経堂薫 さん プロフィール

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経堂薫さん: RAMBLE JAPAN
ハンドル名経堂薫 さん
ブログタイトルRAMBLE JAPAN
ブログURLhttp://ramblejapan.seesaa.net/
サイト紹介文日本各地をブラブラ見て歩いた旅行記です。
自由文古き良き日本の面影を探して、北は北海道から南は九州沖縄まで彷徨い歩きます。しかし自家用車は使いません。利用するのは鉄道、バス、航空機、フェリーなど公共交通機関と、自分の足のみ。レンタカーも使いません。タクシーは、ピンチの時に使うかも。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供47回 / 365日(平均0.9回/週) - 参加 2013/10/30 16:19

経堂薫 さんのブログ記事

  • 飛騨國一之宮[水無神社]11
  • 黒駒の隣には木彫りの白駒が立っている。こちらの作者は飛騨の工匠、武田万匠。元々は黒駒だったが、明治15(1882)年に宮司が色を白に塗り換えた。その際、腹部に武田の銘が発見されたという。その昔、深夜に神社から馬の嘶[いななき]と蹄の音が聞こえる。様子を見に行くと拝殿に神馬が放っぽり出されいることが度々。これは「神様が神馬で夜な夜なお遊びなっているのだ」と噂が。ここから「いななき神馬」という名が付いたそうだ。 [続きを読む]
  • 飛騨國一之宮[水無神社]10
  • 「拗の木」の奥に太い杉の木が立っている。推定樹齢およそ800年という老杉ながら、樹高45m、枝張り幅20m、目通り6。45mという巨大さ。昭和38(1963)年9月10日には県の天然記念物に指定されている。天然記念物としてより、水無神社の謎に包まれた歴史を見続けてきた生き証“木”としての価値のほうが遥かに高い。もちろん、もしこの老杉と会話できればの話だが。老杉の影に、まるで隠れているかのように小さな御社が佇んでいる。 [続きを読む]
  • 飛騨國一之宮[水無神社]09
  • 境内に視線を向けると神社にありがちな朱色の彩りがまるでない。隅から隅まで薄墨で描かれたようなモノトーンで統一されている。飛騨一ノ宮駅の赤屋根は水無神社のどこを見て塗られたのだろう?直接の関係は無いのかも知れないが、赤屋根が間抜けに思えてくるから不思議だ。鳥居をくぐって境内に入ると、右側に妙にねじれた木の幹がある。正確には幹の途中でバッサリ伐られた根の部分。それでも目通り(立っている人間の目の高さの [続きを読む]
  • 飛騨國一之宮[水無神社]08
  • 益田街道を渡り、来たとき背を向けた水無神社の参道を進む。奥に鳥居が立ち、その中から黒々とした社殿が覗いている。手前には「常泉寺川」という細い川が流れ、上には小ぶりな「神橋」。神橋は大きな神社に付き物だが、ここの神橋は一般道に架かる普通の橋だ。現在、整備工事が行われている。来るべきお正月に備えているのだろう。橋を渡ってすぐ右手に巨大な石碑が立っている。表には「大原騒動 一宮大集會之地」の文字。大原騒 [続きを読む]
  • 飛騨國一之宮[水無神社]07
  • 跨線橋を経て再び駅舎の前へ戻り、水無神社の方角を見る。まだ「臥龍桜」駅と改名したほうが、観光客にアピールできるのではないか? と思ったが。鉄道の、特に各駅停車の普通列車に観光アイテムとしての役割を期待する時代など既に終わっている。莫大な費用をかけて改名したところで、観光に寄与する効果などタカが知れているのかも知れない。そんなことを思いながら飛騨一ノ宮駅を後にした。駅前に「源流の里」と刻まれた大きな [続きを読む]
  • 飛騨國一之宮[水無神社]06
  • 幹の根元を見ると小さな五輪塔が三基、横に並んでいる。また、臥龍桜を囲む仕切りロープの右脇には小さな祠が。五輪塔は三木國綱[みつぎくにつな]が葬られた墓、祠は三木家の祖霊社という。國綱は戦国時代の武将で官途名[かんどな]を入道三澤[さんたく]、別名を一宮國綱とも言った。別名の通り水無神社の神官の家に生まれ、宮司の職を継いでいた。しかし社家を他に譲り、飛騨を治めていた姉小路家の家臣となり武将に転身。天正13(1 [続きを読む]
  • 飛騨國一之宮[水無神社]05
  • 入口横の石に刻まれた「臥龍公園」の文字。国指定天然記念物「臥龍桜」のために整備された公園だ。今でこそ周囲は小綺麗な公園として整備されているが。もとは大幢寺[だいどうじ]の境内にあった。なので往古は「大幢寺の大桜」と呼ばれていた。昭和6(1931)年に同寺の第二十世住職、道仙和尚が「臥龍桜」と命名。この名称は桜の幹枝が龍の姿に似ていることに由来するそうだ。臥竜桜は推定樹齢1100年を超える江戸彼岸桜[エドヒガンザ [続きを読む]
  • 飛騨國一之宮[水無神社]04
  • 山間の長閑な土地にヒッソリと根を下ろし。いつ来るとも知れない参拝客を待つ飛騨一ノ宮駅。昭和9(1934)年に開業した時分には、水無神社への玄関口として大そう賑わっていたのだろう。だが、昭和60(1985)年に無人化されてから既に30年以上もの年月が流れた。現在では停車する列車も1日往復20本程度。特に午前10時半ごろから午後3時ごろまでは1本の列車も止まらないという“完全”無人駅状態。世界中から飛騨高山へと押し寄せる観光 [続きを読む]
  • 飛騨國一之宮[水無神社]03
  • 看板の麓にあるバス停で下車。高山駅から20分足らずで着いてしまうのだから、今の高山本線では太刀打ちできない。というか、高山駅から水無神社に電車で行こうと思う人のほうが少ないか。益田街道と水無神社の参道が交わる十字路の手前に歩道橋が架かっている。その上に登り水無神社の方角を眺めてみた。先刻から舞い続けていた粉雪は本格的な雪となって視界を白く染め、参道奥の山々に囲まれた辺りに佇む黒々とした社殿のシルエッ [続きを読む]
  • 飛騨國一之宮[水無神社]02
  • 暫くウロウロしていたところ、1軒の店にガツン!と行き当たった。「串焼き かっぱ」。見た目に風格を感じさせる店構えだが、いまひとつ価格帯が分からない。それでも間違いはなかろうと扉を開けて中に入ってみると、これが正解だった。築100年を超えるという建屋は飛騨ならではの建築様式を現代に伝える貴重な文化財的建造物。ここの名物は飛騨牛の串焼き。塩でシンプルに焼いた牛肉は柔らかく滋味深い。朴葉味噌や漬物ステーキ [続きを読む]
  • 飛騨國一之宮[水無神社]31
  • 境内の西側に三重塔が立っている。礎石上端から宝珠上端まで高さ22 mという小柄な塔。だが、飛騨国内で唯一の塔建築だ。初代七重塔が建立されたのは飛騨国分寺が誕生した天平13(741)年。弘仁10(819)年に炎上し、斎衡年間(845〜857)に二代目五重塔を建設。応永年間(1394〜1428)に兵火で焼失し、三代目五重塔が再建されるも、金森長近の松倉城攻めに遭い損傷。元和元(1615)年、金森可重が四代目五重塔を再建した。天和年間(1681〜168 [続きを読む]
  • 飛騨國一之宮[水無神社]01
  • 岐阜駅から高山本線の各駅停車に乗車。よくローカル線にあるボックスシートではなく、通勤電車にありがちなロングシート。ボックスシートならアルコール片手にホロ酔い気分で寛げるのだが。ロングシートとなると途端にアル中っぽくなるので、なかなか手を出せない。間も無く高山駅、その手前で電車は飛騨一ノ宮駅に到着。飛騨一宮水無神社の最寄り駅だが今日は素通り。明日また改めて訪れることにする。岐阜駅からローカル電車にゴ [続きを読む]
  • 美濃國一之宮[南宮大社]16
  • 南宮大社を後にして、来た道を垂井駅へ。沿道には民家と空き地が交互に立ち並び、神社の参道というより素朴な田舎道といった風情。そういえば南宮大社の境内もガランとして殺風景な印象を受けたが、その理由は参詣後に何となく分かった。かつての南宮大社は神仏が習合した巨大な社寺だった。そこから明治政府の神仏判然令で寺院の要素が排除され、真禅院として遠くに切り離されてしまった。仏教の堂宇伽藍が存在した場所は空き地の [続きを読む]
  • 美濃國一之宮[南宮大社]15
  • 境内を後にして、来る時に通った門前町の方角ではなく、北側を通る県道に出る。堀割が境内と道を隔て、短い石橋が両社をつないでいる。この県道を道なりに進むと、突き当たりに朝倉山真禅院というお寺がある。元は南宮大社の神宮寺で創建は天平11(739)年、開祖は行基。当初は象背山[ぞうはいさん]宮処寺[ぐうしょじ]という名だった。延暦12(793)年、桓武天皇の勅命を受けた伝教大師最澄により南宮大社と両部習合、つまり神と仏が一 [続きを読む]
  • 美濃國一之宮[南宮大社]14
  • ハイキングコースに背を向けると、目の前にコンクリート製の宝物殿が立っている。朱で彩られた和風の建物には刀剣や胴丸、駅鈴など数多の宝物が収蔵されている。特に刀剣類が充実しており、その数は数十振に及ぶという。中でも「三条」「康光」「鉾(無銘)」の3点は戦前の国宝で、現在は国の重要文化財に指定されている。南宮大社が刃物の神様という面もあるが、かつて西美濃地方が刀鍛冶の中心地だったことも大きい。ただ、残念 [続きを読む]
  • 美濃國一之宮[南宮大社]13
  • 石田三成ら西軍の主軸が陣を敷く主戦場は南宮山から遥か北西の彼方にあり、南宮山は位置的に徳川家康本陣の背後に当たる。毛利軍は戦況を見て南宮山を降り、家康の本陣を背後から攻撃する…というシナリオ。これが成功すれば形勢は西軍の圧倒的優勢に傾く…はずだった。しかし、戦が始まったものの毛利軍はピクリとも動かない。なぜなら広家が毛利家の存続を図るため、秀元や恵瓊には内密のまま独断で家康と内通していたから。恵瓊 [続きを読む]
  • 美濃國一之宮[南宮大社]12
  • 奉納された刃物が軒下に据えられた木造の大きな建物は神輿社。先述した5月5日の例大祭で活躍する神輿が安置されている。この神輿は寛永19(1642)年に社殿が再建された際に家光が寄進したもの。欅造りで金具には三葉葵の御紋があしらわれているそうだ。それにしても、なぜ家光は多額の寄進を費して社殿を再建したのだろうか?彼自身は江戸生まれの江戸育ちで、美濃国とは縁もゆかりもない。実は寄進の裏にNHK大河ドラマにもなった [続きを読む]
  • 美濃國一之宮[南宮大社]11
  • 両社の他にもう一つ、南宮に関係ある(らしい)神社がある。平安末期の歌謡集『梁塵秘抄[りょうじんひしょう]』巻二に次のような一文がある。「南宮の本山は信濃国とぞ承る さぞ申す 美濃国には中の宮 伊賀国には稚[おさな]き児の宮」ここで言う「美濃国の中の宮」とは美濃一宮南宮大社、「伊賀国の稚き児の宮」とは伊賀一宮敢国神社のことではないかと推測される。これを敷衍すれば「南宮の本山は信濃国」とは信濃一宮諏訪大社 [続きを読む]
  • 美濃國一之宮[南宮大社]10
  • 南宮大社、古くは仲山金山彦神社と呼ばれており、現在の社号になったのは江戸時代に入ってからのこと。現在、日本に金山彦命を祀る神社は約三千社あるという。金山神社など社号に“金”を含む神社が概ねそう。 南宮大社は、それらの総本社に当たるのだ。ここで話は伊賀一宮敢国神社に飛ぶ。敢国神社の主祭神は大彦命[オオヒコノミコト]だが、そう定まったのは明治時代以降。それ以前は現在の配神である金山姫[カナヤマヒメ]命と少 [続きを読む]
  • 美濃國一之宮[南宮大社]09
  • 南宮大社には寛永19年に再建された際の造営文書と棟札が今も残されている。造営文書は623冊が現存。使用された材木の寸法や値段、神輿、神事用の楽器や衣装などの記録が事細かに綴られており、建築史の側面からも非常に貴重な資料になっているという。棟札とは棟上げや修理の際、工事の由緒や工匠の名などを記して棟木に打ち付ける木札のこと。棟札は30枚が現存しており、その中には「征夷大将軍家光造営」と書かれた札もあるそう [続きを読む]
  • 美濃國一之宮[南宮大社]08
  • 壬申の乱から900年近く時代が下った慶長5  (1600)年、今度は天下分け目の関ヶ原合戦が起こる。主戦場は現在の不破関跡から北に直線距離で約1km程という至近距離。南宮大社も無論のこと戦乱に巻き込まれ、兵火で社殿群は焼失した。というより、西軍の主戦力たる毛利家の総参謀である安国寺恵瓊が、ここへ陣を構えるため焼き払ったからなのだが。関ヶ原合戦が東軍の勝利に終わり、徳川の幕政も安定してきた寛永19(1642)年。三代将軍 [続きを読む]
  • 美濃國一之宮[南宮大社]07
  • 広い境内に手水舎がポツンと立っている。四方の柱は鉄製で、少なくとも寛永19(1612)年より後の造営だろう。むしろ国の重要文化財ではない建造物のほうが、この境内では珍しい。広い空間の中心に舞殿が位置している。南宮大社では「高舞殿」と呼んでいる。過去の参詣でも拝殿と舞殿が相対している一宮は数多かった。それらと比べても高舞殿は大きい部類に入るようだ。江戸時代に造営された割に手入れが行き届き、綺麗に保存されてい [続きを読む]
  • 美濃國一之宮[南宮大社]06
  • 楼門は朱塗で、見上げていると首が痛くなるほどの巨大さ。左右両袖には矢大臣と左大臣の木像が鎮座しており、随身門だと言えなくもない。楼門をくぐって中に入る。振り返ると矢大臣と左大臣の裏側に狛犬が配置されていた。狛犬といえば拝殿の前に腰を落ち着け、参拝客に睨みを効かせているものだが。ここでは目立たない場所にヒッソリ佇んでいる。狛犬の存在に気づかないまま帰っていく参拝客も多いことだろう。楼門から内側も外側 [続きを読む]
  • 美濃國一之宮[南宮大社]05
  • 南宮大社の主祭神は金山彦命[カナヤマヒコノミコト]。伊邪那美命[イザナミノミコト]が火の神である迦具土神[カグツチノカミ]を産んだ際、女陰に大火傷を負って苦悶する最中の嘔吐物から生まれた神とされている。金山彦命は鉱山をはじめ金属一切を司る神。しかし、なぜ嘔吐物から?それは炎で融解した鉱物の姿が嘔吐物に似ているからとの説がある。楼門の前には川が流れ、3本の橋が架かっている。楼門の正面に架かるのが石輪橋。造 [続きを読む]
  • 美濃國一之宮[南宮大社]04
  • 大鳥居から南へ向かって参道を進む。沿道には商店なども特に見当たらず、いたって普通の住宅街。突き当たると道がフワッと広がり、一本道だった参道が松並木で左右に分け隔てられる。道の右手は南宮大社の専用駐車場、左手には数軒の店舗が立ち並んでいる。料理店や雑貨店、その看板には「南宮大社御用達」の文字。これらの店舗もまた南宮大社の施設の一部なのかも知れない。右側の道を先に進むと正面の入り口に出る。五段ほどの短 [続きを読む]