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神父の放言 https://blog.goo.ne.jp/hougensinpu321

言いっぱなし。そんな風に気楽に放言させてもらいます。

いつまで生きていられることやら。今のうちに普段思っておることを書き散らかせてもらいます。

放言神父
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2012/04/08

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  • まことのユダヤ教徒

    〈1〉旧約(ユダヤ教)を廃止するのではなく完成するキリスト「私は廃止するためではなく完成するために来た」(マタイ5章)とキリストはおっしゃった。しかし当時の宗教指導者たちは、キリストがモーセの律法を変えようとしている、と非難した。しかし変更や廃止のように見えて、キリストはさまざまなものを完成なさった。マタイの5章―7章の山上の垂訓の中では、キリストによって「廃止ではなく完成した」倫理的教えの数々がまとめられている。「敵を愛しなさい」というのもその中にある。ヘブライ人への手紙の中では、いけにえの動物や祭司制度など、キリストが完成したがために廃止されることになったいくつかのものが取り上げられている。ヘブライ書の著者は、「力あるものが到来したために、今までの力のないものは廃止される」(cf.7:18)といって、モーセ...まことのユダヤ教徒

  • キリストを迫害した人々

    キリストを迫害し、死に追い詰めた人々は、皮肉なことに「自分は最も信心深い者だ」と思っていた人々だった。そんなことがありえる。ファリサイ派と律法学者たち、彼らは当時のユダヤ教社会の宗教的指導者、権威者だった。聖書を最もよく知っていた人々だった。しかし知識で知ることと、心で知ることは違うのだろう。後にキリスト教に改心してもっとも大きな功績を挙げたパウロは、以前は熱烈なファリサイ派だった。そのときの反省があってか、手紙の中でこのようなことを言っている。「知識は高ぶらせるが、愛は作り上げる」。(Ⅰコリント8章)「文字は殺し、霊は生かす」。(Ⅱコリント3章)律法を知っているだけでは、「文字は殺し」「知識は高ぶらせる」ことになる。律法を行い、愛に生き、聖なる神の霊によって生かされなければ、律法を知ってかえって悪しき人間にな...キリストを迫害した人々

  • 罪があふれるところに、恵みはさらにあふれる

    〈1〉聖書の心は忘れられやすい論語読みの論語知らず、という言葉がある。聖書を読んでも実は聖書を知らないことがある。聖書読みの聖書知らず、ということは大いにありえる。ファリサイ派や律法学者はそうだった。最も聖書を知っていたのに、聖書の心を知らず、来るべきメシアを迫害した。現代でも聖書や神学に詳しい者が、キリストが実際においでになると迫害するだろうことはありえる。聖書は心で読まなければならない。聖書の心・聖書の文底は忘れ去られやすい。イエス・キリストの愛の啓示は忘れられやすい。いつの間にか、イエスの神は恐ろしい神だ、というふうに変わってくる。愛の神ではなく正義の神、旧約時代の神となってしまう。神の清さを強調するために、人間の悪を極度に強調したヤンセニズムなどは大変厳しい神観を信者に植え付け、行き過ぎた畏怖の心を起こ...罪があふれるところに、恵みはさらにあふれる

  • キリストの神性

    ヨハネ福音書の有名な出だしに、「初めに言葉があった」というのがある。新約聖書はギリシア語が原語であるが、この出だしを訳すのは難しい。ギリシア語では「初めにロゴスがあった」となる。そしてこのロゴスという言葉は実にいろいろな意味があって「言葉」と訳すだけでは実に物足りない。ギリシア語のロゴスには「理性」「道理」「法」「宇宙を貫く真理」などいろいろな意味がある。当時のヨーロッパ哲学の中では特別な意味合いで用いられていた。聖書にもともとあった「言葉」の概念もあるが、ギリシア哲学、ローマ哲学に見られる有名な「ロゴス」の概念を、キリストを説明するものとして使ったような感じがある。ヨーロッパ世界の人々にはこれでピンと来たに違いない。「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」そしてこの言葉(ロゴス)こそイ...キリストの神性

  • すべての人の救い

    キリストによってさまざまな価値転換が行われた。ユダヤ人よりも異邦人が救われる。大人よりも子供たちのほうが天の国に入る。正しい人ではなく罪人を救うために来た。富んでいる人よりも貧しい人々が幸い。あとの者が先になり、先のものが後になる。旧約聖書の中でユダヤ人は神から選ばれた選民であった。キリストもユダヤ人であり、ユダヤ人の間で宣教したが、ユダヤ人が捨てられ、異邦人が救われるだろうという予言がなされる。といっても、初期のキリスト信者は皆ユダヤ人であったから、捨てられるといっても皆ではないが、ユダヤ人はキリストを死に追いやり、また、その後もユダヤ教の宗教指導者たちがキリスト教を迫害することになる。しかしいずれ、神はユダヤ人たちを顧みてくださる、とパウロは言っている。また大人ではなく、子供のような心を持つ人こそが天の国に...すべての人の救い

  • 信仰によって救われる

    信仰によって救われるか、行いによって救われるか、過去から議論がある。結論から言うと、どちらともだ。イエスは、各自がその行いに応じて報いを受ける、とおっしゃっている。これだと「行い」になる。しかしパウロは「信仰によって救われる」と言う。両方だけれども、イエスへの信仰なしには救われない。そういう意味では「信仰による救い」になる。さて、旧約時代だと、正義の神に対して私たちの行いが重要だった。しかし実際私たちは自分の行いだけでは救いに達することはできない。自分では気がつかなくてもそれほど罪深い。だからキリストが私たちの罪を背負って死んでくださったことにより、救いが可能となった。私たちはこのキリストを信じることにより、罪が許され、神の子とされ、イエスの功徳をまとわせていただける。この意味からするとキリスト教は基本的に他力...信仰によって救われる

  • 完成するために来た

    キリストは「私は廃止するためではなく、完成するために来た」(マタイ5章)とおっしゃった。モーセを通してイスラエルが与えられた律法を廃止するのではなく、完成するために。そしてマタイ5章の山上の垂訓と言われる説教集の中で、具体的に展開される。「あなたがたは殺すなと命じられている。しかし私は言っておく。兄弟に腹を立ててはならない。」殺さないばかりでなく、心の中で殺してはならない、という教えだ。「『姦淫するな』と命じられている。しかし私は言っておく。心の中で人の妻を犯してはならない」殺すな、姦淫するな、という掟に関しては、単に行為を禁じるだけでなく、心の行為をも禁じるいっそう「内的な」掟となった。「『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし私は言っておく。右の頬を打たれたら左の頬をも向けなさい。」復讐ではなく、...完成するために来た

  • 軍備は善、武力放棄は上善

    武力で国を守ることは昔から常識だ。儒教などの道徳家たちも、怠り無く国を守ることを説いてきた。日本のキリスト教が軍備反対、憲法9条の護持を訴えることは当然だと思うが、軍備が悪であると説くべきではないと思う。自国を守るのは常識、そして政治家たちの使命だ。海外ではみなそうやっている。彼らは悪いことをやっているのではなく、国民を守るために考えているのだ。軍備が悪で武力放棄こそ善であると説くと、話し合いがうまくいかないような気がする。軍備は善、しかし武力放棄はさらにその上を行く善だと思う。そう考えるほうが話し合いがもう少しうまくいくような気がする。変な決め付け合いはよくない。悪というのは武力も怠り、積極的無防備をも怠った、怠り・弛緩の状態を言う。原子力爆弾の時代になってから武力放棄に意味が出てきたのではないだろうか。互い...軍備は善、武力放棄は上善

  • 愛国心は大切、しかし

    久しぶりの投稿になる。まだ何とか生きながらえているからもう少しは続けようと思う。愛国心は大切だ。キリスト教徒であると、国を愛してはいけないかのように思う人がいるかもしれないが、それは違う。自分の国を愛すべきだ。自分の国を愛さない人などいない。日本人は特別だ。先の大戦の影響がある。その反省のもとに、愛国心を抑制してきた。愛国心が、結果的にアジアの国々を苦しめる結果となったので、日本は反省しているのだ。第二次世界大戦のあと、愛国心を悪いものであるかのように考えてきた。それは仕方がなかったかもしれない。しかし本来的なことではない。戦後70年、そろそろ時期が来た。愛国心を抑制してきた反動が今の時代だ。愛国心を大切にするのはいい。ネットでもそんなサイトが繁盛している。しかしやはり今の愛国心は反動的だ。行き過ぎている。行き...愛国心は大切、しかし

  • キリスト教以外の救いについて―リンボの役割

    キリスト教以外における救いについて―「リンボ」の意義キリスト教と他宗教の救いを考える中で、争点になるのが「キリスト以外に救いはあるのか」という点だ。キリスト以外に救いはない、とすると、ならば、ザビエル以前の日本人には救いはないことになるが、神は、救われないことを知っていながらそれらの人々を存在させられたのか、そしてその人々を地獄に落としたのか、ということになると、神が全く善なるお方であるという教義とぶつかることになる。そこで、神の全善を信じる人々は当然のことながら、キリストを知ることのできなかった運命にあった人々の救いについて考えることになる。ここが昔から難しいところ。聖書からの帰結は「キリスト以外に救いはない」となる。しかし第2バチカン公会議では「キリスト教外における救いの可能性」を認めることになった。矛盾に...キリスト教以外の救いについて―リンボの役割

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