研修隊員 さん プロフィール

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研修隊員さん: 日本史探検隊
ハンドル名研修隊員 さん
ブログタイトル日本史探検隊
ブログURLhttp://blog.livedoor.jp/nihonshi758/
サイト紹介文日本史について思いつきの探検を繰り返しています。 姫隊長・史乃/古参隊員・歴三
自由文探検結果のご報告もお楽しみに! 研修隊員
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供53回 / 365日(平均1.0回/週) - 参加 2012/06/01 15:08

研修隊員 さんのブログ記事

  • 探検271 傍迷惑だった家康の健康長寿
  • 徳川家康(1543-1616年)享年75。 人間(寿命)五十年と言われた時代ですから、現代に換算?すれば、まあ「百歳超え」の感覚です。このことは家康本人及び徳川家にすれば「長寿」であり、大変にめでたいことだったでしょうが、同時代に敵として生きた一部の人間にとっては、とっても迷惑なことでした。なぜなら、その人たちの「将来計画」の大部分は、家康の長寿によって、「見直し」を迫られたからです。このことは、たとえば家 [続きを読む]
  • 探検270 弘法大師は見てござる
  • 宗祖・空海(弘法大師/774-835年)が開創した真言密教の聖地に当たる寺院。 それが高野山真言宗総本山・金剛峯寺※1です。 また名古屋には、「尾張高野」とも称されるグループ寺院?八事山・興正寺※2・3があります。ところが漏れ聞くところによれば、つい最近のこと、この両寺の間には”対立”が生じていたそうです。しかもそれは教義解釈の論争という高尚?なものではなく、まっこと下世話な出来事を巡ってのお話だったという [続きを読む]
  • 探検269 平和の代償は士農工商
  • 百姓身分から天下人にまで成り上がった豊臣秀吉という分かりやすい実例がある通り、いわゆる「戦国時代」とは、自らの手柄・働きによっては思い切りの立身出世ができた時代でした。目の前に実例があるのですから、こんな思いを抱く人も少なくはなかったでしょう。〜チャンス次第で、オレだって一国一城の主だッ!〜しかし、徳川家康(1543-1616年)が天下を掌握するに及んで、その「チャンス」そのものが無くなってしまいました。 [続きを読む]
  • 探検268 参勤交代は藩主の留学?
  • 「参勤交代」は、もともとは将軍に対する諸大名の服属儀礼として始まったものですが、江戸幕府は諸大名に出費を強いて勢力を削ぐことを目的として、一年おきに江戸と自領を行き来させる形をとりました。もっと直截な言い方をするなら、諸大名に散財させ貧乏にすることで、謀反などを抑える効果を狙ったものです。そして、並行する形で正室と世継ぎの江戸住まいを義務付けて人質をとることもしました。こうした、「参勤交代」や「大 [続きを読む]
  • 探検267 政治家に頼むは愚の骨頂
  • 宗祖・親鸞(1173-1263年)から営々と引き継がれてきた浄土真宗「本願寺」は、戦国時代のいわゆる「三英傑」と大きな関りを持ちました。第11世法主・顕如(1543-1592年)は、織田信長(1534-1582年)との間に11年にも渡る戦争を繰り広げましたし、その次男である准如(1577-1631年)は、時の天下人・豊臣秀吉(1537-1598年)の後援を得ることで第12世法主に収まり、さらには本願寺本拠を大坂から京へ移すこともできました。ところ [続きを読む]
  • 探検266 戦国の三バカ大将
  • 日本の戦国時代には、たとえば武田信玄(1521-1573年)、上杉謙信(1530-1578年)など、「名将」と称えられる数多の人物が登場しています。だったら逆に「凡将」、いやそれどころか「バカ殿」との評価を頂いた人物もいたはずで、大変失礼ながら、私・歴三の場合なら、○今川氏真(1538-1615年/義元の嫡男)○毛利輝元(1553-1625年/元就の嫡孫)○織田信雄(1558-1630年/信長の次男)を「戦国の三バカ大将」として挙げたいとこ [続きを読む]
  • 探検265 海外遠征は失敗する
  • 「外国」との戦争・・・日本史上には何度かこうした事態に突入した事実があります。 たとえば、ずっと昔のできごとなら、天智天皇による「白村江の戦い」(663年)がそうですし、戦国の世ならば豊臣秀吉による、いわゆる「唐入り」と言われる「文禄の役」(1591-1593年)と、続く「慶長の役」(1597-1598年)もそのパターンです。また、昭和時代に入ってからの「日中戦争」(1937-1945年)も、それと重なる時期の対米「太平洋戦争 [続きを読む]
  • 探検264 好景気は悪の巣窟?
  • 学校で教えてもらった「江戸幕府の三大改革」ってこんな具合。○将軍・徳川吉宗による「享保の改革」(1716-1745年)○老中・松平定信による「寛政の改革」(1789-1793年)○老中・水野忠邦による「天保の改革」(1841-1843年)でも、よくよく眺めてみると、これって本当に「改革」なの?少し乱暴な言い方かもしれないけど、どれもが折角の「好景気」を、「不景気」に転換させようと努力したわけでしょう?、それを「改革」と呼ん [続きを読む]
  • 探検263 日本民族”和の精神”と”唯我独尊”
  • 日本人は、聖徳太子の説く「和の精神」を、昔の昔から大切なものとして生きてきた民族です。しかしながら、長い歴史の中にはそれを踏みにじるが如き、言葉を変えれば、「和の精神」をものともしない日本人離れ?した生き様を見せた人物も、少なからず登場しています。おそらくは、これらの人が生きている間は、「浮いた人間」、もう少し露骨な表現を用いるなら、「嫌われ者」だったことでしょう。なぜなら、こうした「唯我独尊」系 [続きを読む]
  • 探検262 窮屈で短かった秀頼の人生
  • 天下人・豊臣秀吉(1537-1598年)亡き後、次の天下を狙う徳川家康(1543-1616年)と、実質的な対立構図を迎えたのが、秀吉57歳の折に誕生した豊臣秀頼(1593-1615年/享年23)です。豊臣家にとっては大事な後継者ですから、いわば「お坊ちゃま」として、母・淀殿の手元で育てられました。さらに、「関ヶ原の戦い」(1600年)の折りも、豊臣方の総帥でありながら、総大将である毛利輝元の庇護下に置かれ、大坂城を出て戦うことはあ [続きを読む]
  • 探検261 人間か地球か?単位の基準
  • 土地の広さを表す単位「坪」(1坪=畳2枚分の広さ)は、サブ的な扱いとはいえ、日本では現在でも使われています。では、この「単位」は元々何が基準になったものか?実は、日本人一人が一年に平均消費する「米の量=1石」がとれる田んぼの広さ「1反」を基準にしたもので、これが昔は「360坪」でした。1年≒360日ですから、逆に言えば、日本人一人が一日に消費する「米の量」を取れる田んぼの面積が、すなわち「1坪」ということにな [続きを読む]
  • 探検260 足利義満と上皇待遇
  • 室町幕府第三代将軍・足利義満(1358-1408年)の死後、朝廷が「鹿苑院太政法王」なる称号を贈っています。この院号「鹿苑院」というのは、おそらく義満の象徴ともいえる「鹿苑寺」(金閣寺)から取ったものでしょうから、分からないでもありません。しかし、下の「太政法王」とは一体何のことだ?武家出身の義満ですから、当然「天皇」になったこともなく、ましてや、天皇引退後の「法王」に収まった経験もありません。なのに、そ [続きを読む]
  • 探検259 四民平等と兵役義務
  • いわゆる「明治維新」(1867年)により、政治新体制が構築されました。 江戸幕府が消滅し、「明治新政府」が成ったわけです。それに伴って、幕府時代の身分「士農工商」も改められ、「四民平等」の国民制度が出現しました。しかし、このことによって、それまでは「武士」の専業とされてきた「戦争」にも、今度はその新しい「国民」も参加する必要が出てきました。 そもそも「武士」階級がなくなってしまったのですから、これはあ [続きを読む]
  • 探検258 幕末の百聞は一見に如かず
  • 「黒船来航」(1853年)・・・歴史を振り返ってみても、これはそれまで外国との本格的な交流を避けてきた日本にとって、まさに衝撃的な出来事でした。 と、現代人は想像します。ところが実際には、その未曽有の「衝撃」を形にするまで、つまり、「政治新体制」が整うまでには15年という長い時間を必要としました。 なぜ?理由はいろいろ考えられますが、時の政府関係者の多くが、この「黒船」の実物を見ていないということも、そ [続きを読む]
  • 探検257 将軍と準皇族の二心殿
  • 江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜(1837-1913年)に付けられた綽名が「二心殿」。それまでの言動をコロリと変えてしまう癖を指している言葉ですから、決して良い意味ではありません。頭脳明晰なため、すぐに先行きを見通すことが出来ることも理由でしょうが、逆に優柔不断だから決断できない、という風に見ていた人も少なくなかったようです。その最たる態度が、旧幕府軍VS官軍・薩摩藩の「鳥羽・伏見の戦い」(1868年)において、兵 [続きを読む]
  • 探検256 カリスマ創業者は神になる
  • 日本の歴史において、「天皇家」を滅ぼそうとしたり、あるいは「天皇の権威」を超えようとした人物は、実はそれほど多くありません。せいぜい「摂政関白」の地位に就き、天皇(家)をコントロールしようとしたり、あるいは天皇の存在を認めたまま、それを越える存在である「神」になろうと目論んだ人間はいましたが、要するに、〜自分が天皇になる〜という発想は、誰一人持ち得ませんでした。同時に〜天皇家を滅ぼす〜という発想も [続きを読む]
  • 探検255 前歴不詳者?が時代を動かした
  • 鎌倉幕府の創立者・源頼朝の異母弟である源義経(1159-1189年)の前半生は必ずしもよく分かっていません。「平治の乱」(1160年)で父・源義朝が敗死した後、義経は鞍馬寺に預けられたものの、僧になることを嫌って家出?したとされています。そして、以後は1174年頃、奥州・藤原氏の元へ身を寄せますが、実はこの間の義経の経歴?については、詳細不明?なのです。時代は異なるものの、織田信長政権下で重役の立場にあった明智光 [続きを読む]
  • 探検254 幕府のパワハラ特権?
  • 中央政府もどきの立場を得た江戸幕府は、それをさらに安定させるため、諸藩に対する「統制」に力を注ぐようになりました。国元と江戸を定期的に往来させる「参勤交代」もそうですし、大名の正室・嫡男を江戸に留め置く、いわゆる「人質政策」もその流れに沿ったものでした。そうした「統制政策」の中でも、諸藩にとって大きな負担になったのが「天下普請」(手伝普請)でした。社会(天下)のインフラ整備の工事とその費用の負担を [続きを読む]
  • 探検253 他人には厳しく自分には甘く
  • 自分自身では、あまり気が付かないことですが、人間は得てして、〜他人には厳しく、自分には甘く〜という形になりやすいものです。例えば、鎌倉幕府の創立者・源頼朝(1147-1199年)にも、そうした傾向は感じられます。宿敵・平家を滅亡(1185年)に追い込んだのは、兄・頼朝が政治、弟・義経(1159-1189年)が軍事を、ともに得意の分野を担当する名コンビが組めたからにほかなりません。ところが、この二人にはその後亀裂が生じま [続きを読む]
  • 探検252 幕末戦国ときどき源平
  • 詳しく承知しているわけではありませんが、個人的なイメージでは、半世紀余り続いているNHK「大河ドラマ」の題材は、今回のタイトルにした通りに「幕末戦国ときどき源平」ほどの印象になっています。逆に言うなら、こうした活発な「戦い」が溢れた時代こそが、長い歴史の中で、〜日本人が「最大公約」的に好む時代〜と言えるのかもしれません。しかし、「平和大好き民族」であるはずの日本人が、一方では「戦乱時代」を好んでいる [続きを読む]
  • 探検251 英傑が好んだ女性像
  • 「三英傑」という言葉があります。もちろん、織田信長(1534-1582年)、豊臣秀吉(1537-1598年)、徳川家康(1543-1616年)の三人を指し、いずれも「戦国時代」に活躍した武将です。この三人は、いろいろな面で「比較」されることも多いのですが、今回は「好みの女性」について取り上げてみます。その違いは、おそらく各人の生い立ちや人生経験から生まれているのでしょうが、意外な?ことに、ここにも三者三様の個性が現れている [続きを読む]
  • 探検250 兵農一致へUターン?
  • 織田信長が採用した、いわゆる「兵農分離」の方法は、群雄割拠の時代、つまり戦さ続きの状況にあった頃には、実に有効に機能しました。農民兼業兵士のように農作業に携わることもなく、一年中戦える「専業兵士」体制を構築できたからです。そころが、江戸時代になって泰平の世が長く続くようになると、こうした「専業兵士」、つまり「武士」の存在を重荷とする藩も多く登場するようになりました。なぜなら、「武士」は「生産活動」 [続きを読む]
  • 探検249 クジ引き将軍の決断
  • 室町幕府第六代将軍・足利義教(1394-1441年)は、別名では「クジ引き将軍」という呼び方もされています。文字通り「クジ引き」によって選ばれた将軍だからです。第五代将軍・足利義量は、将軍とは名ばかりの境遇にあって、その実権は父である(先代第四代将軍であった)足利義持が握っており、義量が急死した後も、その体制は変わりませんでした。今度は、その義持が危篤に陥ります。ところが、なんということか、義持は「後継者 [続きを読む]
  • 探検248 政府の無策を糾弾する
  • ずっと泰平(平和)が続いたと思われがちな「江戸時代」にも、「政府転覆」を狙った、いわゆる「クーデター」もどきの事件がありました。「慶安の変」(慶安4年/1651年)がそれです。藩の数を減らすことは、すなわち「敵国」が減ることと捉えていたこの頃の幕府は諸藩の取り潰しに躍起になっており、そのことによって職を失った武士、すなわち「浪人」は増え続けていました。ところが、そうした状況を、幕府は、〜その分、敵国の [続きを読む]
  • 探検247 その崩御のあとさき
  • 幕末維新のキーマンの一人に「孝明天皇」(1831-1867年)の名を挙げることが出来そうです。なにしろ、その現役中は強く「攘夷」を主張し続け、天下もそれに連動する形で推移していたにも拘わらず、崩御された途端に風向きが180度変わったのですから。要するに、孝明天皇が健在の時期は「鎖国継続」路線、崩御後は、一転今度は「開国」路線が採られるようになったということです。〜なんで、そんな事態急変を迎えることになったのか [続きを読む]