仁保裕介 さん プロフィール

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仁保裕介さん: 真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのため
ハンドル名仁保裕介 さん
ブログタイトル真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのため
ブログURLhttp://blog.livedoor.jp/chlife/
サイト紹介文キリストへの祈りは生活の現場から誰にでも自由にできます。キリストは呼び求める人と共に居る方です。
自由文このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。
クリスチャン2世として、教会の問題、カルト化の問題について、傷を受けた皆さんと共に祈り、教会・教派主義からの脱出と信仰について、自立を目指す現実的視点で触れていきます。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供63回 / 365日(平均1.2回/週) - 参加 2013/01/20 12:52

仁保裕介 さんのブログ記事

  • キリストを知り証しする
  • あなたがたは生めよ。ふえよ。地に群がり、地にふえよ。創世記9章で、神様は洪水からノアたち家族を救い、新たな歩みをするように祝福し、肉なるものを滅ぼさないと約束されました。「罪を犯さないなら」という条件つきなのではなく、神からの一方的な契約です。神様を愛し御心を行う応答が、人に委ねられています。クリスチャンは洗礼を受けて新たな決意を表します。新しく生まれる経験をするわけですが、それ以後、具体的に何を [続きを読む]
  • 神の声を聴く信仰
  • はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた。すると光があった。創世記 1:1-3  口語訳https://www.bible.com/81/GEN.1.1-3初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたも [続きを読む]
  • 人の情けを知ること
  • 「罪の赦し」は、キリストの十字架の犠牲を信じる信仰では、「神の義」とされることです。そして、私たちは日常では多くの人と共に生かされ、許容し合って生きています。気に入らない、自分の基準に合わない、などと力づくで排除しないし、互いの生存と権利を受容し合います。これで、身近な平和が保たれています。社会を大きく見れば、欠点までも赦し合っていて、その中で私たちも共に生きています。「情がわく」感覚は、相手が正 [続きを読む]
  • ただそこにいるだけ…その価値~人の目から見て
  • 置かれた場所にただいるだけで、果たしている役割が必ずあります。無理矢理な理想追求や逃避も無駄ではありません。追求でも逃避でも、そこに行かなければならなかったなら、それも必然です。ヨナのようにあっちこっちに行って、自分の居場所と自分がそこにいる価値に気づき、神の声を聞き、神のあわれみと忍耐の広さ深さと大きさを知る、それが人生でしょう。気を使って、人のため神のため信仰のために良かれと求めていた理想が、 [続きを読む]
  • 神の目からは「あなたに、ただ、いてほしい」。教会目線だと…
  • 愛は、「あなたに、ただ、いてほしい」とだけ言います。『あなたは、ここにいるべきだ』と迫るのは、縛りであり、愛ではありません。具体的な条件をつけて縛りを迫るのは、聖書の福音ではありません。私たちの存在や命について、まず愛して、ただ生を喜ばれるのが神様です。私たちは神がまず愛されたことを知り、神を愛し、この真実な愛の神と共に居たいと願うのです。そしてこの神との関係の中で、私たちが愛され喜ばれる生そのも [続きを読む]
  • 人生も信仰も、ただ流されるのではなく、探求するもの
  • 期待できる教会や牧師が居なくなると、不安でしょうか。私たちは、目に見えない神を追い求め、地上に来られたキリストを知り、今、内に住んでくださっていると信じることができます。そのことを『信仰の確信』として安心したいから、証拠として教会や牧師の教えを求めているところがあるかもしれません。しかしそれは流されるだけの人生の入口であるかもしれないのです。信仰・救いの根拠は、唯一キリストの十字架であり、聖霊によ [続きを読む]
  • 神であり人となったキリストに出会い、愛し、従い、似ること
  • イエス・キリストは、人として地上に生きて、地上の言葉で語り、人としてあらゆる境遇・地位にある人と会話し、祈り、いやし、奇跡を行い、喜び、悲しみ、泣き、食べ、賛美の歌を歌い、罪を負われ、打ち叩かれ、死刑になりました。そして、神の力によって復活し、信じる者にはキリストと同じように死に打ち勝った命が与えられます。イエス・キリストは今も生きて、キリストを神と信じる者の内に住み、福音の意味をその人の人生の中 [続きを読む]
  • 『真理』のために、愛を無にしてしまわないように
  • 苦しい所から出会ったキリストの愛によって、私たちには大きな感動と心の平安が与えられ、キリストの伴いに感動します。その愛を喜び、素直に一心にキリストについて行きたい、愛への応答をしたいと強く思うときに、日常普通に必要な生活の事や、それまでの周りの人間関係が 邪魔だと感じてしまう場合があります。この心理的問題は、苦境からやっとの思いでキリストに出会う人に起こり、また、懸命に準備した説教や伝道奉仕をする [続きを読む]
  • ついて行く愛が、初めの愛
  • 信仰の深いところを一旦知りながら、また離れていくようなことがある、と聖書は言います。最初の感動を持ち続けることが信仰なのではなく、どんな試練で、どんなに落ち込んでも、キリストを慕い、キリストだけを信頼してついていくのが主への愛であり信仰です。努力や知識や感動が大事なのではなく、しっかりとキリストご自身に出会い、「どんな状況でもキリストご自身につながっていたい」と、一心に熱心に願うことが大事です。い [続きを読む]
  • 外せない福音・救いの基本
  • キリストの十字架は、すべての人の罪の刑罰であり、罪を赦すための代償としての犠牲でした。キリストは、復活し信じる者に新しい永遠の命を与えます。父、御子、聖霊の三位一体の神は唯一であり、存在するものすべての創造者であり、ほかに神は存在しません。キリストは、唯一の 三位一体の神の二位格です。キリストは祈りの中で、その愛と栄光のある永遠に共に居る交わりに触れています。イエス・キリストは、完全に100%神であり [続きを読む]
  • 福音派で信仰を持つことについて、私の体験から
  • 以前の記事でも触れたとおり、福音派の教会員になるには、決められた内容の信仰告白が求められます。このブログ内の関連記事:雅歌「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」 ( 2013年02月11日 )牧師逮捕 (2005年04月09日)私も福音派で信仰を持ちましたが、後で福音派の教会の関わりの囲いから外に出ました。関わりを断っているわけではありませんが、距離を置いています。日曜日 [続きを読む]
  • 仕方ないよ、人間だもの。弱さからの祈りにイエス様が居ます。
  • 神の敵になるか、神の友になるか。この世で見える違いは小さく、最後の結果は大きいものです。しかし、いつどこからでもやり直しが効きます。この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい。あなたがたのよく知っているとおり、全世界にいるあなたがたの兄弟たちも、同じような苦しみの数々に会っているのである。あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あな [続きを読む]
  • 「自分の十字架を負うこと」は、むずかしくないです
  • それぞれ人生の必然を生きることから、必ず誰かに出会い、そこで負うことができる十字架を見つけます。教会の組織で認められて、箔を付ける(はくをつける)ようなものではなく、私たちの置かれた生きる道に自然にあるものを生きるのです。ですから、どのような人生も否定されるべきではありません。厳しい教会では、「人のすべての願望や発想が罪から来ている」、と自分を否定されます。さらにひどい場合は、本人の内面や過去を暴 [続きを読む]
  • 新興宗教の心理的な『解放感』の問題と、聖書の「聖化」「試練」
  • 『あらゆるものを越えて神を信じる』『超越の境地に居ると、自分に起こるすべての現実に惑わされず、火の粉のかからない遠くに置くことができ、心穏やかに平安で居られます。』と教える宗教が日本に数多くあり、にわかに取り込まれていく人たちがいらっしゃいます。しかし、これは実際には「逃避」でしかありません。そして、キリストへの信仰でも、個人的に同じようなことを信じたい人がたくさんいるようです。『神の視点に立ち、 [続きを読む]
  • みんな愛ある「ゆるキャラ」になろう
  • 神の思いは現実的で、人のように空想を巡らせるだけのようなことはありません。愛と赦しと平和を与えるキリスト・聖霊の内住は誰にでも注がれ、満たされ、内から溢れて流れ出します。これはキリストの十字架によって、すべての人に呼びかけられています。一部の人の使命感で信仰や正義が決められて、従うように迫る教会や国によって裁かれ排除される人々のところにこそ、キリストは共におられます。最も悲惨な現実をキリストは味わ [続きを読む]
  • 内にある霊的確信を生かすための祈り−目を覚まして(11)
  • 聖書では、罪である地上の肉の思いと、神に導かれ形作られる霊的な命を分けて、聖霊に導かれるように命じられていますが、私たちの肉の現実は、どちらともつかない考えと行動になっています。人間の知恵では、何が霊的で神からのものか、わきまえ知ることは難しいです。少しでも実感するためには、やはり日々の祈りと聖書の習慣が大切になります。祈ったことや読んだ聖書の中味は、祈りの時間が終わったら忘れて良いものではなく、 [続きを読む]
  • 脱出はキリストにある自立のため−目を覚まして(9)
  • すでに捕えたとは考えずに、キリストの歩まれた仕える者としての御跡に従う道は、本当に キリストご自身を追い求めなければなりません。キリストが目に見える形で福音を伝えた新約聖書には、救いについて「完成を目指して」、「はるかに仰ぎ見て」、「おぼろげで、まだすべてが見えていない」という言葉が並んでいます。そして、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」と言われています。聖書執筆 [続きを読む]
  • 組織化は、どうしても形式化する−目を覚まして(8)
  • キリストの十字架は、人の罪の犠牲であり、神は、まだ罪人であった時に私たちを愛し、罪のあるところを十字架のゆえに聖いものとして見て下さる一方的恵みの救いを注がれました。私たちは、信仰を持ってもなお自分の罪を覚えますが、その都度、罪あるままキリストに向かい祈りすがる時に、神の目に義であり聖いと認められます。しかし、旧約の律法が良いものであったのに、人の思いで形式化して、キリストを十字架につける人間的な [続きを読む]
  • 祈り、神の御声に聞き従いたい−目を覚まして(7)
  • 神の導きを求めて祈り、みことばや導きに従いたい。なぜそう願うのか。それは、「神の御手が、人を最善に導いて、救う」と信じるからですよね。個人で神様に出会って、「私の主、私の神」として信頼していくことが、必須です。キリストは、2000年前に地上で弟子たちと暮らしました。目には見えませんが、今も同じように私たち一人一人と共に暮らしておられないでしょうか。そう信じて進むことで、大きな安らぎと前に進む勇気が [続きを読む]