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  • 岸根公園の梅

    2024年2月24日(土)午前、横浜市営地下鉄ブルーライン岸根公園駅に隣接した岸根公園(横浜市港北区岸根町725)に行ってきました。少数ながら梅が植えられいます。これを撮影してきました。これをお見せします。但し、入口近くの梅は散りかけていたので撮りませんでした。前の4枚は奥の梅で、後の4枚は中頃の梅です。(2024.02.28)岸根公園の梅

  • 竹生島初日の出(4)熱田神宮・竹島

    (1)豊川稲荷(2)竹生島・近江神宮(3)彦根城(4)熱田神宮・竹島2023年12月31日(日)~2024年正月3日(火)、クラブツーリズム主催の横浜発のバスツァー「琵琶湖「初日の出クルーズ」と神の棲む島「竹生島」」で初日の出を拝みました。旅程は、31日豊川稲荷、関ヶ原ですき焼き御膳夕食八日市泊1日竹生島(初日の出)、近江神宮初詣、大津で比叡湯葉の昼食、彦根城、彦根で鮎塩焼き膳の夕食、同泊2日熱田神宮参拝、蒲郡で昼食、竹島です。2024年1月2日(火)、ツァー最終日の最初は熱田神宮参拝です。熱田神宮(名古屋市熱田区神宮1-1-1)は日本武尊の草薙神剣が鎮座する所です。祭神は熱田大神、草薙神剣を霊代とする天照大神です。写真1は、神木の大楠です。樹齢千年以上といわれています。写真2は、日本三大土塀の信長塀です...竹生島初日の出(4)熱田神宮・竹島

  • 竹生島初日の出(3)彦根城

    (1)豊川稲荷(2)竹生島・近江神宮(3)彦根城(4)熱田神宮・竹島2023年12月31日(日)~2024年正月3日(火)、クラブツーリズム主催の横浜発のバスツァー「琵琶湖「初日の出クルーズ」と神の棲む島「竹生島」」で初日の出を拝みました。旅程は、31日豊川稲荷、関ヶ原ですき焼き御膳夕食八日市泊1日竹生島(初日の出)、近江神宮初詣、大津で比叡湯葉の昼食、彦根城、彦根で鮎塩焼き膳の夕食、同泊2日熱田神宮参拝、蒲郡で昼食、竹島です。大津で比叡湯葉の昼食後、彦根城観光です。彦根城(滋賀県彦根市金亀町1-1)は慶長9年(1604)に彦根山に着工され、元和8年(1622)に第3代藩主直孝の時に完成しました。写真1は、佐和口への中堀端のいろは松です。写真2は、二の丸佐和口多門櫓(重文)です。写真3は、佐和口からの中堀...竹生島初日の出(3)彦根城

  • 竹生島初日の出(2)竹生島・近江神宮

    (1)豊川稲荷(2)竹生島・近江神宮(3)彦根城(4)熱田神宮・竹島2023年12月31日(日)~2024年正月3日(火)、クラブツーリズム主催の横浜発のバスツァー「琵琶湖「初日の出クルーズ」と神の棲む島「竹生島」」で初日の出を拝みました。旅程は、31日豊川稲荷、関ヶ原ですき焼き御膳夕食八日市泊1日竹生島(初日の出)、近江神宮初詣、大津で比叡湯葉の昼食、彦根城、彦根で鮎塩焼き膳の夕食、同泊2日熱田神宮参拝、蒲郡で昼食、竹島です。2024年元旦朝、ホテルを出て長浜港に向かい、3艘のチャーター船の最後に乗船し、竹生島に渡りました。島での初日の出を迎える予定でしたが、船上での初日の出となりました。写真1は、初日の出前の様子です。写真2は、初日の出です。7時3分でした。写真3は、アップしたものです。写真4は、更に...竹生島初日の出(2)竹生島・近江神宮

  • 竹生島初日の出(1)豊川稲荷

    (1)豊川稲荷(2)竹生島・近江神宮(3)彦根城(4)熱田神宮・竹島2023年12月31日(日)~2024年正月3日(火)、クラブツーリズム主催の横浜発のバスツァー「琵琶湖「初日の出クルーズ」と神の棲む島「竹生島」」で初日の出を拝みました。旅程は、31日豊川稲荷、関ヶ原ですき焼き御膳夕食八日市泊1日竹生島(初日の出)、近江神宮初詣、大津で比叡湯葉の昼食、彦根城、彦根で鮎塩焼き膳の夕食、同泊2日熱田神宮参拝、蒲郡で昼食、竹島です。12時半前に本日の訪問地、曹洞宗円福山豊川閣妙厳寺―豊川稲荷(愛知県豊川市豊川町1)に着き参拝をします。写真1は、大本殿です。1920年に竣工したもので、内陣には「豐川吒枳尼眞天」が奉祀されています。写真2は、万燈堂です。文久3年(1863)に建立された間口十三間・奥行七間で、不動...竹生島初日の出(1)豊川稲荷

  • 2023年度記事目次

    癸卯年を終わるに当たって、2023年度(1~12月)記事目次を掲載します。では、甲辰年がよいお年で。01.02中田島砂丘の初日の出01.032023年三嶋大社初詣02.09京都寺院巡り(1)臨川寺―歴史雑感〔81〕―02.10京都寺院巡り(2)天龍寺―歴史雑感〔82〕―02.12京都寺院巡り(3)萬福寺―歴史雑感〔83〕―02.13京都寺院巡り(4)清水寺―歴史雑感〔84〕―03.012023年大倉山梅林03.282023年鶴見川太尾堤の桜05.102023年弘前城の桜05.122023年久保田城の桜05.18鉄道発祥関係地―歴史雑感〔85〕―06.28福井県(1)―永平寺・東尋坊06.30福井県(2)―平泉寺白山神社・東尋坊日没・丸岡城―07.04福井県(3)―乗谷朝倉氏遺跡・一乗谷朝遺跡博物館―07....2023年度記事目次

  • 浜離宮―歴史雑感〔89〕―

    2023年12月16日午後、武蔵野文化協会主催の「浜離宮恩賜庭園を散策」に参加しました。承応3(1654)年に徳川家重が浜御庭池を賜わり造営を始めたのが浜離宮の起こりです。第6代将軍徳川家宣(家重嫡男)が大手門・茶屋等の改修を行ない、浜御殿と改称しました。1870(明治3)年に宮内省管轄となり、戦災により建物は全焼しました。1945(昭和20)年に東京都に移管され都立「浜離宮恩賜庭園」(特別名勝・特別史跡)として現在にいた充ています。公園に入る前、北に隣接したカレッタ汐留(電通本社ビル)46階から浜離宮恩賜公園を俯瞰し撮ったのが、写真1です。写真2は、大手門で、大手門橋を渡り、枡形となっています。写真3は、入って進んだ南西角の内堀です。写真4は、延遼舘跡地の紅葉です。写真5は、奥に中の御門〔西〕入口へです...浜離宮―歴史雑感〔89〕―

  • 鳥取・島根巡り(3)足立美術館・日本庭園由志園

    (1)倉吉白壁土蔵・白兎神社・鳥取砂丘(2)松江城・出雲大社(3)足立美術館・日本庭園由志園2023年11月29日(水)、最終日三日目の最初の観光地は足立美術館(島根県安来市古川町320)です。本美術館は地元の実業家足立全康が1970年に創設し、横山大観を中心としたコレクション展示と日本庭園です。季節から庭園は紅葉しています。写真1は、入ったところから奥(西)に枯山水庭と白沙青松庭を撮ったものです。手前の建物の角は喫茶室翠です。写真2は、喫茶室翠から眺めた枯山水庭から左に白沙青松庭です。写真3は、同じく枯山水庭の右側です。写真4は、同じく枯山水庭の左側です。写真5は、立石を拡大したところです。写真6は、白沙青松庭庭です。写真7は、南西角の池庭です。写真8は、枯山水庭です。次は由志園(松江市八束町波入126...鳥取・島根巡り(3)足立美術館・日本庭園由志園

  • 鳥取・島根巡り(2)松江城・出雲大社

    (1)倉吉白壁土蔵・白兎神社・鳥取砂丘(2)松江城・出雲大社(3)足立美術館・日本庭園由志園2023年11月28日(火)、二日目の最初の観光地は国宝5城の一つである松江城跡です。戦前の国宝が戦後に重要文化財となり、2015年に改めて国宝となったものです。写真1は、大手門に入るところの角から西に向かう内堀です。右の櫓は南櫓です。奥の橋は千鳥橋(御廊下橋)です。写真2は、外曲輪からの大手門跡です。左手へと本坂(階段)を上り二ノ丸・本丸へと入ります。写真3は、大手門跡から右に天守、左に大手櫓を見たものです。写真4は、火点からの天守です。上って左手が三ノ門跡で、二之丸に入ります。写真5は、二ノ門跡から本丸へです。左に曲がって上ったところが一ノ門跡です。写真6は、南面した天守全景です。写真7は、天守内部に入り地階の...鳥取・島根巡り(2)松江城・出雲大社

  • 鳥取・島根巡り(1)倉吉白壁土蔵・白兎神社・鳥取砂丘

    (1)倉吉白壁土蔵・白兎神社・鳥取砂丘(2)松江城・出雲神社(3)足立美術館・日本庭園由志園2023年11月27日(月)~29日(水)、クラブツーリズム「上質なカニの証!タグ付き「香住ガニ」と鳥取・島根の7つの名所へはじめての山陰旅3日間」で旅してきました。旅程は、27日羽田発岡山着、蒜山高原(昼食)、倉吉市白壁土蔵群、鳥取砂丘、香住ガニ付きの夕食鳥取市泊28日松江城、出雲大社、松江泊29日足立美術館、日本庭園由志園、大浦市場なかうら、岡山発羽田着です。岡山空港に9時過ぎに到着し、バスでの観光のはじまりです。蒜山高原で当地のひるぜん焼きそばの昼食をとり、鳥取県へと向かいます。最初の観光地は倉吉市白壁土蔵群です。写真1は、本町通東側の1908(明治41)年建設の擬洋風建築の旧国立第三銀行倉吉支店(白壁倶楽部...鳥取・島根巡り(1)倉吉白壁土蔵・白兎神社・鳥取砂丘

  • 2024年の中国の祝日―中国雑感〔56〕―

    明年の祝日(休日)に関して、2024年10月25日(水)、国務院の通知「国務院弁公庁関于2024年部分節假日安排的通知」が国務院公式サイトにアップされ公表されました。例年の12月初頭の発表が早くなり、遅くなりましたが、これを載せます。一元旦(1月1日)12月30日(土)~1月2日(月)の3日間を休日。二春節(旧暦元旦2月10日)法定休日(旧暦元旦~3日)2月10日(土)~17日(金)の8日間を休日。2月4日(日)〔14日・木〕・2月18日(日)〔15日・金〕振替出勤日。三清明節(4月4日)4月4日(木)~6日(土)の3日間を休日。4月7日(日)〔5・金〕振替出勤日。四労働節(5月1日)5月1日(水)~5月5日(日)の5日間を休日。4月28日(日)〔3日・木〕・5月6日(土)〔4日・金〕振替出勤日。五端午節...2024年の中国の祝日―中国雑感〔56〕―

  • 伊達氏関係地巡り(3)大崎八幡宮―歴史雑感〔88〕―

    (1)瑞鳳殿・瑞鳳寺(2)仙台城跡(3)大崎八幡宮2023年11月19日(日)午後、最後の訪問地は大崎八幡宮(仙台市青葉区八幡4丁目6-1)です。本宮は坂上田村麻呂が創建したのと由来があり、慶長9(1604)年に伊達政宗が仙台城北西の現在地に勧請しました。社殿(本殿・石の間・拝殿)が1952年に国宝に指定されました。写真1は、大崎八幡宮の入口です。奥に見える大階段を上ります。写真2は、藩時代に整備された四ッ谷用水跡です。大階段下の橋のところから下流を撮ったものです。写真3は、大階段を上ってすぐのところから撮った三之鳥居です。写真4は、本殿へと入る長床(重文)です。写真5は、拝殿です。写真6は、本殿です。最後の写真6は、るーぷる仙台の車内から撮ったもので、仙台城跡から青葉山植物園西の途上です。なお大崎八幡宮...伊達氏関係地巡り(3)大崎八幡宮―歴史雑感〔88〕―

  • 伊達氏関係地巡り(2)仙台城跡―歴史雑感〔88〕―

    2023年11月19日(日)午後、瑞鳳殿に続いて仙台城跡(仙台市青葉区川内1)を訪れました。写真1は、本丸詰門の脇に立てられている仙臺城鳥瞰図です。写真2は、本丸の東崖上に建てられた懸造跡です。写真3は、本丸からの仙台市街展望で、中央当りが仙台駅方向です。写真4は、仙台藩藩祖伊達政宗騎馬像です。戦後再建された本像は東北大震災で破損しましたが、本年3月31日、伊達政宗公騎馬像帰還記念式典を行ない、修復がなり元の位置に鎮座しました。写真5は、同じく伊達政宗騎馬像です。写真6は、本丸大広間跡遺構表示です。写真7は、反対方向から伊達政宗騎馬像を入れての本丸大広間跡遺構表示です。写真8は、大手門へと到る詰門跡です。写真9は、詰門跡です。写真10は、本丸北壁石垣です。写真11は、中門跡です。ここも東北大震災で破壊され...伊達氏関係地巡り(2)仙台城跡―歴史雑感〔88〕―

  • 伊達氏関係地巡り(1)瑞鳳殿・瑞鳳寺―歴史雑感〔88〕―

    (1)瑞鳳殿・瑞鳳寺(2)仙台城跡(3)大崎八幡宮2023年11月19日(日)午後、仙台市の伊達氏関係地を巡りました。利用交通手段は仙台市交通局の「るーぶる仙台」を利用しました。最初に訪れたのは経ヶ峯に位置する瑞鳳殿(仙台市青葉区霊屋下23-2)です。本殿は仙台藩々祖伊達政宗の御霊屋です。寛永13(1636)年に2代藩主伊達忠宗により造営されました。戦前に国宝に指定されましたが、1945年に戦災により焼失し現在のは1979年に再建されたものです。他に2・3代藩主の御霊屋や子孫の墓があります。写真1は、瑞鳳殿入口からの杉参道です。上がって左側に折れて上ると瑞鳳殿で、写真2は、瑞鳳殿に入る涅槃門です。写真3は、左右に大香炉と正面に唐門です。奥が瑞鳳殿です。写真4は、唐門越しの瑞鳳殿です。写真5は、瑞鳳殿です。...伊達氏関係地巡り(1)瑞鳳殿・瑞鳳寺―歴史雑感〔88〕―

  • 安倍氏関係遺跡―歴史雑感〔87〕―

    2023年9月29日(金)午前、昨年4月(「衣川北岸の安倍氏・藤原氏関係地―歴史雑感〔64〕―)に回れなかった衣川北岸に位置する安倍氏関係遺跡を巡りました。今回は昨年は徒歩でしたが、今回はより遠いためもあり、JR平泉駅前のレンタル電動自転車を利用しました。最初は白鳥舘遺跡(岩手県奥州市前沢白鳥舘地内71)です。北上川が東側に大きく湾曲する西岸の旧領北端部に位置します。本遺跡は前九年の役で安倍貞任の弟白鳥八郎則任の柵と伝えられてきました。発掘調査により10~16世紀にかけて長期間利用されていたことが分かりました。現在の遺跡は15世紀の郭・土塁・堀跡等の城館跡が良く残されています。最初の写真1は、駐車場から遠望した白鳥舘遺跡です。中央の丘陵です。下に人家が見えます。人家のところから順路に従うと、写真2の、郭Ⅰ...安倍氏関係遺跡―歴史雑感〔87〕―

  • 武蔵国畠山荘関連史跡―歴史雑感〔86〕―

    2023年8月26日(土)午後、武蔵国畠山荘(埼玉県深谷市畠山)の関連史跡を巡りました。畠山荘は立荘経緯等や荘園領主は不明です。この地は、桓武平氏良文流の秩父武基から嫡宗の武綱、重縄、重綱、重弘と続き、その長男重能が秩父郡吉田郷(秩父市吉田)から本荘に移転し、初めて畠山氏を名乗ったところです。まず畠山重忠公史跡公園です。ここは竹山重忠墓(五輪塔)の地で、公園として整備されました。写真1は、『源平盛衰記』第三十七・義経落二鵯越一並畠山荷レ馬付馬因縁事に、「馬を労らんとて、手綱腹帯より合せて、七寸に余て大に太き馬を十文字に引からげて、鎧の上に掻負て、椎の木のすたち一本ねぢ切杖につき、岩の迫をしづ/\とこそ下けれ。東八箇国に大力とは云けれ共、只今かゝる振舞、人倫には非ず、誠に鬼神の所為とぞ上下舌を振ける。」とあ...武蔵国畠山荘関連史跡―歴史雑感〔86〕―

  • 福井県(4)―三方五湖・氣比神宮―

    2023年6月24日(土)、9時50分過ぎ、リフトに乗り三方五湖レインボーライン山頂公園での観光開始です。写真1は、三方五湖の、手前に水月湖、これと繋がった奥に菅湖、右奥に三方湖です。写真2は、公園奥(北)に進み、公園の位置する常神半島の東側を撮ったものです。写真3は、公園から西側撮ったもので、右奥の小島は鳥辺島です。左に水月湖が見えます。月写真4は、手前が水月湖、奥に三方湖です。写真5は、山頂公園奥の梅丈岳(400m)から南に公園を見たものです。写真6は、東を眺めたもので、手前左が日向港、右に少し見えている水面が日向湖です。奥に久々子湖です。写真7は、五湖全部が見えているものです。手前左が日向湖、奥が久々子湖、右が水月湖、これと繋がった奥が菅湖、この右に少し見えているのが三方湖です。写真8は、日向港と、...福井県(4)―三方五湖・氣比神宮―

  • 福井県(3)―一乗谷朝倉氏遺跡・一乗谷朝遺跡博物館―

    2023年6月23日午後(木)、一乗谷朝倉氏館遺跡と一乗谷朝倉氏遺跡博物館を見学しました。応仁の乱で越前国守護代の朝倉孝景は下剋上をして斯波氏に代わり守護となり、戦国大名に成長します。天正元年(1573)の織田信長により義景が滅ぼされまで、5代に渡り約百年弱の間戦国大名朝倉氏の本拠として朝倉氏館を中心に家臣等の城下町を形成したのが一乗谷です。国特別史跡に指定され、発掘調査も行われ遺構や各種の遺物が発見されました。13時50分過ぎに復原町並横の駐車場に到着し、見学開始です。写真1は、南(右)に上木戸と北(左)に朝倉氏館に挟まれた米津を南から北へと撮ったものです。米津には炉跡などの遺構があり発掘品と合わせて金工師がいたと想像できます、また奥の高台は諏訪館跡です、写真2は、諏訪館跡への登り道です。写真3は、諏訪...福井県(3)―一乗谷朝倉氏遺跡・一乗谷朝遺跡博物館―

  • 福井県(2)―平泉寺白山神社・東尋坊日没・丸岡城―

    2023年6月23日(金)に関しては、朝倉氏関係は別途とします。最初は平泉寺白山神社です。10時5分に到着です。福井・石川・岐阜3県にまたがる白山(2702m)は信仰の山で、養老元年(717)に神託をえた泰澄が平泉寺を開山し、白山信仰の中心地となりました。明治維新の神仏分離で寺号を廃し白山神社となりました。写真1は、奥に一の鳥居の立つ精進坂です。写真2は、一の鳥居です。写真3は、泰澄が神託を受け当社発祥の地とされる「林泉」御手洗池です。写真4は、御手洗池傍らのある三叉杉です。泰澄が植えたと伝える杉で、上部がご覧のように三又に分かれ、白山三山(三社)をかたどっています。写真5は、奥に拝殿です。写真6は、拝殿です。写真7は、御本社です。祭神は伊弉冊尊(いざなのみのみこと)で、白山主峰の御前峰(2702m)です...福井県(2)―平泉寺白山神社・東尋坊日没・丸岡城―

  • 福井県(1)—永平寺・東尋坊—

    2023年6月22日(木)~24日(土)、クラブツーリズム主催の「東尋坊・永平寺・三方五湖までぐるりっと7名所を周遊本当にあなたに見てほしいはじめての福井3日間」で福井県を旅行しました。観光旅程は1日目永平寺、東尋坊三国観光ホテル泊2日目平泉寺白山神社、一乗谷朝倉氏館遺跡、一乗谷朝倉氏館博物館、東尋坊日没、丸岡城(プロジェクションマッピング鑑賞)同泊3日目三方五湖レインボーライン山頂公園、氣比神宮、日本海さかな街です。北陸新幹線から乗り継ぎ、13時6分に福井駅で下車し、観光開始です。最初の観光地は曹洞宗大本山永平寺です。13時50分に到着です。写真1は、通用門から寺内の建物に入り、吉祥閣を経て、傘松閣2階の総天井の間を撮ったものです。写真2は、東司・僧堂を経て上り、左に行ったところにある、本寺開山の道元以...福井県(1)—永平寺・東尋坊—

  • 鉄道発祥関係地―歴史雑感〔85〕―

    2023年5月14日(日)午後、武蔵野文化協会例会の「高輪築堤の現在―海上鉄道―と泉岳寺「浅野長矩墓所」の拝観」に参加しました。今回はこの参観地を紹介します。最初の参観地は臨済宗大徳寺派東海寺大山墓地(東京都品川区北品川4-11−1)です。写真1は、入口から上がったところの左側にある沢庵墓(国史跡)です。沢庵宗彭(1573~1645)は但馬国出石の出身で、慶長14年(1609)の京都大徳寺の住持となり、紫衣勅許事件で寛永7年(1629)に出羽国上山に流されたが、同9年(1632)に赦免され、3代将軍徳川家光に重用されて東海寺の開山に迎えられました。正保2年12月に死去し享年73です。写真2は、同じく沢庵墓、ご覧のように墓石は自然石です。奥の墓地に入ると、写真3の、渋川春海墓です。渋川春海(1639~171...鉄道発祥関係地―歴史雑感〔85〕―

  • 2023年久保田城の桜

    2023年4月15日(土)午前、昨日の弘前城に続き、秋田市の久保田城の桜を愛でてきました。この写真をお見せします。写真1は、二の丸入口の東門(黒門)跡です。正面土手に「千秋公園桜まつり4月13日木~4月24日月」の看板があります。日付は例年通りですが、すでに満開から1週間ほど経っており、ここも例年以上に早い桜模様です。写真2は、二の丸から本丸の一ノ門(表門)を見上げたものです。写真3は、二の丸からの本丸土手の桜です。写真4は、一ノ門です。写真5は、一ノ門の裏側です。写真6は、本丸から裏門坂へです。写真7は、本丸の桜です。写真8は、本丸の隅櫓です。写真9は、本丸の桜です。最後の写真10は、本丸上からの二の丸の湖月池です。(2023.05.12)2023年久保田城の桜

  • 2023年弘前城の桜

    2023年4月14日(金)昼、弘前城(弘前公園)の桜を愛でてきました。今年は全国的に暖かく、弘前城の桜も2日前に満開宣言が出ていました。遅れましたがこの写真をお見せします。まずは追手門から三の丸、二の丸、本丸、四の丸を経て北門から出ました。写真1は、追手門口からの三の丸南濠の桜です。写真2は、追手門です。写真3は、二の丸東南角の辰巳櫓です。写真4は、二の丸への杉の大橋です。写真5は、南内門です。写真6は、二の丸西南角の未申櫓です。写真7は、本丸への下乗橋です。写真8は、修理中の本丸石垣から奥に移転された天守です。写真9は、南からの天守です。写真10は、東南からの天守です。写真11は、北からの天守です。写真12は、西南からの天守です。写真13は、天守上からの本丸の桜です。写真14は、修理中の本丸石垣と桜です...2023年弘前城の桜

  • 2023年鶴見川太尾堤の桜

    2003年3月27日(月)午前、鶴見川太尾堤の桜を愛でてきました。満開を少し過ぎて盛りでした。この写真をお見せします。(2023.03.28)2023年鶴見川太尾堤の桜

  • 2023年大倉山梅林

    2023年2月25日(土)午前、大倉山梅林に観梅に行きました。ほぼ満開でした。下入口から上と上っていきます。この写真を木全体を基本としてお見せします。〈紅垂れ桜〉〈白垂れ桜〉〈白加賀〉〈玉垣〉〈鹿児島紅〉〈長寿〉〈八重垣〉〈玉牡丹〉〈紅千鳥〉〈古今集〉(三吉野)〈唐紅〉〈田子の浦〉〈紅千鳥〉〈冬至梅〉〈月影〉〈見驚〉〈野梅〉〈緑荸梅〉〈八重寒梅〉〈玉簾〉〈春日〉〈冬至梅を前に各梅〉最後は、25日(土)・26日(日)に開かれる第35回大倉山寒梅会での「和太鼓ユニット三色だんご」による和太鼓演奏風景です。本会はコロナにより3年振りのものです。(2023.03.01)2023年大倉山梅林

  • 京都寺巡り(6)金地院―歴史雑感〔86〕―

    2023年2月8日(水)午前、南禅寺に続いて臨済宗南禅寺派金地院(京都市左京区南禅寺福地町86-12)を訪れました。本院は南禅寺の塔頭で、徳川幕府初頭の政僧として知られる以心崇伝が住していました。写真1は、方丈(重文)からの蓬莱式枯山水の鶴亀庭園全景です。小堀遠州作庭です。奥に見えるのは金地院東照宮(重文)です。小堀遠州作の茶室「八窓席」(重文)が方丈北側の小書院に付設されています。方丈内の狩野派の襖絵と共に見学しました。写真2は、鶴亀庭園の左にある弁天池です。写真3は、金地院東照宮です。寛永5年(1628)に造営されました。写真4は、方丈と鶴亀庭園です。写真5は、方丈です。写真6は、鶴亀庭園です。写真7は、右側の鶴島と下に羽石です。写真8は、中央の平面石が遙拝石で奥が三尊石組で、さらに奥が蓬莱山です。右...京都寺巡り(6)金地院―歴史雑感〔86〕―

  • 京都寺巡り(5)南禅寺―歴史雑感〔85〕―

    2023年2月8日(水)午前、自由散策として、まず臨済宗南禅寺派大本山瑞龍山南禅寺(京都府左京区南禅寺福地町86)を訪れました。本寺は、正応4年(1291)、亀山法皇が無関普門禅師(大明国師)を開山に迎えて開創されました。実際の寺院の建物は、第2世規庵祖圓禅師(南院国師)により、約15年をかけて完成しました。これにより規庵禅師が創建開山と呼ばれるようになりました。写真1は、左に勅使門(重文)、右に中門です。写真2は、勅使門です。写真3は、「天下竜門」と称される三門(重文)です。上層の楼を五鳳楼と呼び、日本三大門の一つです。三門は五間三戸二階二重門、入母屋造、本瓦葺、高さは約22mです。写真4は、三門楼上から勅使門へとです。写真5は、三門楼上からの南禅僧堂です。写真6は、三門楼上からの法堂です。写真7は、拡...京都寺巡り(5)南禅寺―歴史雑感〔85〕―

  • 京都寺巡り(4)清水寺―歴史雑感〔84〕―

    2023年2月7日(火)午後、北法相宗音羽山清水寺(京都市東山区清水1丁目294)を訪れました。副住職のお出迎えを受け、大講堂で貫主のお話を伺いました。次いで多宝閣を参観しました。そして成就院の庭園を拝見しました。写真1は、大講堂から眺めた京都市街です。写真2は、三重塔です。写真3は、本堂の舞台からの京都市街です。写真4は、舞台から手前に音羽の瀧、奥に子安塔です。写真5は、奥の院からの本堂です。最後の写真6は、舞台を下から眺めたものです。なお、時間の関係で多くの建物は撮っていません。以上で、武蔵野文化協会2月例会の寺巡りは終わりです。(2023.02.13)京都寺巡り(4)清水寺―歴史雑感〔84〕―

  • 都寺巡り(3)萬福寺―歴史雑感〔83〕―

    2023年2月7日(火)午前、黄檗宗大本山萬福寺(京都府宇治市五ケ庄三番割34)を訪れました。山門で副住職のお出迎えを受けました。本寺は明から渡来した隠元隆琦が寛文元年(1661)に開創しました。他の日本の寺院とは異なり、建築物・作法等が基本的に明末の様式となっています。ですから、本堂も中国式の大雄寶殿と称します。写真1は、総門です。中央の屋根を高くし、左右を一段低くした中国門の牌楼式となっています。本寺の建物は基本的に中国の明時代末期頃の様式で造られています。これは宗祖隠元禅師によるものです。写真2は、山門です。重層の楼門造りで、正面の額「黄檗山」、「萬福寺」は隠元書です。写真3は、天王殿です。弥勒菩薩(布袋像)が安置されています。山門から続く参道は石で龍の背の鱗を模擬化したもので、本寺の参道は基本的に...都寺巡り(3)萬福寺―歴史雑感〔83〕―

  • 京都寺院巡り(2)天龍寺―歴史雑感〔82〕―

    023年2月6日(月)午後、臨済宗天龍寺派大本山霊亀山天龍資聖禅寺(京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町68)を訪れました。本寺は、後醍醐天皇の菩提を弔うために、暦応2年(1339)、足利尊氏を開基、夢窓疎石を開山として、創建され、康永4年(1345)、落慶しました。まず、副住職の御案内で法堂に入り、住職のお話を伺い、その後に加山又造作「八方睨みの龍」の天井画の説明を受けました。次いで、方丈の方へと移動しました。写真1は、方丈奥に位置する後醍醐天皇の尊像を祀る祠堂の後醍醐天皇聖廟多宝殿です。写真2は、方丈裏(西側)の曹源池庭園で、この右側の部分です。夢窓疎石の作庭と伝えられています。写真3は、曹源池庭園左側部分です。借景に嵐山をえています。写真4は、曹源池庭園中央奥の龍門の滝です。写真5は、方丈に入り撮った曹...京都寺院巡り(2)天龍寺―歴史雑感〔82〕―

  • 京都寺院巡り(1)臨川寺―歴史雑感〔81〕―

    2023年2月6日(月)~8日(水)、武蔵野文化協会の2月例会として「京都を巡る」と題して寺院を巡りました。最初は6日午前の霊亀山臨川寺(京都市右京区嵯峨天龍寺造路町33)です。臨済宗天龍寺派大本山天龍寺の別院です。非公開寺院で、特別に副住職の御案内を受けました。写真1は、山門です。普段は閉められおり、特別にここより入らせてもらいました。写真2は、奥の中門への参道です。写真3は、中門です。この奥に龍華三会の庭と三会院(本堂)です。写真4は、中門に掲げられている足利義満筆の扁額「三會院」です。写真5は、手前が龍華三会の庭、奥が三会院です。写真6は、同じく龍華三会の庭、三会院をより右から少し拡大したものです。院内には中央に本尊の弥勒菩薩、右に世良親王像位牌、左に開山の夢窓疎石木像、天井画として加山又造作の「八...京都寺院巡り(1)臨川寺―歴史雑感〔81〕―

  • 2023年三嶋大社初詣

    2023年1月1日(日)、三嶋大社に初詣をしました。写真1は、大鳥居前からのもです。参拝者の列はご覧のように大鳥居から歩道の左側へと50m余も伸びていました。11時31分撮影です。写真2は、神門手前からのもので、11時49分撮影です。写真3は、神門を通ったところで、参拝待ちの整理で止まったところです。11時51分撮影です。最後の写真4は、参拝を終えたところで撮ったものです。11時58分撮影です。(2023.01.02)2023年三嶋大社初詣

  • 中田島砂丘の初日の出

    2023年元旦(日)、静岡県浜松市の中田島砂丘で初日の出を勧賞しました。この写真をお見せします。なお日の出は6時55分頃です。写真1は、日の出を待つ6時53分の海岸線です。写真2は、初日の出直後の56分です。海岸線中央に太陽が姿を現しました。写真3は、はっきりと太陽が姿を現しました。写真4は、望遠一杯での太陽で58分です。、写真5は、逆に一杯に引いて撮ったものです。写真6は、ほぼ上がった太陽です。写真7は、上がった太陽で、59分です。最後の写真8は、帰りの砂丘上から上がった太陽を撮ったものです。7時3分です。(2023.01.02)中田島砂丘の初日の出

  • 2022年度記事目次

    壬寅年を終わるに当たって、2022年度(1~12月)記事目次を掲載します。では、癸卯年がよいお年で。01.06富士山と初詣(1)大室山と伊豆の国パノラマパーク01.08富士山と初詣(2)田貫湖(御来光)と久能山東照宮01.10富士山と初詣(3)日本平と三保の松原01.12富士山と初詣(4)富士山本宮浅間大社と三嶋大社01.14富士山と初詣(5)山中城跡―歴史雑感〔70〕―02.08江間小四郎義時―歴史雑感〔71〕―03.102022年大倉山の桜03.14公暁の生母は源頼家の正室か―歴史雑感〔72〕―04.08石垣山城遺址―歴史雑感〔73〕―04.10後北条氏小田原城早川口遺構―歴史雑感〔74〕―04.122022年小田原城の桜05.06奥州合戦の藤九郎盛長―歴史雑感〔75〕―05.31伊勢神宮(1)二見浦...2022年度記事目次

  • 2023年の中国の祝日―中国雑感〔55〕―

    明年の祝日(休日)に関して、2022年12月8日(木)、国務院の通知「国務院弁公庁関于2020年部分節假日安排的通知」が国務院公式サイトにアップされ公表されました。2021年から12月発表が11月に早まりましたが、今回は12月となったのは元国家主席江沢民死去による追悼大会(6日)を終えてからとしたためでしょう。一元旦(1月1日)12月31日(土)~1月2日(月)の3日間を休日。二春節(旧暦元旦1月22日)法定休日(旧暦大晦日・元旦・1月2日)1月21日(土)~27日(金)の7日間を休日。1月28日(土)〔26日・木〕・1月29日(日)〔27日・金〕振替出勤日。三清明節(4月5日)4月5日(水)の1日間を休日。四労働節(5月1日)4月29日(土)~5月3日(水)の5日間を休日。4月23日(日)〔2日・火〕・...2023年の中国の祝日―中国雑感〔55〕―

  • 湯河原・もみじの郷

    2022年12月1日(木)午前、もみじの郷ハイキングコースを歩きました。奥湯河原温泉の池峯橋から出発しました。まずは上りもみじ山に至ります。写真1~4が、もみじ山の紅葉です。ここから下りになり、次は写真5・6の、池峯です。さらに下ると、遊歩道の左右に紅葉が広がります。ここではまだ5・6分咲きぐらいです。写真7~9が、そうです最後の写真10は、ハイキングコースの終点です。(2022.12.08)湯河原・もみじの郷

  • 鎌倉上道と武蔵武士史跡(下)―歴史雑感〔80〕―

    2022年10月29日(土)午後、「国史跡鎌倉街道上道と武蔵武士ゆかりの史跡を巡る」を続けます。北上した最初の地が笛吹峠(比企郡鳩山町須江)です。正平7年(1352)に宗良親王を奉じた新田義宗が峠に陣して足利尊氏と合戦を行っています。写真1は、戦前に県が立てた「史蹟笛吹峠」石碑です。実際の鎌倉街道上道の峠は道路の東に行った将軍沢の谷間であり、現在は廃道となっています。さらに北上して、写真2の、大蔵館跡(比企郡嵐山町大蔵522)に至ります。大蔵神社となっています。源義賢の館跡とされており、現存の遺構から東西170m、南北220m、面積4万㎡の規模を持つ土塁と堀を巡らした方形館です。現存する大館と発掘調査で確認された方70mの小館(北西面)からなっています。発掘調査により12~15世紀にかけて活動していたこと...鎌倉上道と武蔵武士史跡(下)―歴史雑感〔80〕―

  • 鎌倉上道と武蔵武士史跡(上)―歴史雑感〔79〕―

    2022年10月29日(土)、武蔵野文化協会主催の「国史跡鎌倉街道上道と武蔵武士ゆかりの史跡を巡る」に参加して埼玉県を巡りました。東武東上線坂戸駅北口に集合して、9時35分にバスで出発しました。最初の訪問地は、大類古墳群1号墳の苦林古墳(入間郡毛呂山町川角2238)です。現在の長約23mの前方後円墳で、写真1は、後円部から撮ったものです。頂部に石碑が見えます。写真2は、1931年に立てられた「苦林野古戦場之遺蹟」碑です。ここは貞治2年(1362)6月に鎌倉公方足利基氏と宇都宮氏綱重臣芳賀禅阿子息との合戦地です。写真3は、奥の前方部に立つ文化10年(1813)銘のある千手観音石仏像です。苦林野合戦の戦死者供養のため里人が建立したものです。次に訪問地は十社神社(入間郡毛呂山町大類29)です。写真4は、神社入口...鎌倉上道と武蔵武士史跡(上)―歴史雑感〔79〕―

  • 第三代将軍源実朝の元服式

    第2代将軍の源頼家が死去し後継に弟三幡との申請により、建仁3年(1203)9月7日、後鳥羽上皇が童の千幡に諱実朝を与え、従5位下征夷大将軍に補任しました。そこで、幕府は、10月8日、実朝の元服式を執り行いました。『吾妻鏡』同日条に元服式の記事が記載されています。戌刻(20時)に北条時政の名越邸で儀式が行われました。中原広元、小山朝政、安達景盛、和田義盛、中条家長以下の百人余が侍座に着しました。理髪役が時政、そして加冠役が平賀義信です。陪膳が江間義時・源親広、役走が結城朝光、・和田常盛・同重茂・東重胤・波多野経朝・桜井光高で、鎧等を奉じたのが佐々木広綱・千葉常秀です。以上が儀式に参加したと記述されている面々です。ここで将軍の元服式ではありませんが、北条頼時(泰時)元服式の『吾妻鏡』建久5年(1195)2月2...第三代将軍源実朝の元服式

  • 前期鎌倉幕府における武蔵国支配―〔77〕―

    一、頼朝期伊豆国で反乱蹶起した源頼朝は、治承4年(1180)9月5日、武蔵国府に入り、武蔵国の支配圏を掌握しました。もちろんこれは朝廷の公認によるものではなく、反乱による実力支配です。いわば武蔵国支配の簒奪です。元暦元年(1184)に頼朝は知行国として武蔵・駿河両国を給わり、6月5日、義光流信濃源氏の平賀義信が守に補任されました。もちろん頼朝の推挙によるものです。これにより、武蔵国支配は、知行国主源頼朝、武蔵守平賀義信、在庁官人というラインとなりました。そして、武蔵国は幕府滅亡まで関東御分国(将軍知行国)でした。ここで、守の業務たる国務はどのような内容を有していたのでしょうか。簡略にいうと下のようになります。1.所務沙汰イ所課沙汰(徴税権)ロ訴訟沙汰(裁判権)ハ所司沙汰(人事・公領処分権)ニ雑事沙汰(その...前期鎌倉幕府における武蔵国支配―〔77〕―

  • 北条政子は源頼朝の正室に何時なったのか―歴史雑感〔76〕―

    貴族社会では男子が複数の妻を娶るのは普通のことでした。複数の妻の内正妻が正室と呼ばれました。では、正室はどのように選ばれるのでしょうか。一般的にいえば、単に愛情の大小ではなく妻の門地が大事でした。複数の妻の内で最高の門地の妻が正室となるのが普通でした。例えば、藤原道長の妻は左大臣源雅信の娘倫子、左大臣源高明の娘、中納言源重光の娘が知られていますが、高明は政変で失脚しており、倫子が正室、すなわち御台所となっています。道長と倫子は大臣家と門地は同格といってもいいのです。このように、妻の中で最高の門地、いわば同格の門地の妻が正室となるのです。もちろん、格下の門地の妻が正室の場合もあります。摂関家九条家の祖兼実の御台所は従3位藤原季行の娘でした。12世後期には家業の継続を目的とする日本的家制度が成立していました。...北条政子は源頼朝の正室に何時なったのか―歴史雑感〔76〕―

  • 伊勢神宮(3)伊勢神宮内宮・金剛證寺・朝熊山展望台

    2022年5月27日(金)、7時58分にホテルを出発し、九時55分、伊勢神宮内宮に到着しました。内宮参拝では案内人が付きました。写真1は、宇治橋です。ご覧のように修学旅行生が渡っています。高校・中学校・小学校と複数の修学旅行生を見かけました。コロナの旅行規制がなくなり、旅行が回復傾向な印でしょう。写真2は、五十鈴川の強水時に宇治橋を保護する漂流物止めです。写真3は、宇治橋の擬宝珠です。写真4は、第一鳥居です。写真5は、五十鈴川御手洗場です。前日の雨のため閉鎖されていました。写真6は、正宮です。写真7は、正宮手間の道を上がっていたところにある外幣殿です。写真8は、正宮の裏口から撮ったものです。奥の一段と高いところが古殿地です。写真9は、奥にある荒祭宮です。写真10は、右が荒祭宮で左が古殿地です。参道に戻り、...伊勢神宮(3)伊勢神宮内宮・金剛證寺・朝熊山展望台

  • 伊勢神宮(2)伊勢神宮外宮・横山展望台

    2022年5月26日(木)、9時にホテルを出発し、9時55分、伊勢神宮外宮に到着しました。写真1の、表参道日除橋から外宮に入ります。一の鳥居を過ぎ、写真2は、二の鳥居です。写真3は、古殿地(式年遷宮予定地)からの本宮です。写真4は、古殿地です。写真5は、本宮正面です。ここから入り参拝です。写真6は、出口からの本宮です。写真7は、本宮の南にある別宮の多賀宮です。山の頂にあるので古くから高宮と呼ばれていました。写真8は、多賀宮にも古殿地があり、これからの宮です。戻って左手に入ると谷間に、写真9の、下御井神社です。戻りさらに左手にあるのが、写真10の、土宮です。写真11は、土宮の古殿地を入れて撮ったものです。土宮の反対側は、写真12の、風宮です。写真13は、風宮の古殿地です。写真14は、手前が九丈殿、奥が五丈殿...伊勢神宮(2)伊勢神宮外宮・横山展望台

  • 伊勢神宮(1)二見浦・猿田彦神社

    2022年5月25日(水)~27日(金)、クラブ・ツーリズム主催の「伊勢神宮と絶景伊勢志摩巡り3日間」で旅行をしました。観光地旅程は、1日目二見浦・夫婦岩(二見興玉神社)、猿田彦神社ホテル&リゾーツ伊勢志摩泊2日目伊勢神宮・外宮、横山展望台、神明神社同泊3日目伊瀬神宮・内宮、おかげ横丁、朝熊岳・金剛證寺、朝熊山展望台です。11時39分、新幹線の豊橋駅で下車し、バス移動で観光開始です。伊勢神宮参拝の順路は二見浦(立入浜)での沐浴ということで、最初の訪問地は二見浦です。現在は実際の沐浴は行わず、当地の二見興玉神社参拝で始めます。13時25分、到着です。写真1は、夫婦岩です。鳥居のある大きい岩が男岩(高9m)で、小さい岩が女岩(高4m)です。二つの岩を結ぶ大注連縄は長35m、男岩に16m、女岩10m巻かれて、岩間が9...伊勢神宮(1)二見浦・猿田彦神社

  • 奥州合戦の藤九郎盛長―歴史雑感〔75〕―

    武蔵武士足立遠元の年少の叔父藤九郎盛長は周知のように伊豆流人時代から源頼朝に近侍して側近でした。治承・寿永の内乱当初には頼朝の使者として味方集めに奔走しましたが、石橋山合戦は別として戦場に出ることはありませんでした。『吾妻鏡』文治5年7月19日条に見るように、奥州合戦に出陣する中軍総帥源頼朝の鎌倉進発行列交名で、武士御家人として先頭の三浦一族、次いで小山一族、畠山一族に続いて、藤九郎盛長と足立遠元が土肥一族に挿まれて所見するのです。ここに足立一族の一員として盛長も奥州合戦に出陣したのです。8月10日、奥州藤原氏の防御線の阿津賀志山を突破した中軍は、12日、陸奥国府の多賀城に入り、さらに進軍を続けました。14日、物見岡(宮城県富谷市三ノ関)を小山朝政・下河辺行平等の小山一族が攻撃し敗退させた(『吾妻鏡』文治五年八...奥州合戦の藤九郎盛長―歴史雑感〔75〕―

  • 2022年小田原城の桜

    2022年4月2日(土)昼、小田原城の桜を観賞しました。満開宣言直後でした。東から西へと巡りました。まず、後北条氏小田原城の東曲輪跡に上り、天守閣を見下ろしました。写真Ⅰは、天守閣と下に桜です。写真2は、北入口から入り、緩い坂の途上で天守閣と坂の桜並木を撮ったものです。写真3は、天守閣下から見上げたものです。写真4は、さらに進み天守閣南西角から撮ったものです。写真5は、ちょっと位置を変えて撮ったものです。写真6は、さらに進み天守閣入口階段から全景を写し込んだものです。写真7は、本丸に入り、南東から天守閣を撮ったものです。写真8は、東から天守閣を撮ったものです。写真9は、同じく東から天守閣全景を撮ったものです。写真10は、常盤木門外の本丸東堀土手の桜拡大です。写真11は、同じく桜拡大です。写真12は、本丸東堀土手...2022年小田原城の桜

  • 後北条氏小田原城早川口遺構―歴史雑感〔74〕―

    2022年4月2日(土)午前、石橋山城遺址から小田原市街に向かう途中で、後北条氏小田原城早川口遺構に立ち寄りました。後北条氏は豊臣秀吉の来襲に備えて、城下町全体を取囲む約9kmの総構を天正18年()までに構築しました。その遺構の一つが南口であり箱根路への出発点である早川口です。二重戸張という二重の堀と土塁で防備を固めたのが早川口です。アクセスは早川口バス停下車で、市街へと北に少し行ったところの信号に、「史跡小田原城早川口遺構入口」の案内表示があります。写真1は、遺構に入り東へと撮ったものです。公園となっており、窪んだところが堀跡で、両側に土塁がありました。写真2は、奥に入り土塁上から西へと撮ったものです。最後の写真3は、外側の土塁を撮ったののです。(2022.04.10)後北条氏小田原城早川口遺構―歴史雑感〔74〕―

  • 石垣山城遺址―歴史雑感〔72〕―

    2022年4月2日(土)ごぜん、石橋山城遺址を公園化した石橋山一夜城歴史公園を訪れました。よく知られてるように石垣山城は天正18年(1590)の豊臣秀吉の後北条氏小田原城攻めの際に築かれました。山の木を一斉に切り払って、一夜で城が完成したように見せたとの伝説を生み、「石垣山一夜城」とも称せられています。土日(祝日)は小田原宿観光回遊バス「うめまる号」が運行され、小田原駅東口・一夜城歴史公園間を1時間に1本程度で循環します。運賃は乗り降り自由で500円です。徒歩だとJR早川駅から約2.3km(標高差約200m)です。写真1は、城入口前に立つ「石橋山城」案内板です。写真2は、東登城口旧城路です。本丸への正面道となります。写真3は、南曲輪を経て本丸に至る虎口です。現在は石垣が崩れ歩行困難となっています。虎口前で路を右...石垣山城遺址―歴史雑感〔72〕―

  • 公暁の生母は源頼家の正室か―歴史雑感〔72〕―

    『源氏将軍断絶』第二章第一節2021年5月PHP新書頁96~9で、坂井孝一氏は、公卿の生母辻殿は第2代将軍源頼衛の正室と、主張しています。『吾妻鏡』承元4年(1210)7月8日条に、「金吾将軍の室〈号辻殿と号、善哉公の母なり。」、とあるのを根拠としています。そして、同承久元年(1219)正月27日条に、「(頼家)御息、母は賀茂六郎重長の女〈為朝の孫娘なり。〉」、とあることから、母は賀茂重長の娘としています。次いで、重長の出自を考察して、重長は満政流の後裔で、満政曽孫の重宗が佐渡守に任官した京武者で、この孫の重成が『平治物語』の記す佐渡式部大夫と兄弟の重貞と共に諸大夫としています。姻戚関係では2人の兄重遠は源義家の娘を妻とし、重遠の孫の重長が源為義の孫娘、すなわち為朝の娘を妻にしているとしています。以上から、家格...公暁の生母は源頼家の正室か―歴史雑感〔72〕―

  • 2022年大倉山梅林

    2022年3月9日午前、大倉山公園梅林に出かけました。そこで、まだ蕾のままの梅もありますが、色々な梅の花弁を主体とした写真をお見せします。〈白加賀〉〈白玉梅〉〈野梅〉〈八重木紅〉〈冬至梅〉〈月影〉〈玉厳〉〈無頼絞り〉〈花香実〉〈見驚〉〈月宮殿〉〈杉田〉〈田子の浦〉〈蓬美〉〈玉垣〉〈美児島紅〉〈八重旭〉〈紅千鳥〉〈古今集〉最後は垂れ桜の〈淡路枝垂れ〉全景です。(2022.03.10)2022年大倉山梅林

  • 江間小四郎義時―歴史雑感〔71〕―

    本年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公は北条小四郎義時です。義時はこれからのドラマでは「北条」ではなく「江間」でも登場するでしょう。当時の名字の過半が居所(地名)に由緒するのは知っての通りです。「江間」は、北条氏の本貫伊豆国田方郡北条(静岡県伊豆の国市寺家等)とは狩野川を挟んだ対岸を北に少し行ったところに位置する江間荘(静岡県伊豆の国市南江間・北江間等)です。伊豆の国市南江間862には義時館跡とする地があり江間公園となっています。北条氏館跡(円成寺跡・同市寺家13)からはほぼ北に約800mです。さて、本来は北条であった義時は何時から江間と称したのでしょうか。その根拠は義時が江間荘を所有したことによることは間違いないですが。『吾妻鏡』に於ける義時の表記で、「江間」が初見するのは養和元年(1181)4月7日条で...江間小四郎義時―歴史雑感〔71〕―

  • 富士山と初詣(5)山中城跡―歴史雑感〔70〕―

    2022年1月2日(日)、12時50分前に最後の訪問地、山中城跡に着きました。本城は永禄年間に後北条氏が対武田戦の西の境目の城として築いたとされています。豊臣氏との緊張関係が高まった天正15年(1587)頃から改修工事が始まり、開戦前の17年(1589)に南北に東海道を扼する尾根に出丸、岱崎出丸が築かれます。そして、18年(1590)3月28日、豊臣軍先鋒の豊臣秀次を総大将とする約3万5千の大軍が玉縄城主北条氏勝を総大将とする後北条軍約4千と激突します。第一陣に一柳直末が大手口、中村一氏が岱崎出丸攻略担当となり、第二陣に山内一豊が続行します。この予備隊として堀尾吉晴と田中吉政が控えました。一方、搦手に当たる西櫓・西ノ丸には徳川家康が攻略を担当しました。早朝より開始された攻撃に対して、後北条軍は凄まじい射撃で応え...富士山と初詣(5)山中城跡―歴史雑感〔70〕―

  • 富士山と初詣(4)富士山本宮浅間大社と三嶋大社

    2022年1月2日〈日〉、8時に出発し、神社初詣です。8時20分に富士山本宮浅間大社に到着しました。写真1は、第一鳥居です。奥に雲がかかっていますが、富士山が見えます。写真2は、石鳥居です。写真3は、楼門(間口4間・奥行2間半・高6間半、2階入母屋造)です。写真4は、拝殿です。写真5は、拝殿での参拝です。写真6は、左に国宝本殿(二重の楼閣造・棟高45尺、2階は間口3間・奥行2間・桧皮葺)、間に幣殿(間口5間・奥行3間)、右に拝殿(間口5間・奥行5間)です。以上、徳川家康の寄造営です。写真7は、拝殿右から本殿2階を見ます。写真8は、本殿2階です。東脇門を出ると、写真9の、涌玉池です。富士山噴火の溶岩流の末端に位置し、湧水の池です。写真10は、溶岩流の末端部の涌玉池で、段となった奥から大量の湧水が出ます。写真のよう...富士山と初詣(4)富士山本宮浅間大社と三嶋大社

  • 富士山と初詣(3)日本平と三保の松原

    2022年1月1日(土)、久能山東照宮からロープウェイで日本平に10時45分過ぎに移動してきました。日本平夢テラスの展望回廊に上り、時計回りで富士山を展望します。写真1は、広角で前に静岡市清水区、後に富士山から箱根山への遠望です。写真2は、望遠での富士山です。写真3は、望遠いっぱい(35mm換算450mm相当)での富士山です。写真4は、展望回廊を写し込んで、下に清水港、奥に富士山です。写真5は、望遠での宝永火口側の富士山です。写真6は、逆側の富士山です。写真7は、望遠気味の富士山全景です。写真8は、静岡市街から西へです。写真9は、遠く白く見えるのが南アルプスです。写真10は、展望回廊上からの富士山全景です。写真11は、日本平ロープウェイです。以上で、日本平は終わりで、12時半、昼食の日本平の日月星に移動です。1...富士山と初詣(3)日本平と三保の松原

  • 富士山と初詣(2)田貫湖(御来光)と久能山東照宮

    2022年1月1日、5時50分に出発し、富士山麓の田貫湖での御来光です。6時25分に着き、6時52分の日の出を待ちます。写真1は、姿を見せた太陽です。7時4分で、遠くの山陰から上るため少し遅いです。写真2は、広角いっぱいにして富士裾野を入れて撮ったものです。写真3は、ほぼ上ったところで撮ったものです。写真4は、広角気味して撮ったものです。写真5は、完全に上ったところです。写真6は田貫湖を前にした富士山全景です。本朝は雲一つない快晴です。、写真7は、望遠気味で撮った富士山です。以上で田貫湖は終わり、ホテルに戻り朝食です。8時40分に出発し久能山東照宮に向かい、9時40分到着しました。写真8は、一ノ鳥居です。ここから表参道石段1159段を上ります。写真9は、表参道石段の途上から見下ろして撮ったものです。写真10は、...富士山と初詣(2)田貫湖(御来光)と久能山東照宮

  • 富士山と初詣(1)大室山と伊豆の国パノラマパーク

    2021年12月31日(金)から2022年1月2日(日)まで、クラブツーリズム主催の「『伊豆・駿河』6つの富士と新春初詣三社参りウォーキング3日間」で富士山観望と初詣を行いました。基本旅程は、31日(金)大室山、伊豆の国パノラマパーク(葛城山)富士宮富嶽温泉泊1日(土)田貫湖(御来光)、久能山東照宮、日本平、三保の松原同泊2日(日)富士山本宮浅間大社、三嶋大社、山中城跡です。本ツァーは新宿駅西口発ですが、横浜駅東口から乗車し9時半に出発しました。12時前に最初の観光地大室山に着き、リフトで山上に上がりました。山上に来ると、強風により立って歩行するも困難でしたが、少し治まり時計回りに歩き出し撮ったのが写真1です。伊豆七島が遠望でき、これは大島です。写真2は、少し進み、大島と右に利島を入れたものです。写真3は、大室...富士山と初詣(1)大室山と伊豆の国パノラマパーク

  • 2021年度記事目次

    辛丑年を終わるに当たって、2020年度(1~12月)記事目次を掲載します。では、壬寅年がよいお年で。O2.23ソフィール踊り子1号02.25伊豆下田02.27河津桜202103.02北条氏常磐亭跡―歴史雑感〔62〕―03.04大仏切通し―歴史雑感〔63〕―03.222021年鶴見川の紅桜04.12山木夜討ち(その四)―歴史雑感〔37〕―04.20桜の盛岡城跡公園04.21平泉の桜並木04.24衣川北岸の安倍氏・奥州藤原氏関係地―歴史雑感〔64〕―05.02鎌倉幕府第2代将軍源頼家は何時元服したのか―歴史雑感〔65〕―05.28旧藤本家住宅―歴史雑感〔66〕―06.28湯河原の不動滝08.06後北条氏小田原城遺址(その1)―歴史雑感〔67〕―08.08後北条氏小田原城遺址(その2)―歴史雑感〔67〕―08.12後...2021年度記事目次

  • 安達氏祖盛長は何故藤九郎とのみ称したのか―歴史雑感〔69〕―

    安達氏祖盛長は、源頼朝の伊豆国流人の時からそばで仕え、鎌倉幕府成立後では甘縄邸に頼朝が度々訪れる等、最側近として知られています。盛長は『吾妻鏡』に52日所見(内、死後は2日)するが、生前末の正治元年10月27日条の「足立藤九郎入道」と同28日条の「安達藤九郎盛長入道」の2日を除けば、死後も含めて50日は単に名前のみか「藤九郎」とあり、いわゆる名字を付していません。これに対して、盛長嫡子の景盛は初見の正治元年7月16日条に「安達弥九郎景盛」とあるように、名字の安達を付して所見することが多いです。盛長は武蔵武士の足立遠元の叔父で同族との立証があります(金澤正大氏、「公文所寄人足立右馬允遠元の史的意義」(上)『政治経済史学』第156号1979年5月〔『鎌倉幕府成立期の東国武士団』2018年岩田書院再録〕)。盛長の嫡男...安達氏祖盛長は何故藤九郎とのみ称したのか―歴史雑感〔69〕―

  • 青森・北海道の縄文遺跡(6)大船遺跡―歴史雑感(68)―

    2021年11月9日(火)、8時に出発し最初の見学地大船遺跡(北海道函館市大船町575−1)に8時45分に着きました。本遺跡は大船川沿岸の標高30~50mの海岸段丘上にあり、縄文中期の大型集落跡です。100棟を越える竪穴住居跡と盛土からなる居住区と、南西に墓・貯蔵穴を含む100基以上の土坑群が確認されています。写真1は、北からの大船遺跡の公開部分「縄文のにわ」全景です。写真2は、遺跡上部(東)から海(西)と撮ったものです。写真3は、枠のみの復元竪穴住居です。写真4は、復元竪穴住居です。写真5は、竪穴住居跡です。他の遺跡のが浅いのに対して、2m以上と深く掘込まれているのが分かります。写真6は、住居跡は重なって発掘されています。写真7は、復元竪穴住居内部です。写真8は、盛土遺構です。ここからは石器・土器の他、魚類骨...青森・北海道の縄文遺跡(6)大船遺跡―歴史雑感(68)―

  • 2022年の中国の祝日―中国雑感〔54〕―

    明年の祝日(休日)に関して、2021年11月25日(木)、国務院の通知「国務院弁公庁関于2020年部分節假日安排的通知」が国務院公式サイトにアップされ公表されました。昨年から従来の12月から11月へと早く公表されましたが、本年も昨年と同日です。一元旦(1月1日)1月1日(土)~3日(月)の3日間を休日。++二春節(旧暦元旦2月1日)法定休日(旧暦大晦日・元旦・1月2日)1月31日(月)~2月6日(日)の7日間を休日。1月29日(土)〔3日・木〕・1月30日(日)〔4日・金〕振替出勤日。三清明節(4月5日)4月3日(日)~5日(火)の3日間を休日。4月2日(土)〔4日・月〕振替出勤日。四労働節(5月1日)4月30日(土)~5月4日(水)の5日間を休日。4月24日(土)〔3日・火〕・5月7日(日)〔4日・水〕振替出...2022年の中国の祝日―中国雑感〔54〕―

  • 青森・北海道の縄文遺跡(5)三内丸山遺跡特別展示―歴史雑感(68)―

    2021年11月8日(月)午後、三愛丸山常設展示に続いて特別展示「あおもりの縄文世界」を見学しました。青森県出土品から縄文世界を探訪できる構成となっています。写真1は、網籠(三内丸山遺跡縄文前期)です。写真2は、細隆起線文尖底深鉢型土器(三内丸山遺跡草創期)で、縄文最古級のものです。写真3は、土器(三内丸山遺跡中期重文)、深鉢形土器(つがる市石神遺跡中期重文)、土偶(石神遺跡中期重文)です。写真4は、深鉢形土器(三内丸山遺跡前期重文)で、いろいろな縄目文様があります。写真5は、円筒土器(三内丸山遺跡中期重文)です。写真6は、遮光器土偶(西目屋村川原平遺跡晩期)です。写真7は、亀ヶ岡式壺型彩色土器(つがる市亀ヶ岡遺跡晩期)と漆塗り壺型土器(西目屋村川原平遺跡晩期)です。写真8は、黒漆塗り鉢形木器(三内丸山遺跡前期...青森・北海道の縄文遺跡(5)三内丸山遺跡特別展示―歴史雑感(68)―

  • 青森・北海道の縄文遺跡(5)―歴史雑感(68)三内丸山遺跡常設展示―

    2021年11月8日午後、遺跡見学に続き、時遊館内の三内丸山遺跡出土品をを展示している「さんまるミュージアム」(常設展示室)を見学しました。ここには重要文化財約500点を含む総数約1,700点の遺物を展示しています。以下、幾つかの展示品をお見せします。写真1は、青竜型石器です。写真2は、異形石器(重文)です。写真3は、岩偶です。写真4は、土偶です。写真5は、木製片口容器です。写真6は、ヒスイ製大珠です。写真7は、装身具(重文)です。写真8は、刺突具(重文)です。写真9は、大型板状土偶(重文)です。写真10は、砥石(重文)です。写真11は、半円状扁平打製石器(重文)です。写真12は、石錐(重文)です。写真13は、黒曜石製石槍です。写真14は、黒曜石製石鏃です。写真15は、円筒土器・深鉢形土器(重文)等です。写真1...青森・北海道の縄文遺跡(5)―歴史雑感(68)三内丸山遺跡常設展示―

  • 青森・北海道の縄文遺跡(4)―三内丸山遺跡

    2021年11月8日(月)10時50分過ぎに三内丸山遺跡(青森県青森市大字三内字丸山)に到着しました。まず三内丸山遺跡センター前にある「縄文時遊館・五千年の星」で昼食です。その後自由見学です。写真1は、遺跡入口からの三内丸山遺跡全景です。写真2は、大型竪穴住居(復元)です。写真3は、同じく大型竪穴住居(復元)です。写真4は大型竪穴住居内です。、写真5は、大型立柱建物(復元)です。2列・3基の柱穴(直径2m・深さ2m)が約4.2m間隔で並びます。柱穴から直径1mの栗の木柱が見つかり、縄文中期後半(紀元前2600年前)と考えられています。写真6は、同じく大型立柱建物(復元)です。写真7は、大型立柱建物(復元)説明板です。写真8は、大型竪穴住居(復元)と大型立柱建物(復元)です。写真9は、大型立柱建物跡です。ご覧のよ...青森・北海道の縄文遺跡(4)―三内丸山遺跡

  • 青森・北海道の縄文遺跡(3)―小牧野遺跡

    ツアー2日目の2021年11月9日(月)は縄文の学び舎・小牧野館(青森市大字野沢字沢部108-3)の自由見学からです。近くの小牧野遺跡を紹介しています。ホテルを8時50分に出発して、9時20分前に到着しました。写真1は、小牧野遺跡の環状列石建設運搬器具を想像復元した展示です。写真2は、埋設土器です。これは地面に埋められた状態で使用していたので、この命名となりました。写真3は、環状配石炉です。真4は、下段から土偶、注口土器、クマ型土製品です。写真5は、壺型土器です。写真6は、擦傷のある石です。写真7は、山野峠遺跡の石棺墓(復元)です。写真8は、深鉢形土器です。写真9は、山野峠遺跡の狩猟文土器です。以上で本館は終わりで、9時50分に出て小牧野遺跡に向かいます。10時に小牧野遺跡に着きました。本遺跡は縄文後期前半に作...青森・北海道の縄文遺跡(3)―小牧野遺跡

  • 青森・北海道の縄文遺跡(2)―亀ヶ岡遺跡

    2021年11月7日(日)、つがる市森田歴史民俗資料館から次の見学地、縄文晩期の集落遺跡である亀ヶ岡遺跡(青森県つがる市木造亀ケ岡)に14時55分に到着しました。写真1は、本遺跡出土品を代表する遮光器土偶(重要文化財東京国立博物館所蔵)の出土地です。ただし、考古学的調査により発見されたのではなく、地元民の発見のため、正確な出土地は不明で、この低湿地内ということです。17世紀前期の築城により遺物が発見され、以後地元民等が遺物を発掘し、好事家に知られるようになりました。1889年(明治22年)に初めて学術調査が行われて現在に至っています。この一帯の低湿地から土器・石器等の多数の遺物が出土しました。写真2は、遺跡入口に立てられている、遮光器土偶モニュメントです。近くのつがる市木造亀ヶ岡考古資料室(青森県つがる市木造若...青森・北海道の縄文遺跡(2)―亀ヶ岡遺跡

  • 青森・北海道の縄文遺跡(1)―大森勝山遺跡

    2021年11月7・8・9日(日・月・火)、クラブ・ツーリズム主催の「日本の先史時代がニコル縄文ロマンの旅へ北海道・北東北縄文遺跡ハイライト3日間」でじょうもんいせきを巡ってきました。基本見学地は、初日大森勝山遺跡、森田歴史民俗資料館、亀ヶ岡遺跡、つがる市木造亀ヶ岡考古資料室2日縄文の学びや・小牧野館、小牧野遺跡、三内丸山遺跡3日大船遺跡、函館市縄文文化交流センターです。JAL143便羽田9時55分発青森11時10分着で青森に飛びました。最初の見学地は世界文化遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」の大森勝山遺跡(青森県弘前市大森勝山)です。12時30分に到着しました。地元ガイドの案内付き(以後の見学地も同様)です。本遺跡は岩木山の東北山麓に位置し、約3千年前の縄文晩期の環状列石の遺跡です。写真1は、環状列石の外側に...青森・北海道の縄文遺跡(1)―大森勝山遺跡

  • 黒部峡谷と黒部ダム(2)―黒部ダム

    ツァー2日目の2021年10月10日(日)は黒部ダム観光です。7時50分にホテルを出発し、8時半過ぎに関電トンネル電気バス扇沢駅に着きました。最初の見学地はトロバス記念館です。次いで、関電トンネル電気バスに乗車し、黒部ダム駅に至り、ガイドの案内で黒部ダム河床に9時50分過ぎに向かいます。写真1は、河床に着いて、何枚か撮った後の写真です。撮影時間は10時40分過ぎです。写真2は、ダムを拡大して縦位置にしたもので、放流の様が分かります。10時45分過ぎに戻りの上りとなり、途中2回の休みを挟み、関電トンネル工事跡に11時50分過ぎに入り見学となりました。写真3は、トンネル工事跡で、抗夫のレプリカが展示されています。見学後、13時前頃から黒部ダム展望台休憩所でおむすび弁当での昼食です。昼食後、展望台に上がり撮ったのが、...黒部峡谷と黒部ダム(2)―黒部ダム

  • 黒部峡谷と黒部ダム(1)―黒部峡谷

    クラブツーリズム主催の「黒部ダム河床ハイキングと関電トンネル工事跡見学2日間」で、2012年10月9・10日に旅をしました。東京駅7時24分発北陸新幹線あさま603号で9時13分着長野駅着で到着後、バスで宇奈月湖畔に移動しました。12時過ぎで、おりから黒部峡谷トロッコ列車が通過し、その写真の一つ、新柳河原発電所と共にトロッコ列車を写し込んだのが、写真1です。次いで、湖面橋まで戻り、最初の散策であるトロッコ旧道・工事用冬期歩道です。ガイドの案内がありました。写真2は、冬期歩道です。やまびこ遊歩道へと下り、見上げて黒部峡谷鉄道の新山彦橋を撮ったのが、写真3です。写真4は、黒部川に架かるやまびこ遊歩堂上(橋)から新山彦橋を通過中の宇奈月駅12時50分発のトロッコ列車です。普通車・リラックス車編成です。宇奈月駅に戻り、...黒部峡谷と黒部ダム(1)―黒部峡谷

  • 後北条氏小田原城遺址(その5)―歴史雑感〔67〕―

    (その1)一、八幡山古郭(その2)二、小峯御鐘ノ台大堀切西堀・中堀(その3)三、小峯御鐘ノ台大堀切東堀(その4)四、三の丸外郭新堀土塁(その5)五、東曲輪五、東曲輪三の丸外郭新堀土塁入口に戻り、道路を下り(東)小田原競輪場を過ぎ新幹線をまたいだ先の十字路を左手(北)に道を取ると、東曲輪跡に至ります。写真1は、道路から東曲輪へと上ったところで、曲輪中央から小田原城天守閣(東)へと撮ったものです。写真2は、曲輪左手奥(北)から撮ったもんです。写真3は、曲輪右手(南)から撮ったものです。写真4は、曲輪から見た小田原城天守閣です。写真5は、下に降りて曲輪を見上げて撮ったものです。最後の写真6は、曲輪中央に立てられている「八幡山古郭東曲輪」説明板です。以上、小田原駅西口を起点に逆時計回りで後北条氏小田原城遺址を巡りました...後北条氏小田原城遺址(その5)―歴史雑感〔67〕―

  • 後北条氏小田原城遺址(その4)―歴史雑感〔67〕―

    (その1)一、八幡山古郭(その2)二、小峯御鐘ノ台大堀切西堀・中堀(その3)三、小峯御鐘ノ台大堀切東堀(その4)四、三の丸外郭新堀土塁(その5)五、東郭四、三の丸外郭新堀土塁東堀南口の道路対面先が三の丸外郭新堀土塁入口です。ここは旧閑院宮別邸跡で、開園時間は10~15時です。道路の海寄り(東堀からは左手)に箱根登山バスの城山四丁目バス停があります。小田原駅前西口からのいこいの森行が運行されています。ただし、日中は1時間に1本なので時刻表に注意してください。写真1は、高い曲輪の際から下の郭を見たものです。右手が土塁となります。写真2は、下り南へと撮ったものです。土塁越し見える山は石垣山です。右手は一段高い曲輪となっています。写真3は、西へと撮ったものです。写真4は、戻り東に撮ったものです。海まで望見できます。写真...後北条氏小田原城遺址(その4)―歴史雑感〔67〕―

  • 後北条氏小田原城遺址(その3)―歴史雑感〔67〕―

    (その1)一、八幡山古郭(その2)二、小峯御鐘ノ台大堀切西堀・中堀(その3)三、小峯御鐘ノ台大堀切東堀(その4)四、三ノ丸外郭新堀土塁(その5)五、東郭三、小峯御鐘ノ台大堀切東堀中堀から東堀に戻ります。写真1は、小峯御鐘ノ台大堀切東堀の北口から南へと撮ったものです。左手(東)上端が土塁、右手(西)上端が中堀間の土塁となっています。東堀は280mが現存し、幅25~30m、深さ8~10mですが、発掘調査により実際の深さは12~15mあり、障子堀となっています。堀法面の傾斜度は50~60度あり、関東ローム層から、上るのは困難となっています。写真2は、東堀土塁です。現存の土塁は幅4m、高2mです。写真3は、土塁説明板の立っている所です。その先で土塁切口(通路))があります。写真4は、土塁上からの切口です。写真5は、土塁...後北条氏小田原城遺址(その3)―歴史雑感〔67〕―

  • 後北条氏小田原城遺址(その2)―歴史雑感〔67〕―

    (その1)一、八幡山古郭(その2)二、小峯御鐘ノ台大堀切西堀・中堀(その3)三、小峯御鐘ノ台大堀切東堀(その4)四、三ノ丸外郭新堀土塁(その5)五、東郭二、小峯御鐘ノ台大堀切西堀・中堀八幡山古郭に次いで、小峯御鐘ノ台大堀切を訪れます。県立小田原高校を左手(南)に見、さらに城山公園を過ぎると、左手(南)に小峯御鐘ノ台大堀切東堀に至ります。さらに少し進むと、小峯御鐘ノ台大堀切西堀の案内板が下にある上り道に出ます。そのまま少し進むと、「総構」と「小峯御鐘ノ台大堀切西堀」説明板の立っている所に至ります。写真1が、これです。西堀は天正18年(1590)の小田原合戦への備えとして総構と共に造られたものです。写真2は、西堀を北へと撮ったものです。写真3は、逆に南へと撮ったものです。写真4は、堀先から北を見たものです。本来は総...後北条氏小田原城遺址(その2)―歴史雑感〔67〕―

  • 後北条氏小田原城遺址(その1)―歴史雑感〔67〕―

    その1)一、八幡山古郭(その2)二、小峯御鐘ノ台大堀切西堀・中堀(その3)三、小峯御鐘ノ台大堀切東堀(その4)四、三ノ丸外郭新堀土塁(その5)五、東郭一、八幡山古郭2021年7月21日(水)午前、後北条氏小田原城遺址を巡りました。最初が八幡山古郭です。小田原駅西口から左手(西)に進み、「八幡山古郭」の石柱のある坂道へと、右手(北)に上って行き、百段坂(階段)の手前で、道を左(西)に入り道なりに時計回りに進みます。写真1は、時計回りで進んできて、右(東)へと入る道を進んだ先で、東へと撮ったものです。ここが本曲輪跡で、城山3丁目です。この地は江戸時代に小田原藩の家臣屋敷地でした。奥の車の駐車している所からは眼下に小田原駅、さらに酒匂川方面が望見できます。写真2は、東への道に入る所から西に早川方面と撮ったものです。ご...後北条氏小田原城遺址(その1)―歴史雑感〔67〕―

  • 湯河原の不動滝

    2021年6月25日(金)午後、奥湯河原温泉への途上に落差15mの不動滝(神奈川県足柄下郡湯河原町宮上750奥湯河原温泉行バス・不動滝下車)に寄りました。この写真2枚を下にお見せします。(2021.06.28)湯河原の不動滝

  • 旧藤本家住宅―歴史雑感〔66〕―

    2021年5月25日(火)午前、馬場花木園内(横浜市鶴見区馬場2−20−1)にある旧藤本家住宅を訪れました。本住宅は、江戸時代末期~明治初期に現在の港北区篠原に建てられた茅葺き農家を、現在の地に1913年に移築されたものです。主屋(45坪)と東屋(7坪)とがあります。横浜市特定景観形成歴史的建造物に2016年11月15日に指定されました。写真1は、右側(東)からの主屋全景です。写真2は、左側(西)からの主屋全景です。写真3は、西からの主屋全景です。ご覧のように主屋何面は庭として整備されています。写真4は、ドマからのチャノマです。左の柱が大黒柱です。写真5は、ダイトコロ(土間)から見たザシキと奥にデイです。ザシキの右上に神棚がまつられています。写真6は、逆にデイからザシキとダイトコロです。写真7は、デイからの庭で...旧藤本家住宅―歴史雑感〔66〕―

  • 鎌倉幕府第2代将軍源頼家は何時元服したのか―歴史雑感〔65〕―

    源頼家の元服を明示する史料は存在していません。では頼家は何時元服したのでしょうか。建久8年(1197)12月15日、源頼家は従5位上に叙爵し右近衛権少将に任官しました(『公卿補任』第二篇正治2年条源頼家尻付)。なお、これは京官除目です(『猪熊関白記』同日条)。ということはこれ以前に元服していたことになります。周知のように源頼家は初代将軍源頼朝の長男として正室北条政子が寿永元年(1182)8月3日に出産し、万寿と名付けられました。順調に成長して、建久4年(1194)5月16日、富士巻狩りで、「将軍家家督若君(万寿)始めて鹿を射せしめ給う」(『吾妻鏡』同日条)と、初めて鹿を射止めます。頼朝は直ちに狩を止めて、夜に入り山の神に感謝する矢口祭を催します。矢口祭は、集団に於いて生まれて初めて野獣を仕留めた男子がこの集団か...鎌倉幕府第2代将軍源頼家は何時元服したのか―歴史雑感〔65〕―

  • 衣川北岸の安倍氏・奥州藤原氏関係地―歴史雑感〔64〕―

    2021年4月16日(金)午前、昨年6月には雨のため行けなかった、衣川北岸流域に分布する安倍氏・奥州藤原氏に関係する地を巡りました。接待館遺址・並木屋敷跡(衣川柵)・小松館跡・安倍一族鎮魂碑の順で回りました。国道300号を北上して衣川を渡り、少し行ったところで道を左(西)に取り道なりに行くと、最初の訪問地の接待館遺址(奥州市衣川区六日市場・七日市場・関谷起)です。平泉駅からだと早足の私だと約40分強でしょう。本遺址は2004・5年に衣川左岸築堤工事に伴う発掘調査が行われました。これにより柳之御所に匹敵する、堀と二重の土塁で囲まれた、東西120m・南北65mの12世紀後半の施設が確認されました。本遺址部分は埋め戻されて保存されています。本館は藤原秀衡の母の居館と伝えられ、ここで旅人接待したので、接待館との名が伝え...衣川北岸の安倍氏・奥州藤原氏関係地―歴史雑感〔64〕―

  • 平泉の桜並木

    平泉の国道300号線の毛越寺口十字路の少し北から中尊寺入口先まで約1.5kmにかけて桜並木があります。2021年4月15日(木)午後、旅館に入る前に桜を愛でてきました。満開を少し過ぎて散り始めましたが、この写真をお見せします。(2021.04.21)平泉の桜並木

  • 桜の盛岡城跡公園

    日本百名城である盛岡城の内曲輪(御城内)は盛岡城跡公園(盛岡市内丸1番37号)となっており、桜の名所でもあります。そこで、2021年4月15日(木)昼、観桜に出かけました。盛岡城は、南部利直により慶長年間(17世紀初頭)には総石垣の城としてほぼ完成し、3代藩主重直の寛永10年(1633)に完成しました。西を古北上川に接し、東に中津川の合流点に位置する花崗岩丘陵に築かれた連郭式平山城です。本丸の北側に二ノ丸・三ノ丸が配され、本丸と二ノ丸の間は空堀で仕切られ、現在は朱塗り橋(渡雲橋)が架かっていますが、当時は本丸御殿と大書院を結ぶ廊下橋が架けられていました。本丸を囲むように南から東へと腰曲輪・淡路丸・榊山曲輪が配されました。明治維新によりほとんどの建物が解体されて現在に至っていますが、石垣はよく保存されて威容を誇っ...桜の盛岡城跡公園

  • 山木夜討ち(その四)―歴史雑感〔37〕―

    (その一)一、『吾妻鏡』の語る山木夜討ち(その二)二、『延慶本平家物語』の語る山木夜討ち(その三)三、山木夜討ち(その四)四、国衙占領四、国衙占領九条兼実は頼朝反乱報を知った時、「去るころ新司の使を淩礫す〈時忠卿知行国なり〉、おおよそ伊豆・駿河両国を押領しおわんぬ」(『玉葉』治承4年9月3日条)と記しています。また、東国反乱を新田義重が報告してきたことを、中山忠親が、「義朝子伊豆国をす、武田太郎甲斐国を領す」(『山槐記』同年9月7日条)、と記しています。駿河国はともかく、ここで「押領」「伊豆国を領す」とは、たんに夜討ちの成功だけではなく、国の支配権、すなわち国衙行政権を曲がりなりにも頼朝が掌握したことを示しています。以上、山木夜討ちの成功で伊豆国目代山木兼隆を討取ったが、これだけで国衙行政権の掌握、すなわち反乱...山木夜討ち(その四)―歴史雑感〔37〕―

  • 2021年鶴見川の紅桜

    新横浜付近での鶴見川と鳥山川との合流点上流の鳥山川土手には桜並木があります。新横浜元石川線のワールドカップ大橋左右には合流点近くのソメイヨシノとは別に少し早咲きの紅桜があります。この紅桜の写真をお見せします(2021年3月20日・土午後撮影)。(2021.03.22)2021年鶴見川の紅桜

  • 大仏切通し―歴史雑感〔63〕―

    2021年2月21日(日)午後、北条氏常磐亭跡に続き、大仏切通しを訪れました。本桐通しの建設年時は明確な史料が残されておず不明ですが、鎌倉中期と考えられています。本桐通しは、鎌倉の大仏谷から梶原を経て、鎌倉上つ道へと通じています。北条氏常磐亭跡から西へと少し歩き、仲ノ坂交差点で左折して上っていくと、世界救世教いづのめ教団鎌倉教会のある小道へと右に入り進むと、左が高徳院(大仏)、右が火の見下の道標識のある大仏切通しに出ます。写真1は、ここらから少しのところで火の見下へと切通し道を撮ったものです。尾根伝いの道となっています。写真2は、さらに進んで、左へと急な下りとなるところを捉えて撮ったものです。写真3は、尾根を堀切って切通しとしたところです。写真4は、次の切通しです。先は急な下りとなっており、ここで上ってくる兵を...大仏切通し―歴史雑感〔63〕―

  • 北条氏常磐亭跡―歴史雑感〔62〕―

    2021年2月21日(日)午後、鎌倉市常磐の北条氏常磐亭跡を訪れました。1977年の発掘調査で、建物跡等が確認されて、1978年12月に国指定史跡になりました。本地は、「相州常磐御亭において和歌会あり」(『吾妻鏡』3年2月8日条)、とあるように、相州、すなわち当時の連署北条政村の別邸と考えることができます。鎌倉駅西口から京急バス鎌倉中央公園行・江ノ電バス桔梗山行きで一向同下車、前方へと道路北側です。写真1は、道路側から北に北条氏常磐亭跡を見たものです。さらにこの奥へと跡地は続きます。写真2は、東側の「タチンダイ」への道上からの跡地です。写真3は、「タチンダイ」への案内表示です。写真4は、本地の最奥「タチンダイ」入口から奥を見たところです。「タイチダイ」とは館台(たちのだい)の訛りでしょう。このように、北条氏常磐...北条氏常磐亭跡―歴史雑感〔62〕―

  • 河津桜2021

    2021年2月20日(土)午前、河津町の河津川土手の川津桜を観賞しました。そこで、この写真をお見せします。最初の写真1は、上りの踊り子4号が河津川鉄橋を通過するところです。写真2~4は、河津川右岸の川津桜です。写真5は、上りの伊豆急リゾート21です。写真6・7は、アップした河津桜です。最後の写真8は、河津川河口への河津桜です。なお、フォトアルバム「河津町・河津桜2021」はhttps://1drv.ms/u/s!AruGzfkJTqxng7wKSbukAYzbUcIBVQ?e=qpO1E0です。(2021.02.27)河津桜2021

  • 伊豆下田

    2021年2月19日(金)午後、下田市のホテルにチェックインする前に、ホテル近くの観光地を巡りました。最初は玉泉寺です。幕末に米領事館となったところです。写真1は、山門です。写真2は、間口7間半・奥行き7間の本堂です。嘉永6年(1848)創建で、安政3年(1856)8月から安政6年(1859)5月まで、最初の米国総領事館としてタウンセンド・ハリスが駐在しました。写真3は、英文のハリス記念碑です。1927年(昭和2)に本年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公子爵渋沢栄一等が建立しました。次いで弁天島へと移動しました。写真4は、弁天島斜交層理です。斜めに交差する縞模様の地層は斜交層理と呼ばれ、地層が右下へと斜交していることから、海流の向きが左から右へとなっていたことが分かります。写真5は、弁天島に隣接した公園内...伊豆下田

  • ソフィール踊り子1号

    2021年2月19日、ソフィール踊り子1号に乗車してきました。横浜発11時24分発・伊豆急下田13時29分着でした。この乗車中の写真をお見せします。写真1は、プレミアグリンの1B座席です。伊東を過ぎて撮ったもので、緊急事態宣言下ですが、ほぼ満席でした。写真2は、川奈駅での運転台を通した前方風景です。入線してきたのは上りの踊り子8号です。写真3は、伊豆高原駅を出て少し行ったところから撮った大島です。写真4は、海岸線に沿って走る片瀬白田・伊豆稲取間での運転台越しの前景です。写真5は、同区間での大島です。写真6は、続いて左から利島、鵜渡根島、新島、神津島です。写真7は、河津駅を出て運転台越しに前方に川津桜を捉えたものです。写真8は、河津川の河口寄りの川津桜です。最後の写真9は、伊豆急下田駅でのソフィール踊り子1号の先...ソフィール踊り子1号

  • 2020年度記事目次

    庚子年を終わるに当たって、2020年度(1~12月)記事目次を掲載します。では、辛丑年がよいお年で。01.01茅ヶ崎杉山神社初詣01.06創作された『平家物語』一谷合戦の熊谷直実先陣争い―歴史雑感〔52〕―01.132020年西安交通大学日本語学科東北会新年会02.24武蔵国国府遺跡等―歴史雑感〔53〕―02.28湯河原梅林05.10源頼朝の偏諱を賜った武士(その一)―歴史雑感〔54〕―06.30蜂神社―歴史雑感〔55〕―07.02観自在王院―歴史雑感〔56〕―07.06毛越寺―歴史雑感〔57〕―07.07高館―歴史雑感〔58〕―07.16中尊寺―歴史雑感〔59〕―07.18柳之御所跡―歴史雑感〔60〕―07.19無量光院跡―歴史雑感〔61〕―10.09栗駒山と出羽三山(1)―栗駒山須川湖10.11栗駒山と出羽...2020年度記事目次

  • 2019年度記事目次

    己亥年を終わるに当たって、2018年度(1~12月)記事目次を掲載します。なお、前回までは「『歴史と中国』http://kanazawa45.wordpress.com/記事目次(上)」(2011年10月21日付)、「『歴史と中国』http://kanazawa45.wordpress.com/記事目次(下)」(2011年10月21日付)、「『歴史と中国』2010年度記事目次」(2011年10月22日付)、「2011年度記事目次」(2011年12月31日付)、「2012年度記事目次」(2012年12月31日付)、「2013年度記事目次」(2013年12月31日付)、「2014年度記事目次」(2014年12月31日付)、「2015年度記事目次」(2015年12月31日付)、「2016年度記事目次」(2016年12...2019年度記事目次

  • 2021年の中国の祝日―中国雑感〔53〕―

    明年の祝日(休日)に関して、2020年11月25日(水)、国務院の通知「国務院弁公庁関于2020年部分節假日安排的通知」が国務院公式サイトにアップされ公表されました。この公示は例年12月でしたが、昨年から11月下旬と早まりました。国務院の通知原文は次のページです。http://www.gov.cn/zhengce/content/2020-11/25/content_5564127.htmです。また、カレンダー表示(「2个黄金周,5个小长假,2021年放假安排来了!」)は、http://www.gov.cn/xinwen/2020-11/25/content_5564513.htmです。これによる明年(2021年)の休日は次の通りで、これに基づいて、中国の公的機関は休日を実行します。民間もこれを基準に休日を組み...2021年の中国の祝日―中国雑感〔53〕―

  • 箱根強羅公園

    2020年11月26日(金)午前、強羅温泉からの帰り、箱根強羅公園を訪れました。開園時間は9~17時、入園料は550円です。写真1は、熱帯植物館の温室内のブーゲンビレアです。写真2は、サンデリアナです。写真3は、一番上(奥)の西門からの全景で、手前に音楽堂、その奥にヒマラヤ杉そびえています。紅葉はすでに落葉期に入っていますが、写真4は、わずかに紅葉を残している木です。写真5は、この木の拡大したものです。写真6は、噴水池です。写真7は、拡大した噴水です。最後の写真8は、箱根登山鉄道の最新車両3100型です。彫刻の森・小涌谷駅間です。(2020.11.29)箱根強羅公園

  • 栗駒山と出羽三山(5)―湯殿山神社

    2020年10月7日(水)午後、最後の湯殿山神社参拝です。本神社はその名の通り温泉源泉の湧き出る岩を御神体としています。参拝に先立ちお祓いを受けた後、裸足でご神体に至り参拝をします。写真1は、1993年10月竣工の湯殿山神社大鳥居です。最後の写真2は、参道入口に立つ「湯殿山本宮」石碑です。これ以降は神域として撮影禁止となっています。以上で、2日間の渡る観光は終わりで、白石蔵王駅から帰途です。(2020.10.15)栗駒山と出羽三山(5)―湯殿山神社

  • 栗駒山と出羽三山(4)―月山弥陀ヶ原

    2020年10月7日(水)午後、弁当昼食を兼ねて、月山弥陀ヶ原ハイキングです。90分の自由散歩です。写真1は、弥陀ヶ原ハイキングを始めて、間もなくなところで、振り返って撮ったものです。写真2は、さらに進み、眼下に鶴岡市と奥に日本海が見渡せるところで撮ったものです。写真3は、紅葉を主体に撮ったものです。写真4は、手前に小池を入れて撮ったものです。弥陀ヶ原は基本的に湿原で、所々に小池があります。写真5は、再度眼下に鶴岡市見下ろして撮ったものです。写真6は、月山御田原参籠所の月山中之宮です。写真7は、下りながら池群を撮ったものです。最後の写真8は、月山八合目駐車場に立てられた「磐梯朝日国立公園月山八合目」石碑からです。次いで、最後の観光地である湯殿山神社に向かいます。(2020.10.14)栗駒山と出羽三山(4)―月山弥陀ヶ原

  • 栗駒山と出羽三山(3)―羽黒神社

    2020年10月7日(水)、本日は出羽三山観光です。最初は羽黒山神社です。時間の関係で、山頂の本殿までは行かず、下の羽黒山五重塔までです。写真1は、出羽三山神社(羽黒山・月山・湯殿山)入口です。ここから羽黒山頂上へ至ります。写真2は、随神門です。本来は仁王門で、明治維新の神仏分離で改名されました。元禄8年(1695)に由利郡(秋田県)矢島藩主生駒氏が寄進したものです。写真3は、随神門から参道に続く羽黒山杉並木です。写真4は須賀の滝を背後に祓川神社です。写真5は、国宝の羽黒山五重塔です。応安5年(1372)、庄内の領主で、羽黒山別当の武藤政氏の再建と伝えられています。塔は総高約29.2m、塔身高(相輪を除く)は22.2mです。写真6は、右正面からの五重塔です。最後の写真7は、左背面からの五重塔です。次は月山弥陀ヶ...栗駒山と出羽三山(3)―羽黒神社

  • 栗駒山と出羽三山(2)―栗駒山須川高原

    2020年10月6日(水)午後、須川高原の紅葉を愛でるハイキングです。2時間の自由散策です。写真1は、栗駒山登山道入口から少し入ったところの須川高原温泉源泉です。写真2は、ゼッタ沢コースから北へと撮ったものです。写真3は、名残ヶ原に入ったところで俯瞰したものです。写真4は、名残ヶ原中央から右側を撮ったものです。ほぼ紅葉していますが、満開には早く8分程度です。写真5は、奥に栗駒山山頂へです。写真6は、山頂への道と分かれて、賽の磧への道からです。写真7は、賽の磧手前の湿原での右側の岩山です。写真8は、湿原途上で振り返って撮ったものです。写真9は、賽の磧です。最後の写真10は、周回した後、大日岩を振り返って撮ったものです。ハイキング後、須川高原温泉で温泉に浸りハイキングの汗を流しました。これで本日の観光は終わり、鳴子...栗駒山と出羽三山(2)―栗駒山須川高原

  • 栗駒山と熊野三山(1)―栗駒山須川湖

    クラブツーリズム主催の「〈ハイテク初級〉鳴子温泉宿泊出羽三山めぐりと紅葉の栗駒山ハイキング2日間」で、2020年10月6・7日、GoToトラベルの旅に行ってきました。まず、東京駅から白石蔵王駅まで東北新幹線で移動した後、バスで栗駒山須川高原に到着しました。昼食休憩を兼ねて、須川湖(朱沼)湖畔の散策から観光開始です。この須川湖の写真を3枚お見せします。次いで、午後は須川高原ハイキングです。(続く)(2020.10.09)栗駒山と熊野三山(1)―栗駒山須川湖

  • 無量光院跡―歴史雑感〔61〕―

    2020年6月26日(金)午前、平泉探訪の最後として無量光院跡(岩手県西磐井郡平泉町平泉字花立地内)を訪れました。『吾妻鏡』の記するところによれば、本院は宇治平等院を模して奥州藤原氏3代秀衡が建立し、新御堂と号しました。発掘調査により四囲は東西約240m、南北約270m、面積約6.5haと推定されています。境内は周囲を囲む土塁と3つの島を持つ園池から構成され、最も大きな中島に東向きに阿弥陀堂が建っていました。現在復元整備中で、全面的な立入りはできません。す。写真1は、道路側(東)から入ったところから園池を撮ったものです。中央が中島です。写真2は、南側へと撮ったものです。写真3は、南側から園池を撮ったものです。最後の写真4は、園池の中島を拡大したものです。以上で、平泉探訪は終わりです。奥州平泉氏が建立した寺院・居...無量光院跡―歴史雑感〔61〕―

  • 柳之御所跡―歴史雑感〔60〕―

    2020年6月26日(金)午前、高館から南に国道4号線平泉バイパスを左(東)に見て歩くと、柳之御所跡(岩手県西磐井郡平泉町平泉柳御所)に至ります。本御所は奥州藤原氏の政庁・居館とされる、『吾妻鏡』のいう「平泉館」と推定されています。周囲を空堀で囲まれた本御所(約5㏊)は、ほぼ北西・東南を主軸とする長径(南北)約350m強・短径(東西)約200m余の変形楕円形をした、大規模なものです。さらに、堀の北側に高館までの外郭部があり、以上の総面積は11.2㏊もあります。写真1は、柳之御所跡北入口(柳之御所史跡公園)から東に平泉バイパス方向へと遺跡を撮ったものです。これから遺跡を南へと行きます。写真2は、汚物廃棄穴群跡です。この周辺に40基ほどの跡が見つかっています。ここは御所跡の最北に位置しており、中心建物付近の汚物廃棄...柳之御所跡―歴史雑感〔60〕―

  • 中尊寺―歴史雑感〔58〕―

    2020年6月26日(金)午前、伝源義経妻子墓に次いで、天台宗東北総本山の関山中尊寺(岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関202)を参拝しました。慈覚大師円仁の創建と伝える本寺は奥州藤原氏初代清衡が平泉の関山に多宝寺・二階太堂・金色堂等を造営し、現在に至ります。ただ、現存するのは国宝金色堂のみです。写真1は、中尊寺入口です。月見坂の参道を上ります。写真2は、八幡堂です。源頼義が安倍氏追討をここ月見坂で祈願したといわれています。写真3は、辨慶堂です。写真4は、本堂です。写真5は、金色堂です。コンクリート製の覆堂で覆われています。写真6は、重要文化財の白山神社能楽殿です。白山宮(神社)は清衡が本寺の北の鎮守として造営したものです。能楽殿は嘉永6年(1853)に伊達藩主慶邦が再建寄進したものです。写真7は、同じく白山神社能楽...中尊寺―歴史雑感〔58〕―

  • 毛越寺―歴史雑感〔57〕―

    2020年6月25日(木)午後、観自在王院に続いて、西に隣接した医王山毛越寺金剛王院(岩手県西磐井郡平泉町平泉字大沢58)を参拝しました。本寺は慈覚大師円仁創建と伝えています。奥州藤原氏2代基衡が久安6年(1150)末から保元元年(1156)までの約6年間に金堂円隆寺以下の建築物・庭園を建立したと推定されて、さらに3代秀衡が造営を継続しました。この様は、「基衡これを建立す。まず金堂円隆寺と号す。金銀を鏤し、紫檀赤木等を継ぎ、万宝を尽し、衆色を交える。本仏薬師丈六を安ず」(『吾妻鏡』文治5年9月17日条)等と記されています。しかし、奥州藤原氏滅亡(1189年)の37年後、嘉禄2年(1226)11月、金堂円隆寺以下が焼失しました。発掘調査により、金堂円隆寺以下の礎石が確認され、大泉ヶ池を中心とする庭園も修復整備され...毛越寺―歴史雑感〔57〕―

  • 観自在王院遺址―歴史雑感〔56〕―

    2020年6月25日(木)午後、平泉の観自在王院遺址(岩手県西磐井郡平泉町平泉志羅山)を訪れました。本寺院は奥州藤原氏第2代基衡の妻が建立したとされるものです。西に隣接して毛越寺があります。荒廃して水田となっていましたが、1954年(昭和29)から始まった発掘調査により、2棟の阿弥陀堂等の建物、浄土庭園の遺構が確認されました。本寺院は東西120m・南北240mの土塁で囲まれています。浄土庭園の池は舞鶴ヶ池と呼ばれ、修復整備されて、12世紀の庭園の様を見せてくれます。写真1は、南門跡を正面に北に本寺院跡を撮ったものです。写真2は、南門跡を入れて、西奥に毛越寺を捉えたものです。写真3は、北へと進み、舞鶴ヶ池を正面に捉えたものです。写真4は、舞鶴ヶ池です。手前の礎石は3間四方の伝普賢堂跡で、奥に橋が架かっているところ...観自在王院遺址―歴史雑感〔56〕―

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