詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記) さん プロフィール

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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)さん: 詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)
ハンドル名詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記) さん
ブログタイトル詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)
ブログURLhttp://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005
サイト紹介文日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供516回 / 365日(平均9.9回/週) - 参加 2014/10/02 10:33

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記) さんのブログ記事

  • 「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3−23)
  • 「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3−23)(2017年05月23日)45 *(ぼくの「時」は)ぼくの「時」は一インチの隙間もなく黒い那智石で敷きつめられている なぜ「インチ」なのだろう。「那智石」なのだろう。私にわかることばは「黒い」だけである。 「黒い」は、このあと「地下」「判決(書)」「捺印」「論告」という具合に言い換えられていく。 言い換えるときの「主観」の動きが「意味」である。46 *(蛇が [続きを読む]
  • 「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3−22)
  • 「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3−22)(2017年05月22日)43 別離鳥が飛びさつたあと夜の木々が鳥の重さを知るように 失ってから知る「重さ」。鳥は女であり、木は嵯峨である。もちろん逆もある。区別はできない。区別してはならない。 「木々」に「夜の」ということばがついている。そしてその「夜の」は「夜の孤独」にかわっていく。一人の夜。そのときに感じる孤独。「夜の」がなくても、鳥が飛び去り、鳥の [続きを読む]
  • 「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3−21)
  • 「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3−21)(2017年05月21日)41 架空な時間永遠が瞬間のなかを通るたびに一本の紅蝋燭の炎がゆれる 繰り返し読んでしまう美しい二行だ。そして、繰り返し読んでいる内に「一本」ということばに気がつく。なぜ、「一本」なのだろうか。何本も蝋燭がある。そのなかの「一本」なのか。 「だがMAKIは来た」という一行がある。MAKI、特定の女、ひとりの女。その「ひとり」と「一 [続きを読む]
  • 金子敦『音符』
  • 金子敦『音符』(ふらんす堂、2017年05月05日発行) 俳句を読むのはむずかしい。現代詩でも小説でも、ことばは繰り返される。大事なこと、言いたいことを人間は繰り返すものである。繰り返しの中にある変化をたどると、何かが少しずつ結晶してくる。 俳句には、この繰り返しがない。十七文字しかないから繰り返さない。だから、変化がたどりにくい。俳句は変化ではなく、一瞬を描くのかもしれない。 金子敦『音符』。俺元気とい [続きを読む]
  • 「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3−20)
  • 「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3−20)(2017年05月20日)39 *(砂の上に文字を書いては消し)書くことと 消すことのあいだをゆきかえるぼくの心はいつまでぼくに残るかもし ぼくから去つていくなら何処へたち去るか 文字を書いては消す。そのたびにこころが動く。「ゆき、かえる」という往復の動詞でとらえているのだが、最後に「残る」「たち去る」という動詞に変わる。 「去る」は「行く」か。 「行く」 [続きを読む]
  • 林嗣夫『林嗣夫詩集』(新・日本現代詩文庫)
  • 林嗣夫『林嗣夫詩集』(新・日本現代詩文庫)(土曜美術社出版販売、2017年04月20日発行) 林嗣夫『林嗣夫詩集』。初期の林の作品を読んだことがなかったので、とても興味深かった。いくつか消え残った街灯が黄色い体液をためてふくらむ膀胱のようにとざされた闇の奥を照らす 『むなしい仰角』(1965年)の「夜の遠足」のなかの三行。夜の街を歩いている。尿がしたくなる。尿がたまってくる。膀胱の圧力を感じる。この圧力は、何 [続きを読む]
  • 「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3−19)
  • 「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3−19)(2017年05月19日)37 サルビアだが 無口な鳥たちは帰る夕方 遠くの空を 鎖のようにつながつて 書き出しの二行。「だが」は何に対して「だが」なのか説明されない。明らかにされない「過去」があるということだけが、明かされる。「秘密」が暗示される。読者はその「秘密」に誘い込まれながらことばを追いかける。 「無口」は何のために無口なのか。もともと無口なので [続きを読む]
  • 法橋太郎『永遠の塔』
  • 法橋太郎『永遠の塔』(思潮社、2017年02月25日発行) 法橋太郎『永遠の塔』は1行が20字で書かれた散文詩である。こういうことは「外形」の問題であって、詩とは関係がない、という見方があるかもしれない。しかし、私はそうは考えない。 1行20字は昔の原稿用紙の感覚である。言い換えると「手書き」の感覚である。 私はワープロで書いている。1行が40字の設定である。自然に文章が長くなる。1行20字という「枠」がなくなっ [続きを読む]
  • 「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3−18)
  • 「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3−18)(2017年05月18日)35 *(たれも横切らなかつた)たれも横切らなかつたその無人の庭を庭と知らずにふるえている小草の上を鳥はするどく啼きかわしながら高い空をわたつていつた 二行目の「知らずに」が詩である。「知る」というのは「理性」の動き。「草」には「理性」はない。けれども「理性」があるかのようにとらえる。「比喩」である。そして「比喩」は「人格化」であり [続きを読む]
  • 「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3−17)
  • 「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3−17)(2017年05月17日)33 *(もう一度そこに立つことがあろうか)もう一度そこに立つことがあろうか誰も知らない頂上 「頂上」は「場所」ではなく「時間」である。「瞬間」である。「時間」と「場所」は違う概念だが、人間は概念を混同する。どこかに「概念の肉体」というものがある。「人間の肉体(いのちの肉体)」が「ひとつ」であるように「概念の肉体」もひとつであり、切 [続きを読む]
  • 「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3−16)
  • 31 *(走しつて 走しつて)走しつて 走しつて 走しつても一つの砦はさらに遠のくのだ 嵯峨はときどき見慣れない「表記」をつかう。「走つて」が普通だと思うが「し」を付け加えている。晩年は「魂」も「魂しい」と書いていた。「し」という文字が好きなのかもしれない。漢字にぶらさがっている。はみ出しながら、なおもついていく。のみこまれるのでもなく、おちこぼれるのでもなく。 この書き出しも、何かそういう感じ。  [続きを読む]
  • 憲法改正(その5)
  • 憲法改正(その5)               自民党憲法改正草案を読む/番外76(情報の読み方) 新聞を読む時間がなかったので「時差」のある感想になるのだが。 2017年05月10日読売新聞(西部版・14版)の1面に、改憲 自衛隊規定を優先/首相憲法審提出に意欲 という見出しの記事がある。そのなかの、つぎの部分。見出しにはなっていないが、とても気になる。 連舫氏は、首相が8日の衆院予算委で自身のインタビュー [続きを読む]
  • 「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3−15)
  • 「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3−15)(2017年05月15日)南ケ丘詩抄29 *(−−ぼくを抱いて)−−ぼくを抱いてといえば裸麦の束を抱くように 両手を大きくひらいてぼくを深く抱く 「イヴの唄」の「藁」と同じように「裸麦」は嵯峨にとっては「現実」だった。「現実」だから、そのあとの「深く抱く」の「深く」が強い。嵯峨には「裸麦」を「抱いた」記憶がある。そのとき「深い」ものを感じたのだ。麦の熟れた匂 [続きを読む]
  • 「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3−14)
  • 「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3−14)(2017年05月14日)27 *(どこからその坂を)どこからその坂を登りはじめたのか 魅力的な一行から始まる。坂が幾つもあり、そのうちのどの坂を登りはじめたのかと自問しているのか。あるいは坂と意識しはじめたのは、坂のどの地点からだろうかと自問しているのか。暮がたのしずかな頂上だつた遠くにきらめいている一つの星があつた 頂上に立っているのだから、いくつもある [続きを読む]
  • 「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-13)
  • 「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-13)25 玄猿 「玄猿」とは何だろう。子猿を失った母親の猿を描いている、と読んでみる。玄猿は冷え切つた悲哀のなかにいるその脳は光線の屈折だけを反射する神は手の先きから逃げさつたのだ 「冷えきつた」ということばが「子猿」の「冷えきつた」亡骸を連想させる。「神は手の先きから逃げさつた」は「いのち」が手の先から遠ざかっていく、という印象を与える。「冷えきる」「 [続きを読む]
  • 「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-12)
  • 「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-12)23 小さな位置誰にも忘れられることは怖しいそれは死のなかにもいなくなることだからだ 死よりも忘れられることが怖い、という「意味」だと思う。ここでは「怖しい」は「定義」されていない。「忘れられる」ということが定義されている。「怖しい」は「忘れられる」ということを感情に刻み込むためのことばのようである。 「感情に」と思わず書いてしまうのは、二行目が「そ [続きを読む]
  • 「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-11)
  • 「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-11)21 *(過ぎ去った場所をたえず歩くものよ)過ぎ去った場所をたえず歩くものよ名の上に名を重ねてもほんとうの名は帰つて来ない昨日は川岸を誰も通らなかつたただぼくのなかで一つの名がゆきつもどりつした 一行目は、現実には不可能なことである。過ぎ去った場所(通ってきた場所)を歩くことは現実にはできない。想像のなかでしかできない。 この「想像」を嵯峨は最終行で [続きを読む]
  • 「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3−10)
  • 「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3−10)19 絨毯ぼくは外に溢れ出るものを持ちながらもはやここからたち去つていかねばならぬふたりの間にあるのは掌ほどの小さな宇宙だつたがそこでぼくは愛することの難しさを教えられたようだ 「外に溢れ出るもの」とは「大きなもの」だろう。「掌ほどの小さな」ということばと向き合っている。「外に溢れ出るもの」は「掌ほどの小さな宇宙」からも溢れ出ていく。 この「溢れ出る [続きを読む]
  • 「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3−9)
  • 「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3−9)17 問いと答え小さな空き地にできた可憐な小屋がふたりのあいだのこころない火で燃えつきてしまうそして頂は頂としてただそこへいく道の傾斜だけがはつきり見えてくる 詩の二連目の四行だが、なんとも意味がとりにくい。 書き出しの二行は「想像力」で小屋を燃やしているのだろう。「もし火をつけたら、すぐに燃えつきてしまうだろう」と暴力的な想像をしている。そういう想 [続きを読む]
  • 「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3−8)
  • 「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3−8)15 幸福忘れた名はどうしても思い出せない遠い路をどこまでも歩いていつたどこからも合図などない 「どうしても思い出せない」の「どうしても」という強調がこの詩のキーワードだろう。「思い出せない」ということよりも「どうしても」ということの方を書きたい。 「思い出す」という動詞は次の行で「歩いていつた」という動詞にかわる。「どうしても」は「どこまでも」とい [続きを読む]
  • 「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3−7)
  • 「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3−7)(2017年05月07日)13 *(干あがつた死語の間を)干あがつた死語の間をひとすじの水が流れはじめる この書き出しは、あまりにも抽象的である。 「死語」が何を指すかわからない。「死語」をわざわざ「干がつた」と修飾している。力点は「死後」よりも「干あがる」という「動詞」の方にある。この「動詞」に「水が流れる」が向き合う。そうすると、そこに「風景/情景」が浮 [続きを読む]
  • しばらく留守にします。
  • この絵を見に行ってきます。東京でピカソ展があったとき、図録の表紙になっていたのに見ることができなかった1枚。わくわく、どきどき。初恋の人に会いにゆく気持ち。*留守中も「嵯峨信之を読む」は更新する予定です。 [続きを読む]