黒田裕樹 さん プロフィール

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黒田裕樹さん: 黒田裕樹の歴史講座
ハンドル名黒田裕樹 さん
ブログタイトル黒田裕樹の歴史講座
ブログURLhttp://rocky96.blog10.fc2.com/
サイト紹介文受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供389回 / 365日(平均7.5回/週) - 参加 2012/08/07 01:21

黒田裕樹 さんのブログ記事

  • 大東亜戦争は「無謀な戦争」だったのか その1
  • 昭和16(1941)年12月8日(日本時間)に、日本海軍がハワイの真珠湾を攻撃して日米開戦となりましたが、開戦直後に、日本政府はこの戦争の名称を、昭和12(1937)年に始まった日華事変も含めて「大東亜戦争」と命名しました。大東亜戦争の緒戦において我が国は快進撃を続け、開戦後わずか半年で、アジアにあった欧米列強の植民地のほとんどを占領あるいは支配し、石油などの重要資源も確保しました。もし我が国が優勢な段階でアメ [続きを読む]
  • コミンテルンの謀略と東條首相の苦悩 その9
  • ハル・ノートによって我が国は対米交渉への望みを完全に断たれたことになりますが、その内容の厳しさに関しては、後年に東京裁判で裁判官を務めたパルが、アメリカの現代史家の言葉を引用して「モナコやルクセンブルクでさえもアメリカに対し矛(ほこ)をとって立ち上がったであろう」と言明しています。しかも、先述したケロッグ国務長官の「経済封鎖は戦争行為そのものである」という言葉を借りれば、先の石油禁輸の例を出すまで [続きを読む]
  • コミンテルンの謀略と東條首相の苦悩 その8
  • 幕末の開国に伴って、欧米列強から不平等条約を押しつけられて以来、我が国はいつ他国の侵略を受けて植民地化されるかという亡国の危機と背中合わせになりながら、血のにじむような努力で急速な近代化を達成し、気が付けば、大日本帝国は世界の一等国として列強と肩を並べるまで成長を遂げました。しかし、いわゆるハリマン問題などを原因としてアメリカとの間に出来た溝は、やがて人種差別に基づく日本人敵視政策を生みだし、また [続きを読む]
  • コミンテルンの謀略と東條首相の苦悩 その7
  • ところで、後年になって、ハル・ノートはハル国務長官自身ではなく、財務次官補のハリー=ホワイトが起草したものであることが明らかになりました。しかもハリー=ホワイトはソ連(=コミンテルン)のスパイであった可能性が高く、第二次世界大戦後にその疑惑を指摘されると、彼は自殺を遂げています。もしハリー=ホワイトが本当にソ連のスパイであったとすれば、彼がフランクリン=ルーズベルト大統領に取り入ったことで日米間に [続きを読む]
  • コミンテルンの謀略と東條首相の苦悩 その6
  • 野村・来栖両大使が持ち帰ったハル・ノートを確認した日本政府の首脳は、東郷外相が「自分は目もくらむばかりの失望にうたれた」と述べるなど、それぞれがその内容に仰天しました。それにしても、なぜアメリカはこうした「最後通牒」ともいえるハル・ノートを我が国に突き付けたのでしょうか。アメリカのフランクリン=ルーズベルト大統領は、自国の疲弊した経済の打開や、あるいはイギリスを助ける意味などもあって、日本との戦争 [続きを読む]
  • コミンテルンの謀略と東條首相の苦悩 その5
  • ハル・ノートは10ヵ条から成り立っていましたが、その内容は、日米交渉がそれまでに積み上げてきたものをすべて無視するばかりか、根底から覆(くつがえ)すという、まさに言語道断なものであり、特に以下の内容は我が国が絶対に認められないものでした。1.中国大陸や仏印(=フランス領インドシナ)からの全面撤兵2.蒋介石の重慶国民政府以外の中国における政府の否認3.日独伊三国同盟の破棄もしこれらの条件を我が国が受けいれれ [続きを読む]
  • コミンテルンの謀略と東條首相の苦悩 その4
  • 日米交渉の窓口であった駐米大使の野村吉三郎(のむらきちさぶろう)は軍人出身であったので、日本政府はベテラン外交官の来栖三郎(くるすさぶろう)をアメリカに派遣し、野村・来栖の両大使は、昭和16(1941)年11月17日にフランクリン=ルーズベルト大統領と直接会談しました。来栖大使はルーズベルト大統領に我が国の苦しい立場を素直に表明して、交渉に応じるよう懸命に説得しましたが、大統領は言葉を適当にはぐらかして、や [続きを読む]
  • コミンテルンの謀略と東條首相の苦悩 その3
  • さて、第三次近衛内閣の崩壊後に組閣の大命が下った東條でしたが、このことは彼自身にとってまさに青天の霹靂(へきれき)でした。昭和天皇の戦争回避のご意志を拝聴した東條は、それまでの開戦派的姿勢を改め、帝国国策遂行要領を白紙に戻して再検討することとしました。なお、首相就任に際して、東條は陸軍大将に昇進しています。昭和天皇に絶対の忠誠を誓っていた東條首相ならではの方針の転換でしたが、さらに東條は、外務大臣 [続きを読む]
  • コミンテルンの謀略と東條首相の苦悩 その2
  • かくして、アメリカを牽制するために我が国が結んだはずの日独伊三国同盟や日ソ中立条約は、結果としてことごとく裏目に出てしまい、ソ連(=コミンテルン)のスパイであった尾崎秀実(おざきほつみ)らが強く主張していたとおりの南進論を選択してしまったことになります。つまり、我が国はコミンテルンのスパイに操られるかたちで南進以外の選択肢を失ってしまったとも考えられるのです。そして、この選択は当然のようにアメリカ [続きを読む]
  • コミンテルンの謀略と東條首相の苦悩 その1
  • ところで、これまでに述べた歴史の流れを振り返れば「アメリカが我が国を大東亜戦争に追い込んだ」という見方も成立しそうですが、これは「日本が一方的に侵略した」という「自虐史観」と表裏一体をなすものでしかありません。我が国は、最終的にアメリカと大東亜戦争を戦うことになりましたが、実はソ連と戦争する可能性もあったことをご存知でしょうか。その分水嶺となったのは「北進論」と「南進論」の選択であり、またその決め [続きを読む]
  • 日米開戦を導いた「アメリカの思惑」 その7
  • 石油禁輸で追いつめられた我が国は、昭和16(1941)年9月6日に昭和天皇ご臨席のもとで御前会議を開いて帝国国策遂行要領を決定し、対米交渉がまとまらなかった場合には、10月下旬を目安として、アジアに植民地を持つアメリカやイギリス・オランダに対する開戦方針が定められました。なお、この会議において、戦争ではなくあくまで外交的な解決を望まれた昭和天皇は、明治天皇がお詠みになった御製をご披露されておられます。「四方 [続きを読む]
  • 日米開戦を導いた「アメリカの思惑」 その6
  • 南部仏印を含む南洋ルートは、ゴムや錫(すず)などの天然資源が豊富であり、コメの生産も盛んでした。我が国にとって、南部仏印が英米に占領される前に自国の軍隊を進駐させ、ゴムやコメの供給地を確保するという手段は、当時の国際通念上に照らしても当然の自衛行為でした。フランスとの交渉が合意したことで、我が国は第三次近衛内閣が誕生した直後の昭和16(1941)年7月28日に南部仏印進駐を開始しましたが、日本軍の進駐で自 [続きを読む]
  • 日米開戦を導いた「アメリカの思惑」 その5
  • 第二次世界大戦の開戦直後のドイツは、フランスを降伏させるなど破竹の勢いで勝ち進み、イギリスは本土を空爆されるまで追いつめられていましたが、そんな折に首相に就任したチャーチルは、イギリスがドイツに勝利するためには、アメリカを味方につけてヨーロッパの戦争に引きずり込むしかないと考えるようになっていました。一方、アメリカのフランクリン=ルーズベルト大統領も「攻撃を受けた場合を除いて絶対に戦争はしない」と [続きを読む]
  • 日米開戦を導いた「アメリカの思惑」 その4
  • 我が国による北部仏印進駐は、ドイツに降伏した後のフランス政府であるヴィシー政権との間に結ばれた合法的なものでしたが、我が国に対する態度を硬化させていたアメリカはこれに反発し、イギリスに亡命していたド=ゴール政権こそがフランスの正当なる政府であるという口実で、我が国に対するくず鉄・鉄鋼の輸出禁止の方針を発表しました。アメリカやイギリスを中心とする重要資源の輸入制限に悩まされた我が国は、蘭印(=オラン [続きを読む]
  • 日米開戦を導いた「アメリカの思惑」 その3
  • その後、昭和12(1937)年に勃発(ぼっぱつ)した日華事変は、同年12月に首都の南京が陥落し、蒋介石(しょうかいせき)が重慶(じゅうけい)に逃げ込んだ後も泥沼化していましたが、その最大の要因は、日華事変に関しては中立国のはずであったアメリカやイギリス・フランスを中心として、蒋介石に対する経済的・軍事的な援助が続いていたことにありました。我が国は蒋介石への援助を断ち切るため中国の沿岸を封鎖しましたが、各国 [続きを読む]
  • 日米開戦を導いた「アメリカの思惑」 その2
  • さらにアメリカは、1920(大正9)年に設立された国際連盟において我が国が人種差別撤廃案を提出すると、その法案を強引に葬り去ったのみならず、返す刀で1924(大正13)年に、日本人排斥移民法をアメリカ全土に適用される連邦法として成立させ、国家全体として日本人移民すべてを排斥することを宣言しました。アメリカによる一方的かつ冷酷な態度に、日本人の多くはアメリカに対するそれまでの感情を激変させ、敵視するようになり [続きを読む]
  • 日米開戦を導いた「アメリカの思惑」 その1
  • 大東亜戦争によってついに日米開戦となりましたが、当時のアメリカは、日本との戦争を待ち望んでいたとともに、長年の「悲願」が達成されたことを喜んでいました。話は日露戦争前後にまでさかのぼります。嘉永(かえい)6(1853)年にペリーが浦賀に来航して以来、アメリカは我が国に対して一定の理解を示し続けた国でした。だからこそ、我が国は日露戦争の終結へとつながったポーツマス条約の締結を、アメリカのセオドア=ルーズ [続きを読む]
  • 「軍人」東條英機が政治の舞台に登場するまで その6
  • ところで、東條がかつて参謀長を務めていた関東軍は、日露戦争後に当時の帝政ロシアから得た租借地(そしゃくち、ある国が条約で一定期間、他国に貸し与えた土地のこと)である関東州(遼東=りょうとう半島の先端部)と南満州鉄道(=満鉄)の付属地の守備を担当していた関東都督府(ととくふ)陸軍部が前身ですが、戦前において、満鉄の鉄道技術は既に世界一でした。満鉄と言えば、超高性能の蒸気機関車によって牽引(けんいん) [続きを読む]
  • 「軍人」東條英機が政治の舞台に登場するまで その5
  • やがて関東軍司令部に出頭を命じられた樋口でしたが、参謀長たる東條の面前にて、樋口は堂々と自分の主張を述べました。「参謀長はヒットラーのお先棒を担(かつ)いで弱い者いじめをすることが正しいと思われますか?」樋口の主張がもっともであると認めた東條によって、軍司令部内での樋口に対する批判は下火となり、ドイツの抗議は不問に付され、事件は鎮静化したのです。この後、樋口は終戦直後の「占守島(しゅむしゅとう)の [続きを読む]
  • 「軍人」東條英機が政治の舞台に登場するまで その4
  • そればかりか、彼は関東軍参謀長の頃に、国際的に大きな問題に関して速やかに対処しているのをご存知でしょうか。いわゆる「オトポール事件」のことです。昭和13(1938)年3月、ソ満国境(=ソ連と満州との国境のこと)に位置するオトポールという街に、ナチスから逃れようとドイツを脱出した、多数のユダヤ人難民が現れました。彼らは満州国から上海へ向かい、その後にアメリカなどへ逃れようと考えていたのですが、ドイツと友好 [続きを読む]
  • 「軍人」東條英機が政治の舞台に登場するまで その3
  • その後、大正13(1924)年に陸軍歩兵中佐に昇進すると、大正14(1925)年に歩兵第一連隊長となり、大正15(1926)年には陸軍大学校の兵学教官に就任した後、昭和3(1928)年に陸軍歩兵大佐に昇進すると、昭和8(1933)年には陸軍少将参謀本部付となりました。さらに昭和10(1935)年、関東憲兵隊司令官兼関東局警務部長として大陸に渡った東條は、昭和11(1936)年に陸軍中将となり、昭和12(1937)年には関東軍参謀長に就任しまし [続きを読む]
  • 「軍人」東條英機が政治の舞台に登場するまで その2
  • 東條英機は、明治17(1884)年7月30日に、東京市麹町区(こうじまちく、現在の東京都千代田区)で、東條英教(とうじょうひでのり)とその妻・千歳(ちとせ)との間に生まれました。陸軍歩兵中尉(後に陸軍中将)を父に持った東條は、自身も軍人としての道を歩み、明治32(1899)年に東京陸軍地方幼年学校(第3期)に入学すると、明治35(1902)年に陸軍中央幼年学校(第17期)に入り、明治37(1904)年に日露(にちろ)戦争のため [続きを読む]
  • 「軍人」東條英機が政治の舞台に登場するまで その1
  • 東條英機(とうじょうひでき)氏と言えば、我が国の対米英開戦時、すなわち大東亜戦争(=太平洋戦争)が始まった際の内閣総理大臣(第40代)であり、終戦後にGHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)によってA級戦犯の指名を受けて極東国際軍事裁判(=東京裁判)にかけられ、享年65歳(満年齢64歳)で絞首刑に処された人物として知られています。平成27(2015)年に戦後70年を迎えた我が国では、「先の戦争は日本が一方的に侵略した [続きを読む]
  • 第59回「黒田裕樹の歴史講座」大阪講演の報告
  • 3月25日に行いました第59回黒田裕樹の歴史講座「東條英機」(大阪講演)には、55名もの多くの皆様がご参加くださり、大盛況となりました。東京講演同様に、単なる歴史上の人物の伝記ではなく、当時の世界情勢や我が国を取り巻く状況をしっかりと理解することで、東條元首相の苦悩する姿を明らかにすることができたと思います。また、最後に紹介した東條元首相の遺書は、現在の我が国とリンクすることが多く、優れた人物であったこ [続きを読む]
  • 次期学習指導要領の改定案について その7
  • 先述した産経新聞の記事においては、聖徳太子の研究事情に詳しい駒沢大学の石井公成(いしいこうせい)教授によるコメントが掲載されており、皆様にもご紹介します。石井氏は、「厩戸王は後代のイメージに縛られず研究するため戦後に想定された名である。古代の主要史料には見られず、実名のように扱うのは不適切だ」と指摘し、その上で、「聖徳太子論争が熱くなるのは、日本人のアイデンティティに関わるから。自分にとって好まし [続きを読む]