研修隊員 さん プロフィール

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研修隊員さん: 日本史探検隊
ハンドル名研修隊員 さん
ブログタイトル日本史探検隊
ブログURLhttp://blog.livedoor.jp/nihonshi758/
サイト紹介文日本史について思いつきの探検を繰り返しています。 姫隊長・史乃/古参隊員・歴三
自由文探検結果のご報告もお楽しみに! 研修隊員
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供53回 / 365日(平均1.0回/週) - 参加 2012/06/01 15:08

研修隊員 さんのブログ記事

  • 探検258 幕末の百聞は一見に如かず
  • 「黒船来航」(1853年)・・・歴史を振り返ってみても、これはそれまで外国との本格的な交流を避けてきた日本にとって、まさに衝撃的な出来事でした。 と、現代人は想像します。ところが実際には、その未曽有の「衝撃」を形にするまで、つまり、「政治新体制」が整うまでには15年という長い時間を必要としました。 なぜ?理由はいろいろ考えられますが、時の政府関係者の多くが、この「黒船」の実物を見ていないということも、そ [続きを読む]
  • 探検257 将軍と準皇族の二心殿
  • 江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜(1837-1913年)に付けられた綽名が「二心殿」。それまでの言動をコロリと変えてしまう癖を指している言葉ですから、決して良い意味ではありません。頭脳明晰なため、すぐに先行きを見通すことが出来ることも理由でしょうが、逆に優柔不断だから決断できない、という風に見ていた人も少なくなかったようです。その最たる態度が、旧幕府軍VS官軍・薩摩藩の「鳥羽・伏見の戦い」(1868年)において、兵 [続きを読む]
  • 探検256 カリスマ創業者は神になる
  • 日本の歴史において、「天皇家」を滅ぼそうとしたり、あるいは「天皇の権威」を超えようとした人物は、実はそれほど多くありません。せいぜい「摂政関白」の地位に就き、天皇(家)をコントロールしようとしたり、あるいは天皇の存在を認めたまま、それを越える存在である「神」になろうと目論んだ人間はいましたが、要するに、〜自分が天皇になる〜という発想は、誰一人持ち得ませんでした。同時に〜天皇家を滅ぼす〜という発想も [続きを読む]
  • 探検255 前歴不詳者?が時代を動かした
  • 鎌倉幕府の創立者・源頼朝の異母弟である源義経(1159-1189年)の前半生は必ずしもよく分かっていません。「平治の乱」(1160年)で父・源義朝が敗死した後、義経は鞍馬寺に預けられたものの、僧になることを嫌って家出?したとされています。そして、以後は1174年頃、奥州・藤原氏の元へ身を寄せますが、実はこの間の義経の経歴?については、詳細不明?なのです。時代は異なるものの、織田信長政権下で重役の立場にあった明智光 [続きを読む]
  • 探検254 幕府のパワハラ特権?
  • 中央政府もどきの立場を得た江戸幕府は、それをさらに安定させるため、諸藩に対する「統制」に力を注ぐようになりました。国元と江戸を定期的に往来させる「参勤交代」もそうですし、大名の正室・嫡男を江戸に留め置く、いわゆる「人質政策」もその流れに沿ったものでした。そうした「統制政策」の中でも、諸藩にとって大きな負担になったのが「天下普請」(手伝普請)でした。社会(天下)のインフラ整備の工事とその費用の負担を [続きを読む]
  • 探検253 他人には厳しく自分には甘く
  • 自分自身では、あまり気が付かないことですが、人間は得てして、〜他人には厳しく、自分には甘く〜という形になりやすいものです。例えば、鎌倉幕府の創立者・源頼朝(1147-1199年)にも、そうした傾向は感じられます。宿敵・平家を滅亡(1185年)に追い込んだのは、兄・頼朝が政治、弟・義経(1159-1189年)が軍事を、ともに得意の分野を担当する名コンビが組めたからにほかなりません。ところが、この二人にはその後亀裂が生じま [続きを読む]
  • 探検252 幕末戦国ときどき源平
  • 詳しく承知しているわけではありませんが、個人的なイメージでは、半世紀余り続いているNHK「大河ドラマ」の題材は、今回のタイトルにした通りに「幕末戦国ときどき源平」ほどの印象になっています。逆に言うなら、こうした活発な「戦い」が溢れた時代こそが、長い歴史の中で、〜日本人が「最大公約」的に好む時代〜と言えるのかもしれません。しかし、「平和大好き民族」であるはずの日本人が、一方では「戦乱時代」を好んでいる [続きを読む]
  • 探検251 英傑が好んだ女性像
  • 「三英傑」という言葉があります。もちろん、織田信長(1534-1582年)、豊臣秀吉(1537-1598年)、徳川家康(1543-1616年)の三人を指し、いずれも「戦国時代」に活躍した武将です。この三人は、いろいろな面で「比較」されることも多いのですが、今回は「好みの女性」について取り上げてみます。その違いは、おそらく各人の生い立ちや人生経験から生まれているのでしょうが、意外な?ことに、ここにも三者三様の個性が現れている [続きを読む]
  • 探検250 兵農一致へUターン?
  • 織田信長が採用した、いわゆる「兵農分離」の方法は、群雄割拠の時代、つまり戦さ続きの状況にあった頃には、実に有効に機能しました。農民兼業兵士のように農作業に携わることもなく、一年中戦える「専業兵士」体制を構築できたからです。そころが、江戸時代になって泰平の世が長く続くようになると、こうした「専業兵士」、つまり「武士」の存在を重荷とする藩も多く登場するようになりました。なぜなら、「武士」は「生産活動」 [続きを読む]
  • 探検249 クジ引き将軍の決断
  • 室町幕府第六代将軍・足利義教(1394-1441年)は、別名では「クジ引き将軍」という呼び方もされています。文字通り「クジ引き」によって選ばれた将軍だからです。第五代将軍・足利義量は、将軍とは名ばかりの境遇にあって、その実権は父である(先代第四代将軍であった)足利義持が握っており、義量が急死した後も、その体制は変わりませんでした。今度は、その義持が危篤に陥ります。ところが、なんということか、義持は「後継者 [続きを読む]
  • 探検248 政府の無策を糾弾する
  • ずっと泰平(平和)が続いたと思われがちな「江戸時代」にも、「政府転覆」を狙った、いわゆる「クーデター」もどきの事件がありました。「慶安の変」(慶安4年/1651年)がそれです。藩の数を減らすことは、すなわち「敵国」が減ることと捉えていたこの頃の幕府は諸藩の取り潰しに躍起になっており、そのことによって職を失った武士、すなわち「浪人」は増え続けていました。ところが、そうした状況を、幕府は、〜その分、敵国の [続きを読む]
  • 探検247 その崩御のあとさき
  • 幕末維新のキーマンの一人に「孝明天皇」(1831-1867年)の名を挙げることが出来そうです。なにしろ、その現役中は強く「攘夷」を主張し続け、天下もそれに連動する形で推移していたにも拘わらず、崩御された途端に風向きが180度変わったのですから。要するに、孝明天皇が健在の時期は「鎖国継続」路線、崩御後は、一転今度は「開国」路線が採られるようになったということです。〜なんで、そんな事態急変を迎えることになったのか [続きを読む]
  • 探検246 正史とは官報に過ぎない
  • 「歴史書」の中には、特に「正史」と呼ばれるものがあります。字面を素直に解釈すれば、そこに書かれてある内容こそ「正しい歴史」であるという理解になろうと言うものです。ところが、ちょっと待った!それはどうも”善意の解釈”ということになりそうで、実際には、「国家によって公式に編纂された歴史書」ほどの定義になるそうで、これだと、〜官報に記載された歴史〜ほどの理解になっても、決して不自然とまでは言えない印象に [続きを読む]
  • 探検245 プライドは命よりも大切
  • その昔の「平家滅亡」も、あるいはその後の戦国の世に起きた「豊臣家滅亡」も、その原因を突き詰めてみれば、武士本来の姿から離れた当人たちの「貴族化」にあったように見えます。「貴族化」という言葉が適切でないなら、「猛々しさの欠如」といってもいいでしょう。平清盛(1118-1181年)は、明らかに、貴族に対する血筋のコンプレックスを抱えていたために、「貴族になりたい症候群」?を患っていましたし、後の時代の豊臣秀頼 [続きを読む]
  • 探検244 ”中国人倭寇”暴れる
  • 「倭寇(わこう)」とは、何世紀も前に存在した「日本人の海賊」?ほどに受け止めるのが、まあ普通でしょう。ですから、今回のタイトルにある”中国人倭寇”は、ちょっと見た目には、矛盾した言葉のように感じられます。ところが、ややこしいお話ですが、なにせ「偽倭(ぎわ)」という言葉もあるくらいですから、その意味では、決して矛盾していないのです。では、その「偽倭」ってなにさ?字面の通りに、「偽の日本人」を意味して [続きを読む]
  • 探検243 主は融通性を嫌われた
  • キリスト教宣教師などは、すでに戦国時代の頃には日本へも来ています。1549年のザビエル(1506-1552年)を始めとして、1563年のフロイス(1532-1598年)などがそうですが、彼らは「一神懸命」?に布教に努めました。そして、「キリシタン大名」などという存在が誕生したことを思えば、確かに一定の成果は見られました。しかし、実際には「そこまで」は到達できたものの、宣教師たちが目論んだレベルまで拡がることはありませんでし [続きを読む]
  • 探検242 日本最初の肖像写真
  • 日本に「写真」が広まったのは、やはり「黒船来航」(1853年)より以降のことと考えるのが自然でしょう。それまでは、いわゆる「鎖国」の状態にあって、西欧の新しい文化や技術などに触れる機会に恵まれていなかったからです。では、最初に、こうした「写真」の被写体として納まった日本人は誰か?厳密にいうなら、その特定は困難です。「鎖国」中には、漁師などが心ならずも漂流民?になってしまうこともあり、その中には異国の地 [続きを読む]
  • 探検241 素早い国産化と遅かった製品改良
  • 遥かヨーロッパからこの日本に「鉄砲」が伝わったのは、1542年とも1543年とも言われています。 伝えた側としても、そこには幾分の優越感があったと思われます。なにせ、当時の最新ハイテク兵器ですから、〜どうだ?東洋の端の孤島に住む人間には真似はできめぇ!〜こんな気持ちがあったと想像されるところです。ところが、その思い込みは見事に外れました。鉄砲が伝わった種子島の島主・種子島時堯がそのうち2挺を購入し、刀鍛冶 [続きを読む]
  • 探検240 主君を見下した西郷ドン
  • 主君・島津斉彬(1809-1858年)を心から尊敬していた西郷隆盛(1828-1877年)でしたが、斉彬死後、藩を背負うことになった斉彬弟・久光には、同様の思いを抱けなかったようです。斉彬と比べた場合、西郷ドンの目には、いかにも小粒の人間に見えたということです。また、西郷ドンのそうした心根を感じ取った久光は久光で、これまた西郷ドンを好きにはなれなかったようで、結構冷たい対応を繰り返しました。「流罪(島流し)」の身と [続きを読む]
  • 探検239 誰がために金は生る?
  • 室町幕府第八代将軍・足利義政(1436-1490年)の正室が日野富子(1440-1496年)です。そして、義政については「ダメ将軍」、また富子はいわゆる「守銭奴」といったところが、一般的な評価になっています。京の入口「七口」にはすべて「関所」を設置しその「関銭」を徴収することによって巨万の富を得ながら、夫・義政が「東山山荘」造営のための資金捻出に苦労しているのを横目に、「ビタの一文」も協力しなかったことなどが、富子 [続きを読む]
  • 探検238 人質を取るのは本当に難儀や!
  • 天下人・豊臣秀吉(1537-1598年)亡き後、忠臣として名高い石田三成(1560-1600年)は、宿敵・徳川家康(1543-1616年)との決戦は避けられないと判断するや、諸大名を味方に付けるべく、「人質」を取ることにしました。手をこまねいていたのでは、味方につく大名が少ないと判断したのでしょう。こうすることで、諸大名の「心変わり」?「裏切り」?を未然に防ぐことができると考えたわけです。ところが実は、この実行にはいくつか [続きを読む]
  • 探検237 ツッパリこそ軍事政権の命
  • 現代日本人が「軍事政権」と聞いて、すぐさま思い浮かべるのは現在の「北朝鮮」の姿でしょう。ミサイル・原爆・拉致などの諸問題を初め、国際世論を無視して「我が道を行く」スタイルを貫いています。ではなぜ、国際世論に背を向けるのか?最近では、トップ個人の資質・体質に目を向ける向きもありますが、基本的には、むしろ「軍事政権」そのものが、元々そうした傾向を包含しているところにあると思われます。周囲の動静に気を配 [続きを読む]
  • 探検236 聖徳太子と救世観音
  • 浄土真宗の宗祖・親鸞(1173-1263年)には「六角夢告」というエピソードが残されています。 要約すれば、こんな按配です。〜信仰に迷いを感じていた親鸞は比叡山を下り、イの一番に、  京都の「六角堂」で百日参籠に挑戦。 その95日目の事、  夢の中に聖徳太子(救世観音の化身)が現れたことにより、  迷いを吹っ切ることができた〜「女犯偈」と言われるものですが、要するに、これまでタブーとされていた、僧が女性と交わる [続きを読む]
  • 探検235 敗者は栄光を手にする
  • 勝負に負けた者が勝ったものより高い人気を持つことは、日本史の中ではそれほど珍しいことでもありません。早い話が、源義経(1159-1189年)が敗者の立場に立ったことから「判官贔屓」という言葉が生まれています。一口で言うなら、〜同情や哀惜の心情〜ほどの意味になりますが、普通はどちらも「勝利」を目指して、相対峙するのですから、本来はその「勝者」こそ称えられるべき存在のはずです。ところが、日本では必ずしもそうは [続きを読む]
  • 探検234 平等意識は非平等意識から?
  • 〜国民は皆平等である〜現代では至極「当たり前」のこととして受け止められている概念ですが、しかし、21世紀の現在でも「独裁」、すなわち「国民は平等でない」という社会を維持している国家も残っています。「残っている」をいう表現になるのは、かつての日本もそうした国家だったからです。一番分かりやすいのが、その扱いが厳格だったかどうかは別として、一応は「士農工商」という「身分」を認めていたことです。こうした社会 [続きを読む]