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降りていくブログ https://kurahate22.hatenablog.com/

生きづらいものが生きていくために。回復とサバイバルについて考えていきます。

生きづらさは重い負荷ですが、それにより自分が生きるために必要なものへの意識や関心が深くなります。生きづらい人は誰のためでもなく、自分が生きていくために世間にまだ存在しないものを創りださなければいけない切実さを抱えています。生き抜くことは全く保証されていない。それにも関わらず生き残ろうとする人たちの創造は、通じる課題を持つ人たちの力となり、そして自身だけでなく、周囲の世界も回復させる力を持ちます。

ヨネ
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北区
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新居浜市
ブログ村参加

2014/09/24

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  • 周辺視野のリアリティ

    以前にこういう体験をした。 夜勤帰りにネットカフェに寄り、マンガを読んでいたが寝落ちした。目が覚めたとき、ここがどこであるか、なぜ自分がここにいるのかもわからない状態が少しの間続いた。 目の前の光景と記憶がつながらない。やがてそれがだんだんとつながってくる。そうだ、ここはネットカフェで自分は夜勤帰りに寄ったのだったと。変わりばえなく飽きた「現実」が戻ってきた。 このときは単に覚醒状態が落ちていただけでまあ面白い経験ではあったが何ということもないと思っていた。しかしあとでだんだんとこの経験の意味を振り返るようになった。 解放や世界との一体性とはこの状態のことではないかと思うようになった。高揚感や…

  • エッツ『わたしとあそんで』 話の場と探究すること

    自分が呼びかける側のときの話の場は「自分にとって必要な感覚やプロセスが動く」ことと「場にいるほかの人のプロセスが動く」ことが重なるように枠組みをきめています。 そのようにすると、早々に疲れたり、または場で何をやっているのかがわからなくなって場自体が虚ろになっていくということが避けやすいと思います。 話をしはじめて、自分がうまく説明できなかったと思ったり、自分自身で話していることのわけがわからなくなったりすると恥ずかしいと思ったり、ちゃんとした内容を話さなければいけないと思うかもしれません。しかしそれが上手にできる人の話が面白いかというと必ずしもそうではありません。 インプロ(即興演劇)の指導者…

  • 「当事者研究」批判と自分が「当事者研究の会」をしていたことについて

    4年前から2年間ほど「当事者研究」の会を主催していました。今回その時に参加していたメンバーからその責任と自分の言動について指摘を受けました。当時、べてるの家や「当事者研究」についてはその価値を多くの人に知ってもらいたいと思っており、ブログやSNSなどでも肯定的に紹介していました。 しかし、べてるの家や「当事者研究」について知っていたことといえば、ネットや書籍などで発信されている情報だけだったといえます。5年前にべてぶくろで性暴力被害と「当事者研究」による被害隠蔽の働きかけがおこったことも知りませんでした。 自分の投稿や紹介からべてるの家や「当事者研究」にアクセスし、そこでハラスメント的な経験を…

  • カッコウと人間 存在としての加害性と簒奪性

    先日の投稿でフェミニズムの歴史で繰り返されていたマジョリティによる運動の簒奪と「当事者研究」の問題点および今後おこりうるだろう展開を重ねた。 運動を多数派側や力を持つ側のものに変質させていくことは、もちろん意図的なものもあるだろうが、全く無自覚で自動的なものも少なくないように思う。この自覚のなさは、自分は何も悪いことをやるつもりはないから、とやってしまったたことを免罪し、態度をあらためるつもりはないという開き直りの理由にもされる。 人間が自分にとってより都合のいい環境を構成していくことは、自覚以前のところからはじまるものであり、自覚の有無は何の言い訳にも現状改善にもならない。 「本能的」とも感…

  • ベル・フックス『フェミニズムはみんなのもの』 フェミニズムの歴史に感じる「当事者研究」の既視感

    ベル・フックス『フェミニズムはみんなのもの』。1、2章あたりからもう既視感にみちている。現社会環境のシステムそのものが変わらなければならないとするマイノリティのラディカルな立場は、部分的な改良で良しとする白人中産階級などマイノリティ内マジョリティの立場に乗っ取られていく。 www.bookcellar.jp 『階級とフェミニズム』のダイアナ・プレスの批判は「女性は、他の女性を支配し搾取しているあり方ーセクシュアリティや階級や人種を通してーと対決する闘いによってのみ「シスター」になりうる」というもの。 内面化された性差別に向き合うこと抜きに、そして自分だけでなく他の女性の抑圧と対決する闘いを抜き…

  • 「時間」について 整体の稽古と2/13トークイベント「コロナ禍を歩く」から

    整体の稽古とトークイベント「コロナ禍で歩く」から「時間」について考える。 peraichi.com 野口整体では息というときにさすものは単に肺呼吸のことではなくて、いわば体にいきわたる「時間」の流れのことであるようにも受けとれた。 冷たい水をわざとちびちびと飲むことで体にいきわたる感覚。呼吸を最小限にしながら息苦しくならない稽古。先に砲丸投げの室伏さんが新聞紙を片手だけで新聞紙を丸める動画が出ていて、そのことでコロナ禍での運動がしにくい環境でも「運動になる」と言っていたのを思い出した。室伏さんも当時よく野口整体の稽古にこられていたとのことで、その「エクササイズ」も野口整体由来だったとのこと。 …

  • 「負」を受けいれるために 「内面」の問題化から構造の問題化へ

    心はなかなかに負を受け入れられない。負を内面において受け入れることは、社会的に謝罪することだったり、罰を引き受けること、公的な場において自分の振る舞いを統制することとはまた別のことだ。根本的な問題の改善には社会的な「責任」の全うと内面における受け入れの両方が必要だろう。 物語のなかで悪いことをするのは狼や狐のようなものだったりする。が、物語で書かれていることは人間のことであるので、それが狼だろうが狐だろうが非生物であろうが関係なく、人間のリアリティについて書かれている。 物語は人間のリアリティを人間の心が受け入られる次元にして経験させ、自身への受け入れを可能にする媒体でもある。そこで受け入れが…

  • 個人の変容と社会環境の更新は同時的ではないのか

    話しあいの場があり、あらためて考えたことを。 個人の内面が変わっても社会の仕組みが変わらなければ何も変わらないのではという意見がでる。あるグループや組織のなかで、マイノリティの占める割合を多めに固定するといったような海外のアファーマティブ・アクションの事例が紹介される。そう考えるならば次の発想としてはとにかく仕組みを変えるために社会システムに働きかけていく力をため、運動をやっていくということになるだろう。 その考えにはもちろん一理あると思う。しかし、その社会システムに働きかけるに足る力を獲得していこうとするとき、結局は大きな力が重要なのだという結論に行き着かないだろうかと思う。 社会を変える大…

  • 意味と無意味

    SNSで下記のブログが紹介されていた。siusiu.hatenablog.jp 筆者は「天国のゲーム」の条件として「忙しさを感じること」と「受動的であること」を挙げている。 「天国のゲーム」には条件があります。 それはプレイ中に「忙しさを感じること」。忙しいときは時間が早く経過するでしょう? ここ天国では退屈を感じないように忙しいゲームが推奨されています。それに「忙しさを感じるゲームは良いゲームの証である」と誰かが言っていたのを聞いたことはないですか? 求められる条件の2つ目は、「受動的であること」です。 もうウンザリでしょう? 何かをやりなさい 何を? それは自分で考えてください、みたいな話…

  • 「見捨てられた」個々人ができること

    テレメンタリー「私がやらない限り〜性暴力を止める〜」の感想を『「観客席」から降りて』ブログに寄稿させてもらいました。 pirosmanihanaco.hatenablog.com ドキュメンタリー番組 テレメンタリー2020【土曜放送】 - 本編 - 私がやらない限り〜性暴力を止める〜 【ABEMAビデオ】見逃した番組や話題のニュースが無料で視聴可能 べてぶくろ性暴力事件は告発後、半年以上がたった今もまともな向き合いがされていません。べてぶくろは「当事者研究」を使って、事件を被害者の心のうちにおさめさせ、そのまま済ませようとしました。そして告発後も時間が経って世間がこの事件をこのまま忘れる…

  • オンライン読書会 パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学』を終えて

    パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学』のオンライン読書会が一段落する。 自分自身は里見実さんを通してフレイレに出会った。まず感じたことはフレイレの言っていることが現在の社会の状況にそのままあてはまること、そして現状を変えていくために環境を分析するにあたって使えることだった。無論、50年前の南米の状況を主な背景として書かれたことは換骨奪胎しなければいけない。 フレイレの革命リーダー論などに関してはやはり前時代のものと思われ、幾分「人々寄り」であれ結局リーダーが導くという前提から逃れられなかったと思う。昨今、「良きこと」の実践を看板にしている団体のリーダーたちの人権侵害やハラスメントが相次ぐ。 リー…

  • 言葉を求めて 歩録:Exhibition/Performance

    12時に古書店カライモブックス さんでのチラシづくりワーキンググループが終わり、帰途につく。何か食べていこうと思い、ソーシャルキッチンへ。烏丸通ではマラソンが行われていて人が多い。人と人の間を自転車で抜けていく。ソーシャルキッチンはもしかしたら満席かなと思ったけれど、幸い座れる席があった。1Fカフェの上では、古川友紀さんの歩 録:Exhibition/Performanceが開催されている。古川さんのやっていることは見てみたいと思っていたのだが、予約をしようとした時にはとっくに埋まっており、諦めていた。 古川さんが来られ、挨拶する。水無瀬でされていた穴場以来だ。あの時は気になっていた近くの長谷…

  • 12/13(日)ワーキンググループを終えて 罪 主体 マジョリティ WGの枠組み

    今回のワーキンググループでは、今までネット上での発言を読むだけだった方たちとオンラインでお会いし、テレメンタリー「わたしがやらない限り」の視聴を媒介にお話しをする。医療や福祉、組織におけるハラスメント対策などそれぞれの現場からのお話しから今まで知らなかった文脈を知ると様々な問題に対する自分の距離感が変わる。浦河べてるの家に対する自分のイメージも、本やネットなどの世間に向けられた顔からできていたことをあらためて実感する。べてぶくろ性暴力問題の被害者であるpirosmanihanacoさんの呼びかけがなければ、この場はそもそも存在しない。これまでも社会のひずみによって傷を受けた人がそれでもなおシェ…

  • 気づかない絶望 社会と個人の乖離

    新しい問題がおこれば新しい専門家がそれにあたるというかたちで、専門家制度が整えられ、より万全になっていくことで社会の問題は解決していくのでしょうか。 専門家には専門家ならではのできることがあると思います。しかし、だからといって専門家でない人がその分何かを考えなくなり、それまで自分で調整できたことができなくなることは深刻な結果を招いていると思います。 社会福祉のことは社会福祉の専門家に任せ、保育のことは保育の専門家に任した結果、薬物依存回復施設や保育園建設に反対運動がおこるようなことは、社会と個人の生活が全く乖離したものになっていることの現れではないかと思います。 今は問題がなくても、いざ自分や…

  • ワーキンググループについて 無香料日用品の簡易チラシづくりを事例にしながら

    少人数で集まり、学びを趣旨にして自分にとって必要なことをする作業グループをワーキンググループと勝手によぶことにしました。 学びは余裕がある人や勉強好きな人がやるものだと思われているむきもあると思いますが、ここでは学びを自分が既に知っている世界から少し出て、そこでの体験から自分の知っている世界を更新し、新鮮さを取り戻すことだとします。 学びを媒介させる理由の一つは、場の環境設定です。学びにとって必要なことは一旦自分の知っている諸々の知識や正しさなどを一旦置いて、自分の知らないことを探る謙虚な態度になることです。より知っている人が意見を言う場ではなく、それぞれが普段の繰り返しを一旦おき、知っている…

  • べてぶくろ性暴力問題 信田さよ子さんの応答と被害当事者からのメッセージ

    べてるの家の関連施設、べてぶくろでおこった性暴力は、地域住民との関係性の悪化などを理由に公にすることをべてぶくろによって止められてしまいました。行き場のない状態に追い込まれた被害者に対してべてぶくろからは「当事者研究」をすることがすすめられ、性暴力事件は個人の了解の問題として片付けられようとしていました。 べてぶくろでおきた性暴力、そしてその隠蔽の問題が「なかったこと」にされてしまう危惧のもと、被害者の方は5年の長い時間を経て、べてぶくろを告発するnoteを公開しました。べてぶくろは被害者自身の声に対してではなく、その「反響」によってようやく声明を出しました。声明の文章は真摯な反省を装いながら…

  • 11/28ワーキンググループのあとに考えたこと

    世間が当事者に発言の資格を認めるのは、当事者が痛みを持っているからだと思う。たとえ傍観者となっている人でさえ、痛みが発露されるその瞬間には釘づけとなり一体となってそこに没入してしまう。それは自身が自身から乖離させた痛みをその人が自分の代わりに引き受け、自身の内奥で止まってしまった時間をその瞬間だけ動かしてくれているからではないか。 「観客席」という言葉が提示される。常野雄次郎さんの言葉からのものだという。「観客席」に座っている間、自分は世界でおこっていることと自分が一体であることを乖離させる。あれは自分が直接関わることではない誰かのことであり、自分にはそこに関わる資格もないし、また義務もない。…

  • 11/20ワーキンググループをふりかえる

    今日行われたワーキンググループで考えたこと。 1 べてぶくろ、近代、社会運動内部において繰り返される人権侵害、当事者からの経験の簒奪などについて → 浦河べてるの家の存在から自分自身は多くを得た。しかし性暴力被害の隠蔽に当事者研究を使い、被害当事者や自らのあり方の再吟味に向かいあわない姿勢に大きな疑問と失望を感じた。当事者が制度に奪われた主体を取り戻していくのが当事者研究だったはずだが、主体を持っているのは「リーダー」たちであり、当事者たちは受動的に「リーダー」たちの作った枠組みに従っていたり、従わされているのだった。誰かに作られたものを繰り返すのではなく、思考の主体性、自律性を取り戻していか…

  • 11/8 リードイン 感想

    リードイン。 リードインは鶴見俊輔がやっていたとされる集まりで、他者の言葉と自分の言葉を持ち寄って場にシェアするもの。(しかし実際の場に出たことがないので、決まったかたちを知らず、色々実験的にやり方を微調整しながらやっている。) 今回は自分が一参加者の立場で新しい人たちと出会う。 持ち寄られたことばは全くバラバラであるようで、場にはぼんやりとだが、名づけられない星雲がかたちづくられていくようなプロセスが生まれている。 場に出てくることばによって自分に残っている問いをもう一度考える。緒方正人さんが重要だと考える「ひとりであること」とはどういうことなのか。タゴールは、誰も呼び声にこたえなくても/ひ…

  • 南区DIY読書会 『環境と対話 地域と当事者を繋ぐ試み vol.2』 発表原稿

    10/12(月) 南区DIY読書会 発表:「環境と対話」研究会編 『環境と対話 地域と当事者を繋ぐ試み vol.2』 前置き:「環境と対話」研究会は『性暴力と修復的司法』の著者である小松原織香さんが主催する研究会。研究会は関東と関西で行われていて僕は関西で行われる際には参加している。(コロナ流行以後は集まりは休止中。)ピーター・シンガー『動物の解放』や宇井純『自主講座「公害原論」の15年』などの読書会や水俣の民間団体相思社や滋賀県の石けん運動に携わる方をゲストとして呼んでいる。修復的司法は人間間の対話の技法であるが、小松原さんは自然と人間との間の修復的司法(あるいは修復的正義)という観点をもっ…

  • 香害と脱うさぎ化 非人間化された状況を人間化していくこと、文化をとりもどしていくこと

    カライモブックスさんで香害について話す。自分も行き違う人や隣家からのシャンプーのにおいもきつく軽い頭痛がでる。一方で他の人がきついと思うファブリーズとかのニオイ消しの香料や整髪料はまだ気にならない。男性のニオイ消しはCMで異性に嫌われると煽られ繰り返し宣伝されている。宣伝すればするほど売り上げはあがるということだ。 香害の問題は当事者の切実さと非当事者の意識の乖離が激しく、なかなか伝わらないそうだ。「化学物質過敏症」という馴染みの少ない言葉を使うよりも単に「アレルギー」といったほうが伝わるという話しも。 見えにくいが、実際にはわりと少なからずの人が周りの人が使う柔軟剤などのニオイによって体調に…

  • 尊重は相手のためか 学びの疎外と文化の不在

    読書会や話の場で思うこと。 人権や尊重という言葉はあっても中身は空洞化されている。人権とは何か、尊重とは何かはなんとなくのニュアンス以上に知る必要もないと認識されているに等しいだろう。かたちだけの言葉はむしろ実態を後退させ、現状を変えないものとして機能する。 読書会でフリースクールについての発表がある。学校とは何かをあらためて根本的なところから問うやりとりになった。 学校を終えれば学ぶことは終了するのか。学びとは学校ですることなのか。どれだけよりよい学校に通うかでその後の生の豊かさ、社会的地位や成功が決まるのか。学校とはそのための場所なのか。学校はそこを出た後に「学ばないこと」を正当化する理由…

  • 「理解できる/できない」「愛せる/愛せない」 心理主義をやめることと尊重

    自分が持っている「価値観」は自分のものだろうか。理性的な判断と吟味のうえでできあがった妥当なものであり、正当なものであるだろうか。 パウロ・フレイレは現社会において支配的な人たちの価値観を人々が内面化すると指摘している。強い者への憧れがあり、一旦「有名」になり、既存の支配的で抑圧的な価値観から発言する人はマスコミに支持され、差別言動をしても風見鶏のようにくるくると発言を変えていてもなお支持され、事あるごとに意見が参照される。 「強い」ものへの憧れ、「美しい」ものへの憧れといったかたちで、人は今の自分を否定し、よりその価値を体現したところに行きたいと思う。だがそのような「強さ」や「美しさ」とは誰…

  • マイクロアグレッションという陵辱

    無自覚な差別意識の吐露についての話になる。本人は自分が差別意識を持っているとは思っていないが、受けたほうは屈辱の経験として記憶される。丸一俊介さんは、マイクロアグレッションとは「日常的な侮蔑や見下し」ととらえている。そしてその侮蔑や見下しをしていることを言った本人は気づきもしていないことが多い。 gendai.ismedia.jp 差別の問題、また日常的な侮蔑や見下しの問題が、マナー意識とか、意識高い系みたいな受け取られ方があるので、そもそもの話からはじめたい。差別、侮蔑や見下しは、人間を価値ある人間や認められる「人間」とそうでない「人間以前」にするものであるということ。 「人間以前」とは大げ…

  • パペットマン

    明確な攻撃や差別発言ではないけれども、それを聞いたり見たりする人を消耗させていく言葉がある。 場において相対的に「弱い」人の立場に対して、自分はできる、やっている、(「望ましい」状態に)なっている、義務を果たしているというような「強い」価値(抑圧的価値観なのだが。)を達成していることをその発言のなかに前提させる。あからさまでないにしてもできている自分、あるいはその価値に対して格闘している素晴らしい自分を提示する。 世間一般的にはこのような仕草は肯定的に受け取られることも多い。やる側も受けとめられると知っているからこそ、繰り返しその受けのいい仕草をして、同族に賞賛を受けようとする。賞賛でエネルギ…

  • 錯覚の民主制のなかで

    毎月、大家さんに家賃を渡しにいく日は、お互いの問題意識を話す機会にもなっている。 今日は宮城県大崎市の市民条例(大崎市話し合う協働のまちづくり条例)の話しを聞かせてもらった。大崎市の行政は、よくある他の地域の行政とは違い、積極的に主役を降りて、大崎市民を考える主体としてむかえ、市民条例も行政の官僚的言葉ではなく、市民が日常に使う言葉で作られている。 大崎市話し合う協働のまちづくり条例 http://www.city.osaki.miyagi.jp/index.cfm/10,377,c,html/377/hanashiau_kyoudouno_machizukuri_jourei_tikujou…

  • 現秩序への反逆としての人権概念

    福祉や教育、人権啓発系などの団体が内部では人権侵害している話しがよく聞かれる。企業や大学などのハラスメント委員会や相談機関みたいなものが、実態としては被害者の人権を守るよりももみ消し機能として設置されている話しもまた。 日本には「みんなの迷惑にならないよう」とかいうような、通俗道徳はあるけれど、実態として人権という概念は存在していない。 人権もあくまで自分たちに馴染みのある通俗道徳(よく聞くと実のところは保身のための処世術なのだけど)の枠組みのなかで理解されるので、今日本で人権として定着したイメージはそもそも人権とは別ものだろう。 もしここの社会で昔のアメリカのようなわかりやすい奴隷制があった…

  • 認識の変遷 「場づくり」から「結果的な接点づくり」へ

    大学時代、四国八十八ケ所めぐりをやってみて思ったことは、人は適切な環境とそれを生かす媒体(まるごとの存在が保証されながら同時に固まってしまった自分が揺り動かされる状況が併存するような。)があれば、そこで自律的に変化や回復をしていくということだった。 それまでは心の構造をより知れば自分の理解が深まるという認識だったのが、場の状態とそれによる自分の状態の変化を感じとるような感覚がもどっていけば、既知の知識で自分をコントロールしようとするよりもずっと自然に滞りを打破して変化できるようだという認識になった。 以後、「技法」みたいなものよりも、場とは何か、変化がおこりうるような場はどのように生まれるか、…

  • 当事者研究ネットワークに求めたいこと 「当事者研究の悪用」への向き合いを

    被害者の告発によって、閉じたコミュニティ内では、主催者やスタッフのような、より強い立場にあるものによって、当事者研究が場でおこった問題を被害者当人の責任に転換し、もみ消すために悪用されうることが明らかになった。 note.com ここでおこっていることは、当事者研究を用いてという点をのぞけば、組織やグループにおいて何度も何度も繰り返される抑圧だと思う。 DAYS JAPAN、アップリンクなどの事例をみても、教育系、福祉系、人権啓発系など、指導者的な立場の人、より強い立場の人など、「教える人」「わかっている人」「正しい人」「いいことをやっている人」など、道徳的な権威がうしろだてになっているような…

  • 6/26『被抑圧者の教育学』読書会ふりかえり

    出てきた話題 ・「被抑圧者と共にあることはそれ自体がラディカルであり、中途半端な姿勢では許されない」ということがどういうことだろうか。 →社会から搾取される少女たちの支援をしている一般社団法人Colaboの仁藤夢乃さんの講演を思いだす。仁藤さんは教えたり指導する立場として関わるのではなく、「女の子たちと一緒に」活動をしていると言われていた。 『被抑圧者の教育学』において、フレイレは相手を無知な存在として関わるのは痛切なあやまりであって、それは自身の抑圧者としての立場を保持したり、そこに戻ろうとしているようなものだと批判している。 Colaboの活動では、少女たちから出てきたプロジェクトもあり、…

  • 当事者研究界隈、どうなっているのか

    note.com べてるの家の関連施設、べてぶくろで地域住民との間で性暴力被害がおこった。被害者のブログによると、被害者の訴えをきいたべてぶくろスタッフRは訴えを公にするとべてぶくろが地域でやっていけなくなるとして、被害者を黙らせようと働きかけ、その態度に抗議する被害者を批判した。べてぶくろは組織としてそのスタッフRを容認し、擁護した。被害者は孤立し、べてぶくろを退職した。 またスタッフRは、その問題を、被害者個人の問題として被害者に自分が納得するよう”当事者研究”するように働きかけまでしたという。 被害は2015年におきており、被害者はべてぶくろから被害に向き合うことがされないまま、自分の非…

  • 自意識の植民地としての身体 打ち消しと間接性

    ある催しで、参加者が私はもう上手いダンサーの踊りを見て面白いと思えなくなったということを言っていたのを時々思い出す。 自分のことを動的な関係性そのものとみるのではなく、完結した、閉じた主体だとみなすとき、自分は環境に対して(一方的に)働きかける存在であり、自分の既知の知識や技術で他者に働きかける能力を内在させていなければいけない存在だと認識される。 一般的なイメージとは違って、依存症とはコントロールしすぎる病なのだと認識されはじめているけれど、自意識によるコントロールは既知に閉じており、必然的に閉塞を伴っている。 身体のことを、自意識は自分の所有物だとみなしていて、いかにそれをつかって多くのも…

  • 私の探究・研究相談室レポート 回復が回復する 探究と時代からの解放

    昨日の私の探究・研究相談室では場についての話しが比較的多かった。 世間一般では、主体というのは個人のことだと思われている。が、僕の認識ではむしろ場のほうが主体なのではないかと思う。 なぜなら個人が更新されていくために場が必要であるだけではなく、場が個人をつくると感じるからだ。個人は場という関係性の反映としてあると思う。 閉じた個ではなく、関係性こそが主体であるという認識は、大学では特に聞かなかった。自分に本当に必要なものは最終的には自分で見つけていくしかないし、今すでに発見されているものでは足りないと思う。そして個人はそれがその人に本当に必要ならば、時代がどうであれ、それを見出す力を持っている…

  • 人間化の過程 意味から解放された場所としての人間

    昨日の読書会。 フレイレは、人間の使命とは「より全き人間であろうとすること」だろうという。しかし「より全き人間」という言葉がまるでピンとこない。全きとは言葉通りにとるなら、完全で欠けたところがないということだろう。 完全。結局そういうものが本当にあると信じていることが不注意そのものなのであって、かつ強迫的に働くものだろうという認識だったので、首をかしげる。読書会のメンバーから「全き人間」という言葉はキリスト教的な文章でよくみられるという指摘がある。なるほどと思う。 里見実は、フレイレの解説書のなかでフレイレの『被抑圧者の教育学』とラテンアメリカの「解放の神学」の形成過程とは、時期的に重なりあっ…

  • フレイレから「生きづらさ」を考える

    あらためて、フレイレを通して「生きづらさ」を考えてみるとどうなるだろうか。まず「生きづらさ」という言葉について、『居るのはつらいよ』の東畑開人氏はSNS上で次のように述べている。 ”「生きづらさ」という言葉って、心理学ブームが下火になり始めた2000年代になって使われ始めてます。この言葉は、心を云々するではどうにもならない、社会の側の要因を指摘する言葉なんです。そして、その要因とは、社会の問題を個人の心に還元する社会のありようのことなので、心理学はつらい立場です” 問題は、個人の内面で完結しているのではなく、社会構造の側にあるという認識だ。臨床心理学の立場の人が自らが依拠している前提を根本的に…

  • 使い捨ての関係と体験の剥奪

    読書会を一緒にやっている河本さんの投稿から。 www.facebook.com 自然のものなので野菜ができる具合は常にばらつきがあると思う。畑をやっているとできるときは過剰なほどできる。しかし受け取り手の需要は決まっている。ということは、こういうお任せ型でないとき、どれだけたくさんのものがロスになっているかと思う。 サービスを提供する側と受ける側と割り切った関係性では、本当に良いものを目指そうとすることは非効率になる。お互い使い捨ての関係性から、育てあいの関係性に移行することでようやく維持されるものがある。 自家菜園が広がることはいいと思っているけれど、農家が困るのではないかと言われることがあ…

  • 2020年畑オープン日のお知らせ

    京都のらびと学舎では、2020年6月〜11月の間、畑のオープン日をもうけます。月曜日のおおよそ11時〜14時の間に岩倉幡枝町の畑にはだいたい誰かがいるので、畑の様子を見物したり、希望があれば作業に参加したりできます。 これは特に何かを教えたり伝えたりという目的ではなく、時間内出入り自由で、散歩の途中についでに見るだけで畑にきたり、畑にいる人に会いにきたり、お昼どきに昼ご飯を持ってきて畑で食べていったりなど、公園的利用のようなイメージをしてもらって構いません。 ただサービスする側とサービスされる側の関係ということではないので、天気の悪くなりそうな日に誰もいなかったりとか、たまたま来た時にもう一つ…

  • 大きな畑を

    岩倉の畑をはじめたころからお世話になっている方が高齢になってその方の畑もぼちぼち終わろうかというようなことを話されているそうだ。 いつも野菜や苗を自家消費以上にたくさん作って人にあげられている。その量が多すぎていつももらいきれない。何の銘を打たなくてもフードバンクのような方だ。 今日はその方のエンドウの整理のお手伝いへ。これをあげるぞ、あれをあげるぞ、前にあげたあれは足りているか、と何度も何度も言われながら、僕たちももらえるだけはもらいつつも、もらえる以上の分に対しては、足りてます、大丈夫です、と何度も何度も言うけれどそれでもなお言われ続けるというのがいつものやりとり。 そのやりとりのなかで、…

  • フレイレ 真正なる言葉 「パチンコは賭博ではない」から

    フレイレの読書会。 別の2つの読書会でも僕はフレイレをやっているので、三重にフレイレをやっている。 フレイレは以下のようにいう。 行動の欠落は空虚な言葉主義を招き、省察の欠落は盲目的な行動主義を招く。真正ならざる言葉は現実を変革する力をもたず、その結果、二つの構成要素は分断されることになる。 僕は自分が埋没している「現実」を変えるには、言葉を変える必要があると思う。そして自分の状態や状況を変えていくためにそうしてきた。しかしそれは、今まで「〜婦」と呼ばれていたところを「〜師」に変えるような、単語だけの変化ではなく、「Aは、Bだ。」といってきたことを「Aは、Bではなく、Cである」というように、そ…

  • 心の攣(つ)りに対してできること

    日常で出会うこと、連想したことなどがきっかけとなって、これまでもなんども繰り返さてきた苦しい感覚や責められる感じなどが再現され、一度その状態がくるとなかなか元に戻らないとき。 筋肉が攣(つ)って、しばらくどうしようもなく痛みを経験させられるように、関連する感じのきっかけがきたら、その状態がおこり、たえがたい「攣り」に苛まれるとき。 その時におこる嫌な思考や気持ちに対して、意思的に「肯定的」な考えや強引な気持ちの切り換えで対応しようとするけれど、あまり効果がないとき。 劇的な回復を期待しないで、ぼちぼちの対応をしていくと緩和するように思える。劇的な回復の期待は、追い詰められた思考の反動であり、そ…

  • ブルーシートの服について(1):非礼拝的オーラを読んで

    山口さんの文章を読んで、生きているものとは何かについて、もう一度整理したくなった。 note.com 僕は去年、ある読書会でピーター・シンガーの『動物の解放』を読んだ。僕が担当したところは、鶏や牛や豚が工場畜産の現場において、人間の経済性のためにどこまでおぞましく扱われているのかといった部分だった。 davitrice.hatenadiary.jp 記憶では、鶏の雄のヒナは不用のため、ベルトコンベアでどんどんと袋のなかに投げ込まれ、上から投げ込まれるヒナの重さによって圧迫死させられ、その後すり潰され、雌のヒナの餌にされる。 大きくなった鶏も単に外的にひどい環境に入れられるだけでなく、卵を増産す…

  • 揺り動かしにいく 君島久子「ほしになったりゅうのきば」

    中学以前は割とよく本を読んでいたけれど、その後読めなくなった。大学になっても日常的に読めるのは絵本ぐらいの文量で、それがしんどくない限度だった。 文化心理学という講義があって、絵本や民話の分析がレポート課題になった時があり、長谷川摂子作、片山健絵の『きつねにょうぼう』を読んだ。 www.fukuinkan.co.jp 『きつねにょうぼう』は、つるの恩返しなどと同じ類型の物語で、きつねと知らず結婚した女房がある日きつねであることがわかって山に帰るというもの。 図書館でイメージ・シンボル事典とかをひらきながら物語の各部分を見ていくと非常に面白かった。たとえば、きつねにょうぼうがきつねであることがば…

  • すでに巻き込まれている世界で

    読書会で発表者からシェアされたことを振り返る。 フーコーによる自由主義と新自由主義の違いが話されていたのだけど、自由主義の段階では、あくまでも国という枠組みの下に資本があったけれど、新自由主義においては国と資本の立場は逆転し、資本が主人となり国はその必要のための変化を求められる調整役となったようだった。 今の政権のコロナ対策をみると、それはぴったりと一致するようだ。政権が利権の配分屋でしかなく、政策とはどの利権を選ぶかでしかない。オリンピック招致への未練でだらだらと感染症への対応を遅らせ、満員の通勤電車については向き合えず、「要請」といって、外出抑制のため歓楽街で警察に警棒を手にさせながら威圧…

  • 他者を受けいれるとはどういうことか

    「階段の上の子供」という谷川俊太郎の詩がある。 階段の上の子供 谷川俊太郎 階段の上の子供に君は 話しかけることが出来ない 泣くことが出来るだけだ 階段の上の子供が理由で 階段の上の子供に君は 何も与えることが出来ない 死ぬことが出来るだけだ 階段の上の子供のために 階段の上の子供はたったひとり それなのに名前がない だから君は呼ぶことが出来ない 君はただ呼ばれるだけだ 階段の上の子供に対して、私は呼びかけることはできず、ただ呼ばれるだけだ。私は子供に話しかけることができないが、私が泣くのは階段の上の子どもが理由だ。そして私は階段の上の子供に何も与えることができない、階段の上の子供のために死ぬ…

  • ことばを獲得していくこと

    日本ではパウロ・フレイレはあまり浸透しなかったとされる。 そこで思い出されるのが、知り合いの年配の教員の方々が話されていたこと。彼らによると林竹二は、部落差別への向き合いではなく、(学校)教育の充実を選んだという。 林は、社会「運動」のようなものではなく、非政治的な(学校)教育のほうが重要であるとみなしたらしい。林の対談などの口ぶりをみると、教育とはすなわち学校教育であり、林のなかでは学校教育は前提だったと思う。 林は正しい学校教育の結果として、あるべき人間が生まれ、社会が生まれると考えていたのだと思う。林は学びの本質について深く追究していたけれど、学校制度とは何かということについてはそこに根…

  • 第三者の取り戻し 意思でコントロールする対象としての「自然」ではなく

    当事者研究的に人間について考えてきて、人間はそもそも欺瞞的なものであって、個人であっても組織であっても、自分ではその自己疎外性(自分で自分をダメにしてしまうこと)を乗り越えることができず、それを破壊する存在である他者が必要であるという認識になった。 コロナで社会構造が壊される。でもいびつなものも一緒に壊れていくことは間違いないと思っている。 (だからといって「いい社会」や「幸せ」が保証されるわけではない。人間と世界との関係は、そういうふうな都合のいい関係ではない。) そのようにでしか、人間は疎外を免れることができないと思っている。 人間はできる、ちゃんとやったらできる、というのは多くの人がその…

  • hanare×Social Kitchen 田中美帆「おどりが方向を変える時」へ

    最寄りのカフェ、ソーシャルキッチンにてDIY読書会にもきてもらっていた田中美帆さんの個展「おどりが方向を変える時」がはじまったので行ってきました。 hanareproject.net 「おどり」は田中さんが飼育されている文鳥の名前でもあるとのこと。タイトルからは、他者である自律的なものへの田中さんの応答の姿勢や信頼が感じられる気がしました。 会場では膨大な数の日常の記録が展示されていました。それらはそれぞれの「時間」であるのだと思いました。時間とは生きて動いているプロセス、自律的なプロセスであると思っています。 たとえ自分であってもそれぞれの他者である自律的なプロセスを自分という既知のものに回…

  • 4つ目の窓 植松被告の死刑判決によせて

    植松被告の死刑判決。 ふとジョハリの窓が気になった。ジョハリの窓は格子に区切られた4つの自分を表したもので、自分も他人も知っている自分、自分は知っているが他人は知らない自分、自分は知らないが他人は知っている自分、自分も他人も知らない自分の4つがあるというもの。 ja.wikipedia.org どういうものだったかと思ってネットを見ると、ジョセフ・ルフトとハリ・インガムの二人の名前を合わせてジョハリだとあった。 最後の、自分も他人も知らない自分という領域が気になったのだった。自分も他人も知らない部分、この4つ目の窓を、この格子の図を作った人たちはどう位置づけていたのかと、ちょっと確認したかった…

  • プリズン・サークルとラップのワークショップ 心と表現の連動 乖離を埋めていくもの

    プリズン・サークルの坂上香監督がラップのワークショップについて公開投稿されていました。 www.facebook.com 3/8、プリズン・サークル x ラップワークショップ@横浜黄金町から、感動醒めやらず。昨晩は、ラップで、しかも初対面の人ばかりでサンクチュアリを作れた感あり。ラップ聞いたことない人から、ラップ体験者まで、中学生〜72歳の老若男女、様々なアイデンティティや背景を持つ20人によるラップとその共有を通して。言葉とリズムでなんとかやり抜く、その姿勢が面白い。ブースから溢れ聴こえる参加者のラップに鼓舞され、心が激しく揺れ、涙が溢れる。えいやっとブースに入って自分の書いたラップを読み始…

  • 償い(atonement)とは、ともにある(at one with)こと

    映画「プリズン・サークル」の坂上監督が雑誌『世界』で連載されているとのことで書店に並んでいた『世界』の3月号と4月号をとりあえずもらう。 www.iwanami.co.jp 3月号にはTC(回復共同体)の実践を行なっている非営利団体アミティの代表のインタビューもあった。そのなかで特に印象に残ったのが、罪の償いについて。 償いとは英語でatonementなのだけど、その語を分解するとat one with(ともにあること)となり、加害者が被害者のことを理解しているとは、自分が与えた痛みとat one with(ともにある)ことなのだという。 一般には、罪や痛みが消えてしまうことは「いいこと」だと…

  • 波風に応答する社会へ

    昨日はDIY読書会。 酒井隆史『暴力の哲学』の発表からは、一見すると非暴力で治安がいいような社会のようにみえても、実態は強い弾圧や抑圧が存在する社会の状態は「擬似非暴力状態」であるという視点の紹介があった。 平和学における消極的平和と積極的平和の違いとも通じるところがあるのだろう。消極的平和とは、直接的暴力は少ないが、貧困や差別、格差による「構造的暴力」が存在している状態。一方、積極的平和とは、戦争の原因となるこの「構造的暴力」がない状態だとされる。(日本ではこの「積極的平和」は首相が軍事的な力を積極的に行使してつくる平和という意味で使用したため、その誤った意味のほうが一般的かもしれない。) …

  • ジャンル難民発表会 発表原稿 生きることの当事者研究

    <プレ発表で以前に投稿したものに加筆したものです。>◇なぜ「生きることの当事者研究」か? 「苦労の社会化」が環境を新生させる 当事者研究は、べてるの家からはじまったもので、専門家に解決を委ねていた自分の「苦労」の仕組みを自分自身で「研究」し、それを周りにシェアするものです。そこでは個人のものとして閉ざされていた「苦労」が周りの人たちに伝わり、発表者は周りの人にとって異質で理解不能な存在であり、わたしの世界の外にいた存在だったところから、わたしの世界の一員、わたしの隣人になっていきます。当事者研究では、そのような「苦労の社会化」のプロセスを通して、個人とその周囲の人の認識が共に更新され、有機的な…

  • 2回目のプリズン・サークル 機械と震え

    京都シネマでの最終日。 prison-circle.com 平日の4時開始だったけれど、受付近くではこのために半休をとって来たというような話しをしている声も聞こえた。 2回目のプリズン・サークルは体感としてはあれよあれよと進んだ。あれ、もうこのシーン、このセリフが来たかという感じ。そこから比較すると、1回目は自分にとってジリジリとした時間だった。 性暴力の語りはもう一度聞くまですっかり記憶から抜け落ちていた。ただ、いじめによる堪え難い屈辱を与えられる話しをしていたとだけ覚えていた。キツい話しだったからだろうか。小学校6年だったかのいじめで性器を咥えさせられた、殺してやると思ったという部分。 自…

  • 閉じた監獄を破綻させていくために

    実際のところは知らないけれど、SNSなどで日系のホテル・ニューオータニではなく外資系のANAホテルが自律性を保てたという指摘が興味深かった。日系だと現秩序が全てになっているわけだけれど、圧力がかかったとしても外資系だと政権が沈むのに自分も付き合うわけにはいかないし、実際国内の圧力のはねのけができるということ。 閉じた場所というのは、監獄であり、そこでは権力が絶対化する。それが家であっても、学校であっても、地域であっても、国であっても。そして権力は時間を止める。今強いものがそのまま、あるいは今まで以上に幅を利かせる秩序で止めたままにしようとする。 そういう場所では人は自分自身を無力に感じ、その無…

  • プリズン・サークル 忘れられた楔(くさび)

    友人たちと「プリズン・サークル」を観てきました。島根にある官民共同の刑務所で行われているTC(回復共同体)の取り組み。感情を乖離させ生き延びてきた受刑者が自分を、そして他者を、痛みを感じる人間として取り戻していく様子が描かれていました。 映画の冒頭で、世界ではTCの取り組みは1960年代に生まれていると紹介されました。それが60年たってようやく日本で一箇所だけ行われるようになったということです。この60年という時間は何なのか。そしていまだに一箇所だけしか行われていないという現実こそ、一番問われないといけないことではないかとまず思いました。 おきさやかさんが、日本で生活と一体となっている保守思考…

  • 直接性と感覚(主観)が奪われる社会から逸脱していくために

    縁あって資本論のゆるい読書会へ。境毅さんに難しいところなどはサポートしていただいてみんなで一段落ずつ声を出して読んで、わからないところを話していく。 自分なりにとても印象に残ったのは、資本家は自然と(搾取的だけど。)関わることができる(自然から自分の必要なものを取り出して持ってくることができる)のに、労働者は自然との応答関係から疎外されているので、自分で必要なものを自然からとってこれず、資本家に依存しなければならないという指摘。 「労働者」とは、自然との応答関係を持つことができなくなった、疎外された存在。一方資本家は自然と独占的に関わることができる。資本家は「労働者」になる前の人の自然との応答…

  • 2/2 南区DIY読書会 プレ発表:生きることの当事者研究 原稿

    ◇なぜ「生きることの当事者研究」か? 「苦労の社会化」が環境を新生させる 当事者研究は、べてるの家からはじまったもので、専門家に解決を委ねていた自分の「苦労」の仕組みを自分自身で「研究」し、それを周りにシェアするものです。そこでは個人のものとして閉ざされていた「苦労」が周りの人たちに伝わり、発表者は周りの人にとって異質で理解不能な存在であり、わたしの世界の外にいた存在だったところから、わたしの世界の一員、わたしの隣人になっていきます。当事者研究では、そのような「苦労の社会化」のプロセスを通して、個人とその周囲の人の認識が共に更新され、有機的な新しい関係性が派生していきます。当事者研究は当初は精…

  • やりとりの一部から 応答について

    最近は、人間は良くも悪くも応答的存在でしかありえないなと感じています。 フランクルは、人生に意味を問うのではなく、自分が人生に問われていることに答えなければならないというようなことをいったそうですが、降りていくブログは生きるなかで僕と同じ問いにさらされている人に対して書いていたなあと思います。 それを自分と同じような、「人のために」というとそれは違って、やはりあくまで自分のために書いていましたが、(生から自分と同じ問いを向けられている)相手を想定しない限り、書くことや思いついたり考えたりする動機は生まれなかっただろうと思います。 それはつまり応答としてしか書けなかったということだと思います。同…

  • 1/24 私の探究・研究相談室 発表原稿

    発表:「意思をもった主体? 管理する主体? 意思・自律性・責任・応答」 意思・・・。「意思をもった主体」が人間の人間たる価値とされています。たとえば、自分の将来のために意思的に勉強しておくとか、良いことを頑張ってするとか、です。「意思が弱い」とは、衝動や怠惰に負けて、「発展」的なことや「生産」的なことをやらないという意味かと思います。 将来に向けて勉強したり、計画をたてたりする。それが意思する主体のあり方でしょうか。アリとキリギリスのお話しでは、キリギリスが冬の準備をしていなかったのでキリギリスは寒空の下、路頭に迷います。このお話しは象徴的だなあと思います。意思する主体に価値があるというよりも…

  • 殻と更新作用

    「殻が厚くなる」という言い方は日常語で使われますが、このとき「殻」は、「厚くなっているなあ」と言われているその人本体を指しておらず、言われているその人が身にまとうもののように、その人の行動や態度のあり方を規定するようなもののようにいわれます。 一方、僕の周りの社会では、誰かが罪を犯したり、あるいはいいことをしたとき、その人の殻とその人は分けられたりはしません。殻とその人は同一のものとして扱われます。 しかし、人々の感性のなかでは、少なくともことばのうえでは、その人と殻は分けられてとらえられています。僕は殻とその人を分けるというのはとても実態に即しており、人をとらえる際、とても妥当な見方であると…

  • なんでもなくなる

    回復とはどういうものか、そしてどうやってその過程にはいればいいのか、ということを考えてきた。 回復を意識すると回復は停滞する。それはなんども言及してきたけれど、そう言いながら、この言葉自体が回復を目指してもいる。回復するために回復を意識するな、直接に指向するな、的な。 意味なく時間を潰していても、追い詰められなくなった。前は何か生き延びることにつながることをしなければいけないのにできない、と自動的に追い詰められて、余計に動けなくなっていた。それが毎日だったけれど、そういう追い詰められがなくなった。 回復したら生きていくことがひらける、というイメージがあったかもしれない。確かに地に足を着けて進ん…

  • 『表現の生態系』ティム・インゴルドのインタビュー 名詞の動詞化と宗教の語源

    別の用事でお邪魔させてもらっていたお宅で紹介していただいた『表現の生態系』のティム・インゴルドのインタビューをちらっと読みました。 sayusha.com 現物が手元にないので正確ではないですが、記憶に残ったことは、名詞を動詞化すること、宗教が語源的に「再びつながる」という意味だったこと、など。 今年は幾つかの読書会に参加させてもらっていて、宇井純『自主講座「公害原論」の15年』、ダイアン・J・グッドマン『真のダイバーシティをめざして』、酒井隆史『暴力の哲学』など自分一人ではなかなか手に取らなかっただろうと思われる本の内容に触れる機会に恵まれました。 自分たちがやっているDIY読書会でもだいぶ…

  • 【当事者研究】気持ち悪さ 醜さ

    ふと思い出した。 ある人が無自覚に抑圧的な発言をした相手(も両方知り合いなのだけど。)のことを「〜さん、気持ち悪くない?」と言っていた。 きつい言葉だなと思った。自分が無関係には思えない。 僕は中学校の頃に自分に執拗に絡んでくるクラスメートを出会ったなかで一番気持ち悪いと思っていて、強く憎んでもいた。無視してかろうじて優位に立とうとしていたけれど、それが精一杯で、情けなくみじめな思いでもいた。 ある日、彼と自分は同じだと直観し、彼に向けていた気持ち悪さや軽蔑、憎しみなどが全部自分に反転してきた。自分は世界で一番気持ち悪い人間になった。 30年経った今も自分が気持ち悪いという認知は残っている。た…

  • 11/16 路上で出会う”彼女”の話〜若年女性の居場所と性暴力〜

    仁藤夢乃さんの講演を聞きに。 もともと本を読まない人間だけれど、最近ますますお勉強(してないけど)のために本を読む感じのことができなくなっていると感じる。しかし、仁藤さんの話しは身体的に迫ってくる。お勉強感はない。 www.facebook.com 女性が性暴力にあった際は、女性側の(自分の身を守る)責任が直ちに声高にさけばれ、抑圧される。 家で虐待されていて家に帰れなくても、どんなに寒くても、お腹が空いていても、男についていってはダメ、襲われたら死ぬ覚悟で激しく抵抗しないと抵抗とは認められない、というようなことが中高生にさえ言われる。 16歳の女性が売春を行ったとして逮捕されたけれど、女性が…

  • 【報告と考察】11/12星の王子さま読書会

    星の王子さま読書会、次回は12月10日(火)18:30〜@茶山kpハザです。 今回のチラシはこちら。 www.dropbox.com 月1回のペースで27回目ということで、2年をこえた読書会。 今回あつかった範囲は、王子がへびと話しているところに遭遇したパイロットと王子のやりとりで物語はかなり終盤です。 案内役の西川勝さんは、中井久夫さんの言葉から、オンリーワンからワンノブゼムへ、唯一の一人から多くのうちの一人となることへの移行の重要性について焦点をあてられていました。 物語では、王子が別れを拒絶するパイロットに対し、自分が満点の星のうちの一つになることで、パイロットにとってはどの星をみても王…

  • 【感想】熾(おき)をかこむ会 「責任」や「個」の終わり

    「責任」や「個」という概念が現実のプロセスとは乖離したものであることがより実感されてくる。それらは今の社会を回すための基礎的な概念であるけれども、社会が複雑化してきて、現実というものは今まで済ませてきたようなこれらの素朴な割り切りでは扱えないことがわかってきた。 たとえば、環境問題というのは、誰がその責任をもつ主体であるのかがわからない問題に対応するために作られた分野でもあるとも聞いた。 公害を撒き散らした企業であるとかは、明らかではないかと思うかもしれないけれども、社長より株主などの方が上だったり、公害に関わった人というなら社員全体なのか、というように、現実をより実態に即してみるならば責任の…

  • リードインの試み 初回

    心に残った他者のことばに自分の言葉を添えるリードイン、とりあえずやってみてどういう感じにできるか考えよう、と上高野(左京区)での初めての試み。 紹介されたことばは、熊谷晋一郎、茨城のり子、小沢健二、緒形正人、澤田徳子『きらめきのサフィール』の闇の王の娘のセリフ。 今回はスマホを使ってもその場でことばを探すのが難しかったので、次回からは気になった他者のことばを二つ、事前にみつけて持ってくることにします。 まだどんな感じになるのがいいのかは手探りですが、現段階ではなるべくなら味わいを中心にして、なるべく議論っぽくならないほうがいいかなと個人的には思っています。 自分の選んだことばをふりかえると、ど…

  • 欲望形成と学び

    ー (斎藤)自発性に基づいて、まさに欲望が形成されてくれば、あとは欲望につきしたがっていくだけで適切なコースが見えてくる。そのときに治療者は、「こっちに行きなさい」とか指図する必要はないんですよ。リカバリーというのはそういうことです。ー さすがの言語化! https://t.co/84nrYGOFSf — Toshi (@Toshl02) November 1, 2019 無自覚なものを自覚化させることで問題解決を図るというアプローチそのものがすでに近代なのだ。ここにたどり着くまで30年(苦) — sunajii (@dohokids) November 1, 2019 無自覚なものを自覚化し…

  • 【11月の催しもの】 DIY読書会・「リードイン」実験会・水曜ゼロ円飯(吉田寮炊き出し)ほか

    【11月の催しもの】 →9月より熾(おき)をかこむ会は第二火曜日の14時〜17時になっています。西川勝さんは、お仕事の都合で熾(おき)をかこむ会には来られなくなりましたが、同日18時半からの星の王子さま読書会には来られます。 11月5日(火)19時半 DIY読書会 11月6日(水)19時 吉田食堂炊き出し 水曜ゼロ円飯(300円) 11月10日(日)13時半 ことばを味わう会 「リードイン」実験会 11月12日(火)14時 熾(おき)をかこむ会 11月13日(水)18時半 ことばを味わう会 「リードイン」実験会 11月17日(日)10時 大地の再生と玉ねぎ植えワークショップ 11月20日(水)…

  • 「適応」ではなく主体化へ

    小沢牧子さんは『「心の専門家」はいらない』において、臨床心理学、心理カウンセリングが問題を個人の心のなかのこととして矮小化してしまうこと、閉じ込めてしまうことに無自覚なことに警鐘を鳴らしている。 blog.goo.ne.jp これがどういうことなのかわかるだろうか。これは電通の高橋まつりさん過労死事件のように、異常な社会や環境のほうが根本的な問題であっても、不適応や何がしかの症状を呈することは、本人の心の問題(その状況でも症状を呈さない人はいる。)であって、つまるところその心が状況適応できるようになればいいという見えない前提への批判だ。 問題は個人の心のなかにあり、それが解決されればその人は治…

  • 抑圧の相互解放のために

    ある属性のマイノリティが別の属性のマイノリティへの抑圧にはまるで無自覚でしたい放題だったり、自覚していても平気だったりすることがある。またマジョリティに対してであれば、抑圧仕返すような結果になろうが、今までマジョリティがやってきたことを踏まえるならば、問題ないだろう、仕返しぐらいしても当然と高を括るような場合もある。 筋からいえば、抑圧からの相互の解放が目指されるところなのであって、自分(たち)だけ安全地帯に入ればそれでよし、他の人を抑圧して気晴らししてもよしというのであれば、抑圧されていたものが単に抑圧側に寝返っただけだと思う。 そんな心性なら、抑圧されていた時代からその人は自分より弱い周り…

  • 【催しもの】11月17日(日)大地の再生と自給農法玉ねぎ定植のワークショップ

    叡山電鉄京都精華大前から歩いて7分の畑で大地の再生と自給農法のワークショップをやります。 昨年はこの畑を畑として使っていくために、シカとイノシシ除けの柵づくりとイグサとセイタカアワダチソウだらけになっているところに初めて畝を立てて、玉ねぎを植えました。 去年の玉ねぎはどうなったか? また現地で見ていただきます。 この畑の取り組みのテーマは、防災を媒介にした出会いと学びです。防災というと、準備や用意することが沢山あって面倒くさい、考えたくないと思われるかもしれませんが、去年、今年の台風や地震の被害を踏まえると、防災は全ての人にとって今や取り組むことを避けられないものになっています。 しかし、全て…

  • 思考の更新は環境を必要とする

    自分や状況を変化させていくにあたっては、世間で言われていることとか、それはそういうふうになっているというような建前はともかく、実態はなんなのかを掴んだ言葉が必要だと思う。 フレイレは、言葉は実践によってより妥当なものに更新され、その言葉によってまた実践が更新されるという指摘をしている。実態の核をとらえていない空虚な言葉では、実践もまた空回りする。実践による言葉の更新、言葉の更新による実践の更新は両輪であり、ずっと続いていく。 フレイレを知る前から、実態に即した言葉を使わないと思考は同じところをぐるぐるまわるばかりだし、どこにもいけないと実感していた。使う言葉を更新していく。実態の核をよりとらえ…

  • 10/16 DIY読書会発表原稿 宇井純『自主講座「公害原論」の15年』

    【はじめに】 小松原織香さんが開いている環境と対話の会で扱われていた本。1970年から1986年まで東大で行われた自主講座の講演録。公害を扱う学問がないなかで、自ら学ぶ場を作った活動。野外で行われた講演には1000人がきたこともあった。1970年からこんな大きくユニークな活動がされていたのかと驚いた。公害の問題の構造(企業寄りの行政、専門機関である企業の隠蔽と改ざんなど)は現代とまるで変わるところがないように思える。時代に対して、変わらない問題に対して、自分たちで学びの場をつくるとはどういうことかをこの本を通して考える。 【読んだところ】第一部Ⅲ 現場からのレポート 1、銚子火力反対運動から …

  • 【感想】修復的司法×水俣×吉田寮〜対話の場を支えるもの〜

    永野三智さんと小松原織香さんと吉田寮の人たちの座談会。 www.facebook.com それぞれかなり踏み込んだ自分の体験やプロセスからのお話しだった。それぞれの人、環境、お互いや主催者との間の信頼感がなければこの水準での話しがされることはなかなかないんじゃないかと思った。 当事者としての体験から「対話」に向ける思いと、対話の「効果」を期待することの誤りがここでも指摘されていたと思う。語りからは、問題が解決されたり、緩和されるために「対話」があるのではないということが再確認された。 一方で、問題を解決したり、緩和するためのものとしての、世間の言葉としての対話はもうなくならないだろうなと思った…

  • マズローピラミッド

    マズローの古典的なピラミッドがいまだにあちこちででてくるのはどうかと思っている。 ずらずら出てくるマズローピラミッド そこでマズローが本当はどう考えていたか、という問いももちろん重要だと思うのだけれど、そこまで押さえないと批判したらいけないということでもないように思う。 現状として流通しているものがおかしいので、延焼を止めるようにまずその影響を打ち消すことと、真理とは何かを吟味し検証して蓄積していく手続きは、別々に考えたらいいのではないかと思う。 そう思うのは、誰か(は、やってほしいが。)が原典にあたって正しいことを見つけてそれを周りに伝えていく影響に対して、扇情的な情報が伝言ゲームを介して延…

  • 対話と対話でないもの

    読書会で、対話という言葉がブームみたいになっているけれど、相手に自分と話せと強制したり、最初から自分と同じ結論にさせるつもりしかないときまで、対話という言葉が使われている現状についての話しがでる。 世間で流通する言葉は、明後日の方向に向いていて無責任なものも多いので、真に受けると生きづらくなる。なぜ流通するかと考えるとき、それは言うことを押しつけられる(強い)人が自分に都合のいい言説を採用するからじゃないかなとも思う。 押しつけられた人は、自分がおかしいのかなと思いもするが、自分からみて周りの「カースト」の高い人たちが採用しているのをみると世間とはそういうものだと内面化して抑圧し、同じような状…

  • 【10月の催しもの】 吉田寮水曜ゼロ円飯(炊き出し) 熾(おき)をかこむ会 修復的司法×水俣×吉田寮他

    【10月の催しもの】話しの場研究室・熾をかこむ会・DIY読書会 →9月より熾(おき)をかこむ会は第二火曜日の14時〜17時になりました。西川勝さんは、お仕事の都合で熾(おき)をかこむ会には来られなくなりましたが、同日18時半からの星の王子さま読書会には来られます。 →DIY読書会はまた19時半開始にもどりました。 →10月9日水曜日に京大吉田寮でイベントと炊き出し(300円カンパで食べられます。炊き出しの名前は水曜ゼロ円飯。) 10月8日(火)14時 熾(おき)をかこむ会 場所:茶山KPハザ 10月9日(水)19時 修復的司法×水俣×吉田寮〜対話の場を支えるもの〜 10月9日(水)19時 吉田…

  • 世界の終わりがきても 緒方正人さんの言葉

    環境は変えていく。必要なことはやっていく。 それぞれの考えがある。しかし、ゴールが「社会変革」だと思わされるところで、打ち棄てられる存在がある。緒方正人さんの言葉を読みなおす。 急にあと数ヶ月の命になったとき、逆に取り戻されることがある。人は、基底部分では、明日なき存在。そこが見えなくなるとき、人間性の抑圧は、疑問も抱かれずに、善意として浸透していく。 白人女性の警官が14時間勤務ののち、アパートの自室に帰ったと思ったら黒人男性がいて射殺した。そこは一階上の黒人男性の部屋だった。部屋には鍵がかかっていなかった。自分の勘違いで他人の部屋に侵入し、人を射殺した。 知り合いが若いころお世話になった親…

  • 当事者研究のグラデーション

    昨日話していたこと。 当事者研究は今は精神福祉領域周辺のものとして受け取られているけれど、『みんなの当事者研究』でも上野千鶴子さんが言及したように、フェミニズムも「当事者研究」であったと思う。 www.kinokuniya.co.jp 精神福祉周辺の当事者研究界隈では、ジェンダーの視点がほぼ共有されてなくて、よって抑圧に非常に無自覚なところがある。これはハラスメントではないかということがなあなあにされるところ、冗談の範疇にいれられて問題視されないところを散見するので、この雰囲気に耐えられず来れなくなった人たちはいると思う。 一方で精神福祉周辺の当事者研究に加えてフェミニズムにも関わっている方か…

  • 安心の国

    安心の国では、安心をおびやかすものが嫌われる 安心の国の安心は、みんなのやることには疑問をもたずに従うことで手に入れられる 安心は、自分より強いものがくれるみんなは強いものに従っているだからみんなとは強さだ そして正しさだ 安心の国は、変化が嫌いだなぜなら変化は自分たちが頼れるものを変えるかもしれないから 安心の国では、時間は止まったままであることが求められる だから安心の国の弱い人たちは、止まった時間のなかで希望を持つことができない 安心の国の人たちは、みんながいうことと同じでなければ、自分自身の考えなど信じられないようにならされてきた 安心の国の人たちはいつも不安でたまらない頼れるものを見…

  • 約束のネバーランド 鬼も人間も「美味しいもの」を我慢できない フェイルセーフの人間観へ

    『約束のネバーランド』 sp.shonenjump.com 被抑圧者(人間)が自分たちの生存と幸福を守るために抑圧者(鬼)を滅ぼそうという流れのところで、抑圧者を完全に滅ぼさないと彼らは自身の生存だけでは満足せず、必ず美味しいもの(人間)を食べようとする、自分たち人間も美味しい食べ物を我慢できないようにとのセリフ。 鬼たちには、食用人間の管理を一手に担う王と貴族がいて、彼らはその力によって下層民を支配している。鬼たちは人間を食べないと知性と人格が瓦解してしまう。決定的なものを握り支配しようとするのは人間と同じ。 マンガではそれ以上は言及されていなかったけれど、力を持つものは自らの幸福を守り、そ…

  • 9/29 話しの場研究室 発表原稿 自分にとっての場とは何か?

    発表1 自分にとっての場とは何か? 【経緯と位置づけ】心理カウンセリングを学ぶ学科にいた際、人が回復したり、変わっていく場はカウンセリングルームのなかだけではないのではないかと思った。四国遍路の体験、大学院での四国遍路をする人のインタビュー調査などを経て、適切な環境と媒体があれば専門家抜きでも人は自律的に回復したり、変わっていくと考えるようになった。つまり場づくりが重要なのだと思って、30人ぐらいで無農薬の米づくりをするイベントの企画をさせてもらったりした。 しばらくして、野外の場ももちろん変容の場になりうるのだけれど、そもそも自分は中学校や高校の頃から内面を静かに語れるような話しをすることが…

  • 世界への信頼の回復 探究と希望

    明日19時からは本町エスコーラで私の探究・研究相談室です。 www.facebook.com 世界への信頼の回復とは、世界が自分にとっていい意味で未知であり、応答的な存在であるという実感が出てくることかと思います。 自分にとっての世界像が変わらないのに、自分の価値だけがなぜか高まっていくのなら、常識的に考えて、それは自分が見えなくなっているということなのではないかと思います。世界像の変化の反映として、自分像も変わるのだと思います。 世界はこのように危険で荒野なのに、そんなものが信頼できるはずがないと思うかもしれませんが、世界全部を信頼する必要はなく(それも自分のイメージにすぎませんが。)、自分…

  • 自分の価値を高めるのか ゆるすのか

    畑の共同作業日だったけれど、雨がひどく降ってきて土もべちょべちょに濡れたので、作業は中止して午後から第4回関西当事者研究交流集会へ。 cocopit.net ある分野のマイノリティが、別の分野のマイノリティに対して差別や軽視を持っていないかというと、全くそんなことはないということはよく言及されている。 自分が何かのマイノリティだからといって、他のマイノリティにもやさしい価値観を持っていたりということはない。むしろ世間的には自分の価値が低く扱われるために、自動的に他のところで補おう、盛り返そうとマッチョになりがちですらある。 マッチョの何が問題かというと、自分だけが勝手にムキムキ(厳しい価値観を…

  • そろそろ「自己肯定感」を卒業しよう

    信田さよ子 on Twitter: "気になったのが自己肯定感という言葉。大阪に続き仙台でも質問された。何度も言うが自己肯定感や自尊心が高い低いって自滅に続く道だ。他者やアートや読書など時には自然界からつまり自分の外部から備給されるものだから。親から愛されなかったんだから自分で自分を好きにならなきゃダメとか→" 信田さよ子 on Twitter: "自己肯定感を高めるワークに出たけどちっとも自己肯定感高まらない自分ってダメなんじゃないか?という人が居て「犠牲者」じゃないかと思った。新自由主義に貫かれた最後は自分に戻ってくる残酷なブーメランはビジネス書に溢れ時にはアディクションの世界にもはびこっ…

  • わたしという「止まった時間」とその付き合い方

    友達に誘われて操体法的なお話し会に。 具体例を聞いて色々と腑に落ちるところがあった。 意志と感覚は相反する関係。より意志で操作しようとするとき、感覚は消えてゆき、逆に感覚が優勢になるとき自分の意志は消えていく。 意志は、過去、記憶、止まったもの(死んだもの)に基づくものであり、感覚は現在動いているもの、生きているもの、変わっていこうとするものであり、プロセスそのもの。 感覚とプロセスは連動している、近しいものであるというより、感覚とはプロセスそのものだ、という理解のほうが妥当だろうと思える。痛みという感覚があるならそれはプロセスそのものだと理解する。 お話ししてくれていた方本人のエピソードで、…

  • 罪の取り戻し 宇井純『自主講座「公害原論」の15年』

    昨日のDIY読書会、「宇井純さんの自主講座「公害原論」の15年」を発表する。 修復的司法の研究をされている小松原織香さんがされている環境と対話研究会の読書会で知った本。 当時は公害に向き合える学問分野などなく、公害に向き合おうと思えば、自分たちでゼロからはじめなければならなかった。 東大工学部の教授たちにとっては、大学の教壇を助手や一般市民などに使われることは沽券にかかわるようなことだったようだ。圧力がかかったが、協力的な新聞記者が記事を書き、その加勢で大学が動き、自主講座が認められた。 自主講座なのは、宇井さんが工学部助手という立場であるために、大学の正規の講座とは認められないため。当時は助…

  • ナラティブコミュニティを学ぶ第一回 亀裂と開け

    ナラティブコミュニティを学ぶの1回目へ。非モテ研の西井さんとウィークタイの泉さんのお話しを聞きに。 www.facebook.com 場には、当事者、支援者、親、当事者かつ場を持っている人などが来られていた。 本を読むのが苦手で不勉強なので、レジメなど人が簡潔にまとめてくれたものが大変ありがたい。ナラティブ・コミュニティとは?、ナラティブ・コミュニティの意義、分類、自助会の歴史、12ステップ、12の伝統など。 細かいところで興味をひかれたのが、自助会で12ステップを通して多くの参加者が回復していくというところで、50〜70%の回復率という数字が妥当性を検討されることもなく引用され続けているのも…

  • <9/14 話しの場のフィードバック>

    昨日体験した話しの場のフィードバックをこちらにも転載します。 発言:話した内容を忘れてしまった場の雰囲気が一番よかったかもしれない コメント:身体教育研究所(野口整体の前衛的部門)の野口裕之さんが語っていたことを思いだしましたが、記憶に残るというのは異物として残るのであり、それが消えるのが一番いいと。例として、ものすごく美味しいラーメンを食べて忘れられないよりも、食べたことを含めて忘れてしまうラーメンのほうがいいのだ、と。 精神にとって、生きていくことは、取り込んでしまった異物(異化されたもの)を忘れて(同化して)いくことなのだ、という考え方です。 ものすごく記憶に残る、覚えてしまうというのは…

  • 価値の脱落

    自分が何かを価値あることとして内面化し、それゆえ強迫されていることがある。 それらが変化するときというのは、転換、というような感じで、表から裏へみたいに明確な切り替わりがあるのではなく、腐った肉がずるっと骨から取れていくように、脱落していくという感じなのではないかと思う。鮮やかな感覚があるわけじゃなくて、それはただ死んで、減少し、なくなっていく。 そして世間ではその価値が普通はいいもの、素晴らしいものとされているから、それに自分がさして共感しないようになっていくと、ちょっと申し訳ないような気もする。 たとえば、僕は「成長」など存在しないと、5年前ぐらいからはじめたこのブログの最初の投稿から言っ…

  • 「奪われた刀」としての科学技術

    山本義隆氏によれば、現在では「科学技術」と合成語になり、一つのものとして考えられている「科学」と「技術」はそもそも別々のものとしてありました。 DIY読書会でも発表していただいた角南さんのブログに本の引用の文章など含め詳しく書かれてます。角南さんご自身が経験された当時の時代感覚もあわせて書かれているのでそれも参考になります。 dohokids.blogspot.com 「技術」は職人のものでしたが、「科学技術」として合成されることによって、職人は時代を転換させる最前線の実践者でもあったところから、指示を受け、注文通りの品をつくるだけの、創造性のない下請けとして位置づけられるようになりました。創…

  • 「現実」をつくる鏡

    徳島県の自殺稀少地域の人たちにアンケートをとると、自分は幸せでも不幸せでもないと思うと回答する人が多かったそうです。 bookclub.kodansha.co.jp 幸せとか、そういうことをふりかえって認識していないひととき、自分が何であるかとかそういうことが意識にない一瞬があるとき、自分はまだ回復していない、幸せじゃないという認識をしていたとしても、その状態がすでにある意味達成された状態なのだと思っています。 苦しい人がその苦しさが減ることを求めるのは当たり前で別にそれをやめることをすすめているのではないのですが、別にどこかに行き着くところ、幸せを手に入れた状態がくるわけじゃないようです。 …

  • 【今後の活動の予定】DIY読書会を様々な場所で

    自分にとって核心的な興味や関心事を探究して、その過程を発表する場として「ジャンル難民学会」という場を考えました。(名前は変える予定なのですが。) そこで重要だとも思うことの一つは、「わたし」と「あなた」という二者関係に閉じる探究ではなく、「社会」や「世界」という第三者、既知の世界の外に、探究という関わり方を通して直接にふれ、やりとりしていくことです。このことが開けを生んでいくと思います。 ただ発表というのは多くの人にはハードルが高いです。発表するなどということは針のむしろに立たされるような感覚なのかもしれません。それはたぶん、今までの自分が受けた教育や学校の場においてはそうであって、自分の経験…

  • 【9月の催しもの】話しの場研究室 熾(おき)をかこむ会 DIY読書会 私の探究・研究相談室

    【9月の催しもの】話しの場研究室・熾をかこむ会・DIY読書会 →9月から熾(おき)をかこむ会は第二火曜日の14時〜17時になりました。なお、同日19時からは西川勝さんによる星の王子さま読書会があります。 →DIY読書会はいつもより30分早く19時開始です。 9月8日(日)13時半 話しの場研究室 場所:ちいさな学校鞍馬口 9月10日(火)14時 熾(おき)をかこむ会 場所:茶山KPハザ 9月16日(月・祝)19時 DIY読書会 場所:ちいさな学校鞍馬口 9月27日(金)19時 私の探究・研究相談室 場所:本町エスコーラ 9月29日(日)13時半 話しの場研究室 場所:ちいさな学校鞍馬口 【9/…

  • 言葉の更新 「私たちのは学びであり、あなたがたのは回復である」ところから

    は別のことではないと考えています。一方が教育分野の事柄であり、もう一方が福祉分野の事柄であるようなことではないと思います。 ある人が変容したことを学びとは考えず回復としてだけ捉えたり、逆にある人が学んだという事態をその人の人としての回復としてとらえないことは、よく考えるなら、人を馬鹿にしたとらえ方だと思います。 私どものは学びだけれど、あなたがたのは回復ですというわけです。 回復という言葉は、元にもどるという意味なので、元でなかったもの、元より下になったものが元にもどる、「普通(=あるべき姿)」にもどると考えているようです。元というのは私たち(=あるべき姿としての「普通」、ニーチェ的な批判をも…

  • 『パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』読書会報告

    『パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学を読む」』読書会、主催含め18人の方にお越しいただきました。 山下さんの司会で、それぞれの関心や読んで思ったことなどお話ししてもらいました。枠組みとしては、誰がきてもいいし、読んでこなくてもいいというゆるいもので、思った以上に人が来られたので内容の核心により迫っていくというよりは、内容もさらっと紹介しつつ、主にそれぞれの問題意識、経験を語るというかたちになりました。 知っていることの差があったり、他人が使っている言葉の難しさがあるという指摘もありました。差別、抑圧など、わりに普段から周りと考えたり話したりしている人も、そういう環境でない人もそれぞれいたので、…

  • 時間をとめるもの

    8月26日(月)にフォロ・オープンスペースで里見実の『パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』の読書会をします。 foro.jp 一昨日に非モテ研の西井さんと三重ダルクの市川さんの対談に行ってきました。 www.facebook.com お話しはとてもよかったです。僕は最近は回復というもの自体に向かおうとする話しにだんだん関心が薄れてきて前より聞けなくなっているのですが、その状態でも面白く聞けました。 帰りがけに西井さん、西川さん(市川さんではなく。)と一瞬話して、治癒や回復を意思的に目指すこと自体に停滞があるというところはお互いの共通の感覚としてあるのではないかなと思いました。 しかし、…

  • 【8月の催しもの】話しの場研究室・熾をかこむ会・お金についてのお話し会・DIY読書会ほか

    8月は催しが多くなります。 8月11日(日)13時半 話しの場研究室 場所:ちいさな学校鞍馬口 8月14日(水)14時 熾(おき)をかこむ会 場所:茶山KPハザ 8月15日(木)お金についてのお話し会 場所:キッチン・ハリーナ 8月19日(月)20時 DIY読書会 場所:ちいさな学校鞍馬口 8月23日(金)19時 私の探究・研究相談室 8月25日(日)13時半 話しの場研究室 場所:ちいさな学校鞍馬口 8月26日(月)13時半 『パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』読書会 場所:フォロ・オープンスペース(地下鉄谷町線・京阪「天満橋駅」徒歩5分) 【8/11日話しの場研究室】 時間:13…

  • 【案内の更新】7/26私の探究・研究相談室

    本町エスコーラで開催させてもらっている私の探究・研究相談室の案内を更新しましたので、下記に転載します。 私の探究・研究相談室は、ジャンル難民学会(仮)の発表のための相談の場で、また発表というかたちを考えていなくても、自分の関心はどこに焦点をもっているのか、今感じていること考えていることなどを話してみるという場です。 僕は一般社団法人化に向けて、その枠組みと実際にどう準備していくかというところをまとめて発表しようと思います。 理想的には、今やっているDIY読書会のような場がそれぞれの場にできたらいいと思っています。しかし、いきなりあの雰囲気になるのは難しいのだろうと思います。マウンティングするみ…

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