研修隊員 さん プロフィール

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研修隊員さん: 日本史探検隊
ハンドル名研修隊員 さん
ブログタイトル日本史探検隊
ブログURLhttp://blog.livedoor.jp/nihonshi758/
サイト紹介文日本史について思いつきの探検を繰り返しています。 姫隊長・史乃/古参隊員・歴三
自由文探検結果のご報告もお楽しみに! 研修隊員
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供53回 / 365日(平均1.0回/週) - 参加 2012/06/01 15:08

研修隊員 さんのブログ記事

  • 探検284 負け戦の後には引きこもり
  • 日本の歴史には一つのパターンがありそうです。それは、対外戦争を仕掛けその結果に「敗戦」という現実をみると、往々にして対外政策に消極的になり「鎖国」もどきの、別の言葉に変えれば、「引きこもり」状態になることです。古くは、倭国・百済と唐・新羅の各連合軍の間で起きた「白村江の戦い」(663年)の後もそうでしたし、さらには、鎌倉時代の二度の「元寇」(1274/1281年)の後の状況にもそういった状況が見てとれます。 [続きを読む]
  • 探検283 20世紀人類の壮大実験
  • 日本に限らず世界でも、人間の営みというものには後世から振り返ると不思議とも言いたくなる出来事も混在しています。 まあ、諸欲に溢れた人類にとって避けて通れない道筋で、これを人類が挑んだ果敢な「実験」だったと言ってしまえばそれまでですが、後世からすればなんとも「徒労」だったと見えてしまう出来事もありました。それどころか、一部の人間が選択したその「20世紀人類の壮大実験」によってとんでもない数の人間が影響 [続きを読む]
  • 探検282 日本の亡命政権
  • 世界においては、治安の安定しない国・地域では、いわゆる「亡命政権」が立てられることが珍しくありません。チベットでは、国外ではあるものの、民族的指導者であるダライラマ14世(1935年--)が、こうした「亡命政権」(通称:チベット亡命政府)を立てることで、中国側が立てた「傀儡政権」と対峙を続けています。とはいうものの、巨大国・中国の圧政に敵うものではなく、現在の日本のマスコミの扱いが極めて小さいのもまた事実 [続きを読む]
  • 探検281 坂本龍馬のピストール
  • 幕末に大いなる活動をみせた土佐・坂本龍馬(1836-1867年)は、護身用の「ピストール(拳銃)」を常に携帯していたとされています。もっともこれは、長州・ 高杉晋作(1839-1867年)が藩命により清国に渡った際(1862年)の御土産の品だとされていることからすれば、龍馬の「常時携帯」はそれ以降のことになるわけです。そして、この「ピストール」は「(第二次)寺田屋事件」、つまり、奉行所によるいわゆる「坂本龍馬襲撃事件」 [続きを読む]
  • 探検280 昔もあった”超法規的措置”
  • 殿中刃傷から吉良邸討ち入りにいたる、いわゆる「(元禄)赤穂事件」(1701-1703年)はまことに不可解な経緯を辿っています。殿中においては、腰の物の鯉口を切っただけでも大きな法律違反(犯罪)を犯したことになるのにもかかわらず、事件のきっかけを作った浅野内匠頭(1667-1701年)に至っては、それどころか抜刀にまで及び、吉良上野介(1641-1703年)に斬りかかったのですから、武士たる者の常識を飛び越えた行いであり、こ [続きを読む]
  • 探検279 本地垂迹説って何のこと?
  • 「本地垂迹」説って何のこと?第一、その字面そのものが難しく、まともに読めるものではありませんが、「ほんじすいじゃく」と読むのだそうです。では、その意味は? こんな説明になっています。「本地」とは・・・平たく言えば「正体」「本身」ほどの意味で、「垂迹」とは・・・同じく平たく「神サマ仏サマが登場する」ことを言う。ですから、素直に解釈すれば、「神サマ仏サマが現れたゾイ」ほどのニュアンスになるのでしょうか [続きを読む]
  • 探検278 烏帽子は帽子ですか?
  • 昔と今とでは礼節に基づく作法が逆転しているケースがあります。たとえば「帽子」もその一つで、改まった席などでは昔は「帽子」の着用が礼儀とされました。ところが現代は、そうした席での「着帽」は失礼なこととされています。 う〜ん、何とも見事な逆転です。もっとも、昔の帽子とは野球帽のようなキャップでもなく、また紳士帽のようなハットでもなく、「烏帽子」のことですが。では「烏帽子」と「帽子」はどう違うのか? − [続きを読む]
  • 探検277 政教分離の無理難題
  • 現代の日本国においては、政治と宗教とは別物であり、それはしっかり分けて扱わなくてはならないもの、とされています。それを表したのが、いわゆる「政教分離」という言葉です。しかし、歴史的にみれば「政教一致」の方があるべき姿なのかもしれません。なぜなら、「治世」というか「政治」というか、これを古い言葉で表すなら、確かに「まつりごと」になりますが、同時にこの言葉には「政り事」、「祀り事」、はたまた「祭り事」 [続きを読む]
  • 探検276 長州藩はイスラム国だった?
  • 「長州の志士」・・・幕末維新の頃のこれらの人々を、現代一般的にはそう呼び、割合肯定的な評価をもって捉えていますが、彼らを著書の中で「長州テロリスト」と呼んでいる人もいます。その人によれば、彼らの思想・行動の全てが「まず暗殺ありき」から始まっているとのことで、こう言われちゃうと、昨今のいわゆる「イスラム国(IS)をイヤでも連想してしまうところです。要するに、幕末志士の正体とは、「イスラム教過激集団」な [続きを読む]
  • 探検275 胡麻の油と百姓は
  • 〜胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり〜情け容赦なく「年貢」を取り立てようとする、こんなセリフを吐いたのは、八代将軍・吉宗が「享保の改革」(1716年〜)に取り組んでいた頃の勘定奉行「神尾 春央」(1687-1753年)だったといわれています。ただし、これが事実だったとまでは断定できません。しかし、少なくともこれよりおよそ半世紀後に出された本には、そう書かれているとのことであり、そしてまた、幕府の財政事情 [続きを読む]
  • 探検274 報いを待てや羽柴筑前
  • 「本能寺の変」(1582年)で織田信長が倒れた後、家臣だった羽柴秀吉(1537-1598年)は、織田家の「乗っ取り」を目論みました。信長の後嗣である長男・信忠はこの「変」に巻き込まれる形で亡くなったとはいうものの、次男・信雄も三男・信孝も健在でしたから、それを実現するには知恵を働かせる必要がありました。さりとて、強引過ぎても周囲からは非難が出ますし、逆にゆっくりしすぎたのでは、そのチャンス自体を失うことになり [続きを読む]
  • 探検273 幕末の良薬口に苦し
  • 「頭に血が上る」という言葉があります。別の言葉なら、逆上する・キレる・血迷う・見境がなくなる、という意味のことです。振り返ってみると、幕末にはこうした雰囲気が充満していました。その中でも、長州藩や薩摩藩は「ブチ切れて」しまったがために、外国との戦争という、とんでもない局面まで経験しています。〜それは、あまりに無謀なことだ〜確かに周りにもこうした意見はあったのですから、これを「良薬」として、耳を傾け [続きを読む]
  • 探検272 進歩発展は邪悪な思想
  • 「江戸時代」というものを眺めてみると、自然とこんな疑問を抱いてしまいます。〜この時代の日本人は、社会の進歩発展、あるいは経済的な  好景気を「邪悪」なものとして受け止めていたのでは?〜なぜなら、たとえば技術面では、武器にせよ、その性能向上を目指して改良を加える努力は払わなかったように見えますし、あるいは経済面でいうなら、「好景気」をヒステリックに嫌い、目一杯の舵を切って「不景気」に向けていたように [続きを読む]
  • 探検271 傍迷惑だった家康の健康長寿
  • 徳川家康(1543-1616年)享年75。 人間(寿命)五十年と言われた時代ですから、現代に換算?すれば、まあ「百歳超え」の感覚です。このことは家康本人及び徳川家にすれば「長寿」であり、大変にめでたいことだったでしょうが、同時代に敵として生きた一部の人間にとっては、とっても迷惑なことでした。なぜなら、その人たちの「将来計画」の大部分は、家康の長寿によって、「見直し」を迫られたからです。このことは、たとえば家 [続きを読む]
  • 探検270 弘法大師は見てござる
  • 宗祖・空海(弘法大師/774-835年)が開創した真言密教の聖地に当たる寺院。 それが高野山真言宗総本山・金剛峯寺※1です。 また名古屋には、「尾張高野」とも称されるグループ寺院?八事山・興正寺※2・3があります。ところが漏れ聞くところによれば、つい最近のこと、この両寺の間には”対立”が生じていたそうです。しかもそれは教義解釈の論争という高尚?なものではなく、まっこと下世話な出来事を巡ってのお話だったという [続きを読む]
  • 探検269 平和の代償は士農工商
  • 百姓身分から天下人にまで成り上がった豊臣秀吉という分かりやすい実例がある通り、いわゆる「戦国時代」とは、自らの手柄・働きによっては思い切りの立身出世ができた時代でした。目の前に実例があるのですから、こんな思いを抱く人も少なくはなかったでしょう。〜チャンス次第で、オレだって一国一城の主だッ!〜しかし、徳川家康(1543-1616年)が天下を掌握するに及んで、その「チャンス」そのものが無くなってしまいました。 [続きを読む]
  • 探検268 参勤交代は藩主の留学?
  • 「参勤交代」は、もともとは将軍に対する諸大名の服属儀礼として始まったものですが、江戸幕府は諸大名に出費を強いて勢力を削ぐことを目的として、一年おきに江戸と自領を行き来させる形をとりました。もっと直截な言い方をするなら、諸大名に散財させ貧乏にすることで、謀反などを抑える効果を狙ったものです。そして、並行する形で正室と世継ぎの江戸住まいを義務付けて人質をとることもしました。こうした、「参勤交代」や「大 [続きを読む]
  • 探検267 政治家に頼むは愚の骨頂
  • 宗祖・親鸞(1173-1263年)から営々と引き継がれてきた浄土真宗「本願寺」は、戦国時代のいわゆる「三英傑」と大きな関りを持ちました。第11世法主・顕如(1543-1592年)は、織田信長(1534-1582年)との間に11年にも渡る戦争を繰り広げましたし、その次男である准如(1577-1631年)は、時の天下人・豊臣秀吉(1537-1598年)の後援を得ることで第12世法主に収まり、さらには本願寺本拠を大坂から京へ移すこともできました。ところ [続きを読む]
  • 探検266 戦国の三バカ大将
  • 日本の戦国時代には、たとえば武田信玄(1521-1573年)、上杉謙信(1530-1578年)など、「名将」と称えられる数多の人物が登場しています。だったら逆に「凡将」、いやそれどころか「バカ殿」との評価を頂いた人物もいたはずで、大変失礼ながら、私・歴三の場合なら、○今川氏真(1538-1615年/義元の嫡男)○毛利輝元(1553-1625年/元就の嫡孫)○織田信雄(1558-1630年/信長の次男)を「戦国の三バカ大将」として挙げたいとこ [続きを読む]
  • 探検265 海外遠征は失敗する
  • 「外国」との戦争・・・日本史上には何度かこうした事態に突入した事実があります。 たとえば、ずっと昔のできごとなら、天智天皇による「白村江の戦い」(663年)がそうですし、戦国の世ならば豊臣秀吉による、いわゆる「唐入り」と言われる「文禄の役」(1591-1593年)と、続く「慶長の役」(1597-1598年)もそのパターンです。また、昭和時代に入ってからの「日中戦争」(1937-1945年)も、それと重なる時期の対米「太平洋戦争 [続きを読む]
  • 探検264 好景気は悪の巣窟?
  • 学校で教えてもらった「江戸幕府の三大改革」ってこんな具合。○将軍・徳川吉宗による「享保の改革」(1716-1745年)○老中・松平定信による「寛政の改革」(1789-1793年)○老中・水野忠邦による「天保の改革」(1841-1843年)でも、よくよく眺めてみると、これって本当に「改革」なの?少し乱暴な言い方かもしれないけど、どれもが折角の「好景気」を、「不景気」に転換させようと努力したわけでしょう?、それを「改革」と呼ん [続きを読む]
  • 探検263 日本民族”和の精神”と”唯我独尊”
  • 日本人は、聖徳太子の説く「和の精神」を、昔の昔から大切なものとして生きてきた民族です。しかしながら、長い歴史の中にはそれを踏みにじるが如き、言葉を変えれば、「和の精神」をものともしない日本人離れ?した生き様を見せた人物も、少なからず登場しています。おそらくは、これらの人が生きている間は、「浮いた人間」、もう少し露骨な表現を用いるなら、「嫌われ者」だったことでしょう。なぜなら、こうした「唯我独尊」系 [続きを読む]
  • 探検262 窮屈で短かった秀頼の人生
  • 天下人・豊臣秀吉(1537-1598年)亡き後、次の天下を狙う徳川家康(1543-1616年)と、実質的な対立構図を迎えたのが、秀吉57歳の折に誕生した豊臣秀頼(1593-1615年/享年23)です。豊臣家にとっては大事な後継者ですから、いわば「お坊ちゃま」として、母・淀殿の手元で育てられました。さらに、「関ヶ原の戦い」(1600年)の折りも、豊臣方の総帥でありながら、総大将である毛利輝元の庇護下に置かれ、大坂城を出て戦うことはあ [続きを読む]
  • 探検261 人間か地球か?単位の基準
  • 土地の広さを表す単位「坪」(1坪=畳2枚分の広さ)は、サブ的な扱いとはいえ、日本では現在でも使われています。では、この「単位」は元々何が基準になったものか?実は、日本人一人が一年に平均消費する「米の量=1石」がとれる田んぼの広さ「1反」を基準にしたもので、これが昔は「360坪」でした。1年≒360日ですから、逆に言えば、日本人一人が一日に消費する「米の量」を取れる田んぼの面積が、すなわち「1坪」ということにな [続きを読む]
  • 探検260 足利義満と上皇待遇
  • 室町幕府第三代将軍・足利義満(1358-1408年)の死後、朝廷が「鹿苑院太政法王」なる称号を贈っています。この院号「鹿苑院」というのは、おそらく義満の象徴ともいえる「鹿苑寺」(金閣寺)から取ったものでしょうから、分からないでもありません。しかし、下の「太政法王」とは一体何のことだ?武家出身の義満ですから、当然「天皇」になったこともなく、ましてや、天皇引退後の「法王」に収まった経験もありません。なのに、そ [続きを読む]