nekozou さん プロフィール

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nekozouさん: 天海山河
ハンドル名nekozou さん
ブログタイトル天海山河
ブログURLhttp://take-s-tosanyanko.blog.so-net.ne.jp/
サイト紹介文時は戦国乱世、南海僻陬に滅亡の危機から家を興し、己が器量で国を切り取り、天下一統を志した蛮酋がいた。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供32回 / 365日(平均0.6回/週) - 参加 2013/11/10 11:34

nekozou さんのブログ記事

  • 27章 国司下向 (その四)
  • 実はその夜ことは詳しく伝わっていない。 しかし、その夜に起こったことは孫次郎という十歳の童の心に深く刻まれることとなった。 寝所で寝ていた孫次郎は不意に尿意をもようして床から起き上がると、広間の方から人の騒ぎ声が聞こえてきた。 孫次郎はさっさと小便を済ますと、広間のふすまを少し開けて、中を覗いてみた。 するとそこには見知らぬ男が五六人、酒をあおって、騒いでいるではないか。 しばらく様子を見てい [続きを読む]
  • 27章 国司下向(その三)
  • 越後が雨後森の付城に着いたのは、もう夜半を過ぎた頃であった。 西の方を指していた弓張月もその彼方に隠れ、辺りは虫の声に遮られて、軍馬の嘶きがかすかに響くだけである。 康政が寝所で休んでいると、「小松谷寺様。」 と、宿直の者が部屋の外から声をかけた。 康政は起き上がり、「何事か。」 と、返した。「間崎殿が火急の用にてお目通りを願い出ておられまする。」 と、宿直は答えた。「間崎殿がか。何ゆえこのような夜更け [続きを読む]
  • 27章 国司下向(その二)
  • そんな折、土佐一条氏では一つの事件が起きていた。 弘治三年、執政の源康政と筆頭家老の土居家忠は、西園寺氏を攻めるため伊予に出兵していた。 この西園寺氏もまた公家大名の一つで、一条氏と同じ藤原北家の流れを汲む名門である。 鎌倉時代より伊予宇和地方を領し、そもそも一条氏も西園寺氏も争う理由はないのだが、この頃、周りの大名の縺れ合いから同門同士がいくさ場で相対せねばならなくなったのである。 そのわけとは、大 [続きを読む]
  • 27章 国司下向(その一)
  • ところで、もう一つ土佐に起こった血の粛清を語らねばなるまい。 この頃一条氏は主不在の状態であった。 一条房基が亡くなったあと、幼少の万千代丸は大叔父一条房通の養継子となって京に上っていたからである。 房通には兼冬、内基という息子がいた。 ところが、兼冬は曾祖父兼良に似てすこぶる英才であったが、身体はそれに似ず生来病弱であった。二十五の歳にして関白に就いたものの、その後間もない天文二十三(1554) [続きを読む]
  • 26章 物部川(その七)
  • その日の夕刻、物部川の岸辺に黄昏の中を蠢く一群があった。 その中から人影が一つ抜け出て、 河畔に立つと灯りを点した。 すると、東の岸から一艘の舟が漕ぎ出して川を渡りはじめた。 舟には漕ぎ手の他に、二つの影が見える。 舟が渡り終えると、湖畔に立つ人影は芦原の陰へと二人を誘った。 そこには十人ばかりの男どもが待ち構え、その奥に大きな男が床几に腰を据えていた。 男は二人を見ると、「よくぞ参られたな。池内殿。」 [続きを読む]
  • 26章 物部川(その六)
  • 弘治二年十月二十一日、この日は雲一つない蒼天であったという。 香宗我部秀通は従者を連れて、物部川のほとりに向けて城を出た。 先日、真武から狩の誘いを受けていたのである。 ちょうど、河畔には雁が群をなして飛来する時季であったこともあり、武芸調練に疎まない秀通は悦んでこれに応じたのである。 城の大手に差し掛かると、一人の男が周章てた様子で駆け寄ってきた。 男は香宗我部一門の西山兵太夫であった。「兵太 [続きを読む]
  • 26章 物部川(その五)
  • 真武が屋敷を出たのは亥の刻を過ぎた頃であった。 折しも秋雨が降り注ぎ、辺りは漆黒の闇である。 真武は目をそばめ、街道を北へと進んだ。 半里ほど行くと、小さな門を構えた屋敷に突き当たった。 真武は、脇戸に立ち、「八木肥前にござる。」 と、中に向かって声を掛けた。 すると、脇戸の小窓が開き、下人が灯りを照らしながら、「お待ちもうしておりました。」 と、戸を開けて、真武を屋敷へと誘った。 下人はこの日 [続きを読む]
  • 26章 物部川(その四)
  • お家騒動は他家に知れてはならぬ最大の機密事項である。 香宗我部氏は一見平然を装っていたが、ある朝、城兵が物見櫓から辺りを見回していると、とんでもない物が目に飛び込んで来た。 城の南西、およそ半里の岸本村に月見山という丘がある。 かつて、承久の乱で土御門上皇が土佐に流されたおり、この山から月を眺めて、和歌を詠じたという。 その山に櫓が立ち、橘の軍旗が棚引いているのである。「た、大変じゃ。」 城兵 [続きを読む]
  • 26章 物部川(その三)
  • ところで、覚世は朝倉から戻って間もない頃であった。 娘婿の願い事に奔走し、さて、秦泉寺を攻めようと取り掛かった時であった。 ある日、村田八郎左衛門が吉田周孝の館にやって来た。 八郎左衛門は香宗我部氏の家来でありながら、長宗我部氏からも扶持を預かる特殊な男である。 大谷左馬助討伐に協力し、その恩賞の謝礼に現れたのである。 周孝は八郎左衛門を饗応し、ついつい深酒に浸ってしまった。「村田殿、いっそのことこち [続きを読む]
  • 26章 物部川(その二)
  • これを境に、一気に山田方は崩れた。 久保宗安は降伏し、それに連なる小豪族も次々に従った。 ただし、萩野織部だけは従わず、本山氏を頼って落ちていった。 取り残された山田基義はしばらく身を隠して潜んでいたが、ついに精魂尽き果て病に伏すと、国康に降を願い出た。「大変にござる。左衛門大夫殿、弥四郎なる者が降伏の書状をもって参りましたぞ。」 と、仙頭秀家が飛び込んできた。 国康はいつものことと思い込み、「 [続きを読む]
  • 26章 物部川(その一)
  • 秦泉寺について述べる前に、少し時を遡りたい。 それは、楠目を落として間もない時のことであった。 物部川の奥、香美郡仙頭の領主、仙頭秀家という男が覚世を訪ねて来たのである。 仙頭氏は長宗我部氏と長い付き合いのある一族で、岡豊が落城の折、援軍に向かったところ、山田氏に行く手を阻まれて、已む無く断念したのである。「信濃守殿、よくぞご無事で。」 と、秀家は長年途絶えていた誼の復活を喜んだ。「仙頭殿もよく [続きを読む]
  • 25章 朝倉見聞 (その六)
  • この時代、相撲会は単なる余興ではない。 古くは飛鳥の頃より神事で執り行われてきたが、武家が力を持った鎌倉時代以降、家臣の力量を計る一つの指標として、各地の大名、豪族が期日を決めて催されていたのである。 殊に土佐は、相撲会の盛んなことで知られた土地柄であった。 国衆は相撲会と聞けば、津々浦々、領境など何のその、道場破りは当たり前と、ばかりに寄り集まった。「吉井殿、二十人抜き。」 行司が高らかに勝ち [続きを読む]
  • 25章 朝倉見聞 (その五)
  • 明くる日、西曲輪の弓場では大きな幕が張られ、笛、太鼓の音が城中に鳴り響いた。 城下からは力自慢の猛者どもが触を聞いて相集い、本山家中の強者も津々浦々から参上して、東西分かれて互いに睨みあった。 覚世の席は弓場庵の座敷の軒下に設けられ、麻の蚊帳で面隠しがされていた。 覚世は薄手の衣を頭からかぶり、席に着くと、また昨夜と同じようにお局に訊ねては、本山家臣の素性を一人一人書き留めた。 その中に、覚世 [続きを読む]
  • 25章 朝倉見聞 (その四)
  • 一行が川を渡り終えると、土手の向こうから五人の男が現れた。 先を行く男は侍であろう。腰に太刀を佩用している。「これは岡豊のお方衆、ご足労でございましたな。これより我が人足が籠をおかきいたそう。」 男は愛想よくそう言った。 新右衛門はそのような話は聞いていない。 新右衛門は、機転を利かせ、「いやいや、それには及びませぬ。先を行って道案内してくだされ。」 と、断った。 すると、男は、「それでは主にし [続きを読む]
  • 25章 朝倉見聞 (その三)
  • 斯くして、出立の準備は整った。 朝倉で覚世がやって来るのを知る者は、本山茂辰と御台所の侍女たちのみである。 長越前やその他の家臣どもは全く知らないのだ。 お局は茂辰に、「昨日、岡豊に参って、奥方様に御台所様のご様子を語ったところ、こちらに出向いてでも御台所様のお顔を見たいと申しておりますが如何にございましょう。御台所様は生まれて間もなくこちらに来られた故、産みの母の心をおもんばかるに、この局 [続きを読む]
  • 25章 朝倉見聞 (その二)
  • 歴史とは、女が創るものかもしれない。 名のある男の陰には必ず女の姿がある。 藤原道長には姉詮子、源頼朝には北条政子、足利義政には日野富子、今川義元には母寿桂尼、武田信玄には諏方御料人、三好義賢には小少将、織田信長には妹お市、豊臣秀吉にはお祢と淀殿といったように。 名のあるなしに関わらず、その中には時に政略の道具として悲運の生涯を遂げる者もいれば、方や歴史の表舞台に立つ者、はたまたその才覚で男を操る者 [続きを読む]
  • 25章 朝倉見聞 (その一)
  • 朝倉城は梅慶がその威信をかけただけあって、まさに圧巻の城である。 城山は東西に七町(700m)、南北に五町(500m)と、後に山内一豊が普請した高知城の三倍にもなる 。また、比高(麓からの高さ)は岡豊山のそれとさほど変わりがないが、何せ奥に深く、頂から見下ろす本丸はずっしりとした感を与える。 この城の入口は南にあった。 そのまわりには鵜来巣城をはじめとした支城が三つも立ち並び、攻め寄せても、到底ここからは攻め [続きを読む]
  • 24章 円行寺(その三)
  • 弘治元(一五五五)年秋、本山式部少輔茂辰は父、梅慶の遺業を継いで土佐中原の平定を目指した。 その前に、茂辰にとって最大の懸案であったのは、吉良氏の残党が立て籠る森山城の攻略であった。 森山勢は幾度となく城を奪われつつも取り返し、一条氏の麾下となって、城の周りに幾重にも堀や逆茂木を廻らして、本山氏の攻撃に十年もの間、しぶとく耐えてきたのである。 茂辰はこの城を落とすべく、家老長越前に訊ねた。 「越前 [続きを読む]
  • 24章 円行寺(その二)
  • ところが、弘治二年の夏、梅慶は病に伏した。 次第に体は衰え、快復の兆しもない。 その頃、城下ではある噂がささやかれていた。 村の辻で三人の男がひそひそと立ち話をしている。「これは吉良の祟りではないか。」「いや、長宗我部の祟りじゃ。」「いやいや、これは吉良、長宗我部が崇めておった天津羽羽神の祟りじゃ。先年、お殿様はその御神木をお切りになられたからのう。」 天津羽羽神とはもののけが飛んでいった朝倉宮 [続きを読む]
  • 24章 円行寺(その一)
  • 年には、所謂、当たりと外れがある。 それはひとえに良き時を当たり、悪しき時を外れと言うが、歴史においてはそうでない。 むしろ、波乱に満ちている方が前者であり、平穏無事こそ外れである。 天文から永禄にかけて、西暦で言えば一五五〇年代がまさに当たりの時節であっただろう。 それは旧勢力の最盛と終焉、新勢力の誕生と台頭であった。 中央では細川管領の崩壊と三好長慶の実権掌握、東国では甲相駿三国同盟の締結、 [続きを読む]
  • 甫木山
  • 甫木山繁藤方面から見た甫木山。あの峰を越えれば、眼下に香長平野を一望できる。 [続きを読む]
  • 23章 覚世誕生 (その八)
  • 岡豊城の回りには一里と離れていない所にいくつもの城がある。 その多くは家臣たちの屋敷程度の城であるが、何故か北東の辺りに偏在し、中でも久礼田、比江山は巨大な城郭である。 国親が周孝と合流したころ、空には星がいくつも瞬いていた。「国親殿、ご無事で何よりにござる。」 と、周孝が出迎えた。「ああ、どうやら上手くいったぞ。覆ることはあるまい。」「左様でござりますか。」「それよりも、叔父貴にあれからの眺め [続きを読む]
  • 23章 覚世誕生 (その七)
  • 客間に通されたものの、馬場因幡はなかなか姿を現さなかった。 しびれを切らした新右衛門は、「わざわざ殿が自ら参ったというに、待たせるとは無礼であろう。」 と、怒った。「新右衛門、そう苛立つな。反っていつものそなたに戻ったではないか。」 と、国親は宥めた。 すると、奥の戸が開き、馬場因幡が急須を持って現れた。「お待たせいたし、大変申し訳ござりませぬ。」 と、因幡は慇懃に謝した。「いや、お気に召されま [続きを読む]