御坊哲 さん プロフィール

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御坊哲さん: 禅的哲学
ハンドル名御坊哲 さん
ブログタイトル禅的哲学
ブログURLhttp://blog.goo.ne.jp/gorian21
サイト紹介文禅的視座から哲学をすると、こんな景色が見えてくるのではないだろうか。
自由文私は禅者ではありません、仏教者でさえありませんが、多少ものを見る目はもっていると自負しております。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供65回 / 365日(平均1.2回/週) - 参加 2013/12/07 23:29

御坊哲 さんのブログ記事

  • 安倍さんは嘘をついている
  • いい加減、加計学園問題にはうんざりしてきた。文部科学省内では「総理のご意向」文書が出回っている。前次官もそれは認め内容も真実だと言っている。なのに官邸はなぜか真実の究明に消極的であるならば、もうそれは「総理のご意向」があったとみなすべき事態のはずだ。なのにジャーナリズムの論調は甘すぎる。官邸の言い分では、文部科学省内で誰かが「総理のご意向」を勝手にねつ造して、行政を恣意的にコントロールしたという [続きを読む]
  • 禅的時間論
  • 哲学者の永井均さんが著した「時間の非実在性」という本を図書館で借りてきて読んでいる。時間というものが実在するかどうかということは、昔から盛んに議論されてきた。その中でも英国の哲学者マクタガートによる時間論はもっとも有名な論文であり、この本はその解説書である。しかし、これがなかなか難しい。老化した脳細胞には錯綜した概念分析について行けない。禅仏教にも時間論はあるが、時間そのものを概念分析するなど、 [続きを読む]
  • すべてを陽炎と見よ
  • 図書館で、永井均さんの「哲おじさんと学くん」という本を借りてきた。その中に、「第49話 そもそも存在しないものでも「絶対確実に」存在できる」という興味深い一節があったので引用する。(永井先生は日本を代表する哲学者の一人である。)【 引用開始 】( 以下は哲おじさんと学くんの対話である。)学 : でも、例えば小説の中の登場人物がデカルトのように考えて、「私は今確かに思っている、だから私は存在している!」と [続きを読む]
  • せこさが憎い‥
  • 人は、それは良いとか悪いとかよく言うが、良い悪いを哲学的に論じようとすると結構難しかったりする。何事も根源的に突き詰めていくと虚無(ニヒル)に突き当たってしまうからだ。ことの良し悪しとか善悪の根拠は、我々の人性(human nature)に求めるしかあるまい。子供の頃、こぶとり爺さんの話を聴いて、正直爺さんは報われて良かった、嘘つき爺さんはひどい目にあってざまあみろ、と思った。学生の頃、特攻隊員の [続きを読む]
  • 結果を目的と取り違えるべきではない
  • 進化について考えるとき、人は冷静でいられなくなるらしい。進化論はその中に私たち自身も含まれる。つまり、自己言及的な学説である。本来は客観的であるべき学説に、つい主観を忍ばせたくなるのである。「キリンは高い木の葉を食べるために首が長くなった。」式の表現をすることがある。問題は「食べるために」という表現である。進化をコントロールするコーディネーターはいない。すべては偶然である。背の高いキリンは高い所に [続きを読む]
  • 輪廻転生について
  • 元外務官僚の佐藤優さんはとても頭のいい人で話も面白い。「ゼロから分かるキリスト教」というのを読んだのですが、内容は結局というかやはりというかさっぱりわからなかった。キリスト教の知識がゼロなのに、シュライエルマッハーがどうのカール・バルトがどうのと言っても分かるわけがない。 分からないのに面白いのはやはり語り口が巧みだからだろう。それはそうと、仏教について次のように述べられていたのがちょっと引っかか [続きを読む]
  • カラスが飛び立ち梨が落ちる( 韓国のことわざ )
  • 「誰も知らない世界のことわざ」(エラ・フランシス・サンダース著)より引用します。≪カラスが飛び去るから梨が落ちる? それとも、梨が落ちるせいでカラスが飛び去る? このことわざは、いかにも関係がありそうな2つのことがらの間に、必ずしも因果関係があるわけではないことを表しています。けれども、2つのことが同時に起きるとき、私たちの頭の中では、気軽に「意味あり」と結びつけられてしまうのです。関係性の判断ミ [続きを読む]
  • 私は意志を意志できない
  • 自由意志の有無ということが昔から哲学上の問題となってきた。どうしても自分が機械人形ではないかと疑いたがる人がこの世にはいるのである。私などは、立ちたいときに立ち、座りたいときに座る、それが自由意志という言葉の意味で、そこには何の紛れもないと考える。それは自分が自動機械であるかどうかとは関係なく、言葉の意味としても実存的な実感としても間違いのないことのように思える。「我々はなにかをしようと意志するこ [続きを読む]
  • 身体障碍者への偏見と性
  • 先日の朝刊に「性を大事にしたい」というタイトルのコラムがあった。身体障碍者でありコラムニストでもある伊是名夏子さんの記事です。その冒頭の部分を引用します。≪ 先日、一人で映画館を訪れたときのこと。長い階段があり、車椅子の私は劇場に入れません。入口の男性スタッフに「私を抱っこして、階段を移動していただけませんか?」とお願いすると、彼は「私でもいいでしょうか? 女性にしましょうか?」と聞いてくれまし [続きを読む]
  • 庭前拍樹 ( 無門関 第三十七則 )
  •   趙州、因みに僧問う、「如何なるか是れ祖師西来の意」  州曰く「庭前の柏樹子」趙州とは唐代の大禅匠、趙州従諗のことである。ちなみに公案に出てくる回数は趙州が他を大きく引き離し第一位である。その趙州にある僧が、「如何なるか是れ祖師西来の意」と問うた。祖師とは禅の始祖達磨大師のことで、彼がはるばるインドからやってきたのは何のためか、つまり仏教の大意はなにかと聞いたのである。それに対し趙州は「庭の柏の [続きを読む]
  • エブリデイ イズ エイプリル・フール
  • 一昨日はへたくそなエイプリル・フール記事を書いたりして皆様方の失笑を買っている私ですが、政界では私よりもっとセンスのよくないというより下司な冗談がまかり通っているようです。このような事態に、あるニュースキャスターが、「政界では毎日がエイプリルフール」と言っておりました。こういう状況が一番子供の教育上よくないんではないかと思うのです。やれ道徳教育だの、教育勅語だの掛け声掛けていれば、日本人の品性が [続きを読む]
  • 臨済宗と曹洞宗が統合されて仏心宗になります
  • これはエイプリルフール記事で、書かれていることは嘘です。昨日(3/31)、曹洞宗管長の福山諦法禅師、臨済宗妙心寺派管長の河野太通老師、黄檗宗管長の近藤博道禅師の三氏が、京都宝ヶ池の国際会館で共同会見に臨み、今後は日本曹洞宗と日本臨済宗(黄檗宗)はともに「仏心宗」を名乗ることに決定したと発表しました。統合と言ってもそれぞれの歴史的経緯や修行体系が違うので、教団の実質的運営は従来通りとし、公式の宗派名のみ「 [続きを読む]
  • WABI-SABI(わび・さび)
  • 先日、図書館で「翻訳できない世界のことば」という本を借りてきました。結構話題になっている本で、昨年から予約していたものがやっと順番が私にまわってきたのです。著者はエラ・フランシス・サンダースさんという若い女性イラストレーターです。で、いろんな国に住んだ経験から、それぞれの土地には一言では翻訳できない言葉あることを知り、それを紹介したいと思い立ったのだそうです。例えば、イクトゥアルポク(iktsuarpok) [続きを読む]
  • 無分別智
  • 今ではそんなことはもうないだろうが、金髪碧眼という言葉が外国人(と言っても白人だけだが)の代名詞だった。それで白人を見ると、栗毛であろうと茶髪であろうと、黒髪より薄い色で茶色がかっていれば、それをみな「金髪」と呼ぶ人が日本には少なからずいた。欧米人の髪の色のバリエーションは非常に多くて、レッド、ブラウン、ブルネット、ブロンドなどと多彩に呼び分けされている。ところが、日本人の髪の色はほとんど黒一色な [続きを読む]
  • 主客未分?
  • 西田哲学や禅仏教において「主客未分」ということがよく言われる。それで世間には、精神状態が主客未分と主客分離の二つの状態があるというように考えられています。つまり、坐禅中のように精神が統一されている状態が主客未分で、雑多なことを考えているのが主客分離のように受け止められているのではないでしょうか。おそらく、坐禅を実践されている方々の中にもそのように考えている方がおられるはずです。一般には、向こうに [続きを読む]
  • 死に向かって生きる
  • 「死に向かって生きる」なんて言うとハイデガーみたいですが、昨日聴いた南直哉さんの講演のタイトルです。南さんはご存知の方も多いと思います。青森県の恐山の院代(副住職)をなさっている、いまや曹洞宗きっての論客です。講演の出だしをちょっと復元してみます。一つ一つの言葉は覚えていないので、大体の感じです。こんな演題で人が集まるのかと思ってましたが、たくさん見えておられますねぇ。(聴衆の顔を見渡して) なるほど [続きを読む]
  • 希望は戦争
  • 最近つくづく思うのだが、少数の資本家が大多数の労働者を搾取するのは、たいして深刻な事態ではないと考えるようになった。本当に深刻なのは労働者間に格差が生まれることである。昭和三十年代、私の周りの人々は多少差があったとしても、庶民と呼ばれるたいていの人々は貧乏だった。ところが、グローバル化の波とともに先進国では庶民の間で格差が広がる傾向にある。時給千円で働く非正規雇用労働者はフルタイムで働いても月収2 [続きを読む]
  • 真理はないか?
  • 「真理はない」などと軽々しく言うべきではないと思う。もともとないものであるなら「ない」とさえ言えない。少なくとも、「ない」と言えるためにはその対象が明確に定義されていなければならない。たいてい真理の存在有無を論じているところでは、「真理とは何か?」という問題が並行して行われているのが常である。それがなんであるかわからないものの存在について論じることは、空港へ名前も姿形も知らない人を迎えに行くのと同 [続きを読む]
  • 仏教的倫理について
  • 仏教には究極的な意味において善悪というものはありません。一切皆空を旨とする仏教においては、善悪というのもその時々の恣意的な視点から見た仮象に過ぎないからです。親鸞聖人は次のように言います。「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(歎異抄第13条)どんなにいい人でも場合によっては人を殺してしまうこともある。性悪な人間でも条件が整わなければ悪事を働くこともないし、時には善行をすることもある [続きを読む]
  • カント倫理学について
  • 以前、「『嘘』に見る東西道徳観の違い」という記事を書きましたが、西洋倫理の骨子であるカントの倫理観と仏教のそれを比較してみたいと思います。今回はカントについて取り上げます。ものごとを論理的に考えるのが哲学ですが、実は論理だけでは何も生み出せません。理論を形成するにはもととなる前提が必要です。前提なしに論理だけで考えるのは不可能です。それでも考えようとすると無意識のうちに、なんらかの前提を取り入れて [続きを読む]
  • すべてはまぼろしか?
  • 前回記事の「世の中を陽炎(かげろう)のように看(み)よ」について、「すべては虚妄である」と龍樹自身が述べている、とある人から指摘されました。私は仏典に疎いので、そこまで言われたらそうかもしれないとも思います。しかし、あえて言いたいのですが、重要なのは龍樹の表層的な言葉ではなく、その精神その真意です。龍樹の著作というものは古くて多くの人の手を経ています。細かく見て行けば矛盾も多々あるはずです。彼の真 [続きを読む]
  • 世の中を陽炎(かげろう)のように看(み)よ
  • ある人から、「君の空観は間違っている。君は実体・実在論者だ。」と言われてしまいました。私は自分は実体論者ではないと考えているが、実在論者であることは否定しません。実体とは不変の本質を持つものと解釈しています。陽炎は空気の密度のばらつきによる光の屈折の効果によるものであり、そこには実体は存在しない。龍樹が「かげろうのようにみよ」というのは、実体のないのは陽炎だけではない、この世のあらゆるものは実体を [続きを読む]
  • この世界は言語では表現できない。
  • 1月4日の記事「龍樹 VS ウィトゲンシュタイン」における両者の対談は、初めから龍樹の土俵で勝負しているため、ウィトゲンシュタインにとっては不公平であったかもしれません。龍樹は感官に触れる世界のあらゆる要素を全的に受け止めようとしているのに対して、ウィトゲンシュタインは思考し得る世界を問題にしているのだから、本来話がかみ合うはずがないのです。  「太郎は次郎の兄である」上の言明は龍樹から見ればきわめて [続きを読む]
  • 禅的一元論 ( 観念論と実在論のつづきのつづき )
  • 前回は、すべてが観念であるとすると、その観念の位置づけが出来なくなる、というようなことを述べました。へたくそで恐縮ですが、上図のような概念図となります。どうしてこのようになるかと言うと、二つの原因があります。ひとつは、認識というものについて、「主観が客体を認識している」という構図の上で考えているということ。二つ目の理由は、我々が世界を把握しようとするときの視点が実存視点と客観視点の二つがあるという [続きを読む]
  • 観念論と実在論のつづき
  • 前回は、科学的実在論が必然的に観念論を導き出す過程について述べた。実在論は必然的に観念論を導き出すが、観念論から実在論には戻れない。科学的実在論によれば、我々に直接接するのがセンスデータだけだからである。我々の側から見れば、物そのものの前に感覚の壁が立ちはだかり、物そのものは仮説的推論によって存在すると推定するしかない。矛盾のない仮説的推論というのは無限にある。例えば、「私は実は培養液に浸された脳 [続きを読む]