御坊哲 さん プロフィール

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御坊哲さん: 禅的哲学
ハンドル名御坊哲 さん
ブログタイトル禅的哲学
ブログURLhttp://blog.goo.ne.jp/gorian21
サイト紹介文禅的視座から哲学をすると、こんな景色が見えてくるのではないだろうか。
自由文私は禅者ではありません、仏教者でさえありませんが、多少ものを見る目はもっていると自負しております。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供66回 / 365日(平均1.3回/週) - 参加 2013/12/07 23:29

御坊哲 さんのブログ記事

  • 庭前拍樹 ( 無門関 第三十七則 )
  •   趙州、因みに僧問う、「如何なるか是れ祖師西来の意」  州曰く「庭前の柏樹子」趙州とは唐代の大禅匠、趙州従諗のことである。ちなみに公案に出てくる回数は趙州が他を大きく引き離し第一位である。その趙州にある僧が、「如何なるか是れ祖師西来の意」と問うた。祖師とは禅の始祖達磨大師のことで、彼がはるばるインドからやってきたのは何のためか、つまり仏教の大意はなにかと聞いたのである。それに対し趙州は「庭の柏の [続きを読む]
  • エブリデイ イズ エイプリル・フール
  • 一昨日はへたくそなエイプリル・フール記事を書いたりして皆様方の失笑を買っている私ですが、政界では私よりもっとセンスのよくないというより下司な冗談がまかり通っているようです。このような事態に、あるニュースキャスターが、「政界では毎日がエイプリルフール」と言っておりました。こういう状況が一番子供の教育上よくないんではないかと思うのです。やれ道徳教育だの、教育勅語だの掛け声掛けていれば、日本人の品性が [続きを読む]
  • 臨済宗と曹洞宗が統合されて仏心宗になります
  • これはエイプリルフール記事で、書かれていることは嘘です。昨日(3/31)、曹洞宗管長の福山諦法禅師、臨済宗妙心寺派管長の河野太通老師、黄檗宗管長の近藤博道禅師の三氏が、京都宝ヶ池の国際会館で共同会見に臨み、今後は日本曹洞宗と日本臨済宗(黄檗宗)はともに「仏心宗」を名乗ることに決定したと発表しました。統合と言ってもそれぞれの歴史的経緯や修行体系が違うので、教団の実質的運営は従来通りとし、公式の宗派名のみ「 [続きを読む]
  • WABI-SABI(わび・さび)
  • 先日、図書館で「翻訳できない世界のことば」という本を借りてきました。結構話題になっている本で、昨年から予約していたものがやっと順番が私にまわってきたのです。著者はエラ・フランシス・サンダースさんという若い女性イラストレーターです。で、いろんな国に住んだ経験から、それぞれの土地には一言では翻訳できない言葉あることを知り、それを紹介したいと思い立ったのだそうです。例えば、イクトゥアルポク(iktsuarpok) [続きを読む]
  • 無分別智
  • 今ではそんなことはもうないだろうが、金髪碧眼という言葉が外国人(と言っても白人だけだが)の代名詞だった。それで白人を見ると、栗毛であろうと茶髪であろうと、黒髪より薄い色で茶色がかっていれば、それをみな「金髪」と呼ぶ人が日本には少なからずいた。欧米人の髪の色のバリエーションは非常に多くて、レッド、ブラウン、ブルネット、ブロンドなどと多彩に呼び分けされている。ところが、日本人の髪の色はほとんど黒一色な [続きを読む]
  • 主客未分?
  • 西田哲学や禅仏教において「主客未分」ということがよく言われる。それで世間には、精神状態が主客未分と主客分離の二つの状態があるというように考えられています。つまり、坐禅中のように精神が統一されている状態が主客未分で、雑多なことを考えているのが主客分離のように受け止められているのではないでしょうか。おそらく、坐禅を実践されている方々の中にもそのように考えている方がおられるはずです。一般には、向こうに [続きを読む]
  • 死に向かって生きる
  • 「死に向かって生きる」なんて言うとハイデガーみたいですが、昨日聴いた南直哉さんの講演のタイトルです。南さんはご存知の方も多いと思います。青森県の恐山の院代(副住職)をなさっている、いまや曹洞宗きっての論客です。講演の出だしをちょっと復元してみます。一つ一つの言葉は覚えていないので、大体の感じです。こんな演題で人が集まるのかと思ってましたが、たくさん見えておられますねぇ。(聴衆の顔を見渡して) なるほど [続きを読む]
  • 希望は戦争
  • 最近つくづく思うのだが、少数の資本家が大多数の労働者を搾取するのは、たいして深刻な事態ではないと考えるようになった。本当に深刻なのは労働者間に格差が生まれることである。昭和三十年代、私の周りの人々は多少差があったとしても、庶民と呼ばれるたいていの人々は貧乏だった。ところが、グローバル化の波とともに先進国では庶民の間で格差が広がる傾向にある。時給千円で働く非正規雇用労働者はフルタイムで働いても月収2 [続きを読む]
  • 真理はないか?
  • 「真理はない」などと軽々しく言うべきではないと思う。もともとないものであるなら「ない」とさえ言えない。少なくとも、「ない」と言えるためにはその対象が明確に定義されていなければならない。たいてい真理の存在有無を論じているところでは、「真理とは何か?」という問題が並行して行われているのが常である。それがなんであるかわからないものの存在について論じることは、空港へ名前も姿形も知らない人を迎えに行くのと同 [続きを読む]
  • 仏教的倫理について
  • 仏教には究極的な意味において善悪というものはありません。一切皆空を旨とする仏教においては、善悪というのもその時々の恣意的な視点から見た仮象に過ぎないからです。親鸞聖人は次のように言います。「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(歎異抄第13条)どんなにいい人でも場合によっては人を殺してしまうこともある。性悪な人間でも条件が整わなければ悪事を働くこともないし、時には善行をすることもある [続きを読む]
  • カント倫理学について
  • 以前、「『嘘』に見る東西道徳観の違い」という記事を書きましたが、西洋倫理の骨子であるカントの倫理観と仏教のそれを比較してみたいと思います。今回はカントについて取り上げます。ものごとを論理的に考えるのが哲学ですが、実は論理だけでは何も生み出せません。理論を形成するにはもととなる前提が必要です。前提なしに論理だけで考えるのは不可能です。それでも考えようとすると無意識のうちに、なんらかの前提を取り入れて [続きを読む]
  • すべてはまぼろしか?
  • 前回記事の「世の中を陽炎(かげろう)のように看(み)よ」について、「すべては虚妄である」と龍樹自身が述べている、とある人から指摘されました。私は仏典に疎いので、そこまで言われたらそうかもしれないとも思います。しかし、あえて言いたいのですが、重要なのは龍樹の表層的な言葉ではなく、その精神その真意です。龍樹の著作というものは古くて多くの人の手を経ています。細かく見て行けば矛盾も多々あるはずです。彼の真 [続きを読む]
  • 世の中を陽炎(かげろう)のように看(み)よ
  • ある人から、「君の空観は間違っている。君は実体・実在論者だ。」と言われてしまいました。私は自分は実体論者ではないと考えているが、実在論者であることは否定しません。実体とは不変の本質を持つものと解釈しています。陽炎は空気の密度のばらつきによる光の屈折の効果によるものであり、そこには実体は存在しない。龍樹が「かげろうのようにみよ」というのは、実体のないのは陽炎だけではない、この世のあらゆるものは実体を [続きを読む]
  • この世界は言語では表現できない。
  • 1月4日の記事「龍樹 VS ウィトゲンシュタイン」における両者の対談は、初めから龍樹の土俵で勝負しているため、ウィトゲンシュタインにとっては不公平であったかもしれません。龍樹は感官に触れる世界のあらゆる要素を全的に受け止めようとしているのに対して、ウィトゲンシュタインは思考し得る世界を問題にしているのだから、本来話がかみ合うはずがないのです。  「太郎は次郎の兄である」上の言明は龍樹から見ればきわめて [続きを読む]
  • 禅的一元論 ( 観念論と実在論のつづきのつづき )
  • 前回は、すべてが観念であるとすると、その観念の位置づけが出来なくなる、というようなことを述べました。へたくそで恐縮ですが、上図のような概念図となります。どうしてこのようになるかと言うと、二つの原因があります。ひとつは、認識というものについて、「主観が客体を認識している」という構図の上で考えているということ。二つ目の理由は、我々が世界を把握しようとするときの視点が実存視点と客観視点の二つがあるという [続きを読む]
  • 観念論と実在論のつづき
  • 前回は、科学的実在論が必然的に観念論を導き出す過程について述べた。実在論は必然的に観念論を導き出すが、観念論から実在論には戻れない。科学的実在論によれば、我々に直接接するのがセンスデータだけだからである。我々の側から見れば、物そのものの前に感覚の壁が立ちはだかり、物そのものは仮説的推論によって存在すると推定するしかない。矛盾のない仮説的推論というのは無限にある。例えば、「私は実は培養液に浸された脳 [続きを読む]
  • 観念論と実在論
  • 人は物心つけばたいていは素朴実在論を身に着けると言われている。目にした木や石やリンゴが(見えている)そこに、自分の外部に実在する、というようなものの見方である。通常の日常生活を送っている分には、素朴実在論は十全な理論であり、破たんすることはまずない。テーブルの上におやつがあって、それを弟と取り合いになったことはないだろうか? 自分に見えるおやつは弟にも見えているのである。このような経験、つまり他者 [続きを読む]
  • 純粋経験に関する異議
  • 「善の研究」を読んでいて当惑するのは、純粋経験が一体何を指しているのかがよくわからないということである。純粋経験というからには、当然純粋経験でない経験がなければならないはずだが、この本を読んでいると、純粋経験でない経験というものがあるのかという疑問が湧いてくる。≪経験するといふのは事実其儘(そのまま)に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋といふのは、普通に経験とい [続きを読む]
  • 真理について、まどろみながら考えてみた
  • 今朝寝床の中で、ウィリアム・ジェイムズの言葉を思い浮かべていた。≪ずっと信じてきたもの、実際にそれに基づいて生きてきたのだが、それを表現することばを見つけることが出来なかったもの≫それが「真理」であると、彼は言う。ロマンチックだが、実に含蓄のある言葉だ。確かにぼくらはなにかを信じている。哲学をかじりかけた若者が「真理とか真実というものはない」とうそぶくことはままある。しかし、哲学をするということ自 [続きを読む]
  • 龍樹 VS ウィトゲンシュタイン
  • 1 世界は成立していることがらの総体である。1.1 世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。1.11 世界は諸事実によって、そしてそれが事実のすべてであることによって、規定されている。世界が事実の総体ならば、あらゆることは論理によって明晰である、とLWは考えたのだろう。事実は命題として言葉で明瞭に語ることができる。しかし、ことはそう簡単ではないような気がする。龍樹なら、「言葉ではこの世界 [続きを読む]
  • 逃げるは恥だが役に立つ
  • 「逃げるは恥だが役に立つ」というのは、知ってる人は知っているでしょうが、今週で終わったTBSのテレビドラマのことです。主演の新垣結衣さんの可愛らしさと、共演の星野源さんのちょっとずれたような演技、それに脚本家や製作スタッフの遊び心がうまくかみ合って、とても面白い作品に出来上がっていました。ぼくが今年見たテレビドラマの中では、同じTBSの火曜ドラマ「重版出来」と並んで、他を圧倒して面白かったと評価し [続きを読む]
  • 「真珠湾」通告遅れは意図的?
  • 昨日(12/27)の東京新聞・夕刊に、太平洋戦争の開戦通告が遅れたのは、日本外務省が意図的に電報発信を遅らせたことが原因であるとする新証拠が発見された、との記事があった。真珠湾攻撃が開始されたのは12月7日の午後1時19分、覚書がハル米国務長官に手渡されたのが一時間後の午後2時20分だった。覚書は長文なので14部に分割されて送信された。1から13部までは12月6日の午前11時25分までに発信されていたが、結論と [続きを読む]
  • 禅的世界観
  • 以下は、玄侑宗久さんの「死んだらどうなるの?」という本の、池田晶子さんによる書評です。≪禅僧が科学を使用して死後を説明するのを、私は初めて見た。びっくりした。はたして、本気だろうか。   ( 中略 )私はまずそれを疑った。『意識は脳が生み出す』とも、平気で言われている。大したもんである。どうせ嘘をつくのなら、ここまで徹底してつかなければならない。話というのは、どっかから始めなければ、始まらないからで [続きを読む]
  • 心はどこにあるのか
  • 「心はどこにあるのか?」と問われると、たいていの人は脳にあると考えているのではないでしょうか。でも、これは医学・生理学が普及してからのことで、昔の人は心臓にあると考えていたようです。私はラテン音楽が好きでよく聴くのですが、歌詞の中にやたら"コラソン"という言葉が出てきます。この単語は、心臓という意味と心という意味を兼ねているのです。だからラテン系の人々にとっては、今でも心は心臓にあるんですね。心が心 [続きを読む]
  • ゲシュタルト崩壊と空観、それから龍樹へ (その2)
  • 前回記事では、机や人間というような個物について、その普遍的な本質というものが存在しないということを述べたのですが、今回は個物以外の概念について考えてみたいと思います。古代インドの哲学者龍樹は大乗仏教の祖とされている人ですが、『中論』という書物を表しています。その中に次のような一節があります。  すでに去ったものは去らない。   いまだ去らないものは去らない。   現在去りつつあるものも去らない。「す [続きを読む]