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アイちゃんの日本史散歩 https://aichan-r.blog.ss-blog.jp/

日本の原始・古代・中世・近世・近代にわたる各地の史跡を紹介していきます。

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2013/12/24

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  • 松平忠馮(明和8~文政2) まつだいら・ただより

    松平忠馮(明和8~文政2) まつだいら・ただより。 明和8(1771)年5月6日、忠馮、誕生。母は真田信安の娘。父は、松平下野宇都宮藩主忠恕(ただひろ、元文5(1742)~寛政4(1792))。六男。 安永3(1774)年、忠恕は、戸田肥前島原藩主と交替となり、再び旧領島原に復した。この際、引越し費用が、約四万両かかった。忠恕は、宇都宮以来の窮迫に加えて、安永年間以降の天災地変に苦しみ、非常なる決意で農民救済、藩札の発行等による財政改革に着手した。 忠馮の兄たちは庶子で、他家に養子入りした。忠馮は六男ではあったが、正室の子であり、世子となり、天明7(1787)年12月18日、従五位下・主計頭に叙任された。 寛政4年4月1日、「島原大変肥後迷惑」といわれた寛政大変災が勃発した。普賢岳の大噴火、地震、前山の爆発、津波などにより、島原だけでなく、対岸の宇土..

  • 伊能忠敬(延享2~文政1) いのう・ただたか

    伊能忠敬(延享2~文政1) いのう・ただたか。幼名;三治郎。 延享二(1745)年一月十一日、三治郎(いのう・ただたか)、上総国山辺郡小関村(現・千葉県山武郡九十九里町小関)の名主小関五郎左衛門家に誕生。母は小関某女。父は小関(神保)貞恒。第3子(兄と姉がいた)。 この地方は、長子相続制で、姉家督といって、女でも長子が家督を継ぐ習慣があった。三治郎(伊能忠敬)の母は、長子だったので、約15㎞北の小堤(おんずみ)村(現・横芝光村)の名主神保家から婿を迎えていた。 宝暦一(1751)年頃、三治郎の母が死去。 文政一(1818)年、死去。 (製作中)

  • 加藤長古 (元文4~文化11) かとう・ながふる

    加藤長古(元文4~文化11) かとう・ながふる。 元文四(1739)年、誕生。 江戸後期の御嶽神社神主。長門守、筑後守を称す。御嶽神楽中興の祖。 安永七(1778)年に、岡藩から、神仏事簡素令が出たことにより、「神楽踊」の廃絶が命ぜられ、神主であった加藤長古は、存続を願うが、かなわず、一時、廃絶した。しかし、長古は、心願を発して立ち上がり、従前の神楽の様式を大きく変革・工夫することによって、天明から文化年間にかけて、「太神楽(だいかぐら)」「大々神楽(だいだいかぐら)」と呼ばれる新しい神楽を生みだした。 この後、この神楽は、「新製神楽(しんせいかぐら)」とも呼ばれ、広く伝播し、現在のところ、これが大野系岩戸神楽の原型となったのではないかと考えられている。 文化十一(1814)年、加藤長古(76歳)、死去。墓は、清川町宇田枝(うたえだ)に現存。御嶽神楽..

  • 野々村角兵衛(生没年未詳~文化7見) ののむら・かくべえ

    野々村角兵衛(生没年未詳~文化7見) ののむら・かくべえ。 幕府領西国筋郡代三河口太忠の手代。 文化七(1810)年十一月廿四日条『下岐部億太郎日記』(第117丁表)に、野々村角兵衛先触覚が収録され、「當午御廻米為御見分野々村角兵衛様此廿四日堅来御泊りニ而明廿五日朝飯後當所御着之御先觸唯今到来致候間為御知申入候」とある。 (製作中)

  • 沖次新蔵 (生没年未詳・文化7見) おきす・しんぞう

    沖次新蔵 (生没年未詳・文化7見) おきす・しんぞう。 文化七年七月十八日条 下岐部億太郎『御用品々日記』に、「沖次新蔵様ニも御出ニ而被仰候ハ(云々)」とある。 (製作中)

  • 松平忠恕(元文5~寛政4) まつだいら・ただひろ

    松平忠恕(元文5~寛政4) まつだいら・ただひろ。 元文五(1742)年、松平忠恕、誕生。 安永3(1774)年、忠恕は、戸田肥前島原藩主と交替となり、再び旧領島原に復した。 この際、引越し費用が、約四万両かかった。忠恕は、宇都宮以来の窮迫に加えて、安永年間以降の天災地変に苦しみ、非常なる決意で農民救済、藩札の発行等による財政改革に着手した。 忠馮の兄たちは庶子で、他家に養子入りした。忠馮は六男ではあったが、正室の子であり、世子となり、天明7(1787)年12月18日、従五位下・主計頭に叙任された。 寛政4(1792)年4月1日、「島原大変肥後迷惑」といわれた寛政大変災が勃発した。普賢岳の大噴火、地震、前山の爆発、津波などにより、島原だけでなく、対岸の宇土・玉名・飽田・天草に潰滅的な打撃を与えた。その被害は半島だけで二十ヶ村に及び、死者は一万人以上と..

  • 三浦晋 (梅園 享保8~寛政1) みうら・すすむ (ばいえん)

    三浦晋 (梅園 享保8~寛政1) みうら・すすむ (ばいえん)。 幼名辰次郎。諱は晋。字は安貞。号は、梅園・二子山人・東川居士・無事齋主人など。別号洞山・季山など。 享保八(1723)年八月二日、豊後国国東郡富永村(現・大分県国東市安岐町富清)に誕生。母は、ふさ。父は三浦儀一(虎角)。次男。 享保十一(1726)年、辰次郎(三浦晋)、四歳。妹りく、誕生。 享保十五年、辰次郎(梅園)、八歳。 十二月廿六日、祖父泉石翁徹山義房、死去。 泉石翁徹山義房は、享保4年に削髪して石翁徹山居士と号した。 泉石翁は、数理の才に秀れ、遺著に算書2巻、閻浮置土産1巻がある。 虎角は、泉石翁について、次の様に述べている。 「性剛毅にして撓まず、且機士の技に工に、かねて数術によし、享保四年削髪して石翁徹山居士と號す。子孫の放恣ならんこと..

  • 松平民部武郷 (元禄13頃~元文3) まつだいら・たけさと

    松平民部武郷 (元禄13頃~元文3) まつだいら・たけさと。 元禄十三(1700)年頃、誕生。母は、松平正晴が女。父は、松平(能見)直堅。長男。通称、源七郎。織部。民部。 父・直堅は、松平直政の男。寛永8(1631)年に、誕生。翌寛永9年、松平重直(直政の父・武郷の曽祖父)は、摂津三田三万石から、三万七千石で豊前竜王に入封。同16(1639)年、領内の豊後高田に築城して移った。 重直は、寛永19年、領地高三万七千石のうち、二男重長に三千石、三男直政(武郷の祖父)に二千石を分知した。しかし、幼年のため、知行地はつけなかったという。重直は、この年11月に死去し、翌寛永20年1月、長男英親が、家督を相続した。 松平英親は、正保2(1645)年、豊後木付(のち杵築と書く)へ分知領を合わせて三万七千石で所替を命ぜられた。この時、旧領地のうち幕府領となった国東郡「高田領..

  • 宮本武蔵 (天正12~正保2) みやもと・むさし

    宮本武蔵 (天正12~正保2) みやもと・むさし。 天正十二(1584)年、美作国吉野郡宮本村に誕生。母は宮本氏。父は新免無二斎武仁(あるいは武二)。美作の人あるいは播磨の人という。はじめ新免を称したが、母方の姓をとり宮本武蔵と名乗った。若年から、諸国を遍歴。伝記は確かではないが、武道修行のため諸国を漫遊し、二刀流を案出し、その祖になったといい、京都で吉岡清十郎、奈良で宝蔵院、小倉で佐々木小次郎と試合をして勝ったという話は有名。 寛永二年、「五輪書」を著した。 寛永十一年(寛永十七年ともいう)、細川肥後熊本藩主忠利に招かれ、客分として禄高三百俵、十七人扶持、大組頭格を賜った。宗元画の減筆法を基礎にして鋭い気力のこもった水墨画を描き、特に禽鳥類を得意とした。「鵜図」「枯木鳴鵙図」「布袋見闘鶏図」などがある。 正保二(1645)年、熊本で死去。肥後国飽田郡五丁手永弓削村に葬ら..

  • 識仁 霊元法皇 (承応3~享保17) さとひと・れいげんほうおう

    識仁 霊元法皇 (承応3~享保17) さとひと・れいげんほうおう。 幼名は高貴宮(あてのみや)。諱は識仁(さとひと)。別称;仙洞様。 承応三年五月廿五日、高貴宮(霊元天皇)、誕生。母は内大臣園基音の娘(後水尾天皇の典侍)藤原国子。父は後水尾天皇。第19皇子。 九月廿日、長兄・後光明天皇が、凍瘡により、崩御。 これ以前に、識仁親王(霊元天皇)は、後光明天皇の養嗣子に入り、儲君となっていたという。しかし、後光明天皇の崩御が、あまりにも急であったため、幕府による毒殺と噂され、天皇による養子縁組の意思表示の有無が疑問とされた。 後光明天皇が崩御した時、儲君とされた識仁親王は、まだ生後間もなく、良仁親王(後西天皇=後水尾天皇の第8皇子)のほか、他の兄弟は総て出家の身であったため、良仁親王が、識仁親王が成長して即位するまでの繋ぎとして、即位した。 ..

  • 德川家継(宝永6~享保1) とくがわ・いえつぐ

    德川家継(宝永6~享保1) とくがわ・いえつぐ。 宝永六(1709)年、德川家継、誕生。母は勝田氏。父は第6代将軍家宣。 父家宣は、甲府藩主德川綱重の長男で、3代将軍家光の孫にあたり、叔父にあたる5代将軍綱吉の養子となり、宝永6年に将軍を継承し、間部詮房を老中として、生類憐みの令を解き、前代の権臣柳沢吉保を退け、新井白石を信任して政治の刷新をはかったが、なかなか、その効をあげられなかった。 正徳二(1712)年、德川家宣、死去。 正徳三年四月、家継、将軍に就任。側用人間部詮房が補佐したが、政治面では新井白石の献策によるところが多く、その政治は、家宣の延長上にあった。 (製作中)

  • 戸田氏鉄(氏鐵、天正5~明暦1) とだ・うじかね

    戸田氏鉄(氏鐵、天正5~明暦1) とだ・うじかね。新二郎。初名;重氏。 天正五(1577)年、戸田氏鉄(新二郎、初名重氏)、三河の二連木に誕生。母は眞木助兵衛尉氏常の女。父は戸田采女正一西(かずあき)。幼くして膂力人に優れていたという。 戸田氏は、本姓は清和源氏で、建保1(1213)年、源義家五世の孫・信義が尾張国戸田庄地頭となって戸田を氏とした。その子孫の戸田憲光の三男・氏一の曽孫が氏鉄の父・一西である。 天正十七(1589)年、戸田氏鉄は、13歳の時、圉人某の首を斬った。 翌十八年三月、氏鉄は、初めて、徳川家康に仕え、その左右に侍した。 慶長六(1601)年、戸田一西は、近江大津に就封。大津は、浅野長政が、賤ヶ岳の戦いの後、二万七千石を領して大津城を築造したのに始まる。その後、増田長盛、新庄直頼、京極高次を経て戸田一西が就封した。 ..

  • 鍋島勝茂 (天正8~明暦3) なべしま・かつしげ

    鍋島勝茂 (天正8~明暦3) なべしま・かつしげ。 天正八年十月廿八日、石井生札の屋敷で誕生。母は、石井常延次女・彦鶴姫(陽泰院)。父は鍋島直茂。長男。 一時期、江上家種(龍造寺隆信の次男)の養子となった。 鍋島肥前佐賀藩初代藩主。 明暦三年三月廿四日、死去。 (製作中)

  • 細川忠興 (永禄6年~正保2年) ほそかわ・ただおき

    細川忠興 (永禄6年~正保2年) ほそかわ・ただおき。 幼名・熊千代。與一郎・松向寺・三斎・宗立。越中守・従五位下・従四位下。侍従・左少将。従三位・参儀。 永禄六(1563)年十一月十三日、細川熊千代(忠興)、京都に誕生。母は、沼田上野介光兼の息女・麝香(のちの光寿院)。父は、細川藤孝(天文3~慶長15。幽斎)。長男。 父藤孝は、天文3(1534)年に三淵晴員(和泉上守護家細川元有の子で三淵氏の養子となっていた)の次男として、京都に誕生し、天文9(1540)年に伯父で和泉半国守護・細川元常(三淵晴員の兄)の養子となり(これには異説もある)、幕臣として足利室町幕府13代将軍義輝に仕えていた。 まもなく、細川熊千代(忠興)は、足利義輝の命により、一族奥州家の細川輝経の養子となった。しかし、この養子縁組は、系譜上のものであり、その後も..

  • 吉弘氏夫人菊姫 (生年未詳 天正5~15見 没年未詳) よしひろしふじん・きくひめ

    吉弘氏夫人菊姫 (生年未詳 天正5~15見 没年未詳) よしひろしふじん・きくひめ。 キリスト教名ジュスタ。尊寿院。 年月日未詳、吉弘菊姫(ジュスタ)、誕生。母は未詳。父は吉弘左近大夫鑑理。 年月日未詳、菊姫は、大友義統と結婚。 天正五(1577)年、菊姫、大友塩法師(義乗)を出産。 天正十五年、菊姫は、吉統(義統)とともに、キリスト教に入信、ジュスタと称した。 (製作中)

  • 大友親家 (永禄4~寛永18) おおとも・ちかいえ

    大友親家(永禄4~寛永18) おおとも・ちかいえ。 林新九郎・田原新九郎・田原常陸介・門司勘解由允・通勝・利根川道孝。 受洗名ドン=セバスチャン。 永禄四(1561)年、新九郎(大友親家)、府内の大友館に誕生。母は奈多鑑基の娘。父は大友義鎮。二男。 年月日未詳、新九郎(親家)は、父義鎮の意によって、僧となるために寿林寺に入れられたが、新九郎(親家)は嫌って還俗した。 天正三(1575)年、新九郎は、 (製作中)

  • 筑紫廣門 (弘治2~元和9) ちくし・ひろかど

    筑紫廣門 (弘治2~元和9) ちくし・ひろかど。 筑紫は「つくし」とも読む。 弘治二(1556)年、童名二九市丸(一説に二九郎、のちの筑紫廣門)、勝山に誕生。母は某女。父は筑紫惟門(享禄4~永禄10)。勝山城主。 筑紫氏は、少弐氏の庶流(一説に足利直冬の末裔)。 太田亮『姓氏家系大辭典』所引の「武藤系圖」には、「盛經(大宰少貳、筑後守)―資法(貞經の舎弟、朝日武藤始、實名經顕)―武資(河内守)―貞法(武藤但馬權守、善幸)―經稔(左近將監)―經重(武藤藏人大夫、法名良喜、左近衛將監の養子婿と爲る。先祖田村將軍の末裔也。少貳一門と爲り、武藤藏人大夫と號し、筑前三笠郡筑紫村に居住、故に筑紫と號す)―尚重(武藤刑部少輔、法名元喜)―尚門(筑紫下野守、肥前國基肆郡、養父郡、筑前夜須郡の内半郡、合せて三郡を領し、勝山に居城す)―滿門(筑紫筑後守、馬場本淸・婿と爲し、謀..

  • 島津義弘 (天文4~元和5) しまづ・よしひろ

    島津義弘(天文4~元和5) しまづ・よしひろ。 天文四(1535)年、誕生。母は入来院重聡の娘雪窓夫人。父は島津貴久。二男。兄に虎寿丸(のち義久。当時3歳)がいた。 通称又四郎。初め忠平、のち足利義昭の偏諱を賜って義珍(よしたか)と改名、さらに義弘と改名した。官位は、兵庫頭・侍従・少将・参儀・従四位下。法名自貞。号は惟新斎。 (製作中)

  • 赤星統家 (享禄3~元和5) あかほし・むねいえ

    赤星統家 (享禄3~元和5) あかほし・むねいえ。 享禄三(1530)年、赤星統家、肥後国に誕生。母は某女。父は赤星親家(永正11(1514)~永禄4)。 天文十九(1550)年、父親家は、菊池義武隈本城回復に協力せず、大友方として行動した恩賞として隈本城主の地位を得て、菊池郡を支配した。 永禄二(1560)年、父親家は、隈部親永と反目し、山鹿郡長野城を攻めて、敗北した。 永禄四年、父親家(48歳)、死去る 天正六(1578)年、赤星統家は、肥前龍造寺勢に隈府城を陥され、同城は、龍造寺氏と結んだ隈部親永の所有となった。 天正十年末、赤星統家は、島津氏に付いた。以後、島津方として行動し、豊臣秀吉の九州出兵で隈府城を回復できなかった。 天正十五(1587)年の国人一揆の際には本領未回復のまま在国せず、処分されなかったとみられる。..

  • 大友義統 (永禄1~慶長15) おおとも・よしむね

    大友義統 (永禄1~慶長15) おおとも・よしむね。 長寿丸・吉統・宗巌・中庵・左兵衛督ともいう。 永禄元(1558)年、誕生。母は奈多鑑基の娘。父は大友義鎮。長男。 天正四(1576)年頃、家督をうけ、豊後大友二十二代(一説に二十一代)宗家となった。義統は府内で国政をとり、義鎮は臼杵で後見したため、二頭政治となり、家臣団の分裂傾向をもたらした。 同六年、日向高城・耳川での島津勢に対する敗戦と、島津義久の肥後への北上、龍造寺隆信の筑前・豊前への西進により、これらの国人領主は大友氏に離反し、豊後領内でも、同7年の田原親貫の乱、翌8年の田北紹鉄の乱にみられるように、大野郡・直入郡を中心とする南郡衆や、国東郡の田原氏は、義統の政策に対立した。 天正十四(1586)年、島津氏の豊後侵入に際し、豊後から逃れて、豊前竜王城に退き、翌十五年、豊臣秀吉の九..

  • 2019-06-29

    新納忠元 (大永6~慶長15) にいろ・ただもと。 平成24年10月14日、撮影。新納忠元公廟所。 ☆鹿児島県伊佐市大口。 平成24年10月14日、撮影。忠元廟所配置図。 平成24年10月14日、撮影。新納忠元夫妻の墓。 平成24年10月14日、撮影。新納忠元公略年表 ☆鹿児島県伊佐市大口。 「新納忠元公略年表... ※改暦の年の年号は新年号とした。 ※年齢は数え年である。 一五二六 大永六 一歳 ・志布志で誕生 一五四五 天文十四 二〇歳 ・島津貴久公に従い郡山城攻めは、忠元公の初陣となる 一五五二 天文二一 二七歳・漢詩を作詞(今朝二十七春風・・・) 一五五四 天文二三 二九歳・岩剣城攻め(痩五郎坂の戦い) ..

  • 秋月種実 (天文13~慶長1) あきづき・たねざね

    秋月種実 (天文13~慶長1) あきづき・たねざね。 天文十三(1544)年、幼名黒帽子(秋月種実)、誕生。母は 。父は秋月種氏(文種)。二男。 慶長元年九月、秋月種実(52歳)、京都に於て、病没。 墓は、京都の大徳寺と日向串間の西林寺にある。 (製作中)

  • 隈部親永 (生年未詳~天正16) くまべ・ちかなが

    隈部親永 (生年未詳~天正16) くまべ・ちかなが。 天正六(1578)年、隈部親永は、龍造寺氏と結んで、肥後の赤星氏を追い、隈府城を入手し、菊池・山鹿両郡を支配した。 天正十二(1584)年、隈部親永は、島津氏に降り、豊臣秀吉の九州出兵で所領を安堵された。 天正十五年、隈部親永は、佐々成政の検地に抵抗して、天正国人一揆の発端となった。隈府に籠城し、いったん、降伏したが、子泰親の山鹿城村城籠城に加担し、佐々や立花勢と戦った。 天正十六年、開城、降伏。柳川城で殺された。法名仙空。 (製作中) (製作中)

  • ジュリア (生年未詳 天正6見 没年未詳) じゅりあ

    ジュリア (生年未詳 天正6見 没年未詳) じゅりあ 大友義鎮継室。 年月日未詳、ジュリア、誕生。 奈多氏夫人(大友義鎮室イザベル)に仕えた寡婦であったが、連れ子(教名キンタ=のち義鎮二男親家室となる)がいた。。 天正六(1578)年、奈多氏夫人イザベルがキリスト教を忌避して離別された後、奈多氏夫人付寡婦(ジュリア)は、継室として迎えられ< 同年、宗麟に従い受洗して、ジュリアと称した。 (製作中)

  • 奈多氏夫人イザベル(大友義鎮室・生没年未詳) なだしふじん・いざべる

    奈多氏夫人イザベル(大友義鎮室・生没年未詳) なだしふじん・いざべる。 年月日未詳、奈多某女(渾名イザベル)、誕生。母は未詳。父は奈多八幡宮大宮司・奈多鑑基。大友氏の重臣・田原親賢(紹忍)の実妹(または姉)。 年月日未詳、大友義鎮と結婚(正夫人)。 永禄元(1558)年、大友長寿丸(義統)を出産。 その後、数名の子女を儲けた。 しかし、キリスト教の保護をめぐって一族と対立。 宣教師たちからは、キリスト教を忌諱したため、イザベルIzbel(予言者を追放したイスラエル王アバブの妃)の渾名で呼ばれた。 天正六年、離別された。 (製作中)

  • 大友義鎮 (享禄3~天正15) おおとも・よししげ

    大友義鎮 (享禄3~天正15) おおとも・よししげ。 塩法師丸・五郎・新太郎・宗麟・休庵・円斎・三玄斎・三非斎。別号;府蘭・宗滴。受洗名フランシスコ。 享禄三(1530)年、大友塩法師丸(義鎮)、誕生。母は坊城氏。父は大友義鑑。 この年は、後奈良天皇朝で、足利将軍義晴の治世であった。 天文期(1532~1555)に入って、大友義鑑は、豊前の制覇を賭けて、大内義隆と戦った。 天文三(1534)年、大友と大内氏は、豊後国速見郡で決戦した。 十二月、足利将軍義晴は、大友義鑑と大内義隆の和睦を図った。 天文七年、大友と大内の和平が成立した。 大友義鑑は、将軍家との密接な関係を維持しつつ、肥後支配を重視した。 大友義鑑は、永正12年に、肥後菊池氏の家督継承の混乱期に、弟菊法師丸(のち菊池重治=義武)を菊池氏に入れて大友勢力を扶..

  • 高橋鎮種 (生年未詳~天正14) たかはし・しげたね。

    高橋鎮種 (生年未詳~天正14) たかはし・しげたね。 某年、吉弘孫七郎(のち高橋鎮種)、誕生。母は某女。父は吉弘鑑理。二男。 永禄十(1567)年、高橋鑑種(生年未詳~天正7)は、毛利元就・秋月種実(文種の子)と呼応して、大友氏に背き、戸次鑑連(立花道雪)らの大友勢の追討をうけた。 しかし、小早川隆景らの毛利勢が筑前に進出し、永禄十二(1569)年毛利軍の退陣まで、岩屋城に籠城したが、その後、開城。助命されて豊前小倉城に移された。 吉弘孫七郎(高橋鎮種)は、高橋氏旧領を継ぎ、鎮種と称し、宝満・岩屋城主となった。 天正九(1581)年、子統虎が立花道雪の婿養子となり、鎮種は、道雪とともに、筑前の反大友氏勢力を制圧した。 天正十二(1584)年、筑後に出陣し、猫尾城を攻めたが、このとき、道雪が病死したので帰国した。 この間、留守中に、筑..

  • 合志親為 (生年未詳~天正13) ごうし・ちかため

    合志親為 (生年未詳~天正13) ごうし・ちかため。 戦国時代末期、誕生。母は某女。父は肥後国菊池郡の赤星重隆。2男。 初名親賢のち親為。 親為は、合志高久の養子となり、合志郡を支配した。 天文十九(1550)年、合志親為(親賢)は、一時、菊池義武に味方し、入国の豊後勢を破った。 永禄四(1561)年、親為は、相良・名和の和平を仲介した。 天正十(1582)年頃、龍造寺・島津両氏が、肥後に進出してきた。 この頃、合志親為は、親重に家督を譲り、隠居した。 天正十三(1585)年、島津勢が肥後に進出し、親為は、新納忠元に攻められ、降服。 八代で病死した。菊池郡泗水町宣頓寺跡位牌に、法名金性寺殿日頭宣頓山主とある。子・隆重も島津勢に捕らわれて殺害され、合志氏の正統は絶えた。 (製作中)

  • 甲斐親直 (永正12~天正13) かい・ちかなお

    甲斐親直 (永正12~天正13) かい・ちかなお。甲斐民部大輔入道宗運ともいう。 永正十二(1515)年、誕生。母は某女。父は日向国鞍岡の国人領主甲斐親宣(生没年未詳)。永正10年、父・親宣は、阿蘇惟長に追われた惟豊を助けた。 永正十四年頃、甲斐親宣は、阿蘇惟長に、矢部を回復させ、大宮司に復帰させ、肥後に移住し、阿蘇郡南郷若神を居城としたという。 天文十(1541)年、甲斐親直は、御船房行を討ち、御船城主となったという。親直は、阿蘇勢力を代表して、豊後の大友氏と結び、私的にも大友氏に協力した。 天文十九(1550)年、親直は、一時、豊福の一部を知行した。 永禄八(1565)年、甲斐親直は、隈庄城内の甲斐一族の分裂に関与した。 天正六(1578)年、甲斐親直は、大友氏の日向高城敗戦後離反した隈本の城氏、宇土の名和氏らと戦った。 同九年..

  • 立花道雪(永正10~天正13) たちばな・どうせつ

    立花道雪(永正10~天正13) たちばな・どうせつ。幼名八幡丸。初名・戸次(べっき)鑑連。 永正十(1513)年、幼名八幡丸(立花道雪)、誕生。母は由布惟常の娘。父は戸次親家。 八幡丸(立花道雪)は、初名を戸次鑑連と称した。 戸次氏は、大友二代親秀の子重秀が豊後国大分郡戸次庄に入り、以後、大友氏と密接な関係をもつ家系であった。 父・戸次親家は、豊後大野郡鎧岳城主であった。 永正十一(1514)年、八幡丸(立花道雪)、二歳。 永正十二年、八幡丸(立花道雪)、三歳。 十二月廿三日、大友義長は、家訓十七条と追加八条を発した。 この直後、大友親安(義鑑)が、家督を襲封したらしい。 永正十三年、八幡丸(立花道雪)、四歳。 八月、朽網(くたみ)親満の乱。 永正十五年、八幡丸(立花道雪)、六歳。 ..

  • 龍造寺隆信 (享禄2~天正12) りゅうぞうじ・たかのぶ

    龍造寺隆信 (享禄2~天正12) りゅうぞうじ・たかのぶ。 享禄二年、長法師丸(のち龍造寺胤信・隆信)、誕生。 母は龍造寺宗家豊前守胤和(生年未詳~享禄1(1528)ヵ)の子(龍造寺家和の孫)慶誾尼(けいぎんに)(永正6(1509)ヵ~慶長5(1600))。 父は水ヶ江龍造寺周家。 長法師丸(隆信)は、水ヶ江家の始祖家兼の孫であった。 龍造寺氏は藤原秀鄕流ともいうが、諸説あって不明。 文治2(1186)年、開発領主藤原秀家が、肥前国佐嘉郡津東郷(小津郷ともいう)龍造寺地頭職に補任されてから、龍造寺氏を称したという。 室町時代には、龍造寺氏は少弐氏に属していた。 享徳3(1454)年、肥前龍造寺十四代康家の五男家兼、誕生。 明応年間(1492~1501)、龍造寺康家(家和・家兼の父)が、本家のほか家兼を伴って、..

  • 蒲池鑑廣 (生年未詳~天正8) かまち・あきひろ

    蒲池鑑廣 (生年未詳~天正8) かまち・あきひろ。 年月日未詳、蒲池鑑廣、誕生。母は某女。父は蒲池親広。 永正年間(1504~1521)、蒲池親広は、筑後国上妻郡山下に居館を構え、その後、蒲池鑑廣が、山下城を築城したという。筑後国上妻郡に8千町(8万石)を領したという。 天文十九(1550)年以前に、蒲池鑑廣は、大友義鑑から、「鑑」の一字を賜った。 永禄元(1559)年、龍造寺氏は、少弐氏を滅ぼした。 永禄七(1564)年、大友宗麟が、筑後に侵入した。 元亀二(1571)年、有馬晴信(当時5歳)は、兄の義純が早世したため、家督を継承した。 この頃、有馬氏は、龍造寺隆信や、その支援を受けた西郷純堯、深堀純賢兄弟の圧迫を受けて、有馬晴信も、龍造寺隆信の攻勢の前に臣従せざるを得なくなった。 天正六(1578)年、大友氏は、日向高城・..

  • 田原親貫 (生年未詳~天正8) たわら・ちかつら

    田原親貫 (生年未詳~天正8) たわら・ちかつら。 年未詳、誕生。母は某女。父は豊前国京都郡馬ヶ岳城主長野氏。 年未詳、親貫は、田原親宏(生年未詳~天正7)の養子となった。 右馬頭を称した。 天正六年、大友氏と島津氏との日向での戦いに参加した。 翌七年、大友宗家に謀反。府内を攻めて失敗し、豊後国国東郡鞍懸・安岐城で反抗した。しかし、大友宗麟・義統が直接鎮圧の指揮を行い、翌八年、安岐・鞍懸両城が落城し、親貫はここで自害したとも、豊前国宇佐郡善光寺 村に逃れ、時枝氏に討たれたともいう。 (製作中)

  • 佐伯惟教 (生年未詳~天正6) さえき・これのり

    佐伯惟教 (生年未詳~天正6) さえき・これのり。 生年未詳。太郎・紀伊介・紀伊守・宗天と称した。 大永七(1527)年、佐伯惟治は、大友義鑑の弟肥後守護菊池義武らに内通して義鑑に反意があると讒言され、義鑑の命をうけた臼杵長景に攻められ、惟治はやむなく籠城して抵抗したが、長景の謀略により一時城を退去したところを殺害された。義鑑は、佐伯惟常(惟治の甥)に跡を継がせ、さらに惟治の甥惟光の孫の惟教が佐伯氏十二代を継いだ。 天文十九年の二階崩れの変に際して、大友義鎮を奉じて、府内を制圧した。 弘治三年、一時、伊予国に渡り、宇和郡の西園寺公広に仕えたが、永禄十二年、帰国して、義鎮に仕えた。 元亀三年、斗左の一条兼定支援のため、西園寺公広を攻めた。 天正六年春、土持氏を攻略し、日向に在国したが、同年秋、日向高城での大友・ 島津の決戦に参加し、討死し..

  • 大友義鑑 (文亀2~天文19) おおとも・よしあき

    大友義鑑(文亀2~天文19) おおとも・よしあき。次郎・五郎・親安・親敦。 文亀二(1502)年、大友次郎(義鑑)、誕生。母は 父は大友義長。 永正十二(1515)年十二月、親安(当時14歳)は、父義長から家督を相続した。 永正十三~十四年頃、義鑑は、豊後直入郡の朽網親満の乱を制圧して、その地位を確立した。 天文十二(1543)年、肥後守護に補任された。 天文十九(1550)年二月十二日、大友義鑑、死去。 (製作中)

  • 筑紫惟門 (享禄4~永禄10) ちくし(つくし)・これかど

    筑紫惟門 (享禄4~永禄10) ちくし(つくし)・これかど。右馬頭。入道良薫。 享禄四(1531)年、筑紫惟門、誕生。母は某女。父は筑紫正門。 筑紫氏は、少弐氏の庶流とも、足利直冬の末裔ともいう。 筑前国五箇山を居城としていたと推測される。 天文二(1533)年二月、筑紫惟門は、大内義隆の家臣・陶興房の筑前侵攻の際、大内氏に降伏した。 弘治二(1556)年、嫡男・広門、誕生。 弘治三年四月、毛利元就は、大内義長を長門勝山城に攻め殺した。 筑紫惟門は、大内氏が滅亡すると、大友氏の影響下に置かれたが、北九州にまで勢力を及ぼしてきた毛利元就に通じ、秋月文種とともに挙兵した。 七月、大友宗麟は、立花道雪と臼杵鑑速に2万の兵を預けて秋月文種討伐を命じ、文種は古処山城で徹底抗戦したが、衆寡敵せず、嫡男・晴種と..

  • 實相寺等玉(生年未詳~永正15以降) じっそうじ・とうぎょく

    實相寺珪室等玉 生没年未詳 じっそうじ・とうぎょく。 年未詳、実相寺等玉、誕生。 実相寺は、天平勝宝3(751)年、明賢の創建といい(『豊陽古事談』)、豊後国速見郡靏見の実相寺山の東麓にあった曹洞宗の名刹。 文亀元(1501)年十一月廿八日の由原八幡御遷宮旧記に「社奉行 實相寺 珪室等玉(花押)」、同十二月十三日の柞原八幡宮旧記所収文書にも「社奉行實相寺珪室等玉」とあり、大友家の社奉行であった。 永正五年十二月廿四日の大友家加判衆社家奉行連署事書に「文明十八暦丙午於田北村御神領、故大守政親、雖奉勧請 由原八幡大菩薩、更無祭祀▢▢(之法ヵ)焉、於茲、府君親治任御下知之旨、由原當社御一躰也、然者、御神領内帳迦〈七斗六升蒔参箇所在之、〉彼土貢可為壹石〈升五口入〉不綺風旱水損、請取定米、年中十箇度、可執行祭祠(祀)云々、夫拾箇度者則、正月三ヶ日並七日、「十..

  • 大友義長 (生年未詳~永正15) おおとも・よしなが

    大友義長(生年未詳~永正15) おおとも・よしなが。 年月日未詳、大友義長、誕生。母は 父は大友親治。 文亀元(1501)年、義長は、父親治から、家督をうけ、足利義高(義澄)から、豊後・豊前・筑後の守護職を安堵された。 永正十二(1515)年十二月、義長は、親安(義鑑)に家督を譲った。 永正十五(1518)年八月十一日、大友義長、死去。 (製作中)

  • 大友親治 おおとも・ちかはる (寛正2~大永4)

    大友親治(寛正2~大永4) おおとも・ちかはる。 寛正二(1461)年、大友親治、誕生。母は 父は大友親繁。三男。 幼時、親治は、肥後の瑞光寺の僧となっていた。 文明元(1469)年五月、父親繁は、少弐頼忠らとともに、細川勝元に応じて挙兵した。 文明十年十月、大友氏は、阿蘇・菊池らとともに、大内政弘に応じて筑後に出兵した。 明応五(1496)年四月、足利義材は、大内・大友・島津三氏に、帰国した遣明船一艘を与えることを約束した。 文亀元(1501)年五月、親治は、長子・義長に家督を譲り、足利将軍義澄から安堵を得た。 大永四(1524)年、大友親治、死去。 (製作中)

  • 大友義右(文明1~明応5) おおとも・よしすけ

    大友義右(文明1~明応5) おおとも・よしすけ。 五郎。親豊→材親→義右と改名。 文明元(1469)年、大友五郎(義右)、誕生。母は、 父は大友政親。 延徳三年七月十一日以前、親豊は、足利将軍義材の偏諱(へんき)を得て、大友材親と改名した。 のち義右と改名。 明応五年五月廿七日、大友義右(28歳)、病死。 (製作中)

  • ヒイラギナンテン 柊南天

    ヒイラギナンテン 柊南天。メギ科メギ属の常緑低木。 平成31年5月9日、撮影。 於・大分県宇佐市院内。 学名;Berberis japonica または Mahonia japonica 別名 トウナンテン。 和名の柊南天(ヒイラギナンテン)は、葉がナンテンのように複葉で、ヒイラギのようにトゲのあることや、果実のつき方がナンテンに似ることに由来する。 学名にジャポニカが付いているが、中国南部・台湾・ヒマラヤが原産地で、天和・貞享年間(1681~1687、江戸時代前期)に、日本に渡来した。 早春、総状花序に、黄色い花をつける。 (製作中)

  • 大友持直(生年未詳~文安2ヵ ) おおとも・もちなお

    大友持直(生年未詳~文安2ヵ ) おおとも・もちなお。 年月日未詳、大友持直、誕生。母は戸次直光娘。父は大友親世。二男。 応永卅二(1425)年九月十三日、持直は、孝親の乱(三角畠の乱)を鎮圧した。 永享三(1431)年六月廿八日、持直は、筑前の大友権益を剥奪する大内盛見を、筑前国怡土郡にて敗死させた。 持直は、足利将軍義政の支援を得た大内持世と戦った。 持世は、持直に反感をもつ氏綱系の親綱の協力を得、大友両系の抗争となった。 永享七年六月廿九日以前、持直は、密かに姫岳(臼杵市と津久見市の境)に立籠もった。 永享八年六月、持直は、幕府の討伐をうけて滅ぼされた。 文安二(1445)年(一説に長禄3年)一月四日、大友持直、死去。 (製作中)

  • 大友親世( 生年未詳~応永25) おおとも・ちかよ

    大友親世( 生年未詳~応永25) おおとも・ちかよ。法号祖高。 年月日未詳、大友親世、誕生。母は某女。父は大友氏時。次男。 年月日、大内弘世娘と結婚。 応永元(1394)年八月頃、親世は、室町幕府から、九州奉行職に任ぜられた。 応永八年頃、親世は、甥の大友親著に、所領・所職を譲与した。 応永廿五(1418)年二月廿五日、大友親世、死去。 (製作中)

  • 天正15年 豊臣秀吉の九州征伐と高橋氏

    豊臣秀吉の九州征伐と高橋氏 天正十五年、豊前香春岳(かわらだけ)領主高橋鑑種の養子・高橋元種(元亀2(1571)~慶長19(1614))は、豊臣秀吉の軍勢が九州下向後、いち早く降伏し、日向国縣(延岡)に五万三千石を与えられた。 元亀2年、一万田九郎(のち高橋元種)、誕生。母は田原親宏の娘。父は秋月種実。二男。 天正六年、一万田九郎(元種)は、高橋鑑種(生年未詳~天正7(1579))の養子となった。 高橋鑑種は、豊後大友氏庶流一萬田親敦の二男で、筑前三原郡高橋を本拠とした高橋長種の死後、一萬田家から入って跡を継いだ。 天文21(1552)年、高橋鑑種は、大友義鎮の弟晴英が大内家督を継ぎ、義長と改名して周防山口に入部する時、これに従い奉行人となった。 弘治3(1557)年、鑑種は、大内義長滅亡後に帰国し、同年、大友氏に背いた筑前古処山の秋..

  • 孔叢子 こうそうし・くぞうし 魏晋の頃の偽作か(漢の孔鮒の撰と云ふ)

    孔叢子 こうそうし・くぞうし 魏晋の頃の偽作か(漢の孔鮒の撰と云ふ)。 終身上の教訓を集めたもの。七巻あり。

  • 川島つゆ (明治25~昭和47) かわしま・つゆ

    川島つゆ(明治25~昭和47) かわしま・つゆ。 本名;川島以志。川島露石女。沼田以志。 明治25(1892)年1月10日、川島以志、埼玉県忍(おし)町(行田(ぎょうだ))に誕生。生家は、川島商店(のち川島合資会社)の分家で、本家の製品の販売店であったという。川島商店は、土地有数の足袋商(大手の足袋製造業ともいう)であった。古庄ゆき子『川島つゆ』評伝上には、関東大震災に際して、「川島の家でも母親が三十余年にわたる東京での商店経営に見切りをつけ、病床の次男(川島の次兄)を伴って故郷へ引き揚げることに決まったのである」とある。関東大震災の三十余年前というと、川島以志(震災当時31歳)が生まれた頃である。 川島家の東京での商店経営が三十余年間続いていたとすると、もしかすると、川島以志は東京で生まれたのかも知れないという考えも湧いてくるが、云われているように埼玉県行田..

  • 須佐之男 すさのお (生没年未詳・後漢安帝永初1見)

    須佐之男 すさノを。 ※『後漢書』の「倭國王帥升」に比定される。 素戔嗚尊・建速須佐之男命ともいう。 安帝の永初元(107)年、倭國王帥升らは、生口160人を漢(後漢)の安帝に献じて、請見を願った。 南朝宋范曄(はんよう、398~445)撰『後漢書』倭伝に、「安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見」とある。 安帝(劉祜、永元6(94)~延光4(125))は、後漢の第六代皇帝。 永初元年は、丁未、西暦一〇七年。 ※この年は、三国史記や日本書紀などの史書によると、新羅婆娑王38年、高句麗太祖王55年、百済王己婁王31年、日本景行天皇37年に相当するが、新羅の成立は4世紀中頃と推測され、高句麗は1世紀末頃に部族連合国家を形成しはじめたと考えられ、日本では、後漢の時代はいわゆる記紀の闕史七代に相当する頃と推測され、もとより、三国史記や日本書紀..

  • 龍造寺 りゅうぞうじ

    龍造寺 りゅうぞうじ。 文治二(1186)年、開発領主藤原秀家が、肥前佐嘉郡小津郷龍造寺地頭職に補任されてから、龍造寺を称したという。しかし、龍造寺氏の出自には、諸説ある。 明応年間(1492~1501)、龍造寺康家は、本家のほか家兼を伴って水ヶ江龍造寺家を設け、家兼が本家を支持して、少弐氏家臣団のなかで重きをなした。 明応末年、龍造寺隆信は、少弐氏と訣別し、少弐氏を倒し、肥前全域のほか、筑前半分、豊前・筑後・肥後北半まで支配を得、九州において、島津・大友氏と鼎立する勢力を形成した。 天正十三年、龍造寺隆信は、有馬征伐で突然の戦死した。 天正十五年、豊臣秀吉の九州派兵以後の新しい政治的展開のなかで、当主龍造寺政家が病のため鍋島直茂に国事を代行させることとなった。 秀吉は、直茂の識見を評価し、龍造寺氏の家督が、事実上、直茂に移譲されたか..

  • 物集 もずめ・もづめ

    物集 もずめ・もづめ。 『和名抄』郷名・山城国乙訓郡の項に「物集」があり、毛豆女の訓注がある。 『姓氏録』未定雑姓に「物集連」が見える。 豊後国杵築の物集家の祖先は、山城国物集女(もずめ)村(現・京都府向日市物集女町)で、のち、大阪で金谷という屋号の豪商となったという。 (製作中)

  • 右田 みぎた

    右田 みぎた。 昭和54年1月8版(昭和38年初版)太田亮『姓氏家系大辭典』には、「右田 ミギタ 磐城周防等に此の地名あり」として、1多々良姓大内氏族 2豐後の右田氏 3雜載 の3項目を立てて解説されている。 〔豊後の右田氏〕豊後国玖珠郡飯田郷右田村を名字の地とする武士。 右田は、玖珠川右岸、同川支流鳴子川・野上川の合流点右岸に位置する村・名。地名の由来は、野上川を境にして川の右側にあることに由るという。 豊後の右田氏について、太田亮『姓氏家系大辭典』には『圖田帳に「飯田鄕野上村十一町六段大、本庄、野上太郎資直、右田四郎盛明、各分領す」と』とある。 (製作中)

  • 戸次 べっき

    戸次 べっき。 戸次氏は、大友二代親秀の子重秀が豊後国大分郡戸次庄に入り、以後、大友氏と密接な関係をもつ家系であった。 (製作中)

  • 古庄 ふるしょう・こしょう

    古庄 ふるしょう・こしょう 相模国愛甲郡古庄(神奈川県厚木市上古沢・下古沢に比定される)を起源とする名字(苗字)。 『尊卑分脈』2-389に、「吉澤三郎 重能 母(記述無し)」とあり、「佐藤系図」(続群6)には、近藤武者景賴の子能成が「古沢近藤太」と称しており、この古沢と古荘とは同一と考えられ、現在の神奈川県厚木市上古沢・下古沢に比定されている(昭和59年伊倉退蔵ほか『角川日本地名大辞典14神奈川県』)。 昭和54年(昭和38初版)太田亮「古庄 フルシャウ2大友氏族」『姓氏家系大辭典』(角川書店)には、『相模國愛甲郡の古庄より起る。立花系圖に「能直・始め古庄の姓たり、後に大友の姓を號す」と載せ、また大友系圖に「能直の弟筑井左衛門尉親茂、庶流古庄」と見ゆ。而して、東鑑壽永元年五月條に「廿五日甲午、相模國金剛寺住侶等、解狀を捧げて營中に群參す。是れ古庄近藤太の非法を..

  • 馬場・馬塲 ばば

    馬場・馬塲 ばば。 馬場氏について、太田亮『姓氏家系大辭典』は、「馬場 ババ 次條に同じ。 馬塲 ババ 此の地名諸國に極めて多し、就中有名なるは、武藏、常陸、近江、磐城、陸前、陸奥、羽前、能登、肥後等に存す」として、1淸和源氏賴光流 2淸和源氏滿政流 3河内の馬場氏 4和泉の馬場氏 5賀茂縣主 6桓武平氏川合氏族 7伊勢の馬場氏 8中臣族伊香姓 9佐々木氏族 10近江の馬場氏 11美濃の馬場氏 12遠山氏族 13尾張姓 14三河の馬場氏 15甲斐の馬場氏 16淸和源氏武田氏族 17淸和源氏木曾氏族 18武藏の馬場氏 19桓武平氏千葉氏族 20桓武平氏大掾氏族 21淸和源氏佐竹氏族 22白川の馬場氏 23田村の馬場氏 24岩代の馬場氏 25陸前の馬場氏 26陸奥の馬場氏 27備後の馬場氏 28佐々木氏族 29紀伊の馬場氏 30土佐の馬場氏 31武藤氏族 32藤原姓高木族 33紀姓 ..

  • 立花 たちばな

    立花 たちばな。 立花氏は、大友六代貞宗の長子貞載が筑前立花山城主となり、立花氏を称したのにはじまり、建武新政の前後の動乱期に、貞載は、足利尊氏に属して戦功をあげたが、結城親光を討った時の傷のため死去し、その子宗匡が継ぎ、子孫は立花城主として筑前に重きをなしていた。 (製作中)

  • 寒田 そうだ

    寒田 そうだ。 〔豊後の寒田氏〕 天文三(1534)年閏正月十三日の大友義鑑書状(岐部文書)に、「至山香▢▢▢津久見・寒田・其外寄々衆申付候之間、不日可出張候」とあり、ここに「寒田」とあるのが、豊後寒田氏の信頼出来る史料上の初見である。 地名「寒田(そうだ)」は、豊後国には大野郡(豊後大野市犬飼町「西寒田」(ささむた))と大分郡(大分市大字寒田)の2ヶ所があり、文献に見える「寒田」については諸説あり、また混同もみられる。 (製作中)

  • 首藤 しゅとう・しゅどう・すとう・すどう

    首藤 しゅとう。 「すとう」「すどう」「しゅとう」「しゅどう」とも読み、首籐・須藤・周藤・壽藤とも書き、また、守藤(すどう)・朱藤・周東(すとう)・主藤(すとう)・須藤(すとう)などにも通ずる。太田亮『姓氏家系大辭典』には、「天下の大姓にして、出自に關しては守部姓と云ひ、また藤原秀鄕の後胤と稱し、或は攝關家の庶流と稱す」とあり、ウィキペディアは、大分県の大分市・臼杵市・挾間町に特に多いとしている。 (製作中)

  • 下郡 しもごおり

    下郡 しもごおり。 昭和38年初版(昭和54年8版)太田亮『姓氏家系大辭典』には、「下郡 シモゴホリ 上總、陸奥等に此の地名あり」として、1大友氏族 2安部氏族 3 秀鄕流藤原姓があげられている。 〔大友氏族〕 下郡(しもごおり)は、豊後国大分郡判田郷のうち、大分川の右岸に位置する地名。貞治(一三六四)三年二月の大友氏時當知行所領所職等注進狀案(大友文書)には「下郡〈号判田郷〉」とあり、下郡は大分川を挟んで高国府と対する位置にある現・大分市下郡一帯に比定される。太田亮『姓氏家系大辭典』は、『下郡 シモゴホリ 上總、陸奥等に此の地名あり」とし、「1大友氏族 豐後の豪族にして、大友系圖に「大友能直の子帶刀左衞門尉時直(下郡と號す。下郡、鶴見、久保、得永、帶刀等の祖」とある後也』とある。 (製作中)

  • 志賀 しが

    志賀 しが。 〔大友庶子家志賀氏〕 弘長二年八月廿九日の大友式部大夫(頼泰)宛・尼深妙證狀案(志賀文書)に、「大のゝ太郎(基直)、しかの太郎(泰朝)、大ともにやしき一所つゝ給ハりて、かまくらのやとなとにもし候はんと申候ときに、大のゝ太郎にハ、あら八かたやしき、志かの太郎にハ、くわす次郎かあとのたやしきを、あてたひて候也、かやうにハはからひて候とも、それの御めいにたかひ候はんときハ、いかようにも御はからひにてあるへく候、あなかしこ、弘長貳年八月廿九日 尼深妙 在御判 大友式部大夫(頼泰)殿」とあるのが、大友庶子家志賀氏の信頼できる史料上の初見と思われる。 しかし、志賀初代とされる能郷は、それ以前の史料にもしばしば見える。 すなわち貞応2年7月25日の備後法眼幸秀去文(志賀文書)に、「豐後國安岐郷内諸田名事、本領主基貞・基秀等契約次第、先度令申候了、而以後..

  • 佐藤 さとう

    佐藤 さとう。 〔大友家臣〕 文明十五年四月廿二日の左藤利氏・首藤重泰連署坪付(三代文書)に、「左藤掃部助利氏(花押)」とあり、豊後国大野郡緒方荘二十貫分の坪付を打渡すにあたっての検使と思われる。 (製作中)

  • 斎藤 さいとう

    斎藤 さいとう。 斎藤氏は、藤原利仁の子・叙用が斎宮頭だったことにより斎藤と呼ばれ、その子孫が繁栄したという。 太田亮『姓氏家系大辭典』には、『藤原利仁の子叙用、齋宮頭たりしにより、世に齋藤と呼ばれ、子孫大いに榮ゆ。實に利仁流藤原姓諸氏の宗族と云ふべきか。而して加賀齋藤、弘岡齋藤、疋田齋藤、鏡齋藤、河合齋藤、長井齊藤、勢多齋藤、吉原齋藤等の諸流あり、各條を見よ。この氏の系圖は尊卑分脈に「時長(鎭守府將軍)―利仁(鎭守府將軍、母は越前國人秦豐國の女)―叙用(齋藤の號は叙用に起る。齋宮頭に補せらるゝに依り、世に齋藤と號す。齋藤黨等の祖。藏、齋宮寮頭、從五位上。母輔世王の女。叙用の外祖也)―吉信(一本吉備。中務權少甫、加賀介、從五下)―忠賴(周防介、加賀介、從五位下。賀州に住す。子孫・今世多流相續。齋藤の號は當流の孫也。富樫、林、進藤、赤塚、疋田、竹田、已下、此の末流。加賀齋藤..

  • 小比賀 こひが

    小比賀 こひが。 「をびが」とも読む。 江戸時代後期の本草家・和算家に、小比賀時胤(こひが・ときたね 生没年未詳)がいる。時胤は、和算を讃岐国高松の多田弘武に学んだという。 文化二(1805)年十二月、小比賀時胤は、長崎で『蕃薯解』を著した。彼は、長崎の地役人であったともいう。長崎の地役人というのは、長崎の市政および貿易などに携わった町人出身の土着の役人で、世襲が原則であったという(平成8年12月、内田和義「(甘藷記)解題」『日本農業全集』70、農山漁村文化協会)。 文化七年条 広瀬淡窓「懐旧楼筆記」に、西国筋郡代羽倉の属吏として、小比賀重五郎が見え、文化十年二月廿八日条「天草近代年譜」(昭和29年9月、林銑吉『島原反半島史』下巻)に、「旧臘内達の天草支配替に付、後支配は長崎代官、高木作右衛門忠任の兼攝と決定、是日、長崎方出役人松次鉄蔵、松山森兵衛、小比賀重五郎等、..

  • 合志 ごうし

    合志 ごうし。 合志氏は、佐々木高綱の後裔で、延元二(1337)年に長綱が、肥後国合志郡の延暦寺領管理のため下向し、同郡真木村に居住して合志氏を称した。 南北朝時代に、合志幸隆は、北朝方の有力武士として、建武三(1336)年、小代吉宗に命じて、菊池の諸城を攻めた。 のち、守護菊池氏の直轄武士団となった。 永正期(1504~21)、伊賀守隆岑が合志郡竹迫(たかば)城に移った。 天文十九(1550)年、合志親賢(親為)は、一時、菊池義武に味方し、入国の豊後勢を破った。永禄四(1561)年の相良・名和の和平を仲介した。 天正十(1582)年頃、龍造寺・島津両氏が肥後に進出。 この頃、合志親賢(親為)は、新納忠元に攻められ、降服した。 天正十三年、合志親為(親賢)は、八代で病死した。 子隆重も島津勢に捕らわれて殺害さ..

  • 竃門 かまど

    竈門 かまど。 弘安八年九月の豊後國大田文案(平林本)に、「御家人竈門又太郎貞繼法師〈法名道善〉」とあるのが、竈門氏の信頼できる史料上の初見。竃門氏の本姓は大神氏とも宇佐氏ともいわれるが未詳。なお、地名「竈門」は、天平5年頃成立の『豊後國風土記』速見郡の項に、「赤湯の泉〈郡の西北のかたにあり。〉此の湯の泉の穴は、郡の西北のかたの竈門山にあり。其の周りは十五丈ばかりなり。湯の色は赤くして埿あり。用ゐて屋の柱を塗るに足る。埿、流れて外に出づれば、變りて淸水と爲り、東を指して下り流る。因りて赤湯の泉といふ」とあるのが、史料上の初見。 (製作中)

  • 賀来 かく

    賀来 かく。 加来とも書く。豊後国大分郡賀来に由来する。 長寛二(1164)年九月三日の由原宮宮師僧院清譲状(柞原八幡宮文書)に、「新立仁王講田〈一丁/在賀來〉」とあるのが地名「賀来」の信頼できる史料上の初見。 「大神系図」(東京大学史料編纂所影写本)には、惟基の第五子惟盛が「緒方 九郎大夫 緒方 戸次 佐伯 堅田 加来 臼杵 佐賀 野尻 高野 等之祖」とあるが、この史料は信憑性に難があり慎重な検討を要する。 嘉禄二(226)年八月十八日の関東下知状案(柞原八幡宮文書)に、「豊後国賀来社訴申、地頭鬼丸(賀来惟綱)濫行条々事」とあり、賀来惟綱は豊後国賀来庄地頭であった。 中世、豊前中津の大畑城主は加来氏であった。加来城は、緒方惟栄が平氏追討のために造ったというが、これは裏付ける史料があるわけではない。 弘治三(1557)年、加来壱岐守は、宇都宮庶家山田..

  • 大部 おおべ・おおぶ・おおとも

    大部 おおべ・おおぶ・おおとも。 享保六年七月成立の木付春磧『豊陽志』の「御一族六十二家之事」の項に、大部がみえる。現大分県日田市に「大部町」があるも、大部氏については、未詳。

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