kii さん プロフィール

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kiiさん: 試撃行
ハンドル名kii さん
ブログタイトル試撃行
ブログURLhttp://yaplog.jp/shigekikou/
サイト紹介文幕末・維新に係る記事。史跡訪問。幕末維新系の時代劇レビュー。最近の事件を歴史に絡て考えてみたり。
自由文高杉晋作と幕末志士を紹介するHP「ぬしと朝寝がしてみたい」のブログです。
http://www.access21-co.jp/sinsaku/top.html
住んでる山口県下関市を拠点に観光や出張などで史跡をまわったり、幕末・維新に係るいろいろな記事を書いたりします。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供197回 / 365日(平均3.8回/週) - 参加 2013/12/12 13:15

kii さんのブログ記事

  • 三重県桑名市 顕本寺~服部半蔵の墓所
  • 服部半蔵といえは、伊賀衆を率いて徳川家に仕えた服部半蔵正成が有名ですが、この半蔵という通称は、当主が代々受け継いで名乗っています。昭和60年に放送された千葉真一主演の「影の軍団Ⅳ」で、15代目服部半蔵が影の軍団を率いて幕府と対立するという話がありましたが、もちろん実際にはそんな事はしていません。一般的に服部半蔵として知られる服部半蔵正成の死後、その嫡男である服部正就が半蔵の名を継ぎ、伊賀同心を率い [続きを読む]
  • 三重県桑名市 桑名城跡
  • 「その手は桑名の焼き蛤」。有名な地口ですが、本来焼き蛤が有名なのは、桑名宿と四日市宿の間の富田立場という場所で、香ばしい焼き蛤の香りが、お伊勢参りの客を魅了していたそうです。この富田立場は桑名藩領であった為「桑名の焼き蛤」として認知されていました。昨今の本多忠勝人気により、桑名城は注目されていますが、僕としてはやはり幕末桑名藩ですね。京都所司代として、実兄の松平容保を助けた桑名藩主松平定敬と、戊辰 [続きを読む]
  • 三重県桑名市 花林院~増山正修の墓所
  • 譜代藩主の墓所は、転封が多いからか江戸にあることが多い。長島藩主の墓所も江戸の菩提寺勧善院にあります。ところが幕末の藩主増山正修の墓所は、国元の菩提寺である花林院にありました。長島中町周辺(花林院の場所)長島城跡のほど近く。歩いて行ける距離です。「花林院」。徳川家康の異父同母弟松平康元が、父久松俊勝の菩提を弔うために建立した寺で、久松松平家の領地替えに伴って各所へ移転しており、長島への移封に伴い現 [続きを読む]
  • 三重県桑名市 長島城跡
  • 長島藩は、木曽三川の河口部にある長島を領した藩で、4代将軍徳川家綱の生母宝樹院の縁者である増山家が治めました。増山家以前は、久松松平家が治めていましたが、藩主の松平忠充が暗君で、重臣3人を切腹させ、その重臣の子4人を死罪にするなど暴挙を行ったため、幕府から乱心であると判断されて改易させられた経緯があります。長島藩の藩庁である長島城は、鎌倉時代より始まる古い城で、一向一揆の拠点となったり、滝川一益や [続きを読む]
  • 三重県鈴鹿市 神戸城跡
  • 三重に1週間ほど出張に行きましたので、仕事終わりに周辺の史跡に訪問しました。神戸藩は本多彦八郎家の支流で、本多忠恒を藩祖とする本多家が治めました。知行1万5000石ながら、築城を許された城持大名です。はじめ河内国の西代に陣屋を構えていましたが、伊勢国の神戸に転封となり、以後幕末まで続きました。初代藩主(神戸藩本多家2代)本多忠統は、文人大名として有名で、早い時期から藩校を整備しています。幕末時の藩 [続きを読む]
  • 下関の人々は外国人に慣れていた
  • 青い目、大きな体、金髪、異様な服装・・・。幕末の人々は見た事の無い外国人を畏怖した・・・・。・・って、実はそんな事はありません。特に下関では、定期的に外国人が神社仏閣を観光していましたので。長崎のオランダ商館のトップである商館長(カピタン)は、貿易継続の許可と御礼で、江戸に参府しなければならなかった為、その道中に必ず下関に寄っていたからです。この参府は4年に一度、嘉永3年までに166回行われました [続きを読む]
  • 民話「あかずの扉」
  • 下関の民話に「あかずの扉」という怪談?があります。話が幕末のようなのでご紹介。明治になるちょっと前の事、天然痘が大流行した年がありました。長府逢坂の坂口、むかって右手の角屋敷に、松田という三百石取りの侍が住んでいましたが、松田の家でも、たった一人の男の子と、その家の中間の子どもとが、同時に天然痘にかかりました。松田家の子どもは、手厚い看護の効き目も無く「痛いよ・・痛いよ・・」と、苦しみながら死んで [続きを読む]
  • 高杉晋作の葬儀
  • 高杉晋作の葬儀は、白石正一郎が奇兵隊幹部と話し合って取り仕切りました。下記は白石正一郎の作った「谷東行主神葬略式」です。丁卯四月十六日    谷東行主神葬略式   一 忌の事 親の喪夫の喪は、妻子たる者ハ其日より酒肉をたち慎むべし        葬の時葬地にゆく道中徒跣の事、寒中たりとも足袋を用ぶべからず        すべて忌あ る人々は、皆すあしの事     忌の事 親族の喪中は、妻子たる者は、 [続きを読む]
  • 歴史を善悪で区別するのはナンセンス
  • なんだか今更ながら長州藩及び山口県を汚い言葉で罵る本によって、その本を読んた読者が、間違った情報をネットに垂れ流しているようです。江戸時代徳川幕府サイコー長州薩摩はキ○チガイの殺戮集団水戸学はクソ西郷は大した人物ではないなど・・・やれやれ、こういう善悪をはっきり区別するような人は、70年安保を戦ったような人にありがちですが、歴史ってそんなに簡単なもんじゃないと思いますよね。幼稚な例で大変申し訳ない [続きを読む]
  • 幕末の人物を姓名判断してみると?
  • 子供に名前を付ける時には、やはり姓名判断を見ますよね。ウチの2人の子供も、もちろん画数をこだわりました。霊的なモノ、運命的なモノなどあまり信じないタイプなのですが、信じないのは僕個人の考えで、それを子供に押し付けるのはエゴ。やはり少しでも良い人生になってほしいので、しっかりと吟味したうえで、名づけたつもりです。さて、では本当に姓名判断ってのが当たってるのか、ネットの無料姓名診断で幕末の人物を調べて [続きを読む]
  • 山縣の結婚式の日に晋作が危篤となる
  • 慶応3年4月。山縣狂介(有朋)は、宇賀・湯玉の庄屋石川良平(後の下関市長)の長女お友と結婚しています。婚礼は4月11日より始まり、12日に宴が開かれました。場所は何処かわかりませんが、下関でも吉田でも無い場所なので、石川良平宅ではないかと思われます。その石川良平宅の場所はイマイチよくわからない。豊浦町史二「宇賀の今昔」に地図が載っていますが、このあたりというだけしかわかりません。さて、福田侠平、石 [続きを読む]
  • 晋作が犬を斬ったという話
  • 高杉晋作が街の犬を斬って、気持ちの鬱屈を晴らして、吉田松陰がそれを聞いて「もって志気の劣えが知れる」と嘆いたという。この話の出所はどこなんだろうと、前々から気になっていたのですが、ネット上ではその話が書かれているだけで出典が書いてない。まさかどこかの小説内の話が、まことしやかに広まったのか?と、思って色々と調べてみると確かにありました。安政6年2月に野山獄にて書かれた「諸友宛」の書状の、「中谷 久 [続きを読む]
  • 長州風呂
  • じめじめした季節ですねぇ。こういう時はお風呂でさっぱりしたいものです。日本古来のお風呂の様式として、五右衛門風呂というのがありますが、これは底が鉄製の風呂桶の下でマキを焚いて、底板を沈めて入るものでした。江戸時代にはすでに庶民の間でも普及しているようで、浮世絵などにも描かれていたり、「東海道中膝栗毛」でも書かれています。江戸末期の江戸っ子は、毎日朝夕銭湯に通っていたとか。この五右衛門風呂ですが、正 [続きを読む]
  • 周南市徳山 児玉源太郎生誕の地
  • 日露戦争の英雄児玉源太郎は徳山藩出身。生誕の地は公園として整備されています。「児玉源太郎生誕の地」。徳山藩の中流武士(馬廻)であった児玉家の屋敷があった場所で、ここで児玉源太郎は生まれました。「児玉家屋敷跡」の碑。源太郎は児玉家の長男として生まれましたが、父児玉半九郎は源太郎が5歳の時に死去しており、家督は姉の婿養子児玉次郎彦が継ぎました。この児玉次郎彦は徳山七士の一人で、徳山藩の尊攘派として、国 [続きを読む]
  • 下松市未武 下松護国神社
  • 下松護国神社は、慶応3年に都濃宰判出身の戦死者4柱を招魂する為、「山添招魂場」として長州藩により建設されました。長州藩によって築かれた招魂場として他に、八田山招魂場、惣田山招魂場、鳶ヶ巣招魂場、江良招魂場(現在石碑のみ)があります。これらはそれぞれその地区の宰判(代官所)が、その地区出身者を祀るために藩に建設を届け出て許されたもので、藩自体の方針(トップダウン)というよりは、ボトムアップされたもの [続きを読む]
  • 周南市徳山 徳山毛利家墓所
  • 徳山藩毛利家は、毛利輝元の次男毛利就隆が3万石を分与されて立藩。はじめ下松を藩庁としましたが、交通が不便であるという理由で、領内の野上に藩庁を移し、地名を徳山と改めます。以後、徳山を藩庁としますが、3代藩主毛利元次が宗家と領界争論を起こし、主家に背いたと幕府より改易されますが、後に子の代で再興しました。以後は宗家と良好な関係を築き、江戸後期には城主格大名となっています。「大成寺」。徳山毛利家の菩提 [続きを読む]
  • 周南市徳山 三家老幽閉之地
  • 禁門の変の敗戦後、直接指揮を取っていた三家老は、自領にて謹慎していましたが、長州征伐での降伏条件として、責任者の断罪として三家老の切腹、四参謀の斬首が要求された為、徳山藩預かりとなって徳山藩に集められました。三人はそれぞれ別の場所に幽閉されます。国司親相は澄泉寺、益田親施は惣持院、福原元?は徳山藩士衣笠伊織宅で沙汰を待ちました。徳山市街地周辺(三家老幽閉地の場所)古川薫の小説「野山獄相聞抄(吉田松 [続きを読む]
  • 周南市富田 新南陽護国神社
  • 新南陽護国神社は永源山にあり、徳山藩の山崎隊の戦死者を招魂する為、栄源山招魂場として建立されたのがはじまり。その後、富田招魂社、富田護国神社と名称を変え、現在は新南陽護国神社となっています。現在、新南陽市が徳山市などと合併して周南市となった為、この名称も変更されることがあるかもしれませんね。新南陽護国神社のある永源山は総合公園となっており、旧新南陽市街や臨海工業地帯が見渡せ、プールや風車、美術館な [続きを読む]
  • 周南市徳山 徳山陣屋跡2
  • 「子供たちを動物園に連れて行こう」と徳山動物園へ。実はこの徳山動物園は、徳山陣屋の敷地内だった場所です。嫁さんに言うと「そんなことだろうと思った」と呆れ顔。「周南市文化会館」が徳山陣屋跡とされていますが(記事はこちら)、徳山陣屋というのは広大な敷地を誇る三大陣屋のひとつなので、近隣の徳山動物園も徳山陣屋の敷地内なのです。「徳山動物園」。昭和35年開園の県内唯一の動物園です。頭を抱えて悩める仕草を見 [続きを読む]
  • そろそろ書こうかな
  • 色んな幕末系ブログにダイレクト出版という会社が提供している「日本の兵士が精強だった本当の理由」とかいう広告が見受けられます。このブログもしかりで、今読まれてる記事の横か下に出てたりします。こんにゃろ〜ウチのページでつまらん広告出しやがって!・・・・っと思ってもそれはお門違いですねぇ。無料のブログなんだし、広告があるのは仕方ない。で、リンク先に飛んでみると、スタンフォード西鋭夫という人物の講演録。こ [続きを読む]
  • 松平頼徳〜幕末300諸藩で唯一切腹させられた大名
  • 幕末において、家老が切腹を言い渡されるというのは多々ありました。長州藩でも三家老が切腹していますし、他藩でも政局に負けた派閥の家老が切腹させられたというケースも多い。しかしながら藩主が切腹となるケースは、ほとんど無い。武士というものは、主君への忠誠がアイデンティティであるわけで、仮に藩主が切腹という事にでもなれば、家臣が何をしでかすかわかりません。赤穂浪士なんかもそのパターンで、「死を賭しても主君 [続きを読む]
  • 石州戦争での軍夫の逃亡
  • 幕長戦争の石州口の戦い(石州戦争)は、大村益次郎が直接指揮をとり、その軍略を以て長州軍を勝利に導いたとされています。もちろんそのとおりなんですが、それだけが長州勝利の要因ではなく、色々な要素が重なった結果でした。兵装の違い、士気の違い、戦術の違いなどの要素があるわけですが、その他石州戦争においての長州軍の勝利の要因のひとつに、石見の民衆が長州に味方したことが挙げられます。石見国の浜田藩や天領の民衆 [続きを読む]
  • 御器かぶり・・・・・
  • 夏が近づくと、あいつが出没しますよね。黒くてガサゴソ動くアイツです。どんなに清潔にしてたって、この時期何故か現れる。ほんとに嫌だ。だいたいゴキブリって名称が気持ち悪い。なんとか「虫」とがいう名前なら、もう少し可愛げがあったかも?・・ないか・・・。ウチは古い一軒家ということもあり、どこから入ってくるのかわかりませんが、たまに現れます。そこで、ふと幕末のゴキブリ事情ってどうなってんだ?と思って調べてみ [続きを読む]
  • 4歳になりました
  • みよちゃんが4歳になりました。いつの間にか片目だけ二重になってしまったようで、これもまた親からすれば可愛いなと思ってたりします。これから成長するにあたって、両目とも二重になるかもしれないし、そのまま片目だけ二重かもしれないし、両目とも一重になっちゃうかもしれませんが、いずれにせよ成長が楽しみです。↓ランキングご協力お願いします。にほんブログ村 [続きを読む]
  • 北九州市黒崎 五卿上陸地
  • 第一次長州征伐の降伏条件のひとつである「五卿の領外移転」は、月形洗蔵ら福岡藩の勤皇党の周旋により、大宰府への移転が決まりました。高杉晋作によるクーデターにより、内訌状態の最中の元治2年1月14日。五卿は馬関を出航し、途中彦島の福浦湾で夜泊し、翌15日に黒崎湊に上陸し、そこから陸路で大宰府を目指しました。晋作は五卿の慰留を望んでいましたが、五卿からすればクーデターが成功するとは夢にも思わなかったでし [続きを読む]