なこそ むかし さん プロフィール

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なこそ むかしさん: いわき市勿来地区地域史
ハンドル名なこそ むかし さん
ブログタイトルいわき市勿来地区地域史
ブログURLhttp://nakoso-mukashi.blog.jp/
サイト紹介文福島県いわき市勿来地区の歴史を紹介致します。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供4回 / 365日(平均0.1回/週) - 参加 2014/03/07 11:58

なこそ むかし さんのブログ記事

  • 過去の記事 …
  • ショック!! 常磐の石炭は低品位だったの?
  • 2 エネルギー政策の転換と石炭活用(1) 常磐炭の活用方法を検討? 低品位炭を取り巻く環境日本ではまとまって石油が採取できる油田と称される場所はなく、戦前からすでに戦争を継続するうえで大きな足かせとなった。石油の不足は戦後にあっても同じで、精製工場の設置も認められなかった。昭和24年(1949)7月に至り、ようやく連合国軍総司令部(GHQ)の禁止解除によって太平洋精油所が開設されたばかりだった。一方、ドッジ・ライン [続きを読む]
  • えっ! 勿来地区にも映画館があったの?
  • (2) 生活スタイルを変えたテレビ? テレビの登場昭和16年(1941)12月、日本放送協会(現NHK)平放送局は50wの出力でラジオ放送を開始した。昭和28年(1953)12月にはこの年6月に建設した平放送局舎から地元に密着したラジオ放送を開始した。ところが、音だけでなく映像を届けるテレビが登場。昭和28年(1953)2月に国内でテレビ放送が始まった。県内で東京からの電波をキャッチし、テレビ受像契約第1号となったのは昭和29年(1954)4月 [続きを読む]
  • 路線バスの黄金時代があった!! 幻の鉄道計画と国鉄バス
  • むかし、路線バスの黄金時代があった!! 幻の鉄道計画? 国鉄バス(植田−磐城石川)の運行時代は遡り、大正11年(1922)4月、原敬内閣は全国に鉄道網を確立させようと、改正鉄道敷設法を公布し、具体的に全国149項目(178路線)を公表し、このなかに「石川ヨリ植田ニ至ル鉄道」(『いわき市勿来地区地域史2』147、148ページに記述)が盛り込まれた。この決定は沿線住民に期待感を抱かせ、以降、予定線ルートの沿線住民は鉄道建設へ [続きを読む]
  • むかし、勿来の一部は北茨城の電話局に繋がっていた?なぜ??
  • ? 電信・電話の発達第二次世界大戦下の電信・電話は、機密保持と人員・物資の不足のため、その利用が極度に制限され機能を失った。電信・電話に関する復興は昭和21年(1946)に逓信省が計画した通信復興三ケ年計画で方針が示された。このなかでは電話の復旧、電報、市外電話の敏速化、通信回線施設の再編成などが盛り込まれた。昭和20年代のはじめ、電話および電報の取扱所は別々に設置されることが多く、いずれも郵便局への委託に [続きを読む]
  • たび重なる水害に襲われた鮫川流域の過去とは?
  • (2) 災害を契機に進む、鮫川の河川改修? たび重なる水害に襲われる鮫川流域山地の多い、しかも急峻な地形を流れる日本の河川は、いずれも急流となって狭い平野部に流れ海に注いでいる。これに台風、梅雨などの大雨をもたらす気象条件が加わると、水害は甚大なものとなった。河川の水害を防ぐことは、鮫川に限らずいずれの河川にとって大きな課題であった。沿岸の各町村は治水を巡って川との戦いに明け暮れた。鮫川流域において [続きを読む]
  • 陸前浜街道と旧6号国道が離れている理由は?
  • (1) 進む国道6号の整備? 幹線道路の整備といわき地方ア 残された植田−湯本の国道整備本格的な道路整備については、大正9年(1920)4月、「道路法」が施行(『いわき市勿来地区地域史2』148〜150ページに記述)されたことに伴い、東京−仙台が第6号国道に指定された。整備については、まず昭和11年(1936)に夏井川に架かる平神橋、次いで昭和14年(1939)に鮫川に架かる鮫川橋が、それぞれ架橋されてスタートした。その後、戦時下、 [続きを読む]
  • 【豆知識】いわき市と北茨城市の水道管は今も繋がっている!!!
  • ? 茨城県へ配水した勿来町上水道勿来町では石炭産業の発達により人口が増え続け、これに伴う社会資本整備の一環として上水道の整備が望まれたが、戦時下、多額の資本投下ができず、町民は井戸水を利用せざるを得なかった。戦後、上水道整備の機運が高まり、昭和22年(1947)7月開会の勿来町議会において、調査設計の実施についての議案が可決された。計画では、計画給水人口2万人として、水源を鮫川支流の四時川、川部村大字小川に [続きを読む]
  • 脱脂粉乳って知ってますか?むかしの学校給食
  • ? 学校給食の推進ア 学校給食の整備過程と模索学校給食は昭和7年(1932)、恐慌後に貧困で欠食に苦しむ児童を救済するための学校給食に、国庫補助を入れたのが始まりで、昭和15年(1940)からは栄養不良や虚弱児童も対象となったが、戦時下、食糧難によりほとんど対応できなかった。戦争終了後の昭和21年(1946)12月から、アメリカの宗教団体や労働団体などによるララ(アジア救済団体)や連合国軍総司令部(GHQ)の放出物資、国 [続きを読む]
  • 意外?勿来地区にも炭鉱があった!・・その2
  • ? 石炭産業優遇策と勿来地区の炭鉱ア 炭鉱への住宅優遇施策勿来地区では、大日本炭礦?が国の指定炭鉱と位置づけられた。国が私有の炭鉱経営内容にまで踏み込み、管理しようとするもので、これが傾斜生産方式を円滑に展開させる基礎となった。具体策の一つは、不足している住宅と食糧を充足させることにより、炭鉱労働力を確保して生産意欲を高めようとすることであった。住宅については、昭和22年(1947)1月の閣議において「炭 [続きを読む]
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