クリスチャンの受けている恵みは計り知れない。日々どんなことも神を頼り、祈り求めることができる者とされたから。困ったときは当たり前のように話し、聞いていただいている。もし神と繋がりも関係もなければ、父と呼ぶこともできず…人生で身にふりかかる苦難に押し潰され
クリスチャンの受けている恵みは計り知れない。日々どんなことも神を頼り、祈り求めることができる者とされたから。困ったときは当たり前のように話し、聞いていただいている。もし神と繋がりも関係もなければ、父と呼ぶこともできず…人生で身にふりかかる苦難に押し潰され
神に祈れることはすばらしい。♪告げよ主に 告げよいま うちにある悩みを…主が知ってくださるだけでも…幸せ者だと思う。どれほど多くの問題や悩みを主に聞いていただいたことか、数えきれない。時には的外れなことさえ…あわれんで助けてくださった。これらはとても有り
…… ……「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしているとわかります。」Ⅰヨ
老いたからわかったことも多いけれど、老いも若きも関係なく…みことばの語りかけに真剣に向き合うことを切に願う。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に。」伝道者の書12:1「結局のとこ
~みことばの糧~より「わたしは、高く、聖なる所に住み 打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり」イザヤ57:15【 だれでも、その人のかたくなな心が砕かれなければクリスチャンになることはできません。 心を砕かれるのは神です。しかし神にとってもそれは容易な仕事
意識してもしなくても、人が求めているものは、まことの神からの恵みと平安だと思う。神がくださった「救い」とか「永遠のいのち」というと先のことのように思ってしまわないだろうか。それもあって、福音を伝わりにくくしているかもしれない。「…私たちの神であり救い主で
これ以外にも、回りの人によって知らず知らずクリスチャンに加工され市民権を得た人もいる。ひどい場合は、教会やクリスチャンに好意的・協力的な人だったという理由で…取り巻きが救ってしまう?等々。(あんな良い人を神が滅ぼすハズはない…と。)永遠を思うとき、なおざり
未信者の祈りは聞かれるか…について学んだことがあった。もちろん聞かれる、と思っていたし、そう言いたいところだが…考えさせられる。信者と未信者=(キリストにある)義人と罪人=神に属する者と悪魔に属する者=・・クリスチャンが祈るとき、イエス・キリストの聖名によ
「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」ヘブル12:5-6咋年末わが家を見舞った青天の霹靂。あぁ人生とはこういうものなんだ、と実感した。「もしあな
今年もあと一日という時に…心配事も大小あったけど守られて、年を越せる…と安堵していたが・・一番身近なところで問題が発生した。内容は話せないが、私と近くの息子におおきな重荷が・・青天の霹靂とはこれか!今朝も主を仰ぎ見る。~いと高き方のもとに~の一文【 「イ
~いと高き方のもとに~より【 「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」ガラテヤ5:24 霊の戦い 罪は地獄と悪魔に属するものである。私は神の子供として、天国と神に属している。罪を捨てているか、
福音を伝えたいと思うのに…、なんと伝わらないことをやってきたことか・・そればかりか、真理に導く妨げにさえなる・・いまこのみことばが、タイムリーに私の心にしみてくる。「私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによ
~いと高き方のもとに~より【「私たちは、この御子のうちにあって……罪の赦しを受けている。」エペソ1:7 神の赦し 「神は優しく、愛に富んだ方であるから、私たちを赦すのは当然である」というような、自分に都合の良い方法で、父なる神を見ることは、気をつけるべきで
クリスチャンが最初に必ず踏まなければならないベースがあることに気づかされた。この聖歌に表されていると思う。♪~あなたのつみあやまちは しまつされてあるか神なるキリスト・イェスを信じ救われたか罪を悔いて 誰もすがれイェスにイェスは十字架の血潮で 罪をきよめ
キリストにあって変えられ、キリストに根ざして生きている先輩クリスチャンに対して、私はその生き方を見倣っていたのに過ぎなかった。それは「新しい私」ではなく、生来の私のままでクリスチャンらしく生きようとしていただけ。教会を離れるのは自己責任なので、ひとりで重
30年余り在籍した母教会を離れてから…長い年月を経て~一昨日は久しぶりに二人の姉妹と顔を合わせた。お互い高齢者となり、もう会えないかも知れないから一度会いたい、ということで急遽お声がかかった。懐かしい思いもなければブランクも感じなかったのは、ずっと主にあっ
万年求道者の息子は、何かあるごとに「祈って○○します」などという。祈ることが悪くはないが、最近はちょっと違うよと言いたくなる。大抵は「祈りながら(希望がかなう方へ)行きます」という感じだから。先日も願い通りにならなかった一件について、「祈りながら打開策を練
穏やかな日にもそれなりに悩みはあるが、主に頼れることを感謝できている。しかし、手に負えないようなことが起こると頼れることはわかっているのに…自分で重荷を負い過ぎてしまう。クリスチャンとして生きるということは、問題もなく喜び楽しめる人生ではないし、それが祝
イエス・キリストにしか救いがないこと。クリスチャンなら当然知っていなければならない、大切な理解。~いと高き方のもとに~より【「ひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり……全人類が罪を犯した。」 滅びへの経路 聖書は、ひとりの人の罪のため
事故で入院中の姉を見舞った。当初は声も出せなかったが、話ができるようになった。面会を楽しみにしていると聞いて…中学時代の大親友が来てくださり、昔話に花が咲いていた。その間、待合室で甥っ子が言い出したことが~いま家系図を作っているとのこと。(姉の話が間違って
救い救い救い・・信じた初めの頃から~よくも悪くも一途に「人の救い」が私にとって最大の関心事となり、そうでない人が不思議だった。が、思えばそれは…さばきに対する恐れに起因していたと思う。そんな信仰が長かった。ところが今あることをきっかけに、突如として自分の
切実な祈りではあるが、毎日同じような祈りを繰り返していた・・ある時、「何を祈ればいいのかわかりません、誰のことを祈ればいいでしょうか?教えてください」と神に問いかけてみた。そんなに切実な思いではなかったが、どんな小さいことでも何かできることはないか…と。
選びが神の一方的な意志によるものならば、「私」には選ばれる理由も価値もなかったけれど選ばれたのであり、これこそが「恵み」(受ける価値がないのに与わった)というもの。それでも人は勘違いして、自分には何かしらマシなところがあったから救いに選んでくださった…と、
♪(讃美歌239)さまよう人々 たちかえりてあめなる御国の 父を見よや罪とが悔やめる こころこそは父より与うる たまものなれ人が自分の罪を認めることはなんと難しいことか!と言うより、不可能であることをつくづく思わされる。どんなに一生懸命話しても届かない…人が人
予定説と予知説があることも、それがどんな内容かも…よく知らないまま過ごしていた。ある時期に突如として、自分の信仰(救い)は大丈夫なんだろうかという思いがわいてきた。あんなに「信仰だけはある」と揺らがず歩んで来た私が・・(クリスチャンであることが、生きる上で一
みことばに従ってみた。若い頃は怒ったことがないような夫だったが、年をとる毎に自分のやりたいこと思うことを押し通すようになった。考え直したり改める気が少しもないのは空返事でわかる。大抵のことは構わなくなったが、どうしても止めなければならないこともあるのだ。
この40~50年間だけを見ても、世の中の考え方や道徳の基準が いかに変わってきたことかと思う。中には進歩したこともあるが、人の都合で知らず知らず悪い方に変わりやすい。昨今の国内(政治)の問題等をはじめとして…様々な情報も、冷静によく考えなければならない。何よりも
なぜか最近夢の中で、イエスさまに助けを求めることがよくある。また祈っている声で目が覚めたり、夢か…と気づきながら…よくわからないのに最後まで祈る。イエス・キリストの御名にある(血の)力を頼みとする思いが強くされていることもあり、祈りの最後も「イエス・キリス
自分のことでなくても、この世を憂い思い煩いにとらわれてしまう日常の中で、主の祈りをするとき、地上から天に視点がかわると感じる。 御名が聖なるものとされますように 御国が来ますように ……神の国と神の義がもっとも大切で求めるべきもの…いと高き聖なる方が、造
旅と言っても電車で1時間、隣県に住む息子の所だが。普段車しか乗らない、それもバラバラ別行動派の高齢夫婦…何日も前から交通手段や時刻・料金等を調べた。車で行きたがる夫をどうにか説き伏せた手前、私に重荷がのしかかる。駅近くの大型駐車場に止めるのも初めてなら、駅
1週間の間に、元気一杯だった親友(幼なじみ)の突然の死。96歳で召された母教会時代の姉妹。それぞれと過ごした頃の思い出が、笑顔が、次々に思い起こされる。それと共に、死が身近になり、「死」の重みを考えさせられた。最近は可能な限り式には出ないで、早い時間に小さい花
~いと高き方のもとに~より【「しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら……人のうちにあるものを知っておられたからである。」Ⅱヨハネ24-25 神を第一に まず神を信頼せよ。私たちの主は、誰も信頼されなかった。しかし彼は、人に対して懐疑的
~いと高き方のもとに~より【「絶えず祈りなさい。」Ⅰテサロニケ5:17ー祈りの答えー 私たちは祈りに関してさまざまなことを考える。祈りについて、私たちにとって呼吸をするようなものであり、心臓から送り出される血のようなものであると考えればよい。私たちの気づかな
「悲しいお知らせで…」と家に電話をくれた友は中学時代から数えて約65年間の友N子さん。急逝したのは、さらに小学校からの友だったY子さん。何かのきっかけで年に2~3回、我が家で会うようになった。それがお互いに都合がよかったので。そんなにしょっちゅう行き来していな
~いと高き方のもとに~より【「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」マタイ6:33 求める順序 このイエスのことばに接する時、私たちは何かこの上もなく革命的なことを聞いてしまったように思う。「ま
若かりし頃、子供たちが主に依り頼んで生きてほしいと…願いを込めて歌っていた讃美歌510番。成人したら当然皆がクリスチャンとして歩んでいることを想像していたが😊・・信仰とは、とにかく神を信じればいいというものではなかった。(当時、私自身が信仰とは何か?まだまだ
「いと高き方のもとに」より【 「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。」Ⅰぺテロ4:17 ー神のさばきー 救いは神の意図したことであって、人の考えによるものではないことを、キリスト者の働き人はよく心にとめておくべきである。神の救いは、私たち
〈イエス・キリストを私の救い主だと信じるなら、罪が赦されて救われる〉これに似たような信仰で、クリスチャンとしてスタートした人が多いのではないかと思う。しかし、それまで自分の向かっていた方向と逆の方に向きを変えて生きる(悔い改める)ほどには捉えなかったかも。
人が神に立ち返ってキリストの道を行くには、神の恵みがなければできないことを思わずにいられない。小さい頃から毎週教会学校に通い…ある時点で洗礼を受けた人、または教会へ行かなくなった人など様々だけれど、聖書の話を聞いて育ったなら、少なくとも天地の創造主がおら
軽い風邪は時々引いておく方が良いらしい。滅多に風邪を引かない夫と私が続けて寝込むことになり…キツかった。「どんなに祈っても、『いやされよ』と命じても良くならず苦しかった」と息子に言ったら、「(まだいやされていない)現実を見るのじゃなく…」とか言われ(^^;確か
「人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。」詩篇8:4クリスチャン生活で、悪いと思うことには敏感だが、良いことをしていない罪については気づきにくい。自分に関して言うと(分かりやす
神についてわかっていないことが多すぎる、と思った。「知っている」と思っていた一番大事なことさえも・・~「日々のみことば」より~【 神は、実に……お与えになったほどに、世を愛された。 ヨハネ3:16 [神の側の放棄] 救いとは、単に罪からの解放や、個人的なきよ
夕方買い物帰りに、よく通る大型スーパー周辺の道を車で走っていた。信号のない交差点…私の方は優先道路だが、たまに一旦停止せずに横切る車があるので いつも気をつけている。(右からの車は少なく…)左側の車がしっかり停止してくれていたので、ありがたく…徐行から少しア
信仰義認と聞くと、〈不敬虔な者だけれど、ただ信じただけで義と認められた…〉と軽く受け流してしまいそうだが・・その実体は、「転嫁される」という…思えば思うほど 考えられないような重いことだった。「転嫁」の意味は=罪や責任を他人になすりつけること、とある。まさ
44年余り前に洗礼を受けた。その後の婦人の会で祝っていただいたとき、一人の姉妹が言われたみことばをいつも思い出す。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは……」ヨハネ15:16私は長い間、「本当の
問題を見続けると問題も不安も大きくなっていくが、神に目を向けご自身を見続けることによって神への信頼を取り戻せて、心が落ち着いていくのを感じる。神の偉大さ・不思議さを思えば思うほど…ますます神がわからなくなると同時に…かけ離れた存在のお方だ…とわかる。そん
信仰生活も30年以上経ってから、〈自分は新しく生まれていないかも知れない〉という疑問を持ち始めた。青天の霹靂だった。それは信仰のスタートからのやり直しを意味する。確かな「神の(御霊の)いのち」を受けたいと、どんなに願っても、求めても…がんばってキリストの元に
何年ぶりかで、366日の黙想「いと高き方のもとに」(オズワルド・チェンバーズ著)を今年の日課にすることとなった。この本は、一貫して「神との正しい関係」にあるかどうかを問われていたと思う。今の私に必要な、今だけでなく生涯にわたっての課題だ。[まえがき]から一部を抜
信仰の友と話すとき、世の人とは違う幸いを感じるのだが、救いのところに及ぶといつも何とも言えない平行線にぶつかることがあってむなしい。先日久しぶりに義妹と電話で話した。彼女は、人の信仰(救い?)には寛大で、一言で言うなら(とにかく神の愛を持って祈っていれば必ず
よく知られているヨハネ3章16節「……それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」「それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」15節父なる神がひとり子をお与えになったのは・・このためだった・・イエ
♪~友よ読みしや 主がわれらのため十字架の上にて 苦しみしをみ手とみ足のみか 心も裂けて君は死にたまいぬ われらのため (聖歌401より)「水のように 私は注ぎ出され骨はみな外れました。心は ろうのように私のうちで溶けました。」詩篇22:14
~朝ごとに~より【「事の終わりは、その初めにまさり……。」(伝道者7:8) ダビデの主を仰ぎ見よ。その初めがどうであったかを思え。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。」あなたはその終わりを見るか。主は父なる神の右に座し、その敵を
思い、願い、祈りを与え…応えてくださる主。折にかなった知恵を与え、悔い改めを与えてくださる主。すべてを神からいただいた一年だった。実際は、弱く思い煩いの多い者であるのに、振り返れば主の恵みの中で…豊かに生かされた。一つ一つのことに、良いタイミングが…良い
世と人に期待したり頼ろうとする考えはほどほどにしないと、どこかの時点で失望することになる。もしそうならなくても、神の力・恵みを知ることができないのは大損失だ。神の主権を当然と認め、その恵み深さに信頼するとき心は安らぐ。もっともっと神御自身を知りたいと思う
~朝ごとに~より【「イスラエルは妻をめとるために働いた。彼は妻をめとるために羊の番をした。」ホセア12:12 ヤコブはラバンと言い争って、自分の労苦を次のように語っている。「私はこの二十年間、あなたといっしょにいましたが……野獣に裂かれたものは、あなたのもとへ
「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、…」マタイ、マルコ、ルカにある。どうしても自分のいのち(感情や意思や自我)を大事にしてしまう。かなり手放してきたつもりでも、いのちがある限りそれはなくならない。死んで葬られることなしには。自分ひとりではどうにもで
久しぶりに…破れ障子を張り替えてすっきりと明るくなった。出来上がってみれば、たったこれだけのことに悪戦苦闘した?一番厄介だったのが古い紙を剥がしたあとに、障子の桟にこびりついている糊と過去の紙の残骸・・多分前回きれいにしないままで貼ったのだろう。大半の労
「だれも、悪に対して悪を返さないように気をつけ、互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うように努めなさい。」Ⅰテサロニケ5:15毎日のように、(夫の)悪に対して悪を返していた私。詳細は言わないが・・気づいて改めてほしい一心だった。今日もまた新しい悪対
自分の生きている限りは、神とイエス・キリストを伝えたいと思うが、それほど出会いの機会はなく…(いや、出会うより祈ることが先かも)。しかし、現実の私は自分のことが第一だった・・ということに気づき始めた。77歳。自分の健康状態によって生活が左右されていく。若い頃
世の価値観が変わっていくように、聖書から語られる内容が変わってきたのを感じていた。悲壮な思いと覚悟を持って、初めて教会の敷居をまたいだ自分の頃とは違い・・ある頃から、教会や聖書のことばに対して好意的な人が増え、人々が気軽に教会に出入りするようになった。先
時々メールでやり取りしている近所のM子さん。「エリザベス女王の国葬の荘厳さに見いってました」とあったので…そこは同感だけれど~、「神の子(クリスチャン)となって死ぬというのは、見た目はどんなに質素でも、あの女王さまに劣らず神に喜んで迎えられるのです。そんな最
ユーチューブで知って、聞いてみたいと思っていた。簡単そうなのに💧…結局 息子にスマホに入れてもらった。(^-^;創世記をちょっと聞き・・今日は、黙示録1章を聞いてみた。ゆったりとして重みが感じられて、ただ文字を目で追うよりも心に入って来るように思った。〈これを無
今日9月10日は中秋の名月だという。昨年9月20日?の真夜中に、洗濯物を干すために物干しに出たところ、ライトで照らされたような月の光を浴びてびっくり 感動したのを思い出す。中秋の名月イブで人生初、真夜中の名月観賞だった。去年たまたま調べたら、中秋の名月と満月が重
~祈りは奇蹟を生む~より【 [リバイバルが起こる]「そのとき、主は仰せられた。『息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いてこい。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。』」(エゼキエル37:9) バ
(信仰の原点に立ち返る・・)【ー 必要が与えられる ー「また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15:16後半) ヨハネの福音書15章16節の前半では、主イエス・キリストによるクリスチャンの選びと、その
少し前、夢や啓示によって~携挙が近いことや悔い改めるべきことを~知らせている動画(walk by Faith Japan- )を見る機会があった。その真剣で切実な訴えは、大いに私の目を覚ましてくれた。惑わしと嘘の多い世がかなしくて携挙を待ち望んではいたけれど…、そうは言っても〈
詩篇146ハレルヤ。わがたましいよ 主をほめたたえよ。私は生きているかぎり 主をほめたたえる。いのちのあるかぎり 私の神にほめ歌を歌う。あなたがたは君主を頼みとしてはならない。救いのない人間の子を。霊が出て行くと 人は自分の土に帰りその日のうちに 彼の計画は
ダニエル書3章を開く機会があった。シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの信仰は、クリスチャンなら見倣いたい大好きな話だったが、今読むと喜びよりも危機を感じる。「ネブカドネツァル王は人を遣わして、太守、長官、総督、参議官、財務官、司法官、保安官、および諸州のす
祈りには色々な求めや願いなど沢山の種類があるが、基本的には自分の願うことを「…してください」と祈ることが多いと思う。けれども祈りがきかれるためには、折々に適した(祈りについての)みことばがあるのではないか。ただ祈り続けるより、願いに合った祈りをしてみるべき
終末の今…世の中の状況(実態)に目を向けて失望している人が少なくないことを思う。それでも、若い人たちが本や情報から広く学びながら、悲しみ苦しみの先に生きる力を見いだそうとしていることを、最近私も知った。探し求めているこの人たちがどうか、世の解決でなく~天地
キリストを信じた者同士が「天国で会う」とよく聞くが、天国とはどこのことで、どんなからだで会うのかということについては漠然として曖昧だった。死んだら天国に行く…とのイメージは、世の人とどう違うのか…クリスチャンが行こうとしているゴールへの道筋を、聖書から知
【 「神は……イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。」(Ⅰテサロニケ4:14) 世を去ったたましいが無感覚のままで眠っていると考えないようにしよう。「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」というのが、すべての臨終の聖徒
わが家は普通の一軒家だが、なぜか、エレベーターで自宅に帰ろうとしていた夢を見た。他に1人か2人乗っていた。突然故障してどんどん上の階に上って行った。仕方なく止まったところで乗り換えて、下へ降りようとしたが、それもまた高層ビルの最上階まで行って止まった。回り
45年ほどの信仰の歩みは紆余曲折だったが、私には必要な行程だったと思う。今ようやく、知識で知っているだけでなくリアルに主イエス・キリストを知りたい、感じてみたいと思うようになった。それには御霊のお働きがなければ・・だから聖霊を求める。「御霊はわたしの栄光を
【 わたしたちがほかの人のために祈るとき、神の御霊はその人たちの無意識の領域に働きかけてくださいます。わたしたちのまったく知らない領域、わたしたちの祈っているその本人自身も、まったく知らない領域です。しかし時が経つにつれて、その人の意識した生活に、不安と
【《祈るときわたしの心にあるのはどんなことか。わたし自身の必要か。それともキリストの全能の力か。》 全能の主なる神、あなたは雀のことを心にかけてくださり、わたしたちの髪の毛を数えてくださいます。そのことを知らされて、どんなにわたしのたましいは喜ぶことでし
あるメッセージを聞いたあとで、悔い改めることが次々思い浮かんで、主の前に言い表してみた。自分の怠惰によるものが多い気がした。自分の力では変えることもできず、気づいたのは良かったけれど、これからどうしたものか・・思いつく限り神に話したあとに、「いま、まず何
前回の記事はあまりにも中途半端だったので、ちょっとだけつけ加えると・・私たちのこの世の旅路は天をめざす途上なので、今のことだけに囚われるのでなく、あくまで永遠につながっている道であることを忘れてはならない。鳥瞰図を見るように・・このようなことを会話しなが
神を求める人に出会いたいものだ。この恵みの時代が終わらないうちに、(あの人この人を思い)~罪に気づき神に立ち返ってほしい、救いを受けてほしい~と願い祈っているが、そんな人はまだ現れない。(天ではきかれていても…空中で手間取っている?)今日は、自分が何かにつけ
惑わしの多い時代だと感じる日々…自分はもう年だけれど、中年の息子たちや若者、幼い孫を思うとき~この時代を生きていく人達は大変だなぁと、つい思い煩ってしまう。頼みとするのは、道であり真理でありいのちであるイエス・キリストただおひとり。どんな状況下にあっても
高齢者でもあり、世の中の状況からも考えさせられた一年余りだった。神からいただいたこの精巧な体と自然治癒力を大事にしたい、そしていやし主イエスさまを頼って、あまり過度な医療を受けず…願いとしては自然体で死んでいきたい…と思うようになっていた。そんなときに、
「祈りの時」を変える黙想【わたしが祈るとき、自分のために祈っていることがどれほど多いことだろう。そして、どれほどが神のための祈りになっているか。自己中心を少しでも捨てるために、どのように祈りを変えたらいいだろうか。 もしあなたが祈りの賜物を持っているなら
キリストの血がなければ、神に直接祈ることなどできなかった。この「血」に信仰の土台を据えるときに、テサロニケ5章で言われていることにアーメンできた。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神
めいぐるみや少しの信仰書が置いてある雑然とした棚から、目にはいってきた本。オズワルド・チェンバーズの「『祈りの時』を変える黙想」。多分最初の方しか読んでいないハズ..今こそ読んで見よう!と思った。はじめに (と書かれた、最後のところを抜粋してみる)【……
~「朝ごとに」より~【 「キリストの、尊い血……。」(Ⅰぺテロ1:19) 十字架の下に立ち、尊い血潮のしたたる両手両足と脇腹を見よ。その御血潮が尊いのは、贖罪の効力があるためであり、それによって民の罪は贖われ、律法の下から解き放たれ、神と和解させられて一つにさ
~スポルジョン~より【「大ぜいの民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが、イエスのあとについて行った。(ルカ23:27)」ー前略ー カルバリに十字架を運ばれる救い主を思う時、私のたましいは、敬虔な婦人たちに加わって共に泣く。なぜなら、そこに真に悲しむべき理由
現実味をおびて、いざ自分をささげるとなると、一気に思い煩い旋風に吹き荒らされる。(>_<)♪私は神のもの ゆえに神にささげんみこころのままに おさめよ主イェスよ初信の頃には、♪せめもはじも 死もほろびもなにかはあらん 主にまかせて他にも、沢山の賛美をよろこび勇
必要な情報もあるかもしれないが、日々繰り返される報道には疲れさせられる。何事においても、どちらかというと不安に陥らせているとすら感じる。すべての内容が本当のことならば、そんなに煽らないで…(原発事故の時のように・・ただちに影響しないから心配はない、)ミタイ
あまりに不誠実な世のことを思っていたら、ふと思い出した讃美歌〈♪ひかりとやみとの ゆきかうちまた~〉どんなに善い人に見えても、高い地位の人でも。なにせ、神の側についていない人は みな悪魔の側の人だから..残念だけど騙しは付きものだと知るべし。情報天国のよう
最近思わされたこと。祈るとき、そこにイエス・キリストという土台が据えられていただろうか…目的が 人の救いであれ、自分の求める神の平安でさえも、キリストから離れて願うことがよくあると思う。私たちの信じること願うことのすべては、キリストの贖いがあってこそ神に祈
黙示録の結末は、賛美と喜びだった。「私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができたのだから。」黙示録19:7黙示録が恐いと思うのは、あらゆる欲と富を求めているこの世に流されているからかもしれない。神はこれらをさばかれたから。
数十年の間、教会で黙示録からのメッセージを聞いたことはほとんどなかった。なにか、触れてはいけないような…自分でも黙示録だけは特別訳がわからなくて、恐ろしいイメージがあった。その後 個人的に少しずつ知る機会があり…それでも…何度聞いてものみ込めず 怖い印象ば
「朝ごとに」より【「彼の生活費は、その一生の間、日々の分をいつも王から支給されていた。」Ⅱ列王25:30 エホヤキンは王宮を出る時、生活費を日払いにされることに決められて退出した。これはすべての主の民の幸福な状態を描いている。 実際に必要なものは、その日その
注ぎたまえ主よ 恵みとあわれみを天がひらくため祈る 聖霊の力を主の御霊よふれたまえ わが心に主の教会に雨を降らせリバイバルを 来たらせたまえこの地のうえに受ける価値なきわれら 御前に進み祈るああ栄光のみわざ 見させたまえ主の御霊よふれたまえ わが心に主の
~朝ごとに~より【 私たちはだれでも、次の命令を聞く時が必ずある。「立って、あなたが住んでいた家庭、あなたが生業をいとなんでいた都、あなたの家族、あなたの友人を去れ。立ってあなたの最後の旅にのぼれ」と。 この旅について、私たちは何を知っているだろう。私た
朝 目覚めると感謝しながら神さまを思い、日々の恵みを喜び、過去の事ごとを振り返る。過去の多くは恥といたらなさ…(今になって気づき悔い改める)そんな者にも関わらず、神は大小それら一切を無駄で終わらされなかったと思う。懐かしく幸せな思い出もあるが、悲しみや苦しみ
ひとけのない一階に降りると格別に寒い。3週間前には息子や孫が(安宿のように)入れ替わって寝て行った部屋に入ると…なぜか…思う~夏草や 兵どもが 夢のあと~ (^^;俳句は詳しくないし自己流の解釈だが、この俳句が勝手に浮かぶ。一瞬の賑やかだったときが過ぎて、仮
今の時代ほど救いを願ったことはなかった。世のどんなことにも勝って、人がキリストに引き寄せられるよう祈りたい。「わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。」ヨハ
何年か前からお正月らしきことはしなくなっていた。昨年11月のうちに次男から元旦に来る予定を知らされ、一気に目が覚めた。(良い点はいつも早めに言ってくれるところ)まだ見ていない2才になる孫を連れて来るには、この時しか都合がつかないのだろう、とOKした。以前から私的
短いメールで、長男に初めて 私の今の気持ちをぶつけた…その後に読んだ「朝ごとに」はあまりにタイムリーだった。【 「ここまで主が私たちを助けてくださった。」Ⅰサムエル7:12 「ここまで」とのことばは、過去のすべてを指すように思われる。二十年あるいは七十年の間、
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クリスチャンの受けている恵みは計り知れない。日々どんなことも神を頼り、祈り求めることができる者とされたから。困ったときは当たり前のように話し、聞いていただいている。もし神と繋がりも関係もなければ、父と呼ぶこともできず…人生で身にふりかかる苦難に押し潰され
神に祈れることはすばらしい。♪告げよ主に 告げよいま うちにある悩みを…主が知ってくださるだけでも…幸せ者だと思う。どれほど多くの問題や悩みを主に聞いていただいたことか、数えきれない。時には的外れなことさえ…あわれんで助けてくださった。これらはとても有り
…… ……「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしているとわかります。」Ⅰヨ
老いたからわかったことも多いけれど、老いも若きも関係なく…みことばの語りかけに真剣に向き合うことを切に願う。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に。」伝道者の書12:1「結局のとこ
~みことばの糧~より「わたしは、高く、聖なる所に住み 打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり」イザヤ57:15【 だれでも、その人のかたくなな心が砕かれなければクリスチャンになることはできません。 心を砕かれるのは神です。しかし神にとってもそれは容易な仕事
意識してもしなくても、人が求めているものは、まことの神からの恵みと平安だと思う。神がくださった「救い」とか「永遠のいのち」というと先のことのように思ってしまわないだろうか。それもあって、福音を伝わりにくくしているかもしれない。「…私たちの神であり救い主で
これ以外にも、回りの人によって知らず知らずクリスチャンに加工され市民権を得た人もいる。ひどい場合は、教会やクリスチャンに好意的・協力的な人だったという理由で…取り巻きが救ってしまう?等々。(あんな良い人を神が滅ぼすハズはない…と。)永遠を思うとき、なおざり
未信者の祈りは聞かれるか…について学んだことがあった。もちろん聞かれる、と思っていたし、そう言いたいところだが…考えさせられる。信者と未信者=(キリストにある)義人と罪人=神に属する者と悪魔に属する者=・・クリスチャンが祈るとき、イエス・キリストの聖名によ
「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」ヘブル12:5-6咋年末わが家を見舞った青天の霹靂。あぁ人生とはこういうものなんだ、と実感した。「もしあな
今年もあと一日という時に…心配事も大小あったけど守られて、年を越せる…と安堵していたが・・一番身近なところで問題が発生した。内容は話せないが、私と近くの息子におおきな重荷が・・青天の霹靂とはこれか!今朝も主を仰ぎ見る。~いと高き方のもとに~の一文【 「イ
~いと高き方のもとに~より【 「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」ガラテヤ5:24 霊の戦い 罪は地獄と悪魔に属するものである。私は神の子供として、天国と神に属している。罪を捨てているか、
福音を伝えたいと思うのに…、なんと伝わらないことをやってきたことか・・そればかりか、真理に導く妨げにさえなる・・いまこのみことばが、タイムリーに私の心にしみてくる。「私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによ
~いと高き方のもとに~より【「私たちは、この御子のうちにあって……罪の赦しを受けている。」エペソ1:7 神の赦し 「神は優しく、愛に富んだ方であるから、私たちを赦すのは当然である」というような、自分に都合の良い方法で、父なる神を見ることは、気をつけるべきで
クリスチャンが最初に必ず踏まなければならないベースがあることに気づかされた。この聖歌に表されていると思う。♪~あなたのつみあやまちは しまつされてあるか神なるキリスト・イェスを信じ救われたか罪を悔いて 誰もすがれイェスにイェスは十字架の血潮で 罪をきよめ
キリストにあって変えられ、キリストに根ざして生きている先輩クリスチャンに対して、私はその生き方を見倣っていたのに過ぎなかった。それは「新しい私」ではなく、生来の私のままでクリスチャンらしく生きようとしていただけ。教会を離れるのは自己責任なので、ひとりで重
30年余り在籍した母教会を離れてから…長い年月を経て~一昨日は久しぶりに二人の姉妹と顔を合わせた。お互い高齢者となり、もう会えないかも知れないから一度会いたい、ということで急遽お声がかかった。懐かしい思いもなければブランクも感じなかったのは、ずっと主にあっ
万年求道者の息子は、何かあるごとに「祈って○○します」などという。祈ることが悪くはないが、最近はちょっと違うよと言いたくなる。大抵は「祈りながら(希望がかなう方へ)行きます」という感じだから。先日も願い通りにならなかった一件について、「祈りながら打開策を練
穏やかな日にもそれなりに悩みはあるが、主に頼れることを感謝できている。しかし、手に負えないようなことが起こると頼れることはわかっているのに…自分で重荷を負い過ぎてしまう。クリスチャンとして生きるということは、問題もなく喜び楽しめる人生ではないし、それが祝
イエス・キリストにしか救いがないこと。クリスチャンなら当然知っていなければならない、大切な理解。~いと高き方のもとに~より【「ひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり……全人類が罪を犯した。」 滅びへの経路 聖書は、ひとりの人の罪のため
事故で入院中の姉を見舞った。当初は声も出せなかったが、話ができるようになった。面会を楽しみにしていると聞いて…中学時代の大親友が来てくださり、昔話に花が咲いていた。その間、待合室で甥っ子が言い出したことが~いま家系図を作っているとのこと。(姉の話が間違って
「人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。」詩篇8:4クリスチャン生活で、悪いと思うことには敏感だが、良いことをしていない罪については気づきにくい。自分に関して言うと(分かりやす
神についてわかっていないことが多すぎる、と思った。「知っている」と思っていた一番大事なことさえも・・~「日々のみことば」より~【 神は、実に……お与えになったほどに、世を愛された。 ヨハネ3:16 [神の側の放棄] 救いとは、単に罪からの解放や、個人的なきよ
夕方買い物帰りに、よく通る大型スーパー周辺の道を車で走っていた。信号のない交差点…私の方は優先道路だが、たまに一旦停止せずに横切る車があるので いつも気をつけている。(右からの車は少なく…)左側の車がしっかり停止してくれていたので、ありがたく…徐行から少しア
信仰義認と聞くと、〈不敬虔な者だけれど、ただ信じただけで義と認められた…〉と軽く受け流してしまいそうだが・・その実体は、「転嫁される」という…思えば思うほど 考えられないような重いことだった。「転嫁」の意味は=罪や責任を他人になすりつけること、とある。まさ
44年余り前に洗礼を受けた。その後の婦人の会で祝っていただいたとき、一人の姉妹が言われたみことばをいつも思い出す。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは……」ヨハネ15:16私は長い間、「本当の
問題を見続けると問題も不安も大きくなっていくが、神に目を向けご自身を見続けることによって神への信頼を取り戻せて、心が落ち着いていくのを感じる。神の偉大さ・不思議さを思えば思うほど…ますます神がわからなくなると同時に…かけ離れた存在のお方だ…とわかる。そん
信仰生活も30年以上経ってから、〈自分は新しく生まれていないかも知れない〉という疑問を持ち始めた。青天の霹靂だった。それは信仰のスタートからのやり直しを意味する。確かな「神の(御霊の)いのち」を受けたいと、どんなに願っても、求めても…がんばってキリストの元に
何年ぶりかで、366日の黙想「いと高き方のもとに」(オズワルド・チェンバーズ著)を今年の日課にすることとなった。この本は、一貫して「神との正しい関係」にあるかどうかを問われていたと思う。今の私に必要な、今だけでなく生涯にわたっての課題だ。[まえがき]から一部を抜
信仰の友と話すとき、世の人とは違う幸いを感じるのだが、救いのところに及ぶといつも何とも言えない平行線にぶつかることがあってむなしい。先日久しぶりに義妹と電話で話した。彼女は、人の信仰(救い?)には寛大で、一言で言うなら(とにかく神の愛を持って祈っていれば必ず
よく知られているヨハネ3章16節「……それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」「それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」15節父なる神がひとり子をお与えになったのは・・このためだった・・イエ
♪~友よ読みしや 主がわれらのため十字架の上にて 苦しみしをみ手とみ足のみか 心も裂けて君は死にたまいぬ われらのため (聖歌401より)「水のように 私は注ぎ出され骨はみな外れました。心は ろうのように私のうちで溶けました。」詩篇22:14
~朝ごとに~より【「事の終わりは、その初めにまさり……。」(伝道者7:8) ダビデの主を仰ぎ見よ。その初めがどうであったかを思え。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。」あなたはその終わりを見るか。主は父なる神の右に座し、その敵を
思い、願い、祈りを与え…応えてくださる主。折にかなった知恵を与え、悔い改めを与えてくださる主。すべてを神からいただいた一年だった。実際は、弱く思い煩いの多い者であるのに、振り返れば主の恵みの中で…豊かに生かされた。一つ一つのことに、良いタイミングが…良い
世と人に期待したり頼ろうとする考えはほどほどにしないと、どこかの時点で失望することになる。もしそうならなくても、神の力・恵みを知ることができないのは大損失だ。神の主権を当然と認め、その恵み深さに信頼するとき心は安らぐ。もっともっと神御自身を知りたいと思う
~朝ごとに~より【「イスラエルは妻をめとるために働いた。彼は妻をめとるために羊の番をした。」ホセア12:12 ヤコブはラバンと言い争って、自分の労苦を次のように語っている。「私はこの二十年間、あなたといっしょにいましたが……野獣に裂かれたものは、あなたのもとへ
「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、…」マタイ、マルコ、ルカにある。どうしても自分のいのち(感情や意思や自我)を大事にしてしまう。かなり手放してきたつもりでも、いのちがある限りそれはなくならない。死んで葬られることなしには。自分ひとりではどうにもで
久しぶりに…破れ障子を張り替えてすっきりと明るくなった。出来上がってみれば、たったこれだけのことに悪戦苦闘した?一番厄介だったのが古い紙を剥がしたあとに、障子の桟にこびりついている糊と過去の紙の残骸・・多分前回きれいにしないままで貼ったのだろう。大半の労
「だれも、悪に対して悪を返さないように気をつけ、互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うように努めなさい。」Ⅰテサロニケ5:15毎日のように、(夫の)悪に対して悪を返していた私。詳細は言わないが・・気づいて改めてほしい一心だった。今日もまた新しい悪対
自分の生きている限りは、神とイエス・キリストを伝えたいと思うが、それほど出会いの機会はなく…(いや、出会うより祈ることが先かも)。しかし、現実の私は自分のことが第一だった・・ということに気づき始めた。77歳。自分の健康状態によって生活が左右されていく。若い頃
世の価値観が変わっていくように、聖書から語られる内容が変わってきたのを感じていた。悲壮な思いと覚悟を持って、初めて教会の敷居をまたいだ自分の頃とは違い・・ある頃から、教会や聖書のことばに対して好意的な人が増え、人々が気軽に教会に出入りするようになった。先