ふらふら侍 さん プロフィール

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ふらふら侍さん: 歴史の舞台に立つ
ハンドル名ふらふら侍 さん
ブログタイトル歴史の舞台に立つ
ブログURLhttp://ameblo.jp/rekishinobutai/
サイト紹介文歴史上の人物が関わった史跡を撮影して時系列で紹介しています。史跡めぐりの際 役立つと思います。
自由文かなり相当史跡めぐりしました。城跡、古戦場跡、寺社などなど。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供366回 / 365日(平均7.0回/週) - 参加 2014/02/12 17:04

ふらふら侍 さんのブログ記事

  • 龍馬を育てた道
  • 龍馬が幼少の頃姉乙女と遊んだ鏡川。暗殺の1ヶ月前郷土に帰った時もこの地に立ち寄ったのかもしれませんね?昔の自分を懐かしく思いながら。。。剣術を習うとき通った道。。。この先にあった日根野弁治道場。 水天宮のあたりにあった河田小龍邸を訪ねては国際情勢について教えを乞うた龍馬。 鏡川に沿った細い一本の道に日根野弁治道場、河田小龍邸がありますが、龍馬を育てた道と言っても過言ではないような気がします。 [続きを読む]
  • 松林寺
  • 【概要】京都・近江屋にて坂本龍馬を暗殺したのは見廻組と言われています。佐々木只三郎(見廻組与頭)、桂早之助(龍馬を斬った人物)ら7人が定宿にしていたのが松林寺です。 【松林寺(しょうりんじ)住所】京都府京都市上京区智恵光院通出水下ル分銅町575 [続きを読む]
  • 鳥新
  • 暗殺される直前、龍馬が軍鶏鍋を食べたいと言ったのは有名ですが、軍鶏を買いに行った先は鳥新と言われています。移転したため当時とは場所が異なります。 軍鶏鍋で一杯やりたかったことでしょうね。写真上の軍鶏鍋は池田屋で撮影しました。 [続きを読む]
  • 龍馬暗殺
  • 【概要】慶応3年(1868年)11月15日、坂本龍馬は、醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階で中岡慎太郎と話し合っていました。押しかけた十津川郷士と名乗る男達数人に襲撃され33年の生涯を閉じたのです。 【住所】京都府京都市塩屋町 [続きを読む]
  • 中根雪江宛ての書簡
  • 大政奉還後、龍馬は新しい国家作りに奔走。福井藩の家老・中根雪江に送った書簡。 松平春嶽の参謀である中根雪江は師質(もろかた)という名前を持ちながら、雪江を名乗った人物です。そもそも雪江は、靭負の当て字と思われ、薩摩藩家老平田靭負(ゆきえ)、武州忍城主 成田氏長の家臣坂巻靭負(ゆきえ)。と、いなくはなかった名前でした。もっとも官職名として「靭負」を使っていた可能性も否めません。「靭負」とは、宮中を [続きを読む]
  • 酢屋
  • 京都における海援隊の活動拠点である酢屋(すや)。 【概要】慶応3年(1868年)11月5日坂本龍馬は、京都の酢屋に入り「新政府綱領八策」を草案します。 【住所】京都府京都市中京区河原町三条下ル龍馬通 新政府綱領八策・・・大政奉還後の新しい国家構想を8ヶ条にまとめて書き上げたもの。 [続きを読む]
  • 大政奉還
  • 大政奉還が行われた二条城二の丸御殿 【概要】慶応2年(1867年)10月3日後藤象二郎は、二条城に登城して、老中・板倉勝静に大政奉還建白書を提出します。政権を朝廷に奉還することを幕府に提案するというもので、将軍徳川慶喜が受諾するか不透明な状況でした。10月13日徳川慶喜は二条城に諸藩重臣を集め大政奉還を諮問。10月14日明治天皇に上奏。10月15日勅許が下されます。 [続きを読む]
  • 今生の別れ
  • 慶応3年(1867年)9月20日坂本龍馬は京都から下関に戻り、お龍の待つ下関の伊藤助太邸に泊まり、お龍との至福の時を過ごします。9月22日下関を出帆(お龍との今生の別れとなります)土佐に向かい、9月23日姉・乙女など家族と対面します。10月5日土佐を離れ京都に向かいます。(姉・乙女との今生の別れとなります) 慶応3年(1867年)9月京都から伊藤助太家邸に戻ってきた龍馬をみて伊藤助太の妻は以下のように感じていたそうです [続きを読む]
  • 玉川亭
  • 【概要】慶応3年(1867)8月20日坂本龍馬は、長州藩士・木戸孝允・伊藤俊輔と玉川亭で政治情勢について意見交換します。このとき、木戸から長州藩船の修理費用の不足を相談された龍馬は、土佐商会に掛け合い資金を調達しています。 【住所】長崎県長崎市八幡町3-5 [続きを読む]
  • 藤屋
  • 【概要】土佐商会を監督する立場として長崎に赴任した土佐藩士佐々木三四郎は、坂本龍馬と気が合い、会合を重ねます。当時料亭は会談に利用されることが多く、藤屋もよく利用されたといわれます。 【住所】長崎県長崎市伊良林町一丁目8番 [続きを読む]
  • イカルス号事件 その1【花月】
  • 海援隊がよく利用した花月 【概要】慶応2年(1867年)7月6日夜、長崎でイギリス軍艦イカルス号の水兵、ジョン・ホッチングとロバート・フォードの2人が、泥酔して丸山の路上に寝込んでいるところを、筑前藩士金子才吉に殺害されました。金子才吉はその後自刃したうえ筑前藩が秘匿したため、該当時間に丸山・花月で遊んでいた海援隊の2名(菅野覚兵衛・佐々木栄)に嫌疑がかけられます。 【住所】長崎県長崎市丸山2-1 [続きを読む]
  • 中岡慎太郎寓居跡
  • 薩土討幕の密約締結を仲介した中岡慎太郎の寓居跡 【住所】京都府京都市中京区米屋町 今では抹茶館という人気喫茶店になっています。抹茶ティラミスを求めて3〜4時間待ちの行列ってすごいね。一角に中岡慎太郎の寓居跡の石碑。写真を撮ろうにも人が多すぎどうしても映ってしまったため、以前撮影した写真を使用しました。 [続きを読む]
  • 後藤象二郎寓居
  • 後藤象二郎寓居跡 【概要】後藤象二郎は、京都に出向し、建白書の形式で山内容堂へ上書しようとしますが、中岡慎太郎の仲介で薩土討幕の密約締結の動きがあったため、山内容堂は土佐に帰藩していました。 【住所】京都府京都市中京区河原町通三条下ル 京都での後藤象二郎寓居先は「壺屋」、龍馬の寓居先は「酢屋」。なんとなく興味深いね。 [続きを読む]
  • 三本木の料亭「吉田屋」
  • 薩摩藩と土佐藩との薩土盟約が結ばれた三本木の料亭「吉田屋」【概要】慶応2年(1867年)6月土佐藩は薩摩藩と会合を持ち、薩摩側からは西郷隆盛・小松帯刀・大久保利通、土佐側からは坂本龍馬・中岡慎太郎・後藤象二郎、佐々木高行らが参席。船中八策に基づいた王政復古を目標とする薩土盟約が成立します。【住所】京都府京都市上京区丸太町上ル東三本木通 [続きを読む]
  • 四候会議
  • 四候会議はこの地で行われた。【概要】いろは丸事件の談判を終えた龍馬と後藤象二郎は、いろは丸談判終結後京都に向かいます。京都では将軍・徳川慶喜および島津久光・伊達宗城・松平春嶽・山内容堂による四候会議が行われていて、土佐藩参政・後藤象二郎が山内容堂に呼ばれていたためです。後藤象二郎とともに長崎から藩船「夕顔丸」に乗船した坂本龍馬は、後藤に船中八策を提示します。 【住所】京都府京都市中京区西ノ京池ノ内 [続きを読む]
  • いろは丸沈没事件 その4【聖福寺】
  • いろは丸事件の談判が行われた聖福寺 【概要】鞆の浦の談判では決着がつかず、舞台を長崎に移し、談判が再開されました。衝突した原因と責任について、現在の国際法である「万国公法」で解決することを提案し、土佐藩参政の後藤象二郎までをも交渉に巻き込み賠償金支払いを勝ち取ります。 【住所】長崎県長崎市玉園町3番77号 [続きを読む]
  • いろは丸沈没事件 その1【大洲藩】
  • いろは丸を龍馬に貸した大洲藩の本拠、大洲城。 【概要】坂本龍馬率いる海援隊は、伊予国大洲藩が所有していた西洋式の蒸気船を借用します。船の名は「いろは丸」坂本龍馬は、一航海15日につき500両で借用したいろは丸に乗り込み、物資を積み長崎から大坂を目指します。1867年(慶応3年)4月のことです。 【住所】愛媛県大洲市大洲903 有限会社、合資会社、合名会社の定義を授業で習ったことあるけど、商店街の一角に固まってい [続きを読む]
  • 亀山社中&海援隊
  • 亀山社中と海援隊の違いについて簡単に説明します。 亀山社中☆薩摩藩の保護のもと設立された結社☆龍馬が起こした最初の結社 海援隊☆亀山社中を改編したのが海援隊☆土佐藩の支援を受けた結社 亀山社中は薩摩藩のための活動となり、海援隊は土佐藩のための活動となったのはある意味仕方ないことでしょう。そもそも海援隊は「海から土佐を応援する」との意味があったと言われています。 さらに言うと亀山社中を改編して誕生した [続きを読む]