リトルアメリカ教育センター さん プロフィール

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リトルアメリカ教育センターさん: リトルアメリカ日記
ハンドル名リトルアメリカ教育センター さん
ブログタイトルリトルアメリカ日記
ブログURLhttp://littleamerica.junglekouen.com
サイト紹介文『英語は絶対に勝つ!』この自信があなたの人生を開く! 偏差値15アップを目指す、英語に強い学習塾
自由文リトルアメリカ教育センターは、1985年中津で始まった学習塾です。英語を徹底的に、しかも効率よく鍛え上げることにこだわり、独自の教材『フロウンうんち英単語帳』、『フロウンうんちイディオム帳』の出版もしています。リトルで鍛えた英語を武器にして、東大、早慶上智をはじめとする難関大学へ、多くの卒業生を輩出しています。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供244回 / 365日(平均4.7回/週) - 参加 2014/03/30 23:50

リトルアメリカ教育センター さんのブログ記事

  • 大学受験はそう甘くありません。ですが… 〜2017年合格体験記〜
  • 永松 功大 君 法政大学 合格 (大分南高校出身)  こういった合格体験記を読もうと思っている人は「よし、これを読んで勇気をもらおー!」、「不安を無くそー!」、「自信をつけよー!」という人がほとんどだと思います。 なので、こんなことを言うのは気がひけるのですが。「大学受験は想像以上に難しく厳しいもの」です。 甘くない。少しの油断や隙が命取りになる。でも!…だからこそ、その苦労の先にある合格をもぎ取った [続きを読む]
  • うらうらと照れる春日に…2度の遷都の訳
  •  桓武天皇の時代に、都を一旦長岡京に移すとしながら、さらに平安京に移したのには、一体どんな訳があったのかという疑問が多いのです。 遷都ともなれば莫大な費用がかかります。 そして長岡京に移すべく工事を行っていたのにもかかわらず、さらにそれを京都に移すとしたら、どれほどの経費の無駄であったのか、考えて見ればまったく理解できない話です。 そこまでして京都に移す理由は一体何であったのでしょうか?…というよ [続きを読む]
  • うらうらと照れる春日に…平安遷都
  •  従来、遷都はあまりに政治と仏教が結びつき、その縁を切りたいがために行われたということでした。 しかし、平安京に遷都した後も仏教との結びつきは強く、これでは奈良が都だったときとさほど変わりはありません。 最近では仏教との縁を絶つがために遷都したというより、戦力を東北に送り込むために、あるいは交通の要所を占める為に遷都したのではないかという意見もあるようです。 実際はどちらが本当だったのか私たちには [続きを読む]
  • うらうらと照れる春日に…大伴家持の心境
  •  その事件とはその遷都工事の担当者である藤原種継が藤原京視察の途中、馬上で矢を受けて死んでしまうのです。 この事件の背後にあったというのが大友家持であったとされるのです。 この事件は謎の多い事件ですが・・・おそらく桓武天皇の皇太子であった早良親王を排斥するための策謀に利用されたのではないのでしょうか? 当時としては兄弟が後を継ぐというのはあり得ることだったのです。 たとえば、天智天皇の皇太弟が天武 [続きを読む]
  • 大学浪人生の勉強で一番怖いのは…
  •  大学浪人をして、勉強を続けるときに、一年も余分に勉強しているのだから、当然、成績が伸びていていいはずではありませんか。 しかし、多くの学生が、この勉強方法で正しいのか、このままで合格できるのかということで悩んだり、自信を持てなかったりするのです。 この精神的な負担は大きく、ともすれば、目の前の勉強に集中できなくなるほどです。 一番恐いのはこの不安定な精神です。 要するに、先のことなどを心配せずに [続きを読む]
  • うらうらと照れる春日に…背負っていた苦悩とは
  •  770年、孝謙天皇が亡くなったとき…彼女は女帝でしたし、さらに結婚していませんでしたから、子供がありません。 当然ながら世継ぎが誰になるかが重大な問題となったのです。 もちろんいろいろな画策があったのでしょうが、結局は藤原百川らの担ぐ光仁天皇が思いがけなく天皇になるのです。 この天皇は年齢もいっていましたし、天智系の血筋でしたので、当時、絶対に天皇に成れるはずのない人でした。 だから、自分を天皇 [続きを読む]
  • うらうらと照れる春日に… 苦悩を背負って…
  •   万葉集の中では、大友家持の歌がいいですね。 「うらうらと照れる春日に ひばり上がり            心かなしも ひとりし思えば」  たしかに春さかりのころには、ひばりが空に向かって、ちゅうーちゅーはじゃぎながら飛んでいる光景に接します。 穏やかな日に、このひばりの鳴き声は落ち着きがなく、やや耳障りなといった感じもありますが、地上には真黄色な菜の花が咲き乱れ、真っ青な空に向かってひばりがど [続きを読む]
  • 努力で目標を達成できる人になるために
  • ―受験では、努力する人が成功していく― 受験勉強の中で悩み、傷つきながら、それでもこつこつと努力をしてください。 リトルアメリカ教育センターはこのことが大切なことだと思っています。 こつこつと努力できる人は、ただ学校に合格できたというよりも、もっと大切なものを学び取ります。 それは、何かの目的を定め、達成するということです。 逃げることなく、こつこつと努力を続けて、ものごとをやりとげることのできる [続きを読む]
  • 「わかる」と「できる」は違う
  •  授業を聞いて「わかった」状態から、テストで「できる」状態になるまでには、やり方をマネして「おぼえる」こと、そして、「くりかえし」解いてみることが必要です。 そうすることで、解答までの道筋が整理されて、そして速く答えが出せるようになってきます。 正しい解答を得るまでの過程を繰り返し練習することがとても大切なのです。 ここがあいまいなままだと成績は伸びません。 リトルアメリカ教育センター 中津校地図 [続きを読む]
  • 防人の詩
  •  高校になって、教科書に万葉集の歌が出てくるようになりました。 そんな中で・・・教科書だったか、他の参考書だったかは覚えていませんが、… から衣、すそに取りつき泣く子らを、          置きてぞ来ぬや 母なしにして  この詩を詠んだとき、あまりの衝撃で、ただ茫然として言葉を失う気持ちでした。 この詩は防人の詩ですから、おそらく遠くの国に防人として送られていく兵士の詩でしょう。 当時は一種の徴 [続きを読む]
  • 高校になると…間に合わなくなる
  •  高校になると英語は急に難しくなります。 その原因は覚えなければならない単語の数がものすごく多くなるからです。 中学時代は3年間で1,000程度だったのが、高校3年間で5,000から6,000にまでなります。 更に、難しくなるのは英語ばかりではありません。 数学もまた膨大な量になり、理科、社会も詳細で難しい知識を覚えこまなければなりません。 中学時代は一夜づけでできていたものが、とてもそんなことで [続きを読む]
  • 大人の恋にドギマギ
  •  大学生になったころには、大人の恋も理解できるようになったのかもしれません。 そんななる日、母親が 一番好きな詩は、「明けぬれば、暮るるものとは 知りながら、       なほうらめしき 朝ぼらけかな」と言ったのには、一瞬耳を疑いました。 母親のこのような言葉を聞いて、“彼女は本当の意味を知っているのだろうか、それとも本気で言っているのだろうか“とどぎまぎ戸惑ったのを覚えています。  父親も「つくば [続きを読む]
  • 人生でもっとも大切なもの身につけ 成長しよう
  •  人生には、じっと耐える以外にどうしょうもないことが山積しています。 何かそれを避ける方法があるといいのだけれど、ただただ耐えながら努力する以外にその道を突き抜ける方法がないことがほとんどです。 これが生きることの特徴であるとするなら、「じっと我慢すること」を覚えることは、人生でもっとも大切なものを得ることができるということなのです。 子供にこの能力を身につけさせるチャンスがあれば、決してそれを逃 [続きを読む]
  • 恋を知り始めたころは…
  •  小学校のころは、詩の意味がわかっていたわけではありませんでしたから、ただ詠み人の音を聞きながら、詩を覚えて行ったのではないかと思います。 ところが・・・中学校になってようやくこの詩が「大人の恋の歌」なんだと理解するようになったのです。 そうすると詩の意味を知ることがすごく面白くなって、これは一体どんな意味なのかといった質問を父親にするようになりました。 すると父親はあまり躊躇もせずに恋の歌を解説 [続きを読む]
  • おはこ
  •  花さそう、嵐の庭の雪ならで、 ふりゆくものは我が身なりけり・・・これもやはり弟の“おはこ”でした。 何故かと言うと・・・実は面白いことなのですが、我が家のこの札は真ん中で折れていて、それを修理するのに、父親が紙をぐるぐる巻きに張っていて、それに墨で字を書きこんでいたのです。 新品を買いなおすとしたら、まだ高価だったのでしょうか? とにかく修理して使っているという時代でした。 さて [続きを読む]
  • 毎日近所の好き人たちが集まって…
  •  先日Q先生が、まどかに百人一首を買ってきているのです。 まだまどかはようやく今年小学校の1年生です。 あまりに早すぎるじゃないかという気持ちで「もうから始めるの?」と聞いたら、「いやおばあちゃんが買って来たのよ」といった返事です。 それを聞いて、自分も・・・そこまで早くはなかったけど、小学校の高学年には百人一首の“かるた大会”をしていたなーと思いだしました。 そのころ父親が“かるた”を取るのが好 [続きを読む]
  • 卒業式の思い出
  •  今日は、高校の卒業式だったそうです。 入試はほぼ終わり、私大の一部と国公立の人は発表待ち…という時期です。ちなみに私は、高校の卒業式には出てないんですよね。 なんで?!って思うでしょう? 私たちのころは、公立高校の卒業式は国立の前期試験より前にやっていたので、ちょうど早稲田の試験があっているころで、出られなかった人が多かったのです。 多分、私の卒業証書は母がもらいに行ってくれたはず。(自分の卒業 [続きを読む]
  • 最後の受験に向かって
  •  受験で常識など通用しません。 合格してして行く生徒の特徴は、いつも、絶対に合格してやるのだという信念です。 いや、こだわりというか、気迫というのか、とにかく、絶対に受かるという気持ちです。 もし、この気持ちが欠けた場合は、絶対に合格はあり得ないのです。 今、もう一度、気を取り直して、新しい気持ちで、向かっていく……これしか合格をものにするチャンスはありません。 物事がなしえるかどうかは、その人間 [続きを読む]
  • 「学問のすすめ」のススメ 〜好かれるように
  •  残された古い写真で見ると、諭吉は愛嬌のない気難しそうな顔に見えますが、実は、写真ではわからない愛すべきところがあったのか、大阪の緒方洪庵の適塾でも、師の洪庵に大変可愛がられたそうです。 彼が重い病気になった時、洪庵は徹夜で諭吉の看病をしたという話です。 当時の子弟関係は親子のようで、諭吉はこの恩を生涯忘れないと書いています。 洪庵は、すぐに諭吉の才能を認め、自分の代わりに塾の講師を務めさせたとい [続きを読む]
  • いい考えでしょ?
  •  ちょっと前のことです。 私が23時ごろ仕事を終えて、自分の家に帰ると、こどもたち(年長・年少です)が体操服を着ています。 今頃まだ、体操服を着ているということは、今日はまだ風呂に入ってないのかな〜?と思ってきいてみると、「風呂にはちゃんと入った」と言います。姉「明日も体操服で行く日だから、明日着ていく体操服 を風呂からあがって着たんだよ。 これで、朝はゆっくりごはんを食べて、給食の準備 をするだ [続きを読む]
  • 「学問のすすめ」のススメ 〜諭吉の決心
  •  中津時代、14,5歳になって初めて学問に目覚めた諭吉は、遅れて入学したにもかかわらず、すぐに頭角を現して、他の生徒に先生の代役で教えることもあったということです。 ある日、諭吉の兄の話で、藩が長崎に行って、蘭学を勉強する人を求めているということを聞いて、諭吉は中津を出る決心をします。 中津での生活が窮屈だと感じていた矢先だったので、これをチャンスとすぐに手を挙げたのでした。 彼が19歳の時でした [続きを読む]
  • 「学問のすすめ」のススメ 〜実学の人
  •  福澤諭吉は実学の人でした。 何事も実際にやることで上手くなってゆくと信じて実行した人でした。 前にも書いたように彼の家は貧しく、男手のいない家庭で、母親の仕事を手伝ううちに、家屋や屋根の修理畳替えなども器用にこなして、下駄や刀の修理でお金を得たこともあり、障子張りは大人に負けないくらいの腕前になったと「福翁自伝」に書いています。 元来、器用な人でもあったのと、いろいろな工夫を重ねた結果でしょう。 [続きを読む]
  • 英語の勉強をはじめるときに
  •  単語を覚えるのは、副次的な作業と思っている人が多いようですが、…これは誤りです。 英文を読むのには時間をかけて、単語は…あまり時間をかけず、片手間に、半端な時間でやってしまおうと思っている人が多いようですが、…これは誤りです。 英語は言葉を学ぶものであり、だとすれば単語がいちばん大切なわけですから、まずその単語を覚えてしまうことに、たっぶり時間をかける必要があります。 初めの2,500程度の単語 [続きを読む]
  • 「学問のすすめ」のススメ 〜ユニークな発想
  •  誰もがよく知っている、桃太郎の鬼退治の話について、『学問のすすめ』の中で、彼が言うには「鬼が島の鬼は、誰に迷惑をかけているわけでもないのに、 鬼が持っている宝物を取りに行った桃太郎たちは盗人だ」というのです。 私たちもおとぎ話だから主人公の桃太郎のすることを、当然良いことと認識しているところがあって、物事はよく考えて、偏見をすてて、公平に判断する目を持つことが大切だと言っているのはとてもおもしろ [続きを読む]
  • 「学問のすすめ」のススメ 〜『先生』の不定期ブログ
  •  福澤諭吉がこの本を書き始めたのは明治の4年、37歳の時でした。 彼は初めこの本を、同郷の小幡篤次郎が中津に『市学校』を設立するにあたって、小幡氏と共著で小冊子の形でこの本を出版したのでした。 ところが、これが大いに売れて、結局、明治7年まで次々と書いたものが何回かに分けて出版されました。 今でいえば、不定期のブログのようなもので彼が思いつくままに、日頃考えていたことを書き綴ったものでした。 彼は、 [続きを読む]