黒田裕樹 さん プロフィール

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黒田裕樹さん: 黒田裕樹の歴史講座
ハンドル名黒田裕樹 さん
ブログタイトル黒田裕樹の歴史講座
ブログURLhttp://rocky96.blog10.fc2.com/
サイト紹介文受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供387回 / 365日(平均7.4回/週) - 参加 2012/08/07 01:21

黒田裕樹 さんのブログ記事

  • ケインズよりも200年以上早く実践した経済学 その6
  • 繰り返しますが、綱吉が将軍在任中に打ち出した数々の政策は、人々の意識を「人命を尊重する思いやりの精神」に改めるとともに、景気を良くして元禄文化の全盛をもたらしました。その背景には、間違いなく「わが国の倫理を復活させた」という偉大な功績があり、その流れが丸山先生の「絶対倫理」に明確につながっているのです。正しい歴史を学ぶことで、私たちは本当の意味での「明朗」「愛和」「喜働」そして「純情」を実践できる [続きを読む]
  • ケインズよりも200年以上早く実践した経済学 その5
  • さて、綱吉の治世を振り返れば振り返るほど、私たちは史実と一般的な風評との大きな違いに唖然(あぜん)とするばかりですが、その一方で、元禄時代の繁栄の真の理由を探ることもできます。最初に挙げられるのは、生類憐みの令を原因とする「治安の劇的な変化」でしょう。生類憐みの令によって培(つちか)われた道徳心が治安の良化をもたらし、安心して暮らせる環境によって、人々は精神面での余裕を実感するようになりました。二 [続きを読む]
  • 第62回「黒田裕樹の歴史講座」東京講演の報告と大阪講演のお知らせ
  • 9月17日に行いました第62回黒田裕樹の歴史講座「日本外交史 その参」(東京講演)には、台風が接近して雨が降りしきる中を、11名の皆様がお越しくださいました。足利義満の野望と豊臣秀吉の国家防衛には同じ国が深くかかわっているなど、長いスパンで振り返る外交史に、多くの皆様がご納得いただけたようで何よりでした。次回(9月24日)は大阪講演を行います。多数の皆様にお越しいただけることを心より願っております。第62回黒 [続きを読む]
  • ケインズよりも200年以上早く実践した経済学 その4
  • つまり、インフレの真の原因は物資の供給不足にあり、元禄小判とは直接の関係はありませんでした。また、仮にインフレで物価が上昇しても、景気が良ければ賃金なども一緒に上がりますから、庶民のダメージは大きくなかったどころか、全体の金回りが良くなったことによって生活の余裕がさらに生まれ、元禄文化が栄えたもう一つの原因となりました。元禄小判の発行は、世の好景気をもたらすとともに幕府の収入を増やしましたが、貨幣 [続きを読む]
  • ケインズよりも200年以上早く実践した経済学 その3
  • ところで、最初でも紹介しましたが、一般的な歴史教科書には「元禄小判の発行によって貨幣価値が下がったことで、物価が上昇してインフレーションとなり、庶民の生活に大きな打撃を与えた」と書かれていますが、これは本当のことでしょうか。江戸時代の初期には、新田開発や都市機能の整備といった多くのインフラが必要とされましたが、その原資として農民からの年貢(ねんぐ)が利用されたため、当時は「七公三民」のような厳しい [続きを読む]
  • ケインズよりも200年以上早く実践した経済学 その2
  • このような天才的なシステムを考案できるというのも、綱吉の有能な政治家としての一面ですね。さて、「世の中が変革を必要としている」とたった今述べましたが、綱吉の治世の間には、少なくとも2つの改革が必要でした。一つは生類憐みの令による武士や庶民の意識の変革でしたが、もう一つは経済面の改革でした。綱吉の時代は、幕府財政の転換期でもありました。それまで大量に発掘していた鉱山からの金銀が急激に減り始めた一方で [続きを読む]
  • ケインズよりも200年以上早く実践した経済学 その1
  • さて、綱吉の功績は生類憐みの令だけではありません。綱吉による「悪政」と一般的に考えられている他の事項についても振り返ってみましょう。綱吉とセットで「悪人」とされている人物として、側用人の柳沢吉保が知られていますが、吉保の本来の業務は、老中からの意見をまとめて綱吉に報告し、意見をうかがうことであり、彼が私腹を肥やしていたというのは濡れ衣です。ところで、吉保のような側用人を置くというシステムは、綱吉自 [続きを読む]
  • 「生類憐みの令」の背景とその真実 その4
  • 先述のように、生類憐みの令以前の江戸時代の社会は、戦国の遺風の影響で、殺伐とした雰囲気が残っていました。病気などで苦しむ人々がいても誰も目を向けず、また動物も役に立たなければ捨てられるというひどい有様でした。そんな風習が、生類憐みの令によって、綺麗さっぱり一掃されてしまったのです。確かに人間よりも動物の方が大切であるかのような法令には、行き過ぎた問題がありましたが、年月の経過とともに骨の髄にまで染 [続きを読む]
  • 「生類憐みの令」の背景とその真実 その3
  • それでは、生類憐みの令によって数十万人の罪人を出したという話は本当なのでしょうか。実は、これも真っ赤な嘘です。生類憐みの令によって処罰された例は、約20年間でわずか69件に過ぎません。しかも、処罰の対象者のうち3分の2に当たる46件は下級武士であり、町人や農民よりもはるかに多くなっています。さらに69件のうち、死罪になったのはたったの13件であり、流罪も12件しかないのです。こうした現実は「多数の死者を含む数十 [続きを読む]
  • 「生類憐みの令」の背景とその真実 その2
  • こうした伝染病を防止するためや、野犬化によって犬自身が被害を受ける前に保護しようという考えがあったからこそ、犬に関する様々な法令がつくられたのです。この他、生類憐みの令では、病気になった牛馬をきちんと療養させることや、捨て子の禁止、あるいは人が旅先で病気になっても旅籠(はたご)で面倒をみることなども義務付けています。また、中野の巨大な犬小屋ですが、これは「いくら禁令を出しても捨て犬などの行為が後を [続きを読む]
  • 第62回「黒田裕樹の歴史講座」(東京&大阪講演)のお知らせ
  • いつも「黒田裕樹の歴史講座」をご覧いただきまして有難うございます。ブログのもう一つの目玉である「本物の歴史講座」ですが、次回(第62回)は「日本外交史 その参」と題し、足利義満の日明貿易から豊臣秀吉による朝鮮出兵に至るまでの我が国の外交面における様々な歴史を振り返ります。 ( で拡大されます)講座に参加をご希望の皆様(特に東京講演においては関東在住の方々)は、ブログ右下の「メールフォーム」を活用 [続きを読む]
  • 「生類憐みの令」の背景とその真実 その1
  • 生類憐みの令に関しては、そういう名前の法令が出されたわけではありません。約20年の間に少しずつ増えてゆき、最終的に135個の法令が出されたものを総称して名付けられたものです。また、その種類は多岐に渡っており、犬に関するものは33件と全体の約4分の1に過ぎません。数多くの法令の中には、「鳥類などを口にしてはいけない」という食卓での禁令など、次第にエスカレートしたものが多かったのは確かです。しかし、法令の底辺 [続きを読む]
  • 「徳川綱吉」=「暗君」説は本当か? その6
  • 綱吉は、まず武士に染み付いた戦国時代の考え方を改めさせるため、天和(てんな)3(1683)年の代替わりの武家諸法度(ぶけしょはっと)において、冒頭の「弓馬(きゅうば)の道」を「忠孝の道」と改めました。それまでの武家諸法度では弓馬、すなわち武芸に励むことが武士の心得とされていたのですが、綱吉はこれを忠孝の道、すなわち人として生きる道や、道徳に励むことこそが武士にとって重要なことであるとして、意識の変革や [続きを読む]
  • 「徳川綱吉」=「暗君」説は本当か? その5
  • 徳川綱吉は、正保(しょうほう)3(1646)年に3代将軍の徳川家光(とくがわいえみつ)の四男として生まれました。慶安(けいあん)4(1651)年に家光が死んで、子で綱吉の兄にあたる徳川家綱(とくがわいえつな)が4代将軍になったことで、綱吉は将軍の弟として、上野(こうずけ、現在の群馬県の大部分)の館林藩(たてばやしはん)25万石の藩主で一生を終えるはずでした。しかし、延宝(えんぽう)8(1680)年に徳川家綱が後継者 [続きを読む]
  • 「徳川綱吉」=「暗君」説は本当か? その4
  • ところで、丸山敏雄先生の「万人幸福の栞(しおり)」の3頁には、以下の内容が記されていますね。「民族が一度うそつきの味を知り、ドロボウのくせがつけば、正義(よいこと)を守るとか、勤労(はたらき)をたっとぶとか、そうした正しい人はなくなって、アヘン中毒にかかった人のように、しだいに深みに落ちて、自滅(ほろび)の道をたどるほかありますまい。わが国は今、こうした衰亡の道を、非常な勢いで下っているのではない [続きを読む]
  • 「徳川綱吉」=「暗君」説は本当か? その3
  • このため、生類憐みの令でも特に犬が重要視されるとともに、後には幕府が江戸の中野に巨大な犬小屋を建てて、江戸じゅうの約8万頭の犬が集められました。犬小屋の運営費には現在の貨幣価値で年間約200億円もの巨費が使われており、こうした極端な政策によって、綱吉は「犬公方(いぬくぼう)」という有難くもない別名で人々から非難を浴びるようになってしまいました。また生類憐みの令以外にも、綱吉は側用人(そばようにん)の柳 [続きを読む]
  • 「徳川綱吉」=「暗君」説は本当か? その2
  • また、綱吉は水戸黄門以外にも、赤穂浪士の仇討ちで有名な忠臣蔵などの様々な小説や映画、あるいはテレビドラマによく登場しますが、その多くで「時代を読めない暗君」といった扱いを受けており、中には精神面で問題があるような描写すらされることもあります。為政者として時代の頂点に立っていた綱吉に対して、なぜこのような偏った評価がなされているのでしょうか。そのカギを握るのが、綱吉の没後300年が経過した現代において [続きを読む]
  • 「徳川綱吉」=「暗君」説は本当か? その1
  • 徳川家康(とくがわいえやす)によって創設され、約260年間続いた江戸幕府が政治を担当していた時代を江戸時代といいますが、その中でもっとも華やかさが伝えられている時代といえば、17世紀後半から末期にかけての元禄(げんろく)時代でしょう。では、元禄時代の頃でもっとも有名な歴史上の人物といえば、皆さんは誰の名を思い浮かべるでしょうか。やはり水戸黄門こと徳川光圀(とくがわみつくに)ではないでしょうか。放送開始 [続きを読む]
  • 倫理法人会について その2
  • 倫理法人会では、職場の明朗化と企業の活性化のために「倫理経営講演会」「経営者の集い」などを全国的に開催しているほか、経営者の学習活動として、毎週一回、朝6時(大阪府倫理法人会は朝6時30分)から全国680ヵ所以上で「経営者モーニングセミナー」を開いています。また、会員企業はもとより、広く地域の企業にも純粋倫理を伝えるため、各倫理法人会の主催で定期的に「ナイトセミナー」を開催し、倫理経営についての学びを深 [続きを読む]
  • 倫理法人会について その1
  • いつも「黒田裕樹の歴史講座」をご覧くださり、有難うございます。さて、私はご縁をいただきまして、今年(平成29年=2017年)から、大阪府の「道頓堀(どうとんぼり)倫理法人会」に入会しております。倫理法人会は、一般社団法人倫理研究所の法人会員によって組織された会であり、「企業に倫理を、職場に心を、家庭に愛を」をスローガンに、まずトップ自らが純粋倫理を学び、変わることによって、社員や社風を変え、健全な繁栄を [続きを読む]
  • 征夷大将軍の重責と「元寇抹殺計画」 その5
  • 山田先生をはじめとする関係者の皆さんのご尽力や、パブリックコメント(意見公募)の結果などを受けて、平成29(2017)年3月31日に公示された新学習指導要領においては「元寇(モンゴル帝国の襲来)」という表記となり、「元寇抹殺計画」は何とか回避されました。しかし、我が国の歴史教育を取り巻く様々な環境を考慮すれば、いずれ再び「歴史的表現の抹殺」が断行される危険性が否定できないのではないでしょうか。前回に紹介し [続きを読む]
  • 征夷大将軍の重責と「元寇抹殺計画」 その4
  • 平成29(2017)年2月に文科省が小中学校の次期学習指導要領の改定案を公表した際に、中学社会の歴史的分野において「聖徳太子」が「厩戸王(うまやどのおう)」との併記にすると書かれていたのは前回述べたとおりですが、実は「元寇」も「モンゴルの襲来(元寇)」と変更すると表記されていたのです。文科省は呼称(こしょう)変更の理由を「歴史学の世界では『モンゴルの襲来』と表現するが通例だから」と説明しましたが、この件 [続きを読む]
  • 征夷大将軍の重責と「元寇抹殺計画」 その3
  • すなわち、我が国にとって「征夷大将軍」とは単なる名誉職ではなく、国家の命運を預かる重要な地位であるがゆえに、その職責を果たせない将軍は、やがてその地位を失うのみならず、我が国が存亡の危機を招きかねないという大きな流れが国全体を包んでいるといえますが、これは現代においても決して例外ではありません。先述した「天は自ら助くる者を助く」という精神が証明しているように、今後の世界情勢を注視するとともに、気が [続きを読む]
  • 征夷大将軍の重責と「元寇抹殺計画」 その2
  • そもそもは東北地方の蝦夷(えみし)を倒すために朝廷から選ばれた臨時の役職であった征夷大将軍でしたが、戦時における徴税権や徴兵権を委任されていたことから(そうでなければ戦えません)、やがては朝廷から独立した軍事政権のトップとして、1192年に源頼朝(みなもとのよりとも)が任じられ、鎌倉幕府が誕生しました。その後、執権の北条氏が力をつけて源氏が滅び、征夷大将軍は名目だけの地位として摂関家や皇族が就任するよ [続きを読む]
  • 征夷大将軍の重責と「元寇抹殺計画」 その1
  • 元軍の二度にわたる来襲に立ち向かい、これをはね返した北条時宗でしたが、超大国の元と長年互角に渡り合った彼のストレスは尋常ではなく、やがて重い病に倒れました。病状は回復することなく、弘安の役からわずか3年後の1284年4月に、時宗は34歳の若さで亡くなりました。まさに元寇に明け暮れた彼の生涯であったともいえますが、我が国の命運を一身に託され、見事にその役割を果たした時宗の偉大さは、時を越えて永遠に称えるべき [続きを読む]