城新聞 さん プロフィール

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城新聞さん: 城新聞
ハンドル名城新聞 さん
ブログタイトル城新聞
ブログURLhttp://ameblo.jp/shiro-shinbun/
サイト紹介文これまで趣味で旅行してきた全国の「城」と、仕事で携わる「高校」の紹介
自由文Trying to find dreams are more precious!
I walk to the horizon and there I find another,
It all seems so surprising and then I find that I know.
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供73回 / 365日(平均1.4回/週) - 参加 2014/06/27 00:51

城新聞 さんのブログ記事

  • 第631号楯岡城
  • 別称舞鶴城。現在の村山市の東に位置し、縄張りは、周囲を断崖絶壁を利用し、また、山頂の主郭を中心に東西に伸びる尾根に段々と曲輪を連ねる連格式の山城です。築城時期は諸説ありますが、1208年に前森今嶺が築城した説が最も古い説となります。次いで1261年に里見氏が入部し改築または築城。本城氏と改名し、5代144年間続いたと云われています。室町時代に入ると、山形城主斯波兼頼の孫である満直の四男、最上満国が1406年に入 [続きを読む]
  • 第630号延沢城
  • 別称野辺沢城または霧山城。1547年、延沢満重によって築かれたと云われています。場所は、尾花沢盆地の南東部に位置し、縄張りは、尾花沢盆地に沿って北西方向に延びた古城山と呼ばれる山頂に主郭を中心に、北側と東側の尾根伝いに段郭群を形成した連郭式の山城でした。築城当初は、日常居館を兼ねた館城だったようですが、後に山麓に日常居館を移転。さらに要害部には桝形を敷設し、導線を付け替えて改修したものと推測されます [続きを読む]
  • 第629号清水城
  • 1478年頃、清水満久によって築かれたと云われています。清水満久は最上の祖である斯波兼頼の曾孫であり、鳴沢城主であった鳴沢兼義の次男です。最上氏は北方の守りを固めるため鳴沢満久をこの地に封じ、以後、満久は清水と改称しました。最上川中流域に位置し、縄張りは本丸から最上川一帯が眺望できる河岸段丘を活かした平山城の形式です。日本海から最上川を経由して山形中心へと繋ぐ交通の要衝であったため、隣接する大宝寺武 [続きを読む]
  • 第628号新庄城
  • 1625年、常陸国松岡より6万石で入封した戸沢政盛により築城されました。別名沼田城、鵜沼城。縄張は義兄にあたる山形城主鳥居忠政が取り仕切り、方形の本丸と南に二の丸を、それを取り囲むように三の丸を配した平城だったと云われています。築城当初は本丸に天守がありましたが、1636年の火災で失われ、以後再建されることはなかったそうです。1868年の戊辰戦争では、当初、新庄藩は奥羽越列藩同盟に参加していましたが、久保田藩 [続きを読む]
  • 第627号鮭延城
  • 1563年から1570年の間に小野寺景道の家臣、佐々木貞綱によって、築かれたと云われています。鮭川を見下ろす丘陵地を生かした天然の要害で、この築城を機に佐々木氏は地名に倣って鮭延氏と称し、小野寺氏の南の拠点として統治することとなります。しかし、1581年、最上義光が侵攻を開始すると城主であった鮭延貞綱の子鮭延秀綱は、一度は抵抗したものの最終的に降伏。領土を安堵されたため最上義光に恭順したことで、鮭延城は反対に [続きを読む]
  • 第626号城輪柵
  • 築城時期は定かではありませんが『続日本記』では大和朝廷は712年、出羽国を建都し、733年には秋田城を国府政庁として秋田高清水岡に設けており、1931 年より始まった発掘調査によると、その秋田城から奈良時代末期の780年代に移設されたという説が最有力とのことです。また、庄内平野北部、最上川の北約6kmの日向川扇状地に位置し、1辺約720mの角材列で区切られた方形の外郭とその中央に1辺約115mの築地などで囲まれた内郭によっ [続きを読む]
  • 第625号新田目城
  • 築城年は定かではありませんが、奈良時代末期、出羽国の中心的な役割を持った城輪柵の国司を補佐する「留守殿」の居館として築かれたのが始まりと推定されています。城輪柵からは西北西約1.5km、庄内平野の中央北部、日向川南岸の微高地の場所に位置します。1062年、源義家が出羽国留守職としてに須藤氏を派遣すると、居館として改修し、須藤主馬首助清はここを拠点として1087年から1094年に起きた後三年合戦に従軍し活躍。その後 [続きを読む]
  • 第624号亀ケ崎城
  • 築城年代は定かではありませんが、1478年、大宝寺武藤氏が砂越城の城主である砂越氏に対抗するために築いたとも云われています。1600年代に入るまでは、東禅寺城と呼ばれ、築城から100年あまりは大宝寺武藤氏の支城として機能していました。しかし、1583年、家臣の前森蔵人義長は、主家の大宝寺武藤義氏が越後の上杉氏の支援を得て強権的な政治を行ったことに反発。庄内の領有をめざした最上義光の策謀で内乱が起こると、最上方に [続きを読む]
  • 第623号松山城
  • 1781年、酒井忠休によって築かれた比較的新しい城です。もともと酒井氏の庄内統治は、信州松代10万石の譜代大名である酒井忠勝が14万石で奥羽の外様大名の押さえとして、転封されたことが始まりです。その忠勝の遺言により、1647年、三男忠恒に中山地方・左沢地方の計2万石が分知。忠恒は、1662年に中山陣所を開き、2年後には庄内藩の支藩として松山藩が誕生しました。それから100年以上経ち、3代目藩主忠休が幕府の若の要職勤務 [続きを読む]
  • 第622号藤島城
  • 築城時期は定かではありませんが、708年ごろ平形にという地に国府が置かれた時の府城としての説があります。また、1193年頃に城主として、すでに土佐林次正が伝えられていることからかなり古くあったことがわかります。時を経て、1333年、葉室光顕が出羽国司として下向し、光世、光久と3代続き、1351年には、北畠顕信が後醍醐天皇の孫である守良親王を奉じて東北における南朝方の拠点なりました。その後は土佐林道俊が城主となり [続きを読む]
  • ケルン・鎮魂の鐘と光
  • 昨年の5月に久慈に行ってきたとき立ち寄った「ケルン・鎮魂の鐘と光」。「復興のしるべに」との願いを込め、東日本大震災の教訓を後世に伝えるため一昨年の5月に建てられたモニュメントです。写真の通り、登山の道しるべとなるケルンをモチーフにした円すい形で、高さは久慈を襲った津波高を参考に海抜14.5mに設定。市内で発生したがれきの土台の上に地元の人たちが持ち寄った石を積み上げ、表面には久慈の子どもたちが「絆」や「 [続きを読む]
  • 作家・藤沢周平の人生
  • 前回、鶴岡城の紹介で鶴岡南高校OBとして紹介した藤沢周平。もともと好きな作家ではありましたが、生い立ちやどんな人かも知らなかったので、この機会に調べてみました――1927年(昭和2年)に農家の第四子として誕生。子どもの頃から読書好き、さらには小学6年生の頃、時代物の小説を書いたそうです。それから黄金村国民学校高等科→昼間、印刷会社や村役場で働きながら現・鶴岡南高校(夜間部)→現・山形大学という学生生活を送 [続きを読む]
  • 第621号鶴岡城
  • 鶴ヶ岡城はかつては大宝寺城と呼ばれ、大泉氏の居城でした。1369年前後、鎌倉時代に大泉荘の地頭に任ぜられた大泉氏平の子孫である武藤長盛によって築かれたと伝えられています。以来、武藤は庄内地方で勢力を伸ばしていきましたが、16世紀に入る頃から一族の砂越氏の反乱が目立つようになり、1533年には砂越氏維の攻撃によって大宝寺城が焼亡。そこで1532年から1555年の間に武藤晴時は居城を北西にある尾浦城に移し、大宝寺城は [続きを読む]
  • 第620号寒河江城
  • 1225年から1227年の間に、源頼朝の重臣、大江広元の嫡男である親広によって築かれました。初めは本丸だけの館城だったようですが、度々改築を加え、8代目時氏によって、二の丸、三の丸を設置した三重の堀持つ連郭式平城が完成させました。ただし、いわゆる戦国時代の城郭より時期は早いので、まだ天守閣や壮大な石垣の設備はなかったそうです。その8代目時氏ですが、当主であった南北朝時代、南朝方に属しており、北朝方に属した [続きを読む]
  • 第619号蔵増城
  • 現地の説明板よると倉津安房守によって築かれたとありました。倉津氏は高擶城主である斯波義直が後に倉津安房守と名乗った説、義直の子孫説など諸説あり、定かではありませんが、個人的には築城時期は1470年前後だったと推測します。縄張りは、複郭の平城で、主郭を囲むように二の丸、二の丸西に三の丸などの曲輪を配していました。また、倉津氏は仏教信仰が厚く、領内に多くの寺を建立。蔵増地内だけで6寺あり、現在でも安房守 [続きを読む]
  • 第618号天童城
  • 別称、舞鶴城。1336年、南朝方に属していた北畠顕信の5代目の子孫であると云われる天童丸が、館を築いたのが始まりです。以来、約40年にかけて山形の斯波氏に対抗して武装化していったことが伝えられています。しかし、南北朝時代の終焉と共に勢力を失い、以後天童丸の消息は不明。一説には陸奥国津軽へ落延びたともされています。天童丸が去った後は、清和源氏の子孫である里見義直が天童の領地を支配しましたが、後継ぎに恵まれ [続きを読む]
  • 第617号高擶城
  • “たかだま”じょうと読みます。山形盆地のほぼ中央、天童市南西部に位置し、方形をした平城です。現地説明板よると1410年頃、最上氏2代斯波直家の四男義直が館を築いたのが創始と云われています。当初は、南朝方の大江氏に対して、単独で戦える城ではなく、天童山城と連携した戦いを想定して造られたそうです。1470年頃以降から改修され、城の形態は、主郭を中心に外堀を含めると4重の水堀からなる輪郭式城郭に整備されました。 [続きを読む]
  • 第616号中野城
  • 応永年間の1394年から1427年にかけて、最上満直の二男である満基によって築城されました。館式の平城で東西南北に門を設置し、南門を大手口の構えだったそうです。縄張りは、徐々に拡張され、最終的には東324m、西360m、南200m、北300mの堀と石垣に囲まれた規模にまで及びました。その後、満基の子、道基から中野氏を称して居城としました。各地に配された最上氏の氏族の内でも中野氏は宗家最上氏との関係が最も強く、最上氏に世 [続きを読む]
  • 第615号中山城
  • 1558年から1572年にかけて米沢城主伊達輝宗の家臣である中山弥太郎によって築かれたと云われています。場所は、北方最上領との境に位置し、標高344m天守山の頂上に本郭を置き、周辺斜面に広いニノ郭、三ノ郭を置き、緩斜面を利用した複数の腰曲輪を設けて本郭周囲を固めた縄張だったようです。前回、紹介した上山城と同じくこの地は度々合戦の舞台となっており、1514年に伊達稙宗は最上義定と戦い、1574年には最上義守と義光親子 [続きを読む]
  • 映画「沈黙」-サイレンス
  • 昨日、鑑賞してきました。遠藤周作の小説「沈黙」を、巨匠マーティン・スコセッシが映画化した歴史ドラマです。主演は、アンドリュー・ガーフィールド。他出演は、アダム・ドライヴァー、窪塚洋介、浅野忠信、イッセー尾形、リーアム・ニーソンと豪華な顔ぶれ。それと自分も大好きな塚本晋也監督も出演してます。 舞台は、17世紀の江戸幕府によるキリシタン弾圧が激しかった長崎の外海(そとめ)。ポルトガルから [続きを読む]
  • 第614号上山城
  • 「かみのやまじょう」と読みます。また、別名、月岡城。天文4年に1535年、上山義房の子、武衛義忠によって築かれました。縄張りは、本丸を囲んで一段低く周囲に二の丸があり、外濠が取り巻いた平山城で、往時は、三重の天守や各所に櫓門がある近世城郭であり、その壮麗な城郭は「羽州の名城」として広く知れ渡っていたそうです。そもそも羽州街道の要衝の地であるこの一帯は、南北朝時代、天童頼直の子、上山満長が配されたこと [続きを読む]
  • 第613号高畠城
  • 築城年は定かではありませんが、承安年間の1171年から1175年ごろに奥州藤原氏、藤原秀衡の従兄弟にあたる樋爪五郎季衡が築城したと伝えられています。文献上では、その後しばらく間を置き、当時の領主であった米沢の長井氏を滅ぼした伊達儀山公政宗によって、応永年間の1394年から1428年ごろに修築が行われたそうです。場所は、置賜盆地から白石に繋がる街道の置賜側の入り口に位置し、陸奥、出羽間の交通の要衝地でした。縄張り [続きを読む]
  • 最後の出陣
  • いよいよ今年最後の出陣は、世界遺産の軍艦島。予約制のクルーズを利用したのですが、暮れにもかかわらずなんと満席状態(@_@)1コース70〜80人はいたと思います。9時過ぎに長崎港を出港。高島を経由していざ軍艦島へー。天気は晴天で海も穏やかで無事上陸。滞在は20分くらいで短い時間でしたが、ガイドさんの解説がとても上手で見どころもおさえながら満喫できました。12時半前に長崎港へ帰港。これで1週間(高知→愛媛→大分→宮崎 [続きを読む]
  • 1000城達成!
  • 本日、愛媛県で念願の登城1000城達成しました!目標にしていた5年以内はなんとかクリアしたものの、まだ九州エリアで日本百名城の一部で行っていないところもあるので、これからフェリーで八幡浜_臼杵経由で九州に向かいます。 初登城の城跡と併せて廻ってきた松山城と大洲城。愛媛県はこの他、今治城と湯築城、宇和島城も日本百名城です。全国屈指の名城ぞろいのよいスポットでした。 では [続きを読む]