gonsongkenkongsk さん プロフィール

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gonsongkenkongskさん: 中国通史で辿る名言・故事探訪
ハンドル名gonsongkenkongsk さん
ブログタイトル中国通史で辿る名言・故事探訪
ブログURLhttp://gonsongkenkongsk.blog.fc2.com/
サイト紹介文中国の通史で、故事来歴や名言を学ぶ。
自由文中国の神話時代から現代中国まで、その4千年の歴史から生まれた故事成語や名言を、また多くの古典籍から目ぼしい思想を抜粋して、評価したり批判の材料に供すべく提示した。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供30回 / 365日(平均0.6回/週) - 参加 2013/01/30 17:13

gonsongkenkongsk さんのブログ記事

  • 中国通史で辿る故事・名言探訪(探訪完了の雑感)
  • 「探訪完了の雑感」 平成25年1月4日から記述し始めた「中国通史で辿る名言・故事探訪」もどうにか終末を迎えることが出来た。 まだまだ、アレモコレモと思いは多々残るが、この辺で一応 区切りを付けておきたいと思う。 しばらく充電期間を置いてから、再検討して体系を再構築し、内容の不備や不具合を補正し、さらには記事内容を増量し充実させたいと思念しています。  [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(感謝の一語)
  •   マイブログ立ち寄りの方々への感謝 2013年1月4日に踏み出したマイブログが、本日 6月24日に77、777に達しました。 自身は轗軻不遇なものと自認しておりましたが、いつのまにか万ころのアクセスを達成させて戴き感謝感激の念を禁じ得ません。 一応 ブログ投稿の初期の思いは叶い、一段落となり終了しました。 今後は、不十分かつ不備であったりしたものは再考し、増補改訂しようと思っています。  アドバ [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(戊戌政変)
  •  「戊戌政変」                        清朝  西太后に擁立されて幼くして即位した11代光緒帝(愛新覚羅 載湉≪さいてん≫)は順調に成長し、光緒十五年(1789年)には、 西太后の実弟の娘を后とした。  そして光緒帝の結婚後は、西太后も頤和園(いわえん)移り、 表向きは光緒帝による親政が始まったと謂われはしたが、その 政治的実権は依然として頤和園の西太后に在った。  だが光緒帝は [続きを読む]
  • 中国通史で辿る故事・名言探訪(妖は徳に勝たず)
  •   「妖は徳に勝たず」             殷王朝時代   殷王朝の第8代帝雍己が在位12年にして崩じたので、  太子が即位した。これが第9代太戊(たいぼ)王である。廟号は中宗。   初代湯王の良き補佐であった宰相伊尹の孫・伊陟(いちょく)が  輔佐の任に当たり、ようやく衰退傾向にあった王朝の威勢に歯止め  をかけた。   伊陟が宰相になったとき、朝廷内で不思議な怪奇現象が生じた。   朝方、 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る故事・名言探訪(羿の伝説)
  •   「太陽を射落とした羿の伝説」                 中国神話時代 羿(げい)は弓の名手として、古来からよく知られた伝説上の人である。 その伝説は堯帝の時代のものであったり、夏の時代のものであったりして、またその内容にもそれぞれ異同があったりして特定的ではない。 だが彼が超人的な弓の名手であったという事だけは一致している。 とりわけ有名なのが、「太陽を射落とす」という伝説である。 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(日清戦争)
  •  「日清戦争」                      清朝  光緒二十年(1894年 明治二七年)七月から翌年二月にかけて、 眠れるアジアの獅子と評された清国は、李氏朝鮮に対する宗主権 と、朝鮮半島における日本の権益の駆け引きを巡って互いに出兵し、 戦端が開かれた。  日本軍が豊島沖で、清国の偽装艦船を攻撃し開戦に到る。  清国軍は、平壌、黄海、威海衛、遼河対岸の田荘台で敗北を喫し、 光緒 二十 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(洋務運動)
  •  「洋務運動と艦隊の創設」                        清朝  遅ればせながら、朝廷内外では有識者が富国強兵を進めるため その手段として列強各国と積極的に外交交渉を展開し、西欧先進 諸国の工業技術やまた事業経営の手法を導入し、また政治的改革 の断行を図ろうとする運動がおこなわれた。  このような運動を「洋務運動」という。  最大の事業は欧米の技術、特に頑強な軍艦と性能の高い武器・ [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(回族の大叛乱)
  •  「回族の大叛乱」                       清朝  清王朝の屋台骨を揺さぶった太平天国の乱の勢いが漸く下火に なった頃、西方の雲南地方で回族の大規模叛乱が生じた。  朝廷は鎮圧に努めるがその実効は上がらなかった。  そこで、太平天国の乱で鎮圧の将・曽国藩の片腕として活躍した 左宗棠(さそうとう)に鎮圧軍指揮の命が下った。  左宗棠は咸豊十年(1860年)に曽国藩の推挙により、湘軍 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(辛亥革命)
  •  「辛亥革命」                    清朝末期  宣統三年(1911年) 辛亥の年、革命勢力が清朝を倒して 「中華民国」を樹立した民主主義革命を辛亥年に因んで辛亥革命と いう。  1910年3月、武昌蜂起に始まり、翌年1月には孫文を臨時大総統 とする南京臨時政府が成立した。  清朝最後の皇帝となった12代宣統帝(愛新覚羅溥儀)は退位して、 ここに「清国」は滅亡した。  だが革命勢力は弱 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(天下を一家となす)
  •  「天下を一家となす」                    清代  この天の下に広がる国家全体(国中)は、全て一つの家族だと する思想。  清朝の末期、廣州出身の洪秀全は十六歳から三十一歳までの 間に、廣州府で四回 科挙の秀才を受験するための予備試験 (府試)を受験したがその都度失敗した。  その失敗の原因は、身分的差別にあったと云われる。  彼が三回目の試験に失敗し失意のどん底にあった時、彼に [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言:故事探訪(中国三大女傑・西太后)
  •  「中国三大女傑 其の三」                     清朝  古来から中国では、王朝の有力な女性権勢家として、 漢王朝初期の劉邦夫人(呂太后。名は雉)・唐王朝初期の 二代皇帝・高宗に召された武氏(武皇后とも則天武后とも)・清朝 末期の九代咸豊帝の二人の皇后の内の一人である西太后 (名は蘭)の三人が周知の事実である。  西太后は満州族の中級旗人・官吏の家に生まれ、名は蘭。  時の皇帝・咸豊帝 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(朱を奪うは正色に非ず、)
  •  「朱を奪うは正色に非ず、    異種もまた王を称す」                    清代  清に滅ぼされた明王朝は、「朱」を正色としていた。  即ち、朱色は正統王朝たる明の証でもあった。  ところが、その朱を奪ったのは正色でない異色の異民族たる 満州人であり、勝手に清王朝と称している。    ? 異色とは、原色を混ぜ合わせてできた色をいい、     中間色(間色)ともいう。  清王朝の第 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(北京の五十五日)
  •  「北京の五十五日」                    清朝  1898年、二人のドイツ人神父が殺害されたのを契機として、ドイツ 軍は膠州や青島を占領し、清朝に膠州湾の租借を強要して認め させた。  以後、ロシアは旅順大連を、イギリスは威海衛九龍を、フランスは 広州湾の租借の権益を認めさせた。  清末 山東などの民衆は飢饉と重税に喘いでいたが、度重なる列強 の内政干渉に不満を懐き、遂に大きな反 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(一事の謹み)
  •   「一事を謹まざれば四海の憂いを貽(のこ)し、  一事を謹まざれば千百世の患いを貽す。」                    清代  事細かな事でも疎かにすれば、それがいつかは国家の憂いとなり、 やがて将来の禍となろう。  清王朝の第4代皇帝・康熙(こうき)帝の晩年の述懐である。  康熙帝は謂う、  「それ故 朕はどんな細事も疎かにはしなかった。  今 処理すべきことは今すべきであり、明日もま [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(天下を治むるは貪を懲らし、)
  •   天下を治むるは貪(たん)を懲らし、    廉(れん)を薦むるを以って要となす。                清   政治の要諦は、先ず汚職を封じ貪官(たんかん)を断罪し、清廉  を奨めて清賢の官を進めることが肝要である。   清朝の黄金期を創出し、その晩節を全うした稀有の皇帝である  康熙帝の言葉。    二十四歳で崩じた順治帝の後を受けて、順治帝の三男で八歳の  玄燁(げんよう)が、清王朝 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事(庚戍の変)
  •  「庚戍の変」                     明代  十五世紀後半 明王朝の弘治・正徳年間、モンゴルにおいては 1487年、チンギスハーンの末裔を称するダヤン干(本名は バド・モンケ)がモンゴル南方(現在の内モンゴル)を平定して新しい 支配体制を敷いた。  その領域を左右に分かち、自らと長子のトロ・ボラトは左翼を守り、 第三子のバルス・ボラトを副王にして右翼を守らせた。  その後、左翼の [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(奪情起復)
  •  「奪情起復」                    明代  世情の自分に対する評判などに気をかけず、官職に留まったり また復帰すること。  中国では古来から、官僚は親の死に際しては、一旦 その職を 辞して郷里に帰り、服喪すべきとする重い仕来たりがあった。  破綻に瀕した明王朝の財政的大改革を成功に導いた張居正の 死後、彼の専断ともいえる政策実施に対して、密かに批判の声が 上がり始めた。  とりわ [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪
  •  崔後渠の六然(りくぜん)                    明代  崔後渠の信条たるべき六つの格言をいう。  明朝の11代武宗(正徳帝)の御世、悪名高き宦官・劉謹が 権勢を揮い、己を誹謗したり気に入らない者は容赦なく左遷させ たり、投獄するという傍若無人振りであった。  時に硬骨の諫官の崔銑が、憚ることなく劉謹の行状を厳しく糾弾 した。  だが聞く耳を持たぬ劉謹は、世間体に羞じ入ることもなく [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(因声求義)
  •  「因声求義」                    清代  清の初期、古代言語研究を極めるために「小学」という学問が 生れた。  古代の経書は難解な文語体で書かれているため、これを読み解く ために古代言語研究の手法として「小学」が発達した。  この小学によれば、漢字は字形が概念を表わすのではなく、音が 概念を表わすという考え方を取り、同音のものが同義を表わすとなす。  即ち、「声に因りて義を求む [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(善悪はただこれ一物)
  •  「善悪はただこれ一物なり」                    明代  王陽明の弟子の薛侃(せつかん)が、花々の合間に伸びた草を 取り除きながら師に問うた。  「何ぞ善は培い難く、悪は去り難しぞ」と。  陽明 対えて、  「草に善悪の分なし。  花を観んとせば花を善となす、草を用いんとせば草を善と為す。    善悪は皆 自分の好悪に生ず、花自身に善悪なし」と。  その説によれば、一つの草が善草 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る故事・名言探訪(法の行われざるは)
  •  「法の行われざるは、人 力(つと)めざればなり。  人を論ぜずして法を議して、何の益かあらん」。                     明代  法即ち政治が良く機能しないのは 執行する官僚どもがその務め を十分に果たさないからである。  その原因たるや法の不備にあるのではなく、其れを運用する官僚 の怠慢にあるのであって、その対策を練らずして法を議しても何の 益にもならない。  明王朝の第14代 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(心中の賊を破るは難し)
  •   山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し。                   明代  精神修養の難しさを諭した王陽明(守仁)の言葉。  心中の賊とは、陽明学で言う「天理(良知)」を存して私欲・邪欲 の病魔を去ること、  即ち常に己を省みて(省察) 私欲を退治する(克治)という意。   明の時代 江西省と雲南省では、省境の山中に多くの野盗が 棲みつき、数十年に亘り跋扈していた。  官軍も手の [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(龍場の大悟)
  •   龍場の大悟(たいご)                      明代  「龍場の頓悟」ともいう。  都を遥かに隔てた貴州省の龍場という僻遠の地で、明代の儒学者 官僚の王陽明が生活に不自由しながらも積年の学問上の疑問を 解いて、「龍場の大悟(頓悟)」と謂われる新学説 即ち陽明学を確立 した故事。  その地は苗族(ミャオ族)の住む山中にあり、陽明は自分で簡素な 家を建て、また住民の耕作法を真似て焼 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(人生の大病は、ただこれ一の傲字なり)
  •   「人生の大病は、ただこれ一の傲字(ごうのじ)なり」                    明代  人の一生涯を通じて自戒すべきものは、即ち傲慢という事に尽きる。  明代の陽明学者で高級官僚の王陽明(守仁)は謂う、  「人生の大病はただ一つ、これ一の傲字なり。  子となって傲なれば必ず不孝、臣となって傲なれば必ず不忠、 父となって傲なれば必ず不慈、友となって傲なれば必ず不信となる。  象(舜帝の [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(造物は涯り有り、而して人情は涯り無し)
  •  造物は涯(かぎり)り有り、    而して人情は涯り無し。                   明代  地上にある天然資源や物質には自ずと数量に限りがあるが、 それに反して人の欲望や願望には際限というものがない。  明の呂新吾の「呻吟語」による言葉である。  明王朝は、異民族の外敵による侵入を防ぎ国家を防衛する という積年の悲願ともいうべき目的を以って、有限の資源と人民 を駆使した過酷な労役で、途 [続きを読む]