トラ さん プロフィール

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トラさん: トラの日記
ハンドル名トラ さん
ブログタイトルトラの日記
ブログURLhttp://d.hatena.ne.jp/hidekitora/
サイト紹介文明治維新から終戦までの歴史が語られています。
自由文明治維新、日清戦争、日露戦争、日中戦争、太平洋戦争そして終戦と国民は臣民として不断の戦争にかりたてられつづけたのである。、「インド以下」という極端な表現をされた例もあるほどの貧窮を強いられ、権利などというものはほとんど与えられなかったのである。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供51回 / 365日(平均1.0回/週) - 参加 2012/10/03 14:31

トラ さんのブログ記事

  • 戊午の密勅
  • 先般墨夷假條約無餘儀無次第ニ而、於神奈川調印、使節へ被渡候儀、猶又委細間部下總守上京被及言上之趣候得共、先達而勅答諸大名衆儀被聞食度被仰出候詮茂無之、誠ニ以テ皇國重大ノ儀、調印之後言上、大樹公叡慮御伺之御趣意モ不相立、尤勅答之御次第ニ相背輕卒之取計、大樹 [続きを読む]
  • 徳川慶喜の宣言
  • 「余は祖宗以来伝承の政権を擲ち、広く天下の諸侯を聚め、公議を尽し輿論を採りて国是を定めんことを朝廷に奏聞したるに、先帝の御遺命にて幼主を撫翼するの摂政殿下を始め、宮・堂上方数名、余が政権を還すことを承諾したり。さりながら、諸侯の公議相決するまで、諸事是ま [続きを読む]
  • 徳川慶喜公伝
  • 【旧幕府軍を朝敵にできなかった薩長】 三日坂兵北進の報急なるに及び、薩長二藩は更に兵を増遣し、開戦の決を岩倉前中将に迫れり。曰く「去年九日以来、断然叡慮を以て徳川家の処置・并に会桑の進退等御達あるべきに、其事行はれず、遂に尾越二藩の周旋となりしは、失計の [続きを読む]
  • 昔夢会筆記
  •    御参内夜を徹せし事  慶応三年十月十五日御参内ありて、政権奉還の勅許を蒙らせられしが、御退出は翌十六日の暁七つ時に及びたり。斯かる徹夜の御参内は、何か重大なる議事にてもあらせられしか、承りたく候。 そは当時の習慣をだに詳にせば、不審の起らずとも済むこ [続きを読む]
  • 慶応三年後半の政局
  • 大久保らが鹿児島に帰り、密勅を提示したことにより、藩主茂久は藩兵を率いて、十一月十三日鹿児島を出港し、三田尻を経由して二十日には大坂に着いた。また、長州は折から、長州処分伝達のため家老が上坂せよ、との幕命があったことに名をかりで、毛利内匠が千名以上の兵力 [続きを読む]
  • 密勅
  • (訓読文)詔す。源慶喜、累世(るゐせい)の威(ゐ)を籍(か)り、闔族(かふぞく)の強(きゃう)を恃(たの)み、妄(みだり)に忠良を賊害(ぞくがい)し、数(しばしば)王命を棄絶し、遂には先帝の詔を矯(た)めて懼(おそ)れず、万民を溝壑(こうがく)に擠(おと [続きを読む]
  • 奪玉計画
  • 慶応三年十一月十八日、長州藩の海の玄関三田尻では、「薩長芸三藩出兵同盟」が約定されていた。 一、三藩とも浪華根拠のこと。 一、根拠守衛、薩藩ニ小隊へ長芸のうち相加へ候事。 一、薩侯御一手は京師を専任とす。 一、長芸のうち一藩、京師を応援す。 一、薩侯御著坂二 [続きを読む]
  • 島津久光
  • 応丁卯の夏、更に上京す、料らすも脚気の病に罹り、永く滞京する能はす、……季秋に至り病勢愈加り、終に腰脚?痺寸歩も行かす、時勢日に紛擾に赴と雖とも……已を得す請て藩に帰る、爾来荏苒病蓐に在り……」(島津久光「謹上書」) これは、久光自身が明治7年に振り [続きを読む]
  • 小御所会議
  • 慶喜の大政奉還にも動ぜず、西郷、大久保らは最後の「賊臣慶喜を討てという密勅」のカードを使って兵を集め、力によるクーデターの謀略に望みを賭ける。不意をつかれた宮門警備の会津、桑名両藩はなすすべもなく二条城に退出している。ここに徳川に変わり新たに総裁、議定、 [続きを読む]
  • 大政奉還の上表文
  • 大政奉還の上表文 ○十月十四日 徳川慶喜奏聞 臣慶喜謹而皇国時運之沿革ヲ考候ニ昔 王綱紐ヲ解キ相家権ヲ執リ保平之乱政権武門ニ移テヨリ祖宗ニ至リ更ニ 寵眷ヲ蒙リ二百余年子孫相承臣其職ヲ奉スト雖モ政刑当ヲ失フコト不少今日之形勢ニ至候モ畢竟薄徳之所致不堪慚懼候况 [続きを読む]
  • 伊集院兼寛
  • 薩軍士官伊集院兼寛は、つぎのような手記を残している。 「戊辰正月三日、幕兵鳥羽伏見両街道に廻り、戦端既に開け、―度達するや、宮中疑懼の念変じて、歓喜の声となり、前には、西郷、大久保の宮中に在るや、蛇蝎の如く、近づくもの なかりしを、陸続来りて面晤を請 [続きを読む]
  • 薩、長、土、芸四藩の観兵式
  • 土佐藩兵を率いてこの観兵式に臨んだ谷干城の日記風の回想録から、当日の模様を見てみよう。 「二十月七日に至り日御門〔建春門〕前に於て、薩、長、土、芸四藩の観兵式の天覧あり。流石に薩は、服装帽も皆一様にて英式に依り、大太鼓、小太鼓、笛等の楽隊を先頭に立て、正 [続きを読む]
  • 2016-11-18
  • 薩長とか新政府とか明治維新とか、エラそうに言っとるが、だいたい、こちらが戦争をしたくないと言ってるのに、無理やり戦争をしかけおって、・・ありゃとんでもない悪党で、強盗か山賊みたなもんだわ」(あるばーさん)と言われておるよ 日本の徳川が支配していた政治を田 [続きを読む]
  • 京都薩摩邸において西郷と面会
  • 市来の言によれば三田屋敷の留守居役、添役、監察など貴任者 は俗吏の者を除けて有志の者(尊王討幕の賛成者か)を嵌め込んであり、浪士隊が充分活動できるよぅできるだけ力を尽したとのべている。京都薩摩邸において西郷と面会した様子である。 落合君 其夜はそこ(東山祇園 [続きを読む]
  • 伊牟田尚平
  • 伊牟田尚平(いむた・しょうへい)(1832〜69年)といわれても、知る人は少ないかもしれない。  明治維新の表の立役者を西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀だとすれば、裏の立役者は伊牟田だったといえる。  米国公使館通弁官のヒュースケン暗殺から、さまざまな尊王攘 [続きを読む]
  • 明治政府の戦争予算
  • たしかに、異例の圧倒的な勝利ではありました。しかし、そもそも日本軍は実力よりもはるかにカネを借金で用意して戦争に臨んでいたのです。 1904年から1906年にかけ合計6次の外債発行により、借り換え調達を含め総額1万3000ポンド(約13億円)の外貨公債を日本は発行した。 [続きを読む]
  • 西觶
  • 国力を考えれば欧米列強を敵として戦うことなど無謀だと悟り開国路線を取ったのが幕府で、それに反対して外敵を追い払う攘夷を叫んだのが朝廷の公家連中であり、薩長や土佐の志士たちで、幕府を弱体化させたのはこの連中です。この攘夷派を利用して幕府に対してさんざん挑発 [続きを読む]
  • ベルツの日記
  • おそらくいつかは叫ばれることだろう。「ああ、困ったことだ!自分の呼び出した精霊(ガイスト)たちから、今では逃れられない!」と。これらの精霊(ガイスト)のうちで最もよくないのは、はき違えたアメリカ渡来の自由精霊(ガイスト)である。もし日本人が現在アメリカの [続きを読む]
  • 徳川慶喜
  • 明治三十四年のころ、有栖川宮が来日したスペインの王族をもてなしたとき、慶喜は夕食会に招待されて出席した。有栖川宮には天皇に引き合わせてもらった恩があり、また生来の外人好きということもあって出席したのだ。その席に伊藤がいた。このとき伊藤は第四次内閣の総理で [続きを読む]
  • 尊皇攘夷
  • ペリ-の来航以来、日本の政情は大揺れに揺れてはいたが、幕府そのものを否定するものはいなかった。政治的な命題は、開国か攘夷か、であった。幕府にあっては井伊大老が開国策を推し進めたために、攘夷派から目の敵にされたが、それは井伊の思想と存在を否定するまでのこと [続きを読む]
  • 武士
  • 志士を自称する倒幕派の連中には、現状から這い上がろうと名分として、尊王を掲げ、ひたすら駈け回る下級武士が多く、そのほとんどは討幕の道具とて利用された。 下級武士出身の西郷、大久保らは、動乱という事態に身を置時、勝たなければ我が身が消えるとすれば,打ち手の質 [続きを読む]
  • 一死以て大罪を謝し奉る
  • 会議終了後、鈴木首相に対して感謝の辞を述べ、同時に会議の席上強硬に反対したことを心から託びた。阿南氏は偕行社の自室に帰り、割腹して最後を遂げる。  遺書に日く 一死以て大罪を謝し奉る 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 神州不滅を確信しつつ 辞世に日 [続きを読む]
  • 対米戦争に入る前の一般大衆
  • 対米戦争に入る前の日中戦争時代、一般大衆は戦争に反対どころか戦争賛成で、軍部や政府を心から支持し、協力していた。戦争初期に軍や政府に反対した人はかなりいたようだが。しかし、その人たちは共産党員やごく一部の学者で、一般大衆とは無縁の人だ。もちろん情報が不十 [続きを読む]