nekozou さん プロフィール

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nekozouさん: 天海山河
ハンドル名nekozou さん
ブログタイトル天海山河
ブログURLhttp://take-s-tosanyanko.blog.so-net.ne.jp/
サイト紹介文時は戦国乱世、南海僻陬に滅亡の危機から家を興し、己が器量で国を切り取り、天下一統を志した蛮酋がいた。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供22回 / 365日(平均0.4回/週) - 参加 2013/11/10 11:34

nekozou さんのブログ記事

  • 29章 御畳瀬へ(その一)
  • 土佐の沖を一隻の帆掛け船が西から東へとゆっくりと進んでいた。 この船の主は高島与十郎という若い商人である。 この時、与十郎は頭を抱えていた。 それはこの船の中を見れば一目瞭然である。 いつもであれば白磁青磁、米を積み、数艘の荷船を従えて急いでいるところを、この度はがらんと空いた舟倉を与十郎は虚しく眺めていたのである。 当時、堺や都では白磁青磁は珍重され、また畿内では戦乱で田畑が荒れ果て、米が不作となっ [続きを読む]
  • 28章 漁夫の利(その四)
  • この頃、一条氏や本山氏が戦に明け暮れる中、長宗我部氏は五年のあいだ大した戦もなく、平穏そのものであった。 覚世に至っては寺奉行として吸江庵の山争いを解決するなど、まさに順風満帆であった。「長らく戦をしておらぬな。」と、覚世が言った。「おかげで蓄えも出来申した。」と、周孝が岡豊城の米蔵を指差した。「叔父貴、そろそろ背後を固めておきたいのだが。」と、覚世は言った。「背後。」と、周孝はとぼけた。「叔父 [続きを読む]
  • 28章 漁夫の利(その三)
  • 弘治二(1556)年、覚世は水争いを口実に突如として土佐郡秦泉寺郷へ討ち入った。 秦泉寺城主の吉松(秦泉寺)掃部頭茂景は、あわてて朝倉に援軍を求めたが、義父との争いを憚った本山茂辰は、覚世の行動を不問に付した。 覚世の事前工作が功を奏したのである。 この茂辰の対処に、腸を煮えくりかえしたのは茂景であった。 吉松氏は清和源氏の流れを汲む名門で、かつては土佐吾川両郡にまたがる広い土地を有していたが、今は秦泉 [続きを読む]
  • 南予勢力図
  • 伊予国では湯築城の守護河野氏を初め、東予に石川氏、西予に宇都宮氏、南予に西園寺氏が割拠した。その中でも、西園寺氏は公家大名として、朝廷より官位を与えられるほどの名門であった。勢力範囲は宇和郡のうち、南宇和を除く地域を支配したが、その力は守護の河野氏を凌ぐほどのものであったと考えられる。後に入封する藤堂高虎は7万石を有し、江戸時代に入封した伊達秀宗は宇和郡全域の10万石を誇った。西園寺氏もおおよそ7万石 [続きを読む]
  • 28章 漁夫の利(その二)
  • 家忠と勧修寺基詮は時折様子を見て、津島表へ出張った。 南方に一条氏きっての名将がいることは、西園寺衆にとっても脅威であった。 西園寺実充は板島丸串城に一門の西園寺宣久を入れ、一条勢の動きを警戒した。 実はこの少し前、弘治二年に実充は累代の居城、松葉城から南にあるより堅固な要害の黒瀬城に移っている。一条、大友方に抗するためであっただろう。 この戦の最中、一条兼定と宇都宮豊綱の娘との祝言が執り行われた。 [続きを読む]
  • 28章 漁夫の利(その一)
  • 時に、雨後森城を守るのは渡辺左近将監有高(ありたか、または、なおたか)、またの名を政忠という男であった。 政忠は三間盆地の深田城主、竹林院公義(きみよし)や大森城主、土居宗雲ら西園寺衆と密に連絡を取り、一条勢に付け入る隙を与えなかった。 殊に、土居宗雲は三間郷二十三ヵ村を有し、天文十五(1546)年に起きた大友の伊予打ち入りの際、法華津の湊から夜中に舟を漕ぎ出し、日振島に停泊する九千二百騎の大友軍を撃ち破っ [続きを読む]
  • 27章 国司下向(その七)
  • 夕闇が辺りを覆った頃、草枕から起き上がった者がいた。 吉井修理である。「そろそろじゃ、皆を起こし、飯を食わせろ。」 と、修理は家来に命じた。 いったい、本山勢はどこにいたのか。 それは城方が思った通り、山の端の裏に潜んでいた。 しかし本山勢がいると悟られなかった理由は、昼寝をしていたからである。 修理が握り飯を食んでいると、鵜来巣弾正がやって来た。 弾正はすこぶる機嫌が良かった。「やれやれ、これ [続きを読む]
  • 27章 国司下向(その六)
  • その頃、本山氏の居城、朝倉では、「殿、好機にござりますぞ。どうやら御所の方にて、騒動がござった様子。蓮池を乗っ取るは、今にござる。」 と、家老の鵜来巣弾正が進言した。 茂辰はつい、吉井修理へ視線を向けた。 修理は苦虫を噛むのを堪え、小さく頷いた。「よし、弾正、兵を調えてすぐに出立じゃ。」 と、茂辰は返答した。「承知。」 と、弾正が一声して、飛び出して行くと、修理はその姿が見えなくなったのを見計らい、「 [続きを読む]
  • 27章 国司下向(その五)
  • 「…。」「…。」 家忠は杯を床机の上に置くと、沈黙を破った。「わしは、そなたのことが少し怖くなってきたぞ。」 康政は目を反らして、押し黙ったままである。家忠は空かさず、「して、若君を戴いて、これから如何いたすつもりじゃ。」 と、訊ねた。「縁談を調えようと思うておる。」 と、康政は小さく返した。 家忠は目を丸くした。「当てでもあるのか。」「宇都宮殿のご息女じゃ。すでに話も通しておる。」「なんと。その [続きを読む]
  • 27章 国司下向(その五)
  • 「…。」「…。」 家忠は杯を床机の上に置くと、沈黙を破った。「わしは、そなたのことが少し怖くなってきたぞ。」 康政は目を反らして、押し黙ったままである。家忠は空かさず、「して、若君を戴いて、これから如何いたすつもりじゃ。」 と、訊ねた。「縁談を調えようと思うておる。」 と、康政は小さく返した。 家忠は目を丸くした。「当てでもあるのか。」「宇都宮殿のご息女じゃ。すでに話も通しておる。」「なんと。その [続きを読む]
  • 27章 国司下向 (その四)
  • 実はその夜ことは詳しく伝わっていない。 しかし、その夜に起こったことは孫次郎という十歳の童の心に深く刻まれることとなった。 寝所で寝ていた孫次郎は不意に尿意をもようして床から起き上がると、広間の方から人の騒ぎ声が聞こえてきた。 孫次郎はさっさと小便を済ますと、広間のふすまを少し開けて、中を覗いてみた。 するとそこには見知らぬ男が五六人、酒をあおって、騒いでいるではないか。 しばらく様子を見てい [続きを読む]
  • 27章 国司下向(その三)
  • 越後が雨後森の付城に着いたのは、もう夜半を過ぎた頃であった。 西の方を指していた弓張月もその彼方に隠れ、辺りは虫の声に遮られて、軍馬の嘶きがかすかに響くだけである。 康政が寝所で休んでいると、「小松谷寺様。」 と、宿直の者が部屋の外から声をかけた。 康政は起き上がり、「何事か。」 と、返した。「間崎殿が火急の用にてお目通りを願い出ておられまする。」 と、宿直は答えた。「間崎殿がか。何ゆえこのような夜更け [続きを読む]
  • 27章 国司下向(その二)
  • そんな折、土佐一条氏では一つの事件が起きていた。 弘治三年、執政の源康政と筆頭家老の土居家忠は、西園寺氏を攻めるため伊予に出兵していた。 この西園寺氏もまた公家大名の一つで、一条氏と同じ藤原北家の流れを汲む名門である。 鎌倉時代より伊予宇和地方を領し、そもそも一条氏も西園寺氏も争う理由はないのだが、この頃、周りの大名の縺れ合いから同門同士がいくさ場で相対せねばならなくなったのである。 そのわけとは、大 [続きを読む]
  • 27章 国司下向(その一)
  • ところで、もう一つ土佐に起こった血の粛清を語らねばなるまい。 この頃一条氏は主不在の状態であった。 一条房基が亡くなったあと、幼少の万千代丸は大叔父一条房通の養継子となって京に上っていたからである。 房通には兼冬、内基という息子がいた。 ところが、兼冬は曾祖父兼良に似てすこぶる英才であったが、身体はそれに似ず生来病弱であった。二十五の歳にして関白に就いたものの、その後間もない天文二十三(1554) [続きを読む]
  • 26章 物部川(その七)
  • その日の夕刻、物部川の岸辺に黄昏の中を蠢く一群があった。 その中から人影が一つ抜け出て、 河畔に立つと灯りを点した。 すると、東の岸から一艘の舟が漕ぎ出して川を渡りはじめた。 舟には漕ぎ手の他に、二つの影が見える。 舟が渡り終えると、湖畔に立つ人影は芦原の陰へと二人を誘った。 そこには十人ばかりの男どもが待ち構え、その奥に大きな男が床几に腰を据えていた。 男は二人を見ると、「よくぞ参られたな。池内殿。」 [続きを読む]
  • 26章 物部川(その六)
  • 弘治二年十月二十一日、この日は雲一つない蒼天であったという。 香宗我部秀通は従者を連れて、物部川のほとりに向けて城を出た。 先日、真武から狩の誘いを受けていたのである。 ちょうど、河畔には雁が群をなして飛来する時季であったこともあり、武芸調練に疎まない秀通は悦んでこれに応じたのである。 城の大手に差し掛かると、一人の男が周章てた様子で駆け寄ってきた。 男は香宗我部一門の西山兵太夫であった。「兵太 [続きを読む]
  • 26章 物部川(その五)
  • 真武が屋敷を出たのは亥の刻を過ぎた頃であった。 折しも秋雨が降り注ぎ、辺りは漆黒の闇である。 真武は目をそばめ、街道を北へと進んだ。 半里ほど行くと、小さな門を構えた屋敷に突き当たった。 真武は、脇戸に立ち、「八木肥前にござる。」 と、中に向かって声を掛けた。 すると、脇戸の小窓が開き、下人が灯りを照らしながら、「お待ちもうしておりました。」 と、戸を開けて、真武を屋敷へと誘った。 下人はこの日 [続きを読む]
  • 26章 物部川(その四)
  • お家騒動は他家に知れてはならぬ最大の機密事項である。 香宗我部氏は一見平然を装っていたが、ある朝、城兵が物見櫓から辺りを見回していると、とんでもない物が目に飛び込んで来た。 城の南西、およそ半里の岸本村に月見山という丘がある。 かつて、承久の乱で土御門上皇が土佐に流されたおり、この山から月を眺めて、和歌を詠じたという。 その山に櫓が立ち、橘の軍旗が棚引いているのである。「た、大変じゃ。」 城兵 [続きを読む]
  • 26章 物部川(その三)
  • ところで、覚世は朝倉から戻って間もない頃であった。 娘婿の願い事に奔走し、さて、秦泉寺を攻めようと取り掛かった時であった。 ある日、村田八郎左衛門が吉田周孝の館にやって来た。 八郎左衛門は香宗我部氏の家来でありながら、長宗我部氏からも扶持を預かる特殊な男である。 大谷左馬助討伐に協力し、その恩賞の謝礼に現れたのである。 周孝は八郎左衛門を饗応し、ついつい深酒に浸ってしまった。「村田殿、いっそのことこち [続きを読む]
  • 26章 物部川(その二)
  • これを境に、一気に山田方は崩れた。 久保宗安は降伏し、それに連なる小豪族も次々に従った。 ただし、萩野織部だけは従わず、本山氏を頼って落ちていった。 取り残された山田基義はしばらく身を隠して潜んでいたが、ついに精魂尽き果て病に伏すと、国康に降を願い出た。「大変にござる。左衛門大夫殿、弥四郎なる者が降伏の書状をもって参りましたぞ。」 と、仙頭秀家が飛び込んできた。 国康はいつものことと思い込み、「 [続きを読む]
  • 26章 物部川(その一)
  • 秦泉寺について述べる前に、少し時を遡りたい。 それは、楠目を落として間もない時のことであった。 物部川の奥、香美郡仙頭の領主、仙頭秀家という男が覚世を訪ねて来たのである。 仙頭氏は長宗我部氏と長い付き合いのある一族で、岡豊が落城の折、援軍に向かったところ、山田氏に行く手を阻まれて、已む無く断念したのである。「信濃守殿、よくぞご無事で。」 と、秀家は長年途絶えていた誼の復活を喜んだ。「仙頭殿もよく [続きを読む]
  • 25章 朝倉見聞 (その六)
  • この時代、相撲会は単なる余興ではない。 古くは飛鳥の頃より神事で執り行われてきたが、武家が力を持った鎌倉時代以降、家臣の力量を計る一つの指標として、各地の大名、豪族が期日を決めて催されていたのである。 殊に土佐は、相撲会の盛んなことで知られた土地柄であった。 国衆は相撲会と聞けば、津々浦々、領境など何のその、道場破りは当たり前と、ばかりに寄り集まった。「吉井殿、二十人抜き。」 行司が高らかに勝ち [続きを読む]
  • 25章 朝倉見聞 (その五)
  • 明くる日、西曲輪の弓場では大きな幕が張られ、笛、太鼓の音が城中に鳴り響いた。 城下からは力自慢の猛者どもが触を聞いて相集い、本山家中の強者も津々浦々から参上して、東西分かれて互いに睨みあった。 覚世の席は弓場庵の座敷の軒下に設けられ、麻の蚊帳で面隠しがされていた。 覚世は薄手の衣を頭からかぶり、席に着くと、また昨夜と同じようにお局に訊ねては、本山家臣の素性を一人一人書き留めた。 その中に、覚世 [続きを読む]
  • 25章 朝倉見聞 (その四)
  • 一行が川を渡り終えると、土手の向こうから五人の男が現れた。 先を行く男は侍であろう。腰に太刀を佩用している。「これは岡豊のお方衆、ご足労でございましたな。これより我が人足が籠をおかきいたそう。」 男は愛想よくそう言った。 新右衛門はそのような話は聞いていない。 新右衛門は、機転を利かせ、「いやいや、それには及びませぬ。先を行って道案内してくだされ。」 と、断った。 すると、男は、「それでは主にし [続きを読む]