黒田裕樹 さん プロフィール

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黒田裕樹さん: 黒田裕樹の歴史講座
ハンドル名黒田裕樹 さん
ブログタイトル黒田裕樹の歴史講座
ブログURLhttp://rocky96.blog10.fc2.com/
サイト紹介文受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供390回 / 365日(平均7.5回/週) - 参加 2012/08/07 01:21

黒田裕樹 さんのブログ記事

  • 行政機関の整備 その1
  • さて、ここまで「自由民権運動の真実」について詳しく紹介しましたが、せっかくの機会ですので、大日本帝国憲法(=明治憲法)発布までの行政機関の整備や、初期の帝国議会の動きなども取り上げたいと思います。明治14(1881)年に公布した国会開設の勅諭によって、明治23(1890)年に国会を開くと天皇の名で国民に約束した以上、政府は国会開設に向けて絶対に遅れが許されないという厳しい環境にその身を置くことになりました。国 [続きを読む]
  • 自由民権運動に関する政府の条例の覚え方 その2
  • その後、自由民権運動の拡大によって多くの国民が憲法制定や議会政治に関心を持つようになりました。知識を高めた国民の中からは「実際に集会に行って話を聞いてみたい」と考える人々も決して少なくありませんが、そう思って出掛けた集会で民権派が反政府的な活動をすればどうなるでしょうか。もちろん政府は取り締まろうとしますよね。集会での反体制運動への対応ですから、条例の名称は「集会条例」になります。やがて自由民権運 [続きを読む]
  • 第61回「黒田裕樹の歴史講座」東京講演の報告と大阪講演のお知らせ
  • 7月16日に行いました第61回黒田裕樹の歴史講座「日本外交史 その弐」(東京講演)には、13名の皆様がお越しくださいました。遣唐使から元寇までをまとめた今回の講演ですが、11世紀に起きた「刀伊の入寇」に関しては詳しく知らない人も多く、この事件の流れが現代における「ある主義」にも色濃く反映されていることに驚きの声があがっていました。次回(7月22日)は大阪講演を行います。多数の皆様にお越しいただけることを心より [続きを読む]
  • 自由民権運動に関する政府の条例の覚え方 その1
  • さて、自由民権運動において政府は様々な条例を出して民権派の動きを抑えようとしました。一般的には明治8(1875)年の讒謗律(ざんぼうりつ)や新聞紙条例、明治13(1880)年の集会条例、明治20(1887)年の保安条例が知られていますね。実は、これら3つの条例などの「分かりやすい覚え方」があることを皆さんはご存知でしょうか。自由民権運動が始まった当初は、国民の多くが運動そのものの存在を知らないというのが当然でした。 [続きを読む]
  • 激化事件の続発とその後の自由民権運動 その6
  • こうして紆余曲折(うよきょくせつ)の末に息を吹き返した自由民権運動は、明治22(1889)年に発布された大日本帝国憲法(=明治憲法)や、翌明治23(1890)年に初めて開かれた帝国議会などを通じて、政府と議会との丁々発止(ちょうちょうはっし、激論を戦わせるさま)のやり取りが展開されることになります。ここまで述べてきましたように、自由民権運動は決して単なる「反体制運動」だったのではなく、政府側と民権派側とが立場 [続きを読む]
  • 激化事件の続発とその後の自由民権運動 その5
  • 明治20(1887)年、旧自由党の後藤象二郎(ごとうしょうじろう)は、立憲改進党とのこれまでの対立状態を乗り越えるために、小異を捨てて大同につくことで団結しようとする大同団結運動を唱え、民権派の再結集を呼びかけました。また、同年に外務大臣の井上馨(いのうえかおる)による条約改正交渉が失敗すると、片岡健吉が元老院に提出した建白書をきっかけに三大事件建白運動が起きました。三大事件とは集会や言論の自由・地租の [続きを読む]
  • 激化事件の続発とその後の自由民権運動 その4
  • 福島事件の発生は全国の急進的な運動家に大きな影響を与え、明治16(1883)年には新潟で高田事件が、明治17(1884)年には群馬事件や加波山(かばさん)事件などの激化事件が相次いで起こりました。連続する激化事件の発生や運動資金の不足によって、党の運営に自信を無くした自由党の指導部は、明治17(1884)年10月末に党を解散しました。また、立憲改進党も同年末に大隈重信が離党したことで事実上の解散となってしまいました。 [続きを読む]
  • 激化事件の続発とその後の自由民権運動 その3
  • 一方、政府は明治15(1882)年に集会条例を改正して取り締まりを強化したり、同年に暴漢に襲われた自由党の板垣退助(その際に「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだことで有名です)を外遊させたりするなど、自由民権運動を側面から切り崩そうとしました。板垣らの外遊については、政府が政商の三井を通じて資金援助していましたが、これについては自由党の内部からも批判の声が多く、また政府の資金援助を受けたことに対して立憲 [続きを読む]
  • 激化事件の続発とその後の自由民権運動 その2
  • 松方は酒造税や煙草税を増税することで政府の歳入を増やした一方、歳出を抑えるために行政費を徹底的に削減したほか、官営事業の民間への払い下げを推進しました。また、余った歳入によって不換紙幣の処分を進め、市場における紙幣の価値を少しずつ高めたことによって、明治18(1885)年には銀との交換、つまり兌換(だかん)が可能な兌換銀行券が発行され、銀本位制の貨幣制度が確立しました。松方正義による緊縮財政は「松方財政 [続きを読む]
  • 第61回「黒田裕樹の歴史講座」(東京&大阪講演)のお知らせ
  • いつも「黒田裕樹の歴史講座」をご覧いただきまして有難うございます。ブログのもう一つの目玉である「本物の歴史講座」ですが、次回(第61回)は「日本外交史 その弐」と題し、遣唐使から元寇に至るまでの、我が国の外交面における様々な歴史を振り返ります。 ( で拡大されます)講座に参加をご希望の皆様(特に東京講演においては関東在住の方々)は、ブログ右下の「メールフォーム」を活用のうえ事前にご連絡くだされば [続きを読む]
  • 激化事件の続発とその後の自由民権運動 その1
  • 明治10(1877)年に起きた西南の役に要した戦費は、陸軍だけでも当時の国家予算の8割に相当する約4,000万円もの巨費を必要としました。政府はこの出費を金貨や銀貨との交換ができない不換紙幣(ふかんしへい)を発行することでなんとかやりくりしましたが、その結果として当然のように市中に大量の紙幣が出回りました。紙幣が大量に流通するということは、紙幣の価値そのものを著(いちじる)しく下げるとともに、相対的に物価の値 [続きを読む]
  • 政府と民権派とが育て上げた自由民権運動 その7
  • また、政府が国会開設の勅諭を出した際に、立憲政治の実現に向けて天皇が定める欽定(きんてい)憲法を制定する基本方針を明らかにしたことに対して、民間においても様々な私擬(しぎ)憲法がつくられました。福沢諭吉系の交詢社(こうじゅんしゃ)による「私擬憲法案」や、植木枝盛(うえきえもり)による「東洋大日本国国憲按(とうようだいにほんこくこっけんあん)」などが有名です。ただし、これらの私擬憲法のほとんどは後の [続きを読む]
  • 政府と民権派とが育て上げた自由民権運動 その6
  • さて、自由民権運動の悲願でもあった国会開設に関する具体的な時期が決まったことで、民権派は政党の結成へ向けて動き出しました。国会開設の勅諭が出された直後の同じ明治14(1881)年10月、国会期成同盟を母体として板垣退助が党首となった自由党が結成されました。続いて翌明治15(1882)年4月には、大隈重信を党首とする立憲改進党(りっけんかいしんとう)が結成されました。両党は、自由党がフランス流の急進的な自由主義を [続きを読む]
  • 政府と民権派とが育て上げた自由民権運動 その5
  • またこの頃には、政府側からの府県会だけでなく、民権派から国会期成同盟が結成されるなど、議会政治の実現に不可欠な国民の力量も確実に上がっており、こうした流れがあったからこそ、明治23(1890)年の帝国議会の開催にこぎつけることができた、ともいえるのです。つまり、政府からすれば、自分だけでは困難な道のりが予想された立憲国家の樹立や議会政治の実現を、わざわざ民権派の方から自主的にアシストしてくれたわけですか [続きを読む]
  • 政府と民権派とが育て上げた自由民権運動 その4
  • 勅諭とは「天皇のお言葉」を意味しますから、後に引けない覚悟を示すとともに、天皇の権威で民権派を納得させようとする政府の姿勢がうかがえますね。なお、この年の政治に対する一連の動きは「明治十四年の政変」と呼ばれています。ところで、先の「讒謗律(ざんぼうりつ)」や「新聞紙条例」、あるいは「集会条例」などが政府から出されたという事実を考慮すれば、政府が自由民権運動を弾圧しようという意図を持っていたのは明白 [続きを読む]
  • 政府と民権派とが育て上げた自由民権運動 その3
  • そんな中、政府内で一つの事件が発生しました。当時、政府は北海道に開拓使を設置して多額の事業費を投入し続けていましたが、赤字経営が続いていたため、旧薩摩藩出身で開拓長官の黒田清隆(くろだきよたか)は、開拓に関して国が管理する官有物(かんゆうぶつ)を民間に払い下げようとしました。黒田は、同じ薩摩出身の政商である五代友厚に安くて有利な条件で官有物を払い下げしようとしましたが、明治14(1881)年7月にその内 [続きを読む]
  • 政府と民権派とが育て上げた自由民権運動 その2
  • この事実に関して皆様に確認したいのですが、もし自由民権運動を政府が一方的に取り締まるつもりならば、わざわざ地方政治を実現させて、運動を勢いづかせることをするでしょうか。政府が府県会を開かせた理由は、将来の議会政治を実現できるだけの力量や民度を全国的に高めるため、と考えた方が自然ではないでしょうか。地方を含めた全国で自由民権運動が広がりを見せるなか、西南の役の最中の明治10(1877)年に、片岡健吉(かた [続きを読む]
  • 政府と民権派とが育て上げた自由民権運動 その1
  • さて、明治10(1877)年に西南の役が政府軍の勝利という結果に終わりましたが、このことは、政府が組織した徴兵令に基づく軍隊が、戦争のプロともいえる士族に勝利したことを意味していました。一人ひとりは決して強くない兵力であっても、西洋の近代的な軍備と訓練によって鍛え上げたり、また人員や兵糧・武器弾薬などの補給をしっかりと行ったりすることで、士族の軍隊にも打ち勝つことが出来たのです。逆に政府軍に敗れた士族た [続きを読む]
  • 自由民権運動の始まりと政府の姿勢 その7
  • 加えて、漸次立憲政体樹立の詔が出された当時は、先述したように不平士族の反乱の真っ最中であり、政府が立憲国家を目指すどころではなかったのは明白です。過去の歴史を評価するためには、当時の背景など、大きな流れを見極める必要があることがよく分かりますね。なお、民撰議院設立の建白書については、これを提出した板垣らが、いわゆる「征韓論争」に敗れて下野(げや)するまでは、参議として政府内で活躍していたことから、 [続きを読む]
  • 自由民権運動の始まりと政府の姿勢 その6
  • それにしても、なぜ政府は建白書を事実上受けいれることを決意したのでしょうか。その背景には、立憲国家に必要不可欠な「議会政治」の将来像を、政府がしっかりと描いていたことが挙げられます。我が国が列強の植民地化を防ぐとともに、不平等条約を改正するための目的の一つに、我が国が「立憲国家」、すなわち近代憲法を有して議会政治を行う国家となることがありました。しかし、封建社会の幕府政治から明治新政府に移行してか [続きを読む]
  • 自由民権運動の始まりと政府の姿勢 その5
  • 一般的に自由民権運動のスタートとされているのは、明治7(1874)年に板垣退助(いたがきたいすけ)らによって提出された「民撰(みんせん)議院設立の建白書(けんぱくしょ)」ですが、建白書が出された頃は、先述のとおり不平士族の反乱の真っ最中であり、政府が対応できる余裕はとてもありませんでした。それでも、政府は翌年の明治8(1875)年4月に、明治天皇の名において「漸次(ぜんじ、「次第に、だんだん」という意味)立 [続きを読む]
  • 自由民権運動の始まりと政府の姿勢 その4
  • 大政奉還の翌年となる明治元(1868)年3月、明治天皇によって「五箇条(ごかじょう)の御誓文(ごせいもん)」が発布(はっぷ)されましたが、その第一条に「広ク会議ヲ興(おこ)シ万機公論(ばんきこうろん)ニ決スベシ」というのがあります。皆さんはこの御誓文の正確な意味をご存知でしょうか。「政治をなすには広く会議を行い、公(おおやけ)の議論によって決めるべきである」という意味のこの御誓文は、新政府による強権的 [続きを読む]
  • 自由民権運動の始まりと政府の姿勢 その3
  • しかし、版籍奉還(はんせきほうかん)から廃藩置県(はいはんちけん)、あるいは四民平等などといった、維新の功労者であるはずの士族にとって不利となる政策には反発も多く、全国各地で不平士族の反乱が相次ぎましたが、その最たるものが、明治10(1877)年に起きた、西郷隆盛(さいごうたかもり)を中心とする「西南の役(えき、別名を西南戦争)」でした。ただし、西南の役自体はもちろん単純な「不平士族の反乱」だったのでは [続きを読む]
  • 自由民権運動の始まりと政府の姿勢 その2
  • 明治維新を経て、それまでの江戸幕府に代わって政治の実権を新たに握った明治新政府には、為さねばならない課題が山積していましたが、なかでも最大の問題は「いかにして我が国の独立を守り、他国からの植民地化を防ぐか」ということでした。当時(19世紀後半)のアジアは、帝国主義(政治や経済、軍事などの面で他国の犠牲において自国の利益や領土を拡大しようとする思想や政策のこと)を歩み続けた欧米列強による植民地化が進ん [続きを読む]
  • 自由民権運動の始まりと政府の姿勢 その1
  • 一般的に「自由民権運動」といえば、文字どおり「自由」や「民権」を求める反体制運動のことであり、数々の弾圧に決して屈しなかった人民の激しい抵抗が政府を動かし、国会成立と憲法制定をもたらしたという、日本の歴史上における輝かしい出来事の一つとしてもてはやされることが多いですが、果たしてこれらは本当のことでしょうか。当時の我が国は欧米列強による侵略の危機に常にさらされており、一日も早い近代的な立憲国家とし [続きを読む]