あきおう さん プロフィール

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あきおうさん: 城めぐりチャンネル
ハンドル名あきおう さん
ブログタイトル城めぐりチャンネル
ブログURLhttps://akiou.wordpress.com/
サイト紹介文全国のお城訪問記を写真満載で掲載しています。編集方針は「行った気になる臨場感溢れる写真とレポート」。
自由文編集方針は「行った気になる臨場感溢れる写真とレポート」です。百名城スタンプやお城メダルも取り扱っています。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供151回 / 365日(平均2.9回/週) - 参加 2013/09/13 17:52

あきおう さんのブログ記事

  • 久留島陣屋 [2/2] お城仕立ての表玄関、清水御門へ。
  • 久留島陣屋 訪問記 其の二。[前回までの訪問記 概要]豊後森藩の陣屋跡へ。角牟礼城のある山の南裾をまたぐように築かれている。東の藩主御殿跡から御長坂を経て現存する茶屋 栖鳳楼、末廣神社へ。訪問時期:2017年1月久留島陣屋 訪問記 − 其の一、二。<訪問記>末廣神社境内の手水鉢。「日本一の手水石」とある。かなり巨大な岩石をくり抜いて造った手水鉢。説明板によるとこの手水鉢の中に水は1260リットル入るという。巨大な手 [続きを読む]
  • 久留島陣屋 [1/2] 水軍で名を馳せた来島氏が江戸期を通じて治めた地。
  • 久留島陣屋 (くるしまじんや) は森陣屋とも呼ばれる、大分県中部 (豊後國) に江戸初期に作られた陣屋跡。戦国時代に水軍を率いて活躍した来島氏 (来島村上氏) だったが、関ヶ原で西軍につき、戦後は海に面しない豊後森藩 14000石へ移封された。当地には前領主 毛利高政が築いた堅固な角牟礼城 (つのむれじょう) があったが、城持ちを許されず、これを廃して山麓に久留島陣屋を築いた。二代通春の頃に、来島から久留島に改名。以後 [続きを読む]
  • 角牟礼城 [3/3] 本丸北側外周に残る石垣は帯曲輪へ降りて見よう。
  • 角牟礼城(つのむれじょう)訪問記 其の三。[前回までの訪問記 概要]三ノ丸駐車場より長い石垣の道を通って井戸曲輪、二ノ丸へ。二ノ丸の奥にはかつて巨大な櫓門がそびえていたという伝 大手門跡があった。櫓門の礎石も確認。其の三では大手門奥の斜面部に残るかつての食い違い虎口跡へ。訪問時期:2017年1月角牟礼城 訪問記 − 其の一、二、三。<訪問記>伝 大手門の奥、斜面側には、山麓まで通じていたであろう登城路からの食い [続きを読む]
  • 角牟礼城 [1/3] 島津の猛攻にも耐えた豊前豊後の境目の城。
  • 角牟礼城 (つのむれじょう) は古くより豊前豊後の境目の城として、地元豪族 玖珠郡衆 (くすぐんしゅう) により守られていた、標高577mの山頂にある断崖に囲まれた天然の要害を持つ大分県西部の中世山城。島津氏の侵攻をも妨げた大友氏側の堅固な山城だったが、秀吉により大友氏は排除され毛利高政が入城、石垣を持つ近世城郭に大改修した。関ヶ原後 毛利高政は佐伯城へ移り、伊予水軍だった来島氏の所領となる。しかし来島氏は小大 [続きを読む]
  • [blog] 200万記念!お城の壁紙 特集ページを追加しました
  • 当サイト「城めぐりチャンネル」も2013年6月の開設から4年弱を経て、先ほどアクセスカウンタ(訪問者数)が200万!を越えました。ありがとうございます。そこで、200万記念として、今まで何百のお城をめぐって撮ってきた写真の中からパソコンやタブレットのバックグラウンド画像(壁紙)として使えるような高解像度のイメージをいくつかピックアップしてご提供するコーナーを作ってみました。→ お城の壁紙。ページ↑こんな感じで [続きを読む]
  • 天神山城 [3/3] 西曲輪群の外周部に築かれた石垣は必見。
  • 天神山城 訪問記 其の三。[前回までの訪問記 概要]和気美しい森から自然の巨石群で守られた前期天神山城(太鼓丸城)を経て、戦国大名 浦上宗景の居城 後期天神山城へ。堀切、高土塁、石積など太鼓丸とは大きく異なる人工的な要塞然とした後期天神山城。訪問時期:2015年5月天神山城 訪問記 − 其の一、二、三。<訪問記>本丸の西側、二ノ丸より再開。二ノ丸から西側奥を見る。長屋の段。段々に曲輪が形成されている。左側の人が [続きを読む]
  • 天神山城 [2/3] 自然石主体の太鼓丸城から人工的な要塞の天神山城へ。
  • 天神山城 訪問記 其の二。[前回までの訪問記 概要]和気美しい森より登城開始。まずは室町期の前期天神山城へ、自然の巨石を巧みに利用した細尾根上に築かれた連郭式山城。一部は戦国期に砦として改修された跡も見られた。其の二では後期天神山城へ。訪問時期:2015年5月天神山城 訪問記 − 其の一、二、三。<訪問記>下の石門を越えて先へ。細尾根を進む。両側が竪堀状になっている土橋っぽい場所。前期天神山城の最も西側にある [続きを読む]
  • 三石城 [2/2] 三ノ丸先端部、岩盤奥に築かれた櫓台石垣へ。
  • 三石城 訪問記 其の二。[前回までの訪問記 概要]住宅街の奥に作られた登山口より登城開始。第二見張所、岩場の細道、第一見張所を越えて、山中に残る高石垣で囲まれた巨大な大手門跡へ。訪問時期:2015年5月三石城 訪問記 − 其の一、二。<訪問記>大手門跡の桝形を越えて奥へ。大手門の正面に見えている斜面の上が本丸なのだが、道は大きく右へ回りこみ、三ノ丸方面へ伸びている。井戸跡と思われる巨穴跡。馬場跡、と記された細 [続きを読む]
  • 三石城 [1/2] 石垣の大手桝形を持つ、備前の戦国大名 浦上氏の居城
  • 三石城 (みついしじょう) は岡山東部、播磨と備前の国境近くに築かれた中世山城で、室町時代に備前守護だった赤松氏の守護代として浦上氏が代々城主を務めた。その後 浦上氏は主君 赤松氏を裏切り独立、備前の戦国大名となった。しかし浦上家中でも権力争いが絶えず、播磨室津城や備前天神山城などに勢力が分散していった。やがて初期の城であった三石城も廃城になったようだ。城内には石垣を備えた巨大な桝形虎口を形成している大 [続きを読む]
  • 宇佐山城 [2/2] 北端 三の郭からは琵琶湖と湖西の町並みが一望。
  • 宇佐山城 訪問記 其の二。[前回までの訪問記 概要]宇佐八幡宮より小学生の手書き案内板を頼りに登城。約20分で主郭下の石垣まで到着。そこから主郭・二の郭の外周沿いに石垣を見ながら南下、そのまま二の郭下の大石垣まで見る。其の二ではNHK中継所が建ってしまった主郭および堀切を越えて三の郭を散策します。訪問時期:2017年2月宇佐山城 訪問記 − 其の一、二。<訪問記>二の郭の奥へ伸びる尾根筋にも幾つかの防衛設備が残るの [続きを読む]
  • 宇佐山城 [1/2] 織田vs浅井朝倉の激戦地となった石垣造りの堅固な山城。
  • 宇佐山城 (うさやまじょう) は元亀元年(1570)、織田信長が比叡山の監視および浅井朝倉両氏の上洛阻止のため、延暦寺の南、大津から京への街道沿いにある宇佐山に築いた山城。城主は森可成(もりよしなり)、小姓で有名な森蘭丸の父親にあたる。しかし信長の摂津遠征中に、浅井朝倉軍が織田軍の背後を突くべく南下。宇佐山城は激戦地となり、城主 森可成は城下で討死。しかし宇佐山城は落ちず耐えぬいたと言われる。すぐ北には浅井朝 [続きを読む]
  • 宇佐山城 [1/2] 織田vs浅井朝倉の激戦地となった石垣造りの堅固な山城。
  • 宇佐山城 (うさやまじょう) は元亀元年(1570)、織田信長が比叡山の監視および浅井朝倉両氏の上洛阻止のため、延暦寺の南、大津から京への街道沿いにある宇佐山に築いた山城。城主は森可成(もりよしなり)、小姓で有名な森蘭丸の父親にあたる。しかし信長の摂津遠征中に、浅井朝倉軍が織田軍の背後を突くべく南下。宇佐山城は激戦地となり、城主 森可成は城下で討死。しかし宇佐山城は落ちず耐えぬいたと言われる。すぐ北には浅井朝 [続きを読む]
  • 壺笠山城 : 浅井朝倉方が陣を敷いた延暦寺そばの山城跡。
  • 壺笠山城 (つぼかさやまじょう) は近江坂本・穴太地区の西にそびえる比叡山系400m超の街道を守るために築かれていた中世山城あるいは砦で、「信長公記」にその名が出てくることで有名。元亀元年 (1570)、摂津に侵攻した織田軍に対し、延暦寺と手を結んだ浅井朝倉軍は背後を突く形で京に迫る。この際の戦いで南の宇佐山城主・森長可が討死している。急ぎ引き返してきた織田軍はこの地で浅井朝倉軍と対峙、その際 浅井朝倉方が陣取っ [続きを読む]
  • 久々利城 [2/2] 東出丸から見た”そびえたつ本丸曲輪群”は壮観!
  • 久々利城 訪問記 其の二。[前回までの訪問記 概要]整備が進む中世山城 久々利城へ。長い登城路を上がると、土塁と切岸で構成された枡形虎口を備えた大手曲輪へ。虎口を越えて、上へ。其の二では、三ノ丸から更に上、二ノ丸〜本丸およびその奥を目指します。訪問時期:2016年11月久々利城 訪問記 − 其の一、二。<訪問記>三ノ丸から更に上へ。三ノ丸から本丸までは一直線の登城路となっており、それらの脇にそれぞれ三ノ丸、二ノ [続きを読む]
  • 久々利城 [1/2] 土塁で構成された枡形虎口を持つ中世山城。
  • 久々利城 (くくりじょう) は美濃国南東部に位置する丘陵上に築かれた中世山城で、三代美濃国守護・土岐頼康の弟・土岐康貞、通称 土岐三河守悪五郎 または土岐久々利五郎 の築城と言われる。戦国時代になり、織田家臣で美濃金山城主 森長可に攻められ落城した。山麓から山頂に向けて多段に築かれた曲輪の間を巨大な土塁や堀切で効果的に構えた、典型的な中世山城の姿を今に残る。近年 整備が進められ、土塁や切岸、桝形などの当時 [続きを読む]
  • 明智長山城 : 明智光秀 出生の地と言われる山城跡。
  • 明智長山城は、明智城とも呼ばれ、土岐氏の一族 土岐頼兼が明智と改名しこの地に城を構えたのが始まりとされる。明智光秀が出生した地と伝わる場所の一つ。戦国期に美濃に勢力を拡大した斎藤義龍に攻撃され落城、明智一族も多くは命を落としたという。光秀は城を脱出、朝倉氏を経て信長の家臣となり出世していくこととなる。城跡はハイキングコースとして整備され、大手門などが整備されているが、山城としての遺構は余り明瞭には [続きを読む]
  • 美濃金山城 [3/3] 状態よく石垣が残る本丸搦手 東腰曲輪へ。
  • 美濃金山城 訪問記 其の三。[前回までの訪問記 概要]美濃金山城 最大の見所である大手桝形跡と本丸 小天守穴蔵跡を散策してきた。本丸外周にはそれらに負けない規模の石垣が残る。其の三では本丸外周の石垣をぐるっと見た後、山麓に残る米蔵跡および移築門を訪れる。訪問時期:2016年11月美濃金山城 訪問記 − 其の一、二、三。<訪問記>本丸を東側へ出て、搦手 (裏口) 方面へ。こちら側にも良好に石垣が残っているようだ。城があ [続きを読む]
  • 美濃金山城 [2/3] 石垣好き必見の大手桝形と本丸小天守下の穴蔵跡。
  • 美濃金山城 訪問記 其の二。[前回までの訪問記 概要]出丸跡の駐車場から登城開始。出丸の40m以上ある長大な石垣を見た後、坂を登って三ノ丸、二ノ丸を散策。其の二では大手桝形から腰曲輪を越えて本丸へ。訪問時期:2016年11月美濃金山城 訪問記 − 其の一、二、三。<訪問記>大手桝形へ。立派な石段と桝形を構成する石垣が残る。大手桝形の内部へ。石垣がかなり低いような気がするが、これは枯れ草で埋まっているからか、破城で [続きを読む]