ちろりろ さん プロフィール

  •  
ちろりろさん: 恵みの井戸
ハンドル名ちろりろ さん
ブログタイトル恵みの井戸
ブログURLhttp://glace-well.doorblog.jp/
サイト紹介文猫が大好きなクリスチャンです。 賛美も好き♪
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供132回 / 365日(平均2.5回/週) - 参加 2012/12/23 00:06

ちろりろ さんのブログ記事

  • 天から下って来られた (ヨハネ6:38)
  • 【ヨハネ6章38節】わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。五つのパンと二匹の魚の奇跡に始まって、そのパンという言葉から、イエス様ご自身が天からのパンであり、イエス様を食べることが永遠のいのちに至る道である、というメッセージが前回から始まっている。そして、これ以降も非常に長く続く。それだけ、このメッセージの内容は重要なことなので [続きを読む]
  • 本当の休息
  • すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(『マタイ』11:27〜28)この28節以降は非常に有名な箇所であるが、27節と28節をつなげて引用される場合はほとんどな [続きを読む]
  • しるしを見たからではなく
  • 【ヨハネの福音書6章】25:そして湖の向こう側でイエスを見つけたとき、   彼らはイエスに言った。   「先生。いつここにおいでになりましたか。」26:イエスは答えて言われた。   「まことに、まことに、あなたがたに告げます。   あなたがたはわたしを捜しているのは、   しるしを見たからではなく、   パンを食べて満腹したからです。カペナウムで群衆はイエス様を見つけた。彼らにとっては、イエス様がすで [続きを読む]
  • 明日が心配する
  • だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。 (『マタイ』6:34)イエス様はこの箇所で心配してはならない、ということをおっしゃっているのに、ここで、あすのことはあすが心配する、とおっしゃることは、矛盾ではないか、と思わざるを得ない。しかし、これがイエス様の「論法」である。つまり、理論的なことではなく強調するところは、多少矛盾の可能性があっ [続きを読む]
  • 律法に仕える・・
  • まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。 (『マタイ』5:18)律法にはイエス様のことが書いてある。イエス様ご自身がこのようにおっしゃっている。信じていない者においてはイエス様のことは関係ないのであるから律法は律法である。しかし、信じ救われた者は律法をイエス様として受け取るのである。人はだれでも二人の主人に同 [続きを読む]
  • 聖くなければ誰も?
  • 聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。 (『ヘブル』12:14b)この箇所は聖書の中で最も誤解されている箇所の一つである。そして、その誤解は偽クリスチャンを律法主義に走らせ、真実のクリスチャンをも縛っている。「聖め」とは、次元が異なることである。イエス様を信じ救われても肉はそのままであるのと同じように「聖め」」とは、肉が変えられることではない。「聖め」とは、 [続きを読む]
  • 聖書 ヨハネの福音書5章37節〜39節
  • 【ヨハネの福音書5章】37: また、わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません。 38: また、そのみことばをあなたがたのうちにとどめてもいません。父が遣わした者をあなたがたが信じないからです。 39: あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているの [続きを読む]
  • 主を礼拝される聖霊様
  • ブログを休み中でも訪れてきて下さった方々、ありがとうございました。ずっと救われずに死んだ従弟の事と残された叔母夫婦のことが心に重たくありましたが、すべて神様のご計画の中、きっと私が天国に行ってからでないとわからないけれど、何か深い意味があるのだろうと思えてきました。今日は車の運転中に聖霊様にふわ〜っと触れられた時に、あぁ聖霊様はどんな時でもいつでも永遠に主を礼拝されてるんだなって感じた瞬間がありま [続きを読む]
  • 少しお休みします
  • いつもブログに来てくださる皆さん、ありがとうございます。3日前に、私の従兄弟が交通事故で、42歳で亡くなりました。私には、二人の弟がいるのですが、この従兄弟は3番目の弟のように、私にとってはかけがえのない存在でした。3年前に主人を亡くし、私が会社を引き継ぎ夢中で存続してはいますが、主人側の親類の陰謀(会社を乗っ取る)をくぐり抜け、まだ完全に解決してない段階での今回の事でした。教会に通い、御言葉をいた [続きを読む]
  • 愛がない?
  • また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。 (『Ⅰコリント』13:2)「愛がない」という言葉ほど日本のクリスチャンの間で誤って用いられている言葉はない。愛とは何か。それは救いである。神様はこの世を愛されてこの世を救うためにイエス様を遣わされた。このことについて否と言うクリスチ [続きを読む]
  • 御霊に満たされるには
  •  自分の中におられる御霊に目を注ぐためには、もちろん信仰が必要である。もともと御霊は目に見えない存在であるので、目に見える事柄などを用いて、内におられる御霊に目を注ぐことは不可能である。  『ヘブル』11章1節に、「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」とあり、この言葉は多くの場合、確信をもって祈るために用いられる傾向にある。もちろんそれも正しいが、何より、内におら [続きを読む]
  • 究極の祈り
  • またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」 (『マルコ』14:36)私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。(『マタイ』6:13)自分の願いを祈りそれが成就されたら神様に感謝し成就されなかったら神様を疑う。疑わないまでも、落ち込む。 [続きを読む]
  • わからないのですか ヨハネの福音書3章9〜10
  • 【ヨハネの福音書】3:9 ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」 3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。 イエス様は、ニコデモとの対話の中で、真理をありのままに語り続けられた。この時点では、ニコデモには理解できないことであることは(9節)、イエス様はじゅうぶん承知されていた。しかし間違いなく [続きを読む]
  • 聖書は辞書代わり?
  • 多くのクリスチャンの聖書の用い方で気になったのは、自論の裏付けとしての聖書、辞書,あるいは法書代わりとしての聖書(これこそ律法)、としていること感じました。だから余計に暗唱聖句、通読をして辞書のどこにそれが書いてあるかを知ることが主の知識を増すことなんだと誤解してるフシがあるんだなと思いました。・・・・・・ううむ。。にほんブログ村それは、ちゃうだろー! [続きを読む]
  • 霊によって肉を
  • 神の約束はことごとく、この方において「しかり」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです。 (『Ⅱコリント』1:20)肉においては、あるときは「否」であり、あるときは「しかり」であり、ある人にとっては「否」であり、ある人にとっては「しかり」である。したがって、この世においてはその場その時、そしてその人によって否となったり、しかりとなったりする。そのような [続きを読む]
  • 祈りの先
  • まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。 (『マタイ』18:19)祈りの先に何があるのだろう。とにかく自分の生活の安定、というものだろうか。信じ救われた者であれば、それは誤った祈りの目的だとすぐにわかるだろう。救われた者は他人に言われなくても主のために生きたい、自分の [続きを読む]
  • ヨハネの福音書 メシヤに会った
  • 【ヨハネの福音書1章】40: ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。 41: 彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った。」と言った。   ヨハネとアンデレはイエス様の泊まっている場所に行き、共に一日を過ごした。その中で、どのようなことが語れたかは、全く記されていない。もちろん、この時は聖霊様が下っ [続きを読む]
  • ヨハネの福音書 聖霊のバプテスマ
  • 【ヨハネの福音書 1章】1:26 ヨハネは答えて言った。「私は水でバプテスマを授けているが、  あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。 1:27 その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを     解く値うちもありません。」  バプテスマとは、ギリシャ語の「浸す」という意味の「バプティゾー」という動詞からきている。水のバプテスマは、授かる人の体全体を完全に水に浸すの [続きを読む]
  • ヨハネの福音書 メシヤでもなくエリヤでもない
  • 【ヨハネの福音書 1章】1:20 彼は告白して否まず、「私はキリストではありません。」と言明した。 まず何よりも、ユダヤ人たちが待ち望んでいたメシヤ、つまりキリストかどうか、ということであるが、20節にあるように、ヨハネはそれをはっきりと否定した。「告白して否まず」とあるように、それは断乎たる否定だった。もしこの時、肯定はしないまでも、人々が引き続き、彼がメシヤではないか、と期待を持つようなあいまいな態 [続きを読む]
  • ヨハネの福音書 宗教的指導者
  • 【ヨハネの福音書】1:19 ヨハネの証言は、こうである。ユダヤ人たちが祭司とレビ人をエルサレムからヨハネのもとに遣わして、「あなたはどなたですか。」と尋ねさせた。 1:20 彼は告白して否まず、「私はキリストではありません。」と言明した。 1:21 また、彼らは聞いた。「では、いったい何ですか。あなたはエリヤですか。」彼は言った。「そうではありません。」「あなたはあの預言者ですか。」彼は答えた。「違います。」 1:22 [続きを読む]
  • もうひとつの間違った教え
  • イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです」(『マルコ』14:24)。目に見える肉を変えようとすることは、偶像礼拝に通じる考え方である。多く見られるものは律法を守ることによって肉を変えよう、または変えられるとする律法主義である。しかしまた、「イエスの血潮の宣言」によって肉を変えようとする誤った教えも特に、聖霊派と呼ばれる教会の中にある。そのような者は、い [続きを読む]
  • 赦すということ
  • さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。 (『ルカ』6:37)この節は三つの部分に分けられるがこの三つはすべて同じことを言っている。この記述は『ルカ』だけに見られるのであり『マタイ』は、この三つが並べられて記されてはいない。これは、ルカの霊的洞察によってこのような節の構成にな [続きを読む]
  • ヨハネの福音書 1:1 「ことば」と言葉
  • 【ヨハネの福音書 1:1】初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 「ことば」(ロゴス)は神であると、『ヨハネ』の冒頭で記されている。すなわち、神様は「ことば」なのである。では、この「ことば」は、人間が使う言葉とどう違うのであろうか。 以下、一般的な意味での言葉は言葉と記し、ロゴスを「ことば」と記すことにする。まず、言葉について述べてみる。一般的に、言葉には二つの役割 [続きを読む]
  • 箴言 姦通する女
  • 【箴言30章20節】 姦通する女の道もそのとおり。彼女は食べて口をぬぐい、「私は不法を行なわなかった。」と言う。20節の「姦通する女」は、今まで何度も出てきたように、霊的姦淫を意味する。信じる者が、この世において最も注意をしなければならないことは、霊的姦淫である。そのため、『箴言』においては、最初から繰り返しこのことが述べられているのである。 何よりも、この箇所にあるように、霊的姦淫の道は、目 [続きを読む]
  • 自動的に
  • 肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。 (『ローマ』8:5)まだイエス様を信じていない者はすべて肉に従う者である。では、信じ救われた者は、そのときから、御霊に従う者となるのであろうか。そうではない。肉にに従う肉を持ったまま御霊にも従うことができる者となったのだ。あくまでも、本人の意志によって「御霊に従う者」となっていなければならない。つまり、 [続きを読む]