ふらふら侍 さん プロフィール

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ふらふら侍さん: 歴史の舞台に立つ
ハンドル名ふらふら侍 さん
ブログタイトル歴史の舞台に立つ
ブログURLhttps://ameblo.jp/rekishinobutai/
サイト紹介文歴史上の人物が関わった史跡を撮影して時系列で紹介しています。史跡めぐりの際 役立つと思います。
自由文かなり相当史跡めぐりしました。城跡、古戦場跡、寺社などなど。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供366回 / 365日(平均7.0回/週) - 参加 2014/02/12 17:04

ふらふら侍 さんのブログ記事

  • 名島城
  • 【概要】小早川家を継いだ秀秋は、名島城に入城しますが、朝鮮出兵の失態により、越前北の庄に移封されることになります。30万7000石の名島から15万石ですから大減封。秀吉の晩年でのことで、秀吉が亡くなると、家康の尽力により、話は立ち消え。小早川秀秋は引き続き名島城統治を許されたのです。(家康は巧妙に恩を売っていますねえ。) 【住所】福岡県福岡市東区名島 [続きを読む]
  • 伏見城
  • 【概要】慶長3年(1598年)豊臣秀吉が死去します。秀吉亡き後は五大老五奉行による合議制運営を託されていたため、五大老の一角、小早川秀秋(小早川隆景のあとを継いだ)が、中央と毛利家の橋渡し役を託されることになったのです。 【住所】京都府京都市伏見区 [続きを読む]
  • 毛利元就の薫陶を受けた三子の実践度
  • 1557年に三子教訓状を通じて毛利元就の薫陶を受けたのは、長男である毛利隆元。次男である吉川元春。三男である小早川隆景。ですが、それでは毛利元就の教えをどのように守っていったのか?振り返ってみたいと思います。 ★一枚岩となり外敵と戦うこと。★天下取り、中央政権への関わりは、足元をおろそかにしないことが前提。 この2項目を毛利元就の教えと仮定して話を進めます。 まず長男である毛利隆元ですが、1563年に暗殺 [続きを読む]
  • 三原城
  • 【概要】豊臣政権での立場を不動のものにした小早川隆景(毛利元就三男)ですが、40過ぎても実子がいませんでした。秀吉は羽柴秀俊(秀吉の甥・のちの小早川秀秋)を養子に打診します。小早川隆景は、血縁関係がない人を後継にすることをためらいますが、秀吉の打診を断れるはずがなく、養子を受け入れ。家督を譲ったあとは三原に移ります。 【住所】広島県三原市城町 天守台から見た景色。なにこれ?線路が近い。三原城は三原 [続きを読む]
  • 朝鮮出兵
  • 朝鮮出兵の拠点となった名護屋城 【概要】文禄元年(1592年)から始まる朝鮮出兵に主力軍として派兵。秀吉の戦に積極的に参戦し、忠義をつくします。 【住所】佐賀県唐津市鎮西町名護屋 [続きを読む]
  • 広島城
  • 【概要】天正19年(1591年)毛利輝元は、居城を吉田郡山城から広島城に移します。城下町の形成が可能で、瀬戸内の水運を生かせる海沿いの地に居城を構えることにしたのでした。 【住所】広島県広島市中区基町 [続きを読む]
  • 九州討伐
  • 【概要】秀吉の四国攻めに従軍した毛利家は翌年の天正14年(1586年)の九州討伐にも従軍します。毛利輝元らは豊臣秀長を総大将とする日向方面軍に従軍。根白坂の戦いで大敗した島津は豊臣に屈することになり、秀吉の天下取りに大きく貢献することになるのです。 【住所】宮崎県児湯郡木城町陣ノ内 九州討伐には、毛利輝元(毛利元就の長男の長男であり元就後継)、吉川元春(毛利元就次男)、小早川隆景(毛利元就三男)が、参戦。秀吉 [続きを読む]
  • 四国平定
  • 伊予国の有力者・河野氏居城・湯築城 【概要】織田家の跡目争いである賎ヶ岳の戦いで秀吉が勝利すると、毛利輝元は、秀吉に人質を差し出し臣従。以降、秀吉の戦に従軍することになります。秀吉による四国攻めに毛利家も従軍。毛利家は伊予国の実力者たちを次々と撃退し、秀吉の四国攻めに貢献します。天正13年(1585年)8月のことでした。 【住所】愛媛県松山市道後町 道後温泉がすぐ近くにありますので、湯築城に行くときは道後 [続きを読む]
  • 安国寺恵瓊
  • 秀吉の備中高松城攻めで、織田と毛利の講和をまとめあげたのが安国寺恵瓊。3国割譲と城主清水宗春の首と引き換えに講和をまとめます。 ※安国寺恵瓊は、毛利家のかつての宿敵武田家の人物。毛利に追われ、安国寺に逃げ出家したあと、東福寺の竺雲恵心の弟子になることで、竺雲恵心に帰依していた毛利家とつながりを持つことができ、毛利家の外交僧となっていったのでした。 【住所】広島県広島市東区牛田新町3-4-9和睦の際、出 [続きを読む]
  • 備中高松城
  • 【概要】天正10年(1582年)秀吉は、備中国に侵攻。低質地にある沼城・備中高松城攻めに苦戦するも、水攻めに活路を見出し、12日間で堤防を築きます。毛利の援軍4万の兵がきたときにはどうこうできない状態になっており、敢えなく落城。城主・清水宗春の切腹と引き換えに講和を成立させたのでした。 ※清水宗春は、備中国を支配していた三村家の譜代・石川氏の重臣でありながら、三村家と毛利家が戦ったとき、毛利家に寝返り、 [続きを読む]
  • 鳥取城
  • 鳥取の飢え殺し(かつえごろし)の舞台となった鳥取城 【概要】但馬を攻略した秀吉軍は、因幡に攻め込んできます。因幡の守護・山名氏の居城の鳥取城は難攻不落とはいえ秀吉軍に包囲され絶対絶命。秀吉に投降しようとする山名豊国は家臣団により追放され、家臣団は毛利家に吉川家の派遣を要望。吉川経家が城主として鳥取城入りします。(吉川経家は安芸吉川家の分家・石見吉川家当主)秀吉は、鳥取城を包囲した上、兵糧攻めで落 [続きを読む]
  • 山中鹿之助が切望した七難八苦。
  • 山中鹿之助の名言「願わくば、われに七難八苦を与えたまえ。」は、尼子再興を期して発した言葉でした。相当の覚悟を持っての発言であったことは、その後の山中鹿之助の行動からも明らかです。 尼子残党として毛利家に戦いを挑んだ山中鹿之助の覚悟は、毛利にとって実に厄介なことになりました。それでは、山中鹿之助の七難八苦およびその成果を振り返ってみたいと思います。 【1つ目の難】尼子家滅亡に伴い、牢人として不遇の時 [続きを読む]
  • 上月城
  • 本丸 【概要】天正5年(1577年)織田信長は、毛利家が所有する中国地方に侵攻します。播磨・但馬を平定し、毛利の東上コースをふさいでしまいます。さらに美作国・備前国の境にある西播磨の上月城も陥落、尼子残党率いる山中鹿之助に城守を託します。天正6年(1578年)毛利軍は奪還を目指し上月城に大軍を派遣。別所長冶の離反により、織田軍は上月城から撤退せざるをえなくなり、上月城は毛利の手に落ちたのでした。 【住所】兵 [続きを読む]
  • 石山本願寺
  • 【概要】元亀元年(1570年)石山本願寺は挙兵し、織田信長との対決姿勢を判明にします。石山合戦は、本願寺と織田軍の戦いにとどまらず、有力大名も巻き込んだ大掛かりな戦となります。毛利軍は、石山本願寺の要請を受け、木津川に水軍を派遣。木津川口の戦いで、織田軍を撃破。織田軍を敵に回すことになります。 【住所】大阪府大阪市中央区大阪城1-1 [続きを読む]
  • 備中松山城登城
  • 登城坂の周囲は、高さ10m以上の巨大で切り立った岩壁がそびえ、昔日のつわものたちが苦戦した”難攻不落の城が、備中松山城です。 つわものどもが夢のあと。在りし日のもののふの鼓動を感じて。 登城を許す。しっかり励め。登城心得に従って登城するのじゃぞ。 天然の巨大な岩盤を利用し、その上に積み上げられた石垣と白壁が特徴の「追手門跡」。 [続きを読む]
  • 備中松山城
  • 難攻不落の備中松山城 山陰と山陽を結び、東西の主要街道も交差する要地であるため、戦国時代は激しい争奪戦が絶えなかった城です。 【概要】備中国の覇権争いから抜け出すため、三村家は毛利家の傘下となり、備中松山城を拠点に備中一国を勢力下におさめていました。毛利が宇喜多と同盟を結んだため三村家は毛利家を離反、織田家を頼るようになります。(※三村家当主元親の父親は宇喜多直家に暗殺されていたため同盟に憤慨した [続きを読む]
  • 毛利元就の教え
  • 毛利元就の教えとして三子教訓状が有名です。3人の子供で力を合わせてものごとをなしとげようとするのが、三子教訓状なら、「百万一心」は、「国人が皆で力を合わせ、ものごとをなしとげようとすること。 毛利のいうところの「ものごとをなしとげる」は、お家の存続を指します。毛利元就が生まれた頃の毛利家はいつ潰れてもおかしくない状況。立場を同じくする近隣の国人衆と助け合いながら生きていくしかなかったため、自力で生 [続きを読む]
  • 布部合戦
  • 【概要】第二次月山富田城の戦いで毛利元就に敗れ、尼子家は滅亡するのですが、尼子残党は尼子勝久を還俗させ擁立し、尼子復興を目指します。元亀元年(1570年)尼子再興軍とそれを阻止しようとする毛利軍との間に戦いが勃発します。激戦の果て、尼子残党は総崩れとなります。布部山(ふべやま)での戦いでのことでした。 【住所】島根県安来市広瀬町 [続きを読む]
  • 大内家と尼子家の狭間の中で
  • 毛利元就の時代の毛利は、大内家と尼子家の間をうまく渡り歩いて中国地方の覇者になっていきましたが、時系列で推移を振り返ってみたいと思います。 その前に大内家、尼子家、そして武田家を軽く説明することにより、弱小毛利家がどのように大変だったか?推測の材料にしていただく思います。ちなみに毛利元就生誕の頃の毛利家は安芸国の一国人にしか過ぎず、いつ滅ぼされてもおかしくない立場でした。 大内家鎌倉時代から周防の [続きを読む]
  • 石見銀山
  • 【概要】大内vs尼子。毛利vs尼子の戦いは、石見銀山を巡っての戦いと言っても過言ではなく、尼子を破った毛利は石見銀山を奪還。石見銀山を整備することにより、財力を得、中国地方の覇権を確固たるものにしていきます。 【住所】島根県太田市 ※山吹城&石見銀山を巡る毛利元就VS尼子晴久の戦いは壮絶な戦いの連続でした。1566年5月山吹城主刺賀長信の臣従に伴い山吹城&石見銀山を支配下にした毛利元就ですが、尼子晴久 [続きを読む]
  • 山中鹿之助
  • 毛利軍の月山富田城攻めにより尼子家は滅亡。義久(元・当主)ら3兄弟は幽閉されることになりました。尼子家の家臣・山中鹿之助は、尼子家再興を誓い行動に移します。 山中鹿之助が三日月に向かって言った名言「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」 は、あまりにも有名です。 毛利は、山中鹿之助率いる尼子残党に苦しめられることになります。 [続きを読む]
  • 月山富田城(がっさんとだじょう)
  • 【概要】永禄3年(1560年)尼子家当主晴久が死去すると、2年後の永禄5年(1562年)尼子攻めのため出雲侵攻を開始します。晴久の跡を継いだ尼子義久は、難攻不落の月山富田城に籠城。毛利元就は、月山富田城を包囲、兵糧攻めを行うかたわら、調略で月山富田城を落城させ、中国地方の覇権を握ることになります。永禄9年(1566年)11月のことです。 [続きを読む]