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2014/03/30

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  • 大映第14期ニューフェイス研究

    大映第14期ニューフェイスについて、micahさんから資料をご提供いただいた。ご両親が揃って14期生で、元大映の俳優さんなのである。沢善郎さん 藤野千佳子さん残念ながらお二人とも既に亡くなられているので詳しい情報は得られなかったのだが、遺されたお写真をお借りした。上が演技研究所入所の際(男子9名女子11名)、下が同じく、卒業時の写真である(男子10名女子10名)。どういうわけか入所時と卒業時で、男女ぞれぞれ1名ず...

  • 俳優としての三島由紀夫

    作家の三島由紀夫が俳優として数本の映画に出演したことは知られている。初めてスクリーンに登場したのは、最初の原作映画化でもある1951年(昭和26年)の「純白の夜」(松竹)だった。59年には「不道徳教育講座」(日活)にも出演している。映画の冒頭と最後に登場してナビゲートする役だ。ただこれらはあくまでも原作者としての特別出演であって、演技と言えるようなものではない。60年、「私はオブジェになりたい」と発言して、...

  • 田宮二郎の若手時代

    田宮二郎の若手時代、つまり「悪名」でスターになるまでを振り返ってみる。この間に40本以上の映画に出演している。最初の1本はまだデビュー前のものだ。大映入社の翌年、1957年1月公開の「スタジオはてんやわんや」で初めてスクリーンに顔を出した。大映俳優陣が実名で総出演するバックステージ物であるこの作品で、大映自慢のビスタ用カメラを囲むエキストラの中にいる。アングルが反対方向に変わってもちゃっかりまた顔を突き...

  • 歴代ミス平凡・ミスター平凡

    調査途中だが映画スターも多く生んでいる歴代のミス平凡・ミスター平凡をまとめてみる。第1回(52年度)ミス平凡田代百合子 ミスター平凡吉井久夫第2回(53年度)ミス平凡弘中節子(天路圭子) ミスター平凡山口良一郎(葉山良二)準〃石原忠(佐原健二)第3回(54年度・日活共催)ミス平凡野々村由紀子(堀恭子)準〃中山愛子長谷川恵子程塚好子 ミスター平凡吉本学準〃富樫英夫第4回(55年度・東映共催)ミス平凡加古啓子(大川恵子)...

  • 大映の二世俳優たち

    芸能人の二世が芸能界入りするのは今でもあることだが、大映にも多くの二世俳優がいた。有名なのは川口松太郎・三益愛子夫妻の息子の川口浩や、重役でもあった長谷川一夫の息子の林成年と娘の小野道子(長谷川季子)、戦前のスター江波和子の娘の江波杏子である。第4期ニューフェイスの長谷部健は、往年のスター中野英治・英百合子の息子である。その長谷部と同期の田中郁子は、東宝の監督の山本嘉次郎の姪で、のちに長谷部と結婚...

  • 上久保武夫

    上久保武夫は大映京都で2年半足らず活動したのち消えてしまった謎の俳優である。この間、「嫁とよばれてまだ三月」(1954年)ではヒロイン峰幸子の夫役を演じポスターにも大きく写真が載っているぐらいだから、決して無名の役者とは思われないのだが、何も資料がないのだ。いろいろ調べてみると、1955年から大映京都撮影所製作部の進行課長を務めたスタッフに全く同姓同名の人物がいる。これが俳優の上久保武夫と同一人物と見て間...

  • 伊達正、月島小夜子、松村若代

    伊達正以前「大映俳優列伝」で取り上げた時は不明だったが、その後の調査で伊達正のプロフィールが判明した。本名は大谷卓三。明治40年(1907年)8月18日生まれ。大正13年、帝国キネマ小阪撮影所に入所した。 その後新興キネマ京都撮影所を経て富国映画撮影所に移籍した。これは俳優の羅門光三郎・原駒子夫妻が設立した映画会社で、 1932年2月に設立し、同じ年の6月に解散と、約4カ月しか続かなかった会社である。 同撮影所の解散...

  • 大映の監督たち②

    大映の30年間で公開された劇映画は約1500本、メガホンを取った監督は110人(共同監督を含む)にのぼる。 本数順に並べると(カッコ内は所属撮影所、活動期間)1 森一生(京都、1942-71) 105本2 田中重雄(東京、1942-71) 95本3 安田公義(京都、1944-71) 79本4 島耕二(東京、1942-68) 63本5 三隅研次(京都、1954-71) 60本6 木村恵吾(東京、1942-65) 52本7 田中徳三(京都、1958-71) 49本8 増村保造(東京...

  • 大映の監督たち

    日本映画黄金時代には各社を代表する名監督がいた。東宝には黒澤明、成瀬巳喜男、松竹には小津安二郎、木下恵介、そして新興の会社でスター主義の東映にもマキノ雅弘や内田吐夢などがいた。それに対し大映には彼らに比肩する監督がいないように思う。 よく名の挙がるのは溝口健二、市川崑、増村保造だが、外様の溝口と市川は数年在籍したに過ぎないし、増村は当時まだキャリア的には中堅である。大映で名物監督が生まれなかった大...

  • 梅若正二のその後

    赤胴鈴之助シリーズで一躍人気者となった梅若正二は、その傲慢不遜な態度が原因で映画界を追われ、その後消息不明とされるが実際はどうなのか。大映を辞めた後はテレビに転じ「剣豪秘伝」(NET、1959年)などに出演していた。この頃に同じ大映の出身でドラマ「つむじ風」(NTV、1961年)でも共演した川上康子と恋愛関係になったようだ。ところが結婚を周囲に反対され61年10月に睡眠薬で自殺未遂を起こす。結局川上とは破局し、その...

  • 芸名が違う大映の同一の俳優

    恒例の芸名が違う大映の同一の俳優その4蔵方しげると桃山太郎子役として「浅草の夜」(1954年)や「いとはん物語」(1957年)などに出演してた蔵方しげると、「赤胴鈴之助 黒雲谷の雷人」(1958年)で二代目赤胴鈴之助に抜擢された桃山太郎は同一人物だった。 1943年(昭和18年)生まれ。48年劇団若草に入り後に大映専属となった。赤胴鈴之助シリーズ出演を機に桃山太郎に改名したがまもなく芸能界から退いた。橋本敏子と美川純子...

  • 大映ニューフェイス(増補改訂版)

    資料が残っている他社に比べ倒産した大映のニューフェイスは詳細がわからない。個人的に情報を収集した結果をまとめてみる(随時更新)。 大映のニューフェイスは戦後間もない1945年に始まり、以後ほぼ毎年行われて1969年の第20期まで続いている。1959年からは京都撮影所でも始まり 、こちらも1969年の第6期で終わっている(なお末期はフレッシュフェイスとも呼ばれていたようだ)●第一期(1945年)折原啓子、美奈川麗子(本名・篠...

  • 細川啓一

    脇役俳優の細川啓一はデータベース上の最古の出演記録が1952年3月の「長崎の歌は忘れじ」なので、若尾文子と同じ5期あたりだと思っていたが、彼自身が『大白蓮華』(聖教新聞社)に書いている随筆によると、第1期ニューフェイスだったそうである(彼は創価学会の信者だったようである。それはともかく)59年の「海軍兵学校物語あゝ江田島」では新人の本郷功次郎や三田村元と並んで1号生徒役を演じているので、若いのかと思っていた...

  • 大映創立十周年記念「スタア探し」

    1951年(昭和26年)、大映は創立十周年記念として「スタア探し」なる新人コンテストのイベントを行い、全国の応募者から11月31日、日比谷公会堂での最終審査でミス・ニッポンミスター・ニッポン各1名、 準ミス·ニツポン準ミスター·ニツポン各4名を選出した。この10人は演技研究所に入所し研修を受けたのだが、これがそのまま第6期のニューフェイスになったようである。ミス・ニツポン 兼田實枝子ミスター·ニツポン 若林弘準ミス·...

  • 蛍雪太朗の素性

    大映俳優・蛍雪太朗は螢雪次朗の師匠と伝えられる以外、何も経歴その他がわからない。まあ螢雪次朗に訊ければいいのだろうがそうもいかない。ところが最近唯一の手がかりとして築波宏と言う本名が判明した(『映画年鑑 1965年版』に掲載されていた)。 この「築波宏」で検索するとテレビドラマデータベースにNHKで1958年に放映された「上方お笑い劇場」のひとつ「二階の奥様」の出演者として名前があったのである。 このドラマはど...

  • ミスコン出身の大映女優たち

    昔は美人でなければ多くが女優、特に映画スターにはなれなかった。だが美人であれば必ずスターになれるわけではない。 山本富士子が第1回ミス日本だったことはよく知られているが、それ以外にも多くのミスコン出身者が大映に入社している。だが大成した人は少ないようである。まず1954年のミス・ユニバース日本代表から大映入りした近藤美恵子。約8年間で80本以上に出演し中堅女優としてまずまず活躍したが主演はほとんどなかった...

  • 佐山真次、真中陽子

    なんと。 佐山真次は左幸子の弟だったらしい。「主婦と生活」1967/10号で「私のきょうだいです」として左幸子が、デザイナーの四女や五女で女優の左時枝たちと並んで、次男で俳優の佐山真次を紹介している。 この当時32歳なので1935年生まれぐらいか。兄弟と言えば、57年に12期ニューフェイスで入社した真中陽子。彼女は八潮悠子の実妹だったという。1年余りで10本前後出演したが総て端役のまま退社。その後は63年頃までテレビを中...

  • 藤山浩二、十和田翠

    以前も取り上げたが、その後判明した事実を含めてまとめておきたい。まず藤山浩二。本名は藤山浩一。1929年(昭和4年)12月、長崎の出身である。大映に入る前はなんと航空自衛隊のパイロットをしていたと言う。それがなにを思ったのか、1956年、26歳で大映第11期ニューフェイスに応募して映画俳優になったのだ。同期は田宮二郎や叶順子である。以後100本以上の映画に出演した。69年頃フリーになったらしく、東映でやくざ映画を中心...

  • 追悼・藤由紀子

    元大映女優で田宮二郎さんの妻である藤由紀子さんが亡くなられたようである。松竹から大映に移籍し滝瑛子、姿美千子とともに「一フジ、二タキ、三スガタ」として売り出され 活躍したが、田宮さんと結婚して引退。2児に恵まれたが田宮さんを失い次男にも先立たれるなど波乱の人生だったと思う。 尤もその苦労は他人に推し量れない。いちファンとしてはクールで知的でエレガントな、 スクリーンで輝いていた美しい藤さんをただただい...

  • 大映第12期ニューフェイス

    入手した資料によると第12期ニューフェイスは次の24名である。横田穣二(24才)東京水村晃(22才)埼玉佐々木渥(21才)北海道袴光夫(21才)東京横山明弘(21才)広島本郷功次郎(20才)岡山平林一雄(20才)東京大川鉄郎(18才)神奈川伊藤雄(19才)兵庫植木直一(17才)東京小山文一(17才)東京乾邦夫(16才)東京依藤宗子(21才)兵庫鶴島水南子(21才)大阪村井千恵子(20才)栃木佐々木正枝(20才)東京小池初枝(20才)神...

  • 秋月竜

    「女の勲章」(1961年)より。大映映画でよく見かける左側の白髪の男。特徴的な風貌で目立つが、殆ど台詞はなくクレジットされたこともない。なので名前がわからなかったが漸くはっきりした。東映製作の特撮テレビ番組「ナショナルキッド」(1960年)に出演している。どうやら「秋月竜」というらしい。調べると古くは1928年(昭和3年)市川右太衛門プロダクション製作の「きづな」から出演歴が見られる。戦後は東映、東宝、松竹、...

  • 大映第10期ニューフェイス

    月刊「大映」より。第10期演技研究生(ニューフェイス)の面々。浅原茂作(大阪・22)若松茂次(横浜・19)真鍋義彦(宮崎・22)花野富夫(札幌・22)藤山浩一(長崎・26)吉田信一(徳島・19)田中徹(福岡・25)富田宏(東京・22)石井満元(東京・20)黒川清司(京都・24)中沢順子(東京・20)持留絹子(鹿児島・20)久保田紀子(東京・17)児西弘子(東京・16)金田一敦子(東京・17)松尾親代(福島・20)久保田幸子(札幌・...

  • 大映第18期ニューフェイス

    個人名はわからないが65年入社のニューフェイス18期生は男子8名、女子11名の計19名だったようだ。これまでに判明している18期生は篠田三郎笠原玲子津山由起子水木正子の4人(一部の資料では三笠すみれも65年入社となっているが違うのではないかと思う)。篠田三郎と笠原玲子、津山由起子の3人は66年5月の「雁」、水木正子は10月の「赤い天使」が初クレジットではないかと思われる。同時期にクレジットされた新人は、ほかに佐伯勇 ...

  • 追悼・北原義郎

    大映東京のスターとして活躍し、後年はバイプレイヤーとして支えた北原義郎さんが93歳で亡くなられたと言う。大映第4期ニューフェイス出身で、同期には中条静夫や早川雄三、目黒幸子、後に松竹に転じた若杉英二らがいた。入社後しばらくはエキストラ同然の端役が続いた。「虹男」(1949年)では暁テル子演じる婦人記者の同僚カメラマン役で、台詞は一言だけだった。「十代の性典」(1953年)。沢村美智子、長谷部健と。 初めて主演...

  • 大映東京デビュー順

    1期(1945年)折原啓子 1946~1947 「彼と彼女は行く」(1946/04/18)松村若代 1946~1971 「街の人気者」(1946/3/7)三條美紀 1946~1954 「君かと思ひて」(1946/07/04) 日高万里子 1946~1951 「君かと思ひて」(1946/07/04)黒須光彦 1946~1960 「お嬢様お手を」(1946/9/3)此木透 1946~1970 「二死満塁」(1946/12/3)藍三千子 1946~1970 「二死満塁」(1946/12/3)2期(1946年)船越英二 1947~1969 ...

  • 久保田紀子と浅丘ルリ子

    浅丘ルリ子と言えば言うまでもなく大女優である。彼女は1955年の日活映画「緑はるかに」の主役オーディションで選ばれデビューした。 この時最終選考まで残ったのが斎藤みゆき(後の桑野みゆき)、田村まゆみ(後の田村奈巳)、高城瑛子(後の滝瑛子)、 山東昭子、味田洋子(後の榊ひろみ)、そして久保田紀子の6名で、最後まで主役の座をルリ子と争ったのが久保田紀子だったという。 敗れた6人もその後芸能界にデビューした。ル...

  • 小牧洋子、黒須光彦

    芸名が違う大映の俳優探し。今回は他社に移籍した俳優である。小牧洋子と広瀬みさ野口啓二の主演ドラマ「拳銃男爵」(1960年10月~61年3月)のレギュラーに足立和子と言う名前がある。後に歌手・女優として活動した広瀬みさの本名と同じだが同一人物だろうか。広瀬みさは大映15期ニューフェイス出身である。63年に歌手デビューするが、その前に「小牧洋子」と言う芸名で1年余り大映映画に出演していたようだ。「スーダラ節 わかっ...

  • ついに判明!野口啓二の意外なプロフィール

    このブログでも度々話題にしてきた野口啓二。1958年7月公開の「俺たちは狂っていない」でいきなり華々しく主演デビューを飾ったものの僅か3年足らずで芸能界から忽然と姿を消してしまった謎の俳優である。 今までプロフィールも消息も杳として知れなかったのだが、今般、ついに判明した。『週刊娯楽よみうり』昭和34年3月13日号である。そのモノクログラビアに掲載され、囲みでプロフィールが載っている。自民党代議士松浦雄蔵氏の...

  • 大映俳優blog

    大映俳優blogはじめました。https://daiei.weblog.to/大映俳優名鑑http://tvmovie.web.fc2.com/daiei/daieihaiyu.htmlのブログ版です。...

  • 宝塚出身の大映女優

    カッコ内は宝塚時代の芸名と入団期近江輝子(大美輝子、25期)日高澄子(日高澄子、25期)月丘夢路(月丘夢路、27期)乙羽信子(乙羽信子、27期)由利みさを(由利みさを、30期)緋桜陽子(緋櫻耀子、30期)伏見和子(伏見和子、31期)阿井美千子(百ちとせ、34期)藤原礼子(大和七海路、37期)穂高のり子(曙まゆみ、37期)春風すみれ(春風すみれ、38期)小野道子(長谷川季子、38期)中田康子(由狩しのぶ、38期)鳥居香月子(...

  • 大映青春スタアのサイクリング

    『映画情報』60年8月号のグラビアに叶順子をリーダーとする大映青春スタア9人によるサイクリングの模様が載っている。 勿論雑誌の企画なのだが、メンバーにはあの野口啓二もいる。映画以外での姿は珍しいし、記事でも京都からお客様の鶴見丈二と中村豊を別にすれば叶順子に次ぐポジションに扱われている。ただその内容はいただけない。 「『男は騙される』『勝利と敗北』でクローズアップされてきた期待の人」と書かれているのだが...

  • 野口啓二、小林勝彦、土方孝哉

    以前も書いたが野口啓二は映画初出演で初主演と言う鮮烈なデビューを飾ったものの僅か3年で消えてしまった謎の俳優である。 謎と言っても当時の活字メディア、例えば「週刊娯楽よみうり」1959年3月13日号には紹介記事があるようなので、それを見れば問題解決なんだろうが、 手に入らない間は推理するしかない。その鍵になりそうなのはデビュー作「俺たちは狂っていない」である。実はこの映画自体も殆ど資料がないのだが、「日本映...

  • 「少年ジェット」の大映俳優

    前にこの俳優の名前がわからないと書いたがやっとわかった。松山浩二だ。だが「少年ジェット」の時とイメージが違い過ぎる。「少年ジェット」「海底人8823」など大映テレビ室初期のドラマはマイナー俳優がメインキャストで登場するので大映俳優オタには有難い番組だが、 メイクのせいで誰だかわからないことがある。成田昇二 響玲子津田駿二 浜口喜博南方伸夫 ...

  • 大映京都の若手

    大映京都の若手は覚え難い。なかなか顔と名前が一致しないのだが、数少ない現代劇の「剣」(1964年)には学生役で素顔で出演している。上原寛二、三木正八郎、松田剛武森下耕作。このあと暁新二郎に改名したが71年にまた森下耕作に戻したようだ。森田健二?高森チズ子(ノンクレジット)森宏之和泉圭馬香住巖(横は矢島陽太郎、細谷新吾)素人時代にアルバイトで出演していたと言う賀川ゆき絵はこれかクレジットにはないが雨宮旭の...

  • 田中三津子のCM

    1984年オンエアの白仁丹CMで田中三津子がビートたけしと共演している。 大正か昭和初期とおぼしきお屋敷で、白仁丹を盗み食いしようとした子供(たけし)を見咎めてぴしゃりと頭を叩く母親の役である。入手した資料よると、田中三津子は大映倒産後に結婚引退して、当時は子育ての傍ら宝石のデザイン加工業をしていた。CMには旧知の助監督に頼まれて出演したそうだ。市田ひろみのようにタレント兼業する気はなかったので、女優復帰...

  • 大映京都フレッシュフェイス

    大映京都のフレッシュフェイスについて少しわかりかけてきた。初めて募集が行われたのは東京のニューフェイスから遅れること14年後の1959年秋である。同年9月の「大映京都撮影所通信」にその応募要領が載っているが、東京と同じ「大映ニュー・フェイス募集」で「フレッシュフェイス」とは呼んでいない。選考から採用までの過程もほぼ同じである。一次書類審査、二次審査を経て、採用者は11月1日より演技研究所で5ヶ月間の教育を受...

  • 船越英二の子役歴

    船越英二の映画界入りのきっかけは、1947年、俳優だった兄の友人が冷やかし半分で大映第2期ニューフェイス募集に応募書類を送ったことだったとされる。合格した船越は3月から多摩川撮影所の演技研究所に通いだし、翌4月にはもう「第二の抱擁」でヒロイン折原啓子の恋人役に抜擢されてデビューしている。いくら戦後まもなくて若手スターが払底していたとは言え早すぎる気がするが、その疑問は船越に子役出身の「実績」があったこと...

  • 三木本賀代のプロフィール

    長年気になっていた三木本賀代のプロフィールが漸く分かった。『日本映画俳優全集・女優編』には大映京都第4期ニューフェイス(フレッシュフェイス)出身としか書かれておらず本名も生年月日もわからなかったのだが、当時の宣伝素材によれば1945年8月6日生まれで、本名は中村美代子である。 芸名の「三木本賀代」は少し地味目な気がしないでもないが本名ではなかったのだ。「三重県出身であることから真珠王御木本幸吉にあやかっ...

  • 大映ユニオンズ、駒沢球場

    「巨人と玩具」 胸のロゴがUNIONSとなっているが、大映ユニオンズはこの年3月10日に毎日オリオンズと合併して既に大毎オリオンズになっていたので存在しない。 するとこれは廃止されたユニオンズの実在のユニフォームを使って撮影したのか。 だがネット上を画像検索しても大映ユニオンズのユニフォームの写真がなかなか出てこない。そもそも大映ユニオンズは前年に大映スターズと高橋ユニオンズが合併してできた、わずか1年...

  • 大映「京浜東北線」路線はいつ生まれたか

    川口浩(川口松太郎の息子)がデビューする際、大映は6期生の奥秋も売り出そうと計画、鳴り物入りでデビューする「川口」にちなんで、「同じ京浜東北線の駅名がよい」と「品川隆二」と名づけられる。これ以降、京浜東北線の駅名に由来する芸名は「鶴見丈二」、「川崎敬三」と続いた(wikipediaより)もっともらしく書いてあるが、川口のデビューが1956年なのに対し、品川の改名は54年である。さらに言えば川崎のデビューは54年だし...

  • 大映の同一俳優探し

    例によって大映の同一俳優探し。神経衰弱ゲームのようなものだが、とりあえず確実なところから行くと、 田村和と小村雪子「座頭市の歌が聞こえる」などに出ている小村雪子の本名が田村和である。当時の映画誌によると宝塚(宝塚映画のことか?)の演技研究所出身で、明星雅子と同時に入社している。まず本名で「黒の凶器」などに出演したのち「これからのセックス三つの性」で小村雪子として公式デビューした。ちなみに田村和では...

  • 水木正子のプロフィール

    大映5人娘の一人、水木正子のプロフィールが少しわかった。1968年に水着グラビアが雑誌掲載された時のキャプションによると、昭和23年生まれ、18期生として41年入社、デビュー作は翌年の「眠狂四郎無頼控 魔性の肌」である。18期生ということは、やはり篠田三郎や笠原玲子と同期だったわけだ。また昭和23年(1948年)生まれなら、5人娘では1期後輩の八代順子と同年齢である。 東京のニューフェイスだったのにここでデビュー作と...

  • 大映テレビ室のドラマ 番外

    テレビドラマデータベースより♯43以外制作不明だがこの10本は出演者の面子的に大映テレビ室っぽい。ちなみに「♯13 旅びと」時のお志麻さんはまだ松竹入社前 「東芝土曜劇場」(CX)♯8 ちゃんこ横綱 1959/04/25 淡島千景、丸山修、舟橋元、見明凡太郎、大山健二、久保田紀子、進藤三則、立花宮子、星ひかる♯13 旅びと 1959/05/30 左幸子、北原義郎、織田政雄、瀬古佐知子、渡辺鉄弥、夏木章、河村有紀、岩下志麻 ♯19 太鼓 1959...

  • 浦辺粂子はいつまで大映の専属だったか

    浦辺粂子は各社の映画に出演していたため大映の女優と言うイメージが薄いが、大映の創立以来ずっと専属だった。 なので他社作品に出演した時には必ずクレジットの横に「(大映)」と付いていた。キネマ旬報社の『日本映画俳優全集・女優編』では、1971年の大映倒産まで所属していたように書かれている。だが実際は64年頃に専属を離れてフリーになったのではないかと思う。64年1月公開の東宝映画「乱れる」に出演した時はクレジット...

  • 大映の黒須兄弟

    1950年代後半の大映の若手俳優に黒須光彦と言うのがいる。たいていは主に学生役で主役のまわりをうろちょろしている程度の端役だが眉毛に特徴があるので印象に残りやすい顔だ。46年の「お嬢様お手を」から出ているし、更に遡ると41年の大都映画「大空の遺書」にも名前があるので子役としての芸歴はかなり古いことになる。ついでに「氷柱の美女」のキャストを眺めていたら小林少年役が黒須幹彦と言う名前だったことに気が付いた。幹...

  • 大映俳優探査録

    http://tvmovie.web.fc2.com/daiei/daieihaiyu.html「大映俳優名鑑」収録700人(組)台に到達。10年前からこそこそ作り始めてここまで来たが、これでも多分まだ半分にも達しないんだろうな。有名な俳優ばかりならいいが「日本映画俳優全集」にも載っていない無名の脇役俳優はまず複数の作品を見比べて配役クレジットと睨めっこしながら一人一人顔と名前を一致させねばならないから骨の折れる作業である。クレジットもされない端役...

  • 大映テレビ室のドラマ その7

    大映テレビ室は「ザ・ガードマン」や「おくさまは18歳」と並行して昼帯ドラマも制作していた。 民放各局は1962年頃から平日の主に12時~13時の時間帯で主婦層を対象にしたテレビドラマを放映し始めたのだが、その制作を請け負ったのも多くは夜のドラマと同様に映画会社のテレビ部門や独立プロダクションだった。大映テレビ室も当然ながらその一翼を担うことになる。 最初に手掛けた昼ドラは日本テレビの番組だった。60年代の日テレ...

  • 大映テレビ室のドラマ その6

    60年代後半の大映テレビ室はTBSに次いで日本テレビでの制作が多い。先の「母の曲」「新雪」「氷壁」もそうだが、「夜の主役」「君は海を見たか」「ひかりの中の海」そして「火曜日の女シリーズ」である。 「夜の主役」(1968年7月30日~1969年1月21日)は前番組の「一匹狼(ローンウルフ)」に続き天知茂が主演した(ただし「一匹狼」は東映の制作である)。殺人の汚名を着せられた元弁護士が悪の正体に迫るサスペンス物で、共演...

  • 大映テレビ室のドラマ その5

    「西郷隆盛」に主演した宇津井健は引き続き4月から大映テレビ室制作の「ザ・ガードマン」に出演し、6年9ヶ月にわたって主役の高倉キャップを演じて人気テレビ俳優の地位を不動にした。一方、「西郷隆盛」で宇津井の妻役を演じた藤村志保も同じ年にNHK大河ドラマにねね役で出演してお茶の間の人気者となり、テレビで引っ張りだこになった。1965年11月から当時はNET(現テレビ朝日)系列だったMBSの「源氏物語」に夕顔役で出演したの...

  • 大映テレビ室のドラマ その4

    大映テレビ室は1964年の秋からほぼ同時に3本の連続ドラマを放映している。まず「夕日と拳銃」がTBSで9月9日から12月2日までの3カ月にわたって水曜21時30分の1時間枠で放送された。大正末期、満州に渡って馬賊の群れに身を投じた伊達政宗の末裔・伊達順之助をモデルに描いた檀一雄の小説が原作で、56年には東映で東千代之介主演により映画化されたこともある。主役の伊達麟之介には大映の若手だった工藤堅太郎が抜擢され、後に工藤...

  • 大映テレビ室のドラマ その3

    フジテレビで放送された初期の大映テレビ室作品は全て30分番組だった。1時間番組はフジの「東芝土曜劇場」(TBSの東芝日曜劇場ではない)などで単発物をいくつか手掛けていたようだが、当時は大型テレビ映画と称されていた1時間物の連続ドラマを国産する力はまだないとみなされていて、テレビ局の側にも放送枠がなかったのである。そこで61年3月から五味川純平原作の大作ドラマ「人間の條件」を放送局もスポンサーも未定のまま自主...

  • 大映テレビ室のドラマ その2

    大映テレビ室は同時期に「海の非常線」「刑事」「東京タワーは知っている」「黒いパトカー」(いずれもフジテレビ)という大人のドラマも制作して放映していた。 「海の非常線」(1959年3月7日~12月5日)は「少年ジェット」より3日遅れでスタートした大映テレビ室の2作目で、海上保安官の活躍を描いたサスペンス・アクション物である。出演者は大映若手の藤山浩一(浩二)、丸井太郎とベテランの伊東光一、そして坪井研二は新東宝...

  • 大映テレビ室のドラマ その1

    大映テレビ室が制作した初期のドラマ(当時はテレビ映画と言った)のことを調べている。当時の作品で「少年ジェット」や「ザ・ガードマン」などは今でもCSで再放送やソフト化されているので目にすることができるが、それ以外の作品の多くはフィルムの現存も定かでなく資料も殆どないのではないかと思う。 「拳銃男爵」(1960年10月5日~1961年3月22日放送)もその一つで、フジテレビで「少年ジェット」(1959年3月4日~1960年9月28...

  • オードリー・ヘプバーンの吹き替え

    DVDでオードリー・ヘプバーンの「ティファニーで朝食を」を何十年ぶりかで再見した。最初は字幕を読んでいたが目が疲れたので途中から吹き替えに切り替えた。 オードリーはもちろん池田昌子さん。だが相手役のジョージ・ペパードは昔テレビ放映で見た金内吉男さんではなく、野沢那智さんだった。吹き替えはDVDソフト用の新録版なのだ。 今は殆どの洋画DVDソフトが日本語吹き替えを収録しているが、尺や版権などの事情でテレビ放映...

  • 大映の幻の映画

    大映で製作することが決まっていたのに中止された作品、企画が出されたが製作に至らなかった作品、 監督や俳優が変更になった作品をあげてみる。 ★「ひめゆりの塔」(1950年)監督・今井正 朝鮮戦争の勃発でアメリカに遠慮して中止。後に今井が東映で映画化して大ヒット。★「青電車」(56年)原作・永井龍男、脚本・成沢昌茂、監督・溝口健二、主演・山田五十鈴 溝口の死去で実現せず。★「鏡子の家」(60年)原作・三島由紀夫、監...

  • 「悪魔の手毬唄」の歌名雄と放庵

    以前も書いたが、横溝正史の「悪魔の手毬唄」に登場する青年・歌名雄は、横溝の異母兄・歌名雄の実名をそのまま用いたものである。横溝の自伝的エッセイ「書かでもの記」によれば、歌名雄の母は横溝の父に捨てられた後、首を縊って自殺した。幼い頃の横溝はそうした話を聞くたびに罪業感を抱いたと言う。「悪魔の手毬唄」で歌名雄の母・リカが自分を捨てようとした夫を殺害し、更に夫が愛人に生ませた子供たちも殺そうとするのは、...

  • 「女賭博師」で大映末期を支えた江波杏子

    去る10月27日、女優の江波杏子さんが亡くなった。ご本人の遺志により、所属事務所から訃報が公表されたのは密葬を済ませたの後の11月2日だった。亡くなる直前まで元気で、今後のスケジュールも決まっていたといい、まさに急死だったことになる。大映出身の俳優さんがまた一人世を去ってしまい淋しい限りだ。 ところで江波さんと言えば女賭博師シリーズである。16歳で大映入りするもシャープでエキゾチックな美貌を生かせる役柄にな...

  • 「獄門島」は「ごくもんとう」か「ごくもんじま」か

    横溝正史の「獄門島」の読みは、「ごくもん"とう"」か、それとも「ごくもん"じま"」なのか?おそらく10人中10人が「ごくもんとう」と答えるだろう。だが70年代の所謂「横溝正史ブーム」以前までは、<とう>なのか<しま>なのか判然としなかった節がある。横溝のエッセイ集『横溝正史の世界』(徳間書店)に収められた都筑道夫との対談「われら華麗なる探偵貴族」に、こんなやり取りがある。都筑「あれは獄門島<じま>なんですか...

  • 大映役員の変遷と永田体制の確立 その2

    1947年12月に河合、六車、安倍、鶴田、石川の5重役が公職追放となり、翌48年1月には社長の永田まで追放となった。残ったのは常務の曾我と、藤井、酒井だけだ。この危機に永田は直ちに重役会を招集して後任人事を決定した。 社長 真鍋八千代 専務 曾我正史(日活) 〃 川口松太郎 取締役 藤井朝太(新興) 〃 酒井箴(新興) 〃 名和米三郎(新興キネマ興行部長~大映関東配給部長) 〃 叶善治郎(大都関東支社長代理~大映...

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