gonsongkenkongsk さん プロフィール

  •  
gonsongkenkongskさん: 中国通史で辿る名言・故事探訪
ハンドル名gonsongkenkongsk さん
ブログタイトル中国通史で辿る名言・故事探訪
ブログURLhttp://gonsongkenkongsk.blog.fc2.com/
サイト紹介文中国の通史で、故事来歴や名言を学ぶ。
自由文中国の神話時代から現代中国まで、その4千年の歴史から生まれた故事成語や名言を、また多くの古典籍から目ぼしい思想を抜粋して、評価したり批判の材料に供すべく提示した。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供34回 / 365日(平均0.7回/週) - 参加 2013/01/30 17:13

gonsongkenkongsk さんのブログ記事

  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(道のある所、天下之に帰す)
  •   「道のある所、天下之に帰す」                     殷王朝末期   ある日、周の君・西伯昌と太公望呂尚が治国の方策について語り  合った。   その内 太公望は西伯昌から “天下掌握の方策” を問われた。   太公望 語って曰く、   「凡そ人は死を悪(にく)みて生を楽しみ、徳を好みて利に帰す。   良く生利をするものは道なり。   道のある所、天下 之に帰す」と。   即ち [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(魯の季友、上卿となる)
  •   「慶父を去らずんば、魯の難 未だ已まじ」                    東周  魯の18代閔公元年(前661年)夏六月、先代の荘公を葬る。    ※ 閔公:「史記」では湣公と記す。  同年秋八月、閔公は斉の桓公と落姑で盟を立てたが、その際に 先に陳に奔った季友を呼び戻すべく斉侯の助力を請い、後に斉侯 の口添えもあり陳から季友が帰国してきた。  そしてその年の冬 斉の大夫・仲孫湫は、魯のお [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(虢国に神降る)
  •  「神を得て以って国興り、また或いは以って亡ぶ」                     東周  東周王朝の17代惠王十五年(前663年)に神が虢(かく)国の莘 に降るという事件があった。  惠王と大夫の内史(史官)の過との間で、虢国存亡についての深刻 な問答があった。  惠王が過に其の事を質した。  「何故そのような事が起こり、虢に降ったのか」と。  過は、  「国が興隆する時には、その君は公明 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(晋の重耳の放浪)
  •  「重耳と夷吾の放逐」                    東周  晋の19代献公(在位期間は前676−651)の大子であった申生や 公子の夷吾(後の20代恵公)・重耳(後の22代文公)は既に立派な 青年公子になっていた。  ところが献公が晩年になって娶った驪姫の策謀により、太子申生が 曲沃の新城に遷された際 重耳は蒲城に、夷吾は屈城にそれぞれ 遷されていた。   [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(獲るところ覇王の輔ならん)
  •   「西伯昌と太公望の出会い」                       殷王朝時代末期      諸侯国の君の西伯昌が、或る日のこと狩猟に出ようとして、之を  占ったところ、次のような卦が出た。   「獲るところ龍に非ず彲(ち)に非ず、虎に非ず羆(ひ)に非ず、  獲るところ覇王の輔ならん」と。       ? 彲とは、蛟龍(みずち)のことで、蛇に似た水生の生き物。        羆は、ひぐま。 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(斉の後継者争い)
  •   「臣 謹んで誅を行う」       紀元前686年 斉(姜斉)の大夫擁廩(=林)は、15代の公孫無知 を弑してから大夫連中に告げて曰く、  「無知は、襄公(14代の姜諸兒)」を弑して自立す。  臣 謹んで誅を行う。  ただ大夫ら、さらに公子の当に立つべき者を立てよ。  ただ命をこれ聴かん」と。  自らは、懼れ多くも野望の無いことを闡明したのである。  『小白と糾の後継者争い』    大夫擁廩(林)の [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(西伯昌、羑里に幽閉)
  •   「西伯昌、羑里に幽閉される」                    殷王朝   后稷(こうしょく)を祖とする周は、西伯昌の代になって政治の範  を后稷・公劉(后稷の曽孫)・古公亶父(ここうたんぽ。西伯昌の  祖父)・季公(西伯昌の父で王季とも)等の先君に求めて、仁政に  これ努め、老を敬い少を慈しみ、賢者には礼下し日中まで食するに  暇非ず。以って士を待つという国風を醸し出していた。   その [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(楚の熊通、王を称す)
  •  「我、自ら尊くせんのみ」                    春秋時代  18代楚王の熊通(ゆうとう)は、周・桓王十五年(前706年)に 周王朝の同族である「隋国」を攻めたが、その一方では周王朝に 自らの高位の爵位を要求した。    ※ 楚国は当時においては、子爵の国であった。  ところが朝廷にその願いを一蹴されたので、  「我、自ら尊くせんのみ」と称して、久しぶりに荊蛮(未発展)時代の 王号 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(菟裘)
  •  「菟裘」                    春秋時代  菟裘(ときゅう)は、魯の隠公の隠居しようとした地名である。  転じて、官職を退いて隠居する地のことを謂う。  魯・隠公十一年(前712年)冬、恵公(13代)の嫡子・允(軌とも) は、公子の羽父(公子翬?き?)に唆されて、すでに退位を決意していた 異母兄の隠公(14代)を殺させて自立した。  隠公十一年のある日のこと、魯の公子羽父が隠公に [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(夢に良弼を得る)
  •  「夢に良弼を得る」                    殷王朝   殷王朝の武丁(22代)が、夢見の中で良き補佐役を得た故事。   帝小乙(21代)が崩じた後、太子の武丁が即位した。諡号は高宗。   武帝は即位するや父帝の喪に服して、三年間 一人で亮陰に  過ごす。   喪が明けた後、何とかして殷王朝の威光を昔のように取り戻したい  と思念していた。   しかし、自分の良き補佐役となるべき賢者 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(殷の湯王、祷りの自己問責)
  •   「湯王の祷りの自己問責」  湯王の治世年間において、国内で七年間も続くという大旱魃があった。  湯王は時の太史(天文官)に占わせたところ、  「将に人を以って祷るべし」、との占いが出た。   だが湯王が占わせたのは、困窮する人民の為にしたことであり、  「若し人の犠牲が必要ならば、我が身を当てん」と言って、  遂に斎戒沐浴に入り、白装束に身をまとい、その身を犠牲として 桑林の野に祷った。  湯王 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る故事・名言探訪(探訪完了の雑感)
  • 「探訪完了の雑感」 平成25年1月4日から記述し始めた「中国通史で辿る名言・故事探訪」もどうにか終末を迎えることが出来た。 まだまだ、アレモコレモと思いは多々残るが、この辺で一応 区切りを付けておきたいと思う。 しばらく充電期間を置いてから、再検討して体系を再構築し、内容の不備や不具合を補正し、さらには記事内容を増量し充実させたいと思念しています。  [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(感謝の一語)
  •   マイブログ立ち寄りの方々への感謝 2013年1月4日に踏み出したマイブログが、本日 6月24日に77、777に達しました。 自身は轗軻不遇なものと自認しておりましたが、いつのまにか万ころのアクセスを達成させて戴き感謝感激の念を禁じ得ません。 一応 ブログ投稿の初期の思いは叶い、一段落となり終了しました。 今後は、不十分かつ不備であったりしたものは再考し、増補改訂しようと思っています。  アドバ [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(戊戌政変)
  •  「戊戌政変」                        清朝  西太后に擁立されて幼くして即位した11代光緒帝(愛新覚羅 載湉≪さいてん≫)は順調に成長し、光緒十五年(1789年)には、 西太后の実弟の娘を后とした。  そして光緒帝の結婚後は、西太后も頤和園(いわえん)移り、 表向きは光緒帝による親政が始まったと謂われはしたが、その 政治的実権は依然として頤和園の西太后に在った。  だが光緒帝は [続きを読む]
  • 中国通史で辿る故事・名言探訪(妖は徳に勝たず)
  •   「妖は徳に勝たず」             殷王朝時代   殷王朝の第8代帝雍己が在位12年にして崩じたので、  太子が即位した。これが第9代太戊(たいぼ)王である。廟号は中宗。   初代湯王の良き補佐であった宰相伊尹の孫・伊陟(いちょく)が  輔佐の任に当たり、ようやく衰退傾向にあった王朝の威勢に歯止め  をかけた。   伊陟が宰相になったとき、朝廷内で不思議な怪奇現象が生じた。   朝方、 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る故事・名言探訪(羿の伝説)
  •   「太陽を射落とした羿の伝説」                 中国神話時代 羿(げい)は弓の名手として、古来からよく知られた伝説上の人である。 その伝説は堯帝の時代のものであったり、夏の時代のものであったりして、またその内容にもそれぞれ異同があったりして特定的ではない。 だが彼が超人的な弓の名手であったという事だけは一致している。 とりわけ有名なのが、「太陽を射落とす」という伝説である。 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(日清戦争)
  •  「日清戦争」                      清朝  光緒二十年(1894年 明治二七年)七月から翌年二月にかけて、 眠れるアジアの獅子と評された清国は、李氏朝鮮に対する宗主権 と、朝鮮半島における日本の権益の駆け引きを巡って互いに出兵し、 戦端が開かれた。  日本軍が豊島沖で、清国の偽装艦船を攻撃し開戦に到る。  清国軍は、平壌、黄海、威海衛、遼河対岸の田荘台で敗北を喫し、 光緒 二十 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(洋務運動)
  •  「洋務運動と艦隊の創設」                        清朝  遅ればせながら、朝廷内外では有識者が富国強兵を進めるため その手段として列強各国と積極的に外交交渉を展開し、西欧先進 諸国の工業技術やまた事業経営の手法を導入し、また政治的改革 の断行を図ろうとする運動がおこなわれた。  このような運動を「洋務運動」という。  最大の事業は欧米の技術、特に頑強な軍艦と性能の高い武器・ [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(回族の大叛乱)
  •  「回族の大叛乱」                       清朝  清王朝の屋台骨を揺さぶった太平天国の乱の勢いが漸く下火に なった頃、西方の雲南地方で回族の大規模叛乱が生じた。  朝廷は鎮圧に努めるがその実効は上がらなかった。  そこで、太平天国の乱で鎮圧の将・曽国藩の片腕として活躍した 左宗棠(さそうとう)に鎮圧軍指揮の命が下った。  左宗棠は咸豊十年(1860年)に曽国藩の推挙により、湘軍 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(辛亥革命)
  •  「辛亥革命」                    清朝末期  宣統三年(1911年) 辛亥の年、革命勢力が清朝を倒して 「中華民国」を樹立した民主主義革命を辛亥年に因んで辛亥革命と いう。  1910年3月、武昌蜂起に始まり、翌年1月には孫文を臨時大総統 とする南京臨時政府が成立した。  清朝最後の皇帝となった12代宣統帝(愛新覚羅溥儀)は退位して、 ここに「清国」は滅亡した。  だが革命勢力は弱 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(天下を一家となす)
  •  「天下を一家となす」                    清代  この天の下に広がる国家全体(国中)は、全て一つの家族だと する思想。  清朝の末期、廣州出身の洪秀全は十六歳から三十一歳までの 間に、廣州府で四回 科挙の秀才を受験するための予備試験 (府試)を受験したがその都度失敗した。  その失敗の原因は、身分的差別にあったと云われる。  彼が三回目の試験に失敗し失意のどん底にあった時、彼に [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言:故事探訪(中国三大女傑・西太后)
  •  「中国三大女傑 其の三」                     清朝  古来から中国では、王朝の有力な女性権勢家として、 漢王朝初期の劉邦夫人(呂太后。名は雉)・唐王朝初期の 二代皇帝・高宗に召された武氏(武皇后とも則天武后とも)・清朝 末期の九代咸豊帝の二人の皇后の内の一人である西太后 (名は蘭)の三人が周知の事実である。  西太后は満州族の中級旗人・官吏の家に生まれ、名は蘭。  時の皇帝・咸豊帝 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(朱を奪うは正色に非ず、)
  •  「朱を奪うは正色に非ず、    異種もまた王を称す」                    清代  清に滅ぼされた明王朝は、「朱」を正色としていた。  即ち、朱色は正統王朝たる明の証でもあった。  ところが、その朱を奪ったのは正色でない異色の異民族たる 満州人であり、勝手に清王朝と称している。    ? 異色とは、原色を混ぜ合わせてできた色をいい、     中間色(間色)ともいう。  清王朝の第 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(北京の五十五日)
  •  「北京の五十五日」                    清朝  1898年、二人のドイツ人神父が殺害されたのを契機として、ドイツ 軍は膠州や青島を占領し、清朝に膠州湾の租借を強要して認め させた。  以後、ロシアは旅順大連を、イギリスは威海衛九龍を、フランスは 広州湾の租借の権益を認めさせた。  清末 山東などの民衆は飢饉と重税に喘いでいたが、度重なる列強 の内政干渉に不満を懐き、遂に大きな反 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(一事の謹み)
  •   「一事を謹まざれば四海の憂いを貽(のこ)し、  一事を謹まざれば千百世の患いを貽す。」                    清代  事細かな事でも疎かにすれば、それがいつかは国家の憂いとなり、 やがて将来の禍となろう。  清王朝の第4代皇帝・康熙(こうき)帝の晩年の述懐である。  康熙帝は謂う、  「それ故 朕はどんな細事も疎かにはしなかった。  今 処理すべきことは今すべきであり、明日もま [続きを読む]