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gonsongkenkongskさん: 中国通史で辿る名言・故事探訪
ハンドル名gonsongkenkongsk さん
ブログタイトル中国通史で辿る名言・故事探訪
ブログURLhttp://gonsongkenkongsk.blog.fc2.com/
サイト紹介文中国の通史で、故事来歴や名言を学ぶ。
自由文中国の神話時代から現代中国まで、その4千年の歴史から生まれた故事成語や名言を、また多くの古典籍から目ぼしい思想を抜粋して、評価したり批判の材料に供すべく提示した。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供31回 / 365日(平均0.6回/週) - 参加 2013/01/30 17:13

gonsongkenkongsk さんのブログ記事

  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(日清戦争)
  •  「日清戦争」                      清朝  光緒二十年(1894年 明治二七年)七月から翌年二月にかけて、 眠れるアジアの獅子と評された清国は、李氏朝鮮に対する宗主権 と、朝鮮半島における日本の権益の駆け引きを巡って互いに出兵し、 戦端が開かれた。  日本軍が豊島沖で、清国の偽装艦船を攻撃し開戦に到る。  清国軍は、平壌、黄海、威海衛、遼河対岸の田荘台で敗北を喫し、 光緒 二十 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(洋務運動)
  •  「洋務運動と艦隊の創設」                        清朝  遅ればせながら、朝廷内外では有識者が富国強兵を進めるため その手段として列強各国と積極的に外交交渉を展開し、西欧先進 諸国の工業技術やまた事業経営の手法を導入し、また政治的改革 の断行を図ろうとする運動がおこなわれた。  このような運動を「洋務運動」という。  最大の事業は欧米の技術、特に頑強な軍艦と性能の高い武器・ [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(回族の大叛乱)
  •  「回族の大叛乱」                       清朝  清王朝の屋台骨を揺さぶった太平天国の乱の勢いが漸く下火に なった頃、西方の雲南地方で回族の大規模叛乱が生じた。  朝廷は鎮圧に努めるがその実効は上がらなかった。  そこで、太平天国の乱で鎮圧の将・曽国藩の片腕として活躍した 左宗棠(さそうとう)に鎮圧軍指揮の命が下った。  左宗棠は咸豊十年(1860年)に曽国藩の推挙により、湘軍 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(辛亥革命)
  •  「辛亥革命」                    清朝末期  宣統三年(1911年) 辛亥の年、革命勢力が清朝を倒して 「中華民国」を樹立した民主主義革命を辛亥年に因んで辛亥革命と いう。  1910年3月、武昌蜂起に始まり、翌年1月には孫文を臨時大総統 とする南京臨時政府が成立した。  清朝最後の皇帝となった12代宣統帝(愛新覚羅溥儀)は退位して、 ここに「清国」は滅亡した。  だが革命勢力は弱 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(天下を一家となす)
  •  「天下を一家となす」                    清代  この天の下に広がる国家全体(国中)は、全て一つの家族だと する思想。  清朝の末期、廣州出身の洪秀全は十六歳から三十一歳までの 間に、廣州府で四回 科挙の秀才を受験するための予備試験 (府試)を受験したがその都度失敗した。  その失敗の原因は、身分的差別にあったと云われる。  彼が三回目の試験に失敗し失意のどん底にあった時、彼に [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言:故事探訪(中国三大女傑・西太后)
  •  「中国三大女傑 其の三」                     清朝  古来から中国では、王朝の有力な女性権勢家として、 漢王朝初期の劉邦夫人(呂太后。名は雉)・唐王朝初期の 二代皇帝・高宗に召された武氏(武皇后とも則天武后とも)・清朝 末期の九代咸豊帝の二人の皇后の内の一人である西太后 (名は蘭)の三人が周知の事実である。  西太后は満州族の中級旗人・官吏の家に生まれ、名は蘭。  時の皇帝・咸豊帝 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(朱を奪うは正色に非ず、)
  •  「朱を奪うは正色に非ず、    異種もまた王を称す」                    清代  清に滅ぼされた明王朝は、「朱」を正色としていた。  即ち、朱色は正統王朝たる明の証でもあった。  ところが、その朱を奪ったのは正色でない異色の異民族たる 満州人であり、勝手に清王朝と称している。    ? 異色とは、原色を混ぜ合わせてできた色をいい、     中間色(間色)ともいう。  清王朝の第 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(北京の五十五日)
  •  「北京の五十五日」                    清朝  1898年、二人のドイツ人神父が殺害されたのを契機として、ドイツ 軍は膠州や青島を占領し、清朝に膠州湾の租借を強要して認め させた。  以後、ロシアは旅順大連を、イギリスは威海衛九龍を、フランスは 広州湾の租借の権益を認めさせた。  清末 山東などの民衆は飢饉と重税に喘いでいたが、度重なる列強 の内政干渉に不満を懐き、遂に大きな反 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(一事の謹み)
  •   「一事を謹まざれば四海の憂いを貽(のこ)し、  一事を謹まざれば千百世の患いを貽す。」                    清代  事細かな事でも疎かにすれば、それがいつかは国家の憂いとなり、 やがて将来の禍となろう。  清王朝の第4代皇帝・康熙(こうき)帝の晩年の述懐である。  康熙帝は謂う、  「それ故 朕はどんな細事も疎かにはしなかった。  今 処理すべきことは今すべきであり、明日もま [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(天下を治むるは貪を懲らし、)
  •   天下を治むるは貪(たん)を懲らし、    廉(れん)を薦むるを以って要となす。                清   政治の要諦は、先ず汚職を封じ貪官(たんかん)を断罪し、清廉  を奨めて清賢の官を進めることが肝要である。   清朝の黄金期を創出し、その晩節を全うした稀有の皇帝である  康熙帝の言葉。    二十四歳で崩じた順治帝の後を受けて、順治帝の三男で八歳の  玄燁(げんよう)が、清王朝 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事(庚戍の変)
  •  「庚戍の変」                     明代  十五世紀後半 明王朝の弘治・正徳年間、モンゴルにおいては 1487年、チンギスハーンの末裔を称するダヤン干(本名は バド・モンケ)がモンゴル南方(現在の内モンゴル)を平定して新しい 支配体制を敷いた。  その領域を左右に分かち、自らと長子のトロ・ボラトは左翼を守り、 第三子のバルス・ボラトを副王にして右翼を守らせた。  その後、左翼の [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(奪情起復)
  •  「奪情起復」                    明代  世情の自分に対する評判などに気をかけず、官職に留まったり また復帰すること。  中国では古来から、官僚は親の死に際しては、一旦 その職を 辞して郷里に帰り、服喪すべきとする重い仕来たりがあった。  破綻に瀕した明王朝の財政的大改革を成功に導いた張居正の 死後、彼の専断ともいえる政策実施に対して、密かに批判の声が 上がり始めた。  とりわ [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪
  •  崔後渠の六然(りくぜん)                    明代  崔後渠の信条たるべき六つの格言をいう。  明朝の11代武宗(正徳帝)の御世、悪名高き宦官・劉謹が 権勢を揮い、己を誹謗したり気に入らない者は容赦なく左遷させ たり、投獄するという傍若無人振りであった。  時に硬骨の諫官の崔銑が、憚ることなく劉謹の行状を厳しく糾弾 した。  だが聞く耳を持たぬ劉謹は、世間体に羞じ入ることもなく [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(因声求義)
  •  「因声求義」                    清代  清の初期、古代言語研究を極めるために「小学」という学問が 生れた。  古代の経書は難解な文語体で書かれているため、これを読み解く ために古代言語研究の手法として「小学」が発達した。  この小学によれば、漢字は字形が概念を表わすのではなく、音が 概念を表わすという考え方を取り、同音のものが同義を表わすとなす。  即ち、「声に因りて義を求む [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(善悪はただこれ一物)
  •  「善悪はただこれ一物なり」                    明代  王陽明の弟子の薛侃(せつかん)が、花々の合間に伸びた草を 取り除きながら師に問うた。  「何ぞ善は培い難く、悪は去り難しぞ」と。  陽明 対えて、  「草に善悪の分なし。  花を観んとせば花を善となす、草を用いんとせば草を善と為す。    善悪は皆 自分の好悪に生ず、花自身に善悪なし」と。  その説によれば、一つの草が善草 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る故事・名言探訪(法の行われざるは)
  •  「法の行われざるは、人 力(つと)めざればなり。  人を論ぜずして法を議して、何の益かあらん」。                     明代  法即ち政治が良く機能しないのは 執行する官僚どもがその務め を十分に果たさないからである。  その原因たるや法の不備にあるのではなく、其れを運用する官僚 の怠慢にあるのであって、その対策を練らずして法を議しても何の 益にもならない。  明王朝の第14代 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(心中の賊を破るは難し)
  •   山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し。                   明代  精神修養の難しさを諭した王陽明(守仁)の言葉。  心中の賊とは、陽明学で言う「天理(良知)」を存して私欲・邪欲 の病魔を去ること、  即ち常に己を省みて(省察) 私欲を退治する(克治)という意。   明の時代 江西省と雲南省では、省境の山中に多くの野盗が 棲みつき、数十年に亘り跋扈していた。  官軍も手の [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(龍場の大悟)
  •   龍場の大悟(たいご)                      明代  「龍場の頓悟」ともいう。  都を遥かに隔てた貴州省の龍場という僻遠の地で、明代の儒学者 官僚の王陽明が生活に不自由しながらも積年の学問上の疑問を 解いて、「龍場の大悟(頓悟)」と謂われる新学説 即ち陽明学を確立 した故事。  その地は苗族(ミャオ族)の住む山中にあり、陽明は自分で簡素な 家を建て、また住民の耕作法を真似て焼 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(人生の大病は、ただこれ一の傲字なり)
  •   「人生の大病は、ただこれ一の傲字(ごうのじ)なり」                    明代  人の一生涯を通じて自戒すべきものは、即ち傲慢という事に尽きる。  明代の陽明学者で高級官僚の王陽明(守仁)は謂う、  「人生の大病はただ一つ、これ一の傲字なり。  子となって傲なれば必ず不孝、臣となって傲なれば必ず不忠、 父となって傲なれば必ず不慈、友となって傲なれば必ず不信となる。  象(舜帝の [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(造物は涯り有り、而して人情は涯り無し)
  •  造物は涯(かぎり)り有り、    而して人情は涯り無し。                   明代  地上にある天然資源や物質には自ずと数量に限りがあるが、 それに反して人の欲望や願望には際限というものがない。  明の呂新吾の「呻吟語」による言葉である。  明王朝は、異民族の外敵による侵入を防ぎ国家を防衛する という積年の悲願ともいうべき目的を以って、有限の資源と人民 を駆使した過酷な労役で、途 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪
  •  忍激の二字は、これ禍福の関(かん)なり。                     明代  如何なる時、如何なる場合でも、苦境に耐え忍ぶことの出来るのが 「忍」であり、耐えることが出来ないで、すぐに感情をむき出しにして 暴発するのが「激」である。  忍をとるか激をとるかで、人の幸不幸・吉凶・禍福を別ける関門 となる。    世を処するは、一歩を譲るを高しと為す。  歩を退くは、即ち歩を進めるの張本 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(恥かき井戸)
  •  「恥かき井戸」                    隋代  隋に滅ぼされた陳の後主・陳叔宝の、土壇場における君に あるまじき見苦しい振る舞いの故事。  「辱井」ともいう。  陳の君主・陳叔宝は常に自国が長江という天然の要塞に守られて いるとして、何の心配もすることなく遊興淫楽に現を抜かしていた。  ※ 君主である陳叔宝は陳最後の国主であるので、    後世の史家は彼を後主と記す。  その為やが [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(餓死の事は小にして、)
  •  「餓死の事は小にして、節を失うの事は大なり」                    清代  人が餓死するということは大した問題ではない。  それより節義を失うことの方が、むしろ大問題なのである。  明末 清初の儒者にして高級官僚の劉宗周の言葉である。  劉宗周、号は念台、字は起東といい、陽明学に傾倒した儒者である。  劉宗周はその言葉の通り、清朝初期に 身をもって実践した。  清の順治帝二年(紀 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(忠臣弧子)
  •  「忠臣弧子」                    明代  明朝の末期、最後の皇帝である崇禎帝から父を思うその篤き 孝心を讃えられた黄宗羲の故事。  黄宗羲の父である黄尊素は、東林党の有力な指導者であった。  天啓年間(1621年〜1627年)において反東林党が宦官の大物 の魏忠賢に権力を委ねるに及んで、東林書院は閉鎖され高攀竜 や黄尊素らが次々と投獄され、恐怖政治が断行されることになった。   [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(七大根の宣戦布告)
  •  「サルホの戦い」  その始めは女真族のマンジュ五部の統率者であったヌルハチは、 1615年末、その部族の一部の海西女真のイエヘ族を除いてほぼ 全女真族を統一することに成功した。  そして年が明けた1616年(天命元年)正月元旦、諸王や重臣に 推されて「ハン位」に就いた。  その国号を「後金」と定めた。  即ちその昔 宋と覇権を争った女真族の国家であった「金」の 後継者であるという大いなる誇りと自 [続きを読む]