むこととなった。長州藩も最初から「尊皇攘夷! 倒幕!」と叫んだいたわけではなくて、あくまでも幕府に恭順しようという勢力もあって、その勢力のことを俗論党という。 一時期、尊王攘夷派が主流になった日本だが、薩摩藩と会津藩主導による八月十八日の政変(会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする [続きを読む]
  • 長州・明治維新 夜明けの轍(わだち)
  • 長州藩の思想の変化として、公武合体論や尊皇攘夷から開国に激化し、さらに倒幕に発展して行った。長州藩が明治維新に至るまでに、様々な過程をたどって来たことはご存知と思います。八月十八日の政変、下関戦争(下関事件や馬関戦争)、池田屋事件、禁門の変、第一次長州征伐・第二次長州征伐(四境戦争)を戦い、大政奉還が行われ王政復古が成立するまで様々な事件を経験した長州藩は、後に明治政府の中核となっていきますが、知 [続きを読む]
  • 第2回 茶臼山と大谷渓谷へのいざない展
  • 1月6日より31日の26日間、スターピアハート・フロアーで「第2回 茶臼山と大谷渓谷へのいざない展」が開催されている。この催しは、大谷渓谷懇談会(永田久則会長)と、とよい今昔探訪クラブ(清木健一会長)が協賛で、豊井地区の茶臼山や大谷渓谷を整備し、茶臼山と大谷渓谷の魅力を知って頂く為、歴史・農工遺産・自然・歩くをキーワードに、300年前、100年前、75年前と節目の茶臼山と大谷渓谷の歴史や農業・産業遺産及び自然や景観 [続きを読む]
  • 初詣めぐりのパートⅡ・津和野のお稲荷さん
  • 小雨降る9日、津和野太皷谷稲成神社に10年振りに行って来ました。家を出る頃はパラパラ、米川辺りに来ると大分降り出したものの、津和野に着く頃は止むだろうと、たかをくくって進んだのはいいが、須々万から鹿野に入った頃はザーザー降りどうしょう?と思案しましたが、そこはB型 考えるより実行・・・津和野に着いてもまだ降っていれば帰ればいいと!!! いい加減なものです。しかし国道315号を走って阿東町の交差点(9号 [続きを読む]