トッシー さん プロフィール

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トッシーさん: take it easy
ハンドル名トッシー さん
ブログタイトルtake it easy
ブログURLhttp://deathsizehel.blog19.fc2.com/
サイト紹介文歴史・戦略・日々学習したことを書いてます。
自由文自分の解釈で書いてる部分もありますが、是非見て感想頂けたらうれしいです
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供0回 / 365日(平均0.0回/週) - 参加 2014/01/04 02:01

トッシー さんのブログ記事

  • 清原一族
  • 年末は忙しくブログの更新ができませんでしたが、年も明けたことですので再開したいと思います^^;今回は前九年の役の中での清原一族について、まず清原一族とは、つねに倭人に顔を向けて世を渡ってきた特性を持つ蝦夷(えみし)である。つまり、蝦夷という危うい立場の利害得失を考える際、朝廷権力の代行的立場をとることで、一族の繁栄を図ってきたというのが清原一族の特質である。朝廷は、「夷を以って夷を征する」という [続きを読む]
  • 安倍崩し(2)
  • 正任を味方に引き入れる為、源頼義は照任が一人で和賀の極楽寺に出向いた目立たない機会をとらえ、照任に対し密使を送った。密使から照任に伝えられた内容とは「安倍と朝廷との戦、今は膠着状態が続いていますが、いずれ十万の兵を動かす時が来ます。そうなれば結果は見えているでしょう。正任殿がどちらにつくのが利か、考えるまでもないでしょう」密使はそこまで言うと、黄金の粒の入った小箱を押しやりこう続けた。「正任殿が [続きを読む]
  • 安倍崩し
  • 源頼義は黄海の惨敗から陸奥守の二度目の任期切れを迎えた。頼義は、戦は下手だが、政治工作は得意分野であり、任期切れをただ待っていたわけではなかった。まともに戦いを挑んでも勝てない事は明らかになったことで、以前にも増して安倍一族の内部崩壊と奥羽山脈を挟んだ東西の蝦夷の分断と対立を画策していた。当然頼義は、五郎正任を狙った。以前にも書きましたが、正任は安倍一族頭首の貞任と同じ歳なのに五男にまで格下げさ [続きを読む]
  • 黄海の戦い(3)
  • 源義家が先陣を切り、自ら黄海への道を拓こうとしたとき、信じられない第二波の攻撃がやってきた。雪煙の山の斜面に、突然数十本の丸太が起ち上がったのである。源氏軍は檻のように囲まれたと思ったが、檻ならまだよかった。起ち上がった丸太が自分たちに向かって倒れて来た。これは、正任軍の戦いを読み、それを囮にして貞任達本隊が仕掛けて置いた罠だったのである。貞任は源氏が北上する時、ここを通ると読んでいて、その予想 [続きを読む]
  • 黄海の戦い(2)
  • 厳しい吹雪と寒さの中、黄海柵を目指し北上する源氏軍千五百。目標まで二里(約千百メートル)の地点にたどり着いたところで、休息をとった。こんな日に攻めて来る事がないだろう時に攻めてこそのゲリラ戦法であり、攻める側の源氏としてはこんな日に見張りが出ていることもないだろうと、千五百人が一塊になって暖を取り休息していた。前方は相変わらずの吹雪で視界を遮っている。そんな中、源氏軍最後尾にいたみはりが、「今鹿 [続きを読む]
  • 黄海の戦い
  • 1057年12月。源頼義は黄海柵(きみのさく)を目指していた。そこに安倍五郎正任がいた。黄海柵は安倍の守護する衣川柵から直線距離で30キロあまり。安倍正任は勢いに任せてそこまで孤軍で突出していた。黒装束に身を固めた正任軍は連戦連勝で悪鬼のように恐れられた。理由はその残虐性で、正任軍の通った後には生首の林ができ、源氏の兵の死体の腹を暴き、手足をもぎ取り、その手足を編んで橋を渡したという。この残虐性は当然安 [続きを読む]
  • 前九年の役の発端
  • 前九年の役が起きたのは、一〇五一年。起こしたのは当時の陸奥守だった藤原登任(のりとう)。先日紹介した陸奥話記によれば、安倍頼時が増長しているという報告を藤原登任から朝廷に送ったとされている。1 奥六郡の外にまで影響力を発揮している2 税金を納めない3 労役も果たさないこれが事実であれば征伐されても納得なのだが、今日の歴史家でこの記述を鵜呑みにしている人は少ない。実際は、陸奥守の任期切れを間近に藤原登 [続きを読む]
  • 安倍一族?
  • 安倍一族盟主である安倍貞任、二十九歳。鳥海(とのみ)の柵主だった三郎宗任(むねとう)二十七歳。そして黒沢尻の柵をあずかる五郎正任(まさとう)。三人は広大な厨川の柵に集まり、対源氏の作戦会議をしていた。五郎正任だが実は盟主貞任と同じ二十九歳で貞任、宗任とは異母である。なぜ父頼時が正任を次男ならともかく五男としたのかは理由があった。頼時は蝦夷と朝廷との間に立ち巧みにバランスをとり安倍一族の繁栄を築い [続きを読む]
  • 安倍一族
  • 安倍貞任(さだとう)その居城であった厨川の柵名から厨川次郎貞任と言われている。二十九歳の頃、父、安倍頼時が暗殺され家督を継ぎ、安倍一族の盟主となった。他の蝦夷からは「奥州の王」とも呼ばれていた。盟主といっても安倍一族は人を人に仕えさせない。すべての者は等価値。だから盟主といっても最高位の者という認識はなく、呼び名は盟主であっても本人も一族の者も、君臨しているという感覚はない。蝦夷とは、根本的に、 [続きを読む]
  • 前九年の役
  • 今日からだいぶ長編となる記事を書いていきたいと思います。前九年の役(1051〜1062)とは、一般的に、平安中期、陸奥国の蝦夷の覇王安倍氏の反乱を源氏が鎮圧した出来事として歴史の授業で習っていると思います。真実はどうだったのでしょうか。この合戦の始終を伝える唯一の文書は、陸奥守であった源頼義が中央政府の朝廷に提出した報告書と源氏軍兵士からの伝聞の二つをまとめた「陸奥話記」である。自分たちのやった [続きを読む]
  • 桶狭間の合戦での勝因(2)
  • 織田信長勢が今川の本陣に突入したとき、今川の旗本本陣にいたのは五千人だった。そこへ二千人で突っ込み、「仲間割れだ!」という大声を発した。今川勢はもともとが寄せ集めの軍団だったため、たちまち同士討ちをしてしまい、それによって五千人のうち、二千六百人も殺されるような大失態を演じてしまったのである。ゲリラと本職の侍とは全く違う。譜代衆というのは正統派のインテリであり、彼らは戦術も知っていれば、戦場での [続きを読む]
  • 桶狭間の合戦での勝因(1)
  • 武田信玄は流浪の浪人衆を侍大将にし、それで大騎馬隊をつくった。ところが信長は、地下人を使った。地下人とは百姓、町人のことで、地下人を使った大名というのは日本でだれもいなかった。信長はなぜ地下人を使ったのかというと、超えられないような坂を越えるためには、譜代衆と地下人を使わなければならなかったからで、車の両輪として使わなければ絶対越えられない事を知っていたからです。桶狭間の合戦のとき、今川勢は二万 [続きを読む]
  • 雑賀孫市のお墓が茨城に
  • 昔仕事で茨城の水戸に少しだけ住んでいた事があるのですが、ひたちなか市だったと思いますが、雑賀孫市のお墓と書かれた案内板みたいのを見た事があり、なんとなくそれを思い出しました。当時、雑賀孫市のお墓が茨城にある意味がわからなく、ガセネタだろうとか思ってました。織田に負け知らずで、最強の鉄砲集団雑賀衆の頭領であった雑賀孫市(本名 鈴木孫市)が水戸藩などにゆかりもなく、なぜここにあるのだろうと不思議でし [続きを読む]
  • 心服させるには?
  • 人を心服させるには、条件は5つだけです。人間関係なしにはこの世は成り立たない。戦争であれ、ビジネスであれ、それは変わらない。人間関係のあるところ集団がある。ただし、集団ということになると、人間関係というより力関係と言ったほうがしっくりくるかもしれない。個々人よりも集団のほうがたやすく動くといえる。集団には独特の心理があり、そこを突けば流れができ、流れの中に個人は埋もれやすいからである。集団心理の [続きを読む]
  • 頼朝の後の鎌倉幕府(完)
  • 後に源実朝の死によって将軍の座が空白となってしまいます。そこで北条政子が尼将軍として「鎌倉殿」の代行をすることになった。しかし、いくら飾り物でも幕府の象徴として将軍は必要でした。そこで政子は朝廷に皇族の一人を将軍として派遣してくれるよう要請しましたが、かねてから幕府に対して反感を持っていた後鳥羽上皇は承知しない。結局、この件は公卿の九条道家の子三寅を鎌倉に下すことで決着した。そして承久三年五月、 [続きを読む]
  • 頼朝の後の鎌倉幕府(5)
  • 頼家の弟千幡が擁立され、十一歳で三代将軍実朝となった。そして北条時政が執権として幕政の中心に座り、少年将軍である実朝は時政・政子父娘の傀儡にすぎなかった。政子の一連の動きをみると、同じ息子である頼家と実朝二人に対する態度に差があり過ぎるように思う。おそらく子供の情よりも幕府の組織のほうが大事と割り切っていたのではないか。そう思う理由として、後ほどある事件が起こる。時政は若い後妻の牧を溺愛していた [続きを読む]
  • 頼朝の後の鎌倉幕府(4)
  • 怒った比企能員は、この事態を娘の若狭局を通じ頼家に報せた。この時の頼家は奇跡的に病状を持ち直していて、能員とともに打倒北条氏を画策しはじめた。ところが、この動きはすぐに北条方の耳に入ってしまった。幕府の記録である「吾妻鏡」には、政子が障子の陰でこの話を盗み聞き、時政に報告したしたとあるが、頼家も能員もそこまで迂闊なことをするとは思えない。おそらく比企氏方に北条氏のスパイがいたと考えるのが自然であ [続きを読む]
  • 頼朝の後の鎌倉幕府(3)
  • 政子に叱責された頼家。それでも頼家はあくまでも父頼朝のように「鎌倉殿」の権威を振るいたい。そして翌年正治二年になると、土地の訴訟の判決権だけを取り戻した。ところが、重臣の畠山重忠の領地争いの裁決の時、いきなり墨で線を引いて境界を決めるという乱暴な裁決をしてしまった。また、自分の取り巻きに有利な判決ばかりを出していたため、御家人たちの心はたちまち頼家から離れていった。さすがにこうなると政子も考えざ [続きを読む]
  • 頼朝の後の鎌倉幕府(2)
  • 鎌倉幕府は、北条政子にとって、父時政の力を借りて、夫頼朝とともに苦労して築き上げたものという意識があったため、それをそっくり横取りしようという比企氏に対して釈然としないものがありました。政子は父時政と相談し、弟の北条義時、比企能員、三浦義澄、和田義盛、梶原景時らの重臣13名の合議制で幕府を取り仕切ってゆくことにした。建前では若い頼家をみんなで補佐していこうというものでしたが、本音はそうする事によ [続きを読む]
  • 頼朝の後の鎌倉幕府
  • 北条政子といえば、悪妻の見本のように言われています。確かに彼女は嫉妬深く気性の激しい女性だったようである。頼朝が囲っていた妾の家を叩き壊すくらいのことは平気でやっていた。しかし、それはあくまでも夫婦間の話で、夫である頼朝の生存中には政治向きのことまで首を突っ込むようなことまでやっていなかった。彼女が政治の舞台に登場したのは正治元年(1199年)に頼朝が死んでからのことでした。その原因を作ったのは二代 [続きを読む]
  • 考える心
  • 考える心のある人とない人。同じ小さなミスをして、上司から、それかそ烈火のごとく怒られる部下もいれば、「お前らしくないな」と大目に見られる人がいます。それはなぜか、許される部下は、ミスを教訓に、以前よりいい仕事をする体勢を日ごろから整え上司に見せつけている。怒られる部下は、何度注意しても同じような凡ミスを繰り返しているはずです。これでは、ビジネスという戦場に行く前に負けているようなものです。日ごろ [続きを読む]
  • 情報を得るために
  • 「初めは処女の如くにして、敵人門戸を開き、後は脱兎の如くにして、敵人防ぐに及ばず」 孫子 九地篇より意味はじめは世間知らずの乙女のように静かに振舞う。それを間に受けた敵は、ついつい油断する。うまくいったと見たら、次の瞬間、素早く走る兎のような勢いで攻撃をしかける。すると敵は防ぎようがなくなってしまう。駆け引きというのは、そのときそのとき、あるいはその場その場の情勢に応じて、巧みに自分のほうが有利 [続きを読む]
  • 主体性と柔軟性
  • 世の中の物事は常に変化するもので、絶対不変のものはないと以前に書かせていただきました。孫子の考え方では、状況の変化を自然に受け止めるものであり、極端に言えば流れに身を任せるということです。しかし、変化を自然に受け止めるのはいいとして、状況がこう変わったからこちらもこう変わる。それを繰り返してしまうと風向きによってどう変わるかわからない。頼りないものになってしまいます。ですが、そこはさすがに孫子き [続きを読む]
  • 成功・失敗
  • 好敵手同士が争う場合に、よく見られる不思議な現象で、前回の勝者が次回の敗者となることがあります。そうなる原因として、勝者が勝った原因を確かめないからです。偶然の幸いによる成功、相手の過失による勝ちを錯覚してしまって、自分の実力もまんざらでもないな・・・。などとうぬぼれるから、すぐその次に失敗するのです。逆に、負けたからといって落胆せず、負けや失敗を繰り返した上で成功することにより、価値がある実験 [続きを読む]
  • 人は城 人は石垣 ・・・・・・
  • 『人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり』この言葉は武田信玄が言ったと思っている方が多いようですが、これは信玄の考え方や言動などから後世に付け加えられた言葉のようです。では、信玄の考え方とはどうだったのか、「甲陽軍艦」によると、信玄の居城であった躑躅ヶ崎館は小さく、家老衆が集まって、城があまりに小さく粗末すぎると意見したことが記されています。これに対し信玄は「国持ちが城に籠って運を開い [続きを読む]