松本浩舜 さん プロフィール

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松本浩舜さん: EVERYTHING 禅
ハンドル名松本浩舜 さん
ブログタイトルEVERYTHING 禅
ブログURLhttp://blog.livedoor.jp/hongaku_ji/
サイト紹介文不立文字、されど語り尽くします
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供26回 / 365日(平均0.5回/週) - 参加 2013/03/10 00:25

松本浩舜 さんのブログ記事

  • 厳しい責任、甘い憂い
  • 人間釈迦がそうであった様に、事実の確認をする者は出来れば必要です。それは大局を見渡す者であり、今、本当に何をすべきかを知る者です。人間が知り得る事実も、人間が知り得ない事実も、共に事実を知った上で、人が進むべき道を照らし出せる者がいれば、求める者もまた多いでしょう。事実というものは容赦がありません。或いは拒絶反応を起こす人もいます。一方で何をすべきかは単純です。すべき事自体は難しくはありません。し [続きを読む]
  • 難しい理屈と簡単な操作
  • 私は、禅や仏教は、”事実の確認”と”逆に生きる示唆”だと考えます。少なくとも人間釈迦の辿り着いた答えは、両方なくては成立しません。どちらが欠けても、それは禅でも、仏教でも無いと思うのです。”事実の確認”とは、言ってみれば哲学や科学の得意分野かも知れませんし、”逆に生きる示唆”とは、道徳や倫理の得意分野でもあるかも知れませんが、それらが切っても切れない関係で結び付くのが、禅や仏教の担当分野です。です [続きを読む]
  • 逆の生き方
  • 例えばそれが善意であれ、悪意であれ、浮気であれ、本気であれ、どの様に生きても構いませんが、それでどの様な結果が訪れてもそれは、意識せずとも、”あなたが望んだ結果である”のではないでしょうか?幾らその責任から逃れようとしても結局、その責任を負うのは自分自身です。仮にその場は逃れられたとしても、責任というものは付いて廻ります。そして想像以上にその責任は重いものであるかも知れません。それだけにその覚悟は [続きを読む]
  • 無法の上に築いた仮初めの法
  • その上でどの様に生きて行くかは本来ノールール、つまり”無法”であります。相手が好意を持ってくれる事を期待しなければ、どんな料理を作ろうが勝手。また全てを含めて己がそれで満足ならば、此方は何も言い様もありません。本人が、開き直って迷い続ける事を望むなら、それはそれで自由なのです。ただ、普段人間が考える”都合の良い自由”等という甘っちょろいものでなく、それは、誰もが限定されない”傍若無人な自由”と言え [続きを読む]
  • 自分をどう料理するか
  • 己に与えられた現実の中で、どの様に生きるか?という事こそが問題です。それはつまり、自分をどう活かしてゆくか?という事であり、材料としての自分をどの様に料理するか?という事です。以前「不平等の行き着く先(15/2/19)」という話で申し上げた通り、人間は、生に於いて全く不平等であると言えるかも知れません。親も違えば、性別も違う。才能も違えば、環境も違う。命の時間も違えば、出合える縁も異なります。それは”仕 [続きを読む]
  • 求められる覚悟
  • 行く末に迷い、過去に迷い、常に迷いがちなのが人間です。現実を前に、迷う事なくただ粛々と生きてゆく事はこんなにも難しい。寧ろ迷いの中で苦しみ続けるのが本来の人間らしさであるかも知れません。それは持て余すほど大きな心を、人が持っているからに他なりません。そしてその上で、おそらく選択肢は二つあります。開き直って迷い続けるのか?或いは、その迷いを制御して行くのか?です。迷いの原因は、己の心にこそあるのです [続きを読む]
  • もう会えないかも知れない可能性は常にある
  • 私は、幼い頃に死にかけた事がある所為か、それ以来、何となく自分の周囲が、特に壊れ易いものの様に感じていました。それは、自分の世界が崩れてゆく予感という感じでしょうか。自分が消えてしまうにしろ、或いは周囲の側が消えてしまうにしろ、それは結果的には、二度と会えないという、同じ事を意味しています。例えば学校から帰って来て、友達と遊びに出掛けようとした時、ふと、「出掛けている間に家族が消えてしまうかも」と [続きを読む]
  • 二度と戻れない選択
  • 皆さんは”選択式小説”というものを読まれた事があるでしょうか?作者が織り上げた物語を、ただ追随するだけの普通の小説とは一味違い、物語を読み進める中で、読者自身に選択する余地が与えられた小説です。読み手の選択次第で、過程だけでなく結末さえも異なる事になりますし、ハッピーエンドに結実する事もあれば、残念ながらそうならない事もあります。バッドエンドに悔しい思いをして何度も再挑戦する方も多いと思います。選 [続きを読む]
  • どうにもならない事を前にして
  • 残念ながら、”私”にはどうにもならない事は現在進行形で起こっています。そしてこの先も、どうにもならない事が起こる事は多分、避けられません。人によっては、おそらくそれが原因で、夜も眠れない事もあるはずです。宗教に縋れば、どうにもならない事がどうにかなる事などあり得ませんし、他方で科学が、いつかどうにかしてくれると楽観出来るものでもありません。現実とはシビアで、期待通り変わるものでは決してありません。 [続きを読む]
  • 蒔かぬ種は生えぬ
  • 壺の譬えに似て事実は変わりません。変えられるのは自分自身のみです。しかしそれで、自分を含む現実を多少なりとも変えられる事は確かです。それは期待と懸け離れた小さな一歩にしか過ぎないとも思えるでしょうし、寧ろ後退だと思える事もあるのかも知れませんが、一方で、人間個人に出来得る最大の一歩であるとも考える事も出来ます。欲を申せば他人に変わって欲しいし、世界に変わって欲しいでしょう。自分が揺らぐ事なく、責任 [続きを読む]
  • 宝の持ち腐れ
  • 壺の中に手を差し入れて、中に入っている宝を出来得る限り握り締める。しかし壺の口は小さいので、握り締めた拳が邪魔をして、そのままでは壺から手を引き抜く事が出来ません。宝を握り締めたまま引き抜いてその宝を我が物にしたいのに、宝は握れるというのに、残念ながら壺から引き抜く事が出来ません。それでも何とかそのまま引き出せないものかと思案を続けてみる。しかし当然ながらそんな上手い話は幾ら思案を続けてもありませ [続きを読む]
  • たったそれだけの事
  • ”足す”と”引く”を、もう少しだけ押し進めて考えてみましょう。実は人間は、足す場面と引く場面を間違えて行動している様なものなのです。それを正しく入れ替え行動すれば、全ての問題は解決するかも知れません。勿論、人間の”心”が生み出している全ての問題、という意味ですが。人間は、自分の事となると足し算しか出来ず、引き算は苦手です。ゴテゴテと足せば足す程、本来あるべき仏の姿からは遠ざかるのですが、更に性懲り [続きを読む]
  • 足すのではなく引く
  • 例えば、ごく普通の人間である私達からすれば、或いは「悟り」等と申しますと、何処か遠く感じられ、まるで他人事(ひとごと)の様にも思えるかも知れません。しかしそんな勿体付けられた悟り等、果たして何の意味があるでしょうか?それが単純に”生き方”と言い換えられるなら、一人一人が持ててこそ真に意味があるものなのではないでしょうか?また或いは悟りを求めて、飽くなき欲求に執われる事も少なくありません。現状を脱却 [続きを読む]
  • 目から鱗を落とす事
  • 奇なるかな、奇なるかな。一切衆生悉く皆な如来の智慧徳相を具有す。ただ妄想執着あるを以ってのゆえに証得せず。思いがけず素晴らしい事だ。生きとし生けるものは皆、生き方というものを知っている。ただ人間は、自分の心に取り憑かれ、この世からの借り物を自分のものだと思い込んでしまうから、生き方が分からなくなってしまうのだ。人間釈迦の悟りはある意味では大層なものではなく、至って単純です。四つの感違いを正し、この [続きを読む]
  • 四つの勘違い
  • 人間は、この世の本質が無常(変化)であるのに常(一定)と見て、刹那は兎も角、過ぎ去ってみれば苦に満ち満ちているのに楽と為し、人間本位の自我など幻に過ぎないのに、それこそが我(本質)であると考え、この世の不浄な現象を、殊更に浄(きよ)らかと感じ、手放す事が出来ません。理由は、それが刹那的には己の欲求を満たしてくれるからなのですが、仏教では、これを四顛倒(してんどう)、人間が犯す四つの勘違いと捉えます [続きを読む]
  • 仏とは、悟りとは、浄土とは、
  • 衆生本来仏なり/衆生の他に仏なし/この身即ち仏なり。生きとし生けるものは”本来”、仏そのものである。生きとし生けるものを離れて仏は存在しない。ならばこの我が身自身が、取りも直さず仏そのもののはずである。『白隠禅師坐禅和讃』は、”衆生本来仏なり”という一節で始まり、そして”この身即ち仏なり”という一節で終わります。冒頭直ぐに登場する”衆生の他に仏なし”という一節も含めて、このお経には、”仏とは何か? [続きを読む]
  • 遠く求むる儚さよ
  • ”遠く求むるはかなさよ”これは『白隠禅師坐禅和讃』というお経の一節であります。”坐禅和讃”は、江戸時代に”白隠慧鶴(はくいん えかく)”という禅僧が、「禅」というものの本質を、端的に示そうとしたお経であり、比較的一般大衆にも理解し易い様に、積極的に日本語で書かれています。勿論、当時の日本人にとって読み書きはまだ人を選んだかも知れませんが、それでもこのお経が、裾野を広げようと努力した賜物である事は確 [続きを読む]
  • 他の何処でもない、まさに此処
  • さて、人はなぜか”此処ではない、何処かに”救いを求めてしまいます。”此処”さえ離れられれば何とかなるのでは、と考えるのでしょうか。本当は”此処”で生きる事こそが一番の問題であるにもかかわらずです。実際問題、”此処”では生き延びれない事もあるとは思います。場所に光明を見出す事を全否定する訳では勿論、ありません。しかし冷静に見た時、単なる甘えと思える事もあるやも知れません。「私は、場所や環境さえ変われ [続きを読む]
  • 大人で子供、子供で大人
  • 大人になると、”子供向け”だというだけで軽視されがちかも知れません。大人には”大人向け”のものこそが似合うと信じるかも知れません。しかしそれで大事な事を忘れている事もあるかも知れません。或いは”大人向け”を身に付けさえすれば大人になれると思うのでしょうか?仏教や禅の話でも、小難しい話ばかり求める人がいます。しかし子供にも通じる話に心を揺さぶられないとしたら、それはもう人の心として何かが欠けているの [続きを読む]
  • 青い鳥
  • ベルギー出身のノーベル文学賞受賞作家、メーテルリンク。彼の代表作と言えば「青い鳥(L'Oiseau bleu ロアゾブルー)」でしょう。私は、子供の頃に放送されていたアニメの印象が強いのですが、童話や絵本として記憶されている方も多いかも知れません。今でも同名の二次創作物や、ブランドが数多く存在してもいます。兎に角、話の中身はうろ覚えでも、”青い鳥”が幸せの象徴という位は、きっと誰もが知っている事かも知れません [続きを読む]
  • この世にも牡丹の花は咲く
  • この「石橋」に垣間見える教訓は少なくとも二つある様に思います。先ず一つには、見る側の話。人は表面的な事に囚われ本質を忘れる、という事です。実は豪華絢爛な獅子の舞は”前座”の様なもので、本来招聘する”真打” の登場は、前座が大人しくなってからなのですが、多くは、なぜ獅子が舞うのか、その本質的な意味を忘れ去って、前座こそが真打だと勘違いして喜んでいるだけなのかも知れません。人は例えば、目に見えぬ事は忘 [続きを読む]
  • あらたかな奇跡
  • あけましておめでとうございます。旧年中は更新ままならず大変失礼致しました。とは言え御蔭様で、一応このブログも600話を越え、三度目の新年を迎える事が出来ました。本年も精進して参りますので、宜しければもう暫くお付き合い下さい。さて、能の演目に「石橋(しゃっきょう)」というものがあります。嘗て大江定基(おおえのさだもと)を名乗った天台宗の僧、寂昭法師が、修行の為、中国が唐の時代に海を渡り、各地の仏跡を [続きを読む]
  • 獅子と牡丹の相乗効果
  • ”牡丹”が指し示すものは、”仏教”そのものとも言えますし、”仏法”とも、”智慧”とも言えるかも知れませんが、それは兎も角、人は、そこに象徴される”覚悟”や”自戒”や”心法(辛抱)”を持たなければ、自分自身の獅子にも似た「心」をコントロールする事が出来ません。仮にコントロール出来るなら、それが仏教である必要性もありませんが、それに代わる”心柱(しんばしら)”はおそらく必要になるはずです。その意味では [続きを読む]
  • そして百花の王
  • 例えば、仏教的な花と言うと”蓮”を思い浮かべるかも知れません。しかし勿論、蓮はただ仏教的なだけではありません。蓮を象徴的に扱うのは仏教だけではありませんから。また”仏花”という点では、象徴的な”菊”を想起するかも知れません。それが災いして場合によっては、他意はなくても誰かに菊を贈れば、相手の気を損ね、時には殴られる事もあるかも知れません。まあ、ある意味でそれ位、仏花として浸透しているという事でもあ [続きを読む]
  • ほとけの字
  • さて”佛”にしろ、その簡体字である”仏”にしろ、そもそも文字が持っている意味、というものもある訳です。つまり”にんべん”を持つという事は、人に関わるもの、その行為や動作、或いは性格を、その漢字は表しているという事になります。そして他方で略された”ム”を含めて”弗”という字は、拒否を表します。例えば”払”は手を用いて拒否する事であり、”沸”は水が水である事をある意味で否定し気体に変化する事である訳で [続きを読む]