みどりの木 さん プロフィール

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みどりの木さん: 歴史大好きみどりの木
ハンドル名みどりの木 さん
ブログタイトル歴史大好きみどりの木
ブログURLhttp://ameblo.jp/idryou/
サイト紹介文私の住んでいる近隣の名所や古城を 紹介しています。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供362回 / 365日(平均6.9回/週) - 参加 2013/07/06 11:56

みどりの木 さんのブログ記事

  • 長篠城の紹介 最終回 設楽原の戦い
  • 昨日の続きです。織田・徳川連合軍3万8千が、長篠城の後詰にきて、設楽原に陣をひきました。火縄銃数千丁と馬防柵用の丸太を持参していました。信長自身が丸太を運んだとの記録もあります。 信長は石山本願寺との戦いで、雑賀衆鉄砲隊と戦い、鉄砲の威力を知り、堺や国友で家臣達にも大量の鉄砲を購入させます。鉄砲の数を家臣に割り当てたといいます。3千丁という鉄砲(信長自身1000丁)が装備できたので、武田との決戦に [続きを読む]
  • 長篠城の紹介2 本丸 
  •  昨日の続きです。 今日は本丸紹介からです。 1575年6月29日に、武田信玄の死後に陣代となった四男の、武田勝頼が騎馬軍団の大半1万5千の兵を率いて、奥平信昌が約五百の手勢で守る長篠城を攻め囲み、長篠城の戦いが始まりました。激しい攻防戦で、城の北側のほとんどは破壊されます。本丸と二の丸だけ残して攻防が続きました。武田方から寝返った奥平氏としては、武田への再寝返りが出来難い状態でした。有名な戦いがあ [続きを読む]
  • 長篠城の紹介1 歴史など
  • 今日から長篠の戦で有名な長篠城とその戦場の紹介です。 長篠城の歴史永正5年(1508年)に、今川家家臣の菅沼元成が築城します。元成とその子孫である長篠菅沼氏が居城としました。寒狭川(現在の豊川)と大野川(現在の宇連川)が合流する場所に突き出した断崖絶壁の上にあり、天然の要塞でした。 南から見た長篠城址です。 1573年に徳川家康に服属するようになりますが、1571年に、武田信玄による三河侵攻があり、 [続きを読む]
  • 長篠城の紹介3  長篠城址史跡保存館
  • 昨日の続きです。今日は長篠城址史跡保存館の紹介からです。 二の丸にある長篠城址史跡保存館です。1階はお手洗いなどで、2階が展示場です。 下が北の現地の案内図です。②の下にあります。 館内は写真撮影が出来たので助かります。右から奥平家伝来の兜です。1枚の鉄板に1行25個の鋲を打ち、それを貼り合わせた兜です。中央が伯爵奥平昌恭氏の木像と写真です。左の瓦が奥平家の家紋「軍配団扇に松」です。奥平家は武田家より [続きを読む]
  • 盛松寺(せいしょうじ)のハスの花と庭のねじ花など 後編
  • 昨日の続きです。盛松寺(せいしょうじ)の蓮の花からです。 山門横のハスのつぼみです。 お参りした時期が、ちょっと早かったのか、蕾が多かったです。8月1日の満開時に撮影した、私のブログが下のリンクにあります。2年前なので、まだ見ていない人は是非見てください。とてもきれいです。ハスが満開の時のブログのリンクはここです。 ムクゲの花です。 ムクゲの花です。蟻が付いていました。 次に、自宅の小庭で咲いてい [続きを読む]
  • 盛松寺(せいしょうじ)のハスの花 前編
  • 今日は蓮の花の紹介です。去年も紹介した大阪府河内長野市にあるお寺です。盛松寺(せいしょうじ)は、高野山真言宗の準別格本山です。本尊は弘法大師様です。弘法大師が修行のために槇尾山に向かう途中、この付近の村で疫病が流行っていました。村人を助けるために、弘法大師が「冬至に柚子味噌を作り食すると疫病にならない」と作り方を伝授しました。毎年12月21日(終い弘法)に柚子味噌が参拝者に配られます。このお寺の横 [続きを読む]
  • 龍潭寺(りょうたんじ)の紹介 最終回
  • 昨日の続きです。今日は龍潭寺の紹介の最終回です。 昨日は本堂北側の、小堀遠州作庭の江戸時代初期の庭園でした。下の写真のように、盆栽のような松で自然の雄大な風景を表現した所がいいですね。また、井伊というのは「いい」、つまり良いに繋がるので、縁起のいい名字ですね。平安・鎌倉時代の軍旗ものに「井の八郎」などといった名前が書かれているので、昔は「井伊」ではなく「井」だけであったようです。 庫裡から外に出て [続きを読む]
  • 龍潭寺(りょうたんじ)の紹介3 小堀遠州作の庭園と庫裏
  • 昨日の続きです。今日は龍潭寺の庭園の紹介からです。小堀遠州は滋賀県の長浜市出身で、「遠州流」の茶道を興し、京都二条城の二の丸庭園を作庭したことで有名です。井伊直政の子供の井伊直孝と小堀は、お互いに駿府城の作事奉行を勤めた仲で、直孝からの依頼で造られたと言われます。5月の下旬なので、さつきや睡蓮が咲いていました。中央に守護石、左右に仁王石、正面に礼拝石(坐禅石)が配されています。この日の天候は小雨が [続きを読む]
  • 龍潭寺(りょうたんじ)の紹介2 境内
  • 昨日の続きです。今日は龍潭寺の境内の紹介です。立派な境内ですが、江戸時代を通じて、彦根藩井伊家がこの寺を支援していました。 龍潭寺の山門です。近づくと山門は境内では2番目に古い建物で、江戸時代前期(1656年)に再建されました。山門は本瓦葺きの四脚門で、山号額は「萬松山」と書かれており、朝鮮通信使の雪峯(せっぽう)が彦根藩井伊家のために書いたものが、龍潭寺に納められました。このような書が残っているの [続きを読む]
  • 龍潭寺(りょうたんじ)の紹介1 歴史と井伊家
  • 今日から龍潭寺(りょうたんじ)の紹介です。今年2017年度の大河ドラマでよく出てきます。萬松山龍潭寺の歴史はこの井伊谷地域は、古くは「井の国の大王」が聖水祭祀をつとめた「井の国」の中心で、浜名湖に注ぐ井伊谷川、神宮寺川に沿っての台地には、縄文・弥生の遺跡、古墳が数多く残され、水にまつわる伝説もあります。奈良時代の天平5年(733年)に行基菩薩によって、八幡山地蔵寺として開創されたと寺伝にあります。当寺 [続きを読む]
  • 浜松城の紹介  後編 天守門から
  • 昨日の続きです。1570年に徳川元康は今川に侵攻して、岡崎城からこの浜松城に本拠地を移しますが、この時にこの地の地名を、引間から浜松に変更しました。同時に今川義元からもらった「元」の字を返上して、元康から家康にと改名しました。1572年家康31歳の時、武田信玄と三方ケ原で戦い敗れますが、幸運にも信玄が亡くなり助かります。1575年には、松下一族の養子となっていた、15歳の井伊直政(虎松)は徳川家康 [続きを読む]
  • 浜松城の紹介  中編 天守郭と周辺
  • 昨日の続きです。浜松城は1人で来たので、ガイドさんなしです。今日は天主郭の天守からです。 天守台登り口です。右側は付櫓部分の石垣です。 天守は再建の鉄筋コンクリートですが、この石垣は約400年前の、堀尾氏天守の時のものです。江戸時代初期に天守は失われて、それ以後再建されませんでした。 江戸時代中期〜後期の古絵図です。 天守台石垣の構造解説板です。     石垣の解説板です。縦長で読み難い時は、( [続きを読む]
  • 浜松城の紹介  前編 歴史とか天守郭まで
  • 今日から浜松城の紹介をします。元亀元年(1570年)に、家康は武田信玄の侵攻に備えるため本拠地を三河国岡崎から遠江国曳馬へ移します。岡崎城は嫡男・信康に譲ります。曳馬城を西南方向に拡張します。その際、曳馬という名称が,「馬を引く」つまり敗北につながり縁起が悪いことから、かつてこの地にあった荘園の、浜松荘に因んで城名・地名ともども、家康は「「浜松」と改めました。松平の松が縁起の良いものなので、浜松荘 [続きを読む]
  • 岡崎城の紹介 最終回 天守最上階から
  • 昨日の続きです。今日は天守最上階の4階からです。二の丸から大手門跡(高層ビルの辺り)方向です。 このように最上階には外廊下があります。 江戸時代中期から後期の岡崎城古地図(国会図書館より引用) 南方向です。乙川(江戸時代は菅生川)が見えます。金網の間にレンズを入れて撮影しました。 南方向の解説板です。乙川(菅生川)には岡崎藩の船着き場がありました。 東方向です。手前は龍城神社です。本丸櫓門跡の辺りが見 [続きを読む]
  • 岡崎城の紹介3 本丸・龍城神社
  • 大阪は天候が薄曇りで、月が見えるけど天の川が見えないのが残念です。 昨日の続きです。今日は本丸からです。 ⑪の龍城神社の向こうに再建天守が見えます。 もらったパンフレットです。 ⑩の巽閣です。左に少しだけ巽櫓が見えます。会議・集会・講演・コスプレイベントなど多目的に使用できます。電話で使用を申し込めます。0564-22-2122(岡崎城) 9:00〜17:00 本丸入口の櫓門跡前から撮影しました。再建の巽櫓です。 天守と龍城 [続きを読む]
  • 岡崎城の紹介2  二の丸から本丸
  • 昨日の続きです。 岡崎城二の丸の続きです。 徳川家康のしかみ像です。武田信玄に敗れて、逃げ込んだ浜松城で描かせた、自己反省のための像と言われます。混乱した家康は冷静さを失い「脱糞」までしたと言われています。家康は糞ではなく「焼きみそ」だと言っています。よく似た匂いなので真実は分かりません。でも、こういうことが信長に伝われば、信長は家康が小心者で謀反などしないと安心したでしょう。手が見えますが、ガイド [続きを読む]
  • 岡崎城の紹介1 歴史・二の丸
  • 今日から徳川家康の生誕地である、岡崎城の紹介です。岡崎城は徳川家康の生地で、2007年マンション建設に伴う発掘調査によって石垣が見つかり、日本国内で4番目の規模の城であることが判明しました。1873年(明治6年)の廃城令によって廃城となり城内の天守以下の建物及び土地を払い下げ、現在は一切の建物を失いました。本丸と周辺の持仏堂曲輪、隠居曲輪、風呂谷等の曲輪と石垣、堀などの遺構を残すのみで、敷地は龍城 [続きを読む]
  • 難波パークス2017 6月の花 後編
  • 昨日の続き後編ですが、 今日の困ったと思うことは、韓国の慰安婦問題などの反日問題です。慰安婦にされて屈辱を受けた人の苦しみは分かるし、やってはならないことです。でも、当時の日本人は、多くが軍部・財閥・悪徳政治家の被害者です。国を非難していますが、多くの被害者に責任追及するのは間違っています。邪悪な個人がいたはずです、悪人を追及して欲しいです。そうすることで同じ過ちを防ぐことが出来ます。国の責任を追 [続きを読む]
  • 難波パークス2017 6月の花 前編
  • 今日から2017年6月12日と7月1日に撮影した難波パークスの花写真UPです。岡崎城の紹介はこの次にします。 都議選で自民党が惨敗しました。自民党の不祥事が選挙直前にいくつか出て、嘘をついたり加計学園からお金をもらったなどの疑惑オンパレードでした。民進党も議員数が減りましたが、これは幹事長の野田さんが政治家としては終わっている(民主党当時に、消費税を上げないとうその公約をしていて、消費税を自身が主 [続きを読む]
  • 犬山城の紹介 最終回 成瀬氏・大杉様・ライン大橋・犬山神社
  • 昨日の続きです。今日は成瀬氏の先祖からです。先祖は二条関白とされますが、伝来の系図を焼失したとかでその世系は不詳です。いつのころか三河国加茂郡足助庄成瀬郷に居住し、成瀬を家号とします。成瀬氏は松平初代の親氏、または二代泰親のときに松平氏に属したといい、三河譜代では古い家柄です。安城に入部した松平四代親忠に付属して、木戸村、六名郷に住します。正頼のとき家康の祖父清康に仕え、大久保忠俊・林藤助などとも [続きを読む]
  • 犬山城の紹介3 天守内部
  • 昨日の続きです。 今日は3階の破風の間(82?)からです。 3階の唐破風の間です。2階屋根裏部屋のため、左側に2階屋根の傾斜が見えます。右側の窓は唐破風の窓です。 屋根がカーブしているのが見えます。南北に唐破風の間があります。 2階の屋根の傾斜が見えます。 2階に降りる階段です。 2階に降りると、2階は武具の間(246?)です。中央に武具の間があり、東・西・北の3方に武具棚を設けています。解体修理で発見 [続きを読む]
  • 犬山城の紹介2 天守内部と最上階からの眺め
  • 昨日の続きです。今日は天守内部と最上階の4階からの眺めです。 犬山城の天守は外観3重、内部は4階、地下に踊場を含む2階が付きます。天守南面と西面に平屋の付櫓が付属する複合式で、入母屋2重2階の建物の上に3間×4間の望楼部を載せた望楼型天守です。窓は突上窓と火灯窓、両開き窓なと、 地階を含めて、総延面積は699平方メートルあります。天守台石垣は野面積という積み方で、高さは5メートルあります。天守の高さ [続きを読む]
  • 犬山城の紹介1 歴史と天守まで
  • 今日から犬山城の紹介をします。2017年5月24日に訪問しました。犬山城は天守のみが現存し、また天守が国宝指定された5城のうちの一つです。その他は姫路城、松本城、彦根城、松江城です。尾張国と美濃国の境にあり、木曽川沿いの高さ約88メートルの丘に築かれた平山城です。別名の白帝城は木曽川沿いの丘上にある城の佇まいを、長江流域の丘上にある、白帝城を詠った李白の詩「早發白帝城」(早に白帝城を発す)にちなん [続きを読む]
  • 河合寺のアジサイの花2017
  • 6月25日(日)に小雨の降る中、河合寺のアジサイ園に撮影に行きました。雨が降って花が濡れてたので、水玉写真が容易に撮影出来ました。河合寺の縁起によれば、当時、この地の山々に五色の雲が何日にも渡り棚引いていたので、天皇の命により蘇我入鹿が調査すると、光が差している松の大木から千手観音菩薩の像があらわれたといいます。驚いた天皇の命により皇極天皇2年(643年)、蘇我入鹿が当寺を創建したといわれます。周 [続きを読む]
  • 寺が池公園2017年6月 最終回
  • 昨日の続きです。今日は合歓の木とかアジサイの花で、にゃんこの写真もあります。ほぼ半年ぶりにここに来ましたが、午後4時半頃には駐車場に、餌やりの方も来ていました。 ただ、冬を越せないにゃんこもいたのか、3匹しか見ませんでした。公園管理事務所が捨て猫禁止の看板を出していますので、地域猫として認められていないようです。私を見たにゃんこもすぐに逃げる状態でした。警戒心が強く姫路城の場合とは様相が違いました [続きを読む]